俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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今回は雪ノ下視点です。



03.がむしゃらに彼女は努力を積み重ねる。

 職場見学にてゲームマスター(GM)から厳しい評価を受けて以来、雪ノ下雪乃は内から迸る憤りとともに、納得や諦めといった様々な感情をその身に宿していた。今の彼女の身を縛っているものは間違いなく後者であり、それゆえに彼女は怒りや悔しさといった自然な感情を上手く外に出す事ができない。その結果、親しい友人や部活の仲間と普段通りに接する事にも困難を覚え、彼女は一刻も早く独りにならねばと、そればかりを考えていた。

 

 千葉駅の近辺で解散した時に、同学年の女子生徒は心底から心配そうな表情を浮かべていたが、雪ノ下には「大丈夫」と空手形を繰り返すことしかできなかった。とはいえ自分を真剣に案じてくれる存在がいることは、雪ノ下にとってはこの上なく頼もしい事実である。

 

 彼女がいるだけで、それだけで自分は強く在れると思う雪ノ下には、彼女の辛い気持ちは解らない。不安定な状態の雪ノ下に寄り添いたいと願う彼女の気持ちを理解せず、少しでも早く復調して回復を果たした姿を見せなくてはと考える雪ノ下であった。

 

 

 独りで家路を辿りながら雪ノ下は考える。あの時にGMが指摘したことは、確かに彼女としても納得できる内容だった。高校生の身で、自分はなぜ生家を出て一人暮らしをしているのか。何にでも完璧を目指す彼女の性格のせいもあって、家事に奪われる時間は実のところ大きな負担になっている。

 

 だが、独りで家事をこなして勉強にも手を抜かず、そうして終えられた日の最後に、彼女はこの上ない満足感を得られるのだ。明日も頑張ろうと思えてくるあの充実感がなければ、彼女の生活はとうの昔に破綻していただろう。

 

 雪ノ下にとって家事の負担とは、お寺で修行を始めた新入りが長い廊下で雑巾掛けをするようなイメージである。お寺に弟子入りしたからといって、四六時中を仏事の勉強に費やせるわけではない。むしろ掃除などを行って心身を引き締めることで、短時間であっても集中して事に臨める姿勢を育めるはずだ。彼女にとっての家事はそれと同じなのではないかと考えていたのである。

 

 とはいえ、時間が足りていないことも事実である。もしも家事に費やす時間をそのまま勉強に使えるならば、彼女は大学入試とは直接関係のない事柄にも、受験の勉強をしている時により知りたいと思った事柄にも手を出せるのではないか。先ほどGMが話題に出した書籍も面白そうだし、他にも色んな分野で彼女が興味を惹かれることはたくさんあった。

 

 

 しかし、自分がしたい事とはいったい何だろうか。雪ノ下はいつしか、その根源的な疑問に突き当たる。確かに面白そうなことは世の中にたくさんある。一方でGMも言っていたように人の持つ時間は有限である。自分が何をするべきか、まずは時間の配分を考えなければならない。

 

 昨年度までは正直、目の前のことで精一杯だったので、眼前の為すべきことを順に片付けていく以上のことは考えられなかった。しかし今は、奉仕部の同輩達のお陰で気持ちに余裕ができている。そんな心理状態で自分がしたいと思っていたことを振り返ると、なぜかどれもこれもが色褪せて見えるのである。私は本当にこれをしたいと思っていたのだろうか?

 

 

 すっかり住み慣れた高層マンションへと帰り着いて、雪ノ下は制服を脱いで寛げる服装に着替えてからお茶の支度をする。誰かを意識してのことなのか、ロングヘアをゆるいお団子に結び直して、彼女は淹れたての紅茶をリビングの机に運んだ。そして少しだけ休憩をした後に、彼女は先ほどGMが話題にした書籍を購入するために読書アプリを立ち上げた。

 

 自分がやりたいこと。そして自分が為すべきこと。数多ある選択肢の中から何を選べばよいのか、正直なところ雪ノ下には自信がない。とはいえ学生の身の上であれば勉学が第一である。偏差値を重視する教育のやり方を問題視する識者もいるのだろうが、学生の立場からすれば偏差値を上げるという目標は実に判りやすい目標である。彼女にとっても今までならそれで問題はなかった。

 

