以下、前回までのあらすじ。
合宿二日目の朝、さしたる仕事がなかった女子生徒たちは事態の変化を受けて、すぐさまメッセージで接触を図ることにした。当事者以上に思い詰めていても仕方がないと教師に指摘され、留美からの返事を待つ時間に彼女らは水遊びをして気分転換を行う。そこに一人合流した八幡にラブコメの神様が微笑んだ。
前日の夜、小学生たちは班ごとに分かれて宿泊室で過ごしていた。体育館で行われた班長会議の概要を全員に伝えて、今は引き続き班会議の時間だ。翌日の予定を林間学校のしおりで確認して、それから各自が今日あった出来事を記入する。全員のしおりを班長が回収して先生に提出して、それでようやく一日が終わる。
鶴見留美は淡々と、無味乾燥な内容を書き記していった。みんなとオリエンテーリングをしました。みんなとカレーを作りました。みんなとお風呂に入りました。みんなと……。
「えっと、明日の自由時間はハイキングだよね」
「往復で三時間ぐらいって書いてるし、二時までに帰ってればいいんだから余裕だよね」
「うん、足がおそい誰かさんに合わせても余裕だねー」
「でも二時半からおふろって何とかならなかったのかな?」
「肝だめしと晩ごはんとキャンプファイヤーがあるからねー。あ、肝だめしって変更になるかもってさ」
沈黙を嫌って一人が口を開くと、そのまま四人だけで会話が続いた。途中で話題を向けられて留美は密かに身構えたのだが、話が逸れたおかげで事なきを得た。そのまま班長が詳しい話を説明する。
鬱蒼と木々が茂っている中に向かうとはいえ、肝試しは四時半というまだ明るい時間帯に始まる。更にこのデジタルな世界でお化けなどいるわけがないという意見や、逆にこの世界でも幽霊を見たという意見も出て、肝試しがそのまま実行されるのか不透明な状況になっていた。
「肝だめしはどっちでもいいけど、あのお兄さんたちがお化けになったところは見てみたいね」
「あ、それ見たーい」
「きゃーとか言って抱きついたりして?」
「えー、大胆すぎじゃない?」
留美はしおりに書き込む手を止めて、夕方に会った二人がお化けに仮装している姿を想像してみた。あの女の人だったら、黙って立っているだけで見る者を萎縮させるような姿になるのではないか。あの男の人だったら、怖がらせて泣かせてしまった子を何とか元気付けようと、仮装した姿のままでおろおろしているのではないか。
そんなことを想像してつい小さく笑顔を浮かべていると、目ざとく見付けられてしまった。
「あれ。鶴見ってもしかして色気づいてる?」
「さっきカレー作ってる時にも、お兄さんに話しかけられてたもんね」
「自分から動かなくても、お兄さんが寄って来てくれるって余裕かましてるんだよねー?」
少しだけ弾んだ気持ちはあっという間に消え失せて、留美は能面のような表情をまとった。そのまま静かに嵐が通り過ぎるのを待つ。
だが何も反応を示さない留美を見て、誰かがわざと聞こえるように舌打ちをした。びくっと反応しそうになる身体を何とか抑えて、留美はしおりに顔を向けたまま身動きをせず耐えていた。
「あ、そっか。今日のできごとを書きながら、お兄さんのことを思い出してたんだ?」
「ふーん。どんなふうに書いたのか、見せて?」
無理に留美からしおりを取り上げるようなことはせず、自主的に提出を促す。先生に届ける前にどうせ確認が入るのだろうと覚悟していた留美ではあったが、この話の流れはさすがに想定外だった。見せた後の展開を嫌って、留美は思わず反駁してしまった。
「大したことは書いてないし、別にいいでしょ」
「じゃあ別に見てもいいじゃん。いいから見せて」
一つ余計なことを言ってしまったと後悔しながら、留美は大人しくしおりを渡す。
「何これ。あったことを書いてるだけじゃん」
「えーっと。『みんなでカレーを作りました』って、鶴見は立ってただけだし、途中からいなくなってたじゃん。せめて『おいしかった』とか、『作ってくれた班のみんなに感謝』とか、そういうの書いたほうがいいんじゃないの?」
