深紅のスイートピー   作:駄文書きの道化

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ACT.07

「うーーーーーーん」

 

 自室で腕を組み、思い悩むあまりにそんな声を上げながら私は唸っていた。

 上級悪魔の仲間入り、“(キング)”の登録、“悪魔の駒(イーヴィル・ピース)”の入手。予定されていた儀式は恙なく終わり、大凡問題はなかったと言えた。

 その筈だったのだけど、問題はその後。それに気付いたのは、改めて駒を見て気付いた時の事。何が頭を悩ませているのか、簡単に言うとだ。

 

「なんで“変異の駒(ミューテーション・ピース)”がよりにもよって“女王(クイーン)”なのよぉ!!」

 

 頭を抱えて机に突っ伏す。そう、“悪魔の駒”の中にはシステムのバグとして“変異の駒”と呼ばれるものが存在する。

 それは本来であれば複数の駒を消費する必要がある対象を、たった一つの駒で賄えてしまうという、文字通り変異した駒。それは、私の持つ“悪魔の駒”の中にも確かに存在していたのだけども。

 

「よりにもよって、“女王(クイーン)”の駒の“変異の駒”なんてー……」

 

 ちなみにそれを報告したアジュカ様は大爆笑の後、興味深げに私の駒を調べていた。なんでも“女王”の“変異の駒”は初の事例らしい。なんという事でしょう。

 ちなみに、他の駒は普通だったので本当に例外的に“女王”の駒だけが“変異の駒”なのである。この事実を悟った時から、私は頭を抱え続けている。

 

「……使うの、渋るわよね。これ」

 

 駒の選択はとても重要。それ故、女王はその性質もあって一番重要な駒とも言える。その重要な駒がよりにもよって“変異の駒”。これは使う対象を本当に厳選しなければならないという事だ。

 アジュカ様からも、選定は厳しくするようにと厳命も受けている。いや、本当に困った話である。どうして一番価値の高い駒が、そんな特典付きのバーゲンセールを始めてしまったのか。これがグレートレッドの言う祝福なのだとしたら、一度ヤキを入れねばならない。

 “悪魔の駒”を収めている箱の蓋を閉じて、そのまま椅子の背もたれに背を預けるようにして天上を見上げる。先の話とはいえど、本当に頭の痛い話である。

 

「あ、そろそろ時間ね」

 

 部屋に備え付けられていた時計を見て、椅子を引いて立ち上がる。頭の痛い話は隅に置いておいて、もう少しで約束の時間だ。約束の相手が相手だけに遅れてしまえば何を言われるかわかったものではない。

 そう、今日は黒歌との“仙術”の授業である。

 

 

 * * *

 

 

「仙術って言うのは、前にも言った通り自然と一体化する事で、その生命力をコントロールする力。用途としては相手の気を乱したり、逆に自分の気を整えたり強化したり。問題は、世界に漂う悪い気とかも取り込むのもあって、使いすぎると暴走状態になる事」

「うん」

「で、根本的な問題なんだけど」

「うん」

「あんた生き物?」

「酷くない!?」

 

 黒歌から仙術に関する事前知識を学んでから、いざ実戦に入ろうとした所で私と黒歌は揃って初歩的な問題に躓いていた。

 なんでも私には生命にある筈の流れがなく、形容しがたい不思議な何かになっているらしい。それを最初に調べた黒歌が事ある毎に私を生物かどうかを疑ってくるので、流石にあんまりだと思う。

 

「無理無理。そもそも気のコントロール以前に、あんたの気はおかしすぎて習得出来たものじゃないよ」

「むむぅ」

 

 心当たりは正直ある。私の存在はグレートレッド由来の“無色の力”を受け取り、溜め込む器そのものだから。夢幻、実在しないものから力を汲み上げる為の心臓はグレートレッドの影響を受けて、確かに悪魔元来のものから変質しきっている。

 グレートレッドは本来、生物ではない。強固すぎる幻想が実体化しているだけであって、確かに生物の枠組みから外れていると言っても不思議じゃない。それに連なる私もまた、生命から外れた存在に変質しつつあるのかもしれない。

 つまり、結論として。私には仙術の取得は不可能という事だった。この結果には思わず項垂れてしまった。アテが外れちゃったなぁ。

 

