黒装束と青髪の歌姫の攻め込んだ”白い家”、その公園。飼われていた子どもたちは悪魔の息吹に狂い、堕天した。
手にしていた遊具は使い込まれた刃物へと持ち替えられ、穢れを知らない瑞々しい肌は闘争に飢える鎧へと変貌する。
そんな憐れな子どもたちが、公園に迷い込んだ二匹の羊に襲い掛かる。
その十数分前。
空を泳ぐ白銀の鯨が、悪魔の揺り籠に対し爆撃と共に一人の青年を投下していた。
――――”白い家”『未成熟児』保管室
「……これが、キメラ。」
青年の目の前に整然と並ぶ無数のカプセル。その中で、今まさに生まれ変わろうとする子どもたちが泳いでいた。
「どうかね、ここの眺めは。勇者、アーク。」
スピーカーから、聞き覚えのある声が青年の名前を呼んだ。
「ガルアーノか。」
「直に言葉を交わすのはこれが初めてになるのかな。だがまずは”今後ともよろしく”と言わせてもらおう。」
「何?何の話だ。」
青年の当然の問いに対し、無機質な拡声器からはドロドロと淀んだ失笑が漏れだしていた。
「なに、ワシらはこれから長い付き合いになるのだ。挨拶の一つも交わしておくのがマナーというものだろう?」
「ふざけるな。俺たちはこの戦いを長引かせるつもりなんかない。」
「無論、ワシもそのつもりだ。」
「……何が言いたい。俺はお前と無駄なお喋りをしに来たんじゃないぞ。」
悪魔の失笑は青年の感情を愛おしげに逆撫でる。
「それよりも、どうだ。キサマの目の前に広がる光景は。」
『子どもたち』は安らかな顔で眠っている。新世界へ産まれ落ちるその時まで。
「これが今の時代を象徴する“精霊”というやつだ。実体を持たず、人間の心を餌にしてきた“亡霊”どもよりもよっぽど、守ってやる価値があると――――」
青年は悪魔の囁きを断ち切った。
「……これで、いいんだ。」
青年は、その手でここにある全ての『悪夢』を焼き払った。
彼の周囲を舞う無数の『光』が、悪魔の言う新時代の『精霊』を皆殺しにした。まだ、「抵抗」もろくに知らない小さな子どもたちを。一片の肉も残さず。
そして、彼を守護する『光』が青年に次の行き先を告げる。
「……」
青年は火花を散らす悪魔の唇を憎らしげに見上げ、その場から走り去る。
「悔い」はある。だが、彼に「迷い」を受け入れるだけの余裕は許されていなかった。
――――”白い家”緊急避難路
「そこまでだ、アンデル!!」
通路に響き渡る青年の叫びは、先程よりも遥かに鋭く砥がれていた。疑いようのない「怒り」がそこにあった。
「……これはこれは、勇者アーク。久方ぶりだな。」
振り返る萌葱色の死に神、そしてそれを見据える瑠璃色の勇者。今まさに、世界の主役とも言うべき二人が対峙していた。
「こちらから出迎えてやろうと思っていたというのに。正義に勤勉な姿は変わりないようでなによりだ。」
青年の、幾多の死線を潜り抜けてきてなお色鮮やかな朱色の額巻きと瑠璃色の装束は、死に神の言う「正義」を色濃く物語っていた。
そして、その若々しい正義を馬鹿にするかのように、死に神は笑う。
「して、わざわざこのような所まで儂を訪ねに何用かな?」
青年の背後には幾体の斬り伏せられた『子どもたち』の姿があった。
それを成した刃こぼれを知らない正義の剣を、その切っ先を、青年は死に神へと真っ直ぐに突き付け、宣言する。
「アンデル、ここで終わらせてやる。」
「……」
死に神は眉間に皺を寄せ、吐き出された深い深い呼気は黒い霧となって青年を取り囲む。
「……ック!」
黒い霧は、勇者の鎧を易々と打ち砕き、青年の膝を地につかせた。
「理解できたか、小僧?これが我々の間にある大きな、大きな差よ。たかが精霊を宿したくらいでこれを埋められるとでも思ったか?なんとも愚かしい。」