 だがGMに指摘をされたからには、今まで通りのやり方を継続するのも良くないだろう。雪ノ下は今こそ視野を広げなければならないと考える。若くして数々の偉業を成し遂げ、この世界を構築するまでに至ったGMが言うからには、それは間違っていないはずだ。たかが高校生に過ぎない身であれこれと考えるよりも、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 雪ノ下は今しがた購入したばかりの書籍をぼんやりと眺める。あのGMが未読を問題視したからには、そして彼女の姉が高校在学時にこの書籍に目を通したからには、自分にとっても読んで損のない作品に違いない。むしろ今まさに読むべき一冊なのだろう。ならば読破してやろうではないか。行うべきことを見出した私は姉にだって劣っていないことを、姉ができることならば私にだって大抵はできるのだということを、見せてやろうではないか。

 

 既に雪ノ下の頭の中には、「自分がしたいこととは何か」という先程の疑問はない。自分が主体的に出した結論ではないと気付かぬまま、彼女はゆっくりと書籍を広げ、その内容へと没入していく。幸いなことに明日はテストの返却と解説だけで、その他の授業はない。予習の必要もなければ復習することもない今日ならば、この作品に耽溺しても問題はないだろう。

 

 こうして雪ノ下は夕食も食べず、心優しい同学年の女子生徒が送ってくれた何通かのメッセージにも気付かぬまま、ひたすらに数学の奥深い世界と向き合い続けていたのであった。

 

 

***

 

 

 メッセージの着信を告げる音声で、雪ノ下は眠りから目覚めた。ぼんやりとした頭で周囲を見渡すが、なぜ自分が机に向かったまま眠ってしまったのか、とっさには思い出せない。

 

 のんびりとあくびをしながら、雪ノ下は届いたばかりのメッセージを立ち上げる。「ゆきのんヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ」とだけ書かれたメッセージを目にして少し微笑んで、ようやく彼女の頭が働き始めた。

 

 時間は……まだ大丈夫だが余裕があるわけではない。メッセージは……昨日から彼女が何通も送ってくれていたみたいだが、どう返信したら良いのか思い付かない。深い内容のものも急ぎのものもなかった以上は、申し訳ないが後回しにさせてもらおう。迷惑メールは放置安定である。雪ノ下は読みかけの本はそのままにして一旦アプリを落とす。一晩で読み終えられなかったのは残念だが、また続きを読める機会はあるだろう。

 

 机の上にあった飲物などを片付けて、通学鞄の中身をチェックする。そして雪ノ下はこんな時にも楚々とした佇まいで丁寧に衣服を脱ぐと、熱いシャワーにその身をさらした。朝食を摂る時間がないのが残念だが、おかげで意識はしゃんとして来た。ショートカットをすれば遅刻はせずに済むだろう。

 

 彼女は朝から身体を動かすことの効用を考えて、この世界でもショートカットをせずきちんと通学していた。だが今朝はそんなことは言っていられない。バスタオルにしっかりと水滴を吸い取らせ、艶のある髪を丁寧に渇かしていると、あっという間に時間が過ぎる。寝不足を誤魔化せるように簡単なメイクもしなければならないのに。

 

 何とか支度を終わらせて、急いで高校の上空にある個室へと移動すると、極めて珍しいことに、雪ノ下は走って2年J組の教室を目指すのであった。

 

 

***

 

 

 息も絶え絶えの様子で雪ノ下が教室に入ると、クラスメイトの視線が彼女に集中した。いつにない彼女の珍しい様子に興味を惹かれている者が大半だったが、保健委員の生徒はさすがに鋭く彼女を観察していた。

 

 土気色の表情で苦しそうに喘いでいる彼女は、体調が相当に悪いのだろう。そんな状態でも登校して来た彼女の真面目な姿勢は驚嘆に値するが、無理を重ねても健康を損ねるだけである。どんな生徒であれ身体を休める時には休めるべきであり、ましてや今日はテストの返却と解説があるだけだ。今までの定期試験でも全教科ほぼ満点を維持してきた彼女ならば、無理をしたところで何の益もない。

 

 保健委員の生徒はそうした内容を彼女に言って聞かせたのだが、声が届いているとは思えないほどに彼女の状態は悪い。苦しそうに息をしている彼女を見かねて、保健委員の生徒は職権を活用することに決めた。自分の責任で、彼女を保健室で静養させるのだ。

 

 

 それは保健委員の生徒個人による先走った決定だと言えなくもない。だが、国際教養科という学年に1クラスしかない一団として高校入学以来の日々を共に過ごして来た彼らは、集団の中でも一際輝く存在感を発揮して来た雪ノ下に対して、何か報いたいという気持ちを常々抱いていた。

 

