義昭様が素振りをするのを見守りながら時折握り方を直したり、振り方を直すようにと口を出す。最初に出来ていたとはいえ、それがずっと維持されることはそうそうない。握る手に力が入っていたり、剣筋がぶれていたりするのも仕方が無いことだ。
とりあえず口を出して、見本を見せて、必要なら実際に手を取って剣の振りを確認する。そうして少しずつ改善を繰り返しているのだが、流石義昭様。最初よりもずっと綺麗な振りになっている。
後はこの状態で素振りを続けていれば体力の限界と共に、理想的な振り方が出来るだろう。ただ、それは最後の一振りになって漸く、であるのでその感覚を掴めるかは義昭様次第だ。まぁ、一度でダメなら日を改めて何度でも挑戦するのが良いのかもしれない。ただしそれは義昭様の心が折れなければ、である。
ただ、こうして見ている限りでは大丈夫だと思う。義昭様は真剣に取り組んでいるし、一度やると決めたことをそう簡単に投げ出してしまうような方ではない。俺が気にすることと言えば、頑張りすぎて無理をしないかどうか、ちゃんと見極めることだろう。
ヨシテル様がそうであるように、義昭様も無理をしてしまう可能性は大いになる。そして本人はそれは必要なことだと割り切ってしまうために、無理をしているとわかっていても止まらない。
だから外から見ている誰かが止めるしかないのだ。まぁ、そうして止めることの出来る人間がどれほどいるのかわからないが、一応俺は止められる。時に実力行使になってしまうがそれは仕方が無い。
そうして義昭様が素振りをするのを見届けていると、少しずつ体から力が抜け始めているのが見て取れた。どうやらそろそろ限界らしい。
里では限界まで鍛錬を続けて、最後に立っていることが出来ずに倒れてしまう人が何人もいたのでいざというときのためにすぐに動けるようにしておく。限界まで素振りをさせているのは俺だが、それで倒れた結果怪我をさせてしまうなんてことはあってはならない。
本当に限界が来ており最後の一振りを決めた義昭様はそのまま力なく倒れそうになっていた。ただ、準備をしていた俺はその前に義昭様を支える。
「お疲れ様です、義昭。最後の一振りは正に理想の一振りでしたが感覚は掴めましたか?」
「す、少しだけですが、なんとか……それよりも、兄上。普通そこは心配する場面だと思いますよ……」
「鍛錬の終わりなんてこんなものです。まぁ、未だに子供である義昭にそうした鍛錬をさせることは心苦しいものがありますが、本人がすると決めたのなら俺からは何も言えません。
そして心配はしていますが、それ以上に得るものが何もなかった。なんて笑い話にもならないので確認しておかなければ」
「あはは……兄上は、甘いようで厳しいですね……」
確かに普段は甘いところもあるが、本人が望んだ鍛錬において妥協はない。そんなものがあっては成長など出来ないからだ。やると決めたならとことんやる。そうしなければ目標を達成することなど夢のまた夢だ。
それにヨシテル様がその目標となる人であれば厳しくもなる。あの方は才能があるから強くなったというわけではないからだ。過去からどれだけの研鑽を続けて来たのか、俺にはわからない。だが俺とて忍としての修行を続けて来た。その修行よりも楽だったということはないだろう。
だからこそ義昭様にも厳しくしてしまう。まぁ、ヨシテル様のようにやりすぎてしまう、ということはないのだが。
「厳しくもなります。ですが……終わったのであれば休憩にしましょう。歩けますか?」
「ええ、そのくらいなら……ただ暫く何も握れそうにありませんけど……」
「それは仕方が無いかと。手にも肉刺が出来ているでしょうから、薬を塗っておきましょうね」
何度も剣を振るうことで肉刺が出来るのは当然としても、何の処置もせずに放置していては義昭様も辛いだろう。俺の持っている塗り薬を使えば大分良くなるはずだ。
これから先も鍛錬を続けるのであれば現在持っている薬の量で足りるのか、少し不安にはなるが……今度里に戻る予定なのでその時にでも貰っておこう。作ることも出来るが材料がなかなか揃わないのが難点だ。
そんなことを思いながら義昭様が途中で倒れないように支えながら縁側まで連れて行く。そして腰を降ろすのを確認してから片膝立ちになり手拭いで顔に浮かんでいた汗を拭く。
「ありがとうございます。はぁ……覚悟はしていましたが、大変です……
でも姉上と兄上はこれよりもずっと辛い鍛錬や修行を続けてきたんですよね……」
「はい、そうなりますね。特にヨシテル様は現在最強の戦国乙女と呼ばれるほどの方ですので、その鍛錬も俺や義昭の想像よりも遥かに辛く苦しい鍛錬を続けてきたことでしょう」
「やはりそうですよね……なら、これくらいで弱音なんて吐けません。少し休憩したらまた再開しないと……」
「いえ、義昭。初日から無理をするのは見過ごせません。それに前に言いましたがまだ子供の身で無理をしても良いことなんてありません。今日はこれで終わりにして、また明日から頑張りましょう」
