静粛な空気が支配する道場。
そこは焦凍にとっては、世界で1番嫌いな場所だと言っても良いだろう。幼少期、何度も何度もここで
食べたものを吐き出した日もある。
殴られた部分が痛んで、眠れなかった日もある。
何度も何度も、母の膝で泣いた。
……No.2ヒーローという栄誉ある名を冠していても、あの父親はその当時焦凍にとっては、恐怖の対象であり、憎悪とまでは言わなくとも、母を虐げる『悪い人』だった。
自分がNo.1になれないのであれば、自分の子供をNo.1ヒーローにする。
向上心と虚栄心の入り混じった歪んだ願望が、個性婚という間違った方法で母を縛り付け、兄や姉を失敗作と呼び、焦凍という存在を生み出した。
No.2の浅ましい欲望。
そんな男から生み出されたかと思うと、それだけで憎悪が沸き立つ。
血を全部抜き出して、父親に関わる部分を全て捨て去りたい。
……もし、母が父に知られなければ。
出会わなければ、きっとこんな悲しい事にはならなかった。母は今も笑顔で生きていたのだ。
自分の子供に、熱湯を掛けるなんて事は、しなかった。
だからこそ、焦凍は父を超える。
母から貰った
そう誓ったのは、母に熱湯をかけられたあの日からだ。
それ以前の事など、憎悪する父に関する事と、母の微笑みだけしか、もう覚えていない。
「……っ」
手元で冷気が凝縮するように動き、小さな氷の塊が生まれる。
辛うじて何かの生き物だと分かる程度の造形。
冷気をコントロールし自在に凍らせる箇所、どれほど凍らせるのかという細やかな制御を学ぶ為に、子供の頃からこの訓練をしていた。
普段はもう少し、しっかりと形を作れているはずなのに、今日は何故か上手くいかない。
「何故か、か」
自分の頭の中で形取った言葉に、焦凍は自嘲の笑みを浮かべる。何故か、などと誤魔化しだ。
今から2週間前、魔女子に宣戦布告されたあの日。
あの日から自分の心は乱れ続けている。
前ならば。
魔女子に出会い、振武と出会う前。その時ならばこんな事はなかった。1つの目的を見て、前に進み、邪魔だと思えるものは何でも切り捨てて、必要だと思ったものは何でも取り入れた。
勉強などはやらなくてもある程度の成績は取れたから、自習時間を取らず氷結の特訓に当てた。
友人、遊び、娯楽なんてものは必要ないから、放課後は直ぐに帰ってトレーニングをした。
恋愛なんて以ての外だ。そもそも、何が良いのかすら分からない。
切り捨てて切り捨てて切り捨てて。
焦凍の心を悩ますのは、エンデヴァーと母の事。
それ以外の事には思い煩う事は、なかった。
……なかった、のに。
「――なんなんだ、俺は」
氷で作った動物を握りつぶす。氷はそれほどの強度で作っていなかった所為かあっさりとヒビが入り、文字通り手が凍てつくような冷たさを残して砂のように崩れていく。
動島振武に否定され、塚井魔女子に否定された。
この夢を語った人間は数少ないが、それでも多くの人間が振武や魔女子のように否定した。余計な事に、助け出そうなんて考えた人間も、いない訳ではない。
それでも、今ほど心は動かなかった
今より動揺しなかったのに。
何故、今、自分はこんな風に動揺している。
何故、
何故、
答えが出ない堂々巡りに、焦凍の苛立ちは高まっていく。
「……焦凍、そろそろ朝御飯だよ?」
不意に、道場の入り口から声が聞こえる。
自分の右半分と同じ白い髪に、赤い髪がいくらか混じったその姿は、自分と同じ血が流れているんだなと分かる。こちらを心配そうに見つめている目は、昔も今も変わらない。
轟冬美。焦凍の姉。
いつも彼女は、焦凍を心配し、世話を焼いてくれる。
そのこと自体はありがたいが、正直に言えば、今は話しかけて欲しい気分ではなかった。
「……分かった。先食べててくれないか? 着替えて直ぐ行くから」
今は、頼むから放っておいてくれ。
言外にそんな気持ちを込めながら言った言葉を「うん……」と言って、冬美も一度は受け止めるような感じで、その場を離れようとする。
だが、その足は一歩出て、止まった。
「ねえ、焦凍。
最近、どうしたの?」
その言葉に、焦凍は目を見開く。
姉は確かに自分を心配し、世話を焼いてくれる。
だが決して〝踏み込み〟はしなかった。いつも一歩引いて、焦凍の内側に入っていく事に躊躇していた。
余計な事を言われずに済む。
そう思っていたのに、今日はそうではなかった。
「……なんでそんな事訊くんだ。
別に、何もない、いつも通りだ」
動揺を隠すように、焦凍がストレッチするのを見て、冬美はそれでも引き下がらない。
「……嘘だよ。だって、
最近の焦凍は、楽しそうだったもん」
予想外の言葉に、動きと思考が止まる。
楽しそうだった?