順番にしおりを回覧されて、悪態をつかれる。投げかけられた言葉には攻撃的なものもあれば、場の雰囲気を壊さないように言ってみたという程度のものもあったが、そうした差異は留美には今さらどうでもいいことだった。
言われた通りのことをただ機械的に書き加えて、留美はしおりを班長に渡す。これでようやく一日が終わったと、少し安心したような気持ちで。しかし、特に攻撃的な二人の小学生は、この程度では済ませてくれなかった。
「っていうかさ、自分勝手なことをしてる鶴見に、こんなに気をつかってるのにさ。お兄さんにまで気をつかってもらって、いい身分だよね」
「明日もどうせ遅れてついてくるんでしょ。またお兄さんに声をかけてもらえるチャンスだよね」
「だって、あれ以上は近づくなって……」
「あれ。別にそんなことを言ったつもりはないんだけどなー。みんなに合わせた行動ができないなら仲間じゃないし、仲間じゃないなら近づく必要もないよね、ってだけなのにさ」
「鶴見って、さめてるように見えて、実はロマンチックなの好きだからさ。お兄さんに助けてもらうシーンとか想像して、自分に酔ってるんじゃないの?」
かつて仲が良かった頃には、目の前の少女とはお互いに名前で呼び合っていたものだった。その頃には親しげな雰囲気の中でからかわれた言葉が、今では緊迫した雰囲気の中で冷たく言い放たれている。
中学生になるまで、あと半年。しかしその半年が、小学生の身には永遠にも近く感じられてしまう。それに、あの高校生のお姉さんが言っていた通りであれば、中学に入っても状況は変わらないかもしれないのだ。
それならもう、こんな中途半端に取り繕うような関係なんていらない。たとえ独りぼっちになっても、ハッキリしてるほうがいい。どこか投げやりな強さを発揮して、留美は口を開いた。
「じゃあ、明日のハイキングは四人で行けばいいじゃん。私は気分が悪いからって、ここで寝てるから」
「鶴見さあ。そういうわがままが班に迷惑をかけてるって、わかってる?」
「ホントにねー。ま、いいじゃん。鶴見が言い出したことなんだしさ。先生にサボりがバレても鶴見のせいだから、班のみんなを巻き込まないでよね?」
「点呼の時にめだつのは嫌だし、朝だけは出て来てよね。その後は鶴見の好きにすれば?」
思いがけない留美からの反撃を、逆に責任を全て押し付ける形にして処理したことで、ようやく二人の意識から留美の存在が薄れてくれた。そのまま四人で行くハイキングの詳細を楽しげに語る同い年の少女たちをぼんやりと眺めながら、留美はようやく一日目が終わったことを実感していた。
***
時は二日目の午前中に戻る。川遊びの最中にアクシデントが発生して、当事者たちが恥ずかしそうに顔を背け合っていた時のこと。これぞ天の助けとでも言いたいぐらいのタイミングで留美からのメッセージが届いた。
『外には行きたくない』
本来なら雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣から詳しい事情を聞くところだが、先ほど肌を触れあわせた感覚がまだ強く残っているだけに、おいそれと彼女らに近付くことができない。そんなわけで比企谷八幡は妹から詳しい話を聞き出すべく、集団から少し離れることを手振りで指示した。
「えっと、同じ班の子たちはハイキングに行ってて、独りで自然の家に残ってるみたいなのね。で、『お話しない?』ってメッセージを送ったら、お兄ちゃんと雪乃さんをご指名みたい」
「で、場所の詳細を送ったらあの返事か」
「うん。ここに来てくれたら気分転換になるかなって思ったんだけど……」
「楽しそうにしてるところを、他の連中に見られたら嫌だろうしな。んじゃ、俺と雪ノ下で自然の家まで行ってくるわ」
