少しばかり小高い山中に位置する湖畔。雨が降れば飽和した水の流れは瓢箪型の湖へと流れ込む。静謐に満たされた森の中の湖はいかにも神秘性を
しかし近付いて観察してみると、人工的に作られたものに誰もが気付くだろう。それは湖の中へ規則的に打たれた杭だ。
水中では杭同士のあいだに目の細かい網が張られており、中には多数の魚が泳いでいる。下流の川で獲れるものより大きな個体もいた。餌を撒くと元気な水音が返ってくる。いざ育ってくるとまだまだ大きくなりそうな気がして、もう引き揚げてしまっていいものかと迷いが出てくる。幸い、差し迫って食料が足りないわけではない。頭打ちが見えるまではもうしばらく様子を見ることに決めて、ザリュースは随分広くなった生け簀を見渡す。
旅から戻って、独りで生け簀を作ろうとしたときにはうまくいかず試行錯誤を繰り返した。ときには捕まえた魚を無駄にしていると陰口を叩かれることもあった。唯一の味方は兄のシャースーリューだった。直接的な妨害が無かったのは、族長でもあった彼が黙しつつも睨みを利かせてくれていたことも一助となっていたのだろう。
ようやく生け簀が小規模ながら養殖場としての役割を果たしはじめた頃、
突如現れた謎のモンスター。その後ろに控えた強大過ぎる存在に対抗するために、昔争い分かれた部族が手を取り合った。あれほど
ザリュースもまた、戦った。いま思い返しても自分たちは全力以上を出した。あれ以上の結果を出せる手があったとは思えない。
だが、負けた。そもそも初めから認識が間違っていた。勝負にもなっていなかった。ただ圧倒された。
あまりに差があり過ぎれば悔しさすら浮かんでこない。戦友のゼンベルと同様に自分も一度死んで、至高の御方の手によって復活したそうだが、死んだあたりの記憶はいまだに曖昧だ。
復活直後の朦朧とした感覚に包まれながら、クルシュの声を聞いた。皆殺しになっていなかったということは、戦いが終わった後の交渉ではひとまず
細かい話は後になって聞いたのだが、次はいったいどんな無茶な要求をしてくるかと身構えていたのが拍子抜けするほど、かの組織・ナザリックからの要求はささやかなものだった。
村に見える変化といえば一角に建てられた聖殿に至高の御方を称える像が祀られたことと、支配階級である蟲の戦士、コキュートスとその部下が出入りしているくらいだ。彼らが横暴かというと全くその逆であり、何かと困っていることや問題は無いかと聞いてくる。部族が分かれた原因である食料問題を恐る恐る挙げると、翌日にはまるまると太って骨の無い不思議な魚を持ってきた。これからも継続的に提供すると宣言し、現在に至るまでその宣言が破られたことは無い。かつては種族全滅の危険すらあった最大の問題が、あっという間に解決したのだ。
当然、永久に頼るわけにもいかないためこうしてザリュースの実験していた生け簀など食料自給を高める努力はしているが。
一応
そういった経緯もあって
この生け簀が拡大したのも、彼らの助力があったればこそだ。数年後に考えていた規模がほんのひと月そこらで出来上がってしまった。
結果からいえば皮肉にも戦いに負けたことで
持ってきた餌を撒き終えるとザリュースは村へ戻ることにした。
大きく育てば差し入れると兄に約束していたが、果たすのはまだしばらく先になりそうだ。内心謝りながら、渡すときにはどう伝えるかを考えてみる。兄嫁経由で渡しても構わないが、後で兄に小言を言われそうな気もするのでやはり本人に直接渡すべきだろうか。
難しい。思考をぐるぐる回しているともう村が見えてきた。
「……なんだ?」
様子がおかしい。村の入口付近に何人かが集まっており、皆一様に緊張していた。その中には雪のように白い肌を持つアルビノの姿もあった。
やや急ぎ足に近付くと、ザリュースに気付いた数名が道を開ける。
「ザリュース……」
不安そうな声を投げ掛けてきたのはクルシュ・ルールー。林から見えたアルビノの雌であり、
「何かあったのか?」
クルシュの前にいるのは虫とクリスタルを混ぜ合わせたような外見を持つ、冷気の武人コキュートスだ。最終的にザリュースを含む
それはそれとして、尋常ではない存在であることを身をもって知っていることもありコキュートスとクルシュのあいだを割るように位置取る。まだ拭いきれないかすかな警戒心を気取られないように細心の注意を払いながら。
