オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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~前回のあらすじ~
ラナーとデミウルゴスが平和的に話し合いをした。


第52話 毒皿

 深い深い眠りから目覚め、それでもまだ微睡(まどろみ)の中にいるかのような茫洋とした世界。何故か懐かしさを覚えるのはまだ記憶も無い自分という存在がこの世界に産み落とされる前、顔も覚えていない母親の腹の中にいたときの感覚に似ているからかも知れない。

 ぼやけた視界の中で妙にハッキリと見えたのは差し伸べられた手。遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。それは確実にクライムの意識を揺り動かす。仕えるべき主人、愛する主人のものだ。聞き間違えるはずもない。この差し伸べられた手もまた、あの日を思い出させる。自分がただのクライムから、ラナーのクライムになった日を。重ねられた手はとても温かく、その熱は燻る火種となって今もなおこの胸を焦がし続けている。

 

 手を伸ばす。あの手はきっと非力で、一方的にクライムを引き起こすことなどできないだろうから。

 

 重ねた手はあの日と同じように温かくはなかった。むしろ、氷細工のように冷たい。訝しむ間も無く、赤黒く変色し腐った肉が剥がれ落ちる。残されたのは白磁にも似た骨だけだ。だがいかなることか、その骨だけの手は力強くクライムの手を握り、引っ張り上げる。地獄とは落ちるものだと思っていたが、一体自分はどこへ連れて行かれるというのか。身体はまるでいうことを聞かず、子供のように首を左右に振ることしかできない。

 

「やめろ……やめてくれぇえええ!!」

 

 叫んだところで引く力はまるで緩まない。手を取ったが最後、この得体の知れない『なにか』にクライムの行先は決められてしまった。視界も世界もクライムの知覚するあらゆるものが大きな渦の中へと吸いこまれていく。もはや極限まで引き伸ばされた意識には拒否を訴える思考も、愛する主人の記憶を反芻することも許されない。最後に全身が辛うじて拾ったのは、深い湖の底から湖面に向かうような浮遊感だけだった。

 

 

 

「……! ク……ム!」

 

 また誰かの呼ぶ声がする。さっきよりもやたら近い気がするが、いましがた見ていたはずの夢の世界について何も思い出せない。何か恐ろしいものを見た気がするが、思い出せないものは仕方が無い。

 

「……ライム! クライム!」

「ああ……ら、なー……さま?」

 

 ゆっくりと開いた視界に映ったのは青い二つの宝石。他にも金色の何かが見えるが、世界があまりにも眩しく感じてまともに目を開くことが困難だ。耳は概ね正常なようで、少なくとも自分の名を呼ぶ声は敬愛する主人のものに相違なかった。

 光に過敏な目は涙を分泌し、じきに滲んでぼやけた世界は輪郭を取り戻す。やっと分かったのは、金色のものはラナーの髪で、宝石に見えたものはラナーの目だった。そこでクライムは内心ぎょっとする。ラナーの目には瞳の輪郭が歪んで見えるほどの涙がたっぷりと溜まっており、いまにも決壊しそうな状態だったからだ。拭って差し上げたいと身の程知らずな考えが頭の片隅をよぎるが、幸か不幸か何故か身体には力が入らなかった。

 

「どう……なさったの、ですか……?」

 

 一応口は動くものの、一言二言喋るのもたどたどしくなってしまう。果たしてちゃんとラナーの耳に届いているのだろうか。

 

「クライム。ああ……クライム!」

 

 いよいよ涙のダムは決壊し、その小さく滑らかな頬を伝って濡らす。泣き顔を隠すようにラナーは伏せった。涙が零れたせいかクライムは胸のあたりにじんわりと温かいものを感じ、それが示す事実に気付いて呆けた頭に冷や水をぶっかけられたような勢いで意識が覚醒するのが分かった。

 上半身を起こそうとするがやはり身体の自由は利かない。どういう状況か分からないが、確実なことが一つある。いま自分の上にラナーが身体を預けている。しかもその顔を涙で濡らして。何がなんやら全く分からないが、とにかくこれはマズい。主人の涙を止めて差し上げたいと思う気持ちは当然あるが、王女が一兵士の胸に顔を(うず)めるなど、反王派閥の貴族にでも知れたらとんでもないことになる。そうでなくとも噂が流れただけでラナーの立場をより悪いものにするのは確実だ。一人の男としてはこの甘美な欲望にまだ浸っていたいという気持ちが無いわけではないが、クライムの忠誠心は本能すらも凌駕していた。

 

「ら、らなーさま。はなれてください。わたしはだいじょうぶです。どこにもいきません」

「……本当?」

 

 やっと顔を上げたラナーはもう泣き止んでいたが、まだ不安があるのだろう、息がかかるほどの至近距離で弱々しい女の顔を見せられたクライムは胸の鼓動が激しくなるのを強烈に感じた。身体を起こしたラナーに伝わる心配が無かったのは幸いだった。

 

 目だけを動かして周囲の様子を窺う。どうやら自分は寝かされているようで、普段目覚めたときに視界に入る武骨で冷たい石造りの壁や天井ではない。よく考えたら寝ているベッドもいつもとはまるで別物だ。

 

「ここは……?」

「ん……メイド用の部屋よ。ちょうど空きがあったから少し借りたの」

 

 目に溜まった涙を拭い、答えるラナー。純白のロンググローブに小さな染みが広がる。

 

 言われてみれば最近姿を見ないメイドが一人いる。奉公にある程度目処がついて親の領地へ帰ったとラナーからは聞いた覚えがあるが、その部屋なのだろう。体を起こすのを手伝おうとするラナーをなんとか諦めさせて見渡した室内には元々備え付けの家具類が揃っているだけで、日常的に使用されている痕跡は無かった。誰かの部屋ならベッドまで使わせてもらって流石に礼を伝えなければならないが、その心配はいらないようだ。

 

 そもそも何故自分はこんなところで寝ているのか。クライムの当然の疑問に対してラナーの表情はたちどころに生気を失い、わなわなと震える頬を両手で押さえた。呼吸は深く、荒い。何度も開いては閉じてを繰り返す口はまるで溺れている人のそれだった。

 

「らっ…………」

 