頑張らなければならない、だからまだ続ける。そういう考えはとても良くわかる。というか子供の頃の俺がそうだった。
ただ、その時は師匠にそんな無茶なことをしても強くなんてなれない。と怒られたのだが。
今にして思えば、師匠に怒られたのはあれが初めてだったような気がする。普段から温厚な方で、めったなことでは怒らないが怒ると怖い。まぁ、奥方様の方が怖いのだが。
そんなことよりも、薬を塗らなければ。
「少し染みるかもしれませんが我慢してください」
「ええ、わかりました」
義昭様の言葉を聞いてから手を取り、見てみると当然のことながら出来た肉刺が潰れていた。先ほど出来た肉刺がすぐに潰れた。ということだろう。
薬自体が染みるのは仕方ないが、力を入れすぎて義昭様が痛がらないように注意しながら薬を塗っていく。痛みに顔を顰めているようだったがこれからの鍛錬を思えばこの程度我慢してもらわなければ。
……とはいえ、そうして顔を顰めている義昭様の姿は見ていて楽しいものではない。流石に義昭様相手に愉悦なんて出来るわけがないか。
「……良く我慢出来ましたね。少し染みたとは思いますが、これを使うか使わないかでは後々変わってきますので次に肉刺が潰れた場合は同じように使いましょう」
「はい……ところで、それはどういう薬なんですか?」
「里に伝わる秘薬の一つです。とは言ってもそう特殊な物ではないのでこうして持ち出してもお咎めはなし、なんですけどね。痛み止め、治癒促進、それから傷痕が残り難くなります。
傷があるせいで忍であるとばれる。なんてことがないように、こうした薬が作られたそうですが……まぁ、肉刺に使うのであれば掌が硬くなるのは硬くなりますが、使わない場合よりも見た目に変化は少ないはずです」
例えば顔に大きな傷がある人間が普通の人間として認識されるだろうか。何かの事故で怪我をしてしまい、傷痕が残ったとしてそれでも普通の人間だと認識出来るのはその事情を知っている人間だけだ。
何も知らなければ何者なのか疑問に思ってしまう。だからこそ傷痕は残らないようにしなければならない。ほんの少しの疑問が、小さな違和感が命取りになることがある。忍なんてものはそんなものだ。
「なるほど……兄上は不思議な薬も持っているのですね」
「不思議な薬、と言われるとあまりよろしくない印象を受けるので出来ればそういった表現は遠慮していただきたいです。
とりあえず、義昭様はこれからの鍛錬で肉刺が潰れたり怪我をしたら使ってください。後で予備の薬をお渡ししますので」
「ありがとうございます、あ……じゃなくて結城」
兄上、ではなく名前で呼んだことから誰か来たのが見えたのだろう。俺からは見えないが気配でわかる。だからこそ義昭様を呼び捨てにしなかったのだが。
というか聞かれたら厄介なことになる相手がやって来た。
すっと目線を向けるとミツヒデ様が此方に向かって歩いてきている。ミツヒデ様はミツヒデ様で任務を終えて戻ってきたようだ。幾らか前に二条御所に戻ってきている気配はしていたので、先にヨシテル様の下へ向かってからこっちに来た、というところだろう。
義昭様の手を取った状態の俺を見て、驚いたように目を見開いているがどうしたのだろうか。義昭様とのお互いに対する呼び方は聞かれていないはずだから問題ないはずなのだが。
そう思ったところで自分の今の格好を思い出す。普段の格好とは異なる、ヨシテル様の格好をモチーフにしていると一目でわかる格好をしていることを。
何か言われるのだろうな、と思いながら義昭様の手を離してから立ち上がりミツヒデ様を見ると言いたい事がある。ということが顔を見て簡単にわかった。
ただ、義昭様の手前、俺に何か言う前に義昭様へと帰還したことを伝えなければならない。だからひとまず後回しにしよう。とでも思っているのだと思う。
まぁ、何か言われるのは確実なので少しばかり気が重くなるのも仕方のないことだろう。
「義昭様、このミツヒデ無事帰還致しました」
「無事で何よりです、ミツヒデ。この後は特に任務などはないのでしょう?ちゃんと休んでくださいね」
「はい、わかりました、義昭様。
……ところで結城、お前も戻ってきていたのだな」
「ええ、先ほどまで義昭様の剣術の鍛錬に付き合っていました。
ミツヒデ様……俺がいない間、二条御所、引いてはヨシテル様や義昭様に何か変わったことなどはありませんでしたか?本人から聞くよりも、第三者として見れるミツヒデ様なら何かあったとしてもすぐに気づいていると思いますので聞かせていただきたいのですが」
とりあえず何か言われるにしても話題を少し逸らしておこう。この後ヨシテル様の下へと戻らなければならないのだから、いつでも逃げ出せるとはいえ放っておけば今すぐにでも言われそうだ。
