俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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職場見学に行く回です。
長いし重いので、時間がある時に読んで頂ければと思います。



幕間:またしても彼は元来た道へ引き返す。

 週明けの月曜日は、他学年の生徒達にとってはテストの返却と解説が行われる憂鬱な日なのだが、2年生だけは審判の日が火曜日である。その代わりに、この日の彼らには職場見学というイベントが待ち受けていた。

 

 いつもの時間にクラスに集合して朝のSHRを済ませた後で、事前に決めたグループに別れて各々の希望した場所へと移動する。職場見学は昼をまたいで行われるが、終了時間が見学先によってまちまちなので、現地で解散という手筈になっている。

 

 比企谷八幡は、彼にとっては無情かつ遺憾な結果ではあるのだが、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣という学年でも飛び抜けて人気の高い2人の女子生徒と一緒に、この世界を運営する者達が働いている職場へと向かう予定になっていた。

 

 

「別に俺は、招待して欲しくなかったんだが……」

 

 朝のざわついた教室内で、彼はため息と一緒に小声で愚痴をこぼす。彼が眺めている「貴殿を私たちの職場に招待いたします」と書かれた正式な招待状は、学年でもたった3人の生徒にしか送られていない。そもそも事前に見学を打診された生徒の数からして極めて少なく、彼と同じクラスの葉山隼人ですら運営からの連絡は無かったという話である。

 

 もちろん、放課後の時間をサッカー部に費やしている葉山と、依頼のない奉仕部でこの世界のマニュアル解読に勤しんでいる八幡とでは条件が違う。それは充分に解っているし勘違いなどしようはずもないのに、八幡は心のどこかから沸き上がってくる優越感を抑えられずにいた。だが、同時に彼は、同じだけの時間を費やしている筈なのに彼の遙か先を行く雪ノ下の事を思うと、劣等感をも抱かずにはいられなかった。思春期の男子生徒の内面は、なかなかに複雑なのである。

 

 

 彼を悩ませるもう1つの問題、すなわち雪ノ下と由比ヶ浜と一緒のグループで1日を過ごす事に関しては、既に諦めの境地に達していた。気が付けば2ヶ月にも亘る部活動を経て、彼女らと共に時間を過ごす事に対して身構える気持ちは失せつつある。

 

 気掛かりなのは、他の生徒からどう思われるかという点なのだが、クラス内で広まりつつあった変な噂も一掃できたし、大多数の生徒達の認識は従前と変わっているようには見えない。つまり八幡の立場は羨ましいが、八幡個人は取るに足らぬ存在として無視に近い扱いで、お陰で奉仕部の3人は周囲から害意を持たれる事なく部活動を行えていた。3人が同じグループで職場見学を行う事も多少は噂になったのかもしれないが、目に見えた影響は無かった。ならば八幡としても現状を甘受するしかないのである。

 

 再度ため息を吐いて、八幡は招待状の表示を切って机の上に突っ伏した。ちょうど担任が教室に入って来るのが見えたのだが、八幡はすぐには上半身を持ち上げて姿勢を正す気持ちになれず、クラス委員が号令を掛けるまでそのままの体勢で黄昏れていたのであった。

 

 

***

 

 

 生徒の大半が聞き流していたSHRが終わり、机に座ったまま待機している八幡の周囲でも、楽しそうに行き先や道中の事を話す声が響いている。

 

「じゃあ八幡、先に行くね」

 

 わざわざ彼の机にまで近付いて、戸塚彩加が声を掛けてくれた。「おう」と手短に返事を済ませた八幡は、戸塚がテニス部の友人達と一緒に教室から出て行くのを見送る。今日は良い一日になりそうだとたちまち機嫌を直す八幡に、今度は視線だけを送ってくる生徒がいた。教室のドアの前で振り返った川崎沙希からの無言の挨拶だったのだが、それに対しても八幡は、戸塚のお陰で軽く頷いて返す事ができた。そして、彼もまたいつでも教室を後にできるように、出掛ける支度を再確認するのであった。

 

 

 事前に打ち合わせていた通りに雪ノ下がF組の教室に現れて、彼女と入れ違いに三浦優美子と海老名姫菜がクラスから出て行った。由比ヶ浜から待ち合わせの事を聞いて、雪ノ下が来るのを待っていたのだろう。葉山グループの男子生徒達は、道中で飲む物などを仕入れる為に先に教室を出ていた。既に教室に残っている生徒は数えるほどしか居ない。

 

「では、私達も行きましょうか」

 