俺が?
「――――――なん、で、そうなるんだよ」
動揺から言葉がどもる。
その姿を見て、冬美は少し困ったように笑みを浮かべ、ゆっくりと道場の中に入る。
「……去年までさ、焦凍って自分の話ししなかったでしょ? まぁ、いっつも父さんの特訓や自主練習で、全然趣味や何もなかったし、友達とかも、うちに呼んだ事ない。そりゃあ、そんな仏頂面にもなるよね、って感じだった」
目の前で少し楽しそうにしている冬美を、焦凍は怪訝な顔で見る。
それでも冬美は、話を続けた。
「でも、去年の今頃かなぁ。ほら、制服ボロボロにして帰ってきた日があったじゃない?
あの日からだったかなぁ……焦凍の口から、えぇっと〝どうじま〟くんと、〝つかい〟さん、だっけ? その2人の名前が出るようになったの」
『動島がウザい。相も変わらず懲りずに俺に話しかけてくる……なんなんだ、あいつは、何を考えているんだ』。
『塚井が今日も、タコサヴァイヴァーの限定品とかいう縫いぐるみを自慢げに見せてきた……あれはヒーローとしてどうなんだ?』。
『動島の奴、毎日凄い弁当を持ってくる。無視出来ないレベルだった』。
『塚井は何故か俺と動島を会わせよう会わせようとするんだ、俺はアイツの恨みでも買ったのか』。
別に冬美に話した訳ではない、独り言だった物も多い。
でも冬美にとっては、信じられない出来事だった。
「他人に興味もないような焦凍から、そんなに名前が出るんだもん。ビックリしちゃった。でも、良かったって思った」
「……なんで、良かったんだよ」
焦凍は、動揺しながらも、冬美に話しかける。
そんな焦凍に、冬美は少々呆れ顔だ。
「やっぱり、気付いてなかったんだ。
あんたその2人の名前を出した時、笑顔だったんだよ?」
「………………うそ、だ」
嘘だ。
そんな事があるわけが無い。
小さな言葉で呟かれた言葉は、冬美の耳に届かない。
「呆れ混じりだったり、面倒臭そうだったり、まぁ一癖も二癖もある笑い方だったけどね。眉一つだって動かさなかったあの焦凍が笑顔浮かべてるんだもん。お姉ちゃんビックリしたんだから」
「…………嘘、だ」
「でも、最近の焦凍は、また昔に戻っちゃった。
ううん、もっと酷いかもしれない。いつも張り詰めて、考え込んで……まるで、味方なんて1人もいない、なんて顔をしてるんだもん」
「……嘘だっ」
「折角、友達になれたんだ、って思ったのに」
「嘘だ!!!」
小さな呟きであったものは、絶叫に変わる。
ありえない。
「俺に、友人なんていらない!!! 俺の願いに、それは邪魔だ!!!
