聖櫃に抱かれた子どもたち   作:佐伯寿和2

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悪夢たちは彼の後ろ髪を引く その十七

この”家”の番犬の部屋を抜けた後は、拍子(ひょうし)()けなくらいに邪魔が入らなかった。

身を隠しながら進んでいるとはいえ、今さら俺たちの侵入に気付いてないはずがないのに。警報(けいほう)は鳴らず、通路には人気(ひとけ)すらない。

警戒されているのか。それとも遊ばれているのか。どちらにしろ、あるべき障害(しょうがい)がないとなると逆に不気味さが際立(きわだ)ってくる。

「……この部屋は?」

そんな中、俺の目に()まったのは表示(プレート)も何もない用途(ようと)不明の部屋。

その部屋の何に()きつけられたのか分からない。他の部屋と特別変わったところは見当たらないのに。どうしてだか胸の(ざわ)つきが(おさ)えられない。

「いい鼻してるじゃないか。それとも何だ。化け物同士、何か特別な声で呼び合ってたりするのかい?」

「…いちいち(かん)(さわ)るヤロウだぜ。」

女は何も答えちゃいないが、要するにこの部屋には収容(しゅうよう)された『子どもたち』がいるんだ。

 

「どうするよ。」

彼の意見を(あお)いではみたものの、後回しにするのは分かり切っていた。

ミリルの居場所(いばしょ)さえハッキリ(つか)めてない段階で、ヘタに『子どもたち』と接触して(さわ)がれたらどう転んでもマイナスにしかならないと分かっていたからだ。

それに、あくまでも俺たちの第一目標は「ミリルの救出」。余計(よけい)なことに首を突っ込んでいる余裕(よゆう)はないんだ。

だってのに、

「確認しよう。」

「は?」

()頓狂(とんきょう)な声で聞き返すと、彼はいつになく(するど)眼差(まなざ)しで答えた。

()()()()()()むしろ俺より勘が(するど)いかもしれん。」

「……別に、シュウがそれでイイってんならいいけどよ。」

彼は“迷いの森”で(よみがえ)った俺の『記憶』が彼女を()ぎ当てている可能性が高いと言いたいらしい。

 

別にそれをどうこう言うつもりはない。

 

ただ、俺にはそれが裏目に出るような気がしてならなかった。

「記憶に頼る」という、彼らしくない「合理性(ごうりせい)」に欠けたやり方が。

俺の『記憶』なんて、捏造(ねつぞう)されていたってオカシクない。

ここはそういう所だ。俺はそういう所にいたんだ。

 

「……なんだ貴様らは。」

そこに、『子どもたち』の姿はなかった。

「貴様は、シャンテか?いったい何のつもりだ。」

缶詰(かんづ)めにされた『子どもたち』がいるものと思って突入した室内には、今まさに『化け物』を造ろうという数人の研究員と手術台しかなかった。

その手術台には、(みょう)な装置を頭に付けられた金髪の…、金髪の………、ミ……、ミ……?

「ご(らん)の通りの正義の味方さ。クソッたれのテメエらのためにわざわざ鎮魂歌(レクイエム)を歌いに来てやったんだよ。」

後先考えない歌姫の啖呵(たんか)は、研究員らの目を丸くさせた。

「なんともいい度胸(どきょう)だな。部外者まで(まね)き入れるとは。……当然、覚悟(かくご)はできているのだろうな?」

周りの連中の声が遠退(とおの)いていく。なぜなら、

 

――――俺が、そのプラチナブロンドを見間違えるはずがない

 

「………ミ、リル?ミリルなのか?」

全身の毛が逆立(さかだ)っていくのが分かった。瞳孔(どうこう)が開いて、(あた)りがボヤけていくのが分かった。

「……テメエら、その子に何しやがった。」

地震でもないのに視界がグラグラと揺れている。メラメラと、『赤』が焼き付いていく。

「何だと?…貴様、もしや脱走者か?わざわざ仲間を助けるためにここに舞い戻って来たのか?”森”の『催眠(さいみん)』を克服(こくふく)して?」

また、研究員たちは目を丸くしてお(たが)いを見合った。そして、目の前にある現実を確かめ合うと……

「……ククク、ワハハハハ!」

 

そこにいる研究員は残らず、この(おろ)かな少年を嘲笑(あざわら)った。

野生の獣たちでさえ恐れるこの”家”の実体を知っていながら、再び足を踏み入ようというその(あさ)はかな勇気に胸を(くすぐ)られていた。

 

