小町と一緒にサブレを散歩させていた八幡は、その途上で一色や平塚先生と遭遇した。一色とは仲を少しだけ深め、先生からはいつか役に立つかもしれない助言をもらって、八幡は戸塚との待ち合わせ場所に向かう。そこに偶然現れた城廻と映画館にいた材木座を加えた四人で、この日は楽しく過ごした。
その翌日。家族旅行から帰ってきた由比ヶ浜は八幡を花火大会に誘う。妹にも背中を押されて、八幡と由比ヶ浜は二人きりで出かけることになった。
週末の金曜日。比企谷八幡は落ち着かない気持ちで夕方が来るのを待っていた。自宅の家事はこの日も完璧だったのに、彼は何度も同じ場所を磨こうとしたり、乾燥させた食器を再び洗おうとしたり、およそ専業主夫を目指す者としては相応しくない行動を重ねていた。
とはいえそれも無理からぬこと。話の成り行きから雪ノ下雪乃と一緒にららぽーとで買い物をした経験があるのみで、妹以外の異性と二人きりで出かける約束をするなど八幡の人生では初めてのことなのだ。
たとえその相手が、一学期に濃密な日々を共に過ごしたお陰で比較的気心の知れている由比ヶ浜結衣だとしても。あるいはよく知った相手だからこそ余計に、八幡の心中は平穏には程遠い状態だった。
「ちょっとお兄ちゃん。予備校から帰ってきてからずっと動いてるけど、いい加減に落ち着いたら?」
「大丈夫だ小町。俺は落ち着いているし勘違いもしていない」
そう答えて本日五回目となるトイレ掃除に向かおうとする兄の背へと、比企谷小町は慌てて手を伸ばす。何とかその場に引き留めて、小町は口を開いた。
「もしまだ汚れがあったら小町が綺麗にしておくからさ。お兄ちゃんは出かける支度でもしたら?」
「服から持ち物から五回ぐらいは確認したし、もうやることがねーんだわ」
意図的に回数を半分にして申告したものの、どうやら妹の目は誤魔化せていないらしい。今日はすっかり見慣れた呆れ顔で、小町は兄を諭す。
「それだけ確認したんなら、あとは時間までどっしり待ってれば?」
「いや、俺が出かけて居ない間に、小町が家のことで困らないようにだな」
「へーえ。お兄ちゃんってばもしかして、今日は帰ってこないつもり?」
「ちょ、そ、そんなことあるわけねーだろ!」
色々なことを考えすぎて自滅してるパターンだなと内心で苦笑いをしながらも、初々しい兄の様子に頬を緩める小町だった。
「じゃあ小町も付き合ってあげるから、時間までコーヒーでも飲んで待つ?」
「それ、お前が勉強をさぼりたいだけじゃね……って言いたいけど、今日は助かる。悪いな」
妹のせいにして照れ隠しをしようとした八幡だったが、話の途中で思い直して素直に小町の提案を受け入れた。八幡が淹れたコーヒーを片手にどうでもいい雑談で時間を過ごす。そのお陰で、八幡は何とか挙動不審に陥る事なく、待ち合わせの時刻を迎えられたのだった。
***
自宅のリビングから個室を経由して、八幡は待ち合わせ場所へと向かった。当初は高校の正門前の予定だったが、日差しの強さを考慮して昇降口に変更することをメッセージで伝えてある。
念のために一度校舎を出て、相手が正門の辺りで待っていないことを確認した上で、八幡は集合五分前から昇降口にてぽつねんと立っていた。これらは全て妹の教育の賜物である。
柱に背を預ける八幡は校舎内からは見えにくい位置にいる。そんな彼に気付くことなく、時おり生徒たちが目の前を通り過ぎて炎天下へと去っていった。自分たちと同じく、家からショートカットができるので待ち合わせに便利だと考えたのだろう。
