既に時刻は午後十時を回っている。
雪ノ下雪乃の演説の他には、さしたる意見も出ないまま。とはいえ不安に駆られる生徒たちをそのまま解散させるわけにもいかず。LHRは長々と続いてようやく終わった。
今は生徒も教師も、校舎の上に出現した学校関係者専用の個室に身を落ち着けている。
個別に四桁の番号を振られた個室は、先程の教室と同様に結合できる。なるべく友人と一緒に過ごすようにと教師が推奨したため、多くの生徒は部屋を共有した状態で夜を過ごしていた。
個室の広さは24平米ぐらいで、奥にはホテルの客室のようにベッドと来客用のソファが置かれている。部屋の手前には大きめの本棚としっかりした勉強机がある。これらの配置や内装は変更できないものの風呂とトイレも別々にあって、こうした状況でなければなかなかの環境だ。
二つの個室を合体させると2LDKのような間取りになって、各々の寝室には鍵がつくものの基本は自由に出入りできる。寝室まで共有するとツインかダブルかを選べる上に和室に布団も可能になる。
現実とは少し触感が異なるけれど、お風呂に入るとやはり気持ちが落ち着くもので。生徒の多くは、ひとまず危うい心理状態からは抜け出せていた。不安や怒りの感情は依然として根強いが、少なくとも目の前の状況を否認して逃避する域は脱している。
遠からず抑鬱などの反応も出るのだろうが、深刻な状況に至っていないのは不幸中の幸いだった。
***
比企谷八幡は一人で、8081と番号がついた個室にいた。
教室から移動してくる際に、こちらを心配そうに眺める生活指導の教師には気付いていたが、八幡には変な事をする気はさらさらなかった。というよりも、何もできないと言った方が正しいだろう。
入学式直後の事故のせいで、あの教師からは妙な心配をされている節がある。具体的には、自暴自棄な行為を危ぶまれている気がする。
とはいえ学校の敷地外に出ることは不可能で、自殺を幇助するような道具も身の回りには何もない。そもそも八幡にしてみれば、妹の比企谷小町や飼い猫のカマクラと再会できぬままこの世界で朽ち果てるなど論外だ。
身の安全だけではなく、精神状態を気にかけてくれている事も理解している。でも、理不尽な状況には慣れている。
こんなのは普段からよくあった事だと心を殺して、八幡は内心で教師に反論する。この程度なら俺は大丈夫ですよと。
その慣れこそを不安視しているのだと、今の八幡にはまだ気付くことができない。
八幡はベッドに寝転がって頭を切り替える。
元の世界ではぼっちだったが、そばには小町がいてくれた。悪態を吐かれようがあざとい事を言われようが、妹が身近にいてくれるだけで世の理不尽にも耐えることができた。
だがこの世界で、八幡は正真正銘のぼっちになった。
もう小町には頼れない。
そう自覚するたびに身震いが出た。
油断をすれば弱い心が妹を求めてしまいそうになる。八幡は唇を噛みしめて、そんな沸き立つ感情に必死で蓋をした。
小町がこんな世界に閉じ込められているなんてありえない。きっと今頃は現実で、「お兄ちゃんの帰りを待ってるからね。あ、今の小町的にポイント高い!」とか言っているに違いない。
俺が不条理な事に巻き込まれるのは仕方がない。だが小町だけは。
想像してしまえば不吉な予想が実現しかねない気がして、八幡は思考を必死で止める。
そんな事はありえない。もっと別の有益な事を考えようと何度も自分に言い聞かせながら。
八幡はその夜、疲れ果てて眠ってしまうまで、妹のことしか考えられなかった。
***
雪ノ下もやはり一人で個室にいた。部屋番号は1031号室だ。
クラスメイトの多くからは部屋の共有を望まれたが、「申し訳ないのだけれど、色々と考えたいことがあるので」と告げるとそれ以上は無理強いされなかった。
既に雪ノ下は生徒と教師の多くから、この世界で頼るべき存在だと目されている。
実はこの扱いは、意図的に作り出したものだ。クラス内で発言を求められた時点で、それが必ず全クラスで聞かれることになると意識しながら話をしたからだ。