姉さんだって忘れたわけじゃ無いだろう!? アイツは……
「……うん、分かってる」
叫ぶ焦凍に、冬美は表情を変えない。
変われるかもしれない。もしかしたら、焦凍が前には進めるかもしれない。
そう思えたのは焦凍が傷を負った10年間で、今この時だけだった。ならば、今まで踏み込めなかった分、今まで言えなかった分、言わなければいけない。
それが、雄英体育祭という、焦凍にとって大事な舞台が控えている時だったとしても。
「私は、ずっと焦凍が決めた事に、何も言ってこなかった。
ううん、言えなかったの。だって私は、貴方を見捨てて来たんだもの」
焦凍が父から酷い仕打ちを受けている時。母が父から責められている時。自分は何もしなかった。
怖かった、というのもある。
逆らえなかった、というのも勿論。
だがそれ以上に、心のどこかできっと焦凍に嫉妬していた。お父さんに認められた焦凍。お父さんに認められなかった自分たちと比べ、違いを認識し、そして嫉妬していたのだ。
……子供の頃のことだった。考えが至らず、感情的だったのは否定出来ない。だけど許される事ではなかった。
「……だったら、何も言わないでくれ」
「でも、焦凍が笑ってくれている方が、私は良い」
「――関係ねぇ!!!」
焦凍は、苛立ちを抑えきれない足取りで冬美の横を通り過ぎ、道場の出口に向かう。
「焦凍!!」
「俺には!!!」
足を止め、振り返る。
怒りなのか。
悲しみなのか。
もはやぐちゃぐちゃで分からない表情は、それでもいつもの冷静な仮面が外れた、焦凍の本人の顔だった。
「……俺には、そんなのいらねぇんだよ、姉ちゃん。
クソ親父を見返せれば、それで良い。それ以上は何もいらない、同情も、友情も、何もかも」
たった1つの事を成すためには、他のものなど余計なものだ。
そう心の中ではハッキリと決まっていた。
だが冬美からすれば、その表情は、そう言っているようには見えなかった。
止めてくれ。
俺を止めてくれ。
そう言っているようだった。
「……飯は適当なもん買って済ます。着替えて行くわ」
焦凍は顔を出入り口に向けると、今度こそ振り返らず、道場を出て行った。
「……ハァ〜ア、やっぱり、私じゃダメだったか」
天井を見上げながら、悔しいような、当然と思うような、不思議な感覚が冬美の中に込み上げてくる。
今まで見て見ぬ振りをし、踏み込み傷つけ傷つけられる事を恐れ、父と弟の傍観者であり続けた冬美の言葉では、焦凍を変える事は出来ない。
もしそれが出来るとするなら、見て見ぬ振りをせず、傷つく事も傷つけられる事も恐れず、傍観者でいないと決めた、勇気ある人しかいない。
顔も知らない〝どうじま〟くんと〝つかい〟さん。
この2人が、焦凍にとってそう言う人間であってくれたならば。どれほど嬉しいか。
「……そういえば」
どうじま。
この響きには聞き覚えがあった。
子供の頃、まだ母に煮え湯を浴びせられる前の焦凍が、楽しそうに話していた名前。
『〝どうじま〟くんと約束したんだ! おおきくなったら、オールマイトみたいなヒーローになって、いっしょにたくさんの人をたすけるんだって!!』
冬美の記憶している中でも、1番嬉しそうだった。
お父さんが今日帰ってこないよ、と言われるよりも。
お母さんに大好物を作ってあげる、と言われるよりも。
だから、こんな歳になっても憶えていたのだろう。それほどに、あの時の焦凍は嬉しそうに喜んでいて、幸せそうだった。
「同姓の人かもしれないけど……でも、出来れば同一人物だったら嬉しいなぁ」
焦凍を救える人がいるならば、きっと彼以外にしかいない。