彼らと同様に、俺たちも友達同士で出かけるだけだ。今日は同じ部活の同級生なので誘われただけだ。二人きりなのは部長様の予定が合わなかったから。そして優しいあいつが俺の性格を慮ってくれた結果だろう。常に一緒に過ごしている二人の女子生徒すら呼んでいないのだから、俺も彼女の信頼に応えねばならない。決して勘違いをしないように。もう中学生の頃とは違うのだ。
袋小路に入ったまま抜け出せないかに思えた考察は、視界の端に見知った後ろ姿を捉えたことで霧散した。制服ではなく浴衣であっても、いつものお団子ではなくアップにまとめた髪型であっても、今さら八幡が彼女を見間違うはずもない。
「おい」
だが危なっかしい足取りで、校舎の外を窺うようにしてきょろきょろと辺りを見渡している由比ヶ浜に、八幡の声は届かなかった。たとえ人影がまばらであっても、人前で誰かの名前を大声で呼ぶことは、ぼっちにとっては難事である。なんでリア充はこんな恥ずかしいことを平気でできるんだろうなと思いながら、仕方がないので八幡は反動をつけて柱から離れると、背後から由比ヶ浜の肩をちょんと突いた。
「ひゃあっ……って、ヒッキーじゃん。お、驚かさないでよ!」
「いや、むしろお前の反応にこっちが驚いてるんだが……」
理不尽なお叱りを受けた八幡だが、気配を消すようにして佇んでいたのを自覚しているだけに反論にも力がない。それに振り向いた由比ヶ浜の浴衣姿を正面から目の当たりにしてしまい、二の句が継げなくなってしまった。
「そ、その。待った?」
「いや、えーと……さっき来たとこだし、まだ待ち合わせ時間になってねーだろ?」
「ちょっと着付けに手間取って、ギリギリになっちゃったからさ」
「時間は大丈夫だから心配すんな。その、あれだ、浴衣も良いけど帯も良いな」
言い終えたそばから「お兄ちゃん、言うに事欠いて帯を褒めるなんてポイント低いよ。結衣さん本人を褒めないと!」という幻聴が頭に浮かび、人知れず頭を抱える八幡だった。
「あ、ありがと。これ、ママがあたしのために、時間をかけて選んでくれた帯なんだ。だから、褒めてくれると、うん、嬉しい」
「そ、そうか」
「うん、そうだ」
意中の相手と二人で出かけた経験こそないものの、リア充として場数を踏んでいる由比ヶ浜は八幡よりも先に普段の調子を取り戻していた。そんな彼女の笑顔に引っ張られるようにして、八幡も何とか落ち着きを取り戻す。
「んじゃ、そろそろ行くか。幕張に移動するかもって話も出てたみたいだけど、結局は千葉みなとでやるみたいだな」
「うん、下りで一駅だね。混んでるかな?」
「千葉みなとの駅とか、今日が一年で一番混むんじゃねーかな。……大丈夫か?」
「一駅だし何とかなる、かな。浴衣もだけど、これがね」
歩きながら下駄を履いた足を少し大きく持ち上げて、由比ヶ浜は不安そうな表情を見せる。瑞々しい素足と、控え目ながらも綺麗に彩られたフットネイルが目に入って、八幡は思わず視線を逸らしてしまった。
「素足だったら、踏まれないように気を付けねーとな。下駄も慣れてなさそうだし、足を挫いたりすんなよ」
「うぇっ。ヒッキー、なんでバレてるし?」
見透かされて思わず変な声が出てしまった由比ヶ浜だった。苦笑しながら八幡が答える。
「歩き方からして危なっかしいからな。電車に乗っても、真ん中のほうとか行くなよ?」
「何だかヒッキー、お兄ちゃんみたい。じゃあ窓際で立ってるから、その、護ってくれる?」
「え、あ、おう。任せる」
「ちょ。そこは『任せろ』じゃないの?」
「うるせーな。……噛んだんだよ」
小声でぼそっと付け足す八幡に噴き出しながら、由比ヶ浜は上機嫌の中に少しの不安を織り交ぜた心境で、駅の改札へと足を進めるのだった。
