部屋の扉を開けるなり、濃紅のスーツに身を包んだ男は眉間に皺を寄せ、そこにいる来訪者にあからさまな嫌悪感を表した。
「何度も、何度も……。気安くワシの前に姿を見せるな。」
そこはプロディアス市長、ガルアーノ・ボリス・クライチェックの私室。この国、アルディコ連邦の政治的中枢であり、世界の転覆を目論む悪魔の巣の一つでもある。
「例の影が死んだそうじゃないか。」
客人の直球な物言いにも関心を寄せず、山のように書類の積まれたデスクを目指す濃紅の男を、萌葱色の強装束を纏った客人は冷ややかに見送った。
「……フン、それだけを言いにわざわざここまで来たのか?暇人め。」
「何を言う。儂の仕事は既に儂の手から離れとる。あとは団亀どもが条件を満たすのを待つだけよ。」
萌葱色の男の名は、アンデル・ヴィト・スキア。極東の島国スメリアの大臣であり、当国の実質的最高権力者。
「それを急がせるのもキサマの仕事なんじゃないのか?」
「冗談を言うな。これだけの玩具を与えてやったのだ。これ以上手を貸しているようでは奴らを使っている意味がないではないか。」
「だから害虫も野放しで自分は隠居生活ということか?だったらさっさとキサマの田舎臭い国に戻って、チェスの相手でも探したらどうだ。それとも何か?ワシの邪魔をするのもご隠居の嗜みだとでも言うつもりか?」
濃紅の男は大きな革の椅子に腰を下ろすと萌葱色の男には目もくれず、書類を捲り、万年筆を走らせ始めた。
「……勝負を逸らかすのは貴様のルールに反するのじゃないのか?」
有能な濃紅の右手がピタリと止まり、アナコンダのような瞳が萌葱色の男をじっとりと見詰める。
「賭けは、条件を破綻させた貴様の負け。今日はその賭け金を取りに来たのよ。貴様の言う通り、暇でしょうがないのでな。」
捕食者の視線に曝されながらも、来客用の椅子に太々しく腰かける萌葱色の男の声色は変わらない。その視線を笑う余裕さえあった。
「まさかこんなにも早く決着がつくとは思ってもみなかったがな。」
ほんの数日前、ガルアーノ市長の優秀な部下を巡って一つの気の狂った賭けが行われた。
勝負の内容は、「プロディアス市長とスメリアの大臣、彼の手で先に消されるのはどちらか」というもの。
市長の下で勤勉に働く彼には秘めた野心があった。萌葱色の男がそれを見抜き、持ち掛けた。
ところが先日、市長の実験動物が彼を殺したという訃報が入る。
どこから聞き付けたのか。萌葱色の男もその事実を知り、「兵隊の追加」を注文するついでに彼の無能さを笑いに来たのだ。
「……いいだろう。好きなものを持っていけばいい。……だが、慎重に選べよ。なにせこの多忙極まる国。その辺のゴミの一つを取ってもキサマの国に思わぬ貢献をしてしまうかもしれんからな。」
濃紅の男は山積みになった書類を大袈裟に見せびらかし、度々訪れる他国の最高権力者を鼻で笑った。
「唯一誇れるものが人間どもと切磋琢磨して築いた箱庭とはな。さすがに奴らの血が混ざっているだけはある。実にくだらん。」
バキリッ
「……言いたいことはそれだけか?」
ヘビの右手が、ドッシリと重厚感のある万年筆を真っ二つにへし折った。
「詰まらん事であまりワシを煩わせるなよ。」
「……」
「用を済ませてさっさと出ていけ。でなければ、スメリアごとキサマを葬るぞ。」
「……」
……またか。この言い知れない獣臭さは何だと言うのだ。
物陰に隠れ、獲物が通るのをただひたすら待つ厭らしい畜生の臭いは。
始まりは、この男が「キメラの確立と量産」という計画に着手した時だ。当初は、男の素性のこともあり、儂も適任だと認めた。
だが、よくよく観察している内に奇妙なことに気付く。それはこの男の性癖と言ってもいいのかもしれない。
男は素体を集める際、必ずと言っていいほど”村”を襲い、”壊滅”させる。怨恨による復讐を抑制しているのかと思いきや、実際はその逆だった。
薬と催眠で巧妙に隠しているが、男は収容した村の子ども全員に『悪夢』を仕込んでいた。
……そうだ。此奴は好んで『子ども』を収集していた。
濃い『悪夢』を見る子どもほど、強靭な『化け物』になった。
後に正気を取り戻し、『悪夢』に刃向い始めた化け物は『失敗作』と名付けられ、わざわざ野に放しては淡々と刈り取ってきた。
まるで儀式か何かのように。
……そして今、その儀式が実を結ぼうとしている。
女神像、魔女、さらには古代兵器や魔王の娘も、……いいや。おそらくはこの賭け事すらも含めた全てがこの儀式を隠匿するための蓑なのだ。