「お姉様、どうしても無理そうですか?」

「白音にはまだ初歩的な事しか教えてないからわかんないかもしんないけど、わかるようになったらこいつがどれだけデタラメな存在かわかるよ」

「デタラメで悪かったわね……」

 

 私が落ち込んでいるのに気を使ってくれたのか、白音が黒歌に訪ねてくれているが返答は無慈悲なものだった。デタラメって、いや確かに私自身でもデタラメだとは思うけれど。

 うーん、でも落ち込む程ではないかもしれない。“通常”の習得は不可能でも、仙術の知識は私に一つの天啓をもたらした。そして、多分それは元々、私がやっている事と理論的には同じなのだ。

 

(多分、私は同化している先が“世界”じゃなくて“夢幻”。つまり、グレートレッドなんだ)

 

 つまり仕組みは同じ。違うのは動力源。今思えば、龍化なども考えてみれば身体強化の延長線上と考える事も出来る。

 それを私はイメージによって織り成している。無意識にやっている事ではあったけれども、仙術を学ぶ事によって幾つかの“型”が思い浮かんだのは収穫だった。

 イメージは力だ。源こそ違えど、似た波形を知る事は私のイメージを深める事に繋がる。そのものを習得する事は出来なかったけれども、これは嬉しい収穫だった。二人を拾えて本当に良かったと思う。

 

「しかし、仙術って制御が難しいのね」

「……そうだね。多用すれば、世界の悪意や邪気に飲まれて暴走する。そうなったら自滅待つのみだよ」

「世界の悪意、邪気かぁ」

 

 陰陽、光あれば闇もあり。まぁ、あって然るべきものだと思うけれど、どうにも私にはピンと来ない。こういう感覚がないから私は仙術が扱えないんだろうけど、仙術を使う者達にとっては戒めておかなければならない要素だと言う。

 今はこうして仲睦まじい姉妹が別れる事にもなった要因でもある、邪気を取り込んだ事による暴走。ふーむ、安全に使うには訓練あるのみって事なのかなぁ。ん? 待てよ?

 

「ねぇ、黒歌」

「何よ?」

「世界の気を取り込むって事は、相手の気を取り込んだりって事も出来たりする?」

「まぁ、そういう術がない訳じゃないけど……」

「私の気って取り込めたりする?」

 

 私の問いかけに黒歌は目を瞬かせる。その後、もの凄く嫌そうな顔を浮かべる。

 

「……アンタの得体の知れない気を?」

「そ、そこまで言う?」

「まぁ、出来なくはないけど。やれって言うならやるけど」

「……お姉様」

 

 仕事だし、って不承不承で言う黒歌。そんな黒歌の態度に腹を据えかねたのか、白音がぷくー、と頬を膨らませる。それを見た黒歌が気まずげな表情を浮かべて、頭を無造作に掻く。

 

「わかったよ。本気でやるんだね?」

「物は試しで言っただけだから、危険そうだったら別に良いわよ? その判断は私にはつかない訳だし」

「少量なら大丈夫でしょ、アンタは得体の知れない気はあるけれど、魔力って訳ではないから制御自体は問題ないと思うわよ」

「じゃあ、お願い。私はどうすれば良い?」

「…………んー。じゃあ、舌出して。べーって」

「舌? こう?」

 

 黒歌に言われるままに舌を出す。すると、黒歌が意を決したように私の舌を指でつまむように挟んだ。そのまま力を込められて引っ張られる。

 

「いひゃひゃっ!? なにふぉんのぉ!?」

「舌が気持ち悪いから喋らないでくれる? 唾液を少しでいいから寄越しなさい」

「ふぁきにいっふぇっ!」

「もう充分だよ、ったく」

 

 パッ、と舌から指を離される。瞬間、引っ込んだ舌に僅かに残る鈍痛に眉を顰める。黒歌の爪、尖ってて刺さった……血の味はしてないから、怪我はしてないみたいだけど。

 一方で黒歌は指で掬い取った唾液を訝しげな目で見た後、口に咥えている様子だった。唾液ぐらいでもいいのかな、こういうのって。

 

「――――」

 

 すると、黒歌が動きを止めて目を見開いていた。舐め取ったのか、指は唇に添えるようにして、僅かに開いた口をぽかんとさせて呆然しているようだった。

 

「……黒歌?」

「……」

「お姉様?」

「ちょっと、黒歌大丈夫?」

 