 明らかにおかしい様子に思わず手を出して無理を止めようとしかけたが、思いとどまる。ラナーの目は恐怖に震えながらも力強く抗おうとしていたからだ。

 主人の闘う意思を前に従者がもういいですよとは言えない。ただ黙して、言葉を待つことこそが忠義。

 

 そんな心の動きが伝わったのか、ラナーはこくりと頷くと何度か深呼吸をした。そしていつもと変わらない心地よく耳朶を打つ声で衝撃的な事実を告げた。

 

「クライム。あなたは────」

 

 

 

 

 

 目が覚めるのは決まって鳥が鳴きだす時間だ。肌寒さを感じる季節ではまだうすら暗く、点々とする小さな灯りと身体が覚えている感覚を頼りに通路を進む。

 宿舎を兼ねた城壁塔の中には稽古場がある。誰かと模擬戦をやるもよし、置いてある武器を振ってトレーニングをするもよし、何かと利用する機会は多い。

 

 だが中でもこんな時間から、それもほぼ毎日のように修練に汗を流す者はどちらかと言えば少数派だ。自分と、ある一人を除いては。

 

 稽古場の入口が見えてきた辺りで王国戦士長ガゼフ・ストロノーフはいつもに無い違和感を覚える。

 人の気配が無い。

 

 そもそも普通に考えたら大半の兵士はまだ眠っている時間に人の気配がある方が珍しいのだが、そうではないことをガゼフは知っている。突出した剣才は無くとも、己が理想と忠義のために強くなる努力を諦めない男。その姿勢は同じく忠義を捧げる者として好ましく思うし敬意も持っている。

 彼は大抵ガゼフが稽古場へ来る頃にはオーバーワークで滝のような汗を流しているのが日課だ。

 

 刃を潰した武器を保管している倉庫やらも一応見てみたが誰もいない。

 やはりおかしい。ちょっとやそっとのことで毎朝の稽古をサボる奴ではない。それどころか骨にヒビが入っていようが熱があろうがお構いなし、ガゼフが止めなければ本当にブッ倒れるまで稽古をやめないようなタイプだ。

 

 可能性の一つを考えてかぶりを振る。立場上王族の外出予定などは耳に入ってくるが、彼の仕える王女が昨夜や今朝にどこかへ出るといった話は聞いていない。

 

 胸騒ぎがする。素振り用の剣を置いて、ガゼフは足早気味に稽古場を後にした。

 

 一人で修練をするつもりだったので脚甲やガントレットは装備していない。そのため石の階段を駆け上がっても大して騒々しくはないはずだが、この時間に兵舎を歩き回ることは滅多にないので無意識のうちに兵たちの眠りを妨げまいと足音を殺していた。

 

 ほどなく着いたのは他の部屋と少し装いの違う扉の前。といっても高級感があるとかではなく、むしろどちらかと言えば兵舎内で一、二を争うくらい古ぼけた印象を受ける。

 各室の扉にはそこがどの塔かを示す記号と部屋番号が打たれているが、ガゼフの前の扉には何も表示されていない。この部屋は元々宿舎ではなく、使う人間は一人しかいないからだ。

 

 少し控えめにノックをしても反応は無い。よほど深い眠りに落ちているのか。仮にそうだとしたらわざわざ叩き起こす理由はない。だがこの首筋がざわつく感覚を伴った予感は理屈抜きにガゼフを突き動かした。

 それに、悪い予感は大抵当たるものだ。

 

「ん…………?」

 

 ノックした反動で扉がゆるりと開いていた。

 

「クライム?」

 

 扉の向こうに見えたのは木のベッドを背に足を投げ出し座りこんだ姿勢の青年。短く切りそろえられた髪は間違いなくこの部屋の住人だった。

 

 ガゼフの問いかけにも反応は無い。

 

「寝ているのか? クラ……」

 

 一歩を踏み入った瞬間、言葉は止まり表情はいかめしさを激しくする。同時に周囲への警戒。物陰に潜んでいる者はいないか、襲いかかられたときにすぐさま武器になる物はあるか。

 動くものの気配を探れども、この部屋には自分しかいなかった。

 

「肩に傷は無いが……この色は毒か」

 

 内出血にしては赤黒過ぎるものが左肩を中心にひび割れのように広がり、その顔の半分ほどまでに侵食していた。薬学の知識を持たないガゼフでも一見しただけで猛烈と分かる毒性。最近黒粉などという粗悪で危険な麻薬が闇市場で出回っていると聞くが、この毒も表に出ないだけで同じような流通に乗せている悪党がいるのかも知れない。

 

 あくまで冷静にクライムの死体を観察しつつ並行する思案。兵舎とはいえ王城内で人が死ぬというのは捨て置けない事件だ。だが恐らくの死因が毒であることが判断を迷わせる。クライムが毒を受けたのは城内なのか、それとも城外で手傷を負ったまま自室へ戻ったのか。王家に弓引く者なのか偶然かち合った裏の住人なのかによってもここからの動きは変わってくる。

 

 最優先するべきは王と王族の身の安全だ。だからこそ、疑心暗鬼やパニックを誘発する軽率な情報の拡散は控えるべきだ。

 

 そこで方針は決まった。毒にしては穏やかな死に顔に一拍だけ視線を向けてガゼフは立ち上がる。

 

(すまない、もうしばらく我慢してくれ)

 

 風などで開いてしまわないよう扉をしっかりと閉め、ガゼフは兵舎の階段を駆け下りる。幸いこの時間ならまだ動き回る者も少なく異常の発覚までには猶予がある。

 

 向かう先はヴァランシア宮殿。クライムの主人であるラナーの住まう場所だった。

 

 

 

「戦士長殿、このような時間にどうされたのですか」

「ラナー様にお伝えすることがあって参った。お取り次ぎ願えまいか」

「ラナー様はお休みになられています。私でよろしければ伝言をお預かりしますが」

 

 近衛兵が悠長なわけではなく、彼らにとってはごく自然な対応だった。王族の、それも女性を陽も昇らぬうちから訪ね起こすというのは主従関係抜きにしても失礼な話だ。

 仮に法国が攻めてきただのモンスターの大群が迫ってきただの国家防衛上重要な用件だとするなら王女ではなく国王へと奏上するべきであって、王国戦士長とはそれが分からない立場ではないはずだ。