彼らの笑い声にはナメクジの()(まわ)るような不快感があった。

声色だけは人間臭く、しかし人間とは思えない心理を(さら)け出すその笑い声は、ただただ部屋の空気を(きたな)らしく()(まわ)し、少年の吸う空気を悪臭で満たしていった。

「……何をしたんだ、って聞いてるんだよ!」

ナメクジたちの(おぞ)ましさを振り払うように少年の体から『熱波』がほとばしる。室内の設備は『少年』に呼応するように火花を(くる)()かせていく。

圧倒的人外の『力』が、身を守る(すべ)を持たないナメクジたちに牙を立てる。

それでも彼らが機嫌(きげん)(そこ)ねることはなかった。

この世の「不浄(ふじょう)」を好んで食べる(むし)は、幼気(いたいけ)な少年の「憤怒(ふんど)」を前にして舌なめずりをせずにはいられなかった。

「……ああ、困るな。とても高い機材なんだぞ?ほら、どうするね?例え、貴様の全身を(くま)なく売り(さば)いたとしても直し切れたものじゃないんだがなぁ?」

言い終えると同時に、少年は手にした得物(えもの)棍棒(こんぼう)のように振りかざし、獣のように飛びかかった。

歌姫と黒装束(くろしょうぞく)がこの少年の暴走を止めることはなかった。

歌姫は『力』の()()えを()けるために物陰(ものかげ)に隠れ、黒装束は手術台に近寄る機会をうかがっていた。

 

「……まったく、(あなど)られたものだな。」

研究員(ナメクジ)たちは()()らされる『炎』も少年の(やり)も避けようとはせず、全身で『(それ)』を受け()めた。

業火(ごうか)』に焼かれ、(またた)()(ただ)れる研究員(ナメクジ)の一人が、頭蓋(ずがい)を割る少年の槍を(つか)み、北叟笑(ほくそえ)む。

「我々が、今さら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

彼らの『命』は(すで)に悪魔の手によって(ゆが)められていた。

命あるものにとって共通の恐怖であるべき『死』は、彼らの肉体(からだ)の内側にまで届かない。

火達磨(ひだるま)になってさえ(ひる)むことはなく、爛れた手足を容赦(ようしゃ)なく少年へと伸ばす。

少年もまた、5年前には無かった『力』でこれらをデタラメに蹴散(けち)らしていく。今の少年にはそれができた。

「ククク……、確かにイイ素材じゃないか。この”家”に見初(みそ)められただけのことはある。」

「テメエらが…、テメエらが俺たちをメチャクチャにしやがったんだっ!!」

槍を握る研究員(ナメクジ)が内側から爆発する。飛び散る肉片(にくへん)が少年の体に触れることはなく、灰となって少年の周囲を舞う。

少年の内側から(あふ)れ出る『狂った情景(じょうけい)』を求めて、『美味なる果実』を求めて、研究員(ナメクジ)たちは一層(いっそう)(むら)がっていく。

「よくぞ帰った、”白い家”の子よ!偉大(いだい)なる我らが父も、お前の帰りをさぞ喜んでくださるだろう!」

「ウルセエっ!!」

少年は槍を捨てた。

そうして振り下ろす(こぶし)はさながら()(さか)るハンマーの(ごと)く、彼らの身体(からだ)紙粘土(かみねんど)のように跡形(あとかた)もなく粉砕(ふんさい)していく。

 

 

……体が……、体が、熱い!

 

 

空を(ただ)白銀(はくぎん)(くじら)が見下ろし、朱色(しゅいろ)の草木が俺を取り囲んでいる

『………(なさ)けない………、裏切るつもりか……、』

(うちがわ)から、同胞(はらから)の呪いの言葉が溢れ出る

(あだ)を…、苦しい……、産み育ててやったものを……、』

その言葉の一つ一つが、焼けた鉄の(かたまり)を押し付けられるように熱い

『恥さらしめ……、なんと(みにく)い……、』

ヤメロ、ヤメロ……

『殺せ……、全てを燃やせ……、』

うああぁぁ……、

『家族も……、友も……、恋人も……、』

 

ああぁぁぁぁぁっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ルク……エ…ク…エ………

 

 

 

…………俺は、目に映る全てを燃やした

 