コキュートスの腕四本に武器は握られておらず、周りには昆虫に似た姿や何だかよく分からない皺くちゃの姿をした者たちが控えている。彼らはコキュートスの部下であり、連絡やら雑用やらのために同行していた。
コキュートスほどの戦士ならば無手であってもその気になれば
つまりこれは敵意を持っていないことの意思表示だ。あるいは歯牙にもかけていないだけなのかも知れないが。
「要件ハ伝エタ」
タイミングがいいのか悪いのか、それだけ言うとコキュートスは背を向けて立ち去った。
「フーッ、緊張したわ……。早速その件で相談したいのだけど……ザリュース?」
「あ、ああ。構わない」
声を掛けられてハッとする。握った手の中にはじっとりとした感覚があった。
コキュートスの来訪は既に村の全員が知るところだった。そのためクルシュが召集を掛けた族長会は即座に開かれた。
列席しているのはクルシュ含む五部族の元族長、ザリュース、その兄シャースーリューの七名だ。
元々はシャースーリューが族長を務めていたが、戦死した際クルシュが
特にこの場にいるのは戦場でコキュートスの圧倒的な力と対峙し、その手に掛かった者たちだ。ザリュース同様のちに魔法によって復活している。クルシュの事情も理解しており、彼女を代表として立てることに異を唱える者はいない。
空気が重い。ナザリックが絡む以上、対応次第で
「さっきコキュートス様がいらっしゃっていたのはみなさんご存じでしょうから、用件をお伝えします。
思わずその場にいた全員の表情が歪んだ。同時に心のどこかでやはりと納得した部分もあった。
「それと、入れ替わりでこちらに常駐するシモベの方がお一人増えるそうです」
抜けた戦力の穴埋めということか。一体で戦士階級全員の働きができるものかと一喝したいところだが、そんなのがいてもおかしくない。というより実際にそれ以上だろうと思わされる存在を複数目撃しているのだから、一笑に付すことはできない。
「読まれているか。ならば、単純に頭数の話でどうにかならないか?」
「いや、召喚魔法などが使えるなら数の不利はある程度カバーできてしまう。その線も難しいだろう」
クルシュの使える中にも第三位階の召喚魔法がある。あれは一体を使役するものだが、ナザリックに属する超常の存在ならば複数体を同時に使役してもおかしくはない。
断るのに妥当と思われる理由が見付からない。残された者たちの不安を理由にしても機嫌を損ねるだけの可能性がある以上、実情のままに抗弁するのは最後の手段だ。それに連れて行かれる戦士たちがいつ、無事に戻ってくるかすらも分からない。最悪の事態を想定するなら、彼らが戻らないことを前提に様々な対応を考えざるを得ない。
どうあれ、如何なるケースと対応方法を想定してもリスクを完全に排除することはできない。会議の場は再び沈黙に包まれた。
「キュクー殿、何か良い知恵はないだろうか」
雪の様な白さを誇るその鎧は、現在身に着けられていない。
「……コキュートス様は何のために戦士を欲しておられるのだ? それが分かれば全部と言わずとも人数を絞ることはできないだろうか」
初めて会ったときの片言交じりではない、高い知性を感じさせる言葉だった。
復活した直後には呂律が回らないことはザリュースのときにクルシュをはじめ何人もが見ていた。五人の勇者たちを大儀式も用いずに死から引き戻した奇跡を目の当たりにしたときには度肝を抜かれたが、半時としないうちに二度目の奇跡と対面することになった。
キュクーもまた復活直後は意識がはっきりしていなかった。
族長たちが復活したとはいえ病み上がりと大差無い。代表というよく分からない立場ながらクルシュとしては無視することもできず、呼ばれるままに付いていった。そして小屋の中にいたのはかつての知性を取り戻したキュクーだった。
勇者蘇生と合わせて、聡慧で知られたキュクー・ズーズー復活の報は瞬く内に
鎧の効果によって知性を奪われていたものの記憶まで失くしたわけではない。元族長として、今後は代表たるクルシュを影ながら支える立場に回ることを改めて表明し、他の元族長たちもそれに同調した。以来、元他部族同士に摩擦が生じないように勝手の分からないクルシュを補佐して
その彼の意見を受けてクルシュは首を傾げる。
「あの、すみません。みなさんさっきから何を仰っているのでしょうか」
「?