***
「そういえばさ。ゆきのんの勉強会、できたら一日でやりたいって」
「ほーん。リアルと連絡がつくようになってから、あいつもやたらと忙しそうだよな。この日だけは空けるから、みたいな意味なんだろ?」
「そうみたい。こういう話を聞くと、ゆきのんの家ってあたしたちとは違うんだなーって思うよね」
金銭の話ゆえに慎みとして口には出さないものの、二人はともに、川崎沙希のバイト先に乗り込んだ時の話を思い出していた。川崎が必要とする額を雪ノ下が一括で立て替えて、返済先を信頼できる相手に移すという彼女の提案は、結果的には的外れだったが庶民には決して出せない発想だった。
高校生にして既に大金を動かすことに慣れている様子の雪ノ下を思い出しつつ、車窓から沿線の景色を少し眺めた後で、八幡が言葉を続ける。
「家の手伝いって、普通は家事とかのはずなんだがな」
「家の仕事を手伝うってのもだし、実際に手伝えちゃってるのも凄いよね」
雪ノ下の凄さを同学年の誰よりも知っている二人は、同時に彼女の弱点も把握している。
「あいつの体力が無いのは由比ヶ浜も知ってるよな。無理はさせないようにしねーとな」
「うん、だね。ヒッキー、二人でゆきのんを助けるって、約束!」
「お、おう。だな。つーか、お前がもっと勉強したら雪ノ下の負担が減るんじゃねーの?」
「むー。それはそうなんだけどさ。あたしだって、前と比べたら全然……」
「そうだったな。なんか真面目な話を茶化したくなっただけだし、気にすんな……うおっ?」
その時、電車の減速によって他の乗客からの圧力が背中に加わって、八幡は上半身が伸びた状態で由比ヶ浜に覆い被さる形になった。両手を扉につけて力を入れて、おかげで列車の入り口付近に避難させていた由比ヶ浜との密着こそ回避できたものの、両者の顔は非常に近い位置にある。
甘い香りが八幡の鼻をくすぐり、情の深そうな大きな目に吸い込まれそうになる。両者ともに無言のままだが、互いの荒い息づかいが耳に直接伝わって来る。
「わ、悪い」
「う、ううん。大丈夫」
列車が駅のホームに滑り込む頃になって、ようやく由比ヶ浜と距離を空けることに成功した八幡は何とか一言、絞り出すように告げる。それに答える由比ヶ浜は、噂に聞いていた壁ドンを思いがけない形で体験してしまった衝撃が抜けきらず、顔を赤らめたまま下を向いてしまうのだった。
***
駅を出て広場に足を踏み入れた時点で、花火大会が始まるまで一時間強。小町とならば適当に話しているだけで時間がどんどん過ぎていくので、暇を潰すという発想をしなくて済む八幡だが、今は違う。この中途半端な時間をどう過ごしたら良いのかと、頭を必死で働かせていた八幡は、しかしそれが無駄に終わりそうだと知って胸をなで下ろした。
彼の横では由比ヶ浜が、軒を並べる屋台の群れに首ったけになっている。
「ねね、りんご飴とわたあめ、どっちがいいかな。どっちも、ってアリ?」
「おい」
太るぞ、と言いかけて、すんでの所で八幡は口を閉ざした。女性への禁句の中でも最たるものだと散々っぱら言い聞かされていた八幡は別のことを考えようとして、でも
「もう。太るぞって言いたそうだけど、ヒッキーの視線、なんかいやらしい……」
「ちょ、待て、誤解だ。あーっと、ほら、わたあめ。あの屋台で良いよな。買いに行くぞ!」
自分でガン見しておいて誤解も何もないのだが、あの時はとにかく必死だったと八幡は後に述懐している。減るものでもなし五回や十回などと口走る大人にはならず、このままピュアな心を持ち続けて欲しいものである。
「じゃあ、ヒッキーにも半分わけたげるね」
「えっと、どうやるんだ?」