 人付き合いが苦手で歯に衣着せぬ物言いをする雪ノ下に対しても、1年以上にも亘って同級生を続けていると寛容になるものである。彼女としてもクラスではさすがに行動を控え目にしていたのだが、人によっては彼女の不器用さをきちんと理解して、彼女の行く末を温かく見守ろうと考えている生徒すら最近では出始めていた。

 

 この世界に巻き込まれた当初に行われた彼女の演説が、彼らの認識の変化に大きな影響を与えたのは確かである。だが仮にそれが無かったとしても、いずれクラスメイト達は彼女の真価に気付いていただろう。雪ノ下の成績が飛び抜けて優秀だからではなく、彼女が様々な分野の資質に恵まれているからではなく、ただ彼女が彼女であろうとするその姿勢に惹かれる同級生が、きっと現れたに違いない。

 

 そして今、明らかに無理をしている彼女の姿を見て、彼女の手助けをするのは今この時だと考えたのは1人だけではなかった。だからこそ保健委員の生徒の決定は、周囲に反対されることなくクラスですんなり受け入れられたのである。

 

 そんなわけで大勢は決した。何かを言い返したいような素振りの彼女に構うことなく、保健委員の生徒は自分の決定を周囲の生徒に告げて、そして彼女を引き摺って保健室へと押し込めたのであった。

 

 

 保健委員によって保健室から出られないという制限をかけられた雪ノ下は、ようやく落ち着いてきた呼吸で深く息を吐く。ただ単純に走って息が切れていただけだというのに、あの保健委員の慌てぶりとお節介には困ったものだ。クラスメイト達も、誰か1人ぐらいは保健委員に反論してくれてもいいだろうに。

 

 少しだけ嬉しく思う気持ちを誰にともなく押し隠して、仕方がないので彼女はベッドに横になることにした。寝不足で普段通りの体調ではないのは確かなのだ。

 

 受験には関係のない本を読んで夜更かしをした結果の寝不足なので、真面目な雪ノ下としては今の状況を恥ずかしく思うのが正直なところである。一方で、そんな馬鹿げた理由で保健室にいることは、そしてテストの返却と解説の時間という彼女が出席する必要のないタイミングを狙ったかのような行動は、何だか姉を見ているようで少し新鮮であった。

 

 少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべて苦笑して、こんな日もあって良いのかもしれないなどと考えながら、雪ノ下はいつしか夢の世界へと旅立っていたのであった。

 

 

***

 

 

 目が覚めて反射的に時刻を確認すると、お昼休みも半ばを過ぎた時間になっていた。朝とは違って起きたと同時に意識が覚醒した状態にあった雪ノ下は、保健室のドアを無造作に閉める音を耳にして目覚めの理由を瞬時に悟る。果たして、生活指導の平塚静先生の声が、ベッドの周囲を覆うカーテン越しに聞こえて来た。

 

「雪ノ下。そろそろ起きないか?」

 

「……ええ。ノックをせず入って来た先生のおかげで、目覚めはしっかりしています」

 

 少し咳払いして声を整えてから、雪ノ下は特に皮肉のつもりもなく思った通りのことを教師に告げる。言われた側としてもそんな事はとうの昔に把握しているのだろう。教師はのんびりとした口調で返事を返してきた。

 

「体調はどうだ?まだ完全でなければ、午後もこのまま寝ていても良いが」

 

「いえ。おかげでぐっすり休めましたので、もう問題ないと思います。むしろ午前中の時点でも、保健室に閉じ込めるのは過剰な対応だったと思うのですが」

 

「まあ、そう言うな。君を心配している生徒は案外多いという事だよ」

 

 普段なら有無を言わさずカーテンを開けようとするはずの教師が、長々とカーテン越しの会話を続けている。雪ノ下はそれを訝しく思うが、このまま顔を見ない状態で会話が続くのは何となく落ち着かない。仕方がないので自分で動くことにして、彼女がカーテンに手をかけた瞬間。それを見計らっていたかのように、教師が話を続ける。

 

「実際、ここに来る途中で比企谷と会ったのだが……」

 

 雪ノ下は即座に手を止めて、そしてゆっくりと口を開いた。

 

「比企谷くんがそこにいるのでしたら、申し訳ありませんがこの状態で話を続けさせて下さい」

 

「ふむ、普通だな。残念ながら比企谷には振られてしまったので、ここにはいない。今は保健の先生もいないから、君と私の2人きりだな」

 

 雪ノ下は勢いよくカーテンを開けて、目線だけで教師に説明を促した。すっかり回復したようだなと内心で安堵しながら、平塚先生は先程の男子生徒とのやり取りを伝えるのであった。

 

 

***

 

 

