俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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2話連続で更新が遅れて申し訳ありません。何とか書き切る事ができました。
今回で原作2巻の本筋は終了です。



20.彼女たちの青春ラブコメはこの世界ではじまる。

 夜のファーストフード店の一角では、フォーマルな装いの若い男女に気楽な服装の数名が混じって、静かに話をしていた。少しだけ離れた席では、そんな彼らを温かく見守る妙齢の女性もいる。

 

 先程までは重い雰囲気だったが、集団の中でおそらく兄妹なのだろう。特徴的な髪の毛の跳ね方が共通している男女の会話が、周囲の人々の表情を明るいものへと変えている。そして2人のうちの兄の方、比企谷八幡が、集団に囲まれた位置にいた女性、川崎沙希にこう話し掛けた。

 

「……川崎。お前、スカラシップって知ってる?」

 

 

 スカラシップとは、簡単に言えば奨学金の事である。細かな違いは色々とあるのだろうが、生徒の学業成績に応じて支給されるという基本は変わらない。大抵の場合は、受講前の成績に加えて受講後の成績や出席率などを基準にして額が決まる。全額免除とはならなくとも、成績に応じて一定の割合で授業料を免除してくれる事もあるので有用だが、いずれにせよ後日返金という形式が殆どなのが川崎には辛いところである。

 

「……一応ね。少し調べてみたけど、大手予備校だと基準が厳しすぎるし、最初に必要な額は変わらないから使えないなって思ってたんだけど」

 

「それな、大手に拘らないなら基準がかなり緩いとこもあるし、大手予備校の模試の成績を考慮してくれるとこもあるから、もう少し色々と調べた方が良いかもしれんぞ」

 

「でも……金銭面だけを重視して、お粗末な内容の授業を受けるようでは本末転倒なのではないかしら?」

 

 八幡とて自分に必要な範囲の事しか調べていないので、簡単な助言程度の事しか言えない。そして雪ノ下雪乃の指摘ももっともである。だが、やはり彼女は少し考え方がずれている模様である。

 

「卒業資格を満たして、この世界を出て行く事を最優先するのであれば、授業内容こそを重視すべきよ。そう考えれば、大手のS予備校かK塾で東都大学コースを受講するか、通信教育Zを利用する以外の選択肢は不要だと思うのだけれど」

 

「いや、ちょっと待て。別に川崎は東大を狙ってるわけじゃねーだろ?それに高2でその辺りのコースを受講するって、どんだけ凄いか解ってんのか?」

 

「川崎さんが言うように一刻も早く現実の世界に帰るつもりなのであれば、この夏の時点でそれぐらいのレベルに辿り着くべきだと思うのだけれど。それにたとえ東大を目指さないとしても、問題を解く為に止まらず、将来大学で学ぶ事を視野に入れた教え方をしてくれる最難関コースは、受講しておいて損は無いという話よ」

 

 雪ノ下の話が雲の上すぎて、唖然とした表情を浮かべる由比ヶ浜結衣であった。当事者の川崎とても、まずは受講料を用意する事に集中していたので、具体的に受けるべき授業の話を持ち出されたところで口を挟む事ができない。

 

「だからお前、受講料の話を忘れてねーか?大手予備校の一番難しいコースって、全部受けたら額が凄い事になるんじゃね?」

 

「こちらの世界で受ける場合は衛星授業と同じ形式になると思うし、会場の固定費なども掛からないから、出費は更に抑えられるはずよ。そもそも、私が受講して、テキストを川崎さんに見せながら授業内容の復習を一緒にすれば、費用は掛からないわね」

 

 さすがにその辺りは抜かりのない雪ノ下であった。テキストをコピーしたり授業内容を録音して共有するなら問題になるだろうが、仲間内での勉強会で間接的に使う事にまで目くじらを立てる運営ではないだろう。

 