「お、お兄ちゃんってば大人の余裕だね。さっきのことがあったばっかなのにさ」
途端に先程の恥ずかしい気持ちが蘇ってきて、何とも言えない表情を浮かべる八幡だった。兄のその反応を見て、比企谷小町は手振りだけで詫びを入れる。
集団に視線を送ると、どうやらあちらも同じ結論に至ったようだ。八幡と雪ノ下を送り出して、残りの面々はここで男性陣を待って話し合いを行うのだとか。
気分転換もできたし川遊びは終わりだと、水着の上からパーカーやポンチョを羽織り始める女性陣を眺めながら、八幡は自分だけが彼女らの水着姿を堪能できたことに感謝を捧げた。しかし先程のアクシデントについては今なお生々しい感触が残っているだけに、感謝して良いものやら判断がつかない八幡だった。
後日、戸塚彩加の水着姿を見られなかったことに気が付いて、八幡が感謝を取り下げ恨みを捧げることになるのはここだけの話である。
***
雪ノ下と並んで歩きながら、八幡は更に詳しい情報を受け取っていた。特に、朝の点呼の時には五人で外に出ていたのに解散と同時に四人だけがハイキングに出たと聞いた時には、思わず拳を握りしめてしまった。
「置き去りにされる段階を通り越してるな。かなり状況は悪いと考えるべきだろな」
「ええ。独りで残ることを納得させた形だから、支配が更に強くなったと考えたほうが良いわね」
「その、お前は言い訳とは取らないと思うが……。昨日の俺たちとの会話が、何かの引き金になった可能性はあると思うか?」
「あの時点では考えていなかったのだけれど、平塚先生から『強さが持つ危うさ』を教えて頂いた今となっては、関連性があると考えるべきね。『中学になっても』と厳しい事を言ったのは私なのだから、貴方は気にしなくても良いと思うのだけれど」
「ばっかお前、その場にいたんだから俺も同罪だろ。『相手に反省の機会を与えないのは単なる傲慢』とかって言ってたのは誰だっけな?」
お互いに先程の気恥ずかしさは完全には無くなっていないものの、優先して相談すべき事柄があるおかげで二人は滞りなく意見の交換を行えていた。八幡の軽口にふっと笑みを浮かべて、雪ノ下は返事を返す。
「それなら、一緒に反省して一気に挽回と行きたいところね」
「だな。まだ俺らと話をする意思はあるみたいだし。今のうちに何とかしないとな」
既に留美宛には『自然の家に着いたら連絡するので待っていて下さい。比企谷くんも連れて行きます』という返事を出している。それを思い出した八幡は、留美が他の小学生に見られることを気にするだろうなと考えて、歩きながら平塚静に連絡を取った。
「自然の家の近くまで誰か小学生が帰ってきたら、こっちに連絡を入れてもらうとかって出来ますかね?」
平塚先生の返事によると、アプリの地図上で範囲指定を行う事で、小学生がその線を越えるとすぐに通知が来る機能があるとのこと。帰って来た小学生に気付かれず解散できるように連絡をお願いして、八幡は一息ついた。
教師からはそれに加えて、留美と同じ班の小学生たちは歩いて一時間以上離れた場所にいるので当分は大丈夫だという追加情報が届いた。教え子たちは平塚先生からのありがたい気遣いを受け取って、気持ちを切り替える。
事前にできることは他にはもう無いだろう。後は顔を合わせてどうなるかだと考えながら、二人は自然の家へと近付いて行く。
宿泊室で話をするのは嫌だろうなという八幡の意見を受けて、雪ノ下は留美に『研修室まで来て下さい。付近に他の小学生が来たら連絡が入るので、気にしなくても大丈夫です』というメッセージを送った。
***
畳敷きの広い研修室を半分以下に区切って、八幡と雪ノ下はテーブルと座椅子を並べていた。喩えるならば、ひなびた温泉旅館に到着して部屋に足を踏み入れた時に見られるような光景がそこにはあった。少し違うのは机が正方形で、時期が冬ならそのまま炬燵にできそうな形をしている。