 思わず近づいて黒歌の方を揺さぶってみる。すると目の焦点があった黒歌が私と視線を合わせる。そして、私だと認識したのか、黒歌の目が睨み上げるように私を見る。

 

「アンタ、何なの?」

「いや、えっと、何が?」

「……本当に都合が良すぎて気持ち悪いんですけど」

 

 チッ、と舌打ちをした上で顔を歪める黒歌。どうしてそんなに不機嫌になるのかわからず、思わず白音と顔を見合わせる。

 そうしていると、ぴっ、と指を鼻に突き刺すぐらいに近づけて黒歌が言う。その目には不信の色がありありと浮かんでいて、でもどこか彼女自身も困惑しているようだった。

 

「何回も説明したね? 仙術には邪気や悪意を取り込む可能性があるって」

「う、うん」

「アンタの気は邪気も悪意もないどころか、澄みすぎてて馴染むんだ。つまり、あんたの気を取り込めば仙術をどれだけ使おうとも邪気や悪意を取り込む事はない」

「……それって、仙術のデメリットを回避出来るって事?」

「だからデタラメだって言ってんのさ、このお惚け!!」

 

 耳を引っ掴まれた上、その耳に顔を近づけた上で怒鳴られる。きーん、と頭の芯を震わせるかのような怒声に思わず耳を抑えてその場に崩れ落ちてしまう。

 癇癪を起こしたかのように黒歌もその場で地団駄を踏み出して、白音がオロオロと黒歌と私の顔を見合わせる。

 なんとか私も黒歌の音響攻撃から復帰し、黒歌も落ち着いた所で白音を交えて私達は机を囲んでいた。

 

「少量の気だったけど、ほぼ間違いない。アンタの気は仙術使いには喉から手が出る程に有用だよ」

「……ぁー、そういう事になるのか」

 

 無色の力は、仙術にとってはそういう風に作用するのかと。私の唾液だったから少量だったんだろうけど、それでも効果が実感出来るという事は、つまりそういう事なんだろう。

 思いつきでやってみた事だけれども、仙術を扱う者にとっては私の存在はデタラメな存在であり、黒歌曰く「頭がおかしくなりそう」というぐらいに変らしい。

 

「これが例えば血とか、肉体の一部だったら?」

「もっと凄い事が出来る」

「そうかー……」

 

 これは今までの既存の情報と変わらない。うん、成る程ね。まぁ、無色の力は夢、生きとし生ける者達の集合無意識、その欠片とも言うべきもの。力に馴染むものだからこそ、仙術の難点を解消してしまうには持ってこいだったんだろう。

 しかし、それを知ってからというものの、どうにも黒歌の様子がおかしい。どうにも苛ついているのはわかるけれど、同時に何かを悩んでいるかのようにも私には見えた。それは気になるけど、先に釘を刺しておこうか。

 

「この情報は口外しないようにお願いしても良いかしら? 黒歌。勿論、口止め料は追加で払うわよ」

「……わかった」

 

 どこか上の空、本当に聞いているのかと言う様子で黒歌は返答する。今日はこれ以上の意思疎通は難しいと判断して、溜息を吐く。

 心配げに黒歌を見つめている白音に後を任せる事にして、私はそのまま一言を残して部屋を後にするのだった。

 

 

 * * *

 

 

 黒歌と白音と別れ、夕食などを済ませた私は今日得た知識を元に、今後の私の力について考えた事をノートに記していた。時折図などを書き込みながら、自分の中のイメージを精密なものにしていく。

 ノリに乗った筆は随分と進み、気付けば手の痛みや目の疲れを感じるようになった。一区切りのタイミングかと思い、席を立って背を伸ばす。すっかり時刻は夜となっていて、なんとなく夜風に当たろうと思い、部屋のバルコニーへと向かう。

 個人の部屋にもつけられているバルコニーというのも、やはりまだ慣れないもの。扉の鍵を開けて、外へと出る。すぐに感じるのは夜風の気配で、作業に熱中していた頭を冷やしてくれるようで心地良かった。

 

 

 ――だから、それに気付けたのは本当に偶然で。その気配に私は咄嗟に視線を向けようとした。

 