 そんな手があったかと、素直に感動している戸塚彩加とは対照的に、川崎は再び浮かない表情である。確かにそれだと費用は掛からないが、雪ノ下の温情に甘える形になる。高度な授業を間接的にでも体験できるのは魅力的だし、現実の世界に帰る為には安いプライドに拘るつもりもない。しかし、雪ノ下にそこまでさせるのは人としてどうなのだ、という疑問を振り払う事ができず、彼女は苦悩しているのである。

 

「成る程な。どうせお前の事だから、『講義の復習をしたり他人に教える事を通して、私にも得られるものがあるのだから』とか言うんだろうが……」

 

「……それは私の台詞を真似たつもりなのかしら?思わず怖気が走ったのだけれど」

 

「ヒッキー、前より上手くなってるし……」

 

 真剣に思い悩む川崎を尻目に、仲の良いやり取りを始める奉仕部3名であった。とはいえ八幡には発言に続きがあった模様で、雪ノ下の挑発に乗らず話を元に戻す。

 

 

「とりあえず雪ノ下の提案は1つの案という事にして、他の手も考えたいんだが。まずはスカラシップの話に戻すぞ」

 

 静かに頷く川崎を見て、八幡は話を続ける。言葉の応酬ができず少しご不満な様子の雪ノ下だが、彼女も特に異論を挟む気配は無かった。故に八幡は話を続ける。

 

「後から返って来るという形でも、トータルの支出を考えるとスカラシップも疎かにできないと俺は思うんだが……ここまでは良いか?」

 

「ああ、問題ないよ」

 

 川崎の反応を窺いながら、上手く話を進める八幡であった。実は彼女が熱心に自分の目を見つめて来るので気恥ずかしくなって、川崎に確認した後に周囲の様子を眺める振りをしながら視線を外していただけだという裏事情は、ここだけの話である。

 

「さっきも言ったが、大手予備校の模試の結果は他の予備校でも参考材料にしてくれる事が多い。だから、今度の日曜にあるS予備校の第1回高2全国模試には全力で挑むべきだと俺は思う」

 

「成る程。つまり、バイトに費やす時間を貴方は問題視しているのね?」

 

 持ち前の理解力の早さによって、またもや周囲を置き去りにする雪ノ下であった。とはいえ、打てば響くような反応は話し手からすると嬉しいものである。問い返す形で、話の主導権を戻してくれている辺りもポイントが高い。なので八幡は機嫌良く頷きながら、周囲に向けて説明を行う。

 

「正直、模試の直前に対策をしても、どれぐらい効果があるのかは分からんが……。優先順位を考えると、今はバイトよりも勉強に時間を使うべきだと思うんだわ」

 

「でも、夏の予備校代も稼がなきゃじゃないの?」

 

「あ、でもさっきの雪ノ下さんの案があるから……」

 

「すまんな戸塚、その話はいったん棚上げな。で、由比ヶ浜の懸念も当然だが、そこも少し検討してみたいんだわ。つまり、バイトと勉強を両立できるような方法が無いか?ってな」

 

 ちょっと良い表情で、いわゆるどや顔で周囲を見渡す八幡であった。さすがの雪ノ下にも彼の意図は読めていないようで、少し悔しそうな様子である。その他の殆どの面々は一様に驚いた表情で、彼が発言を再開するのを待っていた。

 

 そんな彼の様子を見ながら、馬鹿な事を言い出さなければ良いのだがと呆れながらも一応は心配していた比企谷小町は、兄が自分に視線を固定した事に気付く。首をこてんと倒しながら、彼女が目だけで疑問の意を伝えると、八幡はおもむろに説明を始めるのであった。

 

 

「小町が通っている塾は理数系の授業が売りなんだが、英語は微妙なんだわ。教師の知識や実力は問題なかったはずだし、教え方も悪くはなかったが、何てか……」

 

「眠い!」

 

「あれは耐えられないっす!」

 

