漆黒のモモンと王国戦士長ガゼフが共闘。
突如昼日中と勘違いする程の光量で王都を照らし出した炎柱の出現。人々の多くは逃げ惑い、暴動もかくやの勢いで王城へ殺到している。中心部に近い人家は召喚された悪魔に気付いて動けないのか対照的に大人しい。
炎、街、人、城、闇、雲、月、星。この手の平に乗せることすら叶わないものがいまは瞳の中に全てある。それらはいずれ真なる支配者への供物となる。そのときあの御方は何と言葉を掛けてくださるのだろう。「よくやったぞ」それとも「流石は私の◯◯だ」だろうか。いつになるのか見当もつかない未来の妄想をして悦に入る。問題は無い。何故なら自分と
デミウルゴス扮するヤルダバオトとのチュートリアル的な戦闘を消化した後、シャルティアは元々予定していた八本指の拠点襲撃が滞り無く済んでいるかを確認するため屋根伝いに王都内を回っていた。
懐から四つ折りにされた一枚の紙を取り出し開く。描かれていたのは地図だ。丸や三角四角といった簡素な図形で構成されており、いくつかの赤い点が打たれていた。
「ん〜? こう……こうでありんすか? う〜ん」
両手でハンドルのように持った地図をゆらゆらと傾ける。どうもうまく落ち着かない。セバスが入手してデミウルゴスがピックアップしたものなので間違っているというのは考えにくく、元々の精度が大して高くないのだろう。
そろそろイラついてきた。
「ふぬぬぬ……!」
「ここにいましたか、シャルティ……何かありましたか?」
「ま、まさか! ア、アインズ様にお会いしたら、何の問題も無いと伝えてくんなまし!」
背後に足音ひとつ立てずに現れたのは白髪と白髭をたくわえダークスーツに身を包むナザリックの家令、セバス・チャン。シャルティアと同じく屋根を飛び渡りながらここまで来たはずだが、
セバスには目もくれず地図を相手に頭をひねっているシャルティア。見るに見かねて横から手を伸ばす。
「あ?」
するりと手から抜き取られた地図が180度向きを変えて戻される。
「失礼。逆さまです」
「あ、ああー。どうりでうまく合いんせんはずでありんす。地図なんて使ったことがありんせんでありんすからねぇ」
階層守護者の役目はナザリック地下大墳墓を防衛することなのだから、地図の必要性が無かった。自分の守護階層は言うに及ばず、他の階層へ足を運んだとしてもその辺りを見れば何かしらのシモベがいるのだから、行きたい場所や探している相手を聞けば済む話だ。
仮に地図が読めたところでナザリック内においてそれが役立つ機会は無いだろう。
「任務の進み具合はいかがでしょうか」
「そう言うセバスは……って、ここにいるってことは、もう終わったのでありんすね」
「ええ」
八本指の拠点で別れてから経過した時間はセバスが殲滅を完了するのに充分過ぎる。セバスが嘘を言う必要も無ければ疑う必要も無い。
地図をぼんやりと眺めながら、眷属へと伸びる糸のような感覚を辿る。感じた場所は炎陣の中心からややズレた位置だ。微妙に移動して留まっていないのは予定通りに事態が進行しているということだ。
「もうちょっとかかりそうでありんすねぇ」
地図上で眷属がいる辺りに指を置く。その近くには赤いバツ印があり、そこは炎陣の中心と一致していた。
「それはいったい?」
「移動しんす。セバスも任務が済んだなら付いてくればいいわ。きっと面白いものが見れるでありんす」
返事を待たずにシャルティアは地図を懐へしまい込み、ひとっ飛びに隣の屋根へ移動した。
城壁に囲まれた王都内は住居が所狭しと建ち並び、農地やらは郊外に作られていた。そのため階層守護者の身体能力をもってすれば、屋根伝いの移動に不便は無い。中心部に近付くにつれて、避難する人間たちや悪魔系のモンスターと押しつ押されつの戦闘を繰り広げている冒険者たちが目に入った。武装した人間の何人かは命にかかわる深手を負っている者もいたが、非武装である一般人の死体などは見当たらない。これは至高の御方の指示で、覚悟も無い者に理不尽な死をばら撒くことを禁止したためだ。