例によって上座に腰を落ち着けて、両脇に八幡と留美を迎える形で雪ノ下が鎮座ましましている。八幡もまた指定された場所に腰を下ろして、雪ノ下に倣って仕方なく正座で過ごしていると、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ、遠慮なく」
昨日からの林間学校のイメージとは全く違う室内の光景に、留美が驚いた顔をしている。入ってきた時の硬い表情が解きほぐされていくのを見て、高校生の二人もまた肩の力を少し抜いた。
「和菓子と、それから日本茶も淹れてあるわ」
まるで家族旅行でもしているかのような雰囲気に、留美の顔にも微かな笑顔が浮かび始めていた。全員が足を崩してお茶菓子を頬張り、しばし無言の時が過ぎる。しかし八幡が口を開くと、留美は再び冷たい表情に戻った。
「えっと、鶴見だったよな?」
「……留美でいい」
縋るような口調で希望を告げる少女の意図が読めなくて、八幡は真面目な表情のまま目だけで雪ノ下に助けを求めた。いくら小学生とはいえ、あるいは相手が小学生だからこそ、名前で呼ぶことは八幡にとってハードルが高いのだ。
「留美さん、で良いかしら。苗字で呼ばれるのは嫌なのね?」
「苗字が嫌いってわけじゃないけど。名前がいい」
「つっても、留美さんって俺が言うのはしっくり来ないしな。留美ちゃんだと犯罪を犯してるみたいだし、男子高校生には厳しいものがあるんだが」
「留美でいい。私も八幡って呼ぶから。お姉さんは雪乃さんでいいんだよね?」
「それで大丈夫よ。留美さん、名前の話を聞かせてもらえるかしら?」
まさかの呼び捨てに八幡が驚いていると、礼儀作法にはうるさいはずの雪ノ下がそのことには触れず、そのまま話を促していた。釈然としない気持ちで八幡は聴き役に回る。
「うん……。前はみんな名前で呼び合ってたんだけど、今みたいになってからは苗字でしか呼ばれてなくて。だから……」
「嫌な話をさせちまったな。教えてくれてありがとな、留美」
だが留美の意図を把握してからの八幡の動きは早かった。八幡からの呼びかけに、留美はほっとしたような表情を浮かべている。
「ううん。私こそ、八幡に犯罪者みたいな呼びかたをさせちゃって、ごめんなさい」
「あー。やっぱ呼び捨てでも犯罪者みたいになるのかね?」
「人によるのではないかしら。あとはロリ谷くんの日頃の行いね」
「おい。その冗談は洒落にならんっつーか、留美が冗談を真に受けたらどうしてくれるんだよ」
とはいえ八幡の心配は杞憂だったみたいで、年長者二人のやり取りに目を丸くしながらも、留美は悪い風には受け取っていない様子だった。呼び捨ての強制を素直に謝って来たことといい、今まで留美は良い育ちかたをして来たのだろうなと二人は思った。
「さて。私たちは留美さんに、できる限りのことをしてあげたいと思っているのだけれど。ゆっくりとで構わないから、今の状況を教えてくれないかしら?」
「どうして、私のために?」
「私たちも、留美さんの年齢の頃には色んなことがあったのよ。今の貴女と同じような目に遭って、それでも明るく育っている、と、友達がいるのだけれど。留美さんが今のままの状態だと、その子が哀しむと思うから。過去を気にして悔やんだりは、今更して欲しくないのよ」
留美と差し向かいであれば躊躇することもなかっただろうに、すぐ横で八幡に聴かれていると思うと、雪ノ下は由比ヶ浜のことを友達と表現するのが急に恥ずかしくなって少しつっかえてしまった。だが口にした言葉は全て本音だと、雪ノ下は強い意志をこめながら自らの動機を語る。由比ヶ浜と、そして最後には別の誰かのことをも想定しながら。
「俺らと一緒に来てる由比ヶ浜って奴のことなんだけどな。そいつも留美と同じように順番が来てハブられて、謝って許してもらったんだと。何か別の方法があったんじゃないかって、何年も前の事でも悩み始めるような優しい奴なんだわ」