 間髪入れず、小町と川崎大志とが八幡の言葉を引き継ぐ。小町はともかく基本的には真面目なはずの大志がここまで言うのだから、その英語教師の授業はよほど眠いのだろう。かつて八幡も同じ塾に通っていて、しかし対人関係で嫌気が差してすぐに辞めたのだが、あの時に体験した睡魔の威力は今でもはっきり覚えている程である。

 

「で、さっき川崎は『英語は行けそう』って言ってたと思うんだが……中学生に英語を教える事はできるか?」

 

「……少人数に教えるのはできると思うけど、教室で授業って形だと、やった事がないからどうだろね。それと、塾には他に英語の教師は居ないのかい?」

 

「あー、川崎にメインで授業をして貰うんじゃなくて、アシスタントみたいな感じか?授業の進め方とかは準備してくれてる通りにすれば良いと思うし、ぶっちゃけ代わりに喋ってくれるだけで良いっていうか。とにかく、あの眠気を誘う声さえ無ければ、内容はしっかりしてた筈なんだわ。他の英語教師は国語とか他教科との掛け持ちばっかだから、催眠音波の問題がなくなれば向こうも助かるんじゃね?」

 

 それが八幡のプランであった。さすがに塾の内情を知らない雪ノ下には思い付けない案である。バーでのバイトと比べると、高校受験程度の難易度とはいえ英語に触れながらお金も稼げるのだから、環境の違いは歴然である。教師の実力には問題が無いので、空き時間には高校範囲の質問を行う事も可能だろう。

 

「お兄ちゃん、一瞬で辞めたのに何でそこまで塾の事情に詳しいの?」

 

「ばっかお前、妹が通う塾だぞ?足りない部分は俺が教えないとだし、この程度は把握してても不思議じゃねーだろ」

 

 ふと浮かんだ疑問を小町が無邪気に尋ねるが、八幡は即答で返す。どうやら妹がいる千葉の兄にとっては不思議ではないらしい。だが同時に、周囲がドン引きしている事も不思議ではない。呆れたような疲れたような口調で、雪ノ下が一同を代表して感想を述べる。

 

「はあ……。プランとしては魅力的だというのに、プレゼンをする貴方が残念なせいで、どう評すれば良いのか悩ましいわね。それに貴方の事だから、他にも何か企んでいるのではないかしら?」

 

 さすがに鋭い雪ノ下であった。彼女の指摘に対し、先程までの得意顔から少しだけ照れ臭そうな表情に変えて、八幡は呟くように隠された意図を説明する。

 

「まあ、あれだ。川崎が塾でバイトするようになれば、大志とも一緒に過ごせる時間が増えるんじゃね?」

 

 

 周囲の目が一斉に八幡に集まる。八幡としては、両親が居ない現状で小町と一緒に過ごす時間をもっと増やすべきかと悩んでいたところだったので、そのお陰で思い付いたに過ぎない。川崎姉弟の事を思ってと言えば聞こえは良いのだろうが、心情としては小町の事を考えるついでという程度の重みでしかない。しかし、そうした配慮は誰もが思い付ける事ではなく、それ故にどんな切っ掛けであれ配慮できる人は貴重なのである。

 

 急に言葉を失ったかのような周囲の様子に気付く事なく、八幡は照れ隠しなのか遠方を向いたままである。やがて生徒達は徐々に優しい笑顔を浮かべながら、変わらず八幡を見つめる。特に川崎は、この時に初めて八幡の長所を心から認識できた気がした。

 

 バーで戸塚から言われた言葉を彼女は思い出す。舐めた事を言うふざけた奴だと思っていたが、確かに『困ってる人にいい加減な事を言う性格じゃない』みたいだ。むしろ先程の『仲間が必要なときはいつでも来い』という台詞といい、いざという時に頼れるタイプなのかもしれないと彼女は思う。その台詞は既に彼にとっては黒歴史なので、頼むから触れてくれるなと心底から思っているだろうが。