しかし、“勇者”を冠する青年は、折れぬ剣を支えに立ち上がる。その目は黒い霧ごときに濁らせることはない。
「お前こそ、俺たちを甘く見るなよ。」
「ほぅ、ならば言ってみるがいい。人間ごときが、何をすれば我々を討ち滅ぼすことができると言うのかね?頼みの”聖櫃”も今や我々の手の内にあるというのに。」
青年が歯を食い縛ると、体から滲み出す蒼い光が黒い霧を払う。
「”聖櫃”の力はすでに俺たちの中にある。お前たちに勝ち目はない。」
「……ク、クク…、クハハハハッ!!」
「死に神」であり「将軍」である品格など忘れ、萌葱色の男は大口を開けて笑い出した。
「何を言い出すかと思えば。貴様らが”聖櫃”の何を手に入れたと?…笑わせるのもいい加減にしろ。」
そのほんの僅か、死に神が視線を外した隙を突いて青年は支えにしていた剣を振り上げた。
切っ先からは白い光りが迸り、死に神目掛けて一本の『光の矢』が放たれる。
白い光は魔を滅する『裁きの力』。魔の象徴ともいえる「死に神」にとっては抗いがたい『力』であるはずだった。
「…本当に、人間という生き物はどこまでも我々を笑わせよる。」
ところが、それは死に神を討つどころか、死に神の纏う黒い霧に呑まれ、泡のように掻き消されてしまう。
「これが貴様の言う『聖櫃の力』か?だとするのなら、改めて言わせてもらおう。”愚かしい”。そして”小賢しい”。」
「クッ……」
黒い霧は死に神の嘲笑に合わせ、光の軌跡を辿っては勇者を弄ぶ。
「まあ、何でも良い。貴様はまだ泳がせておくというのが奴との約束だからな。今は見逃してやろう。だが、次に会う時までには口の利き方だけでも覚えておいてもらえると助かる。」
死に神が自慢の扇子で黒い霧をひと煽ぎすると、払われた霧の跡に巨大な岩石のような爬虫類が数匹、忽然と現れた。
「でなければウッカリ殺してしまいかねん。」
青年は『聖櫃の力』を信じ続けた。
纏わり付く霧を撥ね除け、トカゲの猛攻を受け止め、さらには死に神への矢も打ち続けた。
青年の『力』は確かに人間の得られる『力』を遥かに超越していた。
命を食む霧は失せ、戦車のごときトカゲの牙も押し返しつつある。
それでも、青年の放つ矢は一本たりとも、死に神の体に触れることさえ叶わない。
「それはそうと、」
青年との雑技の競い合いに飽きた死に神は、「余談」という風な口振りで、「勇者」という足枷をいじり始めた。
「この”施設”にはまだ一般人が残っているというのを知っているか?2、3人で乗り込んでくるような阿呆だが、奇跡的にまだ生き残っておる。」
「……」
「勇者とやら。貴様なら此奴らをどうするかね?」
死に神は多くの人間の命を喰らってきた。これまでも、これからも。
ならば、ここで死に神を討ち取ることと、数人の命とが釣り合うはずもない。些細な言葉の罠に拘っている余裕などない。
……はずだった。
「さて、儂はこの辺りで失礼させてもらおう。ここは些か騒がしい。次に貴様を迎える時はもっと静かな場所を用意しておこう。」
押し返していたはずの牙に悪戦苦闘する青年を見下し、死に神はほくそ笑む。
「断末魔の染み渡る素晴らしい墓穴をな。」
奮闘する青年を捨て置き、死に神は背を向けた。
「待てっ!…!?」
トカゲたちを振りきり、立ち去ろうとする死に神を追跡しようとすると、計ったかのように倒壊する施設の瓦礫が二人の間に横たわった。
「あまり儂の配慮を無駄にしてくれるな。貴様らは我々に生かされているだけの家畜に過ぎんのだ。努々忘れてくれるな。」
侮蔑の眼差しを残し、死に神は青年の前から悠々と去っていく。
