封鎖終局四海 オケアノス
――走って、走って。
走り続ける。
心臓は破裂しそうなほどに強烈な拍動を続けて、荒い息は収まることなく酸素を求めて吐いては吸ってを繰り返す。
苦しい。身体が重い。
走ることをやめてしまいそうになるのを必死に走り続ける。
――何かがひび割れる音がする。
止まってしまえば、飲み込まれてしまう。
止まってしまえば、もう走れなくなる。
駄目だ、それは。絶対にそれだけは駄目だ。
――何かがひび割れる音がする。
腕の中にある彼女。可愛い可愛い
彼女がいる。だから走り続けるのだ。
自分から言い出したことだ。だから、走り続ける。
――何かがひび割れる音がする。
森の中を、平原を僕は、大英雄に追われながら走り続けている。エウリュアレを抱きかかえて。
ここはオケアノス。第三特異点。封鎖された終わりのない四つの海。
荒くれものたちの海だ。海賊たちの海だ。そして、英霊たちの海だ。
僕は、海賊たちと旅をした――。
「ほら、もっと早く走りなさい!」
「――――っはっ!」
とびかかった意識を彼女の言葉が繋ぎ止める。
同時に背を凄まじい衝撃がたたきつけてくる。降り降ろされた斧剣。それはさながら岩を削り取ったかのようだった。ただ武骨で巨大すぎる。
だが、それを扱う英霊もまた規格外の存在。
――何かがひび割れる音がする。
十二度殺さねば死なぬ、大英雄。天地を持ち上げるほどの怪力を誇る怪物殺し。
――ヘラクレス。
ギリシア最高の英雄が僕らを殺そうと。いや、いいや、彼女を殺そうと追ってくる。
――何かがひび割れる音がする。
殺させるわけにはいかなかった。抱きかかえた彼女。女神エウリュアレ。
女神だろうと、英雄だろうと、人間だろうと。死なせるなんて絶対に出来ない。
決めたんだ。もう、誰も目の前で死なせない。救えなかったあの人に誓ったんだ。
――何かがひび割れる音が響いている。
背後から追ってくるもの。それは恐怖。恐怖そのもの。
恐怖に混濁する意識。歪む視界がありとあらゆる全てを呑み込んでいく。
全てが漆黒に染まりそうになる。
でも、
「先輩!」
マシュ。僕のデミ・サーヴァント。君がヘラクレスを防いでくれている。
だから、僕は走れる。
「く――」
「もうちょっとの辛抱だから走りなさい!」
足の筋肉が悲鳴を上げている。全身が悲鳴を上げて灼熱が足から全身を犯している。
それでも、これしかない。
大英雄。最強のヘラクレス。化け物じみた彼を倒すには、これしかない。
ダビデが持つ
触れてはならない。命が惜しければ。
それはモーゼが授かった十戒が刻まれた石板を収めた木箱。ダビデが持つ宝具。
触れてはならない。命が惜しければ。
ダビデ以外の者が触れれば最後、ありとあらゆる者は生きてはいけない。
魔力を吸われ、殺される。それは絶対の法律。神が定めた決まり。
だからこそ、十二回殺さねば死なない怪物であろうとも殺し切ることができる。
問題はバーサーカーですら、危機感を抱き絶対に触らないということ。
だからこそ、僕は走っている。狂っている男。狂戦士。偉大なヘラクレス。
彼は狂っていながら正しく英雄だ。
だからエウリュアレを殺しに来る。
彼女を捧げれば世界が終わる。だからその前に殺そうとする。
「――――」
斧剣が大気を切り裂き、大地を割る。そのたびに、僕は死にそうになる。
それでも両手に抱えたぬくもりを、今度こそ離さないようにしっかりと抱きしめるのだ。
ハジマリの特異点で、助けられなかったあの人のようになんて絶対にさせない。
――何かがひび割れる音が響いている。
「…………良いわ。今は許してあげる。だから、精一杯走りなさい!」
「ああ!」
走って、走って。
そして、僕らは打倒した。
最強の英霊。ヘラクレスを。
そして、世界を救ったのだ。
――何かがひび割れる音が響いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
特異点をめぐる旅は第三の特異点へ。
そこはオケアノスの海。海賊たちの海。四海を束ねた終わりなき海。
僕は、海賊たちと旅をした。
あなたとの旅は実に楽しかった。できることならばあなたと世界一周してみたかった。
たとえ叶わぬ夢だとしても、彼女との世界一周はきっととても楽しいものになったと思う。
戦いは厳しかった。ワイバーン、ゴースト、海賊。サーヴァント。
これまでと比べても遜色ない強敵だった。それでも僕らは乗り越えた。
けれど、けれど――。
「あぁあああ――!」
今も夢に見る。ヘラクレスの暴威を、僕は夢に見る。
跳ね起きて、目の前に彼がいないことを確認して、ようやく落ち着ける。