誰とも知らない少年の事なのに、そんな確信が、冬美の中にあった。
◆
木々が生い茂る山が近くにあるせいか、振武の家の庭は清涼な空気に満ちている。
毎朝深呼吸する度に新鮮な空気を吸い込めるというのは、体には良い事だよな、と頭の隅で考えながら、振武はゆっくりと深呼吸をする。
目の前には、いつも鍛錬で使っているもの、マネキンに鋼鉄の鎧を着せたもの。
震撃を使い慣れるための練習。震振撃を会得出来た時も、このマネキンを使っていた。と言っても、簡単に破壊されるので、もう何体目なのか分からないが。
構えを取る。普段拳を固く握りしめるそれを、掌打の形にする。
脳無の戦いを経て、振武も何も考えていない訳ではない。これから、震撃・波紋や、その派生技である震振撃が通用しない時だってあるはずだ。
震撃・貫鬼も、あのようなタイプには有効ではないかもしれない。
そうなれば、鍛えるべき技は簡単だ。
打ち砕くのではない。
殴り割るのでもない。
衝撃を、力を、表面を透過し、内部に直接影響を及ぼせるような技を作らなければいけない。
「……震振撃・
体の動きは、比較的小さい。
力の強さに、動きの大きさは比例しない。特にこれは力の強さが問題なのではない。
如何に表面の影響に囚われず、内部を破壊するか。それが重要なのだ。
ボゴッ、という鈍い音が庭に木霊する。鉄ではなく、コルクのような木の塊を砕くような音。
振武はその音に驚きもせず、手を退ける。
鎧には傷一つ見当たらない。だが自重を支えられなくなったマネキンは、内部からボロボロと大小の塊になって崩れ、ガシャンという金属のぶつかる音を立てて倒れた。
震振撃・透閃。
貫鬼のバリエーションの1つ。攻撃力を表面にぶつけるのではない、そこを通過させて内部にダメージを与える。
脳無相手にこれが有効なのかは、試しようがないので分からない。だが今後通常の震振撃が有効ではない相手には使う価値ありだろう。
勿論、もう一つも先ほど試して十分使えるようになっていた。まぁ他にも小技は考えたが、体育祭で使える場面があるかどうかは、微妙な所だ。
「ハァ〜、これもうちょっと早く思いついてりゃなぁ」
自分の長所を殺す、相性の悪い敵。
……振武のスタイルは基本的にごり押しだ。強いが、弱点も幾つかある。
それを克服……は無理でも、弱点ではなくする、程度の事は出来るかもしれない。
「今後の課題だよなぁ……」
体をほぐす為の柔軟を行いながら、小さく口にする。
自分の弱さ、未熟さ。
そう言ったものは、正直言えばどうしようもない。体はまだまだ成長過程で、敵はあれ以上に強い存在だっているだろう。
だが、振武の気持ちは落ち込むどころか、むしろ喜びに溢れていた。
俺はまだ強くなれる、と。
他人に出来て、自分に出来ない事は多い。自分が倒せない存在も多い。だが鍛えれば鍛えるだけ、答えは返ってくる。まだ自分の限界が見えてこない以上、強くなれる自信がある。
魔女子にもそう言ったが、あれは嘘ではない。
「まぁ、取り敢えず今日の体育祭を頑張らなきゃ、色々ややこしいし……「振武!」、父さん?」
股割りをしながら考えを整理する為に独り言を言っていると、声が掛かる。
顔を上げれば、そこにはいつも通り……とは少し言い切れない父、壊がいた。何故そう言えるかといえば、いつもキッチリと入れられているワイシャツの裾が出ていたり、目の下に薄っすら出来ているクマを見たからだ。
徹夜して今着替えて出てきた、という感じが丸わかりだ。
「寝なくていいの? 昨日も遅くまで……って言うより、昨日から忙しくて、寝てないだろう?」
「アハハ〜、バレちゃった?