必死の勢いで入手した袋入りのわたあめを手渡すと、由比ヶ浜は大輪の笑顔でそう告げる。普段の同性を相手にしたノリで言ってしまった直後に自分でも気付いてしまい、更には「リア充ならではの特別な方法があるのではないか」と無邪気に尋ねた八幡のせいで顔を赤くしながら、由比ヶ浜は慌てて答える。
「ど、どうしよっか?」
「あー、そうだな。お前、この焼きそば食べる?」
「あ、うん」
「んじゃ、ちょっと待ってろ」
そう言うと八幡は目の前の屋台に近付いて注文を入れる。先にお金を払って、焼きそばをパックに入れてもらう間に綺麗な割り箸を二つ確保した。
「あと一つ二つ買ってから、座れるところを探すか」
戦利品を掲げながら八幡がそう提案した直後、彼の背後から女の子の声が聞こえて来た。
***
「あれ、ゆいちゃん?」
「おー、さがみん」
後方をちらりと確認して、八幡は内心で頭を抱えていた。顔や声に覚えはないが、遊戯部との勝負に出向いた時に由比ヶ浜が口にした同級生がこいつなのだろうと八幡は確信する。
ほんの数十秒前であれば、焼きそばの屋台の前から動かないことで、由比ヶ浜とは他人のフリができたのに。そう八幡が後悔したところで現状は覆らない。
クラスや学年の枠を超えて校内でも指折りのトップカーストに所属する由比ヶ浜が、自分のようなカースト底辺の存在と二人で花火大会に来ていた。そんな不名誉が広まる危険性を、どうして俺はあらかじめ予測できなかったのか。由比ヶ浜が誘ってくれたからと、周囲への影響を深く考えずにひょいひょい乗っかってしまった過去の自分を断罪しながら、八幡は必死で頭を働かせていた。
たしか海老名姫菜が忠告をしてくれたはずだ、と八幡は思い出す。奉仕部に注目する生徒が増えているので用心しろという話だったか。ならばそれを逆に利用できないものか。自身を低く見積もるがゆえに、八幡は自分もまた心配されていたことを忘れていた。
「そっか。ゆいちゃん、ヒキタニくんと一緒に来てたんだー」
だが
もちろん八幡の姓は比企谷であってヒキタニではない。しかしクラスの担任すらもヒニタニと思い込んでいる現状では、それを訂正するほうがクラス内で目立つから嫌だと、八幡は海老名に告げたことがあった。最初に材木座の依頼を受けた時だ。だがそれにしても、
「相模、その……」
「今日はゆいちゃんと一緒みたいだから遠慮するけど、うち、ヒキタニくんと話してみたいなって思ってたんだ。二学期になったらよろしくね」
何を問えば良いのかも分からないまま相模に話しかけようとした八幡は、更に意外な反応を得た。狐につままれたような表情の八幡を置いて、由比ヶ浜と相模は二言三言を言い交わすと無事解散となった。相模に向かってぎこちなく手を振り返しながら、八幡は由比ヶ浜に疑問をぶつける。
「なあ。……どうなってんの?」
「んっと、何が?」
「俺って、カースト底辺のぼっちだったはずなんだが」
何となくアイデンティティ・クライシスに陥りながら、八幡は呆然とした表情のままゆっくりと歩き始める。付近は既に見物客であふれていて、腰を下ろしてゆっくりできそうなスペースはもはや見当たらない。少し遠くまで行くしかないだろう。
「あー。それってヒッキーの思い込みっていうか。こないだお土産の話をした時も、クラスでハブられるとか『そんなことはないんじゃない』って言ったじゃん」
「いや、でもな。カーストなんてまずひっくり返らないもんだぞ?」