敵わない……
横たわる柱から感じる死に神の強大な『力』が、青年を委縮させた。
まるで、天までもが死に神の力に平伏し、服従しているように感じさせた。
敵わない……
精霊の力が、天を落とすことはない。
人の剣が、死に神の首を刈ることはない。
そんな当たり前のことが、今の青年には迫りくるとても大きな、大きな壁のように思えた。
…敵わない、のか………
青年には自信があった。
精霊の『力』にも慣れ、”聖櫃”に認められた今なら。打ち倒すまではいかなくとも、死に神とも対等に渡り合えるだけの実力を身に付けていると錯覚していた。
だが…、手も足も出なかった。『力』の内、いくつかは完全に封じられてしまっていた。
奴が加減をしなければ俺は……。
青年は自分の未熟さを憎んだ。
何が悪いわけでもない。俺が、「弱い」んだ。
食い縛り、横たわる瓦礫を殴りつける。
拳から流れる血は、青年に痛みを感じさせることはできなかった。
折れぬ剣を携え、屈辱を背負って走り去ることしかできなかった。
――――“白い家”の公園
……どうしてその青年を目にして「エルクに似ている」などと感じたのだろうか。
ただ、青年の額にある赤い額巻きがいやに象徴的に見えたのだ。
それが、エルクの赤いバンダナと被ったのかもしれない。だが、それだけだ。
「……アーク。」
「逃げるぞ、付いて来い!」
アーク・エダ・リコルヌ、百億の賞金首。
突如、俺たちの前に現れ、20を超える化け物を一掃した青年の顔には疲労の色が見えた。ここに来るまでにも戦闘があったのかもしれない。
だが、この場にいた化け物たち。俺が苦戦を強いられた敵を一瞬の内に、たった一人で倒してしまった事実は変わらない。
これが、「全世界指名手配犯」の実力か。
「息はあるのか?」
「…あぁ。」
シャンテはヘドロ状の魔人に全身を焼かれ、気絶していた。
まるでヒーローのように登場した百億の青年は、再生中のシャンテを見ても然程驚く様子を見せなかった。この程度の『奇跡』なら見慣れているという風な目をしていた。
そして、彼女を担ぐと彼はこう言った。
「これで全員か?」
「……」
「どうした、まだ誰か残してるのか?急げ!」
今も、彼が指示したであろう”白い家”への爆撃は続いている。施設の崩落もまた、苛烈さを極め始めていた。
常識的に考えれば、この時点での生還率はほとんど0に近い。それでも、彼の『力』があればそれも難しくないのかもしれない。
生きて帰ることができるのだ。
……勇者が、いれば。
「……仲間を、置き去りにしている。」
……俺は今、何と言った?
死ぬ気か?
いくら世界と対等に渡り合う「勇者」がいるからとて、必ずしも生きて帰れる保証は無いんだぞ?
それに――――、
「死んだ」
悪魔はそう言ったんだ。それと思える爆発音だって自分の耳で確認した。
だったら俺は今、どうしてそんな無意味なことを言ったんだ。
――――一人でも多くの人間を殺せ。俺が、教えてやる。
不意に、アイツの声が頭の中で再生される。
――――キサマは誰も助けなくていい。
アイツは俺を殴り飛ばし、ズカズカと俺の懐に踏み入ってきた。
――――キサマはナイフを使う必要なんかねえんだよ。
そう言ってアイツは俺の手からナイフを取り上げた。
――――キサマがナイフだ。
そう言ってアイツは俺に銃の扱い方を教えた。
――――殺せ。俺がキサマを許すまで。殺し続けろ。
……だったら、俺は今、誰を殺せばいい?貴様はもういない。俺は…、自由なはずだ。
――――だが、俺はまだキサマを許しちゃいねえ。そうだろ?
……教えてくれ。俺は、誰を殺せばいい。
――――何をしてる、仲間を助けたくないのか!?