 由比ヶ浜と八幡を順に眺めた後で雪ノ下がそう宣言して、奉仕部の3人もまた見学先へと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 運営の仕事場は千葉駅の真上にあった。生徒達がこの世界で最初に過ごしていた個室と同様に、それは確かに駅の上空に存在していながらも、周囲の景観を損ねてはいない。外からは視覚的に捉える事ができないのに、内部からは見晴らしの良い景色が堪能できるその職場にて、3人は別々の部署で見学を行っていた。

 

 

 由比ヶ浜は、プレイヤーからの要望に対処する部署を見学した後で、経理に関する簡単なレクチャーを受ける事にした。担当の人が許可した要望だけを閲覧できたのだが、彼女が思っていた以上にプレイヤーからのコンタクトは頻繁で、かつ内容は多岐に渡っていた。我が儘で一方的な要望もあり、広く大多数に利がある提案もあり。それらは小学生の頃から対人関係で悩み、その結果としてコミュニケーション能力を磨き続ける事になった彼女にとって、とても興味深いものだった。

 

 再集合して3人で摂った昼食の後に行われた経理の話は、詳しい知識を持たず座学に弱い由比ヶ浜には少々厳しいものがあった。だがそんな彼女の様子を見た担当者が具体例を持ち出して、授業形式から実務への活かし方を紹介するという形に変更してくれたお陰で、彼女は今まで意識もしていなかった経理という分野を身近に感じられるようになった。貸借対照表から横領の可能性を見抜いた例などは、話を聞きながら興奮が収まらなかったほどである。

 

 

 八幡は運営が用意してくれたツールを使って、この世界の構築を手伝っていた。現在のこの世界には千葉と東京の2つの都県しか存在していないが、それを7月までには関東一円に、そして10月までには本州全てをカバーするという野心的な計画が立てられている。作業自体は楽しいがとにかく人手が足りないと担当者が説明してくれた通り、八幡が受け持った群馬県は開発の手が及んでおらず未開の地さながらの有様であった。

 

 担当者と協力してマインクラフトを行いながら、八幡はツールの構成やその意図に関する説明を受けていた。彼が普段行っていたマニュアル解読は既に中級者の域に達していて、この世界で実現可能な事を単に読み取るだけでなく、既存の設定に変更を加える事で新たな可能性を考察する段階に至っている。そうした八幡の状況を知らされているのか、担当者が話す内容は難しくはあるものの理解できる内容でもあり、そして彼のように独りで何かに没頭しがちな性格の高校生男子にとっては興味を惹かれて当然のものだった。昼食による中断を挟んだ後も彼が作業に熱中したのは、当然の成り行きであろう。

 

 

 雪ノ下のマニュアル解読は、最近では上級者の域にまで足を踏み入れようとしている。既存の設定に制限される事なく、実現したい事を思い付いた時に0から自分でプログラムが組めるように、彼女の最近は解読と言うよりはむしろプログラミングの教練とでも言うべき状況であった。運営はマニュアルを単なる説明書とはみなしておらず、読む者を教え導く役割を期待して設計しているのだろう。

 

 雪ノ下は、運営が過去に行った会議を編集した動画を見せられて、幾つかの場面で意見を求められた。動画を一時停止して彼女が意見を述べて、複数の担当者が彼女の発言を修正したり対案を提示したり技術的な補足をして、実際に会議に参加しているかのような体験をさせてくれたのである。

 

 もちろん素人の高校生の身に過ぎない以上、彼女が口にした内容には的外れなものも多かったが、運営にとって有益な助言もあった。特に、近々行われる予定のマイナー・アップデートに関する彼女の提案は即座に採用され、そしてそれは多くのプレイヤーから好意的な評価を得る事になる。提言が採用された雪ノ下の機嫌が今までにないほどに上々なので、昼食時に思わず頬を抓ってしまった八幡であった。

 

 

***

 

 

 三者三様の職場体験が終わり、合流を果たした奉仕部の面々は、最後に応接室へと導かれた。この世界を構築した張本人たるゲームマスター(GM)との面談が予定されていたからである。

 

 2人でも座れそうな大きさの1人掛けソファが、低く奥行きのあるテーブルを挟んで並んでいる。さすがに下座を選び、部屋の奥から雪ノ下、由比ヶ浜、八幡の順に腰を落ち着けて、3人は目当ての人物が部屋に来るのを待っていた。先程までの見学の興奮が冷めやらぬ一方で、未知の人物との対談を控えて緊張している面もある。彼らは落ち着かず部屋の中を見回したり、小声で他の2人にどうでも良い話を振ってみたり、静かに意識を集中したりして待ち時間を過ごしていた。

 

 

「すまない、待たせたね」

 