普段の雪ノ下には、面倒な事を押し付けてしまえる姉や両親がいた。決して円満な関係とは言えないが、厄介事は任せて気ままな高校生活を送ることができた。
気ままとはいっても、普段の行動が本心から望んだことだったかと問われると答えに窮する。
それでも、最終的な責任を引き受けずに済む気楽な立場だったのは確かだ。高校生なら普通だと思われるかもしれないが、雪ノ下家においてそれは破格の扱いだった。良い意味でも悪い意味でも特別扱いだったのだ。
だが、この世界では私が役割を果たさなければならない。何よりもまず自分が無事に帰還すること。そして全員を現実世界に戻すこと。これらの実現に向けて動かなければならない。
結果だけではなく経過も重要だ。私がこの世界でどう振る舞い、いかにして他者の役に立ったかを誰かが語り広めてくれるように。そこまでを視野に入れて行動すべきだ。
それは、野心に駆られた思考というよりは防衛の為の思考だった。
地域密着の建設業を営み県会議員も務めるなど、雪ノ下家は地元に確固たる地位を築いている。傍目から見れば恵まれた立場と言えるのだろうが、厄介事も多い。その最たるものは、人前で下手な行動を取れない点だ。
たとえ未成年でも、他人に付け入る隙を与えるような行動は慎まねばならない。いくら同級生が羽目を外して騒いでいても、姉妹二人には節度を保ち続ける事が求められた。
大学生にもなると未成年でも飲酒行為が目立って来るが、姉は「酒はダメなんで、オレンジジュース下さい」と言ってそれを避けるのが常だった。
仮にこの世界で主導的な役割を果たさなかったとしても、表立って非難をされる事はない。だが、影でこんな事を言い触らす輩が出るのも間違いない。
もし姉がこの世界に居たら。もしも両親が高校生の頃に巻き込まれたら。きっと超人的な活躍で、多くの人を救うのだろうと。
両親や姉への明らかな追従なので表立っては反論しにくいし、そもそも反応する事すら馬鹿らしいが、自分への見え透いた当てつけなのは明らかだ。だが、それはまだいい。
おべっかや低俗な嫉妬しか能のない連中に合わせる形で、こうして自分の行動が決まってしまう。雪ノ下が納得できないのはこの点だった。どうしてそんな事をしなければならないのか。こんな世界は間違っている。
だからこそ雪ノ下はこの世界を、そして現実の世界を変えなければならないと思う。これは防衛本能を野心に置き換えたものだが、その辺りの感情の由来など今さらどうでも良い事だ。
自らの手で世界を変える。そう改めて決意する雪ノ下は、頭の中が妙にクリアになってどんな難問でも解けそうな手応えを得ていたが、自分の顔が蒼白だとは気付いていなかった。
***
由比ヶ浜結衣は6188号室で、二人の友人と部屋を共有して過ごしていた。三つの部屋を合体させると浴室もかなりの広さになったので、三人で一緒にお風呂に入って今はリビングで寛いでいる。
今日はとても長い一日だった。一緒に笑いながら三人で昼食を食べ、その後に真面目な話をした事も、今となっては遠い昔に思えてしまう。
唯一の慰みは、そうした体感時間の長さゆえに、感情の隔たりがかなり取り払われた事だろうか。今や長年の友人と言っても差し支えないほど親密な仲だ。
この世界の事を話題にしても「暗くなるだけで意味なくない?」と三浦優美子が言い出したので。沈黙を嫌う由比ヶ浜が、先程から軽い話題を次々と出していた。
それに相鎚を打ちながら、海老名姫菜は昼食後に趣味を打ち明けた時の事を思い出していた。
かつて「虫愛づる姫君」を読んだ時、海老名はそれを我が事として受け取った。
そんな趣味さえなければ。勿体ない。そう言われる姫君に自身を重ね、趣味のBLの話をまともに聴いてくれる人などは現れまいと諦め、少し謎めいた雰囲気を持つ大人しい少女という役割をずっと演じてきた。
趣味は一人の時間に。人前では決して明かすまいと。
だが、高二に進級して新たにできた友人二人は、いつのまに私の頑なな心の壁を打ち破ったのだろうか。
気が付けば海老名は部屋に一人でいる時のように、教師と友人を題材にした妄想を爆発させていた。
