つい先程まで会話をしていた雪ノ下雪乃が突然床に倒れ伏したのを見て、由比ヶ浜結衣は慌ててその身体を抱きあげた。肌越しに伝わってくる鼓動は激しく、体は温かく汗ばんでいる。肩を揺り動かして名前を呼んでみたものの、反応はない。
たしか、保健室にメッセージを送って保健の先生を呼び出せたはず。そう思い出してメッセージアプリを立ち上げようとしたところに、男子生徒の声が届いた。
「由比ヶ浜……。頼む、換気を」
声の方へと振り向くと、比企谷八幡が物言わぬ姿で床に倒れ込んでいる。もはや一刻の猶予もない。由比ヶ浜はアプリを起動させながら、意識のない雪ノ下に肩を貸して身体を持ち上げた。
換気をしろって言われたけど、窓を開けて空気を入れ換えるよりも二人を廊下に出した方が多分いい。由比ヶ浜はそう考えて、保健の先生に連絡しながら順番に二人を廊下に運んだ。なかば引き摺りながらだし、体を机とかにぶつけちゃったかもだけど、その辺りは勘弁してもらおう。
教室の扉をしっかり閉めて、廊下の壁に背中をもたせ掛けた状態の二人を眺めていると、保健の先生が来てくれた。ステータスを確認して手持ちのポーションを投与すると、程なくして二人が目を覚ます。
状態異常と言われても由比ヶ浜にはよく解らなかったが、この世界での病気のようなものなのだろう。詳しい話はともかく、二人が元気になってほっとしたのか思わず床にへたり込んでしまった。
廊下まで運んでくれた由比ヶ浜にお礼を伝えて。そのまま休んでいるように告げると、雪ノ下は八幡を伴って部室の前に移動した。
そこに保健の先生も加わって、三人は教室のドアをほんの少しだけ開いて原因物質を確認する。
【謎の暗黒物質X/ゆいがはまのクッキー】
解説:周囲50mに存在する敵味方全てに定期的にデバフ判定。製作者のみ無効。
効果:毒、麻痺、マヌーサ(幻覚)、メダパニ(酩酊)、ルカニ(防御↓)、スリプル(眠り)、スロウ(敏捷↓)、まれに死の宣告など。
システムが提示する解説文を見なかった事にして、三人はそっと扉を閉める。教師の権限で教室内を綺麗な状態に戻して、保健の先生は帰って行った。
こうして、使いようによってはラスボスすら葬りかねない凶悪なアイテムは、日の目を見ないままひっそりと抹殺されたのだった。
***
何とか気分を改めて、生徒三人は再び課題と向き合った。
由比ヶ浜に二度と料理をさせない事がこの場における最優先事項なのではないかと二人は考えるが、本人の意志は固い。身に付けたエプロンの紐を握りしめながら、由比ヶ浜は決意を語る。
「あたしって、今まで色んな事から逃げたりして、何となくで過ごして来たんだけどさ。ここで逃げちゃったら、この先もずっとこのままな気がするんだ。それは……絶対に、嫌なの」
「そう。なら努力あるのみね」
「いやでも、がむしゃらに努力するだけって効率悪くね?」
「ええ。だから今から私がお手本を見せるから、由比ヶ浜さんは私がやった通りに作ってくれるかしら?」
「うん。ゆきのんの作り方を見て、次はちゃんとやる」
「その気持ちがあれば大丈夫よ。手順さえきちんとしていれば、さっきみたいな事にはならないはずよ」
心の中にある一抹の不安は外には出さず、雪ノ下は手慣れた動きでクッキーを作り始めた。
現実と違ってこの世界では待ち時間が省略できるので、生地を寝かす時間も焼き上がりを待つ時間も短縮できる。すぐに教室内には得も言われぬ香りが漂い始め、見目麗しいクッキーができあがった。
「旨っ。ほんとお前って何でもできるのな」
「何でもは無理よ。それにこれくらいなら、基本に忠実に従って何度も作っていれば誰にでもできる事よ」
「いや、普通の人にはそれが一番難しいと思うんだが」
「ほんとおいしい。ゆきのんって、やっぱり、かっこいいね」
「え?」
「建前とか全然言わないし。有言、実行って言うんだっけ。それってゆきのんの事だなぁって」
「そ、そう。ほ、褒め言葉として受け取っておくわ」
真っ正面からの素直な賞賛に慣れていない雪ノ下が何とか返事をして、辺りは甘酸っぱい空気に包まれる。
こうした空気に浸るのも悪くはないかもなと柄にもない事を考えながら。八幡は話を進めるために口を開いた。