「ええ。その通りです。それで、どなたにお願いしようかと……」
頬に手をあてたクルシュの態度は、何か知らずにまずいことを言ったのではないかと心配する、そんな佇まいだった。何度目かの沈黙。まず最初にキュクーが、次いでシャースーリューが鼻を鳴らす。不機嫌というほどではないものの、慌てふためいていた自分たちの無様さを紛らわせるためのものでもあった。
シャースーリューはザリュースに睨むような視線を飛ばす。目が語っていた。お前が指摘しろ、と。代表という重苦しい肩書きをクルシュに負わせるのは同族として、雄として忍びない。そこへ追い打ちを掛けるような真似はしたくないというのが全員の共通認識だった。
だが間違いを正さないわけにもいかない。貧乏くじを引かされるのは彼女と深い仲になっているザリュースということもまた、全員の共通認識だった。
観念したザリュースは少しばかり恨みがましい目で場を見回すが、誰も目を逸らして我関せずの意思表示。兄すらも例に漏れず完全な孤立を確信する。
兄嫁にこの話をしたらどうなるかななどと心にも無い冗談を内心に浮かべて溜飲を下げておくことにした。
「クルシュ」
「なぁに、ザリュース」
言いづらい。こうも純粋な眼差しを向けてくる彼女に間違いを指摘するのは、それ自体が忌避されるべき行為のような気がして。
「……ごほん」
「ハッ!」
兄の咳払いで我に返れば、真剣な面持ちで見つめ合う
「あー、クルシュ。コキュートス様が求めている戦士というのは……何人だ?」
「え? それはもちろんひと……ぁ、ごっ、ごめんなさい! 一人! 一人です! 選出は任せるから近接戦闘に優れている者に一人来てほしいそうです! あーもう、なんでわたしったらいつもこうなの……」
うっかりが多いのは否定できないが、基本的にクルシュは聡い。自分のミスに気がつくとほんのり桜色に染まる顔を隠すように丸みを帯びた両手でぺとりと挟む。その仕草が愛らしくて、ザリュースは他の者の意見を伺う振りをして無理やり視界から外した。
このままでは初めてクルシュと会ったときのように自制が効かなくなる。前歴があるために自分で自分が信用できなかった。
「まあ、それならそこまで心配には及ばんか」
残る問題は誰に行ってもらうかということだけだが、中途半端な者を送り込めば軽く見ていると取られかねない。少なくとも族長クラス、それも近接戦闘が得意な者となれば、シャースーリューのような
「とすると……ゼンベ」
「ザリュースだな」
「ザリュース」
「頼んだぞ」
傷だらけの巨体に、鍛え上げて異様に膨れ上がった右腕の持ち主。四至宝フロスト・ペインの力を借りず正面から戦えば勝敗の見えない相手。良きライバルにして戦友であるゼンベル・ググーの名を挙げようとしたザリュースの声は畳み掛けられた言葉に押し潰された。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。どうして満場一致なんだ。兄者、ゼンベルの強さは近くで見ていた兄者とてよく知っているだろう」
「もちろんだ、弟よ。だがお前の方がよく知っているのではないか? 想像してみろ。未知とはいえ
「……………………分かった。俺が行こう」
ゼンベルを信用しないわけではない。が、よくいえば豪放、その実は面倒臭がりで大雑把の極みともいうべき気分屋だ。果たしてどこで竜の逆鱗を撫でてくるか分からないような奴だ。単独で送り出すのはリスクが高過ぎるという結論に達したと同時に、ザリュースは覚悟を決めた。
誰が行くか決まったことをコキュートスの部下に伝えると、翌日には迎えが来た。
きれいにまとめられた艶のある黒髪、銀縁の顔飾り──眼鏡を着けた彼女はユリ・アルファと名乗った。