 特に申し訳ないとも思っていない口調で、その人物は部屋に入って来るなり口を開いた。年の頃は20代後半、いたって平凡な顔立ちで、しかしその目の鋭さからは数々の修羅場を潜って来た事が窺える。彼は3人と向かい合ったソファに腰を下ろすと、時間を無駄にする事なく話を始めた。

 

「さて、君達が我々の招待に応じてくれて感謝している。まずは礼を述べておこう」

 

「こちらこそ、素晴らしい場所に招待して頂き、得がたい体験の機会を与えられた事に感謝しています」

 

 GMの発言に対し、含みのある口調で応じる雪ノ下であった。彼女は「場所」という単語に、この職場だけでなくこの世界全体をも含めて皮肉っているのだろうが、それを承知してなお相手は涼しい顔である。軽く頷いた後で手元の資料を確認して、GMは口を開く。

 

「成る程。君が雪ノ下くんか。マニュアルを()()()()使いこなしてくれているみたいだね」

 

「そうですね。学業と両立する必要がありますので片手間ですが、()()()()使えるマニュアルだと思っています」

 

 会話が始まると同時に戦いがヒートアップしている現状に、川崎の時に続いてまたかよと、思わず現実逃避に走りたくなる八幡であった。だが当事者のGMは楽しそうな表情で、雪ノ下の発言を受け流す。

 

「その調子で存分に使い倒してくれる事を期待しているよ。そして……君が比企谷くんだね。雪ノ下くんには劣るものの、君の解読成果も相当なものだ。総武高校の他の学年や教師達を含めても、君達3人が達成した水準は飛び抜けている。誇って良い事だよ」

 

「あー、どうも」

 

 思っていた以上に話しやすい物腰のGMに向けて、普通に返事をしてしまった八幡であった。だがGMの先程の発言には引っ掛かる箇所がある。彼がその事についての疑問を口にしようとした瞬間、先んじるかのように雪ノ下が問いを発した。

 

「私達3人とは、由比ヶ浜さんも含めて、という事ですね?」

 

「その通りだが?……君が由比ヶ浜くんだね。君の許にも他の2人と同様に招待状が届いている筈だが、何か手違いでもあったのかな?」

 

「い、いえ。あたし宛てにも招待状はちゃんと来てましたけど……。その、ゆきのんとヒッキーと一緒だから許可されたのだと思ってて」

 

「成る程。確かに、招待状持ちが過半数であれば見学を許可するように言っておいたが、君はついでで呼んだわけじゃないよ。君達の高校で3人にだけ打診した、見学に来て欲しかった生徒のうちの1人だ」

 

 意外なGMの発言を受けて八幡と由比ヶ浜は驚いているが、雪ノ下は納得の表情である。由比ヶ浜は物事を論理的に理解する事は苦手だが、感覚的に把握する事に長けている。マニュアルに関して言えば、解読を進める2人に囲まれた奉仕部という環境が影響している事も確かだろうが、それも個人の能力なくして活かせる事ではない。

 

 以前にクッキーの依頼を振り返った時に、由比ヶ浜が誰よりも早くサブのスキルを発見していた事を雪ノ下は知った。それ以来、彼女の発想の柔軟さや鋭さに一目置いていた雪ノ下は、GMの発言にも動揺する事はない。的外れな思考も多い反面、誰よりも早く本質を見抜く事も少なくない。彼女は由比ヶ浜をそう評価していたのである。

 

 一方で八幡が驚いているのは、運営からの事前の打診が由比ヶ浜には届いていなかったからである。彼とて2ヶ月という期間を共に過ごして来て、由比ヶ浜の長所は何度も目の当たりにしている。正式な招待状に先駆けて見学の打診が来たと言われれば、少しは考えたかもしれないが最終的には素直に納得していただろう。

 

 だが残念な事に由比ヶ浜は由比ヶ浜であり、彼女がマニュアルを立ち上げた際に運営が何度もポップアップで通知をしていたのだが、よく読まずに全てを反射的に消去していた。それは既に彼女にとって、マニュアルを立ち上げた直後に行う定常作業と化しているのは、ここだけの話である。

 

「由比ヶ浜さん()奉仕部の歴とした一員なのだから、自信を持ってはどうかしら?」

 

 どうやら雪ノ下の中では、由比ヶ浜は奉仕部の一員であり、八幡は奉仕部の下僕もしくは備品という扱いになっている模様である。もう少し待遇を良くしてくれないとぐれるぞと、しかし思っただけで口には出せない八幡であった。

 

 

***

 

 

「さて。君達から何か質問があれば受け付けるが、何か聞きたい事は?」

 