ヤルダバオトの脅威度を手っ取り早く上げるなら、広く深く壊して殺して爪痕を残せば簡単なのだ。だがそれをするとただでさえ貧弱な王国の生産力をさらに落とすこととなり、同じやるなら労働に影響の無い人間に的を絞らなければ国力の低下に繋がってしまう。だがモンスターが足並み揃えてそんな行動をするのはあまりにも不自然だ。
冒険者はその職業柄命の危険が伴うのはある程度仕方の無いことであり、覚悟のある者たちだ。いや、正確に言えば覚悟を持つべき者たちだ。実際には考えの浅さのためや自信過剰のために自分に死が降りかかるとは夢にも思っていない者はいくらでもいる。
過酷な環境であればあるほどマクロな視点で見たときのルールは簡素になっていく。究極的に言えば弱い者が死に、強い者が生き残る。
冷たい地べたに転がり、命の火が吹き消えようとしている彼らは結果論として弱者だったということだ。
淘汰は単なる自然現象、大きなサイクルの中の仕組みのひとつでしかない。
セバスはなるべく下を見ない。周りの状況は鋭敏な感覚で不自由なく把握することができる。そして見知らぬ人間の死に感傷を持つことはいまやるべきことではないからだ。
「ちょうどいい頃でありんす」
足を止めた場所から見下ろすと、大通りにちかちかと散発的な炎が上がり、影絵のように赤と黒のコントラストが走った。その一瞬でもセバスの目には充分状況が捉えられたが、種族特性により
「あれは、デミ────いえ、いまはヤルダバオトでしたか。彼と冒険者たちのようですね」
「うーん……なんだか拍子抜けでありんす」
セバスは頭に疑問符を浮かべる。デミウルゴスは至高の御方々を別にすればナザリックにおいて三指に入る頭脳の持ち主であり、狡知に長けた策士でもある。個人的な感情としてはあまり褒める気にならないのだが、実に老獪に人の感情と精神を掴み操るのだ。
そんな彼が大々的な舞台を使って書いたシナリオだ。裏の裏の裏まで常人には予想すらつかない展開が待っていても不思議ではない。
てっきりシャルティアが楽しみにしていたのはそういった妙かと思ったのたが、どうやら違うらしい。
「はあーぁ、デミウルゴスのことだから
本当にがっかりだという調子で深いため息をついた。
「面白いものというのは……」
「決まっていんす。絶望に沈みながら死んでいく人間はいつ見ても最高のオモチャでありんす。特にデミウルゴスならわたしの思い付かない見事な壊し方を見せてくれると思いんしたが……はぁ」
ナザリックのシモベは悪の属性寄りの者が大半で、セバスやユリなど善に傾いた者は少数派なのだ。そしてシャルティアとデミウルゴスは守護者の中でも大きく悪の属性に振れている。
他に肩を並べるとしたら守護者統括のアルベドくらいのものだ。
セバスが罪も無き人々を救えるならば救いたい、そうせずにはいられないのと同じで、彼女たちもまた理由無く人間を嗜虐することを運命付けられている。
だがセバスがデミウルゴスと反りが悪いのは、それが主たる理由ではない。ナザリックの者同士で不和を生んでまで外部の者を助けるのは間違っている。意見や考え方の違いからしばしば衝突しても、デミウルゴスやシャルティアもセバスからすれば至高の御方によって創造された大切な仲間だ。
行為そのものに眉を顰めようとも、成したことが悪か善かをその者の価値を測る物差しにはしていない。
道端の蟻を避けて進むか、わざわざ殺してパニックを起こす姿が面白いなどと笑うかの違いでしかない。
またもデミウルゴスの放った炎が上昇気流にも近い熱風を辺りに撒き散らす。距離がある程度離れていることもあるが、シャルティアとセバスにとってはそよ風も同然である。
ヤルダバオトと対峙しているのは大柄でセバスより体格の良い、筋肉の付き方からすると女の戦士。その周りを飛び回っている容姿の似た二人を見たセバスはやや目を細めて警戒する。炎に合わせて水を喚び出す術を使い、威力を軽減させている彼女たちはレベル60を超えるとされる忍者そのものだ。