いや、なんか一周回って目が冴えちゃってさぁ。朝食作ろうと思ったら、庭に振武が見えたから。ほら、最近お父さん忙しくてあんまり話してないだろう? 親子の会話したいな〜って思って」
いつも通りの能天気な笑顔を浮かべながら、壊は振武の隣に座る。
……退院してから2週間、壊は仕事関係で忙しくなった。内容は守秘義務やらなんやらで話してもらえていないが、ここ最近は食事や弁当を作れない程忙しいようだ。
今までなかった事態に振武も驚いてはいるものの、それほど気にしている訳ではない。
普段から過干渉気味な父親だ、むしろ会話が減ってちょっと助かっているくらいだ。だが、そんな事よりも壊の体の事は心配だ。
「気にしなくても良いのに」
「ウッ、そんな釣れない事言わないでよ〜俺の唯一の癒しである振武との触れ合いじゃないか〜もっと構えよ〜」
「いやいやそう言う意味じゃないし……まぁ過干渉じゃないのは良い事だけど。
んな事より、親父の体が心配なんだっつうの。休める時は、休んだ方がいいって」
「振武やっさし〜、そんな振武には、父である僕から愛のあるキッスを送っちゃうぞ☆」
「激しくウザい」
「手厳しい!! ワイルドでカッコイイよ振武!!」
「いやいや、ワイルドとは違うだろ」
いつも通りの父親との会話。実に3日ぶりだ。
……あるとウザいが、無いとそれはそれで寂しいもんだったんだな、と会話をしながら思った。
「にしても、ここ2週間毎日なんかやってたけど、体育祭の為の特訓?」
「あぁ〜、うん。まぁ色々自分の改善点が見つかったしね。流石に、2週間でどうこう出来る程簡単な事じゃなかったけど……うん、まぁ取り敢えず、体調も万全だし」
「そっか……」
振武の緩んでいるその眼は、間違いなく自分が愛した人と同じ眼だな、と壊は思った。
『大丈夫よ、壊くん。体調万全だし。むしろ、壊くんが今心配してくれたおかげで、ヤル気も上がってもう絶叫調よ』
そう笑顔で言ってヒーローとして戦いに行った日を思い出す。
そのヤルが、本当にただのやる気だったのか
救ける。
護る。
平和を、安全を、人を、笑顔を。
そう言って前に踏み出せる、それを本気で考えて動ける、強い人だった。
(――俺とは、違って)
動島壊は、弱い人間だ。
腕力や戦闘能力の話でははない。心が圧倒的に弱かった。いつも泣きながら、怯えながら、悲しみながら事を為していた。
そしていつも、良い結果を手に入れられなかった。
悪循環の権化のような生き方を、今までしていた。
そんな自分が生きていて、強い筈の妻が死んだ。世の中不条理だと思わなかった日はない。
――そんな自分だから、今も不安で、怯えて暮らしている。
もし、振武が同じような目にあったら、自分は自分を壊さずにいられるのだろうかと。
「……ねぇ、振武」
「ん〜、なに〜?」
前屈で少し間の抜けた声で返事をする息子を、壊は隣で真っ直ぐに見ながら話す。
「……もう、この前みたいな事は、やめないかい?」
……壊の言葉に、振武の動きが止まる。
それでも、壊は話し続ける。
「あんなにボロボロになって戦って……下手をすれば、死んでいたかもしれないだろう?」
命に別条はない。
そう言われても、病院に着くまで、不安は拭えなかった。
病院に着いて、振武を見たら、今度は恐怖した。
全身に包帯が巻かれ、点滴をされ、痛々しい息子の姿。そんなものを見て平静でいられる親はいない。
生きている事への安堵と、今後もそんな怪我をしてくるかもしれないという恐怖。
それだけで、壊はしばらく涙を止められない程動揺した。
「振武の夢を否定する気はない。でも、お義父さんも言ってたんだろう? 下手をしたら死ぬような状況で動く事ないじゃないか。
振武が死んでしまったら……僕はきっと、もう立ち上がれない」
自分にとってたった1人の、血の繋がった家族なのだ。
大事な人を失うような経験は、3度もすれば十分。
もう誰も、自分の前から家族をなくしたくない。
「逃げたって良いんだよ? 振武が生きている事が、僕にとっては大事なんだ。
