深紅のスイートピー   作:駄文書きの道化

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ACT.09

『――自覚はしてるんだろうから、余計なお世話なんだろうけどねぇ』

 

 空はどこまでも高かった。仰向けに転がって、大きく息を吸っていると語りかけてくる声が聞こえる。その声に苛立ちを覚えるけれど、それは声に苛立ちを覚えていたというよりは、どこまでも高い空そのものが憎かった。

 

『その道は血に塗れた悪鬼が進む道だよ。まぁ、悪魔に転生したアンタには今更な話なんだろうけどねぇ。けど、覚えておきな』

 

 指先一つすら動かすのもままならない。それだけ疲弊した体を無理矢理起こす。体が悲鳴を上げて、その場で転げ回って叫び出したい程だった。

 憎い、悔しい、恐ろしい、悲しい、苛立たしい、感情が入り乱れて涙になって落ちていく。けれど、それでも声だけは上げないように歯を食いしばって地面を引っ掻く。

 藻掻け、まだ動くのだから。ただそれだけを言い聞かせながら、耳に入ってくる声をどうしようもなく記憶していた。

 

 

『愛憎は合わせ鏡。愛も過ぎれば憎しみに変わる。そして逆も然りさねぇ。だから見失う前に、ちゃんと憎しみと向き合うんだよ』

 

 

 * * *

 

 

 ふと、意識が横に逸れていた。黒歌は一瞬の追憶から戻って目の前に転がる相手を見た。

 転がっているのはレイナーレだ。けれど、彼女は藻掻くように転げ回って、言葉にならない声で絶叫していた。目は血走り、頭を抱える手は髪を引き千切り、肉すらも抉らんとするように力が篭もっている。

 これは限界か、と。自分が施している術によって苦しむレイナーレの様子を冷静に眺めつつ、切り上げ時と判断して黒歌はレイナーレに近づいた。

 

「はい、終わりにゃ。休憩入れるよ」

 

 ぱん、と黒歌は手を打ち合わせるように叩く。びくん、とレイナーレの体が震えて糸が切れた人形のように転がる。その息は荒く、過呼吸になる寸前だった。目からは涙が止まる事無く溢れて、喉を掴むようにして喘ぐ。

 溜息一つ、膝をついてレイナーレの背中を撫でるようにして乱れた『気』を整えていく。やがてレイナーレが落ち着いてきたのか、黒歌を憎悪や恐怖といった様々な感情を入り交じらせた瞳で睨み上げる。

 

「こ、これ……ほ、本当に……い、意味が、ある、んで……しょう、ね……!?」

「じゃなきゃやる筈ないにゃん。ほら、深呼吸しな。落ち着いた状態をよく覚えておくんだよ。平常を保つって事はこういう事だにゃ」

「私の、……感情を、……弄っておいて、よく言うわ……!」

「何度も言ってるけど、直接弄ってる訳じゃないにゃ。ただ、そういう気の流れになるように乱してるだけにゃ」

 

 息が途切れそうになりながらもレイナーレは強い語調で言う。そこまで言えるのであれば、やはりレイナーレを自分に宛がったリアスの判断は間違ってはいなかったのだと黒歌は思う。

 レイナーレに施しているのは単純だ。術によってレイナーレの感情が『揺れやすい』ように仕向けただけ。時には怒り、時には悲しみ、時には憎しみ、時には恐怖を。感情の欠片を増幅させ、意図的に暴走させる。

 但し、それは洗脳とは違う。元来抱く感情を暴走させるように『気』を増幅させているだけだ。仙術の悪用と言えばそうだろう。そうしてレイナーレが発狂する寸前まで、これを繰り返す。

 そして発狂する手前まで感情を引き上げた後、平常に戻す。この繰り返しをするようになってから一週間は経過しただろうか。

 最初は平常に戻っても、リアスの血で作った中和剤と黒歌の気の支え無しに日常に過ごすのも困難だった事を考えれば、レイナーレの精神に対する干渉の抵抗力は上がっていると言えるだろう。

 

「何回も説明したけど『反無色(アンチカラー)』の特性があるからって言ったって『無色の力』は『夢幻』そのもの。一誠やイリナはそこに綺麗な感情を乗せてるから正しく使えてる。でも、それは安定と引き換えに爆発力や咄嗟の暴走への耐性が無いとも言えるにゃ」

 