忍者の術は魔法と違い見掛けによる位階や威力判別はほぼ不可能だ。つまり炎を消し切れていないためどう見ても低威力なあの術は、本当の実力を隠すための欺瞞かも知れない。
いいや、とかぶりを振る。彼女たちはアダマンタイト級冒険者、蒼の薔薇。収集した情報の中にその功績などもあったが、警戒を要するほどの高レベルと思える根拠は見当たらなかった。
盾役が緋色のローブを纏った小柄な
もっとも、それはまともに戦える相手の場合の話。ヤルダバオトの片翼がひと薙ぎすると水晶の盾は薄氷同然に砕け散った。その勢いで尻餅をついたイビルアイの肩には黒羽が突き立っている。同じものが全身を撫で掠めたことでローブはボロ布同然に斬り裂かれていた。
もう片方の翼が一閃。針の穴を通す正確さでイビルアイの華奢な両足を撃ち抜いた。
あれでは逃げられない。身を躱すことさえも。
「もう見どころも無さそうだし、わたしはそろそろ行きんす。セバスは?」
「私は、ここで最後まで……」
「手を出したらいけんせんえ?」
わずかに口角を上げながらも、刺すような視線と確かな殺気。一度は裏切りの内部告発さえ受けたのだからシャルティアの警戒も無理はない。至高の御方々を失望させる行為がこれ以上あってはならないのだ。
「もちろんです。ただ、現場を見ている者は多い方がよろしいかと思っただけです」
じくじくとした圧力を柳のしなやかさで受け流す。元より至高の御方々を裏切るつもりなど無いのだから、いまの意見も裏表の無い本心だ。作戦の後半に組み込まれていないので横から口を差し挟む気も無い。
感情の篭っていない目を向けていたシャルティアは追及するのも無意味と判断したか「ふーん、まあいいわ」とだけ言い残していった。
頬を逆撫でする熱気にセバスは視線を再び落とす。
ヤルダバオトの両手を炎の大玉が包む。直接叩き込まれれば
作戦はいよいよ次のフェイズに入る。真打ちの登場をセバスは待った。
◆
「ちいいっ!」
石畳に上がる火柱を避ける。隙あらば叩き込んでやろうと肩に担いだ
「≪クリスタル・ウォール/水晶防壁≫!」
イビルアイが手をかざした延長上、魔法で作られた水晶の壁が瞬時に立ち上がる。その影に転がりこむガガーラン。周りを炎の奔流が駆け抜けていった。
「かぁー……やっぱ正面からだと厳しいな」
「泣き言を言っても始まらん。奇襲が失敗した以上このままなんとかするしかないだろう」
魔将の足止めに残ったモモンと別れたあと、中心部を目指した一行は途中で悪魔の群れに囲まれた。特殊な能力も持たず難度も30程度のモンスターだったので危険は無かったが、散らして突破するのに多少の消耗は避けられなかった。
そこへヤルダバオトが現れた。
部下であるはずのモンスターたちは巻き添えを恐れてか怯えた様子で一目散に逃げ出し、いまは
いかにも近接攻撃が脅威になりそうなガガーランを前面に出し、プレッシャーを与えながら戦線を押し込む。
ヤルダバオトもその例に漏れず、脇道に逸れることなく広場付近までうまく誘導することができた。
ただ、得意ではないにしても高い身体能力には油断できない。腕を変化させた能力についても未知数のままだ。
正面から相対してしまった以上、包囲展開できそうな広場まで移動して一気に叩くしかない。
「広場付近の避難完了」
「怪我人などはおりませんでした」
平面の影から出てきたのはティアとクライム。影を移動する能力を使って避難誘導をしていたのだ。ヤルダバオトを広場へ押し込むスピードが遅かったため、結果的に避難誘導は滞り無く進んだ。最も危険と思われたクライムの任務は、これで無事果たされたことになる。
「一緒に避難すればよかったのに」
「そういうわけには参りません。お力にはなれませんが、皆さんの勇姿を目に焼き付けさせていただきます」
「言うじゃねえか童貞! 帰ったら一発やるか?」
「軽口叩いてる暇があったらそろそろ追い込むわよ。クライム、私の後ろへ下がっておいて。狙われると危ないから直線上は