「はあ……。あのねヒッキー。周りの影響でってなるとヒッキーは嫌がるかもだけどさ。ゆきのんと同じ奉仕部に居て、なんでか印象には残りにくい感じだったけどテニスでも活躍して。全校向けだと今のところそれぐらいだけど、クラスだと隼人くんがちょくちょく話しかけに行ったり、さいちゃんと仲良くしてたり、サキサキの無言の圧力がヒッキーには効いてないって見る人が見れば分かるだろうし、あたしたちとも、その……仲がいいわけだしさ。そんな同級生がいたら、どう思う?」
「……リア充だな」
「そういうこと。ヒッキーが自分で自分をどう思ったとしても、周りからだと『どんな奴なんだ』ってなったり、『できるなら仲良くしたい』って思うのが普通じゃないかな?」
「あー、えーと、理屈は解った。けどな、なんつーか落ち着かねーな」
「でも、慣れるしかないって思うよ。二学期からはとべっちもどんどん話しかけて来そうだしさ」
「それな、小町にも言われたわ。マジかー、やべー」
もはや諦観の域に達した八幡が口真似をすると、由比ヶ浜が楽しそうに笑う。
「けどヒッキー、クラスで色んな子に話しかけられたとしても……」
「ああ、調子に乗って失敗すんなって言うんだろ。俺の実力じゃなくて周りの威を借る状態なんだし、勘違いはしねーよ。つか、話しかけられても今まで通り俺は逃げるから大丈夫だ」
ここに至ってなお自己評価の低さを隠そうともしない八幡に対して、そういう意味じゃなかったんだけど、と思いながら。同時にこの状況でも節を曲げない八幡を頼もしく見つめながらも、由比ヶ浜は反射的に反論する。
「いや、そこは逃げんなし。って優美子みたいな口調になっちゃったじゃん!」
「お前な、女王様の口真似とかして大丈夫なのか?」
「優美子はあれで反応が可愛いし、ぜんぜん大丈夫。むしろゆきのんが……」
「ああ、お前はやめとけよ。雪ノ下の物真似は俺が特許申請してるからな」
「ちょ、ヒッキー。それどういう事だし?」
二人が会話を続けながら腰を落ち着ける場所を探していると、ロープ向こうの有料エリアから。
「比企谷くん、はっけーん!」
そんな楽しそうな声が聞こえて来た。
***
暇を持て余していた雪ノ下陽乃のお声掛かりで、二人は貴賓席から花火の開始を待っていた。
「ううっ、やっぱりセレブだ」
「まあねー。えっと、何ちゃんだっけ?」
千葉村から帰ってきて駅前で解散した時に見た妹への拘りようからして、奉仕部の部員名など確実に把握しているだろうに、陽乃は平然と由比ヶ浜に問いかけた。質問された側は気付いていないが、すぐ側で陽乃の反応を眺めていた八幡は、内心でため息をつきながら事態を見守る。落ち着かない時間になりそうだと覚悟しながら。
「あ、由比ヶ浜です。由比ヶ浜結衣。その、陽乃さんって呼んでもいいですか?」
「うん、それ推奨。比企谷くんも遠慮なく呼んでね。なんなら呼び捨てでもいいよー?」
「はあ。それで雪ノ下さん、今日は妹さんは?」
「強情だなー、比企谷くんは。雪乃ちゃんはお留守番だよ。こういう場には私が出るって、前々からの決まり事だからね」
「ゆきのんも一緒に見たかったなー」
由比ヶ浜の言葉は本心からのものだ。しかし会話の流れを少し逸らすために、敢えてマイペースな発言をしたのだと八幡は気付いた。だが、陽乃がそれに気付かないはずもない。まるで二人に
「雪乃ちゃんも、この世界に巻き込まれた当初は頑張ろうとしてたみたいだけどね。わたしも居るって判ってからは、また一歩引いちゃったんだよねー」
この世界に巻き込まれた当初、全クラスに向けて行われた雪乃の演説を八幡は思い出す。確かにあの時の姿勢と今とは違う。しかし、あの危うい状態の彼女よりも、今のほうがずっと良いはずだと八幡は思う。それに陽乃が語る雪乃像は、どうにも作られた感を覚えてしまう。まるで大本営発表を聞かされているような気持ちがして、八幡は話を逸らそうと試みる。