 レイナーレと同じ力を与えられながらも、一誠とイリナが安定して育ってきたのは周囲がその環境を整えていたからだ。緩やかに成長出来るように、無理をしないように、無茶をさせないように、と。

 それは時間をかけて大切に育てられたものだ。かといって強かさがないと言えばそうでもない。適度な環境を保たれて育てられた一誠とイリナは、それ故にどこまでも正しく力を振るえる。

 敢えて欠点とするなら、それ故に一誠とイリナは徹底して悪意から遠ざけられてきた。悪意に耐えうる土壌が育ちきるまで。『無色の力』の有無は別として、これには白音も含まれるだろう。

 それは偏にリアスが眷属を大事にして育ててきた情愛の証明に他ならない。道を違えないように、自分を大切に出来るように。過保護とも言える程にリアスは正しく一誠達を育てて来た。その為に周囲を頼り、環境を整えて今がある。

 

「それは悪い事じゃないし、どこまでもリーアは正しいにゃ。ただ、一誠達はそう育ってきた為に感情の悪用が出来ないにゃ」

「感情の悪用、ねぇ」

 

 ようやく呼吸が落ち着いてきたのか、レイナーレが上半身を起こす。汗だくになったその顔には疲労の色がありありと見える。

 

「そう。感情に善悪なんてものはない。善悪を分けるのはそれぞれの価値観にゃ。『夢幻』の力は自分の心の合わせ鏡。一誠は『赤龍帝』としてある事を望んで、イリナはリーアの助ける為に必要なものを用意するという『創造性』を手にした。けど、あの子達は悪魔に言うのもなんだけど清らかなのよね」

「清らか、ね。まぁ、確かに甘ちゃんというか、優しさが過ぎるというか……」

「元々人間だしね。リーアが可愛がってたし。まぁ、だから悪用が出来ない訳にゃ。悪意があるとは知っていても、悪意に染まる事は出来ない。それは美点であり、欠点にゃ。例えば、今のレイナーレみたいに一誠達が『悪感情』を増幅された場合、途端に対処が難しくなるだろうね。正しい怒りなら良い、けれどこんな風に発狂を促されるような感情に身を任せたらあの子達はすぐ自滅する」

 

 そう、黒歌はこれこそがリアスを含めた眷属達共通の弱点と考えている。悪意の存在を知らない訳でもないし、清濁を飲み込む事も時としては良しとする。そう教育はされても、泥を飲み下す事も、泥に染まる事は出来ない。

 正しい思いで制御している『力』が反転した場合の事を黒歌は危惧している。それを一度、目の当たりにしているから尚更だ。黒歌の脳裏には、あの全ての契機となった日が過る。

 憎悪に染まって、獣のように荒れ狂うリアスの姿。一誠とイリナを殺され、彼等に向けていた愛情が憎悪に『反転』した時の事を黒歌は忘れずにいる。あの日の事は今でも昨日の事のように思い出せる。

 

「だから正直ね、レイナーレの力は私達に必要な力だと思ってるよ」

「え?」

「一誠とイリナが暴走した時に止められるのはアンタって事にゃ。良くも悪くも甘い子達だにゃ。……非情になるには優しすぎる。けど情だけで全部が上手く行くなら不幸な奴なんていないにゃ」

「……それは、そうね」

「あれでいいんだけどね、あの子達は。それだけじゃダメなの。誰かが盾になってやらなきゃいけない。受け止めるのも大事だけど、何も真正面からでも、直接でもある必要はないにゃ」

 

 そもそも触れさせるのだって嫌だと思っている自分がいる事に黒歌は苦笑する。あの子達は清らかなまま、立派な大人になって欲しい。多くの者に好かれ、共に歩んでいけるように。

 その輪にいたくない訳ではないけれど、輪を壊そうとする者は内外問わずに出るだろう。世界は流動するものなのだから。その時に心を痛めないように。だから輪から少し外れた所で見守るぐらいで良いと。自分の位置はそうだと黒歌は自分で決めている。

 そんな黒歌を見ながらレイナーレは思う。アンタだって十分甘いわよ、と。ようやく熱も引いてきた体が汗の不快感を訴えてくるのに眉を寄せながら。

 ふと、黒歌がレイナーレを覗き込むように距離を詰める。距離を詰められたレイナーレは少しだけ仰け反るようにして黒歌へと視線を向ける。

 