何度死んでもおかしくなかった逃亡劇。アレ以外に方法などなかった。エウリュアレを殺さずにヘラクレスを無力化するには。
我ながら馬鹿なことをやったと思う。アホだったとも。あの時は、どうにかしなければと必死だった。浮かんだ荒唐無稽な考えを無茶を実行してしまうほどに。
自分がおかしくなっていると感じる。全てが遠くに感じる。
音が遠い。匂いが遠い。
疲れているのかもしれない。世界を救う旅。疲れないわけがない。
毎日夜這いに来る清姫に、歌いに来るエリちゃん。
ああ、疲れない方がおかしい。
けれど、音が遠くなっても、聞こえるものがある。
――何かのひび割れる音が聞こえる。
何よりも大きく、ずっと、ずっと聞こえている。誰にも聞こえない、僕だけに聞こえる音。
「子イヌ! モーニングライブよ!」
「
二人が部屋に飛び込んでくる。鍵など関係なく。
二人。エリちゃんに清姫。僕のサーヴァント。
「今、起きたところなんだ」
朝からこの二人に付き合うのは大変だった。破滅的に高いテンション。壊滅的な歌。底なしの愛。
ああ、ああ。
僕は、堪えていた。この二人の相手をするのを。
けれど。けれど、二人の期待するような表情を見てしまった。
――アナタなら聞いてくれる。
――旦那様ならば応えてくれる。
二人がマスターとしての僕に期待していることが伝わってくる。
期待。期待。期待。
そして、好意。
彼女たちが持つ純粋な好意。
笑顔を浮かべる二人を見ていると、僕には断ることができない。誰かの笑顔を曇らせることなんてできそうにない。
けれど――何かがひび割れる音が聞こえる。
「こらこら、朝から騒々しいのはなし。昨日言ったでしょ?」
ブーディカさん。頼れるみんなの優しいお姉さん。
「離して、これから子イヌの疲労回復のために歌うのよ!」
「離してくださいまし。これから旦那様とあんなことやこんなことを!」
「はいはい、寝言は寝てから言ってね。マスターは人間なんだからあたしたちと一緒にしちゃだめでしょ。第三特異点を救ってからまだそれほど経ってないんだからマスターには休息が必要だよ」
こうやっていつも助けてくれる。
「助かった」
「あはは、毎朝大変だね君も」
毎朝これだ。特異点から帰ってから毎日。朝から来て、晩まで構ってくる。一人になれる時間は少ししかない。
――何かがひび割れる音がしている。
うるさいほどのそれ。何かが割れるような音がしている。ずっと。ずっと。
「おーい」
「え?」
「……聞こえてた? 大丈夫?」
ブーディカさんが僕の顔を心配そうに覗き込んでくる。こつんと、彼女の額が僕の額に当てられて。
「んー、熱はないかな。でも疲れてるみたいだね。きちんと――」
「はーい、マスター。僕だよ、僕、僕。今すぐ貸してほしいものがあるんだけど良いかい?」
「ダビデ? 何、貸してほしいものって?」
ダビデ。イスラエルの王。新しく召喚された僕のサーヴァント。
竪琴の巧い、羊飼い。
欲望に忠実でもやるときはやる王様。
「ほら、僕は地味に欲にまみれているだろ? ずばり、女の子。オペレーターの人たちはあの裸の人とか、言われて全然近づけないから、サーヴァントと一緒にお茶をしようってわけ」
「ダビデさん、言われた通り準備をしましたが、どうするのですか?」
マシュもやってくる。
「うん、ありがとう。で、マスター。君の許可があればみんな僕とお茶してくれると思うんだけど、どう思う? ちなみに、全員参加してほしいんだよね。ほら、キレイどころばかりだし、全員とお近づきになりたい。あわよくばお嫁さんにしたいくらいだけど、まあ、それはおいておいて、というわけで女の子貸してくれない?」
――すがすがしいくらいに欲望に忠実だな。
「オレとしては構わないけど――」
「良し決まりだ。じゃあ、みんないこーう」
「いいね。そういうお茶会も少しはやってみたかったんだー」
「え、あちょっと――」
きちんと全員に許可を取ってという前にダビデはこの部屋にいた女の子全員を連れて行ってしまった。清姫とエリちゃんも無理やりに全員だ。
「え?」
僕は部屋に1人になった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「じゃ、あとは頼んだよ」
「あいよ」
仕上げをクー・フーリンに任せる。
僕の意図を彼と彼女は理解してくれているようで何よりだ。
クー・フーリンがやっているのはマスターの部屋の扉にルーンを仕掛けること。守護のルーン。許可なく部屋に入れなくするようなそんな代物。
サーヴァント、それもキャスターのクラスの行使するルーンならそれなりに効果を発揮してマスターのプライベートを守るだろう。