「そういや、あのモニターってリアルの映像ですよね。こっちの様子もあっちで映してるんですか?」
「ふうん。比企谷くんはそう考えてるんだねー。映像通話の制限について、疑問に思わなかったのかな?」
発言の前半と後半で話が切れていることを八幡は理解する。前半は八幡の思考を読んで、そして後半は雑談として口にしたのだろう。つまりは話を逸らすという意図も見抜かれているわけだが、雑談に入るのが八幡の望みの展開なので、そのまま平然と答えを返す。
「この間、平塚先生に遭ったんですけど、リアルと繋がった状態の結婚式に参加したみたいで。それを聞いて、アップデート当初の設定のままだと難しいだろうなって思ってたんですよ」
まるで災難に遭ったかのように語る八幡の口調からおおよその出来事を推察して、陽乃は楽しそうな表情を見せる。この目の前の男の子は、思っていた以上に面白い存在だと。わたしの内面に気付いて、わたしに巻き込まれることを悟って、それを諦めている辺りが面白い。
「あ。肉親限定のはずなのに、ってこと?」
「たぶん由比ヶ浜の推測通りですよね。どうしたってこの状況だと、一般客まで映り込むのは避けられないでしょうし。仕様が変更されたとは聞いてないので、モデルケースというか実験みたいな感じですかね?」
「ま、一応は合格かなー。通話を繋げる時と切る時だけは肉親同士で、あとは一定時間ごとに肉親の存在を確認する、みたいな感じで落としどころを探ってるんだってさ」
「じゃあ、あっちには……」
「雪ノ下のご両親か、どっちか片方が居るんだろうな」
「仲良く二人で参加してるんだよねー。もう、年がいもなくイチャイチャする親って、ガハマちゃんどう思う?」
「あー、えーと、うちの両親もそんな感じなので……たはは」
由比ヶ浜が居てくれるお陰で、深刻な話からは逸れている。この姉妹と親との関係は、その詳細は今はまだ耳にしたくないと八幡は思う。そんな希望を見透かして、しかし時期尚早については見解を同じくするのか、陽乃は口の端だけで八幡に笑いかける。今日はここで勘弁してあげようと。
まるで対等とは思われていない陽乃の対応を通して、八幡はららぽーとに雪乃と出かけた時のことを思い出していた。戸塚や由比ヶ浜が、奉仕部に八幡を連れ戻そうと頑張っていた時も、雪乃は『貴方を屈服させるのは、また別の機会に』と言っててんで本気を見せなかった。あの時の雪乃と、今の陽乃と。やはり姉妹だなと八幡は思う。似ていない部分も多々あるが、似ている部分も色々とある。
「比企谷くんはさ。誰かに好かれるために無理に取り繕って、それで得たものってどう思う?」
「まあ、欺瞞って言って良いんじゃないですかね。いつかはボロが出るでしょうし」
「ガハマちゃんは素って感じだもんねー。でも、それだと……雪乃ちゃんは、また、選ばれないんだね」
「いや、意味が分かんないですって。それに姉妹でも似てない部分は多々あるでしょ?」
不穏なものを感じて、八幡は反射的に返事を返した。陽乃の意図を読めているとはとても言えない状態だが、何となくの勘を発揮して八幡は陽乃に抗う。
「例えばさ。静ちゃんが言ってたけど、雪乃ちゃんは優しくて正しいんだって。それって、比企谷くんとどう違うんだろうね?」
「俺はぼっちだし間違ってばっかだし、優しくも正しくもないですよ」
「ガハマちゃんの評価は違うっぽいけどなー。ま、それと同じだよ」
単なる言葉遊びなのか、それとも本質を裏に潜ませているのか。それらを読み取れないままに花火はフィナーレを迎える。とりあえず言いたいことは言い切ったのか、陽乃は最後まで花火を鑑賞すると、そのまま二人に背を向けて去って行った。