 家の中で完全に油断しきっていた。そうと言えばそうなのだけれども、振り返った瞬間には私は口元を押さえられ、そのまま組み伏せられるように地に叩き付けられていた。

 背に走る鈍痛に眉を顰めつつ、私に馬乗りになるその姿に目を向ける。私は戸惑いながらも、私に馬乗りになっている相手、黒歌を見据える。

 黒歌はどこか興奮した様子で、目の中の瞳孔が絞られているのがわかった。そのまま私の口元を押さえている手を首に添え、力が加わる。首を折らんばかりの勢いに私は目を細める。

 

「黒、歌……!」

「……アンタが」

 

 目をギラギラとさせて、その瞳に明らかな害意の色を乗せて黒歌が呻くように呟く。力を込めている為か、その体は震えていた。それが何故か、力を込めているだけではないようが気がして、喉を圧迫する黒歌に手を掴む。

 

「アンタが、あんまりに都合が良いから、いけないんだ」

「……なん、の……事……よ……!」

「消えろよ、消えてよ、ねぇ、消えてよ、都合が良くて気味が悪いんだよ。アンタがいなきゃ、アンタさえいなきゃ、アンタがいなくならなきゃ私がおかしくなるんだ。だったら仕様が無いでしょ、ねぇ……?」

「ちょっと、黒歌……!」

 

 明らかに正気じゃない。まさか、私の気を取り込んだ事で暴走しているのかと不安が過って体に力が篭もる。その瞬間、頬に何かが落ちてきた。

 

「……黒歌、……ッ、なんで、……貴方、泣いて……」

 

 それを涙だと理解するのに少し時間がかかって、指摘した黒歌の表情が歪んでいく。

 

「わかんないよ、わからないよ、知らない、知らない……! 知らないんだ! ア、アンタが怖い、アンタが憎い……! アンタが消えないとおかしくなりそうなんだよ!! 私に近づいて来るアンタがあんまりに都合が良いから、消えないと私がおかしな夢でも見てるみたいじゃないか!!」

 

 手が震えて、力は込められているのにそれが力んでいるだけじゃないというのがはっきりわかって。息苦しさに喘ぎながらも、私は黒歌から目を反らせずにいた。

 涙はぼろぼろと落ちてきていて、黒歌の顔は更に歪んでいく。それは恐怖という感情に埋め尽くされたものだ。だからこそ、ようやく理解した。黒歌は怯えている。他でもない私に。

 

「必死だった、生き残るのに、白音を護るのに必死だった! アンタにわかるもんか! 私の気持ちがアンタにわかるもんか!! 死にかけながら必死にこいて仙術を覚えて、使って死にかけて……! そうして必死こいてきたものが無駄って言うみたいにあっさりと何でも無いように何でも手渡してきて……!!」

 

 込められた力に首の骨が悲鳴を上げて、息苦しさに目がちかちかする。それでも心は静かな程に凪いで、黒歌の声が通るように聞こえる。

 

「……黒、歌?」

 

 思わず手を伸ばして、黒歌の頬へと触れる。零れ落ちる涙を拭おうとして、頬に触れた瞬間に手の力が強まった。食いしばった歯は軋むような音を立てていて、噛みしめていなければ震えて音を鳴らしそうな程だった。

 

「死んで、死んでよ。死ね、死ね、死ね……! 消えていなくなれ……!!」

「ッ……、ぁ……!」

 

 骨が軋む音に、いい加減限界だった私も全力で抵抗する。角が髪を掻き分けるように伸びて、鱗が両手を覆い、力が増していく。そのまま黒歌の腕を掴んで握り込む。

 首が軋んだ音なのか、角が生える際の音なのか。不愉快な音と共に沸き上がった力でそのまま押し返すようにして黒歌を押し退ける。勢いのまま、黒歌がバルコニーの壁に叩き付けられるのを横目で見た。

 圧迫されていた呼吸を取り戻そうとするかのように咳き込みながら起き上がる。同じく起き上がろうとしている黒歌を見て、強く念じる。念じたままに体は動き、そのまま黒歌を壁に押し付けるようにして今度は私が彼女を拘束する。

 

「ひっ……!」

 

 引きつったような声、零れ落ちる涙は止まらず、かちかちと歯を鳴らして体を震わせている黒歌を視界に収める。

 その瞳を覗き込むように見つめた時間は一体どれだけだったのか、わからない。1秒だったのかもしれないし、1分だったのかもしれない。長いのか短いのか、それすらも計れない。確かな事は黒歌と視線を合わせ、向き合ったという事実。

 

「黒歌」

 

