「……まったく、アンタらまだ生きてんだね。」
施設の外へと脱出すると、シャンテは目を覚ました。
「……下ろしてよ。もう、自分で走れるから。」
「……」
嘘のように簡単に脱出することができた。崩れゆく、広く入り組んだ施設を。
たった一人の身内を救助するために避難通路も使わず、危険の多い地下水路を通ったというのに。落石も敵の妨害も彼の足を止めるには至らない。穏やかな横風のようでしかなかった。
森の『花粉』ですら、今の俺たちには届いていない。
俺も脱出経路は幾つか目星をつけていた。だが、どこからかオカシクなっていた。何かが狂い、気付けば全てが手遅れになっていた。
しかし、それすらも見越したかのように青年はやって来たのだ。まるで何事もなかったかのように、俺たちは生き延びている。
仕組まれていたかのように全てが滞りなく、全てがスムーズに。
もしかすると、脱出に成功したと思っているのは俺だけで、本当はまだあの悪魔の手の中にいるんじゃないのか?
俺はまだ、狂わされたままなんじゃないのか?
あの”白い家”は、エルクを捕まえるための『悪夢』ではなく、全ての餌を一か所に集めるための罠の一つに過ぎなかったんじゃないのか?
考えろ。
考えろ。
考えろ。
「なあ、聞こえてるんだろ?下ろしとくれよ。」
「……」
「……そうかい。」
アタシを負ぶう男の背中はいやに冷たかった。
「……エルクは、生きてるのかい?」
「……」
頬を押し当てても人の温もりなんて毛ほどにしか感じない。こんなに走ってるってのに。生きてるのか、死にかけてるのか分からない。
「……」
まったく可哀そうなヤツだ。
「どこに向かってるんだい?ガルアーノは?」
「ガルアーノは逃がした。そして、俺たちはアークの船に拾われる。」
ようやく口を開いたかと思えば、可も不可もない答えが返ってくる。それに、
「……そうかい。」
なんとなく、なんとなく、こうなるような気はしていた。
「……驚かないのか?」
「何に?」
「……なんでもない。」
……世界を乗っ取ろうって奴ら相手に、アタシらのような半端者がたった二人でどうこうできるなんて思っちゃいなかった。
それでも、神様に輪っかを奪られた天使は神様に楯突くしかないんだよ。
それしか、考えられなくなるんだよ。
……アタシは「天使」に戻りたかったんだ。
今さらながらに気付いたよ。
あの子のいない世界だからこそ、自分が「天使」でなくなることが怖くて仕方なかったんだ。
シュウの肩越しに、戦士風の出で立ちをしたガキが見える。
あれが、アーク。
アタシなんかよりもずっと若いくせに世界中の悪党と張り合ってきた化け物。
アタシなんかよりも、よっぽど役に立つ化け物。
よっぽど強い化け物。
「……不公平だよね。」
「……」
月のない夜のように、真っ黒な背中に呟いたアタシの言葉は、思った以上にすんなりと染み込んでいった。
「……ああ、どうやらアンタたちのお姫様が迎えに来てくれたみたいだよ。」
森の中ほどまで進むと、彼女は何かを見つけ、そう言った。
促され、遠く、遠くを見遣るとそこには一人の金髪の女が立っていた。
「さて、お姫様は何て言ってアンタを慰めてくれるのかね。」
大体の想像はつく。この距離でも、あの女の顔が引き攣っているのが分かるからだ。
「あれはお前たちの仲間か?」
走りながら俺に確認を求めてくる青年に対し、俺は「ああ」とだけ答える。今は、それ以上に彼女について説明する気力がない。
「連れて行かなかったアンタたちが悪いんだよ。」
バカな。連れていけば話はさらにややこしくなっていた。
エルクは自分の気持ちでミリルに向き合えなかったはずだ。どんな結果であれ、『悪夢』はより一層、エルクに重く圧し掛かっていたはずだ。
アレは、エルクとミリルにとって邪魔でしかなかった。
「エルクッ!!」
響く女の『声』は、森の枝葉さえも怯えさせた。
「エルクッ!!」
女は、森を突っ切ろうとする青年の前に立ち開かり、襲い掛かるようにして青年からエルクを奪い取った。
「どうしてっ、どうしてっ!?」
青年は、気付いているらしかった。
おそらく、彼女から何かしらの『命令』をされたのだろう。無抵抗にエルクを奪られ、「脱出」を第一に動かし続けた彼の足がピクリとも動かなくなっている。
黙って見下ろすその目には、シャンテの『再生』の時には見せなかった表情が浮かんでいる。
『奇跡』ではなく、『神の手』のごとき抗いようのない『力』に触れられ、驚きを隠せないでいた。