「レイナーレさ」

「な、何よ」

「一誠達を殺さなきゃいけなかったら、殺せるかにゃ?」

「……いきなりなんでそんな話するのよ」

「いいから、どうするにゃ?」

 

 黒歌は真剣な表情のまま、レイナーレに問う。レイナーレは黒歌が何を考えているのか伺うように見つめる。どれだけ間を置いたか、レイナーレの返答は呆れたような口調だった。鼻を鳴らして、黒歌から視線を逸らす。

 

「下らない。そんな仮定に意味なんてないわよ」

「ほー? どうしてそう言い切れるのかにゃ?」

「そうしなきゃいけないのがあの子達の為なら、躊躇う事なんてしないわよ。ただ、最後まで足掻くでしょ、アイツは」

 

 アイツ。それが誰の事なのか、互いに言わずとも理解出来る。

 リアスは、最後まで諦めないだろう。諦めないまま突き進んで、本当にどうしようもなくなったら自分の責任だと自分の手で決着をつけるだろう。だからこそ、そんな仮定に意味はないとレイナーレは思う。

 

「出来るのかどうかとかの問題も全部横に置いても意味がない問答よ、それ。必要だったらそうする。それだけでしょ」

「躊躇いはない?」

「あのね。躊躇うってわかってる相手だから覚悟させようとしてるんでしょ、アンタは。自分にもそうなの? やっぱりアンタだって甘いわよ。……どうでも良いって訳じゃないからこそ、そうしてやらなきゃって思った事をするんでしょ。それだけの話でしょ」

 

 だから下らない。レイナーレは心底、そう思って口にする。この一週間の間だけでも、いや、悪魔に転生する前から彼等に絆されてた来た自覚はある。感情を乱されて、掻き回されて、自分を見つめ直すようになってからレイナーレもようやく自分で認められるようになった。

 結局の所、自分は手を差し伸べてくれたリアス達を好ましく思っていた。思っていたからこそ、立場や能力、境遇の差などを比べて嫉妬していただけ。その垣根を一つずつ取り除けば、なんて事は無い。

 何かを天秤にかけるとして、それならリアス達を選ぶと。だから黒歌の仮定には意味がない。下らないときっぱり告げられる。必要になったら、それが間違ってるかどうかじゃない。そうすべきだと思ったら、そうするだけだから、と。

 悲しむ事もするだろう。嘆きもするだろう。けれど、だからといってそれを理由にする事は許されない。それこそ意味がない、意味を無くしてしまう事だと。

 レイナーレの返答を興味深げに聞いていた黒歌は、不意に表情を崩した。そのまま満面の笑みを浮かべて、レイナーレの髪を掻き混ぜるように撫で回す。

 

「あっはっはっはっ! 荒療治だったけど、まぁ、上手く行ったんじゃないかにゃ。そうそう、アンタはそれでいいにゃん。レイナーレ」

「ちょっ、撫でるな!」

「レイナーレ、愛憎は隣り合わせにゃ。愛も過ぎれば憎しみになる。そして憎しみの根底にあるのは誰かへの感情にゃ。それを見失えば、負の感情は己を焼き尽くすまで止まらない」

 

 最初は無造作に、段々と優しく頭を撫でていた黒歌は真剣な表情で言い切る。それは研ぎ澄ませた刃のように険阻で、レイナーレは思わず息を呑む。

 普段は巫山戯ていて茶化すような態度を取っている黒歌と、感情が見えないように冷淡な黒歌のギャップに驚くのも何度目か。わかっていても切り替えに追いつかない。

 でも、それが彼女なのだろう。そして、それを見せるという事は自分に必要なものだとレイナーレは考える。すぅ、と一息。意識を切り替えるようにレイナーレは表情に力を込める。

 

「あんたの『反無色(アンチカラー)』も同じにゃ。それは全てを『拒絶』しようと思えば出来る『(のろ)い』にゃ。陰陽における陰、日に照らされて生み出される影そのもの」

「だけど影は日の光によって生まれるからこそ、感情に任せて見失わないようにする。それが私の力に必要な要素って事でしょ」

「満点にゃ」

 

 ふにゃ、と表情を崩して黒歌は微笑む。ねぇ、と。前置きをしてから黒歌は問う。

 

「ここはさ、暖かいにゃ。誰もが当たり前に笑ってる。それを守ろうとしてくれる。苦しんでたら助けようとしてくれる。それが当たり前にある。それは幸せな事だにゃ」

「……そうね」

 