 照れている少女と何やら不満げな少年、そして2人を苦笑混じりに眺める少女を順に見やって、GMは少しだけ時間を置いた後に会話を再開した。彼に問われて、3人の頭には「何故この世界に多くの人を閉じ込めるような事をしたのか」という根本的な疑問が思い浮かぶ。だが、今それを尋ねたところで、満足のいく回答は得られないだろう。雪ノ下はそう考えて、時間を無駄にせず別の疑問を口にする。

 

「マニュアルに関する疑問なのですが、この世界を構築する手助けができる程の人材をあなた方が欲していて、それを育成する為に用意したという側面があると思います。しかしマニュアルには高度なAIが使用されています。何故それを世界の構築に利用しないのでしょうか?」

 

「なかなか面白い質問だね。君の疑問に答える為には、現在のAIが持つ限界を語る必要がある。おそらく君は、世界を構築する場合でも、自動化が可能な部分はAIに任せた方が効率的だと考えているのだろうね」

 

 真剣な表情でゆっくり頷く雪ノ下の反応を確認して、GMは話を続ける。

 

「簡単に言えば理由は2つだ。1つは、AIには行為の意味や世界の美しさを理解できないから。そしてもう1つは、高度なAIは専門知識に長けた人材が扱ってこそ効果を発揮するから。詳しい話は続けて行うが、まずここまでは大丈夫かな?」

 

 早くも目が泳ぎ始めている由比ヶ浜を見て楽しそうな表情を浮かべながら、残り2人の反応を確認して彼は言葉を続ける。

 

「1つめだが、君達もAIを相手に受け答えをした経験があると思う。だがそれは数え切れないほど多くの会話パターンを覚えさせて、それらの選択肢の中から妥当なものを選んでいるだけで、応えた言葉の意味を理解しているわけではない。同様に、AIには美しいものを美しいと認識できない。美醜を区別できないんだ。乱暴な事を言えば、ある風景が多くの人にとって受けが良いからという理由でその風景を選んでしまうんだよ。それが、見る人にとっては強烈な違和感になってしまう」

 

「……美醜を区別できないとは、例えば一部の項目を移項しただけの数式を、元の数式と等価と捉えてしまうという事でしょうか?」

 

「成る程。雪ノ下くんの喩えになぞらえるなら、”a=2”と”a+1=3”とは等価だが、後者の数式を人が見たら計算途上だと判断して落ち着かないだろうね」

 

「けれどAIは違うと」

 

「これは簡単な例なので、最近のAIは普通に”a=2”を選んでくれるんだけどね。選ぶ理由に問題があるのはさっき言った通りだけど、そこも今流行りのディープラーニングで改善が期待されている。ただ……例えばだけど、君は『オイラーの贈物』を知ってる?」

 

「贈り物?……オイラーの等式の事でしょうか?ネイピア数e、虚数単位i、円周率πに対して、『eのiπ乗が-1』という等式ですね」

 

「正解。じゃあ同じ等式を『eのiπ乗に1を足すと0になる』と表現するのと、どっちが良いか考えた事はある?」

 

「いえ……。ただ、端的なのは私が最初に述べた方では?」

 

「そういう意見もあるね。でも、0という特別な数字も式の中に加えた後者の表現を好む人もいる。そして、こうした意見が割れる事柄をAIは苦手にしているんだ」

 

 由比ヶ浜はもちろんの事、数式が出て来た辺りで八幡も理解の努力を放棄したので、部屋の中では2人だけが会話を続けている。そんな状況にようやく気付いたのか、GMは少しだけ肩を動かして場の雰囲気を和らげてから話を続けた。

 

「それで2つめの理由だけど、君は囲碁や将棋でAIがプロ棋士に勝利したという話を知っているよね?」

 

「はい。でも、通り一遍のニュースで知っているだけですが……」

 

「それで構わないよ。じゃあ思考実験だ。もしもこの場に強さが同じぐらいのプロ棋士が2人とAIが居たとする。勝率を最大にするには、どんな組み合わせで対戦したら良いだろうか?」

 

「それは……プロ棋士とAIが組んで、もう1人のプロ棋士と対戦した場合だと思います。ただ、プロ棋士2人が組む場合と比べて明確に差が付くかは判りません」

 

「君の直感は概ね正しい。そしてそれが、我々が人材を欲している理由だよ」

 

「……成る程。正確には人材と、更に高度に発達したAIとを欲している理由ですね」

 

 冗談っぽく両手を挙げて、降参というジェスチャーをするGMだが、残念ながら雪ノ下は相手をやり込められたという感触を得られなかった。とはいえ大きな疑問を解消できてスッキリしたのも確かである。そんな彼女の表情を確認して、GMは他の2人を交互に眺めながら問い掛けるのであった。

 

 

***

 

 