ザリュースは最初ユリを人間種だと思った。旅の道中で人間を見掛けたことがあり、彼女の身体的特徴はそれらによく似ていたからだ。
「本日はナザリック地下大墳墓への道案内を務めさせていただきます」
ナザリックという単語を聞いてハッとなった。彼女もまたコキュートスと同じく、あの凄まじい存在に仕える者である。見た目の印象を頼りにしてはいけない。
ナザリックの組織全体はまだまだ謎に包まれているところが多い。ほんのわずかの油断から生じた
「お手間を掛けていただき、ありがとうございます」
「そう過剰にかしこまる必要はありません。早速出発致しましょう」
ザリュースの首肯を確認するとユリは歩きだす。
できれば
「ナザリックまではおおよそ三時間ほどです。休憩を挟んでも問題ありませんので、道中疲れたら言ってください」
「お気遣いいただきありがとうございます。お……私は大丈夫ですので、ユリ様にお任せします」
「そうですか……では少しペースを上げましょうか」
先を行くユリは悪路をものともせず、滑らかに、緩やかにスピードを上げた。足取りに迷いは無く、軽やかだ。
ナザリックのメイドが身に着けている服は全て魔法による保護が掛かっている。そのためどんなところを掃除しようともメイド服自体が汚れることはない。それはユリたち
それでもユリはなるべく水気のあるところを避けていた。傍目には分からない絶妙な体重移動によって泥跳ねも最低限に抑える。それは同時にすぐ後ろを付いてくる
トブの大森林は妹のシズがアウラとの共同作戦の現場としていたため地理はあらかじめ聞いておくことができた。特に
これまでの調査でナザリックに最も近い人間のコミュニティはカルネ村であることが判明している。その次に近いのは都市エ・ランテルだが、カルネ村からは人の足で半日はたっぷり掛かる距離がある。
そのカルネ村もトブの大森林側から行けばナザリックのさらに向こうに位置している。
森の賢王、
日中であっても開拓の手が入っていない森は樹木も下草も伸び放題だ。そのせいで開けた場所と比べて明るさの落差が激しい。
もっとも、そんなことはユリにとって何の問題も無い。銀縁の眼鏡もレンズの入っていない単なるアクセサリーであり視力が低いわけではないのだ。
鬱蒼とした林の中には朽ちた倒木が多く見られ、散った落ち葉によって地面のほとんどが覆い隠されている。
川辺から離れたことに加えて柔らかな土が音を吸収しているのか、薄ら闇は意外なくらい静かで、目立つのは二人の足がかき分ける落ち葉の擦れ合う音くらいのものだ。
「ザリュースさん、あなたはナザリックのことをどれほどご存知でしょうか」
「は……。我々の遥か及ばぬ強さであるコキュートス様、あの方が
コキュートスがナザリックで突出した存在だとは考えていない。アンデッドの軍勢を
いや、初めからあの少女にとっては本当に何一つ大したことではなかった。敵とすら認識していないのであればありもしない殺気が漏れるはずもない。
「ああ、それはシャルティア様ですね。コキュートス様と同じく階層守護者の方です」
「なるほど、道理で……」
正直力の差があり過ぎて、シャルティアとコキュートスのどちらが強いかさえザリュースには測れなかった。かといって面と向かって聞くには角の立つ質問だ。危険を感じる話題には触れないことにした。
「簡単にではありますが、ナザリックの組織についてご説明しておきます」
村からザリュースの言動を見ている限りではまず大丈夫だと思うが、ユリは念には念を押しておく。
外部の戦士を迎えに行くと聞いたとき、頭に
そこまで酷いことにはならないだろうが、やはり最低限の教育というものは必要だ。