 無礼を指摘してすげなく追い返しても近衛には何の咎めも無かっただろうが、伝言の預かりを申し出たのは単なる個人的な親切心だった。

 

「心遣い感謝する。だが何としても直接お伝えしなければならない話なのだ。……口が堅いと見込んで言うが、クライムに関することでな」

「クライム……ああ、あの」

 

 いつもラナーが連れている、専属の騎士と言うには頼り無く生来の気品も足りない短髪の青年。主人に尻尾を振って寄り添う犬でも見ている気分になるあいつ。

 一貫してラナーに忠義を尽くす姿は騎士道精神に厚い者からの評判は悪い訳ではないが、剣の上達より噂話が好きなメイドたちは見下す者が多い。

 

 二人の兄に比べると無垢で温厚なラナーだが、いくらなんでも意味も無く男の従者を引き連れたりはしないだろう。少なくともクライムはラナーの中で特別、憎からず思っている存在なのは確かだ。

 

 いずれ政略結婚で有力な貴族や他国の妃となることは本人も理解しているだろうが、あるいはそれまで異性に慣れるためのおもちゃではないかと斜に構えた見方をする者も中にはいる。だが結局実際のところはラナー本人しか知り及ばないことだ。

 

 普通ならば従者一人のことで主人を起こすなど馬鹿げたことだと一笑に付すところだが、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフが全身から放つ決して退かない決意に満ちた気迫を冷ややかに受け流せる者が果たしてどれだけいるだろうか。

 

「頼む。全ての責任は私が取る」

 

 本当に重大な案件だった場合に自分の軽率な判断が大きな問題になると困る。そんな保身が頭をよぎったタイミングで提示された条件は実に効果的だった。

 万一の場合も責は自分に及ばず、剣の腕も立場も上の王国戦士長に頭を下げて頼みごとをされて悪い気のする奴はいない。

 

「分かりました。ラナー様お側付きのメイドにお願いしてみましょう」

「そうか! 恩にきる!」

 

 近衛兵の案内で宮殿内に立ち入る。ラナーの部屋の隣には両室に連動するハンドベルが設置されており、いついかなるときも素早く対応できるよう常にメイドを配置するローテーションが組まれている。

 とはいえラナーがメイドを呼ぶのは日中がほとんどであり、お茶会の用意や特に聞きたいわけでもない忠犬クライムの話など要はラナーの気まぐれを満たすための仕組みでしかない。

 夜は部屋から出られないだけでどう過ごしていても自由だが、独りでできることなど精々部屋の掃除か本を読むくらいのもので大抵はその暇を持て余すことになる。

 今夜のメイドもその例に漏れず深夜の訪問者に初めは何事かとウキウキした様子だったが、用件を聞くに連れて(いぶか)しい表情になりついには不満そうな顔を隠そうともせず黙りこんでしまった。

 近衛兵としては期待はしないでほしいニュアンスで引き受けたものの、あまりに役に立たない様を晒すのもうまくない。

 チリチリとした熱気を首元に錯覚する。とても後ろを振り向く気にはなれなかった。

 

 幸いにも今夜の担当メイドは親同士が社交界での繋がりがあり多少なりとも互いに面識があった。

 流石にガゼフの前で王女付きのメイドに砕けた口調では話し辛い。少し距離を取って小声でさっきまでの近衛兵とメイドではない、単なる知人としての交渉に入った。

 

「なあ、頼むよ。そりゃラナー様を起こす役なんてやりたくないだろうけどさ。後ろの王国戦士長様たっての頼みなんだ。俺にもほら、その……分かるだろ?」

「男の都合に女を巻き込まないでよ」

 

 視線を向けずともメイドの意識は知人である近衛兵の肩の奥で沈黙を保っている黒髪の男に向かう。焦点を合わせずとも分かる。鍛えて盛り上がった荒々しい肉体、日に焼けて浅黒くなった肌。男たちはそれを崇高なものと勘違いして、品の無い剣を振り回す野蛮な行為を武勇だなんだともてはやすのだ。

 幼少から高貴な世界で生きてきた男たちとはまるで別の生き物。目の前の男は貴族出身ということもありさほどの嫌悪感は無いが、彼すらもこの王国戦士長などという訳の分からない立場を与えられた男の幻想に惑わされて感化されている。

 

 あのクライムという男だってそうだ。どこの門地とも知れぬ分際が己の身分も弁えずに宮殿内を大手を振って闊歩している。本来ならばあのように下賤な者が同じ場所にいることすらも気持ちが悪い。

 

 態度を見ていれば分かるが宮殿内のメイドの多くは少なくともクライムに対して似たり寄ったりの心証を持っている。

 

 一方でラナー王女はまったくの逆で、口を開けばクライムクライムと取り留めもない話を誰かに聞いてほしくてたまらないといった風に話すのだ。クライムへの嫌悪感と王女の言葉に肯定的な相槌を返すことしかできない環境が彼女たちのストレスをさらに加速させた。吐き出す先の無い渦巻く負の感情は腹の釜で煮詰められて、もはや多少のことでは洗い流せないほどにこびりついている。

 

 そろそろうんざりしてきたが男に懇願をやめる様子は無い。情けない顔を見て多少の溜飲は下がったこともあり、メイドは鼻で笑うようなため息をついた。

 

「分かったわよ。そこまで言うなら……」

「引き受けてくれるのか!」

「今度買い物行くとき貴方の奢りね」

「ぐ……わ、分かったよ」

 

 話をまとめた男はガゼフに話がまとまったことを伝えた。もちろん代価のことは口にしなかった。金を失っても見栄は捨てない、ある意味とても貴族らしい考えだ。

 

 

 

「ここで待っていて」

 

 ガゼフたちを引き連れて先頭を進むメイドの足がラナーの部屋の前で止まる。無言の首肯で了承する二人。

 

 軽く深呼吸をするとノックをして室内のラナーに声を掛ける。それは室内に届いても周囲には決してやかましくない絶妙な音量だった。

 