少しばかり話をして、それから逃げよう。義昭様ともう少し話をしたいとも思うが……刀を受け取ってからでも問題はない。……義昭様が満足するまで、という話だったのに逃げるのだから、後でちゃんと謝っておかなければ。
ただ、そんなことを思っていると義昭様がまるで仕方のないとでも言うように俺を見ているのでこの思考は読まれているような気がする。というか完全に読まれている。少し離れた間に更にそういった面において成長をしているらしい。
頼もしいがとても恐ろしい。純粋な力ではどうしても戦国乙女の方々に劣ってしまうが、こうした相手の考えなどを読むことに関しては織田様と同等なのではないか、とさえ思ってしまう。
「え、あ、あぁ……そうだな……
ヨシテル様は少し考え込むことが増えたが……まぁ、どうしてなのか私にはわかっている。結城が気にするようなことではない。
それと義昭様だが、そうして接しているのだから分かっていると思うがお変わりはない。ただ……以前よりも幾らか頼もしく思うことがあるな……」
ヨシテル様が何か考え込むことが増えた。というのが気になる。後でそれとなく探ってみよう。
義昭様に関してはどうやらミツヒデ様も俺と同じで成長をなんとなくは感じられているらしい。まぁ、事実義昭様は俺が二条御所を離れている間に想像以上に成長しているようだった。
男子三日会わざれば刮目して見よ、と言うがその言葉の意味を実感してしまう。
「二条御所については、そうだな……竜胆、鈴蘭、睡蓮の三人が忍衆をまとめくれていたおかげで特に問題はなかった。ただ、カシンが帰った後に本人にその気はなかったようだが、カシンの気に中てられた侍女や兵士が体調を崩してしまったな。
まったく、ただそこにいるだけでああなるとは……やはり恐ろしい相手だ」
そう言うミツヒデ様の表情は硬く、カシン様の恐ろしさというか厄介さというか。そういったことを再度肝に銘じているようだった。ただ、あの姿で来たからこそその程度で済んでいたが、本来の姿であれば今回以上に酷い有様になっていたのではないだろうか。
そんなことを思ってから、ふとカシン様はそうなることを理解していたからこそユウサイ様の姿で来たのではないか、と思ってしまった。
以前までのカシン様であれば絶対にないと言い切れるのだが、最近の変わってきているカシン様が相手だとそう断言することが出来ない。あの方は良い方向に変わっているとわかっている分、そんな可能性を思ってしまった。
ただそれを口には出さない。確証はないし、もしそうだとしてもカシン様はそれを言われるのを嫌がるだろう。というか絶対に嫌がって何らかの仕返しをして来るに違いない。それに関しては以前から変わりないのだから。
「後は……あぁ、そうだ。
何故か結城の格好がヨシテル様を彷彿とさせる物になっている。という私にとって大きな問題なら今さっき気づいたな」
しまった。そういう話に繋がるのかこれは。
「さて、私から話を聞きだしたのだから次は私が結城から話を聞く番だな。
どうしてその格好をしているのか、聞かせてもらうぞ」
ミツヒデ様の目が笑っていない。どうしてこうこの方はヨシテル様と義昭様のことになると冷静に見えてとち狂ったような状態になるのだろうか。
お二人を大切に思っている俺でさえそんな状態にはならないというのに。これが忠誠心の差なのだろうか。もしくは個人差、というかミツヒデ様の性格によるものなのだろうか。全くわからない。
適当に誤魔化したり逃げ出すことを許さない。とでも言うような目つきに変わってきたので仕方なしに事情を説明する。本当ならもう少し落ち着いてから、もしくはヨシテル様がいる前で冷静に振る舞わなければならない状況で説明がしたかった。
いや、義昭様がいるのだから暴走するようなことはないだろうが、それでも少し心配になってしまうのだから仕方ない。
そう思いながら全ての説明が終わるとミツヒデ様は何か考え込むようにしてから一つ頷いた。
「なるほどな……リキュウ殿が……」
「ええ、宗易様からの贈り物です。ヨシテル様とお揃い、などと言われてしまい恐れ多かったのですが……ヨシテル様からはヨシテル様と義昭様の護衛、それと二条御所の警護の際にはこの格好で。とのことでしたので……」
「……まぁ、なんだな……確かにその、似合っている、と思うぞ?」
「え、あ、はぁ……ありがとうございます……?」
また何か言われるのだろうな、と思っていたら似合っていると褒められた。そんな言葉をかけられるとは思っていなかったのでとても困惑してしまい、感謝の言葉を口にしながらもつい疑問符を浮かべてしまった。
そしてそんな俺とミツヒデ様を見て義昭様は微笑ましい物を見るような、生暖かい目で見ていた。どうしようか、とても気恥ずかしい。いや顔には出さないが。
「まったく……ミツヒデ、そんな歯切れの悪い言い方だと結城も困ってしまいますよ。
ほら、結城もちゃんとお礼を言わないとダメです」
「わ、わかりました義昭様!
