――――スメリア本島北東、カラガン諸島
陽はとっくの昔に沈み、海も空も暗幕を張り巡らせ、黒以外の色を映さない。
風の臭いと海の音だけが辺りの様子を窺わせた。
「いけそうか?」
隣の女に声をかけると、女はタバコを吹かしながら笑って答える。
「問題ないさ。アタシはアンタを見失わないし、アンタはアタシを見捨てない。陽が昇る頃には町の一番高い店でアンタに朝食をタカッてるだろうよ。そうだろ?」
「……だといいがな。」
スメリア国は幾つかの島々を有する島国。
俺たちの目指すパレンシアはその本島にある。だが、俺たちは直接本島に入らなかった。
本島より北東約10㎞先にあるカラガン諸島にヒエンを降ろし、そこから泳いで入ることにした。
ロマリアほどではないが、スメリアもまた国王マローヌの崩御以来、入国審査が厳しくなっている。
アーク一味のような「国際テロリスト」を未然に防ぐという大義名分があるため、スメリアの鎖国を改めさせたロマリアも深く言及できないでいる。
ここまでが一般的なメディアから得られる現在のスメリアにおける国際事情だ。
だが、少し踏み入った情報屋に多めの紙切れを渡せば直ぐにでもそれが偽装だという事実に行き着く。
鎖国の撤廃から始まり、短期間における急速な発展。そして、国王の暗殺を言い訳にして設けられた二度目の閉国。国政の大幅な変革。
全てがロマリアの思惑。突き詰めれば、ロマリアを動かしている者たちのシナリオ通りということだ。
「スメリア」という小さな島国を閉じることで奴らは何かを隠している。
ヤツらにとって怪しげな女神像を造り、キメラを放し飼いにすることよりももっと重要な何かが。
他国を圧倒する力を手に入れてなお、隠しておかねばならない何か……。
さて置き、ガルアーノがロマリア関係者であることは間違いない。
奴が俺たちの生存を把握しているかまでは定かではないが、空港に敷かれているであろう検閲に俺たちの情報が流れている可能性はかなり高い。
必要な根回しさえあればやり過ごせなくもないが、今回はその準備をしている暇もない。
俺たちが失敗したことによって、ガルアーノの失墜からアルディアを再建するというクーデターは前段階で頓挫してしまった。
結果的に、バスコフやリゼッティがこれに直接関わることもなかったが、
「手を出してしまったからには、この首と胴が繋がっている内は付き合わねばなるまいよ。」
連中の情報網をもってすれば、俺たちに協力者があったことは直ぐにでも突き止められてしまう。
無線機の向こうのバスコフもそれをよく理解していた。
「おおよそ一週間。ワシもあの犬コロもそれ以上は逃げ切れん。」
旧友と一国の命運を懸けた仕事のため、バスコフは自前のコネクションを惜しまなかった。
「お前の言うぺぺという男の情報だ。」
ペール・ペールマン、通称“何でも屋のぺぺ”。
その大層な看板の割に知名度は低く、身辺の風評も良くない。とても、チョピンの言うような実力のある人間とは思えない。
しかし、その他の情報は概ねチョピンの言う通りだった。
多額の報酬を要求する代わりに、どんな仕事も引き受ける。しかし、豊富な人脈を持っていながら公私混同を嫌う彼の性格がそれを仕事に利用することを許さず、成功する仕事をみすみす失敗させてしまうことも少なくないらしい。
だが、その仕事内容から鑑みれば一概に悪い成績とも言えない。
そして、根っからの酒好き。
要するに、「他に手がないのなら取り敢えず声を掛けてみろ」というくらいの人物だった。
「アタシは悪くないと思うよ。」
一刻も早くガルアーノへの「憎しみ」を形にしたいはずの彼女が、穏やかな声で言った。
「ソイツにできなくたって、少なくとも自分の庭の歩き方くらいは教えてくれるだろ?アタシたちならそれで十分さ。違うかい?」
異論はない。
何より、これ以上の『悪夢』にエルクは耐えられない。『悪夢』がいる限り、意図しようとしまいと引きずり込まれる。
足踏みしている暇がないのは俺も同様なのだ。
今も昏睡しているであろうアイツに想いを巡らせていると、彼女が俺の表情を読み取り、口を挟んできた。
「シュウ、アンタに一つ教えておいてあげるよ。」
彼女は「憎しみ」を抱えている。その美しい顔が鬼の形相に変わるくらいの。
「悪魔なんてこの世にゃいない。いるのは悪魔みたいな人間だけさ。」
「……」
ガルアーノのような化け物もまた、その根底にある精神は「人間」と同様だと言いたいのか?ならば、「悪魔みたいな人間」とはどういう意味だ?