「じゃあ比企谷くんは、他に疑問に思った事とかある?」

 

「そうですね……。さっき、それこそ世界の構築を手伝って来たんですけど。その、今のペースで来月末までに関東全部とか、10月には本州全てとか、間に合うんですか?」

 

「関東までなら何とかなるかもしれないが、本州は普通に考えたら無理だろうね」

 

 平然と不可能を口にするGMであった。何か思いも付かない秘策があるのだろうと期待していた八幡にとっては、肩すかしの返答である。

 

「え……。じゃあ、どうするんですか?」

 

「困った事だよ。君はどうすれば良いと思う?」

 

 そのまま問い返されて、思わず呆れた声を出しかけた八幡だが、GMの目が笑っていない事に気付いてそれを飲み込む。代わりに彼は必死に頭を働かせて、思い付いた事を口にするのであった。

 

「単純にマンパワーを増やす……のは、さっきの話であったけど難しそうですね。専門知識を持った人材を簡単に雇えるはずがない。AIも万能じゃない。なら……逆に、素人に毛が生えた程度の知識でも使えるようなツールを作る?」

 

「どうやら、先程の見学の成果が出ているみたいだね。その発想の転換は大事な事だが、それだけでは解決には至らないな」

 

「ええ。玄人であれ素人であれ、まとまった人数を集める必要があるのは変わらないですよね。でも素人で良いなら……バイトを募るとか?」

 

「まあ及第点と言っておこう。我々は世界を構築する為に使っているツールに微調整を加えて、無料のゲームとして発表する事を考えている。そして現実の世界を再現するというテーマで定期的にコンテストを開く予定だ。君達に明かせるのはこれぐらいかな」

 

「あー。ツールだけ用意して、後はそこら辺の連中に勝手に作らせるインセンティブを与えるって事ですね?」

 

「ああ。発想としてはSNSと同じだよ。ツールを用意しておけば、勝手に情報が蓄積されていく。我々自身の手で全ての情報を打ち込む事に拘っていては、先行者のメリットなど簡単に覆されてしまうだろうな」

 

 見学をしながら抱いていた疑問を解消できて、そして頭を使って考えた事に及第点を与えられて、八幡もまたスッキリとした気持ちで新たな思索に耽るのであった。

 

 

***

 

 

「では由比ヶ浜くん。お待たせした形だが、何か聞きたい事は?」

 

「えっと、あたしは経理の話を聞いて来たんですけど……」

 

 どうやら、八幡の次は自分の番だと覚悟をして、由比ヶ浜は先程からずっと質問の内容を考えていた模様である。部活仲間の2人のように鋭い質問ができるとは思わないが、せっかくなので気になる事を聞いてみようと考えて、由比ヶ浜はGMに問い掛ける。

 

「その……。この状態で、儲かってるんですか?」

 

 いきなり不躾な事を言い出した由比ヶ浜に、雪ノ下も八幡も驚いた表情のまま声が出せない。財務状況に興味を惹かれるのは2人も同様だが、さすがに聞き方というものがある。「他人の財布の中身を詮索するような口の利き方は慎むべきでは」と雪ノ下が口を開きかけたのだが、GMが話し始める方が早かった。

 

「成る程、面白い発想だ。君は儲かっているように見えたのかな?」

 

「いえ……。何となくですけど、その、大赤字じゃないのかなって」

 

「うん。別に怯えなくても良いから、根拠があれば教えてくれるかな?」

 

 眼差しこそ優しくなったものの、GMの表情は真剣なままである。傍らの2人は口を挟むタイミングを失って、無言で由比ヶ浜を応援する事しかできない。

 

「課金とかは多いって聞いたんですけど、返金もできるんですよね?それなのに、この世界でバイトとかしたらお金を稼げるし、実際のお店とかも営業してるし、でも値段が凄く安いし……。お金が通り過ぎるだけっていうか、あんまり残るイメージが湧かないっていうか……。あたしはお金の水筒?とか詳しい事は分かんないですけど、まるっと考えたら儲かる気がしないっていうか……」

 

 おそらくは金銭に対する感覚の違いなのだろう。もしも雪ノ下や八幡が企業の財務状況を調べるのであれば、損益計算書などを参考にしながら情報を積み上げる手段を選択すると予想できる。もちろん2人のやり方のほうが確実だし厳密な数字を出せる。対して個人の感覚は当てにならない事も多い。

 

 だが、正確な数字よりも大まかな傾向を知りたい時に、そしてそれが経営判断を強いられた状況であればなおの事、そうした個人の感覚というのは決して馬鹿にできないものである。

 