 いつしか認めていた。だからこそレイナーレもすんなりと言葉に出来た。リアスの傍は暖かいのだ。その周りに居る者も含めて愛情を惜しみなく注いでくれる。グレモリー家が情愛深き悪魔と言われるのが身に染みてわかる程に。

 だからこそ、その危うさも見えてしまう。だからこそ黒歌は己を律しているのだろう。貪欲に力を求めているんだろう。危険性があるのだとしても、それが呪わしきものだったとしても手を伸ばす。

 正しさだけでは救えないものがある。正しさだけでは守れないものがある。正しさだけで世界は回らない。正しさだけで回れば良いのに、と祈りながら。それでも叶わない現実から決して目を反らす事はなく。

 本当なら悪意の泥を飲む必要だって黒歌にはなかった筈。それでも悪意の泥を飲み込み、それを力とするのは、負の感情は燃えさかるには一瞬だからだ。そして絶やさずに燃やし続ければ莫大な力となる。

 

「アンタ、いつもあんな感情に狂いそうになっても涼しげな顔してたの? 呆れた」

「にゃははは、拾われる前に色々と経験してるからねぇ。慣れにゃ、慣れ」

「意図的な暴走は暴走じゃない、か。制御するって、そういう事。自分を見失うなっていう意味では同じだけど……私が一誠やイリナみたいに力を使えないのも、ようやくわかったわ」

 

 黒歌から視線を逸らして、レイナーレは立ち上がる。先程まで感情を狂わされて悶えていた体は、その枷を失って軽やかに思える程動けた。慣れというのは、つまりこういう事なのだろう。

 愛憎は隣り合わせ。過ぎたる愛情は憎しみに転ずるならば、憎しみはどこから生まれるものなのか。

 

「私、やっぱりどこかで彼奴等を妬んでるわ。でも、それでも良い。それでも良いって言える場所が出来たから。それでも誰もかも笑って許そうとするんでしょうね。だから馬鹿らしいわ。それなら這いずってでも前に進んだ方が良い。結局、誰かへの嫉妬を燃やしてるのは自分自身なんだから」

 

 力を持って、愛される環境にいて、歪む事なく育った一誠達を嫉妬する気持ちは消えそうにない。こびりついて離れない、それでいて自分自身を灼くように残り続けている。

 それで良いと思えた。その痛みから目を反らす訳でもなく、消そうと思うのではなく。それはそれで良いと。その熱を生み出しているのは自分自身に他ならない。なら、燃やし続けたままで良い。このままずっと。

 

「それが正しいとか、間違いとかじゃなくて。そうである事が私だから。それで良い」

 

 飾らない自分でいられる事がそれだけで幸せなのだと。何度も狂わされかけて思った。自分の感情が、自分のもののままである事がどれだけ幸せな事なのかに気付けた。

 平常である事を覚えろ、と黒歌が言った意味がパズルが嵌まるように理解出来る。あぁ、これが黒歌が自分に望んでいた状態だ。力を制御するという事は、覚悟というものは誰かに望まれてするものじゃない。

 判断するのは自分でしかないと。そう考えてこそ初めてこの妬みも恨みも辛みも、全てを飲み込んでいける。自分でも驚く程に感情を飲み込めて、それを恥じる事もせずに受け止められる。

 黒歌は淡く微笑むだけ。そこに返す答えは無い。それは黒歌にとって似ていても、同じではない。そもそも同じになる訳じゃない。響き合うように共鳴は出来ても、自分自身である事はたった唯一だ。

 揺るがない自我こそが、負たる力を制御する術なのだから。一誠達が輪の力であると言えば、ある意味で真逆とも言える。けれど、それも全ては輪の力に寄りそう為に必要だからこそなのだと。

 それに気付くだけで世界は変わる。もうレイナーレに瞳に恐れはない。憎しみもない。けれど、その全てが消えた訳でもない。燻るように昏い意志はその瞳に残り続けている。

 それでも、黒歌へと振り返るレイナーレが浮かべる表情は笑みだ。何度も繰り返した極限の挟間に見出した答えに胸を張れる。そんなレイナーレに満足げに黒歌は微笑む。

 

「……まぁ、早かった方かにゃ。リーアに比べれば」

「……ん? なんでそこでリアスが出てくるのよ?」

「アイツが“正しく力を使えてる”って思ってるにゃ?」

 