 十秒待っても反応は無い。それはある程度予想がついていたことで、メイドは「失礼致します」と言うが早いか音も無く開けた扉の隙間にその身を滑りこませた。

 待つことしばらく、やがて扉の隙間から顔をのぞかせたメイドの手招きに応じてガゼフたちはラナーの部屋へと立ち入った。

 

 すでにベッドから立ち上がっているラナーは彼女の二つ名をモチーフにしたカラーリングのガウンを着ていた。繊細に編みこまれた金糸が月明かりを反射して煌めくが、成金じみたいやらしさを感じさせないのは身に付ける者の品格ゆえか。

 膝丈の裾には薄手の生地がカーテンのように揺れており、寝衣の上から重ねただけであることが分かる。

 

 帯を解いていた剣を鞘ごと床に置きガゼフは臣下の礼を取る。

 

「ラナー様、このようなお時間に申し訳ございません。ですが、無礼は承知のうえでお伝えするべきことがあり参りました」

「戦士長殿、顔を上げてください。質実剛健に人徳ありと聞く貴方が理由も無く夜中に訪ねてはこないでしょう。ご用件は?」

「はっ、過分な評価をいただきありがたく存じます。ですがその、なにぶん内密な話、でして……」

 

 歯切れ悪く視線は横の二人に。ガゼフとしてはラナー以外に聞かせたくない話なのだが、骨を折ってくれた近衛兵とラナーに渡りをつけてくれたメイドに恩を受けた矢先に追い払うようなことも言いにくい。

 察してもらえないかとは思うものの、逆の立場ならいくら主従関係でも夜中の寝室に男女二人を放っておくことはできない。

 万一何事かがあれば、最悪手引きをした共犯として物理的に首が飛ぶ。

 

 ラナー自身が指示を出してくれれば彼らが咎められる心配もなくなるのだが、事情を話してもいないうちからそこまでのことをラナーに期待するのは酷というものだ。

 

「というのも、クライムに関することなのですが」

「クライム? ちょうど良かったわ。今日はクライムが顔を出さなかったから彼に関することならぜひ聞かせていただきたいけれど……」

 

 言葉尻をすぼめたラナーはガゼフの視線を追う。素早く机に向かうと簡素な便箋を二枚出してペンを走らせた。

 

「はい、これ」

 

 近衛兵とメイドに渡された紙にはガゼフを部屋に残すのはすべてラナーの指示であり彼らにはなんの落ち度も無く、罰することこれ禁ずるという記述。そして直筆であることを示すラナー専用の印が押されていた。

 一国の王女専用の印は正式な法令の発布などにも使われるもので、言ってしまえばたかが従者へ渡す保険代わりの免罪符に使うようなものではない。

 

「こ、これは……」

「ということで、遠慮していただけますか?」

「か、かしこまりましたっ! おい、ほら行くぞ」

 

 にこやかな笑顔を向けてくる王女に圧倒され、近衛兵は渡された文書の重大さを理解していなさそうなメイドを促して退室する。

 

 そもそもがわざわざこんな文書を渡すということ自体が異常なことなのだ。もちろん保険として持っておくべきではあるが、同時に何らかの追及が無い限りこの文書の存在自体を他の誰かに知られる訳にはいかない。

 文書だけが先に見付かれば、必然的に話はラナーへ向かう。内々にしておきたい話を自分のミスで漏洩させたとなれば貴族としての信用問題である。

 

(今度父上に堅牢な金庫が無いか聞いてみるか。それとこいつにも言い含めておく必要があるな)

 

 仮にメイドから秘密が漏れても同じことだ。とりあえずラナー王女の便箋は人の目に触れないところへしまっておくように伝えておいた。今度買い物に付き合わされるときにさらに念押しをしておく必要があるだろう。

 

(……使っていない武具を売り払うか)

 

 ますます膨らみそうな出費に頭が幻痛を覚えた。

 

 

 

「これであの二人は大丈夫」

「お手を煩わせ面目次第もございません」

「よいのです。それより早くクライムの話を聞かせてほしいわ。私のところへ顔を出さないことと関係が?」

「は……、恐らくは」

 

 普段ラナーの部屋をよくクライムが訪ねているのは宮殿内における周知の事実だ。クライムからもよくラナーの話を耳にするためそれはガゼフも知っている。

 毒を受けたということは何者かと戦い、手傷を負ったまま王女の前に立つことを厭ったのだろう。

 

(あいつらしいといえばらしいが……)

 

 主人に心配をかけまいとする気持ちは分からないでもないが、度が過ぎればそれは愚行でしかない。

 

 首筋がひりつき、喉元にこみあげる不快感。これとよく似た感覚を知っている。

 法国の偽装兵たちによって焼き払われた村々、老いも若きも救うことのできなかった民。結果的にそれらは王国戦士長であるガゼフをおびき寄せるためだけの工作だったのだが、結果は失敗。立場上王への報告は自分の役目だった。

 王が民の死に心を悼めると分かっていても、互いの立場上言わざるを得ない、聞かざるを得ない。

 

 ましてや今夜それを告げるのは覚悟ある王ではなく血風とは無縁の王女なのだ。

 

「お気を強くお持ちください」

 

 だが言わない訳にはいかない。

 

「クライムが、死亡しました」

「───────え?」

 

 ぞくり、と首筋に嫌な緊張が走る。強大な魔獣に射竦(いすく)められたような感覚。だがそれは一瞬のうちに残滓もなく消える。

 

「何か?」

「はっ……! いえ、ご報告を続けます」

 

 無言で頷くラナーは思いの外冷静に見えたが、修練場の違和感からクライムの発見に至るまでの説明が進むとともにラナーの顔からは表情と感情が抜け落ちていくようだった。

 最後にクライムの死に顔を尋ねたラナーに毒を受けたとは思えぬほど穏やかな表情だったと答えると、「そう」と呟いてラナーはおもむろに窓を開けた。入りこんでくる風がラナーの長い髪と、ガゼフの頬を撫でる。

 

「……あっ」

 

 窓が開いていたのは時計の秒針が半周もしない短い時間。振り向いたラナーはぎこちない笑顔に涙を浮かべていた。

 

「砂粒が目に入ってしまいました」

「……今日のような細かい砂はなかなか取れぬでしょうな」

 