「この子は――――、」
「どうしてなの!?」
だが、その視線が最終的には俺に向けられることは分かっていた。
分かり切っていた。
「……お前のせいよ。お前が付いていながら…。お前に任せたばっかりに……。」
「グッ……」
心臓が、『見えない手』に握り潰される。
「裏切り者…、裏切り者……」
……そうだ。
俺はエルクに「護る」と言っておきながら、肝心なところでは一人きりにさせてしまった。
俺が、そう仕向けたんだ。
俺はまた、エルクを裏切ったんだ。
「言っただろう?キサマはナイフだ。誰も助けなくていい。当然、キサマ自身もな。」
……そうだ。
俺は『影』だ。端から生きてなんかいない。その資格もない。
誰かを殺すためにだけに。俺自身を殺すために、俺はいる。
そうだ、俺は――――――――、
バシンッ
空気を割るような音が鼓膜の奥にまで響いてきた。
「イイご身分だね。人に押し付けて、ふんぞり返って。命令する人間ってのはさ。さぞかし偉いんだろうよ。エルクをこんなにしたあの悪魔と何が違うんだろうね。アタシにも分かるように説明しておくれよ。」
いつの間にか俺の背中から降りていた彼女が、リーザの頬を打ち、小さな顎を乱暴に掴んでいた。
「分かるかい?違わないんだよ。お前がエルクをこんなにしたのと何も変わんないんだよ。」
「……」
リーザは自分が何を言われているのか理解できていないようだった。放心したかのように目を見開いている。
「だから言ったのさ。護りたいものは自分の手で護れってね。」
それでも彼女は最後まで言い切った。「これで縁を切る」という風に後腐れなく、冷淡に。
そうしてアークへと向き直ると、彼女はさっそく自分の目的へと歩き始めていた。
「アンタがアークなんだよね?いきなりで悪いんだけど、アタシをロマリアまで送ってくれないかい?」
「……それはできない。」
「足を貸してくれるだけでもいいんだ。アンタ程の男なら簡単なことだろ?」
青年は、この場にいる人間で一番の部外者であり、一番状況を理解していないにも拘わらず、すでに理性的な自分を取り戻し、彼女の突き付ける難題に的確に応答していた。
「勘違いするな。俺たちは決して奴らに対して優勢に動けている訳じゃない。俺たちは常に俺たちにできるギリギリのことしているだけだ。」
数年前から始まったアーク一味による犯行。
ミルマーナ軍との大規模交戦。グレイシーヌ、ラマダ寺の大僧正殺害。ニーデル、闘技大会での景品の強奪。アリバーシャの難民虐殺。スメリア国王の暗殺並びに、パレンシア城の破壊による王族の根絶。公式発表はされていないが、バルバラードでも小さなテロ行為をしている。そして、つい先日のアルディアの女神像式典襲撃。
この内の幾つが真実なのかは定かではない。だが、少なくともこれだけの「噂」を流されるだけの人物であることに間違いはない。
だというのに、今さら「密入国」程度の犯行が不可能というのは素人ならずも信じがたい話に聞こえた。
しかし、値踏みするように青年の顔を見詰めると、彼女はアッサリとそれを認めた。
「悪かったね。周りの連中があんまりにもアンタたちを持ち上げるからさ。つい無茶を言っちまったみたいだね。」
「何にせよ、一時間もしない内にガルアーノの手下が後始末をしに来るか。安全な場所には送ってやる。」
「……だってさ。アンタらはどうするんだい?」
振り返る彼女の目は、蹲ったままのリーザを見下していた。
端的な話し合いの結果、リーザとヂークはエルクを治療してくれるというアークの船に乗り、スメリア某所へ。
俺はシャンテを連れ、小型飛行船でスメリアの首都、パレンシアまで飛ぶことになった。
「現在、ロマリアはガイデル王の命令で必要以上の厳戒態勢が敷かれています。どんな用向きであろうと、ロマリアの関係者以外は入国を認めてもらえないでしょう。」
アークを迎えに来たシルバーノアの操舵士が、操舵士ならではの貴重な情報を提供してくれた。
「スメリアのパレンシアにいる”ペペ”という男に会ってください。私の古い友人ですが裏稼業に詳しい男です。報酬もそれなりに要求されるかもしれませんが、少なくとも無駄足になることはないでしょう。必要であれば、そちらの船は私が回収しておきます。」
「チョピン」と名乗ったその男は、出で立ちと物腰から、「犯罪者」をやる前はかなり位の高い人間に仕えていたらしいことが窺えた。
そういう人間は主人を支えるために得てして情報通であるように努め、主人さえも把握していない裏の人脈も広げていることが多い。