 黒歌の問いかけにレイナーレは虚を突かれたように目を瞬かせ、そして思わず口元を抑えた。気付いてはいけない事に気付いたように、思わずレイナーレの体が震える。

 

「……呆れた。まさか、アイツ」

「そう。リーアの変異形態は『自己否定』でもあるのよ。でも、同時に『自己肯定』でもある矛盾こそがリーアの本質よ。だからこそ全部飲み込んじゃう。愛も、憎悪も、全部。だから何でも影響を受ける。逃げる事も出来ないし、しない。『夢幻』という映し鏡は綺麗な夢なら良いけど、アイツが『敵』だって認識した相手に対する在り方は冷徹なまでの、徹底的な排除だにゃ」

 

 レイナーレの脳裏に過去の記憶が蘇る。獣のように吠え猛るリアスの姿、旧魔王派の、当時の自分では一瞬で消し炭にされていただろう相手を圧倒する姿を。

 リアスは甘い。誰にでも優しくあろうとするし、悪意を向けられても致し方ない、とする事が多い。『敵』とまで判断する事はあまりない。ただ、その数少ない『例外』に対してリアスは徹底して冷徹になる。

 ……いや、冷徹というのも言葉が正しくないかもしれない。それは『拒絶』と言えるのかもしれない。リアスは例え『敵』であったとしても心底から疎む事が出来ない。出来ないからこその防衛反応とも言えるのではないかと。レイナーレはそれに気付き、溜息を吐いた。

 

「……なるほど。形は違えど分け与えられた力には間違いない訳ね。アイツ、あんな甘っちょろい顔して、中身がそんなにぐちゃぐちゃになってるの?」

「継ぎ接ぎみたいなもんにゃ、私から見たらね。傷を覆って塞いで、傷が出来る度に『仕方ない』って皮を継ぎ接ぎにしていく。決して傷が癒えた訳じゃない。何かの拍子で破れれば……押さえ込んでたものが全部、溢れ出す」

 

 黒歌が淡々と己の考えを口にする。そこに憤りのような感情があるのは間違いない。けれど、黒歌は表には出すも、それを荒らげる事はしない。

 それこそ“仕方ない”と言うように。そんな黒歌の様子に溜息を吐きつつ、レイナーレは額に手を当てる。

 

「イリナの力で作ったものを、私は『拒絶』して砕いたけれど。リアスは『それ』を取り込めるって事は自我が薄いって訳じゃないわよね? ……いえ、違うわね。他人に自我が依存しすぎてる。それが自我になってる。だから、その我の中にいる誰かを大事にするし、それを侵そうとする者には容赦がない……、いえ、容赦を無くすしかない」

「流石、元研究者だけはあるにゃ。こういう話が出来る相手が少なくて、肩の荷が下りるにゃ」

「ちょっと、やめてよ。こんな面倒な事を押し付けるの!」

「別に放っておいても良いにゃ?」

「この性悪猫!」

 

 思いっきり聞こえるように舌打ちをしてレイナーレは悪態を吐く。黒歌が狙って話してるのは明らかだ。つまり自分が思ったよりも、自分の主となる悪魔は複雑な存在のようだとレイナーレは悟る。そして、悟った所でどうしようもない事も。

 リアスの『龍身転生・祈念変性』はイリナを信頼し、許容しているからこそイリナの願望に沿った変異を行う事が出来る。それは力が安定してもおかしくはないだろう、と。だってそれは「他者からそうあって良い」と許された自分そのものなのだから。

 自己否定をしなければ自分を保てない。常に自分を否定しつづける事で成立する自我は果たして正常な自我と言えるのだろうか。レイナーレにはわからない。わからないけれども、リアスがそういう存在であるという事は身に染みてわかった。

 わかってしまえば、あの絶大な力を持っているリアスに妬みの気持ちを浮かぶ事も無くなった。逆に憐れみが浮かぶ程だ。リアスは強くなれたからなったんじゃない。それは必要に迫られて環境に適応しようとする本能のようなもの。

 けれどリアスの本質は『夢幻』だ。グレートレッドと繋がる受け皿であるからこそ、その移ろいもまた激しい。リアスは『夢現』の化身。望んだ世界を形にする為には適応し続けなければならない。

 あまりにも繊細過ぎる。だからこそ、と言える存在なのだとしても。生物で言えば環境に適応しようとする進化が激しすぎるのだ。そして、進化しつづける生物に待っているものは何か。