***
「なんか、話が濃すぎて花火の印象が薄れちゃったね」
八幡に自宅まで送ってもらう途上で、由比ヶ浜がぽしょっと呟いた。高校で解散しようと主張する由比ヶ浜と、自宅まで送って行くと主張した八幡で先程までは意見を戦わせていたのだが、由比ヶ浜が折れた形だった。
もちろん八幡に下心があるわけではない。最初に平塚先生に奉仕部に連れて行かれた時に言われた通り、八幡にそんな度胸はない。少なくとも今はまだ。
八幡が心配したのは、高校への帰り道で他の生徒と鉢合わせをする可能性だった。八幡からすれば謎の友好的な態度を見せられて、相模との遭遇が問題に発展することは無さそうだ。だが他の生徒に目撃されたらどうなるか分からない。だから自宅のマンションまで送っていくと、八幡は主張したのだった。
「雪ノ下さんが何を言いたかったのか良く分からんけど……あれだな。できれば関わらないほうが良い相手って居るよな」
「それはあたしもそう思うけど……」
八幡とはまた別のことを想定しながら少し言い淀んで、しかし由比ヶ浜は言葉を続ける。
「でもさ、ヒッキーも自分に関わって欲しくないって思ってるんだろうけどさ。……それは無理だよ」
「無理か?」
由比ヶ浜の言いたいことが全く掴めず、オウム返しに八幡は答える。
「うん。多分さ、この世界に巻き込まれなくたって、ヒッキーとあたしとゆきのんは奉仕部で一緒になってたと思う。それで、やっぱり陽乃さんとも関わりができてさ。関わりたくないなーって言いながらヒッキーが頑張るの」
「おい。それって俺の人生どうなってんの?」
「ヒッキーはヒッキーだってことだよ。だからあたしは、だけど、あたしもヒッキーや、ゆきのんの力になりたいから、だから、その時は……」
なにか言葉にならない感情を伝えようとして、今だけでなく未来のことも含めて伝えようとしているみたいで、八幡は由比ヶ浜の支離滅裂な言葉に反応できない。
由比ヶ浜が大きく息を吸って、決定的な言葉を告げようとする。八幡はそれを妨げることができない。ただその言葉を待つしかなかった八幡の耳に、メッセージの着信音が聞こえた。
「あ、メッセージ。……ゆきのんだ」
「こっちにも来てるな。勉強会、来週の土曜はどうかってさ」
「そっか。……ヒッキー、もうここでいいよ。あのマンションだから」
「その、お前……さっき言おうとしてたことは、良いのか?」
「うん。今じゃないなって思ったから。たぶん陽乃さんと同じ」
「よく分からんけど、その、雪ノ下さんと遭遇したのはアレだったけど、今日はあれだ、ありがとな」
「ううん。また一緒に遊びに行こうね。今度はゆきのんも一緒に」
「だな」
「でも……」
「どした?」
「
「ああ……おやすみ」
そのまま振り返ることなく、由比ヶ浜は八幡の前から去って行った。
彼もまた踵を返して家路に就く。照りつけるような強い日差しに身体を投げ出したい気持ちに駆られながら、比企谷八幡は夜の道を静かに独り、自宅に向かって歩くのだった。
原作五巻、了。
本章は次回の幕間の話と、その次の相違点・時系列のまとめで終了です。
短いスパンでは六巻の、そして長いスパンでは九巻までのプロローグのような扱いなので、本章について取り立てて述べることはありません。
今までの流れのおさらいと、将来への流れを作って、あとは可能な限り各キャラを魅力的に描きたいと思って書きました。
次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/26)