耳鳴りが遠退き、聞きなれない声が俺の胸座を掴んでいた。褐色の瞳が俺の頬を叩いた。
「……」
「いいか、よく聞け。ここはもう長くない。生きてここを出たいなら今すぐに仲間の場所に案内しろ!」
この青年はいったい何がしたいんだ。どうしてこんなにも執拗に助けたがるんだ。
「……こっちだ。」
疑問を解決しないまま、俺の体は「命令」に従っていた。
その言葉に嘘はなく、瞳には淀みがない。
俺は思った。
百億ぽっちの紙切れで彼を語ることはできない。
俺は思った。
悪魔の手で秤に掛けられた百億の心臓を救うために、彼は存在している。
『百億の心臓を焼く力』を持ち合わせていながら、一つたりとも見捨てようとしない。
俺にはその正体が掴めない。
それは、救われた百億の心臓だけが知っている。彼という『光』を真っ直ぐに見詰めることができる。
今の俺には「相容れない『二つ』が一つの『箱』に収まっている」。その程度の認識しか持てない。
ただただ神秘的な空気を纏っているとしか。
――――”白い家”通路
ふと、俺の後ろを付いてくる鉄靴の擦れる音を耳にしながら、この件にだけは手を出すまいと思っていた自分を今更ながらに思い出す。
ガルアーノに目を着けられようと、ロマリアと敵対関係になろうと、エルクを護るためならその『悪夢』に呑まれる覚悟はあった。
だが、この男にだけは関わるまい。手配書を見た時から、そんな直感が働いていた。
アーク・エダ・リコルヌ。16才の青年。
世界的指名手配犯というにはあまりにも幼く、陰りのない”正義”の眼差しを持ったその面立ちに悪魔たちよりも異質な『運命』のようなものを感じ取った。
俺はこの男を、同じ『人間』だと見ることができなかった。
……考えてみれば、敵対しているロマリアと関われば自ずとこの男とも接触する。分かり切ったことだったのに。
どうやら、俺は分からないフリをしていたらしい。
俺は、エルクをダシにして死に場所を求めていたのかもしれない。
俺は俺の『呪縛』を解くために。
俺という「化け物」を殺してくれる人間を求めて。
今、それに気付いたとして、今さら思い直したところで、もはや手遅れだ。
仮にエルクが生きていたとしても、意味はない。
俺たちは既に飲み込まれ始めているんだ。子どもたちの血と肉で渦巻く『悪夢』さえも好物にする、『正義』という名の救いのない悲劇の部隊へと。
『悪夢』から逃げ延び、こんな俺に助けを求めてきた子どもを、俺は『悪夢』の中へ連れ帰ろうとしている。
――――”白い家”地下水路
爆撃の影響で全ての明かりが消えていた。今はアークの呼び出した無数の『光の粒子』だけを頼りにアイツを探している。
『粒子』は蛍のようにアークの周囲を飛び回るだけかと思えば、そこから数匹が離れ、稲妻のように四方八方へと飛び去っていく。
『光』はこの男にとって単なる『力』ではないらしい。『身体の一部』に近いのかもしれない。
『光』でものを見、『光』で駆け回る姿に不自然なところはなく、もはやどちらが『本体』なのかも分からない。
それでも、青年がその『手足』をいかに遠くまで伸ばそうとも、この広く入り組んだ水路全ては照らし尽くせない。
そして、シルバーノアからの爆撃による”家”の崩壊は止まらない。
これは、死の行軍以外のなにものでもない。
そう、思っていた。
ところが――――、
「……こっちだ!」
永く『影』を拠り所にし、「化け物」とさえ呼ばれてきた俺の目よりも早く、青年は何かを見つけていた。
……そして、俺の耳には彼の声がどこか「怒っている」ように聞こえた。
「エルクッ!!」
そこには運よく落石から免れ、横たわるソイツの姿があった。
担いでいた女を滑り落としたことにも気付かず、俺は駆け寄った。
「……」
辛うじて息はある。
だが、容体は絶望的だ。
『炎』がエルクを護ったのかもしれない。だがそれでも―――完全にエルクの意表を突いたのだろう―――、至近距離で起きたであろう爆発を防ぎ切れてはいない。
全身は火傷で覆われ、顔の右半分は肉が爛れている。耳は落ち、頬は削げ、歯が剥き出しになっている。
「どけっ!」
青年は割り込みエルクを抱き上げると間を置かずに走り出した。
「早く逃げるぞ!!」
瑠璃色の装束を着た青年、その背中は怒りに満ちていた。
青く、小さな羽を激しくバタつかせ、彼を……いや、エルクを取り巻く歪んだ世界を否定している。
赤の他人であるはずのエルクのために……。
俺は……何をしているんだ………