さすがに宝物殿などの情報は伝えられないので、取り急ぎ至高の御方々のことと一部を除いた階層守護者のことを説明しておく。とりあえずこれだけ心得ておけば出会い頭の事故は起きないだろうという程度だが。
「見えました。あれです」
ユリの指差した先には小高い丘が密集していた。マーレの施した偽装のため、地表部の外壁はすべて土によって隠蔽されている。
乱雑に荒れた様相を呈している墓地を抜けていくと、朽ちた神殿に到着する。石で作り上げられたその建築技術は
第一階層と説明されたエリアにはところどころに
いくつかの転移門を経由すると、ザリュースの全身を冷気が襲った。
「これは……!?」
不可思議だった。その名の通り、ナザリックは地下へ広がる階層構造だと聞いている。にもかかわらず舞い乱れる吹雪はとても地下の光景とは思えない。鱗の隙間から染み込むような冷たさは、冬場にアゼルリシア山脈から吹き下ろす雪風に勝るとも劣らない。フロスト・ペインによる加護が無ければ身を震わせていただろう。
撫で付けられる
だいいち、大いなる存在は天候すらも容易く変えて見せたのだ。今更何を驚くというのか、自嘲の気持ちから口角がわずかに上がった。
「ここは第五階層、あなたたち
ユリが指差した先、吹雪のカーテンの奥に浮かぶシルエット。そこには逆さまにした蜂の巣状の大半球があった。何かと接点の多いコキュートスに関することであれば、情報を知っていて損は無い。出来得ることならばもっと細かく観察したいところだが、一切衰えることのない風雪がそれを許してはくれなかった。再び白に包まれた半球がその輪郭を朧にする。
次の転移門をくぐった先は、第五階層とのギャップのせいかじんわりとした暖気に包まれている気がした。薄っすら漂う土と植物の匂いは馴染み深いものだ。
等間隔に灯りが配置された通路を抜けると、楕円形の広場に出る。足元はやや乾いた土であり、広場の外周は容易には乗り越えられないくらいの壁に囲われている。
そこへ土煙を上げながら近付いてくる者がいた。
「ユリ、戻ったの? ああ、そっちが例の」
長く尖った耳、浅黒い肌に宝石のような緑と青のオッドアイ。白地のジャケットの下には赤鱗のインナー。胸元には首から提げた金色のドングリが揺れている。
この
「あたしはアウラ・ベラ・フィオーラ。この第六階層守護者のひとりだよ。よろしくね」
「私はザリュース・シャシャといいます。そうか、ただ者ではないと思っていたが……」
自己完結で納得しているザリュースを前にアウラは首を傾げるが、
「そういえばあのときにいたね。じゃあマーレも見てるかな」
「アウラ様」
「あー、そっちかぁ。じゃあ細かいことは後でいいや」
気の置けない相手であるユリがかしこまった言葉遣いをする。それは友人としてではなくナザリックのメイドとしていまそこにいるのだという彼女の自己主張のひとつだ。
「そうしていただけると助かります」
「いいよいいよ。至高の御方々をお待たせするわけにはいかないもんね」
ザリュースは初めてナザリックを訪れた
灼熱の第七階層を経て、ついにザリュースはナザリックの深部たる第九階層へと足を踏み入れる。地上から通ってきた階層とは明らかに異質、荘厳でありながら絢爛な、まさしく人智の及ばない神域に迷い込んだのではないかと錯覚してしまう圧倒的な雰囲気があった。
それがどうだ、このナザリックはスケールから建材から装飾に至るまでが極めて高い技術によって作られている。
コツリと硬い感触が足の裏から返ってくる。視線を少し落とすと、床は澄んだ湖と見紛うほど削り磨き上げられた石で仕上げられていた。爪で引っ掻いて傷を付けてしまわないか一瞬心配になるが、爪を接地させずに歩行するのは中々難しいうえにヒョコヒョコと珍妙な動きになるのは確実だ。覚悟を決めて堂々と歩くことにした。