せっかくできた良き友人を、いきなり失う事になるかもしれない。
趣味を言い触らされる心配はしていなかったが、この二人と疎遠になるかもしれない恐怖は海老名にもあった。だが同時に、三浦と由比ヶ浜にすら打ち明けられないのなら、この先は誰が相手でも駄目だろうという気持ちもあった。
海老名の話を最後まできちんと聴いてくれて。片や苦笑しながら、片や照れながらも「その話をしてる時の顔のがいいし」「うん、すごく楽しそうな顔してた」と言ってくれた二人を前にして。
心にブレーキを掛けるのが得意だったはずの海老名は、危うく涙を零すところだった。
結局のところ。海老名にとってはあの瞬間に、世界は変わってしまったのだ。この二人のお陰で。たとえ人前で趣味が露呈して誰に呆れられようとも、自分には三浦と由比ヶ浜がいる。
それに比べれば、この世界からログアウト不可なんて事件は、取るに足らない事だった。だって、この二人が一緒なのだから。何を怖れる必要があるのだろうか。
海老名は目に深い決意を秘めて、心の中でつぶやく。三浦と由比ヶ浜の心の支えとなり、この世界を離脱するその日まで、共に楽しく過ごしてみせると。
そしてゆっくりと、二人の話に意識を戻した。
その時、三浦と由比ヶ浜はお昼の話を振り返っていた。
海老名の話は二人にとって意外ではあったものの、他人には言い辛いであろう趣味を打ち明けてくれた嬉しさの方がはるかに勝っていたし、楽しそうに語るその表情を見ただけで胸に温かいものが浮かんできた。
二人の中で海老名のBLの話は、解決済みの大切な記憶として扱われている。今この場で話題に出したのは、また違った話だった。
今から数時間前に、三人はグラウンドを見渡せるベンチで昼食を摂った。すぐ近くではサッカー部が練習をしていて、そこで見た同級生の男子生徒を二人は話題にしていたのだ。
「正直あーし、見栄えがいいだけで中身のない奴だと思ってたんだけど」
由比ヶ浜の相鎚に促されるようにして三浦は語る。獄炎の女王という異名の割にはハッキリしない口調で、少し照れた様子で話を続ける。
「けど、サッカーしてる時は、いつもの、一歩引いて何か悟ってるような顔と、違ってたし。こういう表情もできるんだ、って。普段からそうすればいいのに、って思ったし」
「まだ、自分の気持ちがそういう事なのか、分かんないけど。できればもっと、詳しく知りたいって思……何を言わせるんだし!」
照れ臭さが限界に達したのか、わざとらしく怒ったような事を口にする三浦を宥めながら、由比ヶ浜は思う。誰かの隠れた魅力に気付いてしまったら、もっと知りたいと思っちゃうよねと。
不機嫌になったふりをしながら二人からも恋話を聞き出そうとする三浦と、それに対して趣味全開で理想のカップリングを熱く語り始める海老名を眺めながら。
由比ヶ浜は、今日の昼に顔を合わせた男子生徒を思い出していた。
話はまるで尽きそうにないが、そろそろ寝る時間だ。
一度は別々のベッドに入ったものの、結局は三浦のシングルベッドで身を寄せ合って。口には出さない不安な想いを抱えながらも、三人は比較的ゆっくりと身体を休める事ができたのだった。
***
葉山が「考えたい事がある」と言って寝室に引き籠もってしまうと、リビングでは会話が弾まず程なくして解散の運びとなった。
だが葉山はそれを知らない。各々が寝室にて、眠れぬ夜を過ごしている事も。
一人きりの寝室で、葉山は先程の演説を思い出していた。
幼なじみの雪ノ下とは、過去にあったあの事件以来ずっと疎遠なままだ。向こうから関わろうとする事はなかったし、こちらもそれを受け入れていた。今の高校で、二人の関係を知っている者はほとんどいない。
かつて、あの事件が起きた時に。何としてでも救ってあげたいと、自分なりに全力を尽くしたのに。それは当の雪ノ下に、より一層の苦痛を与えただけだった。
あれ以来、葉山は全身全霊で何かに取り組む事ができなくなった。
力を抜いて事に当たっても大抵の事なら結果を出せる。だが、それに何の意味があるのだろうか。