クライムは頷いてラキュースから数歩離れる。以前なら盾や囮を買って出たかもしれないが、ラナーとの誓いが考え方に変化をもたらしていた。
与えられた役割は終わった。ならあとは決戦組の勝利を信じるだけだ。願わくば全てが片付いた後、またラナーを楽しませることができるように目の前の攻防をより鮮明に記憶しておく。それが自分の決して到達し得ない高みをまざまざと見せ付けられることだとしても、力を求めることで主人に涙を流させるのに比べればこの湧き上がる心のざわめきなど些末なことだ。それが従者たるクライムの決意だった。
「「大瀑布の術!」」
大量の水を喚び出す忍術。対応力が高いイビルアイの魔力消耗を軽減するため、ティアとティナが迫りくる火球へ抵抗する。しかし元より忍者は防御に長けた
ぶつかった火球の高熱により水は一瞬のうちに蒸発し、水蒸気へと変わる。それでもなお相殺し切れずにふた回り小さくなった炎の塊がティナとティアを焼く。
「くうっ!」
「かっ……!」
火球の威力が幾分が減衰されていたため彼女たちを包んだ炎は数秒で掻き消えたが、すぐには立ち上がれないほど刻まれたダメージは大きい。
「ティア、ティナ!」
「前に出るなラキュース! 私が壁を作る、そのあいだに二人の回復を! ガガーラン、合わせろ!」
「っしゃあ!」
近接戦闘の
(くそっ、せめて手数がもう一つあれば。彼が魔将を抑えなければならなかった以上どうしようもないが……)
後方ではラキュースに代わって『漆黒』のレジーナが治癒魔法を使っている。≪ファイヤー・ボール/火球≫を使えるため決して戦闘能力は低くないはずだが、慣れているわけでもない蒼の薔薇との連携は難しいため回復役に徹していた。
≪クリスタル・ウォール/水晶防壁≫を発動させ、さらに接近を図る。多少受け止めても後方へ流れる炎までは止められない。精々少し軌道を外らす程度だ。そのため防壁はできるだけ前方に作り、ラキュースたち後方との距離を確保する必要があった。
周りの家屋への延焼は避けられないが、それを気にするだけの余裕がある相手ではない。
「またですか? そろそろその手も飽きてきました」
炎によるものではない一筋の疾風が、熱気を払いのけてローブを強くはためかせた。同時に硬質な音を伴って目の前の水晶壁が粉々に砕け散る。煌めく破片は魔力のまとまりが無くなったことで光の粒子となり消えていった。
黒い何かが視界を覆い、周りを通り過ぎていく。一瞬のことが数十秒にも感じられる中で、右肩に熱いものが突き刺さる。勢いに押されてイビルアイは尻餅をついた。
「ぐっ……これは、黒い……羽?」
肩に深々と刺さっていたのはヤルダバオトが打ち出した黒翼の一部。そこらの鎧には負けないはずの防御力を誇るローブは他にもクリーンヒットしなかった羽に斬りきざまれ、もはや防具どころか衣服としての機能すら怪しくなっていた。
「その通り。正解した方には賞品を差し上げましょう」
言い放った瞬間、イビルアイの両足に鋭い痛みが炸裂する。神速で撃ち出された黒い羽は足の甲をブーツごと貫通し、硬い石畳にがっちりと縫い留めていた。
「ぃぎっ! くぁ、ああ!」
「足りませんね。やはり肉体の痛みは個人差があり過ぎる。目の前で仲間がゴミのように黒焦げにされれば少しはマシな嘆きを聴かせていただけますか?」
鷹揚に広げた両手に、血と闇を練ったような種火が宿る。腹に響く破裂音とともに、渦巻く炎がヤルダバオトの腕先を包んだ。
「やらせるかよ!」
「邪魔です」
さっきまでとは明らかに異質な、問答無用で死の予感を押し付けられる炎を前にガガーランは飛び出した。強者は恐怖を知っている。それでもなお前に踏み出せる勇気を持つ者。ラナーが激励した通りに、ガガーランは紛れも無い勇者だった。
だが、勇気とは身もふたもない言い方をしてしまえば考え方であり精神論だ。決して諦めることのない前向きなド根性である。踏み出す舞台や幅が個々人によって違うだけで、必ずしも肉体的な強さを伴うわけではない。
