「復権後、王が世界を見渡し、何を感じるか。キサマは考えたことがあるか?」
「何?」
「我々が役目を完遂し、王が降りられた後のことよ。」
「……それと、貴様の言うオモチャと何の関係がある。」
悪魔は遭難者の言葉を無視し、彼に見えないものを見せたい欲求で震えていた。
それが見えた時、彼がどんな風に踊ってくれるのか。想像するだけで悪魔の心中の笑みは絶えなかった。
しかし今は、それが表に出るのを必死に堪え、丁寧に、丁寧にパン屑を落とし続ける。
「それとなくザルバドに聞いたこともあったが、奴の口から返ってきたのは人間への侮蔑と王への忠誠心ばかり。話にもならん。」
ザルバド・グルニカ・トンガスタ。唯一、「ロマリア四将軍の一人」としてメディアに露出している男。彼は゛愛国主義者゛を絵に描いたような人物だった。堅苦しく、一度決めた優先順位を曲げられない男だった。
故に、自分の役割の外を見る力に欠けていた。
「”王の復活”ばかりに気を取られ、その後のことは何も考えておらん。まるで未来がそこで途切れているかのように。……実にマヌケだ。」
言い返すことができない。
そういう暗示でも掛けられていたかのように、萌葱色の男もまた悪魔の言う「未来」が見えていなかった。
「王は退屈されるだろう。我々の支配した世界に降りたとて、することなど何もない。産まれたばかりの王に、それはあまりに惨い仕打ちと思わんか?」
含みのある悪魔の言葉は幾通りにも解釈できた。
「……貴様、よもや王を裏切るつもりではないだろうな。」
「バカな。主人の手を噛むほどワシは駄犬ではないよ。ワシはあくまであの方に理想のオモチャを提供するだけよ。」
「それが、貴様の道楽の正体か。」
葉巻の首を落とし、丁寧に火を点けながら悪魔は紅く染まった唇を吊り上げる。
「てっきりキサマも同じことを考えておるものだとばかり思っておったんだがな。先日の遣り取りでワシの勘違いと知った時、正直キサマには失望したものよ。」
悪魔の言葉で、萌葱色の男は自分が優位な立場を失っていることに気付かされる。
「貴様は、王の意向を伺ったとでも言うのか?」
これまで、王の腹心である四将軍の中でも誰よりも近く、多く、王の言葉を聞いてきた。多くの計画を遂行し、多くの人間を殺してきた。最終段階ともいえるこの計画でさえも、彼がその中核を担っている。
彼には、自分が最も王の傍にあるべき人物であるという誇りがあった。
しかし今、王の僕としてあるべき思慮を持ち合わせている人物は間違いなく…、自分ではない。
この、犬畜生が……。そう思わざる負えなかった。
萌葱色の男の考えを見透かすように、濃紅の男は嘲笑い、ことさら大仰に声を張り上げた。
「何を言っている。”伺わずとも動く”、当然だろう。王の指示がなければ動けんようなデクノボウはワシの造った化け物にも劣るわ。」
ここぞとばかりに現れた悪魔の憎たらしい笑みに、奥歯の軋む音が彼の耳にもハッキリと聞いて取れた。
それでも遭難者は落ちたパン屑を拾い続ける。この遣り取りもまた、悪魔の好む「駆け引き」の一つなのだと気付いたからだ。
「オモチャ」、そのワードがゲームの鍵を握っている。
悪魔の口から「オモチャ」という言葉を聞いた時、萌葱色の男の頭にまず思い浮かんだのは白鯨を駆る犯罪者たち。
まがりなりにも精霊たちの加護を受け、四将軍の執拗なリンチを掻い潜り、契約の匣を探し当てた奴らであれば、王の慰みものにも成りえたかもしれない。
だというのに――――、
「ならば、貴様の言う゛オモチャ゛は何故その二匹なのだ。アークではなく。」
濃紅の悪魔が育てているのは、彼らとは縁もゆかりもないドブネズミが二匹。