「君の直感は間違っていないよ。先ほど君は、おまけで呼ばれたと疑っていたが……なにかの部活かな?その一員である事を、自ら示したと言って良いんじゃないかな」

 

 楽しそうな表情で、GMは由比ヶ浜をそう評した。先程の雪ノ下の発言を念頭に置いたものなのだろうが、由比ヶ浜にとってはこれ以上ない褒められ方である。緊張と不安に苛まれながら自分が思った事を説明していた彼女は、その表情を一変させてすっかり明るい笑顔である。そんな彼女に向けてGMが説明を続ける。

 

「簡単に言うと、今は経営の安定よりも優先する事があるんだよ。返金の事も考慮した潜在的な赤字額を考えても、数年は充分に維持できる状況だしね。でも、心配してくれてありがとう。もし今スカウトするなら、3人の中だと君が最優先かな」

 

 軽い口調で付け加えたGMのこの発言が、思わぬ展開をもたらす事になるのである。

 

 

***

 

 

「えっ?あたしとかより、ゆきのんやヒッキーの方が……」

 

 由比ヶ浜がそう言ったものの、当事者が自薦を始めるような事はできれば避けたいものである。ゆえに沈黙する2人を尻目に、GMが発言の意図を説明する。

 

「気を悪くしないで聞いて欲しい。君達3人はいずれも現時点で優秀な成果を出しているし、このまま才能を伸ばして欲しいと思っている。だが、年齢を考慮しても、君達には足りない部分も多くある。ここまでは良いかな?」

 

「ええ……」

 

 過小評価された事に怒りを表明すれば良いのか、それとも由比ヶ浜が高く評価された事を喜んで良いのか判らず、言葉少なに相鎚を打つ雪ノ下であった。由比ヶ浜はおろおろしているし、八幡は沈黙を続けている。

 

「先ほど発想の転換を行えたように、比企谷くんの視野の広さと関連性を見出す能力は素晴らしいものがある。だが、現時点の君には、確実に雪ノ下くんに勝るという部分があまりに少ない」

 

 それは誰よりも八幡自身が痛感していた事だけに、彼は何も反論できない。そんな彼の内面の葛藤を見て取って、これ以上の説明は不要と見たGMは、次の論評に移る。

 

「AIの話をしていて思ったが、雪ノ下くんの理解力はとても素晴らしい。このまま研鑽を積んで欲しいと切に願う。そして、そこに君の問題があると私は思う」

 

「……どういう事でしょうか?」

 

「先ほど話題に出した時に、君は『オイラーの贈物』という書籍の存在を知らなかった。君のお姉さんは、高校生の頃に軽く目を通したと言っていたけどね」

 

「姉とお会いになった事が?それから、その書籍を読んでいない事で、何か問題があるのでしょうか?」

 

 雪ノ下の口調はすっかり攻撃的なものと化している。しかし、各国の政財界の大物と渡り合って来たGMには通じない。

 

「存在を知らないという事は、その分野の他の書籍も読んでいないという事だよ。その代わりに、君は何に時間を費やして来たのか……。雪ノ下くんの趣味とか特技とか、由比ヶ浜くんは知ってる?」

 

「え、ゆきのんの特技って……料理とか?」

 

「成る程。雪ノ下くんは、料理スキルをこの世界で判定して貰った?」

 

「……上級者と判定して貰いました」

 

 話の流れから、判定結果が良いほど悪く言われると覚悟しながらも、雪ノ下のプライドが嘘をつく事を許さない。

 

「料理の技術をそこまで伸ばす事は、ご家庭で勧められたわけではないよね?おそらく、必要に迫られた結果だろう。だが、その必要は、果たしてあったのかい?」

 

 雪ノ下の料理スキルは、高校入学以来の独り暮らしの成果である。何事にも手を抜かず、毎日しっかり作り続けて来た彼女だからこそ、上級者の域にまで達したのだろう。だが、もしもその時間を他の事に費やしていれば。そう指摘するGMの非情な声が、静かに部屋の中に響く。

 

「いくら能力があっても、人の時間は有限だ。だからこそ、何を学び習熟するかが重要になる。君の現状は……比企谷くんなら分かって貰えるかな。『メモリのムダ使い』だと」

 

「……漫画とか読むのは、ムダにならないんですかね?」

 

 暗い声音で八幡が何とか反論するが、GMは楽しげな表情のままである。

 

「読んで楽しかったし、ムダにならないとも思ったからね。それに、漫画に喩えると今の問題は、それを読んでいる事ではなくて、必要以上に繰り返し読んでいる事だよ」

 

 話の筋が通っているだけに、雪ノ下も八幡もそれ以上の反論を行う事ができない。GMから資質を評価された由比ヶ浜だが、残念ながら彼女の長所はこの場面には不向きである。そんな生徒達の様子を見て、GMが話をまとめに入る。