内部構造を全く知る由も無いザリュースは、ユリの歩むままに後ろを付いていくことしかできない。通路が放つ
「ユリさ……うぇ!?」
「ちょっと、あれなによ」
「ほら最近コキュートス様が」
どうやら声は通路の先の角あたりから聞こえる。つい反応して鼻先をそちらへ向けた。
は視野が広い半面、両目で立体的に知覚できる角度がやや狭い。距離を掴もうとするとどうしてもこのような振る舞いになってしまう。「きゃっ」「こっち見た~」などあまり緊張感のない言葉が飛び出す。場にそぐわないような印象を受けてザリュースは少し困惑する。だが同時に似たような経験は過去にあった。どこの誰であっても外から来たものは異物なのだ。
「やはり、私などが立ち入ってよい場所では」
「……あの子たちには後で言っておきます。あなたたちを支配下に置くのは至高の御方々の決定。それに反する者などナザリックにはいません」
賓客であれば話は別だが、所詮シモベのひとりという扱いの
咎めるような視線だけを向けると真剣な雰囲気を感じ取ったのか慌ただしそうにメイドたちはそれぞれの仕事に戻る。一般メイドの主な仕事がこの第九階層に多くあることを考えると逐一注意をするのも効率が悪い。気にしないことにしてユリは第十階層へと続く大階段へ向かった。
大きな半球状のドーム。
「この奥が玉座の間です」
ここまで案内を務めてきたユリに感謝の言葉を伝える。キャパシティオーバーでパンクしそうな思考がまだ一応の平常を保っていられるのは、ここに至るまでの道すがら彼女との会話で緊張がほぐれていた部分が大きい。仮にだが、そんなことはあり得ないがコキュートスに案内されていたら緊張のあまりこの場に己の足で立てていたかすら危うい。いやしくも村一番の戦士として呼ばれた者の考えとしてはあまりに弱気で自嘲の笑いがこみ上げるが、コキュートスと対峙した者たちならば似た感想を抱くだろうと確信があった。
そしてついにナザリック地下大墳墓の最奥へと足を踏み入れる。澄んだ水底を逆さまにしたような深い天井と、煌めきと淡さを
「ソコデ止マレ」
コヒュー、と冷気を薄っすら吐き出しながら発された警告じみた声にザリュースは聞き覚えがあった。決して存在を認識していなかったわけではないが、玉座の主に圧倒されるあまり注意が向いていなかったのは否めない。
足を止めたザリュースは自分自身でも不思議なほど自然に
◆
詳細な説明も受けないまま玉座の間で待っていたアインズは、ザリュースを見ながら考え事をしていた。彼を含めて五人の
だが結果的に奇蹟をも操る死の化身として、アインズは
(いまは支配してからそう年月も経っていない。こちらが彼らを無闇に害する意思が無いと実証されれば多少マシにはなるだろう)
聖殿に自分とぶくぶく茶釜の像が設置されて、あまつさえ日々供え物をされて拝まれていると聞いたときにはあまりの気恥ずかしさに精神の平静化が発動してしまった。しかもこの建造は
今回ザリュースが来たのはコキュートスの呼び出しを受けてのもの。日程はあらかじめ伝えられていたため、エ・ランテルで『漆黒』として受けている依頼をルプスレギナに任せてナザリックへ転移による一時帰還をしていた。
「アインズ様、オ待タセシマシタ」
「うむ。面を上げよ。ザリュース……だったか?」
「はっ! お見知りおきいただき光栄です。ザリュース・シャシャ、お呼びにより参上致しました!」
「くるしゅうない、なんてね。えーっと、てゆーか呼んだのはコキュートスだよね?」
緩い緊張が支配する空間で、一際砕けたノリの話し方。だがそれを注意する者はいない。何故なら彼女もまた、このナザリックの頂点の座に立つ存在の一人だからだ。一度目にしていることもあり、ぬめぬめした肉塊が喋っていることなどについてザリュースに驚きは無い。