遭難者の問いを餌に、悪魔の口元は更にさらに歪んでいく。
「いつ現れるかも知れん”勇者”をただただ待つのも芸がない。ならば、ワシだけの”勇者”を造ってみようと思ったのよ。」
より高性能な勇者を。より複雑な勇者を。
「だが、現れたなら話は別よな。」
「……両方を相手にするつもりか?」
「言っただろう?運命はワシらに味方をしてくれているのよ。その恩恵を無下にするのは余程の罰当たりがすることだとは思わんか?」
悪魔の笑みはもはや、天啓を授かった狂信者のような猟奇的な形へと変貌していた。
「そうして自分を痛めつけるのも貴様の趣味の一つか?」
アーク一味は人間でありながらその『力』は紛れもなく彼らに匹敵していた。工夫次第では彼らさえも凌ぐかもしれない。
その上、勇者らに次ぐ『力』に目覚め始めているネズミまでも相手にするとなると。一歩間違えれば手の付けられない事態になるのは目に見えている。
たちまち、「運命」は「神罰」と名を変え、彼らの胸を打ち抜くだろう。
しかし、遭難者の目にはそれをこそ好んでやっているようにしか見えない。
『命』を弄ぶことに長けた悪魔であるが故に。
血溜まりをつくった仕事場を放棄し、悪魔は特有の笑みを浮かべたまま革の椅子に深く座り直す。
「王へ捧げるオモチャが多くて何の問題がある。それに、王の僕たるものが負傷を怖れて戦場に立てぬなど。笑い話にもならん。」
それがどんなに危険なオモチャかなどはどうでも良かった。
勝ち目のない運命ほど彼を悦ばせるものは他にないからだ。
「それで貴様は今なお大忙しというわけか?」
計画の要でもある女神像も、有能な部下も餌にし、ただただ『オモチャ』を太らせる。
そのためだけに。
人間は怪物よりも優れた『化け物』になる。生臭い餌を与え続けることで。
何千年と『命』で遊び続けた悪魔だからこそ、それを知っていた。
餌を、次の餌を、次の餌を、次の餌を……
貪欲に。それこそ悪魔のように犠牲や損失など眼中になく、貪欲に。欲望との境を失くした忠誠心をもって、濃紅の悪魔は「貢ぎ物」という名目をかざし、働きながら遊んでいた。
全ては王のために。
そんな悪魔の有意義な様子を見れば見る程、パン屑を拾い続ける遭難者の殺意は膨らんでいく。
「ならば貴様は、この先も王のためと称して儂の邪魔をし続けるつもりなのだな?」
非力を装い続けた遭難者は本来の姿を見せつけ、小賢しい悪魔の首に鎌を突き付ける。
悪魔が首を縦に振った瞬間、それは胴から離れ、そこから溢れ出る『命』を悉く切り刻む。
しかし、追い込まれた『命』もまた、鎌を砕き、『死』を喰らい尽くすかもしれない。萌葱色の死に神は返り討ちも覚悟していた。
男が悪魔として有能過ぎたからだ。
優れ過ぎた部下がどういう行動にでるか。それを知らない二人ではない。
いつか必ず手に負えなくなる。気付いた時には残りの将軍を喰らい、悪魔自身が「王」を名乗っているかもしれない。
王は不滅の存在。その圧倒的存在は死に神すらも超える。「時」さえも彼を消し去ることはできない。
なれど、此奴ならあるいは……。
そうなる前に――――、
しかし、肥え太った『命』は鎌を突き付けられたぐらいでは動じない。
なぜなら、それは決して振り下ろされないと知っているから。
玄人であればある程、構えた拳銃の引き金は固い。悪魔は、多くの人間、多くの感情を身をもって感じてきたから。
「これも言ったはずだ。ワシはどこぞの猿や豚とは違う。キサマらの反感を買わん程度の分別くらい弁えている。」
「ほう。ならば今、この場で、儂が貴様を消さんとするこの憤りをどう説明するつもりだ?」
悪魔は何も間違えていない。