 

「まあ、厳しい事も言ったけど、君達3人はそれぞれ良い資質を持っている。だからこそ、伸ばし方を真剣に考えて欲しいという事だね。じゃあ、このくらいにしておこうか」

 

 そう言い終えると、GMは躊躇なく立ち上がってそのまま部屋を出て行った。後に残された奉仕部の3人はいずれも暗い表情だったが、ここでいつまでも座っているわけにもいかない。のろのろと立ち上がって、部屋を出た先で待っていた担当者に形だけの御礼を述べて、彼らは職場を後にするのであった。

 

 

***

 

 

 駅の前で「大丈夫だから、とにかく独りにして欲しい」と繰り返す雪ノ下を心配そうに見送って、由比ヶ浜は思いがけず八幡と2人きりになっていた。先程のGMとの会話でも直接的なダメージが無かった彼女は、予期せぬ事態にあたふたしながらも、とにかく会話を途切れさせないように喋り続けていた。八幡の暗い表情に気付く事なく。

 

「ゆきのんの家は判ってるから、もう少ししたら様子を見に行くとか……。ヒッキーはどう思う?」

 

「……由比ヶ浜は、優しいよな」

 

 おざなりの返答を繰り返すばかりの八幡にようやく気付いて、由比ヶ浜は八幡の顔を覗き込むようにしながら問い掛ける。それに対して、八幡は静かな口調で、話の流れに沿わない事を言い始めた。褒められたと素直に受け取った由比ヶ浜が顔を赤らめる。

 

「えっ。ヒッキー、いきなり何を……」

 

「それに、さっきの赤字の話とか、正直に言って見くびってたっていうか。……由比ヶ浜()凄いんだなって」

 

「ヒッキー……」

 

 だが、八幡が言いたい事は全く別の事だとようやく気付いて、由比ヶ浜もまた表情を暗くする。

 

「俺は……雪ノ下の事で、何も力になれねーよ。奉仕部だって……俺が居なくても、俺は必要ないだろ」

 

「そんな……だってヒッキー、ヒッキーが居なかったら、今までの依頼とか……」

 

「たぶん、お前と雪ノ下が居たら、解決できてただろ」

 

 八幡にとって、彼女らと過ごした2ヶ月間は楽しい日々だった。あるいは人生最良の時期だったと言って良いのかもしれない。しかし現実に気付いてしまえば残酷なものである。彼がいくら2人の力になりたいと願っても、彼には雪ノ下に及ぶほどの能力も無ければ、由比ヶ浜のように雪ノ下とは違った能力を持っているわけでもない。彼はどこまでも無力だった。

 

「お前は……雪ノ下の力になってやってくれ。でも俺は……」

 

「そんな事ないよ!ヒッキーだって、ゆきのんもヒッキーと喋ってる時は楽しそうだし、それに……」

 

「俺は大丈夫だから。今は雪ノ下を支える為に。……頼む、行ってくれ」

 

 八幡の言葉を素直に受け止めて、彼の論理に沿って反論を行ったとしても、それは由比ヶ浜には不向きな事である。彼女はもっと別の論点で、あるいは感情的に反論すべきだったのだろう。しかしこんな状況で、八幡が持ち掛けて来た話題をひっくり返すような事など、彼女が言い出せるはずもない。そして、八幡の捻くれた発想にストップを掛けられる人材も、この場には居ないのである。

 

 いつになく決意を秘めた表情で、八幡はおっかなびっくり由比ヶ浜の背後に回り、両手を彼女の両肩に乗せる。そして「頼む」とだけ呟いて、彼は彼女の肩を優しく押した。そのままの姿勢で、俯いたまま自分の方を見ない八幡に、由比ヶ浜は掛ける言葉を見付けられない。

 

「……バカ」

 

 やがて、そう呟いて、彼女は去って行く。最初は早足で、しかしすぐにとぼとぼとした足取りになって。彼女の足音を聞きながら、八幡も由比ヶ浜とは反対の方向を向いて、そしてゆっくりと歩き始めた。

 

 

***

 

 

 独りで家路を辿りながら、八幡は思う。これで良かったのだと。彼があの素敵な2人の女の子に執着したところで、良い事は何もない。自分にとっても、そして何より彼女らにとっても。

 

 八幡は歩きながら、ふと古い流行歌を思い出す。

 

 

“I became alone without noticing my aching heart.”

(俺は独りになった。心が痛んでいるとは悟れぬままに)

 

 俺とは違う状況だなと八幡は思う。自分は独りになって当然の身である。その事で心を痛めるなど、自分にはあってはならない事だ。

 

 

“The two girls are still alive only in my memory.”