 自分でも静かな声が出たと思う。壁に押し付けるようにして抑え付けた手、それを握り合わせるように掴む。そのまま、黒歌の胸元に戻すように曲げさせる。

 ……正直、わからない。黒歌が怯えている理由は察する事は出来る。でも“わからない”。そう、黒歌の言う通り、私は黒歌の思いを推し量る事は出来はしない。

 仙術を体得するのにどんな苦労をしたのか、白音を護る為にどれだけの思いだったのか。死にかけて、と口にする彼女がどんな思いで苦しんで……施しを無遠慮に与えられてどう思ったのか、私にはわからない。

 

「わからない。私には、わからないよ」

 

 あぁ、わからない。だってそれは黒歌のものだ。だから、……だけど。

 

「……どうするのよ? 私、貴方を殺そうとしたわよ! ほら! どうするって言うのよ! 言ってみなさいよ!!」

 

 半狂乱になったように叫ぶ黒歌。私はその姿を見て……――思いっきり、拳骨を頭に叩き込んだ。

 手に鈍い感触、黒歌は頭が揺れたようによろめき、そのまま目に涙を浮かべて頭を抱えた。既に私は黒歌を解放している。蹲る黒歌を見下ろすようにして、私は息を吐くように告げる。

 

「当然、叱るわ。やってはいけない事をやったんだもの。貴方が反省するまで、何度だって」

 

 私の返答に、黒歌が顔を上げる。理解出来ない、と言ったような表情を浮かべて、後退ろうとして壁にぶつかる。

 なんで、と。辛うじてそう聞こえた呟きを零して。体の震えは止まっていない。私を見つめる瞳は、見つめているようで焦点が合ってない。

 もしも。もしも、本気で黒歌が私を殺そうとしていたならもっと手段があった筈だ。それこそ仙術で気を乱すとか、そういう抵抗だって出来たはず。

 それでも、それすらもしなかったのは。ただの感情の暴走だ。短絡的な、現状から抜け出そうとした反射的なものとしか考えられない。そこから導き出される答えに、私は溜息を吐くのを抑える事が出来なかった。

 

「……私が間違ってたわね。甘やかそうとして、うぅん。そんなつもりもなくても最善手を選べてなかった。あぁ、本当に嫌になる」

 

 黒歌に必要なのは、優しさなんかじゃなかった。いや、それは確かに必要なものだけど、順序を間違えたのだ。本当に勘違いをしていた。

 黒歌だって、まだ子供だった事を私は認識出来てなかった。そう、黒歌は心を閉ざした子供だ。そして無知な子供だ。“愛されて良い”なんて事も知らない。

 自分は愛する事は出来るのに、自分を愛される事は知らない。彼女に愛情を注ぐ筈の存在はとうに失われ、彼女はその受け取り方を知らないのだとすれば……あぁ、私が怖かっただろうに。

 大人のように扱った。利益を提示して、損得を選べるのだと判断して。本当になんて勘違い。これも先入観というのであれば、これは私にかけられた呪いとも言うべきものなんだろう。

 

「貴方は私が拾ったの。なら、私は貴方に対して責任と義務がある」

「何を……」

「黙って聞きなさい。いい、黒歌?」

 

 膝をついて、黒歌と視線を合わせて。無理矢理顔を両手で掴んで、額を合わせるようにして睨み合う。

 

「もう、幸せになっていいの。貴方は」

「――」

「護る為に、心を閉ざす必要はないの。強くなる為に、誰かを拒絶しなくていいの。受け入れなさい、私が貴方の救いよ。貴方がどんなに逆らったって、私が許さない。救われなさい、黒歌。白音と一緒に貴方は幸せになるのよ」

 

 そうしなければ生きる事が出来なかった黒歌を、否定する。

 そうだ、否定する。そんなの救われない。ここで見逃したら、私が知る未来を招いてしまう気がした。

 自分を護ろうとして、その心を閉ざすというのなら。そんな閉ざした心ごとこじ開けてでも救ってやらないといけなかった。彼女は私の知る黒歌ではないのだ。幸せに怯え、優しさに竦み、恐怖に惑う弱くも強い子だ。

 だけど、そんなの私が許さない。そう、絶対に。白音と約束をしたのだ。例え、約束がなかったのだとしても、この手を離す事なんてしない。

 