彼女の言っていることが今一つ理解できなかった。
だが、多くの死を経験し、最愛の人を失くした彼女だからこそ見えている世界があるのかもしれない。
俺はまた一つ、彼女に敵わないモノを見つけてしまった気がした。
だが――――、
問題ない
そう、問題ない。
”白い家”で受けた傷も疲労も今では完全に回復している。むしろ以前よりも調子が良いくらいだ。
俺が何かをしたからではない。これはおそらく、アークの仕業なのだ。
森の中で、エルクを抱いて走るアークからは不思議な香りが尾を引いていた。香料の利いた匂い。香水やタバコとも違う。奇妙だが心穏やかになる香り。
その匂いに気付いた時、同時に自分の体がみるみる間に回復していくことに気付いた。
指の再生こそしなかったものの、彼らと別れる頃には鋭利な傷口は完全に塞がっていた。狭まっていた視界も冴えわたり、ガルムヘッド戦で使用した薬の副作用も消えていた。
今なら、”白い家”の公園で展開された戦局でも後れをとることはない。
俺が彼女の言葉の真意に気付けず、何かに思い悩んだり、挫けるのはその後でいい。
今は、あの悪魔の首を落とす。
それだけを考えていればいい。
チョピンと打ち合わせした場所にヒエンを隠し、俺たちは不気味な静けさを保つ海へと潜っていった――――
幸運にも海中での障害はなく、予定通り、陽が昇る前に本島まで渡り切ることことができた。
夜明け前の海辺に人の気配は無く、潜水装備一式を海に捨て、辺りを警戒しながら少しずつ町へと近付いていった。
やはりと言うか。町を囲む森の至るところに連中の造ったであろう化け物が放たれていた。
だが、化け物たちに何処かと連絡を取っている様子はなく、単なるバリケードとして配備されているだけのようだった。
確実に一匹ずつ狙撃し、包囲網に穴を開けること約一時間。
森が途切れ、ポツリポツリと民家が姿を現し始めた。
「関所ってのはないんだね。」
町と森との間に境界線らしきものは一切見当たらず、開け放たれている。治安の悪いアルディアではまず見られない光景だった。
「アルディアと比べ、国全体の総人口がそれほど多くない。俺たちのような密入国者を除けば、そもそも人の往来は無いと言ってもいい。」
「へえ。」
「だが、スメリア王が亡くなって以来――――」
「暇な軍人が町をたむろしてんだろ?それくらいは知ってるよ。」
再び他国との境界線を引いたスメリアは陰謀を持ち込もうとする入国者にだけではなく、異文化の味をしめた売国奴にも目を光らせている。
町に軍が配備され、「些細な問題が国を傾ける」と主張し、罪の水増しをしては国政のための労働を強いている。
目下、「パレンシアタワー」という電波塔を建てることが彼らの最優先事項らしい。
そのため、国の技術水準が高まる一方で、町の活気は目減りしているというのがスメリアの現状だった。
そして、そこにアンデルというロマリアの影が潜んでいるとなれば、その電波塔が「女神像」の二番煎じなのだろうということも予測できた。
アンデル・ヴィト・スキア、現スメリア唯一の最高権力者。おそらくはガルアーノとも繋がっているであろうアーク一味の宿敵。
彼らと共通の敵を認識しても共闘する気にはなれなかった。俺たちと彼らとでは次元が違う気がしてならなかったからだ。そこにエルクを巻き込めば確実に死んでしまう。
『悪夢』に誘惑されるまでもなく。今度こそ。
「それで、どこから探すんだい?」
だが、今の俺たちの本命はそこにはない。
「酒場だ。どうやらぺぺは普段から下町の酒場に入り浸っているらしい。」
太陽が暗幕を白く染め始めると、町から少しずつ人の声が聞こえ始めた。
「”下町の酒場”って。店の名前は分かってないのかい?」