 やはり、いくら王女といえど身近な人間の死は重い。剣すら満足に持ち上げられなさそうな小さな身に背負わせるにはあまりに酷であるように思えた。

 同情といえば不敬だが、言わずにはいれなかった。

 

「ラナー様、よろしければクライムを神殿へ連れて……」

「なりません」

 

 神殿へ行けば復活魔法を使える高位の神官がいる。王女からの依頼となれば首を横には振るまいが、彼らはより多くの信仰を集めるためにそれを利用するだろう。

 水面下で貴族の派閥争いが繰り広げられているさなか、反王派に天秤を傾けるような真似はできない。万一瓦解でもしたら、勢力を増した神殿側が混乱に乗じて大胆に動いてくる可能性もある。

 それにクライムにそこまで露骨な肩入れをすれば流石に王や兄たちの介入があるだろう。もっともらしい理由を付けて二度と会えない配置転換を押しつけてくるに違いない。

 

 表立ってクライムを復活させることはできない。

 

 もう一つ、騒ぎを大きくせずにクライムを復活させる方法がある。

 それは付き合いの長い友人であるラキュースに頼むこと。彼女は復活魔法を使える。

 

(でも、それは…………)

 

 ラキュースの復活魔法は神殿の特異性や権威を脅かす、神殿勢力からすれば目の上のたんこぶというやつだ。

 彼女はみだりに復活魔法を振り撒くことはしない。仲間である蒼の薔薇のメンバーに対する使用のみに留めていることもあり見て見ぬフリをされているフシがあるが、王女の頼みでその従者に使用したとなれば両者の関係性の悪化は免れない。特に復活が妥当と納得させられるだけの事件でもあれば話は別だが、分かりやすい大義名分が無ければなおさら私的な頼みという側面が強くなる。神殿は民衆が病気や怪我の治療のため精神的にも頼りの一つにしており、連鎖的に民衆の不興を買うのも考えられない事態ではない。

 ラナーにとってもラキュースたち蒼の薔薇との関係は重要であり、今後のことを考えると彼女らが不利益を被る展開はあまり作りたくなかった。

 

「よく知らせてくれました。どちらにしてもラキュースたちへは知らせることにはなるでしょうから、ひとまずはことが大きくならないよう手配しましょう」

 

 

 

 部屋を出たガゼフは頭を下げると静かに素早く宮殿を出ていく。その手には一枚の便箋が握られていた。向かう先は兵舎を管理している衛兵の詰め所である。

 これからクライムは王女の命により外出してもらう。そして石壁などの老朽化が進んでいないか確認するので、誰もクライムの部屋付近に近付かせないように指示を出すという即席のシナリオだ。

 実際には石職人を呼ばないのだから稼げる時間は精々一日。ラナーがそれ以上の指示をしなかったということは、それまでに何らかの対処を考え実行するつもりということだ。

 

 ガゼフの行動は紛れも無い隠蔽工作であり、バレれば王国戦士長の地位を追われる口実にもなり得る。それを承知していたラナーから渡された便箋は免罪符も含めて本来は二枚あった。だがガゼフは詰め所に見せる偽りの指示書だけを手にして部屋を出た。

 それはリスクを負おうともクライムを復活させようとするラナーに主従の情愛を見たからだ。剣は王に捧げた身だが、従たる者の忠義に応える姿に微力ながらも役立つことがあるならばと王女の頼みを快諾した。

 クライムの死を告げたときも悠然たる態度を崩さなかったのは場慣れなどではなく、彼女もまた王族としてある種の覚悟を持っていることが窺われた。

 

 夜明け前の訪問者が去った後、同席者も紅茶もないティーテーブルを前に座ったままラナーは微動だにせずじきに三十分が経過しようとしていた。その端整な顔がわずかに歪む。握りしめた小さな拳はクライムの前では決して表すことはないほどに強く感情と力が込められている。

 

「? なに……?」

 

 上げた視線の先、部屋の中央にぽっかりと空いた楕円形の穴。それは何の前触れもなく突如として現れた。その穴を通して出てきたのはガゼフたちの先客であった赤いスーツに身を包んだ丸眼鏡の男、デミウルゴスだった。

 

「またもや失礼致します。どうやらお困りの様子、ささやかながらお力になるためお邪魔しました」

「……お心遣い感謝致します。でも、あいにくですがこの件はこちらでなんとか」

「ああ、これは貴女への貸しではありません。どちらかと言えば……そう、アフターフォローのようなものですのでお気になさらず」

 

 真意を問う前にデミウルゴスはまだ開いたままの楕円に向けて指を弾く。服装がまちまちな三人がさらに現れると楕円は音も無く閉じて消えた。

 

「はぁ、わたしは便利な運び屋じゃないんでありんすが」

「オヤツはぁ、いなさそうな部屋ですねぇ」

 

 ためいき混じりに不満を述べる少女はヘッドドレスから零れる銀髪を揺らす。上等そうなボールガウンを着た姿は無理なくこなれており、日常的にああいった服装をしていることが分かる。

 南方にある異国の地の民族衣装に似た服装の娘だけが好奇心旺盛そうに部屋の中を無遠慮に見回していた。

 

「エントマ、行儀が悪いですよ。……わん」

「はぁ~い」

 

 この中でも特に目立つ犬頭、身を包んでいるのはどこからどう見てもメイド服だが、ラナーが普段目にする者たちのものとは意匠に共通性は感じられない。

 

 いまさらその風貌に驚くことはない。それにしても絶妙なタイミングだ。少し早ければガゼフたちと鉢合わせていた。

 

(いいえ、違う────)

 

 運ではない。計算高い者は分の悪い賭けを基本的にしないものだ。なんらかの手段でこのデミウルゴスはガゼフの報告も含めてすべてを()ていた。

 

「事情の説明は必要無いようですわね。デミウルゴス様以外の方は初めまして。私はラナーと申します。一応、このリ・エスティーゼ王国の王女ですわ」

 