「私が怖い? 貴方に都合良く与える私が。良いわ、それなら好きなだけ怖がりなさい。でも、目を背けるのは許さない。何度だって私は貴方を救うわ。跳ね除けられても、噛みつかれても、貴方を手放す事なんてしてやらない。貴方が幸せを選んで受け取れるようになるまで、もう貴方を離してやるつもりなんかない。覚えておきなさい」

 

 何でも与えられる恐怖は、私にはわからない。私には何もかもが足りなかった。今も足りないと餓えている自覚がある。だから、もしかしたら黒歌との溝は埋まらないのかもしれない。

 だから、どうした。そう言い聞かせるように心の中で言葉にする。理解出来ないなら、理解出来るまで言葉に耳を傾ければ良い。牙を向けてくるなら、鱗で身を覆えば良い。爪を立てるなら、血を流したって受け止めてあげるんだ。

 

「ごめん。何もわかってなくて、本当に貴方が欲しかったものをきっと見落とした」

 

 頭を抱え込むように黒歌を抱き締める。私は、やはり馬鹿だ。いつだって理解が遅いし、理解した所で何が正解なんてわかりもしない。

 ただ、手放しはしない。それだけは絶対にはしない。したくない。するつもりもない。ここで彼女から手を離してしまえば、きっとまた心を閉ざしてしまうかもしれない。

 なら、こじ開けてでも言葉を届けて見せる。イリナや、クレーリアさんの時の失敗を繰り返す訳にはいかない。今はこれが正解だと信じたなら、これを最後までやり通す。

 

「はな、して」

「嫌よ」

「はなせ、よぉ」

「離さない」

「私には、白音がいればいいの」

「そんなの許さない」

「きらい、きらいよ、アンタなんかきらい」

「どうでもいいわ、嫌いだとかそんなの」

 

 爪を立てて、引っ掻いて、傷つけて、なんとか逃れようとする黒歌を抑え付けるように抱き締め続ける。何度も引っ掻いて、引っ掻いて。

 そうしたいなら、何度でも引っ掻けば良い。それでも絶対に離しはしない。そんな思いを込めて黒歌を抱き締めて、頭を撫でる。

 

「いやだ」

「そうね」

「はなして」

「嫌よ」

「きらい」

「知ってる」

「やさしく、しないで」

「弱くなるから?」

「白音を、守れなくなっちゃう」

「いいわ、弱くなってしまいなさい。私が守るわ、貴方達を」

「誰も、そうしてって、言ってない……!」

「そうね。だって、貴方は選んで良いって知らないもの」

「ちがう、ちがう、ちがう……!」

 

 爪を立てて、藻掻くように引っ掻いて、私の腕に爪の痕が刻まれていく。所々、血が滲む箇所が浮かぶ程だ。だけど、こんな痛みなんてどうでも良い。

 

「貴方が白音にしてあげた事、貴方が受け取ってはダメな理由なんてないわ」

 

 愛するなら、愛されても良いの。白音では、確かに支えとはなれても包む事は出来なかった。

 それなら私が包もう。全て夢幻だと言うのなら、それが確かになるまでこうしてあげよう。夢を現にするものこそ、私ならばと自負するならば。

 

「愛してあげる、黒歌。まず私が、何より私が愛してあげる。だから、愛される事に怯えないで。貴方が感じたもの全て、それは貴方が受け取って良いものなんだから」

 

 引っ掻く力が弱くなって、爪を立てたまま呻くように泣き声を零し始めた黒歌の髪を梳くように抱き締め続ける。その震えが止まるまで、撥ね除ける力がないのなら振り解くなんて許さないんだから。

 

 

 * * *

 

 

「……怖く、なったの」

 

 黒歌が落ち着いた頃、私は黒歌を自分のベッドに座らせて、その隣に腰かけていた。

 暫く無言で、感情の抜けたように何も言わずぼんやりしていた黒歌が長い沈黙を破って告げたのは、まずその一言だった。

 

「……母親がいなくなって、白音と残されて。自分達で生きて行くしかないって悟って、白音は私が護らなきゃってずっと思ってた」

「うん」

「助けなんて求めてなかった。助けてくれないって思ってた。誰も、信用出来なかった」

「うん」

「……今も、怖い。今が、凄く怖い」

 

 頭を抱えて、髪を引っ掻くようにして爪を立てる黒歌に目を細めるも、手を出さないでぐっと堪える。今、手を出すのは違う、と。さっきの二の舞になると思ったから。

 