「ソノ通リデゴザイマス。ぶくぶく茶釜様。コノ者ハ
「ふむ、武技の件か……」
武技については冒険者として耳に入る情報にも意識を向けていたが、いま一つ習得の条件が見えてこなかった。<能力向上>などは人並み以上の戦士ならば比較的メジャーなものだが、一方で中にはオリジナルの武技というものも存在するらしく、分類としては
だとすると検証という観点から人間種ではない
武技の研究も大事だが、目を見張るのはコキュートスの成長ぶりだ。戦闘という得意な分野の絡むことも無関係ではないのだろうが、自発的にここまで考えて行動を起こすのは素晴らしいという外はない。誉めそやしたい気持ちが湧いてくるが、彼からすればいまだ結果は出ておらず道半ばなのだ。それならささやかな協力程度に留めておくべきだ。下手にプレッシャーが掛かってしまうのは良くない。
「検証するならば選択肢はあった方がよかろう。共通倉庫に保管されている武器防具のうち
「アインズ様よろしいのですか? あれらは至高の四十一人によって集められた品々。やすやすと下賜されては……」
「勘違いするな、アルベド。あくまで検証のために貸すだけだ。持ち出した装備品の管理はコキュートスに任せる。ナザリックから外に出さなければ何の問題も無い。まあ、あそこに放り込まれているアイテムごときその気になればいくらでも作れる。そう敏感になることもあるまい」
資源がもったいないからやらないとは言いにくい。
「アリガトウゴザイマス!」
「他には無いか? ……以上だな。では私はエ・ランテルへ戻る。茶釜さん、一応アウラたちには説明しておいてもらえますか」
「はいよ」
玉座の間から転移によってアインズは姿を消す。頭をなるべく動かさないようにザリュースは周囲を見渡すが、予想通りその姿は無い。つまり全く未知の方法によって転移したのだ。高位の魔法という線が本命だが、計り知れない力を目の当たりにしたことで弛みつつあった意識を再度引き締める。
「じゃあ私は第六階層に……って、通ってきたよね。アウラとマーレには会ったかな」
「ハッ。ユリ様にご案内いただく道中、第六階層にてアウラ様にはお会い致しました」
「マーレはいなかったかー。えーと、アルベド知ってる?」
「はい。この時間ですと、定期の外壁偽装の点検のため地表部へ出ております」
「なるほどね。了解ー」
至高の御方々二人が転移したあと、ザリュースは立ち上がってよいものかしばし考える。すると布が風にはためくような音が聞こえた。その正体は玉座の側に控えていた長い黒髪を持つ守護者統括アルベド。その腰から生えた黒翼が上下する音だった。
「流石はアインズ様だわ。コキュートスの考えはお見通しというわけね」
「全クダ。両者ノ力量差ヲ埋メルタメニアノヨウナ方法ヲ提案ナサルトハ……」
ザリュースを呼んだのはブレインの修行相手のレパートリーを増やすと同時に、
問題だったのは
アインズの提案した装備品貸出はそれらの問題を一挙に解決する。まず
シモベの考えを完全に看破し、かつ
「アルベド、私ハ第六階層ヘ向カウ。ザリュース、付イテクルガイイ」
「はっ!」
自分以外誰もいなくなった玉座の間で、ひとしきり余韻を楽しんだアルベドは思い出したようにペストーニャに連絡を取り、第六階層へ向かうよう指示をした。
アニメ2期放送直前にこの番外編を書いたのは偶然だったのですが、
どうせならとちょっと予定繰り上げて投稿することに。
クルシュ書いてると恋する乙女は種族関係無く可愛いと思えてきました。
ガガーランも誰かに恋したら可愛く見えるようになるのでしょうか。
2018/1/10 ユリのセリフを修正しました。
2018/11/10 行間を調整しました。