 くっくっと静かに漏れた笑いはラナーの推理の正しさを肯定していた。だがそれで手の内を見せる甘い相手ではない。

 はぐらかすこともできたはずだが、それをしなかったのは常に監視の目が光っていると宣言することが裏切りを容易にできなくするための楔となるからだ。

 もっとも裏切る気など最初から無いラナーにとって大した影響はなく、肯定でも否定でもどちらでも結論は変わらない。

 

 だがそこまで読み切ったうえでの戯れだとしたら。

 やはり侮ってはならない相手だと再認識する。

 

「初めまして。私はペストーニャ・S・ワンコと言います……わん」

「シャルティア・ブラッドフォールンでありんす」

「エントマ・ヴァシリッサ・ゼータでぇす」

 

 名前だけの端的な自己紹介。それで充分とばかりにブラッドフォールンと名乗った銀髪の少女はラナーに欠片ほどの興味も見せず、よく手入れのされた(つや)やかな五指の爪に視線を落とした。

 

「さて、夜明けまでそう時間も無いことですし用件を済ませるとしましょう。彼はいまどちらに?」

 

 ガゼフの偽装工作もありクライムはまだ発見された状況のままのはずだ。彼の部屋がある塔の位置を伝えるとしばらく待つようデミウルゴスが指示を出す。

 

「どうぞ、おかけになられては?」

 

 来客を立ったまま待たせるものでもない。テーブルを囲んで置かれた椅子の数は足りている。

 

「ああ、私は結構。女性同士有意義な時間にしてくれたまえ」

「では、失礼致します……わん」

 

 デミウルゴスが動かないのを見て、最初に席に着いたのは意外なことに犬頭のメイドだった。メイドと言えば従者であり、何ごとも主人の後でやるものだ。そもそも普通は同じテーブルに着座すること自体が無い。少しブラッドフォールンの表情を窺うようなそぶりを見せたがいちばんに着座することにそこまで忌避感のようなものは無いらしかった。

 

「紅茶のひとつもお出しできないのが残念ですわ」

「紅茶ですか。この時期は茶摘みの旬ではないようですけれど……わん」

「あら、お詳しいのですね。ワンコ様」

「私のことはペストーニャとお呼びください。ファーストネーム以外で呼ばれるのは慣れておりません。他の者も同様です……わん」

 

 彼女の指摘は正しい。確かに紅茶のフレーバーが強く鮮烈な時期は過ぎており、この季節の紅茶にはレモンやジャムなど一手間加えて飲むことが多い。たがそれは紅茶本来の味を誤魔化したまったく別種の飲み物と言って差し支えないものだ。一国の王女が供するものにしては子供じみている。

 

「では、お言葉に甘えさせていただきます。私結構紅茶にはうるさいんです。年中ありとあらゆる種類を取り揃えているので、きっとお気に召すのがあると思いますわ」

「ふぅん。人間にしては多少マシな趣味をしていんす」

 

 人間に興味は無いが紅茶にはある。シャルティアが腰を下ろすだけの理由にはなった。

 二人に続く形でエントマも遅れてテーブルを囲む。

 

 ティーセットも無ければ茶菓子も無い。それでも乙女たちの集いは確かに茶会の雰囲気を醸し出している。

 

 共通の話題である紅茶について意見交換などというご大層なものではなく、風味の特徴やらについての嗜好をとりとめもなく好き勝手に言いあう。この話題においては種族の違いを互いが意識することもなく強いも弱いも無い。

 ほんの少しだが濃密な時間だった。

 

 軽く手を叩く音が茶会の終わりを告げる。

 

「場所の確認が取れた。シャルティア、頼むよ」

「了解しんした。≪ゲート/転移門≫」

 

 ついさっきも見た大きな楕円が室内に再び現出する。中へデミウルゴスが消えていき、ペストーニャとエントマが続く。最後にシャルティアがくぐると"門"は即座に閉じて消えた。

 

「ふう」

 

 肩に入っていた力を抜き、ため息ともつかない空気が漏れる。感触は上々。用意していた話題はいくつかあるが、最初の紅茶がヒットしてくれたのは運がいい。

 数度深呼吸をするとラナーは自室を出て、一つ隣の部屋へ向かう。

 

 素人ながらに様子を窺うが、巡回の警備に出くわすことなく目的の場所までたどり着くことができた。本来使用人のための部屋で、実際最近まで使っていた。いまは空き部屋だがベッドなどは綺麗に整えられている。

 

 部屋の中にはすでにさっきの四人がいた。そしてデミウルゴスが抱えているものをそっとベッドへ横たえる。顔は毒により腫れて変色し、青白い月明かりの下でも尋常なものではないことが分かる。

 

「クライム……」

 

 間違いなく死んでいる。復活魔法の存在を知っていても愛する者の死は胸を(えぐ)り、(あふ)れる涙をその身の内に閉じこめさせてはくれない。

 死に満たされた彼に縋り寄るしかラナーにはできなかった。

 

「エントマ、覚えたかね」

「はぁい、バッチリでぇす」

 

 デミウルゴスが首肯する。会話の意味は分からないが、彼らにもなにがしかの目的があったということだ。

 

「ラナー王女、先も言ったようにこれはアフターフォローです。彼が死んだままでは先の契約を結んだ意味も薄れてしまうからね」

「蘇生……できるのですか?」

「当然だとも。実に容易いことだよ」

 

 デミウルゴスの指示を受け、ペストーニャがクライムを挟む形でラナーの反対側に回る。わざわざ出てきて嘘を()く理由は無い。この悪魔ができると言うならできるのだろう。だが大儀式を用いることも無く蘇生ができるのだとしたら蘇生魔法を使えるというラキュースの価値は激減する。クライム復活の確約を得た安心感と同時に、手札の価値が暴落する焦燥感をラナーは味わっていた。それでも、最高位のアダマンタイト級冒険者である蒼の薔薇としての価値は損なわれていないはずだ。ただラキュースを過度に保護する必要が無くなったと思えば手間の削減と考えられなくもない。

 

「まずは……≪キュア・ポイズン/毒治癒≫」

 

 魔法の発動。淡い光がクライムを包む。小指の先から手のひらサイズまでの大小様々な光の粒が左肩を中心に集まり、風に揺られる綿毛のように浮いては消えていく。

 

 気持ちを切り替えて、ラナーは即座に次の手を打つ。卵を産み続ける限り雌鶏が絞め殺されることはない。

 