死にそうになって、死にかけて、誰かを救ける必要は、ないんだ」
知らず知らずの内に、涙が流れる。
怕い。
懾い。
怖い。
もう、自分の目の前で、誰も死んでほしくはない。
「……ごめん、父さん。
父さんには、いっつも心配かけてる。親不孝だなぁって、自分でも思うよ」
ゆっくりと立ち上がり、体についた芝生を払って、振武は真っ直ぐと壊を見る。
(あ、やだなぁ、この眼)
いつも自分が勝てない眼。
強く、優しく、真っ直ぐな。愛する人と瓜二つの眼。
「――でも、ごめん、父さん。
俺はこれをやめられない。傷付いても、死にそうになっても」
どれ程自分が傷付こうとも。
どれ程自分が死にかけようとも。
やめられない。やめてはいけない。
「今日だって、死なないけど、大怪我してくるかもしれない。皆遠慮してこないだろう。
……それに、やらなきゃいけない事もある」
焦凍と直接、一対一で戦えるかもしれない、数少ない機会。
3度目の衝突。
上手くいくかなんて分からない。それはもう、自分では予想出来ない事だ。だが本気で行かず保身に走れば、きっと自分の言葉も思いも、焦凍には届かない。
傷つく事を恐れず、本気でぶつからなければ、誰かを変える事は出来ない。
「――どうしても、救けたい奴がいるんだ」
「……それは、振武がしなきゃいけない事かな? 振武にしか救けられない人なのかい? 他の人に任せたって良いんじゃないか?
わざわざ傷つけられに行く必要性が、あるのかな?」
ある。
そう答えるんだろうと思いながらした壊の質問に、
「――ないかもしれない!!!」
ハッキリと肯定した。
「……えっ!?」
壊の呆然とした表情を見て、振武は笑顔を浮かべる。
「俺じゃなきゃダメ、じゃないかもしれない。俺以外に、もっと彼奴の事を考えていて頭の良い奴がいるかもしれない。そいつに任せたって良いかもしれない。
傷付けられに行く必要性は……ないな、これに関しては全然ない」
友達とはいえ、ここまでする謂れはない。
そんな事、初めから分かっている。
「じゃあ、なんで、」
「なんでって……そりゃあ、決まってるよ」
腰を回してから、空を見る。
体育祭をするのには良い、清々しい青空が広がっている。
「俺が、やりたいからだよ」
誰に頼まれたわけでもない。
義務もない。
下手をすれば、道理すらない。
そんな中自分がここまでやる理由は、たった1つしかない。それは約束したという事以上に大事な事で、重要で、これを満たせていなければ意味がない。
「友達は、何が何でも救けるもんだろ?」
「……あはは、そうだね、そうだった。
うん、友達を救ける事が間違いだったら、世も末だよね」
ピタリと止まっていた涙を拭いながら、壊は笑う。
覚ちゃん。
今見えているかな、
君の息子は……僕らの息子は、
君が予想した通り、素敵な男の子に育ったよ。
「――って、話してる場合じゃないじゃん! シャワー浴びて着替えたいし、俺もう行くよ!?」
「あぁ、そうだったね、ごめんごめん。
朝食用意しておくから、早く行っておいで」
慌てて母屋に走り出す振武の背中を見守る。
子供の頃の弱虫で、引っ込み思案で、どこかネガティヴだった息子は、もういない。
それは成長で嬉しい事なのだろうけど、少し寂しい。
「……色々、考えなきゃいけないな」
大切な息子の決めた事だ。どんな事でも、それを応援したい。
だが、同時に死んでほしくはない。傷ついて欲しくもない。その為に、壊は出来る事を出来るだけする。
それが最終的に、息子に恨まれる事になっても。
全ての感情が渦巻く中。
雄英体育祭は、やってきた。
あれれ〜、2人の描写だけで1話埋まっちゃった〜(震え声)
でもまぁ、うん、これはこれで書いていて楽しかったです。
次回から体育祭に本格的に入っていく感じですね。
彼ら彼女らの思いは果たして……どうか次回もお楽しみに。
次回!!! 爆豪くんぶちギレ……あれ? これもいつも通りだ!! とりあえず待て!!!
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