 

「……あいつ、諦めたらぽっくり死ぬんでしょうね」

「まぁね。色んな鎖で繋がれてるから踏み止まってるだけで、何かの拍子で絶望したらあっさり消えるにゃ」

 

 元々、夢現。我を失えばリアスは夢のように消えていく。そんな不安定な存在だ。

 

「……本当に、気に入らない奴」

 

 愛されたいから愛されようとしてるんじゃない。愛されなければ存在している事すらもままならない。前提からして違う生き物なのだと理解させられた。

 そんな存在だから誰かを愛するのか、誰かを愛しすぎるからこそ成り果てたのか。卵が先か、鶏が先か。どちらであっても変わらない。結果として『リアス・グレモリー』という存在は成り立っているのだから。

 だからって愛してあげようなんて思う程、レイナーレは自分が素直な性格もしていないと憤る。根底でやっぱり気に入らないと心が叫んでいる。憐憫と嫌悪感、それが混ざり合って生まれるのは感情の不協和音だ。それがただ不愉快だった。

 

「呆れた?」

「呆れたわよ。馬鹿馬鹿しくなってきたわ」

「私も同じ事、思ったにゃ」

「…………今度、飲みましょうか」

「今の姿で飲んでも大丈夫かにゃ?」

「は? 知った事じゃないわよ。飲みたいから飲むわよ、飲まないとやってられないわよ」

 

 リアスは気に入らない。だけど、アイツの傍は暖かい。

 だから少し距離を取るぐらいで良い。なるほど、黒歌の立ち位置が自然とレイナーレは納得出来た。

 あまりにも眩しすぎる。あまりにも儚すぎる。そこに囚われる訳にはいかない。一歩隔てた壁が無ければいけない。下手に寄れば夢に囚われる。

 それも悪くはないのだろう、とレイナーレは思う。だが、それに自分が甘んじるのは激しく拒絶している。そんな甘ったるい夢に浸れる程、純粋ではないと。

 

「くっ、あっはっはっはっ! レイナーレ、やっぱりアンタがこっちに来て良かったにゃ」

「ふん。私は気に入らないわよ。というか、あいつに泣きついた自分が情けなくて舌を噛み切りたいんですけど」

「わかるにゃ。凄くわかるにゃ。でも」

「振り払うのだって、出来ない」

 

 だったら首根っこ掴んででも捕まえてるしかない。あぁ、なんて事だ、とレイナーレは嘆く。

 夢を見たのだ。そこに憧れて、その暖かさを覚えてしまったら。それを取り上げられるのは我慢がならない。つまりは、ただそれだけの事なのだ。

 それを尤も手放す可能性があるのがリアス自身だという事実が一番腹立たしい。巫山戯るな、と叫びたい程に。

 そんな思考に浸っていたレイナーレに、ふと黒歌が片手を上げる。それを見たレイナーレが首を一瞬傾げるも、すぐに意図を察して自分の手を勢いよく重ねる。

 打ち合わせるように鳴り響いた音。ハイタッチは鮮やかに決まって、互いの顔に浮かぶのは不敵な笑みだ。

 

「やっぱり意見が合うにゃ」

「癪だけど同感ね」

「改めてようこそにゃ、地獄まで付き合う気はある?」

「希望があるから絶望になるんでしょ? だったら最後まで付き合うしかないでしょ。但し、私は地獄に落ちる気なんてないわよ」

「満点!」

 

 黒歌は今まで見た事がない程に満面の笑みを浮かべる。それに笑みを返すレイナーレも今までで一番、笑えた瞬間なんじゃないかと思えた。

 黒猫と堕天使。夢見る悪魔によって、その生き方を転じる事になった2人は意気投合するように、もう一度高らかにハイタッチの音を響かせるのであった。

 

 

 * * *

 

 

「え? 一段落ついたの?」

「まぁね。思ったより早かったから、もう中和剤はいつもの予備を作るペースに戻していいにゃ」

 

 別荘の私の私室。思ったより血を抜かれたので、大人しく休んでいると黒歌がレイナーレを伴って訪れてくれた。私の世話をしてくれていたイリナも含めて4名がいる事になる。

 一誠は白音とまだ魔力の制御の練習中で戻ってきてはいない。そろそろ夕食の時間だから、戻って来る頃だとは思うけど。

 しかし、本当に思ったよりも血を抜かれた。お陰で正直、貧血になりそうだった。その甲斐もあってか、修行が始まってから死んだ目をしていたレイナーレが昔のような雰囲気に戻ってる。