ゆ、結城。その格好だが、とても良く似合っている……きっと私ではそうもいかないだろうと想像がつく分、少々悔しく思うほどに」
「えっと……ありがとうございます、ミツヒデ様。
でもそれ褒められているのかどうか微妙な言葉を後ろにつけない方が良いと思います。
それと、こうしたヨシテル様に似せた格好が似合わないと思うなら何処か一つ、装飾をヨシテル様の物に似せてみるというのはどうでしょうか」
「……装飾を、か……それは結城の髪飾りのように、家紋を入れたり、ヨシテル様の格好と似た意匠を施したり、そういうことか?」
「ええ。あ、いえ……ミツヒデ様がそうしたいと思うのであれば、の話です」
「なるほどな……助言に感謝するぞ、結城」
「大した助言でもありませんし、お気になさらずに」
どうしてだろうか。適当に言ったことなのにミツヒデ様が何かやる気になっている。
もしかしたら俺の言葉を本気にして、何かヨシテル様と似通った装飾を施すつもりなのだろうか。別にそうしたことは構わないが、ミツヒデ様のイメージカラーの問題からその装飾が大きくて目立つものだと不恰好になりそうだ。
今それを言うのはやる気になっているミツヒデ様に悪いので、そうしたこと物を付けた際にでもそっと言っておこう。折角面倒なことにならなかったのに、自分で面倒ごとを引き寄せるようなことはしないに限る。
ただ、まぁ……なんというか、信用されていないと思っていたのだが実はそうでもないような気がしてきた。ミツヒデ様は俺に対していつも厳しい口調なのだが……もしかするとただ単純にヨシテル様や義昭様から信頼されている俺が、自分と同じようなポジションだと思って警戒しているのかもしれない。
もしくは俺が足利軍に所属した当初に辛辣とまではいかないまでも、今以上に厳しいことを色々と言っていたのでそれが引っかかってしまっているのかもしれない。
しかし、それはわざわざ俺が指摘することでもない。ミツヒデ様がなんとかしなければならない、と思っているなら自分でどうにかするだろう。
もしそれでもミツヒデ様だけではどうにもならないというのなら俺から歩み寄っていくのが良いだろう。ミツヒデ様は少し不器用なところがあるので、きっと俺が幾らか歩み寄ることになるのだろうけれど。
まぁ、俺個人としてもミツヒデ様とはもう少し仲を良好なものにしておきたいと思っている。同じ足利軍に所属していて、ヨシテル様を支える者同士なのだから。
「……結城、私のことは良いのでそろそろ姉上の下に戻ってください」
「義昭様、よろしいのですか?」
「はい。私は充分に相手をしてもらいましたし、この後も結城はやることがありますからね」
「わかりました。ではミツヒデ様、義昭様のことをお願いします」
「あぁ、任せてくれ」
義昭様からもう充分だとの言葉を貰ったのでヨシテル様の下へ戻ろう。
この後は休みになっているというミツヒデ様には申し訳ないが、義昭様のことは任せる。ミツヒデ様からも任せてくれ、と言われたので大丈夫だ。
ただ、なんというか……義昭様は本当は満足していないが、そろそろヨシテル様が待ちくたびれているだろうと思ってそう言ったような気がしてならない。
……ヨシテル様の用件が終わったら、もう一度義昭様と話をするのも良いかもしれない。もしくは一緒に琥白号の世話をしよう。義昭様も琥白号の世話をするのは存外楽しそうにしているので悪い考えではないだろう。
まぁ……その際にはヨシテル様も連れて行こう。普段から馬派だと言っているし、義昭様の子供らしい一面を見たいとのことなので丁度良いはずだ。
頑張る義昭様が見たい。兄上って呼ばれたい。応援したい。兄上って呼ばれたい。
ミツヒデ様とこう、微妙に距離があるような状態から歩み寄られたい。不器用ながらに少しずつ歩み寄ってくるミツヒデ様とか可愛いと思う。