……いいや、まだまだ燃える。俺がいる限り何処(どこ)までも、どこまでも燃え広がる。

ひとつ、ふたつ……。灰になる命はやがて数えられなくなる。

当然だ。俺の『炎』は初めからそのためにあるんだ。

俺は誰も幸せにしない。

(おれ)』は奪うために燃えてるんだ。

 

 

「…ルク……エルク、エルク!」

……切れ長の、青い瞳が俺の肩を揺すっていた。

「……あ、ああ、シュウ。」

思い出すかのように彼の名前が出てきた。

体がやけに重い。……俺も、彼も、全身水浸(みずびた)しだ。

「落ち着いたか。」

「……ああ。」

(あお)ぎ見る天井から水が()(そそ)いでいた。……スプリンクラーか。

見渡せば部屋の(いた)る所が黒く()げ、機材は全て沈黙していた。床には()()()()()()がいくつも転がっている。

「ザコ相手に、なんてザマだい。」

「……」

朦朧(もうろう)とする意識の中でも、青髪の女の()んだ声はやけに鮮明(せんめい)に聞こえた。

 

……そうだ、俺たちは女の子を助けに来たんだ。あの森の中に忘れてきた俺の、大事な人を。

「そんなんでよくガルアーノに楯突(たてつ)こうなんて考えられたもんだよ。」

……そう、ミリル。名前はミリルだ。

()(とお)った金髪に、(ほが)らかな笑顔のよく似合(にあ)うキレイな女の子。

「そこの小娘だって、コイツらやジーンみたく炭クズにしちまうのがオチだろうよ。」

……俺が?ミリルを焼く?ジーン?そうだ、ジーンはどこだ?

あの小憎(こにく)たらしい顔で俺とミリルをからかいやがるあのバカはどこにいるんだ?

「……おい、エルク。正気か?」

 

……ああ

 

そうか

 

俺が、()ったんだ

 

……やっと、少し思い出してきたってのに。アイツはもう、何処(どこ)にもいないんだ。

思い出した記憶の分だけ、十字架(じゅうじか)(はりつけ)にされる罪悪感(ざいあくかん)が俺の心臓を握り()める。

「いい迷惑(めいわく)だよ。黙って自分の穴倉(あなぐら)(こも)ってくれてりゃ皆、生きていられたんだ。愛し合ったり、笑い合えたんだよ。」

言い返すことなんてできるはずもない。

今まで俺は、ずっとそうしてきたんだから。

『化け物』らしく、皆から奪ってきたんだ。たくさん、たくさん……。

「そら、まずは目の前のクズどもに謝罪(しゃざい)の一言でも掛けてやったらどうだい?」

目の前の…、炭の塊が……、俺の手を引き、また『あの場所』へと連れて行こうとする。

 

………身体が……っ!!

 

「エルク、落ち着け!」

俺の(ほお)(はた)く瞳が、こんなにも鋭くなかったら俺は自分を抑えられずまた何かを『燃やしていたに違いない』。

「……(わり)い。もう大丈夫…、大丈夫だから。」

肩を掴む彼の手をソッと払い、立ち上がる。

 

立ち上がる俺の姿を見届けると、彼は無言でナイフを抜き、青髪の女に歩み寄った。

「なんだい?いい加減(かげん)我慢(がまん)ができなくなったのかい?いいよ。アタシもガキのお()りに疲れてきたところさ。」

彼は右手でナイフを握り、()れた手つきで左小指に押し当てると……、

「!?」

躊躇(ためら)うこともなく切り落とした。

 