これを暴いた時、何が起きるか予測がつかん内は迂闊に突く訳にもいかん。
そう思い、奴の趣向に合わせれば少しはボロを見せるかと期待もしたが、こんなにも早く決着がついたとなると……、おそらくは見抜かれていたのだろう。
それにしても……、
――――この紅い沼の底には何があるのか。
萌葱色の大臣は、久しく感じることのなかった好奇心に突き動かされていた。
例えそこに罠があろうとも、今すぐに弄りたい衝動に駆られていた。
「……いいだろう。ならば有り難く頂戴しようじゃないか。」
何より、獣に噛まれる痛みがどんなものか。興味がない訳ではなかった。
「いったい何を企んでおる。」
一瞬見せた男のそれはまるで「意表を突いた言葉」とでもいうように。あからさまに彼をバカにした表情だった。
「フハハハ……。キサマ、この期に及んでワシが良からぬ遊びに興じているとでも思っているのか?」
しかし、濃紅の顔に嘘を隠す努力は見られない。
悪魔が遭難者を誘い込むために撒いたパン屑のように、それと分かるように、その表情の一つひとつに「わざとらしさ」が滲み出ていた。
「ならば聞き方を変えよう。あの実験体二匹を使って何をするつもりだ?」
「二匹……、リーザとエルクのことか?」
悪魔は折れた万年筆を屑かごに放ると、引き出しを開け、次の一本を物色し始める。
「貴様の醜く肥え太った権力はこの大陸そのものと言ってもいい。それを、あたかも梃子摺っている体を装い、野放しにしている。それはつまり……、そういう事なのだろう?」
選んだ一本が描いた彼のサインは、以前のものよりも滑らかで、光沢さえ感じさせる不気味な黒色を放っていた。
「知りたくば、キサマにも協力してもらおうか。……と強要せずとも、その通りにせずにはいられんだろうがな。」
普段なら、煩わしい悪魔の能書きを一蹴したかもしれない。
だが、今の萌葱色の男は好奇心に徹していた。どこまでも続くかに見える沼の底に降り立つまで、息の続く限り潜り続けた。
「……何が言いたい。」
「”運命”よ。この時代に存在するワシらはもはや、そうしないことの方が狂っていると言ってもいい。」
ところが、そこはまさに光を遮る沼の中。
一度、泥水が取り囲んだなら、瞬く間に潜水者の方向感覚を奪ってしまう。
潜っているのか。浮上っているのか。
「下らん。何かと思えばどこぞの異端児どもが叫んでいた”予定説”を擦っているだけではないか。『命』を取り込み過ぎてとうとう理性さえ失ったか。」
次の書類、次の書類へと断続的に現れる黒いサインはまるで活動写真のごとく、今にも泳ぎ出しそうな”活力”を見せつける。萌葱色の遭難者に問い掛ける。
「仮に、そうだとしたら。キサマの『死』は何も囁かんのか?」
……この男に問われるまで徹底して忘れてしまっていた。
いいや、虫唾の走る「現実」から逃避していたのかもしれない。
儂ともあろう者が、あの時から「絶対の敗北」に気付かされてしまった。
迂闊にも、スメリア王の前にあの小僧が現れた時、小物と蔑視する一方で、言い知れぬ”引力”のようなものがそれを告げているのを耳にしてしまったのだ。
だが、所詮は人間。幾度「勇者」を名乗り、我々を葬ろうとも王を消すことは叶わぬ。時が流れる限り、王は何度も産声を上げる。
゛王の治世゛から逃れることは叶わない。
…………そうでは、ないのか?
「聞こえたのだろう?」
唐突に現れた悪魔の歪んだ笑みが、萌葱の癇に障った。
その黒い瞳がジワリと拡がったかと思うと、悪魔は咳き込み、机の上に大量の血を吐いた。
「図に乗るな。」
萌葱色の男は歩み寄り、閉じた白檀扇を悪魔の額に圧し付けた。
「貴様が生きていられるのは偏に儂の気紛れだということを忘れるなよ。」
「だが、ワシとてキサマを殺せる。……ククク、どうだ。キサマにとってこれ以上対等な相手もそうおるまい。」
濃紅の悪魔は突き付けられた扇子を払いのけ、血で汚れた口元を拭いながら不敵に答える。
それを戒める大臣の黒がさらに膨らみ、悪魔はさらに紅い沼を吐き出す。
「もう一度だけ、貴様にチャンスをやろう。」
圧倒的優位にいるにも拘わらず、萌葱色の男はまるで「遭難者」のままでいるような不快感が拭えないでいた。
それを振り払うように、男は殊さら威圧的に問いただす。
「何を、隠している。」
支配的なまでの糾弾を受けながら、それでも悪魔は小気味良い笑みを漏らし、沼の底から、更に、更に、掛かった獲物へと濃紅の手を伸ばす。
「……オモチャよ。」
紅い沼で酔わせていく。