「デミウルゴス様。私は数日のうちにクライムを傷付けた者たち────八本指の拠点を叩く作戦を実行するつもりです。この機に蒔きたい"芽"は何かおありでしょうか」

「どのような経路で?」

「私が働きかけて直接動かせるのは、蒼の薔薇と王国戦士長くらいのものです。足りない分は王派の貴族レエブン候にお願いすることになるでしょう。彼の私兵と、依頼を偽装して集める冒険者で半々といったところですね」

「なるほど。冒険者の登録は即日可能、数日後ということはそれまでに送り込みたい人員を用意しておけばよいと」

「ええ。緊急の依頼であれば冒険者のランク不問でも不自然は無いでしょうし、報酬を相場より多めに設定しておけば新参者であってもそれを目当てで応じたという体裁にもなるでしょう」

「……考えておきましょう」

「? はい……」

 

 初対面のときはノンストップで攻防を重ねたデミウルゴスが数秒黙考したことを不思議に思いながら、ラナーは新たに切った手札の手応えを改めて実感していた。貴族との繋がり、そこから派生するコネクションはこれまで続いてきた王家によってもたらされた最大の武器だ。それだけに全貌が明らかになる事態は避けるべきだが、うまく使えば自分の価値を限りなく高めてくれる。

 

 光がおさまり部屋を再び月光が支配したとき、クライムの身体から毒による変色は無くなっていた。

 

 顔の腫れは副次的な作用のためそのままだったが、露出した首筋を見れば一目瞭然だ。だが毒による肉体へのダメージは相当深かったらしく、左肩に近い箇所には死んだ皮膚が角質化して一部が剥離しているのが見えた。

 

「≪リザレクション/蘇生≫」

 

 クライムに向けられた手の平から魔法陣が浮き出る。月明りの中にあってもなお力強く優しい青白い光。それに呼応するかのようにクライムの全身に光が伝播していく。

 

「傷が……」

 

 顔の腫れが引き、剥落しつつあった皮膚はたちまち健康的な色みを取り戻す。

 そして目蓋が微かに動いたのをラナーは見逃さなかった。ガウンがはだけるのも気に留めず顔を近付ける。

 

「クライム?」

 

 反応は無い。だが必ず届いていると信じて彼の名を呼び続ける。呼び鈴の無い扉を叩くように、何度も、何度も。たまたま遠くにいただけなのかも知れない、たまたま同時に物音がして気付かなかったのかも知れない。それでもそこにいるのなら、叩き続ければいつかは気付いて出てきてくれるはずだ。

 

「クライムッ!」

 

 ビクンッと全身が一瞬痙攣して、クライムの目はゆっくりと開かれた。

 

「クライム! クライム!」

「ああ……ら、なー、さま……?」

 

 目覚めた従者の生を噛みしめる主人。一言二言を交わしてその胸に身体を預ける様は、騎士と姫の恋話に憧れる街の女たちが見れば軒並み揃って黄色い声をあげるのは間違いない。

 王女が子供の頃からの従者とはいえ、一端(いっぱし)の男なのだ。王に敵対する連中に知られたら揺さぶりには充分な程度のスキャンダラスなシーンでもあるが、この場にはメイドも護衛の近衛もいない。進んでクライムがこんなシチュエーションを吹聴するはずもなく、いまだけは誰にも知られることのない二人だけの世界がそこにはあった。

 

 部屋にいた四つの異形が暗黒の楕円の中へと消えていったことに、クライムが気付くはずもなかった。

 

 

 

 転移門(ゲート)を抜けた先はナザリック地下大墳墓の地表部だ。夜明け前ということもあって、乱杭歯状に並んだ墓石群や吹き溜まった思念から生じる低位の非実体系アンデッドがふらふらと彷徨っている。

 

「本当にこれでアインズ様たちのお役に立つんでありんすか?」

 

 疑問の声をあげたのはシャルティアだ。ナザリック有数の知恵者であるデミウルゴスに言われて協力しているが、美味い果実が()るかどうか種を蒔く時点では不安になるのも当然だ。

 まして彼女は階層守護者でも序列一位の戦闘特化型なのだ。あの手この手と複雑なパズルを組むのは性格的にも性に合わない。誰それをぶち殺してこい、眷属をバラ撒いて都市を混乱の渦に叩きこめ、などの方がよっぽど分かりやすくていい。

 それが今回は移動手段としてだけの出張なのだ。力を持て余した退屈さから来る不満が表情にありありと出ていた。

 

「もちろんだとも。引きあげも抜かり無くできただろう?」

「たかが人間にせっつかれて去るのもいまいち釈然としないんでありんすが……」

「あそこに私たちはいないことになっているからね」

 

 わざわざ≪ゲート/転移門≫を無詠唱化したのは乙女の配慮というわけではない。蘇生したクライムの視界を射線に入ることで塞ぎ、さらに後ろ手を振ってその隙に立ち去るよう促したのは他でもないラナー王女だ。

 物音に気を付けて立ち去るというのはいかにも逃げるという感じがして、ナザリック地下大墳墓の名誉ある階層守護者がこれでいいのかと疑問を生じさせるには充分だった。

 

「なに、心配しなくても協力の件はしっかり報告しておくとも」

「そう? しっかり頼みんす」

 

 結局大事なのはそこだ。確約を得たことで機嫌を良くしたシャルティアは鼻歌混じりに先頭を行く。地表部含め第一階層から第三階層は自分の管轄領域であり、彼女にとっては庭同然のリラックスできる空間だ。

 

「ねぇねぇ、ペストーニャ様ぁ」

「なぁに? エントマ」

「ちょっとわたしぃ、寄り道していくぅ」

 

 許可を求めるというより単なる報告だが、その口元に水っぽいものを感じてペストーニャは察する。

 

「……ほどほどにしておきなさいね。あの方にも悪いから。……わん」

「はぁい」

 

 種族としての性質が違う者に独善的な感覚でダメとは言えず、多少の配慮を促すくらいしかできなかった。

 というのもこの先にあるエントマが立ち寄ろうとしている場所は(れっき)とした領域守護者の治める区画であり、いたずらにかき乱してよいものではない。いわば領域守護者の器によって目こぼしをしてもらっているだけに過ぎない。