「シュウ!?」

動揺(どうよう)する俺を尻目(しりめ)に、彼は止血をし、落ちた小指を拾うと何食わぬ顔で青髪の女に突き付ける。

「俺たちはお前の復讐(ふくしゅう)から逃げないと(ちか)おう。だが、今はこれで許して欲しい。」

彼は澄ました顔で言い切った。

まるで痛みを感じないかのように、顔に(しわ)の一つも浮かべることなく。

「……アンタもだいぶイッちまってるね。気味が悪い。」

「俺は……そうかもしれん。だが、エルクは違う。」

出血はどうにかなっても、体へのダメージは小さくないはず。目の前で彼が傷ついてるってのに、俺は何もできないでいる。

彼が何をしているのか。全く理解できないでいる。

「ハハッ。何を言い出すかと思えば。」

青髪の女は、彼の(いびつ)な決意を(にべ)もなく鼻で笑い飛ばした。

「同じさ。こんなに簡単に人間を殺せちまうヤツが化け物でなくて何なのさ。」

「……」

「そのくせ、中身は見ての通りのガキだってんならもう手の着けようがないじゃないか。いっそ、アンタの手で息の根を止めちまった方が皆幸せになれると思わないのかい?」

その通りだ。俺は『(ばけもの)』だ。

もう、(うたが)余地(よち)すらない。

「人は人を殺す。お前がそれを知らないはずがない。」

「知ってるさ。知ってるからこそ教えてやってるんだよ。”お前は『人間』じゃない『化け物』だ”ってね。それとも(いま)だに、嘘を吹き込んでりゃまっとうな『人間』に育つと思い込んでるのかい?前にも言ったはずだよ。アンタのそういうのは全部”お節介(せっかい)”なんだってね。それとも何だい?アタシの言葉はそんなに難しいのかい?」

「……」

 

黒装束は舞台に立つ彼女の歌を何度か耳にしていた。

その歌声はどんなに品の無い酒を飲む人間の心にも―――それが例え一時(いっとき)のことであっても―――、聖人の気持ちを芽吹(めぶ)かせた。

『魔法』の(たぐい)だということは薄々(うすうす)気付いていた。けれども、それだけでは説明し(がた)い「説得力」のようなものが彼女の声にはあった。

彼が彼女に問いただした時、彼女はそれを『愛』だと答えた。

ところが、『影』を住まわせる男の心はそれを理解することも、信じることもできない。

そうして、彼女の答えを聞いてもなお『影』の中へと帰ろうとする彼の臆病(おくびょう)な背中を、彼女は罵倒(ばとう)したのだ。

「お前の言っていることは間違っていないのかもしれない。だが逆に、お前の言う”愛”が本当にお前を救ったのなら、俺がエルクを救えない道理はない。」

皮肉(ひにく)にも彼は、彼女の、愛する者を(うしな)った復讐の産声(うぶごえ)で「愛」の理解を深め始めていた。

 

男という生き物は何でこんなにも理屈(りくつ)っぽい生き物なんだろうか。「愛」に続く決まった道筋(レール)なんか一本だってありゃしないのに。

理解できないものを理解するために道を通さなきゃ気が()まない。

なんてバカな連中だろう。

歌姫は心の底からそう思った。

なんて…、バカな……。

歌姫は心の底から想った。

 

女は彼の瞳を()()ぐに見詰めた。声のない尋問(じんもん)をするように、(まばた)きさえ許さず、ただ真っ直ぐに。

「……いいさ。その小汚(こきたな)い指は前払いだ。この”家”を出るまでは我慢してやるよ。」

普段なら怒り心頭(しんとう)で女に(なぐ)り掛かったかもしれない。だけどそれ以上に、彼の理解できない行動に俺は困惑(こんわく)していた。

いくら何でもやり過ぎだ。そんな無駄な傷を負わなくたって、こんな女を黙らせることくらい彼ならできたはずなのに。

彼が何を考えているのか、分からない。

それでも結果的に俺はまた彼に護られた。……俺が弱いせいで。

「……シュウ。俺は、どうしたら……。」

俺を見詰める彼の鋭く青い瞳は多くの賞金首を(ふる)え上がらせてきた。今の俺も、理解できないその瞳がなんだか恐ろしいものに思えてきた。

「エルク、忘れるな。お前はお前だ。お前を理解できない人間も多い。お前が理解できない人間も多い。それでも、お前が周りに振り回されることはない。」

「……」

そんなこと、知ってる。

彼は今までそうして生きてきたし、俺はそんな彼の背中を見て育ってきたんだ。

「だが……、」

彼の顔は微塵(みじん)も動かない。それなのに、心なしか悲しんでいるように見える。涙を、浮かべているように見える。

隣人(りんじん)を信頼する努力は必要だ。俺はそれにようやく気付かされた。」

「え?」

「リーザに言われた。どうやら俺はまだお前のことを『化け物』だと(うたぐ)っているらしい。」

それは心のどこかで感じていた。でも、(あらた)めて言葉にされるとは思ってなかった。

そして――――、

 

……俺はそれが信じられなかった。

戦闘の最中(さなか)、背中を(あず)けられることは今までにあった。

でも、こんなこと、5年間の彼の教育の中に一度だってなかった。

 