『比企谷。雪ノ下が朝から体調不良で、保健室で休んでいるのだが……。一緒に来るかね?』

 

『えっ。……あー、大丈夫なんですかね?』

 

『よく眠っていると保健の先生が言っていたから、大したことは無いみたいだが』

 

『なら、俺が行って寝てる姿とか見られたくないでしょうし、遠慮しておきますよ』

 

『ふむ。君は雪ノ下の寝顔を見たいとは思わないのかね?きっと可愛いと思うぞ?』

 

 少し茶目っ気を出してからかうようなことを言うと、目の前の少年は露骨にうろたえ始めた。

 

『いや、あの、……目が覚めた時に10倍ぐらいにして仕返しされそうなんで』

 

『なるほど。では、由比ヶ浜の寝顔なら?』

 

『……勘弁して下さいよ。生徒をからかって遊んでないで、早く見舞いに行くべきじゃないですかね』

 

『ふっ、想像力が豊かで何よりだよ。高校生の初々しい反応を見るのも楽しいものだな』

 

『ああ、先生はもう社会人ですからね』

 

『ぬわーーっっ!!』

 

 断末魔の声を上げながらも、どことなく元気が無さそうだった男子生徒を少しははげます事ができたかなと教師は思う。それならば、彼の心ない発言にただじっと耐えている若い自分も報われるのだが。そんなことを考える教師に向けて、普段の調子を少しだけ取り戻せた少年は語りかける。

 

『じゃ、みんなに宜しく、お願いします』

 

『どうした?珍しく神妙な事を言っているな。由比ヶ浜にはまだ知らせていないのだが、雪ノ下には伝えておこう』

 

 さすがの平塚先生でも彼が発言に込めた決意に気付くのは難しく、そうして2人は別々の方向へと離れて行ったのであった。

 

 

***

 

 

 寝顔の話から断末魔まではさすがに省略して、教師は目の前の女子生徒に話のあらましを伝える。彼の最後の発言は明らかに彼らしくないものだったが、どうやら雪ノ下には心当たりがある様子である。少しだけ考えをまとめてから、彼女は教師に説明を始めるのであった。

 

「昨日の職場見学で、比企谷くんが少し自信を失うことをGMに言われたのですが……。私達も対処を考えるつもりですが、念のために先生も、彼を元気づけるような手段を考えておいて頂けないでしょうか?」

 

「……なるほど。良案がすぐに出るとはとても断言できないが、考えておこう。君達はどうするつもりなのだね?」

 

「昨日の今日では何をしても効果が薄いと思いますので、今日の部活は中止にしようと思います。私も回復したとはいえ本調子とは言い切れませんし……」

 

「なるほど。では私に学外で用事ができたことにして、2人には中止の旨を伝えておこう」

 

「それは……いえ、助かります」

 

 雪ノ下からの素直な言葉を珍しい気持ちで受け取りながら、平塚先生は改めて目の前の女子生徒を眺める。対応が過剰とは彼女の言だが、体調が普段通りでなかったのは確かなのだろう。

 

 午後からはクラスに戻るという生徒のために、保健室から出られない制限を解いてあげた平塚先生は、彼女を教室の近くまで送り届けた後に職員室へと戻った。昨日あの男子生徒が何を言われたのかは判らないが、それはそれとして彼女ら3人の最近の関係性は教師としては微笑ましく望ましいものである。できるならばこのまま良い方向に向かってくれるようにと、心から願う平塚先生であった。

 

 

 その頃、教室で雪ノ下は迂闊な行為を後悔していた。お昼休みの終了間際まで教師と話を続けていたために、これで彼女は夕食と朝食に続いて昼食も食べそびれてしまったのである。己の名誉にかけても、授業中にお腹を鳴らすなどといった失態は断じて許されない。

 

 まるで死地に臨む侍のように、悲痛な覚悟で授業を受けようとする彼女の姿を見て、クラスメイト達は彼女への尊敬の念を新たにする。学年トップの彼女にとっては、テストの解説など既知の事ばかりだろうに。その姿勢を我々も見習わなくては。

 

 こうして、その日の午後のJ組の授業は、壇上の教師が恐れを抱くほどの迫力に満ちたものとなったのであった。なお、彼女の名誉の為にも、雪ノ下は己の任務を遂行したことをここに明言しておく次第である。

 




ついに50話に到達しました。
いつも読んで下さってありがとうございます。
本当に、読者の方々の支えがなければ、ここまで続けられることは無かったと思います。
できましたら、今後とも宜しくお願いします!

あと1日がなかなか戻せず、今回も金曜日の更新になりました。
次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/28,12/26)

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