結果を出したいとあれほど強く願ったのに、解決の糸口すら掴めなかった。今になっても葉山はなぜ失敗したのか解らないし、どう行動すれば良かったのかも解らない。そんな自分を尻目に雪ノ下は独力で問題を片付けて、そして孤高の存在となった。
今回も、と葉山は考える。雪乃ちゃんは一人で事態を改善させて、そして浮いた存在になるのだろう。対等の相手が見当たらない以上は、その流れはおそらく必然だ。
今の自分には、それを防ぐ手段もなければ気力もない。幼い頃から大人に囲まれて育った物分かりの良い子供の例に漏れず、葉山はこの年にして諦める事に慣れていた。だが、全てを諦めてしまったわけではない。
今の自分には、直接の手助けはできない。しかし身近な友人や同級生を元気づけ、「みんな」の世界を調和する事で、間接的に助けられるかもしれない。
自分の行動が雪ノ下の足枷とならず、物事が良い方向へと進む端緒になる事を心から祈りながら。葉山は静かに眠りに就いた。
***
平塚静は個室で一人後悔していた。生徒に部屋番号を教えることなく、他の教職員とも距離を置いて引き籠もっている。
何故どこかのタイミングで、この展開を予測できなかったのかと。むざむざ生徒を危険な目に遭わせる事なく、この事態を回避する道があったのではないかと。
一方で、脳の冷静な部分はこうも思う。ログイン前に電話で話した
それが何らの慰めにもならない事さえ、平塚の中の冷静な部分は気付いていた。
午後三時に高校から一キロ少し離れた病院の駐車場に集合した時には、生徒も教師も興奮を抑えきれない様子だった。
世界で初めて体験できるバーチャルな世界に想いを馳せ、集合時間前からきちんと整列しているのに話し声はまるで絶えず、そんな生徒たちの熱気が辺りを包んでいた。それに絆されたのか、お喋りを注意するどころか雑談に加わる教師も少なくなかったのだ。
病院の本館に繋がっている特別棟は年度末に立て替える予定になっていて、もうほとんど使われていない状態だったので、今回はそこを利用する手筈になっていた。
修学旅行の時のように狭い部屋に特製ベッドを押し込めるだけ押し込んで、万が一の際には早急に本館へと搬入できる万全の体制だったはずなのに。
どうしてこんな事になったのか。
三時半からは順次ベッドに横になって、近くの者達とふざけ合いながらこの世界へとログインした。各自がチュートリアルをみっちり行って、現実と瓜二つの体育館に全員が揃って現れたのが四時半だった。
同僚も生徒達もその外見は全く違和感がなかった。とある男子生徒の目がこの世界でも濁っていたのを見て、平塚は笑いを堪えられなかったほどだ。この時点で既に自分たちが人質になっていたなど、誰一人思いもしなかっただろう。
現実そっくりの校舎内をざっと見学した後に、それぞれの教室に移動した。五限目の授業が始まったのが午後五時。そして三十分後、突然のテレポートで体育館に集められ、ひな壇の上にゲームマスターが降り立って一方的な話が始まり、そして今の境遇が確定した。
いくら振り返っても、この状況を防ぐ事ができたとは思えない。起きてしまった事を後悔するよりも、今後のために知恵を絞る方がよほど有益だ。
頭の中の冷静な部分は必死にそう叫んでいたが、平塚はその声を意識して退ける。明日からは前向きになろう。だが今日だけは。生徒を悲惨な境遇へと導いてしまった今日だけは。この後悔を忘れないように、この失敗を繰り返さないように、徹底的に後ろ向きになって過ごそう。
平塚は忸怩たる思いを抱えたまま、眠れぬ一夜を過ごしていた。
次回は日曜に投稿の予定ですが、諸事情により普段より一時間早い更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(6/9,9/20,2/20)
後書きの余計な語りを消去しました。(7/14)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足し、前書きを簡略化しました。(2018/11/17)
■細かな元ネタの参照先
「酒はダメなんで、オレンジジュース下さい」:原作11巻p.169、冨樫義博「幽☆遊☆白書」