……彼は、その武骨(ぶこつ)な腕で優しく俺を抱きしめてくれた。

どうしたらいいのか分からないぎこちなさはあるけれど、それでも彼の腕の中は信じられないくらいに温かい。

「……すまない。」

なんでアンタが(あやま)るんだよ。俺にはアンタに返さなきゃならない恩が山ほどあるってのに。そのために強くならなきゃって思ってたのに。

「俺はどんなことをしてでもお前を護り続けると誓う。だから、」

彼は俺を解放し、手術台から下ろされている金髪の彼女へと(うなが)した。

「お前も、護ると決めたものを最後まで護り続けて欲しい。」

 

……そんなことを言われて、素直(すなお)に彼女の所になんかいけるかよ。

この腕の中の居心地が良すぎて、離れられるかよ。

見れば見る程に彼の顔は(はかな)く見えて、俺を不安にさせるんだ。

「エルク。」

ソッと背中を押す彼の手が、初めて(わずら)わしく思えた。それに……、

俺が動けばまた誰かを燃やしちまうかもしれない。それがもしアンタだったら俺は……、俺は、アンタにこれ以上迷惑をかけたくないんだ。

……そんなことは口が()けても言えない。彼にとってそれ以上に屈辱的(くつじょくてき)な言葉はない。

すると、まごつく俺の視界に、値踏(ねぶ)みするような目付きの青髪がチラリと映った。

 

……ダメもとでもいい。シッカリしろ。

忘れるな。

俺は、皆を待たせてるんだ。俺が弱いままじゃ、皆が傷ついちまうんだ。

嘘でもいい。誰よりも強くなれ。

もう……、燃やすのも燃やされるのも嫌なんだ。

 

 

「……」

おっかなびっくり横たわる彼女に近付き、華奢(きゃしゃ)な身体を抱き起こす。

降り注ぐ水に()れ、クッキリと浮かび上がる彼女の輪郭(りんかく)は妖精のように細くて少し力を込めたら(こわ)れてしまうんじゃないかと思えた。

白い(はだ)もプラチナブロンドの髪も、とても希薄(きはく)で、ちょっと目を離したら『夢の世界』に帰っていってしまうような頼りなさがあった。

「ミリル……」

……それでも間違いはない。この人は、俺の知ってる女性(ひと)だ。

 

俺の腕の中に、『悪夢(かのじょ)』がいる。だけど、彼女に『夢』で見たような悍ましさはなく、むしろ、暗く逃げ場のなかったあの”森”に(まぶ)しいくらいの「明かり」を差し込んでいる。

……分かってる。

彼女が()()()()()()ことくらい。分かってる。だけど、そんなことを忘れてしまうくらい、彼女はキレイになっていた。

あの頃よりもずっと。

「……ミリルっ」

俺はなんて現金な人間なんだ。

そう(あき)れてしまうけれど、それでも(かま)わない。俺の胸は(またた)()に彼女で一杯(いっぱい)になった。

彼が俺にしたような優しさなんか()らない。「もう二度と放さない」それくらい、彼女を強く強く抱きしめたい衝動(しょうどう)()られた。

 

―――ずっと、待たせてた。

こんな汚れた場所で。こんな悪魔に囲まれた場所で。5年も。

……本当に、ゴメン。

 

 

やがて、妖精の薄い(まぶた)がゆっくりと開く。

「……誰?」

「ミ……、」

一瞬、全身の筋肉が震えた。彼女の声が、『悪夢』で聞いたそれと全く同じだったから。

「ミリル……。」

だけど、今、目の前にいる彼女は『悪夢(アレ)』とは違う。彼女は俺を傷付けたりしない。俺を呪ったりしない。

「エ、ルク?……エルクなの?……エルクなの?」

彼女の口から俺の名前が出てきた瞬間、全身から力が抜けていくのが分かった。全てが許される安堵(あんど)を感じた。()()()()()()()()、確信が持てた。

「……ああ、俺だよ。ミリル、待たせてゴメンな。」

 

俺が笑ってみせると、みるみる間にスカイブルーの瞳が濡れ、ダイヤモンドじゃ(およ)びもつかない輝きで満たされていく

「……ああ……、エルク……。……エルク…、エルク。」

説明なんか要らない。

俺たちには呼び合う名前さえあれば良かった。

俺の胸に顔を(うず)め、彼女は俺の名前を呼び続けた。何度も、何度も。

今、この瞬間が、『夢』であることを否定するために。何度も、何度も。

彼女の涙が俺の胸を濡らし、俺を(さいな)み続けた『悪夢(ほのお)』を消していく。

同じ『夢』を見てきたからこそ、俺たちは呼び合う名前だけで多くの痛みを分かち合うことができた。

「エルク……、エルク……。」

5年という時間(とき)が、苦しすぎて。

5年という歳月(さいげつ)が、遠すぎて。

 