おそらく、町中でヘタに聞き込みをすれば兵の目を引くと言いたいのだろう。ただでさえ「武装した異人」は目立つというのに。
彼女はあからさまに俺の準備不足を非難した。
「問題ない。スメリアにも信頼できる情報提供者が一人ふたりいる。”何でも屋”という目立つ看板くらいならすぐにでも見つけられる。」
「……だといいけどね。」
首都、パレンシアの外堀りをなぞり、通称「ダウンタウン」と呼ばれる町に入る。
「思ったよりも拗けた町じゃないか。」
俯くスメリア人たちを見渡し、彼女は素直な感想を述べた。
「アンデルの政治方針はもはや独裁政治と変わらない。無理もあるまい。」
「なんだか、内乱を煽ってるようにみえなくもないね。」
「そのための”電波塔”でもあるんだろう。」
「飛んで火に居る虫……ね。アイツらの目にゃもう、この国に”人間”なんて生き物は映っちゃいないんだろうね。」
「……だろうな。」
虫……電波に誘われ、自由を失う生き物。彼女の例えは言い得て妙だった。
「おい、そこの二人止まれ。」
突然、背後からスメリア兵の二人組みが俺たちを呼び止めた。
まだ陽も浅く、行き交う人間の姿も疎らにしかない。そこを巡回する兵士が「不審者」を見つけたのだ。
それにしても――――、
「キサマら、何者だ。」
早々に見つかるのは想定外だったが、ここで騒ぎを起こす訳にもいかず、常備の偽造入国許可証を憲兵に渡した。
「……賞金稼ぎか。遥々アルディアからの訪問とは頭が上がらんな。」
「金のためだ。好き好んで来ている訳じゃない。」
「フン、野良犬め。」
ほんの数年の内にスメリア軍も酷く品格を落としてしまったようだ。
排他的な思想は昔から根付いていたが、それでもあの大臣就任以前は兵士たちにも「スメリアの品格」は残っていた。
「知っているだろうが、スメリアは今、アンデル大臣による再開発の真っ最中だ。ヘタに問題を起こすようであれば豚だろうと大統領だろうと容赦はせん。努々忘れるな。」
「……気を付けよう。」
抵抗する姿勢を見せない俺たちに興が削がれたのか。兵士たちはそれ以上の詰問することなく去っていった。
「それにしても、こうもアッサリ連中に見つかるなんてアンタらしくもない。」
――――そうだ。あれだけの装備をした人間の気配を見逃してしまったことに俺は驚いていた。
今は体調も良い。たとえ瀕死の傷を負っていたとしても、そうそうするミスじゃない。
「もしかして、感覚が鈍ってるんじゃないのかい?」
「……お前の仕業なのか?」
彼女の含みのある言い方が、俺の口にそう言わせた。
「まあ、隠してたって都合の良いことなんてなさそうだから白状するけど、その通りさ。アタシには周囲にいる人間の『力』を抑えつける『力』がある。自分じゃ意識したことなんかないけどね。」
その『力』の及ぶ範囲は魔法の類に限らない。「命」として活動している全ての『力』に影響するようだ。
さらに彼女いわく、他にも意図せず発動している『力』があるらしいが、それをハッキリと認識したこともないらしい。
ガルアーノもそれらしいことを仄めかしていたが、結局その詳細を聞くことができなかったという。
「『死なない力』ばかりが目立っちまうからどうにも、見分けがつかないんだよ。」
「……そうか。」
ガルアーノの駒として、彼女が単独で行動させられていたのにはそういう背景があったからか。
「アタシも耳には自信があるけどね。アンタほど集中力が続く訳でもないから、あんまり当てにはしないでおくれよ。」
単に「餌」として『不死』が都合が良いのだと思っていたが、兵を付ける不都合もあった訳だ。
今までそれを黙っていたのは、俺が信頼に足る味方なのかどうかを見極めていたからなのかもしれない。
「分かった。俺も気を付けよう。」
その秘密を知ってなお、自分を護ってくれる人間なのか否かを。