そこで少し言葉を切って、八幡は少しだけ躊躇した後で再び口を開く。
「つーか、ちょっと嫌な事を聞くかもしれんが……。順番にハブるってのは今回の留美も同じだよな。さっさと謝って無かったことに、ってのはもう無理なのか?」
「……うん。私が流れをとめちゃったから。でも、みんなといっしょになって、ハブってる子に思ってもないようなひどいことを言うよりは、今のほうがいい」
自分の行動に責任を持てる小学生が、この状況にあっても今のほうがいいと言い切れる強さを持つ小学生が、果たしてどれほど居るのだろうか。だが、だからこそ留美は現状に嵌まり込んでしまったのだと二人は思う。同時に、こんな理不尽なことはまちがっていると。留美に相応しい扱いは、このようなものではないはずだと二人は思う。
「そのな。俺も長年ぼっちだったし、雪ノ下も最近まで友達らしい友達がいなかったみたいだから、俺らが言うのもアレだけどな。ぼっちはつらいぞ」
昨日の晩に妹から言われた『ぼっちが自分を救ってくれた』という言葉を思い出しながら、八幡は話を続ける。あの時は嬉しさが勝っていたこともあって特に反論しなかったが、妹が言うほどぼっちで平気だったわけではないのだと、留美と雪ノ下に言い聞かせるように。
「正直気楽なのも確かだし、周りから見たら平気そうに見えるんだろうけどな。同情するような、惨めな奴を見るような目で見られると、かなり精神的に来るものがあるんだわ。あと、昨日たしか由比ヶ浜が『今まで普通にできてたことができなくなった』って言ってたけど、何をするにも一人だと困ることも多いからな」
「そうね。私の場合は、こちらから声をかければ従ってくれるのだけれど、対等な関係ではなかったから。それに集団が相手だと、個人ではどうしても限界があったわね」
「八幡も雪乃さんも、今からでも謝ったほうがいいって思ってる?」
少し自信を失ったような表情で、留美が細々とした声で問いかけた。返答の難しさに頭を掻きながら、八幡は少しずつ言葉を選びながら口を開く。
「正直、状況が改善するなら謝るのも手だとは思う。けど、詳しい状況は分からんけど、謝っても逆効果って場合もあるしな。そもそもこっちに謝る理由なんてないし、俺だったら謝りたくねーな」
「比企谷くん。言っていることが矛盾しているのだけれど」
苦笑しながらツッコミを入れつつ傍らを窺うと、留美はぽかんとした表情を浮かべていた。良い傾向だと考えながら、雪ノ下はそのまま言葉を継ぐ。
「でも私も、謝る必要なんて無いと思うわ。留美さんにもよく覚えておいて欲しいのだけれど、本来ハブられる側に落ち度なんて無いのよ。悪いのはハブる側に決まっているのだから、あちらの理屈に従う必要なんてこれっぽっちも無いわね」
「おい。俺をたしなめてたはずのお前が更に過激なことを口にしてるって解ってんのか?」
「でも、貴方も同じ意見だと思うのだけれど」
「まあな。どう考えてもこっちが被害者だからな。被害者にも何かを改善することはできるだろうし、それで問題が解決することもあるとは思うが、だからって被害者に責任はねーだろって思うな」
「そうね。これが一般社会の話であれば、被害者が警察に行って『君にも責任がある』なんて言われたら職務怠慢という話になると思うのだけれど。学校で先生に相談に行くと『君にも責任がある』と言われるのは珍しくないのよね」
「それどころか、加害者連中が『先生に話すのは卑怯』とか馬鹿みたいな事を言ってくるよな。馬鹿の相手をするのに権力を持ち出して何が悪いんだってな。まあ実際には、頼りにならない先生が多いから権力もあてにはできないわけだが」
長年の鬱憤を晴らすかのように、八幡も雪ノ下も過激な発言を続けていた。留美もまた二人が口にする言葉の意味を理解できる境遇ゆえに、自分が薄々疑問に思っていたことを二人が肯定してくれたような気がした。