……ああ、ミリル…、ミリル…………、

 

「エルク、一先(ひとま)ずここを出よう。」

彼が割って入ってくれなかったら、俺たちはいつまでもそうしていたかもしれない。

時間を忘れ、名前を呼び合っていたかもしれない。

悪夢(ゆめ)』の元凶(げんきょう)でもある悪魔の存在を忘れてしまうくらい、俺たちは今この瞬間が、最高に満たされていた。

だけど、ここにいたらいずれは悪魔が俺たちを迎えに来る。また、あの『悪夢(ゆめ)』の中へと連れ戻されてしまう。

それだけは、絶対に嫌だ。

「ミリル、立てるか?」

「……ごめん、今はまだ薬が残ってて。」

手術中、『彼女』が暴れ出さないためにと強力な麻酔(ますい)を打たれているらしい。

それでも大したハンデにはならない。俺と同じくらいの背丈(せたけ)なのに彼女はまるで羽のように軽かった。

何より、今の俺には何でもできる『力』がある。

 

「おいおい待ちなよ。」

彼女を(かか)えたまま脱出しようとすると、傍観(ぼうかん)していた青髪の女が俺たちの前に()(はだ)かった。

「確かに邪魔はしないって言ったさ。だからってアンタたちだけ得をして早々(そうそう)にズラかってもいいなんて、アタシは言ったかい?」

この女は散々(さんざん)俺たちを()()(まわ)してきた。この女のせいでたくさん迷い、たくさん傷ついてきた。

だけどそれ以上に、俺たちは彼女から「悪魔」と(ののし)られても言い返すことのできない(うら)みを買っている。

だからこそ一理(いちり)ある。だけど、ミリルを抱えたままこの先を進むなんて、絶対にできない。

「俺が残ろう。この二人は先に脱出させてやれ。」

 

また、彼に助けられてしまった。

けれども今の俺は、今まで彼に感じていた「恩」の形が少し変わったような気がしていた。

もっと気軽に()わし()える会話のような。もっと自然なもののように感じられらた。

言い方は悪いかもしれない。だけど、そのお(かげ)で俺は少し、彼に近付けたような気がするんだ。

だからこそ、彼の好意に素直(すなお)に甘えることも一つの「恩返し」の形と思うことができるんだ。

「……」

それでも納得(なっとく)できない青髪は(うら)めしそうな視線を俺にぶつける。

「いたところで、今のエルクは足手まといなだけだ。」

今は、そんな辛辣(しんらつ)な言葉にさえ雨風を(しの)ぐ屋根のような温もりを感じてしまう。

それだけ彼への信頼は(あつ)く、(かた)くなっていた。

例えその口から『化け物』と呼ばれようと、彼は俺を護ってくれる。

俺が彼との約束を守り続ける限り。

 

この腕の中の彼女が俺の(そば)にいる限り――――




※帰らずの森=原作の妖樹系統がひしめいていた森のことです。

※蟲
私たちが一般に使っている「虫」という字は主に昆虫類を指しますが、この「蟲」はマムシ(蛇)からくる象形文字で爬虫類やサソリ、タコ、ネズミなど小動物や魚介類なども含みます。
私個人のニュアンスとしては「小さくて体温のない、グチャグチャネチョネチョの気持ち悪い生物」って感じですね。
超、偏見ですが(笑)

※見初める(みそめる)
一目見てその異性に恋心を抱くことです。

※膠もなく(にべもなく)
愛想がない。取り付く島もない。身も蓋もない。といった意味です。

膠(にべ)という魚の浮き袋は強い粘着性があるらしく、接着剤(ニカワ)として利用されていました。
そのことから、良好な人間関係を膠に例える風習が生まれたらしいですね。

※ちなみに……
このシーンの研究員たちは、原作ではグール(ゾンビ系)とヒョウエンキ(火の玉系)に変身しました。

だいぶ迷走しました。だいぶ読みにくいと思います。
まだまだ頑張ります(;´∀`)

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