ついでに今日一日は誰も入れないように
これで今日一日くらいはマスターも一人になれるだろう。
「ありがとう。こういうことしてくれるとは思わなかったよ」
僕だけに聞こえるようにブーディカがそう言ってくる。
「そうかい? むしろ僕としては当然のことをしていると思うんだけどね」
なにせ、僕とマスターは主従だ。あちらが主で従者が僕。まあ、いつもとは違うけれど、気ままな羊飼いでいられるし、ちょうどいい。
つまるところマスターとサーヴァントってやつは運命共同体、マスターの破産は僕の破産でもあるわけだ。逆に僕の破産は僕だけのものにする。
あのマスターにそんな負債を背負わせるほど僕は落ちぶれちゃいない。
「こうする方が効率的。まあ、マスターにつぶれられたら僕らもおしまいだからね」
「そっか、うん、ありがとう。あたし一人じゃどうにもならなかったからね」
まあ、本音を言うと単純に女の子とお話したり、おさわりしたり、おさわりしたりしたかっただけなんだけどね。
言っても意味ないし、なんか好感度上がったっぽいから話さないで置こう。話す必要性はないし。
――まあ、今はそれどころじゃないな。
「やぁ、マシュ、準備は?」
「はい、ダビデさん。言われた通り、お茶とお菓子の準備は万端です。今日はガールズトークなるものを教えてもらえるとのことで、楽しみです! あいにくと女性職員が少なくそういう話はなかなかできなかったもので」
「そいつは重畳。じゃあ、あとは若い女の子たちだけで。マスターのいいところとか語りつくしてくれたまえ」
さて、僕は僕の仕事をしますか。
「誰も見ていないけれど、まあ、どのみち誰かに聞かせるためのものじゃないしね」
竪琴を取り出す。
「せめて、少しでも君の平穏につながればいいと思っているよ」
なにせ、君の破滅は僕たちの破滅だからね。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ひとり、か――」
ダビデがみんなを連れて行ってしまった。
静かな
「久しぶり、だな」
ここに来てからはずっと誰かといた気がする。マシュや、清姫。ほかのだれかと。
――ふと何かの音が聞こえてきた。
何かのひび割れる音じゃなくて、ずっと綺麗な音。
これは竪琴。
誰かが奏でる竪琴の旋律。
優しく、平原をなでる風のような――。
「あれ――」
涙が、僕の頬を伝う。
すっと僕の頬を伝って涙が流れ出す。
「あれ――」
止まらない。溢れてくる。
悲しくないのに。
「なんで――」
悲しくないのに、寂しくなんてないのに、苦しくなんてないはずなのに。
涙が、止まらない。
止まらない涙は次々溢れてくる。
泣きつかれて眠るまで、あの旋律は聞こえていた。きっと泣きつかれて眠ってからもきっと。
けれど、その影にずっと何かのひび割れる音が響いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
マスター。僕のあるじ。
「辛いね、マスター。僕は望んで背負ったけれど、君は不運か幸運か、運命によって背負わせられてしまった」
可哀想なマスター。それでも君は背負って前に進むことを決めた。
それは尊い覚悟だ。
僕ら英雄とは違う。
ただ人である君が示した覚悟はきっと何よりも尊いだろう。
「本当なら、やめろというべきなのかもしれないね」
けれどそれはできない。残念ながら、サーヴァント単独ではレイシフトができない。マスターは楔。その時代、特異点に僕らサーヴァントを結びつけるための。
そうでなければ、僕らは特異点に飲み込まれ再びどこかに出現する。それが敵としてか、味方としてかはわからないけれど。
それでは世界の修復なんて夢のまた夢だ。
「だから、僕は君にこういうことしかできない。頑張れ、マスター」
君の尊い覚悟。
右手を伸ばす、その意思をどうか持ち続けてほしい。
「そして、君がいなければ何もできない僕たちを許してほしい」
こんなことしかできない、僕らをどうか許してほしい。
僕は竪琴を奏でる。どうか君が安らかになれるように。
君の未来に光が差すように――。
三章終了。
ヘラクレスでひび割れまくりの主人公。
ちなみに、三章でのほとんどのひび割れの原因はヘラクレスです。あとアステリオス君の迷宮。アステリオス君の死もぐだの心を削っていきました。
今回は平穏。癒し回。
私がここで上げた意味が愉悦部の諸君ならわかると思う。
そう三章の次は? そう四章だ。小便王の登場する四章。
それまでに本能寺と師匠、サンタさんによるケアが主人公に入る。
いわゆる溜めという奴だ。
さあ諸君カウントダウンはいいか? 崩壊はすぐそこだ(愉悦)