「憤り」を感じていながら、死に神はそれを振り下ろすことができないでいた。
死に神自身、矛盾する自分が理解できなくなっていた。
「それは”憤り”ではない。”恐怖”と”不安”を喰って太る”快楽”と言うのよ。」
だが、悪魔はそれをしっかり理解していた。
「キサマは怯えておるのよ。このワシに。」
弄ぶ程に。
死に神の目尻がピクリと窄むと、濃紅の胴は瞬く間に腐り落ち、上半身が卓上の書類を押し退けるように崩れ落ちた。
机に突っ伏す悪魔を冷ややかに見下す『死』が、『命』を塗り潰した。
「そうしてキサマという存在を満たし、奮えておるのよ。」
『死』に穢されてなお、紅い悪魔は北叟笑んでいる。
思い描いた通りに回る運命が、思い通りに踊る死に神が「滑稽で仕方がない」というように。
「どうだ?敵わないものにナイフを突き立て、昂ぶる気持ちは――――」
口を開く度に、悪魔は粘土かなにかのように千切れ、崩れ、紅い沼が彼の私室を満たしていく。
彼の世界が、広がっていく。
「ククク……。そうだ…、もっとだ。もっと怯えろ!その叫び声を聞かせろ!」
そのあまりに無防備な姿がまた、萌葱の中に懸念と焦燥を絶え間なく呼び寄せる。
不埒な唇を削ぎ落とし、忌々しい目玉を抉り、業の深い脳みそは引き摺り出したところで。
溢れ出す『命』が『沼』に姿を変え、どこまでも拡がっていく。
どこまでも、どこまでも。
そうして遂には死に神の足さえも紅く濡らし始める。
――――抗いようがない。
萌葱色の死に神が屈辱的な敗北を受け入れた時、濃紅の命は百の肉片に引き裂かれていた。
どれだけ徹しても、どれだけ拒絶しても、悪魔の言う”快楽”を押し返すことができない。
結局、死に神はその象徴でもある『鎌』を振り下ろすことができなかった。
「実に不愉快だ。」
その矛盾を理解できないまま、死に神は悪魔に白旗を振った。
殺ろうと思えばいつだって殺れたというのに。
しかし、何かが彼の腕を掴んで放さなかったのだ。
「゛キサマもまた、遊び足りていないのさ゛」
辛うじて残った悪魔の右手が、血糊を使い、床に散乱した書類の上に書き綴っていた。
「……ならば儂は何をすればいい。」
それは悪魔の言う通り、゛快楽゛なのかもしれない。
それでも萌葱色の男は一刻も早く『死』を掻き乱すそれらを何とかしたい気持ちに駆られていた。
『死』という彼の存在さえも冒してしまう前に。
そんな、もどかしさに苛立つ萌葱色の死に神に対して、濃紅の返事はとてもシンプルだった。
”黙って見ていろ”
「……クフフフ…、クハハハッ!!」
仰け反り、大声で笑う姿は、少なくとも彼自身の記憶の中で一度もなかった。
それだけ、彼もまた狂っていた。
「儂をこんなにも滾らせておいて、そのままに捨て置くつもりか?それを許す程、儂が甘い人間に見えるか?」
「”ここはワシの盤上だ。例えそれがキングであろうとクイーンであろうと口利く権利はない”」
「……貴様に死に場所を用意してやるはずが、まさか貴様の遊びに付き合わされる羽目になるとはな。」
萌葱色の男は椅子から立ち上がると、尚も書き綴ろうとする右手を踏みつけた。
そこには「”迷子を装う子羊には気を付けろ”」と書いてある。
「……儂はただ待つだけよ。儂の欲する死に場所が現れるまでな。」
踵を返し、部屋を後にしようとする男の視界の端で、性懲りもなく、千切れた左の人差し指が動いていた。
――――”我々の王に贄多からんことを”
「……果たして貴様が王の僕であったことが、王にとっての幸か不幸か。」
パン屑の行き着く先は果たして王の治世か。悪魔の楽園か。
遭難者は最後の不安を零す。
戸を潜る彼の背後には暗く、重苦しい死臭が尾を引いていた。