 

「ふん、ご迷惑かけましたね。ご主人様」

「いたっ。……謝る気があるならデコピンする必要はないでしょ」

「アンタが抜けた顔をしてるからでしょ。あぁ、抜けてるのは血でしたっけ? 本当にお世話になりました」

「……良い性格になったね、レイナーレ」

「ありがとう、イリナ」

 

 私の傍で林檎の皮を剥いていたイリナが苦笑を浮かべる。それをものともせずにレイナーレは返答する。そこには黒歌が浮かべるような不敵な笑みが浮かんでいる。

 それは以前のレイナーレにも似ているようで、けれど確かに彼女が変わった事を意識させる笑みだった。それが嬉しくて、思わず笑みを零してしまう。

 

「何笑ってるのよ、気持ち悪い」

「ひ、酷くない? レイナーレが元気になったみたいで嬉しいのよ」

「そう。ありがと、お陰で助かったわ」

 

 皮肉を言われるか、怒られるかと思ったけれど素直にお礼を言われた。思わず虚を突かれたようになって、訝しげにレイナーレを見てしまう。

 昔のような面影はあるけれど、やっぱり変わったなぁ。それが妙に感慨が深くて、やっぱり笑みを浮かべてしまう。

 それを見咎められたのか、レイナーレの指が私の頬に伸びて抓られる。

 

「いひゃい!」

「だから笑わないでくれる?」

「ひ、酷くない!?」

「ふん」

 

 ぱっ、とすぐに指は離されたけれども痛みは頬に残ってる。な、なんか扱いが酷い気がする。嫌ではないけれど。この方がレイナーレらしい気がする。なんだか、それが凄く安心する。

 

「それでなんだけど。レイナーレの次の修行にはイリナも付き合って貰おうと思ってるにゃ」

「私も? 今まで声かからなかったから心配してたけど……うん、いいよ」

「ありがと。レイナーレに確認して、試したい事があってね」

「試したい事……?」

 

 イリナが訝しげな表情を浮かべる。私も同じような顔を浮かべる。確かにちょっと気になる。なんだろ、試したい事って?

 というか、レイナーレが具体的にどんな修行をしてるのか結局、教えて貰ってないのよね。私が知ると効果が薄くなるから、って。ただ、精神的に負荷をかける修行だとは聞いてけれども。

 次の段階にイリナが必要になる? うーん、確かに私達の力は心の在り方が重要だと言えるけど、どんな風にレイナーレの修行を続けるんだろう?

 

「まぁ、その内容は後日で。夕食の準備するかにゃ。今日は私も時間が取れたから手伝うにゃ」

「あ、そうだね。林檎剥いてからでいい?」

「私がやるわよ。いってきなさい、イリナ」

「……レイナーレが?」

「手先は器用よ?」

「……ま、まぁ、やるって言うなら良いけど」

 

 はい、と果物ナイフと林檎をレイナーレに手渡すイリナ。そのまま席を立って黒歌と一緒に部屋を退室していく。

 私も言葉が出ないまま、無言で林檎の皮を剥くレイナーレの姿を見るしか出来ない。本当、なんというか変わったわね、レイナーレ……。

 

「…………あのさ」

「え? な、なに?」

「色々あってちゃんと言えてなかったから。一度しか言わないからね」

 

 林檎を綺麗にカットして、それを皿に盛り付けながらレイナーレは言う。そして盛り付けた林檎が入った皿を無遠慮で渡して来るのを慌てて受け取る。

 

「ありがとう。私、生きてて今、一番幸せになれるって思ってるから」

 

 そっけない、ただそれだけの言葉。言いたい事は終わったと言わんばかりにレイナーレは部屋を後にしていく。

 ばたん、と扉が閉まる音が響いた。呆然と何も言えないまま見送る事になってしまった。それだけにレイナーレからの言葉を受け止めるのに時間がかかってしまった。

 ようやく思い出したように、レイナーレが切ってくれた林檎を噛む。手先は器用というのは伊達じゃなく、綺麗に皮が剥かれた林檎を食べながら呟く。

 

 

「……この林檎、ちょっとしょっぱいな」

 

 

 多分、そんな味がしたんだ。

 


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