「それもそうね。話を戻すと、留美さんには謝る必要も、責任を感じる必要もないと思うわ。ただ、相手の出方に応じて対応を変えることで、被害者の側からも状況に変化を起こせると私は思うの」
「それって、どうやって?」
現状を打破する具体案があるのかと、留美は期待を込めた視線を雪ノ下に送る。だが雪ノ下は真っ直ぐに少女を見据えながら、噛んで含めるように言い聞かせる。
「今から話すことは、留美さんが期待している内容ではないと思うのだけれど。でも、しっかり覚えておいて欲しいのよ。何よりも、身の安全を第一に考えること。そして、身の危険を感じたら即座に逃げること。それが、何よりも大切なことだと私は思うの」
あまりにも意外な雪ノ下の発言に、留美も八幡も面食らっていた。雪ノ下ならばもっと力強い発言をしてくれるだろうと思い込んでいたのだ。しかし八幡は昨夜のログハウスでのやり取りを思い出して、昨日の今日で教えられる側から教える側へと変貌を遂げている雪ノ下の学習能力に驚愕する。
「留美さんは、孟母三遷という言葉を聞いたことはないかしら?」
「モーボ?」
「孟子という古代中国の偉人が居るのだけれど。そのお母さんを孟母と呼んでいるのよ。孟母三遷とは、子供の教育のために三度も住む場所を変えたという故事から生まれた言葉なの。ここまでは大丈夫かしら?」
留美が話の流れを理解していることを確認して、それから少しだけ八幡のほうを見やって、雪ノ下は言葉を続ける。
「逆に言えば、孟子ほどの偉人であっても、勉強を続けられる環境にないと堕落してしまうのではないかと私は思ったのよ。何だか、比企谷くんみたいな捻くれた発想で申し訳ないのだけれど」
「おい」
「冗談よ。だから留美さんにも覚えておいて欲しいの。自分がダメだから、自分に責任があるから、環境が変わっても同じだとか考えないで。孟子ですら環境が悪いとどうにもならないのだから、私たちなら余計に環境が大事だと思うのよ。環境がダメだと思ったら、迷わず場所を移すこと。さっき言ったように、逃げることをためらわないで欲しいの」
昨日ここで合流した直後に、一色が一緒に遊びたがっているのではないかと指摘されて照れていた雪ノ下の姿を、八幡はふと思い出した。昨夜その話をネタにした時には『年下との親しい関係は今まで無かったことなので』などと言っていたが、ここまできちんと年下の相手ができるのなら上出来だろうと八幡は思う。
「ま、確かに逃げるのが一番大事だな。それで、今の状況をできたら確認したいんだが。もし言いかたが悪かったら謝るからすぐに言ってくれ。留美は今、小学生の中で孤立してる状況なんだよな?」
「……うん。孤立っていうか、誰も助けてくれない状態」
「じゃあ、お前を……」
「留美」
「すまん。留美をハブってる連中に逆らうのは難しいか?」
悪気があって口にした言葉ではないが、名前を呼ぶようにと即座に指摘が入ったことを八幡は好ましく感じていた。この調子ならもう少し突っ込んだ話をしても大丈夫だろう。
「逆らえないわけじゃないけど。昨日も『ハイキングは四人で行けばいいじゃん』って言ったら、私のわがままで班に迷惑をかけてるって。私の責任だから班のみんなを巻き込むなって言われちゃって……」
「そこはあれだ。さっき雪ノ下が言ったように、留美に責任なんかねーからな」
「ええ。加害者連中に都合のいい理屈など、気にしなくても大丈夫よ」
雪ノ下に保証してもらってほっとした表情の留美を眺めながら、八幡が再び口を開く。
「その、あんま聞きたくねーかもしれんが、今から加害者連中の目論見っつーか、状況がこのまま悪化したらどうなるのかを説明するな。事前に知っておくことで、色々と防げることがあるんじゃないかって思うから話すんだけど、しんどかったらすぐに言えよ。留美を苦しめるために話すんじゃねーからな」
しっかりと頷く留美を見て、小学生ながら驚くほどの芯の強さを見せる少女に朧気な敬意すら抱きつつ、八幡は話を続ける。