「んで、その……。ゆ、由比ヶ浜はできそうか?」
少しだけ改善の気配が見られたと思ったら、相変わらず女子の名を呼ぶのが気恥ずかしい八幡だった。ちなみに雪ノ下に対してもよく「お前」などと呼び掛けているのだが、その理由はお察しの通りなのでさておいて。
「うん。さっきの通りに作ればいいんだよね。任せといて!」
元気いっぱいに応える由比ヶ浜だった。
***
結論から言おう。由比ヶ浜の料理スキルがマイナスなのは伊達ではなかったと。
バターは薄く切ってから室温に戻したし、砂糖と塩も間違えていない。先程は大量に加えていた隠し味も何とか自重させたし、新たに思い付いた桃缶の投入も瀬戸際で回避できた。
それでもできあがったのは、先程のような禍々しい物質でこそなかったものの、とても食べ物とは思えない何かだった。
【黒い物体/ゆいがはまのクッキー】
解説:周囲10mに存在する敵味方全てに向けて嫌な臭いを出す。製作者のみ無効。
効果:なし。
「由比ヶ浜さん。これは一人の人間にとっては小さな一歩だけれども人類にとっては偉大な飛躍よ」
「褒められてる気がしないよっ!」
「そんな事はないわ。人類がその歴史の中で大量破壊兵器を自らの意志で放棄できた初めての事例なのだから」
「難しい事は解んないけど、なんか複雑」
発言の内容はともかく、雪ノ下が心から賞賛しているのは確かなので、由比ヶ浜は不満ながらも矛を収める。
とはいえ依頼が行き詰まったのも確かだ。料理スキルがマイナスの由比ヶ浜に、どうやって料理を教えたら良いのだろうか。
「由比ヶ浜さん。その、責めているわけではないのだけれど。どうして手順通りに作ろうとしないのかしら?」
「えっ。だって、ちゃんと考えながらやらないと身に付かないよって昔から言われてたし」
「ええ。それはその通りね」
「だから、作りながら考えてて、こっちの方がいいやって思う事をやってるんだけど」
「ええ。そこが諸悪の根源ね」
「なのに……って、ええっ。考えながら作るのってダメなの?」
「ダメではないのだけれど。基本の手順というものは、今までに多くの人が考えを重ねて、それを改良し続けた結果として成り立っているものなのよ。だから私達が下手な考えで改変するよりも、そのまま従った方が良い結果になりやすいのよ」
「ほえー。じゃあ何にも考えなくて良いんだ」
「ええ。特に由比ヶ浜さんの場合は工夫すればするほど酷い結果になりそうだから、徹頭徹尾レシピ通りに作ってくれた方が良いと思うわ」
「ちなみに、由比ヶ浜のクッキーのスキルって今どうなってんの?」
雪ノ下が発言するごとに由比ヶ浜の喜怒哀楽が忙しい事になっているので、八幡は強引に会話に介入した。ぼっちには無縁だった気遣いを、一気にやらされている気がする。そう思いながらも、内心それほど悪い気はしなかった。
「それって、料理スキルの下に並んでるやつだよね。……さっきより数字は減ってるけど、マイナスだから良いのかな。でも、やっぱりマイナスのままなんだよね」
「なるほど。では今日の目標は、クッキーのスキルをプラスにする事にしましょう」
「料理スキルはいいのか?」
「そちらは今日一日で改善するのは不可能よ。でも、サブのスキルだけなら何とかなると思うわ」
「サブだけ改善ってできんの?」
「現実を思い出して欲しいのだけれど。他の料理は全くダメなのに、例えば目玉焼きだけは上手に作る人っているじゃない。あれと同じよ」
「クッキーだけはちゃんと作れるようになるって事だよね。でも、やっぱりあたしって、料理の才能がないんだね」
二人の会話を何とか理解して、由比ヶ浜はどよんとした声で話に加わった。薄々そうではないかと思っていても、はっきり数字で示されるのはつらい事だ。
だが、そんな後ろ向きの発言を許さない生徒がここにいた。
「由比ヶ浜さん。才能の有る無しは、最低限の努力をして初めて判定できるものよ。ろくに努力もしないで才能を語るのは、単なる負け犬の言い訳だわ」
「ちょ、お前。さすがに言い過ぎじゃね?」
「貴方は黙っていなさい。由比ヶ浜さん、何か反論は?」
その発言は、なかば以上は賭けだった。