「暖かくて、飢える事もなくて、死にかけなくても良くて、白音が当たり前のように笑うようになった。それが、失われるのが恐ろしかった」

「うん」

「信用出来なかった。何も、何も。貴方も、この場所も……自分すらも。何も出来なくなるのが、怖かった。何もしなくて良かったのが、怖かった」

「……それは、なんとなくわかるな」

 

 あぁ、本当によくわかる。私は深く頷いて、ここでようやく黒歌の背を撫でる事が出来た。私よりも大きな、けれど細い体。しなやかな体つきだけど、折れてしまいそうに華奢で。まだ骨の感触を感じる方が強くて。

 今の彼女という存在を確かめる。これが今の黒歌なのだ。現状に怯えて、どうしていいかもわからない。ただ与えられ続ける事に耐えられなかった程に弱い子供だ。

 白音と違ったのは、黒歌が白音に絶え間なく愛情を注ぎ続けていた。そんな黒歌を白音もまた愛していただろう事は想像に難くない。だけどやっぱり白音は幼いから、支え以上になる事はなかったんだろう。

 だから黒歌は愛を受け取れない。ただ愛されるだけでは耐えられない。なんだか、身に詰まる思いでいっぱいになる。それは私が何よりも知っていた筈の苦しみの筈なのに見落としてしまった。

 

「黒歌、ここにいて良い理由をあげるから。もうちょっと頑張ってみない?」

「……ここにいて良い理由……?」

「なんだってあげるわよ。今なら、そうね。私が拾ってあげた恩を仇で返したのだから、その分は償って貰おうかしらね」

 

 罪には罰を。許しを与えるだけでは癒せないのなら、少しずつで良い。少しずつで良いから受け取る事を覚えさせていかなきゃいけない。

 ふぅ、と一息。立ち上がった手を打ち合わせて、ぱんぱんと鳴らす。

 

「見ていたんでしょ、グレイフィア」

「申し訳ありません、お嬢様」

 

 やっぱり。私が呼ぶと、部屋の中に入ってきたお義姉様の姿を見て納得する。なんとなくそう思ってたけれど、私を襲いかかってきた段階で、或いはその前から気付いてたようね。

 大方、私が拾った手前、私が手に負えなくなるまでは静観するつもりだったんでしょうけど。……それなら、少しは信頼には応えられたかな? そう思いながら、お義姉様の顔を覗き込む。

 しかし仕事モードだと、やっぱりその顔色は窺えない。まぁ、いいや。今はやるべき事をしよう。

 

「黒歌を躾けてあげて頂戴。そうね、罰の内容は私の専属メイドに、とかはどうかしら? 拾った恩を仇で返すぐらいだもの。それぐらいはやってもらいましょうか」

「それをお嬢様が望むなら」

「えぇ。徹底的に躾けてあげて頂戴。もう私に爪を立てる気力が無くなる位、たっぷり絞ってあげて頂戴。やり方は任せるわ」

「……えっ、ちょ、ちょっと待」

「畏まりました」

 

 黒歌が何か言う前にお義姉様が黒歌の首根っこを掴み上げる。ぶらり、と吊り下げられた黒歌は目を白黒とさせて暴れようとしたものの、お義姉様は意に介した様子はない。

 

「あぁ、罰として暫く語尾には「にゃん」を付ける、という罰もつけましょうか。猫ですし。多少は飼い主に媚びるという事を教えないとね」

「か、飼い主!?」

「それは妙案だと思います。それでは私はこれで。別の者を呼びますので、素直に治療を受けてくださいね、お嬢様」

「ありがとう、後はお願いね」

 

 器用に黒歌を脇に抱えて一礼して去って行くお義姉様。扉を閉める直前、仕方ないというように溜息を吐かれたけれども、その表情に微笑を浮かべていた事を私は見逃さなかった。

 

「……さて、と。手の治療が終わったら、黒歌の代わりに白音の所で寝てあげましょうかね」

 

 寂しくなんてさせない。黒歌も、白音も。

 ……あぁ、寂しくさせないと言えば。イリナや一誠、朱乃は元気にしているだろうかと脳裏に浮んで、思わず苦笑を浮かべてしまった。

 

「ごめん、三人とも。もうちょっと時間かかるかも」

 

 でも、今度は新しい友達を紹介するから。そんな未来に思いを馳せながら、私は小さく一息を吐いた。

 

 

 


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