世界の
ヤルダバオトが背を向ける。その動きは視認阻害の魔法をかけられたかと思うほど速過ぎた。次の「何故?」に思考が至る前に全身へ凄まじい衝撃が走った。一瞬で薄れた意識に辛うじて分かったのは、へし折れた腕ごと脇腹から鎧が破壊される感覚。
認識すら許さない速度で叩きつけられた銀色の尻尾に吹っ飛ばされた巨体は家屋の壁を破壊して動かなくなった。
精神論では永遠に埋めることのできない絶対的な力の差がそこにはあった。
「ガガーラン! き、貴様……!」
「おや、違うでしょう。そこはもっと悲嘆に暮れる場面ですよ。やはり目の前でどなたかに犠牲になっていただきましょうか」
一歩前へ出たヤルダバオトから立ち昇る違和感。意識の向いている先はイビルアイではない。
「お、おい、やめろ。わた、私はまだ戦えるんだぞ……!」
「ほう、いいですね。さっきまでとはまるで別人だ」
本当に楽しそうな調子の言葉には紛うことなき喜悦の感情。悪魔のようななどと称される人間は過去目にしたこともあるが、本物の悪魔と比べればよほど善良だ。
「もう終わりかと思うと残念でなりませんね。ああ、気を失っているあちらの方もすぐに後を追わせて差し上げますのでご安心ください」
悪魔の持つ悪意に理由など無い。だからこそ、自然発生的な欲求を止める理由も無いのだろう。
お互いがお互いにとってズレた価値観を持っていて、さらには相互理解などという概念でカバーできない断絶が横たえているのなら、両者の接点には争いしか生まれない。
下半身を痺れさせる激痛は、さらなる痛みの予感で鈍痛へと変わる。
神殿勢力を動かせば死からの復活は可能だ。だが、ここで切り札のひとつであるラキュースを失えばヤルダバオトの撃退は限り無く不可能になる。まともな抵抗力を喪失した王都がどのように蹂躙されるのかなど考えたくもない。
残された希望は連絡を取っているアダマンタイト級冒険者チーム朱の雫だが、彼らはここまでの惨状をまだ知らない。そもそも到着する頃には王都が死都と化していても不思議ではない。
(身を挺してでもラキュースを守らなければいけないのに。ダメだ、諦めるな!)
突き刺さった黒い羽に手を伸ばす。細かな
「ぐっ! ゔ、ゔゔ〜!」
もはや足先の感覚は半分麻痺していた。痛みを感じにくいとはいえ、これほど深い傷であればさすがに
ヤルダバオトは撃ってこない。仮面の下には残忍な笑顔を浮かべているのが容易に想像できた。防御が間に合わないタイミングを狙っているのか、あるいはまとめて焼き殺すつもりなのか。どちらにしてもイビルアイの進む先には絶望しか待っていない。
それでも止まってしまえば確実な死以外の結末は無い。一
頭の根っこでは理解している。仮に間に合ったとして、残されたラキュースと満身創痍のティアとティナ、強さは平凡の上程度のクライム。そして『漆黒』のレジーナというメンバーで魔神をも凌駕するヤルダバオトになんの対処ができるというのか。
チームの能力はよく分かっているつもりだ。クライムもガガーランがちょこちょこ世話を焼いているおかげで、興味は無くとも大体の予想はつく。
唯一不明瞭なのは赤髪の
得意の水晶魔法も高い魔法抵抗力を有する障壁を打ち破ることさえできなかった。
抵抗突破を強化した魔法さえ無効化されるのなら、
もはや自分が一切制御できない事態を前に、イビルアイは仮面の下に滲み出す涙を抑えることができなかった。どうしてこんなことになってしまったのか。自分の入る墓穴を掘らされている気分だった。
(私は、弱くなったな……)
最期は、せめていままで世話になった仲間たちの顔を心に焼き付けて逝きたい。かつての自分からは考えられない感情だ。普段仲間に言われれば怒って誤魔化してしまいそうだが、死を突き付けられたせいか羞恥心は無い。その気持ちを自然に受け入れることができた。
(すまないな、ガガーラン。まさか私が先とはな)