そもそも普通なら、「次はちゃんとやる」と言い切った由比ヶ浜がそれなりのクッキーを作って話が終わるはずだ。あの時の決意は本物だったと雪ノ下は思う。だからこそ、
世の中には努力では達成できない事が山ほどある。それを才能の差と言えば確かにその通りなのだろう。しかし今の雪ノ下にはそれを認める事はできない。認められない理由があるのだ。
だからこそ雪ノ下は自分にできる限りの努力を惜しまないし、努力する人には相応の結果が出る事を望む。この想いに負の側面があるのは知っているが、今はまだ問題にはならないはずだ。
仮にここで挫けるようでは、その程度だったという事だ。
だがもしも、逃げるのが嫌だと言ったあの決意が本物なら。
その時は持てる力の全てで手助けをしようと、雪ノ下は密かに心に誓う。未だ明確には口に出していない希望も含めて、全力で由比ヶ浜の後押しをするのだと。
「……うん。悔しいけど、ゆきのんの言う通りだと思う。次は絶対に、手順以外の事は何もしないからさ。もう一度だけ付き合って下さい!」
少し涙目になりながらも、その両目からは強い意志が感じられた。由比ヶ浜の申し出に否と言う者などこの場には一人もいない。
かくして、この日最後のクッキー作りが始まった。
***
できあがったのは、何の変哲もないクッキーだった。形も不揃いだし、中にはクッキーと呼んで良いのか首を傾げるものもある。しかし先程とは違って、食欲を刺激する甘い香りが家庭科室に漂っていた。
雪ノ下と八幡が、恐る恐るアイテムの解説文に目を向けると。
【クッキーのようなもの/ゆいがはまのクッキー】
解説:決して美味しくはないが、作り手の心がこもったクッキーらしきもの。
効果:なし。
何だか大仕事をやり遂げた感のある二人だったが、確認すべき事はもう一つある。
「由比ヶ浜さん。料理スキルとクッキーのスキルはどうかしら?」
「うん、ちょっと待ってね。……料理スキルはあんまり変わってないや。クッキーは……あ、プラスになってる。まだ数字は小さいけど、さっきと比べたらだいぶ上がったよ!」
「おめでとう、由比ヶ浜さん。これが貴女の努力の賜よ。才能がないなんて言っていたけれど、今の気分はどうかしら?」
「うん。無事にやり終えたって感じで、身体も心もすっごく軽い気がする。ゆきのんが言ってた最低限の努力には、まだ足りてないと思うんだけどさ」
「それはまた別の機会に、一つ一つ積み上げていけばいいわ。由比ヶ浜さん、今日のところはお疲れ様ね」
「うん。ゆきのん、ありがと!」
「私はほとんど何もしていないわ。貴女が努力した結果だから、今は自分自身を労ってあげたらいいわ」
ほんの少しだけ頬を赤らめながら、雪ノ下は優しい顔で由比ヶ浜を労う。
だがこの教室には空気を読めない男がいた。
「お前って、けっこう照れ隠しが下手だよな」
「な、何を横から変な事を言い出すのかしら。だいたい今回の件は貴方の……」
「あ、確かにゆきのんって、照れてる時めちゃくちゃ可愛いよね」
「由比ヶ浜さん。貴女もこの男に便乗して何を言い出すのかしら。そもそも貴女は……」
「これで誤魔化せてると思ってる辺りが雪ノ下らしいよな」
「ヒッキー。そこは大人しく騙されてあげるのが男の子の役割だと思うな」
「え、マジで。そんな面倒な事をみんなやってんのか。すげぇな」
「あたし達だって、男子の変な行動を流してあげてるんだからね」
「あー、そう言われると反論できんな。いつも気遣ってもらってすまん」
「えっ。あ……そんな素直にお礼を言われると、困る」
「う、そうか。……すまん」
二人の会話の合間に、何とか自身の正当性を主張すべく口を挟もうとする雪ノ下だったが。会話を交わす二人の雰囲気が変化するにつれ、話の推移を見守る態度に移行した。
仲良く口ごもった二人が顔を赤らめて困っている様子を眺めながら。頬を緩めた雪ノ下はメッセージアプリを立ち上げると、顧問にクッキーの完成を伝えた。
区切りが良かったので、今回はここまでです。
次回は日曜日に更新予定です。もしかしたら時間が一時間早まるかもしれません。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
改めて推敲を重ね、後書きを簡略化しました。(2018/11/17)