(あの2人は俺の記憶の中でだけ生き続ける)

 

 それで充分じゃないかと八幡は思う。俺の記憶に残るなど気持ち悪いと思われるだろうが、このぐらいの事は勘弁して貰おう。だってこの2ヶ月間は、八幡にとって満たされた日々だったのだから。時々は思い出に浸る事ぐらいは許して欲しい。

 

 

“Now I could hear their voices.”

(今も俺は2人の声を聞く事ができる)

 

 たぶん、ずっと時が経った後でも、あの2人の声は覚えているのだろう。同じ時間を過ごすのが自分には勿体ない程の2人だった。

 

 

“Even though our relationships were illusion.”

(たとえ俺達の関係が幻だったとしても)

 

 本当に、一瞬の幻のようなものだった。だが、日陰者の自分が彼女らと一緒に居て良い筈がない。遅かれ早かれ、この展開になっていたのだと八幡は思う。

 

 

 彼らの関係は、この世界で少しずつ時間を積み重ねて、各々にとって掛け替えのないものへと変化しつつあった。しかし八幡は他の2人のそんな想いを信じる事ができない。それがこの展開に繋がったのだろう。どんな世界であれ、この展開は避けられないのかもしれない。

 

 だが、我々は知っている。危機を乗り越えた関係は、以前よりもより強固なものになる事を。曖昧な結論で幕引きをした葉山グループの生徒達とは違って、この危機を乗り越えた奉仕部の3名には、より親密でより素敵な日々を送れる未来が待ち受けている。そしてその未来は、八幡と雪ノ下と由比ヶ浜の3人が自分達の力で掴むべきものなのだ。

 

 

 だが、今だけは、彼が辛い思いを抱えて途方に暮れるのも仕方のない事だろう。

 

 

 日が陰り始めた大通りに沿って、比企谷八幡はゆっくりと家路を辿る。しかしやがて立ち止まり、ぼんやりと虚空を眺める彼の姿が、夕日の差す道路脇にて観察されたのであった。

 

 

 

 原作3巻につづく。




その1.本話について。
 厳しい評価は謹んでお受けしますが、作者としては、ここで辛い展開になる事は避けられないと考えました。作中で述べた以上の補足は殆ど無いのですが、1点だけ。「鬱展開とは話が違うではないか」と思われる読者様もいらっしゃるかもしれません。しかし、本話は原作の展開を逸脱するものではないと考えています。3巻のラストに向けてしっかり書いて行きますので、今後もお付き合い頂ければ幸いです。

その2.原作2巻の構成について。
 可能であれば哀しい形で締め括りたくなかった事、そして本話が実質的には3巻のプロローグという意味合いを持っていた事から、川崎と小町の問題に片が付いた20話で本筋は終了という形にしました。その上で、本話を幕間と題して、3巻に続く構成にしました。

その3.本話で取り上げた流行歌について。
 元ネタは20年ほど前のJ-Popのヒット曲で、判る方にはすぐに判ると思います。著作権の事を考慮して、作品に合わせて歌詞を変更した上で洋楽のような扱いにして、英語の歌詞と日本語訳を載せました。これでも問題だという場合は、速やかに修正しますのでご連絡を頂ければと思います。作者としては、元ネタに触れず自分のオリジナルであるかのように扱うのは原曲に申し訳ないという思いがあり、判る人には判る程度の改変に止めました。

その4.本話で書いたAIなどの話について。
 本話でGMとの会話に出て来た話は、西垣通「ビッグデータと人工知能」(中公)や松尾豊「人工知能は人間を超えるか」(角川)などの書籍と、アルファ碁に関するWIREDのコラムなど幾つかの記事を参考にしています。

その5.今後について。
 本話も結局は時間通りに更新できず、徐々に定期更新が難しい状況になって来ています。年末は時間繰りが厳しく、年度末は月に1つ更新できたら御の字という状況になりそうですが、とにかく書き続ける気持ちだけはありますので、今後もお付き合い頂けると嬉しいです。

その6.謝辞。
 こうして原作2巻末までを無事に完結できたのは、ひとえに作品を読んで下さる読者様のお陰です。本作をお気に入りに加えて下さった方々、本作に評価を下さった方々や評価を入れ直して下さった方々、本作に新たに感想を下さった方々や以前と変わらず温かい感想を書いて下さった方々、そして作品を見守ってくれる大切な友人に心からの感謝を込めて、2巻の結びとさせて頂きます。


追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)
誤字報告を頂いて、賃貸貸借表→貸借対照表に修正しました。ありがとうございました!(2018/5/10)

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