いずれ避けられない別れは、頭の片隅に蓋をしていた。送る側と送られる側が逆になるとは思っていなかった。それも、わずかな時間の違いでしかないのかも知れないが。せめて一瞬でもいい。自分が盾になることでラキュースたちが逃げるチャンスが生まれるなら。
ヤルダバオトが目当ての
「ヤルダバオト! 貴様の力はそんなものか!? 私のような小娘ひとり焼き殺せぬとは、魔神に匹敵すると思ったのは買いかぶりだったか!」
「……安い挑発ですが、乗ってあげましょう。これが最後ですよ?」
次の最大級の一撃に、イビルアイは耐えられないだろう。死体すら残るかも怪しいところだ。だがそれも覚悟のうえで
「≪フライ/飛行≫!」
間髪入れずに発動させた最期の魔法。足の感覚が無くとも、これなら移動できる。ヤルダバオトとラキュースの射線上に身を躍らせた。
「…………ぇ」
断末魔をも焼き尽くす炎がその身に襲い掛かることはなかった。炎の熱気とは違う風圧が周囲を鋭く駆け抜ける。
「またですか……。貴女と戦うつもりは無いと言ったはずですがね」
「好き勝手に暴れておいてよく言いんす。これはおしおきが必要でありんすね」
身長はイビルアイと同程度、腰まで流れる金髪と純白のドレスに身を包んだ少女は誰が見ても恐ろしいと一目で分かる悪魔を前に堂々と立ち塞がっていた。
◆
(やれやれ、やっと来ましたか)
デミウルゴスは仮面の下で安堵の一息をつく。手加減していたものの、貧弱な人間たちの体力はたちまち無くなってしまった。あまりに攻撃しなさ過ぎると余計な疑念を抱かせるため、魔法も
変装したシャルティアが襲い掛かってくる。とはいっても攻撃手段は爪くらいのもので、魔法や
(ルプスレギナは……ちゃんと低位の治癒魔法を使っているようですね)
人間社会においては人間の冒険者レジーナという立場だ。至高の御方の従者として侮られない程度に力の誇示は必要だが、周囲から見て突出し過ぎるのはよくない。どうやらその辺りはうまく対応できているらしい。
「がっ……は!」
重く響いた衝撃。よそ見をしていた隙にシャルティアの拳が胸元へ叩き込まれていた。圧迫された肺から強制的に空気が押し出される。魔法やらを禁止する代わりに素手の攻撃は多少強めに振るってもいいと伝えていたのが裏目に出たか。だがそこは猪突猛進な彼女をうまく捌いてこその知恵者。この場で加減するよう伝えてもボロを出すのが落ちだ。できればもうしばらく接戦を演じて観客への印象を強めたいが、少し予定を繰り上げるしかない。
激しい戦闘によって崩れた瓦礫へと突っ込み、そろそろ頃合いかと見切りをつけようとしたときにそれは起こった。デミウルゴスの全身を様々な色の光が入れ替わるように包み込む。それが落ち着くと、奥底から湧き上がってくる感覚が教えてくれる。尽きることのない障壁、全能力の上昇、第六感の強化、硬化による防御力上昇、魔法攻撃への抵抗力上昇、状態異常に対する抵抗力上昇、竜に連なる耐性付与と能力強化。
「これは……!」
瓦礫を吹き飛ばして辺りを見渡す。様子を窺っているシャルティアと奥に見えるルプスレギナと冒険者たち。探している人影は見付からなかった。
(不可知化を……。シャルティアの性格と私のわずかな誤算までもが予想の範疇ということですか。やはり、恐ろしいお方だ)
計画のリスクを徹底して潰し、同時に「見ているぞ」という釘を刺された。すなわち失敗はいわずもがな、ここからの振る舞いはナザリックに属する者として完璧を演じ切らねばならない。完全なる御方が求めるものは完璧な成果ということなのだろう。己の仕える主の偉大さに身を震わせるほどの畏怖を覚え、デミウルゴスは魔皇に相応しく禍々しい黒翼を大仰に広げた。
2017年中に投稿するつもりが遅れてしまいました。
2018年は年頭からアニメ第二期も放送されますし益々の盛り上がりに期待ですね!
ともあれ、今年もよろしくお願いします。
2018.2.11 一部不自然な描写を修正しました。
2018/11/10 行間を調整しました。