「今の加害者連中がやってるのは、留美の無力化だと俺は思う。どう反抗しても自分たちには敵わないって思い知らせるために、留美の言葉とかを逆手に取って、悪い方に解釈させるように誘導してるように思えるんだわ。で、もしも無力化が完了したら、その次は透明化という段階に入るはずだ。明らかにハブってるのに外からはハブってるように見えない状態っつーか。教室とかでも肩とか組んで仲良さそうにしてるのに、本人たちは全く笑ってないみたいな状態だな」
「おぞましい以外の何物でもない状態ね」
「俺もそう思う。だからそうなる前に逃げるのが大事だってのは、さっき雪ノ下が言ってたよな?」
頷きを返す留美は硬い表情ではあるものの、冷静に理解できてもいると八幡は判断した。そのまま彼は言葉を続ける。
「で、無力化の段階に戻るんだが。相手が動いた時ってのは、こっちにとってもチャンスなんだわ。標的を無力化できないでいると、『実は大したことないんじゃね』って加害者に疑いを持つ奴が増えて来るからな。どんなこじつけでも良いから連中の無理難題を避け続けていれば、時間は留美に味方してくれるってのを知ってて欲しい」
戸塚に話した家康のとんち話を八幡は思い出す。こじつけであれ、とにかく目の前の危機を避け続けていればいつか大きなチャンスが来るというのは、まさにあの昔話の通りではないかと。苦境を凌いだからこそ関ヶ原に繋がったのだろうと八幡は思った。
八幡はかつて集団から疎外されている自分が透明になった気がして、同じようなことがあるのかと父親のパソコンで調べてみたことがあった。その時に孤立化・無力化・透明化という虐めを段階的に分類する考え方を知ったのだった。
自分が思っていた透明な状態と比べても、そこで紹介されていた透明化という状況は遙かに酷いものだった。今より小さかった八幡は自分がそうではないことを知って安心したのだが、まさかこんなところでかつての知識が活かせるとは思ってもいなかった。
少しだけ、自分より酷い状況があるのを知って安心してしまった過去の自分に罪悪感を覚えつつ、それを挽回するのが今だと考え直して、八幡は言葉を続ける。
「後は何か伝えておくことって……あれか。もし留美が今の立場から解放されたとして、逆の立場になってもやり過ぎないようにな」
「虐めの連鎖を防ごうと、貴方は考えているのね」
きょとんとしている留美に苦笑していると、雪ノ下が的確なフォローを入れてくれた。
「それもあるんだが、虐められたから同じ目に遭わせてやるって、なんか同レベルみたいで嫌じゃね?」
「なるほど。貴方らしい意見ね。留美さんはどう思うのかしら?」
「私は……私が謝っても、べつの誰かがまたハブられるのなら嫌だなって思ってたから。そんなことはしたくない」
「それで良いんじゃね。あとあれだ。俺らは高校で奉仕部って部活をやってるんだわ。だから、いざとなったら安心して頼って来い。留美のために雪ノ下が頑張ってくれるはずだ」
「そうね。こんな他人任せなことを言っていても、いざとなれば比企谷くんは留美さんのために動いてくれると、私が保証するわ」
「んじゃ、今の時点で言いたいことは伝えたし、そろそろ解散するか。他の小学生の前では他人のフリでも良いからな。あ、肝試しの代わりのイベントを考えてるから、楽しみにしててくれ」
この部屋でのやり取りによって、状況に何か大きな変化があったわけではない。しかし気持ちの上で、留美にとっては得がたい経験になったのだった。
本話における留美側の展開および八幡の発言は、中井久夫「アリアドネからの糸」(みすず書房)から多くの着想を得ました。その他の参考書籍は章の終わりに記載する予定ですが、本書には特にここで名前を挙げて感謝の気持ちを表明させて頂きます。
次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/15,7/26)