彼の話の信憑性は高い。
「彼がどうしても無理難題を押し付けてくるようなら私の名前を出してください。アレには大きな貸しがあります。少しは融通を利かせてくれるでしょう。」
「すまない、助かる。」
すると、少し肉付きのいい操舵士は「犯罪者」とは思えない朗らかな笑顔で応えた。
「その礼はまだ受け取りかねますね。何分、ペペは腕利きですが気分屋なところがあります。失敗する可能性もないわけではありません。それに、貴方がたがロマリアに致命傷を与えてくださったなら礼を言うのはこちらになります。言うなれば、私たちはまだまだ”対等”ですよ。」
上手い言い回しだ。
ここ数分の会話だけで俺たちのベストな人間関係を見出している。よほど交渉の場に慣れているようだ。
「そして、できることなら貴方がたには成功してもらいたい。その方が、我々は楽ができますしね。だからこそ、我々は協力を惜しむつもりはありませんよ。」
航空機そのものが稀な存在である今の時代。領空は各国においてシビアな問題であり、離着陸許可一つ得るのに多くの過程を踏まねばならない。
そんな中で、彼のような交渉に長けた人間は航空機と同等ともいえる価値を持った存在といえる。
その上でシルバーノアのような大型飛行船の「操舵士」も担っている。
名のある貴族、富豪に仕える人間であったとしても、彼の能力は高すぎる。
「ああ、それともう一つ。」
……もしかすると彼は、一味に入る前はスメリア王家に仕える身だったのかもしれない。
亡くなった王の、本当の仇討ちをしているのかもしれない。
「先程も申しましたように、ペペは気分屋な人間です。少しでも成功率を上げたいとお思いならバーボンを飲ませることを勧めます。アレの好物ですから。」
彼はそれをわざと臭わせているようにも思えた。
――――スメリア近海上空
「……エルクは大丈夫かねえ。」
小窓から見えるシルバーノアを眺めながら、俺に聞かせるでもなく彼女は呟いた。
「全身の7割火傷すると死んじまうって言うだろ?アークの仲間がどれだけ強い『力』を持ってるか知らないけどさ。少なくとも”元通り”って訳にはいかないだろうね。」
確かにその通りかもしれない。
だが、一命は取り留める。あの森で改めてエルクを見た時にそれは確信した。
リーザの腕に抱かれたエルクは、火傷の痕がほとんど消えていた。ところどころ赤い腫れが残ってはいたが、一目で危険だと判断できた黒い変色はどこにもなかった。それどころか、爛れていた顔の右半分が8割方再生していることに驚かされた。
リーザの『力』ではない。いくらなんでも処置する時間に対してケガの治りが早過ぎる。『力』を使った気配もなかった。
ということは、あれも青年の『力』の一つということになる。
彼いわく、彼らが向かおうとしているスメリア某所には治療を専門とする仲間がいるらしい。
あれを上回るとなると、『蘇生』さえも可能にするような人物なのかもしれない。
火傷のレベルと置かれていた環境から、後遺症や感染症の心配もしていたが、それももはや無用だろう。
あれを見せられた後だからかろうか。彼が「治せる」と言ったからにはその言葉に間違いはない。そういう、妙な確信があった。
それよりも――――、
「ロマリアへは一人で行くつもりか。」
「あん?……そのつもりだったけど。アンタも行きたいのかい?」
「そう思っていたところだ。」
「……それってのはエルクに会わせる顔がないからってことだろ?」
「……」
彼女の言う通りだ。
ガルアーノに関わって以来、『影』が再び俺を蝕み始めているのは間違いない。
今のところ、俺はエルクを「護っている」と言えるほどの努力をしていない。
……そう考えてしまうのは、リーザに『詰られた』影響なのかもしれない。
だが、エルクを護るべき肝心な局面で俺は確かに『影』に引き摺られていた。それが原因でミスを重ねている。そんな自分を腹立たしいと感じている自分がいるのは事実なのだ。
手土産の一つでもなければ、目を覚ましたアイツの前に立つ勇気が持てそうにない。
それが本音だ。
「まあ、理由がなんだって構わないけどね。」
彼女は俺の乏しい表情からそれらを読み取ったらしい。
公園で魔人に全身を焼かれた彼女は、今や傷痕一つないキレイな姿に戻っている彼女は気怠げに窓の外を見遣りながら言う。
「やるなら中途半端にはしないでおくれよ。」
「足手まとい」と言わんばかりに。