 本気で困るのなら至高の御方に訴え出るなどやりようはいくらでもあるのにそれをしないのは、エントマが()の眷属に対して日常的に行なっている仕打ちから考えればあまりに寛大といっても過言ではないだろう。

 

 どうやら一般メイドたちも嫌いというわけではないが()の領域守護者を苦手としている者が多いらしく、これはこれでペストーニャの悩みの一つでもあった。綺麗好きなあたりは気が合うと思うのだが。

 

 それぞれが違った理由で足取りが軽くなる二人と、胸中あれこれと考えを巡らせる二人。ナザリック地下大墳墓へ堂々の帰還だった。

 

 

 

 

 

 

「クライム。あなたは────命を落としたのよ」

「な…………あ……」

 

 やはりかという納得と同時にクライムは思い至った。ラナーのためと思いひっそりと受け入れた死は結局彼女に知られ、心配させてしまったことを。

 そして自分が一度死んだと言うなら、復活させる手段は限られる。思いついたどちらの方法も、ラナーにとっては少なからず負担になったはずだ。

 身体は満足に動かないがラナーの背後に見えている天井や壁は確かに王宮のものであり、彼女の言葉通りここはヴァランシア宮殿の一室らしい。

 

 ここが神殿ではないのなら、復活の背景にはラナーの親しき友人が関わっているのがほぼ確定だ。

 

「ラナーさま。蒼の……薔薇、アインドラさまはどちらに……」

「ラキュース!? ラキュースですって!? クライム!」

「は、はい…………!」

 

 目を剥いて、いま聞いた言葉が信じられないとばかりにラナーはクライムに詰め寄った。といってもクライムは指先もまともに動かせないので蘇生したときのように覆いかぶさる体勢になっただけだが、それでもクライムの言葉を詰まらせるには充分過ぎた。

 

「クライム……ああクライム! あなたは私がどれっ……ほど心配したのかこれっぽっちも理解(わか)っていないみたいですね?」

「ラ、ラナーさま、ちか……」

「驚きました! ものすごく! 死んでしまうくらいに! 私……怒ってるんですからね」

 

 間違っていた。自分の勝手な思いこみ、判断は敬愛する主人に心配を掛けたのではない。

 動かせない身体でも胸元に落ちる暖かな滴は感じ取れた。

 

 悲しみ。自分を喪うということがまさかこれほど主人にとって心揺さぶられる事柄だとは考えていなかった。

 

 大粒の涙。たとえ腕が動いたとしても、顔を伏せて泣きじゃくる主人を起こし剥がすことはしなかっただろう。かすかに甘い隠し味が入った、とびきり苦い罪悪感からは逃げることも目を背けることも許されない。

 掛ける言葉は無く、ただただ嗚咽が治まるときをクライムは待った。

 

「ごめんなさい」

「どうして、ラナーさまがあやまられるのですか」

「主人として、王族として、あなたに見せるべき姿ではありませんでした。でもお陰でちょっとすっきりしました。ありがとう、クライム」

 

 顔をぐしぐしと拭ったラナーの目はいつもの輝きを取り戻している。少し乱れた髪が普段の彼女には無い野性味を帯びた力強さを感じさせ、もう涙は止まっていた。

 さっきは質問を最後まで言う前にラナーの感情が爆発してしまったが、いまの様子なら受け答えに問題はなさそうに見えた。

 

「ラナーさま、わたしをふっかつさせたのは……」

 

 だが再び言葉は遮られる。さっきとは違う、静かに優しく唇に当てられた細い指によって。

 

「クライム。今回の件は宮殿内のごく一部の者と発見者であるストロノーフ戦士長様含めた当事者しかあなたの死と復活を知りません」

「せんしちょうさまが……」

「あまりこういうことは言いたくないのですが、私の個人的なお願いでクライムを復活させてもらったと知れればその方々へも余計な不利益を与えかねません。ですから、この話題についてはお互いが知らぬものとすることで合意しています。心苦しいかも知れませんが直接お礼を伝えることも禁じます」

 

 それはラナーがこれまでクライムに下すことのなかった『命令』だった。大人しくも有無を言わさぬ迫力は王族、王女としての顔であった。多大なる恩を受けている身として、従者の一人として、クライムにはそれを拒む理由も権利も無い。

 

 クライムの知る限りでは戦士長も蒼の薔薇も不義理なことはしない、信頼できる人物だ。

 

「私は部屋に戻ります。詳しい話はあとにしましょう」

 

 使用人のための部屋とはいえ、流石は宮殿の一室。クライムの部屋と違って閉まる扉が軋む音を立てることも無く、ラナーが出て行ったあとにはいつもガヤガヤとした兵舎では体験することのない静寂が訪れた。

 

 まだ身体の感覚は戻っていないため、動けるようになるまでは横になっているしかない。ラナーの話ではメイドに言いつけて人を近付けないようにさせるそうだが、それに甘えていいはずもない。

 一本の指を動かすことに全神経を集中させると、感覚は鈍くとも自分の身体は把握できる。そして指先だけならばなんとか動く。一度動く感覚を覚えれば次の部位へと順々に拡げていくだけだ。その作業に苦痛は感じなかった。先の見えない努力には慣れている。

 

 一人になって頭に浮かぶのはついさっきまでここにいたラナーの顔だ。剣すらまともに振れない子供の頃からそばにいたのに、このわずかな時間のうちに見たこともない顔をいくつ目にしただろうか。

 悲しみに暮れる泣き顔、静かに震える怒り顔、乱れた髪と胸元に残った微熱。

 

(くそっ、早く、早く動け!)

 

 頭を真っ白にして身体を動かしていれば、つまらない煩悩はどこかへ消え去ってくれるだろう。だが復活直後の肉体はすぐにはいうことを聞いてはくれない。

 そうして失態と慚愧の念、主人への想いと後ろめたさが()い交ぜになった葛藤を抱えながら結局半日をベッドで過ごすことになった。




そもそも戦闘能力や魔法に関することでいえばナザリックに足りない人材を探す方が難しい気がします。

2018/11/9 行間を調整しました。

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