 

 

 川崎は今までの人生で色んな事を諦めて来たが、その最たるものは友人であった。何故だか解らないが同世代の誰とも話が合わない。それに口下手なので、面白い話や役に立つ話が自分にできるとはとても思えない。きっとあたしと居ても楽しくないだろうし、だから友人もできないだろうと彼女は諦めていた。仲の良い友人が居ないとはいえ疎まれているわけでもない。そもそも、これだけ素晴らしい家族に恵まれているのだから、それで充分じゃないかと。

 

 しかし、仲間と言ってくれたこの男子生徒といい、真剣に自分の事を考えて舌戦を挑んで来たあの女子生徒といい、一体あたしに何が起きたのだろうと彼女は思う。その2人と一緒に自分などの事を心配してくれる同級生が更に2人。そして弟と同い年でおそらく想い人の少女も、彼女の心の奥底までをしっかり見通しているかのように、厳しくも温かい言葉をくれた。いつの間にあたしは、こんなにも祝福された立場になっていたのだろうか。

 

 だからこそ川崎は、2つの意志を口に出して彼らに伝えようと決意する。変な風に思われるかもしれない。もしかしたら彼女の勘違いなのかもしれない。それでも、今この瞬間にそれらを伝えないという選択は彼女には無かった。だから川崎は、ゆっくりと周囲の()()()に向けて口を開く。

 

「あのさ……。あの、みんな、さ。……あたしの為に色々と考えてくれたり、動いてくれて、ありがとね。それで……その。できれば、で良いんだけどさ。嫌じゃなかったら、あたしと、友達になってくれないかな?」

 

 何度も口ごもりながらも、川崎はお礼とお願いという2つの気持ちを言い切る事ができた。そしてこんな話に対しては、誰がこの中で返答するのに一番相応しいかなど、言うまでもない事だろう。間髪入れず、元気な声が川崎に答える。

 

「うん!よろしくね、サキサキ」

 

 予想できた事態に対して周囲は苦笑いである。由比ヶ浜のあだ名のセンスがさっそく炸裂したわけだが、ゆきのんやヒッキーとは違って、近い将来その呼び方を採用する人は他にも出て来るかもしれない。もしも可能であれば、その人の何かが腐っていない事を願うばかりである。もちろん、とうの昔に手遅れなのだが。

 

 

 優しい空気が夜のファーストフード店に充満する。勝負を経た後に友情を構築する光景を目の当たりにして、感動に震えている妙齢の女性も居る。当事者はみな笑顔を浮かべていて、今回の依頼が結果として良い方向に働いた事を心から喜んでいる様子である。そんな彼らを優しく眺めながら、雪ノ下は少し時間を置いて口を開く。

 

「さて。では改めて、私達の提案を繰り返すわね。1つ、日曜日の全国模試まではバイトを休んで勉強に専念してはどうか。2つ、バイト先を弟さん達が通う塾に変更してはどうか。3つ、大手予備校の東大コースを私が受講後に勉強会を行うので、それに参加してはどうか。……最後の提案は、どのみち私は受講すると思うし部員向けに勉強会も行う予定だから、気を遣う必要は無いわ。それに、その……友達、なのだから」

 

 恥ずかしそうに最後に小声で付け加える雪ノ下に、周囲の生徒達の温かい視線と肉感溢れる女子生徒の抱擁とが送られる。勝手に勉強会に巻き込まれる事を決められた八幡は少しだけ文句を言いたげな表情だが、基本的には彼も勉強には真面目な生徒である。最高峰の大学を受験する生徒を対象にした講義には興味を惹かれるものがあったので、あえて口を挟む事はなかった。

 

「……その3つ全部を、採用させて貰う事になると思う。本当に、あたしなんかの為に、ありがとね」

 

「そんな言い方はダメだって。あたし達はサキサキの為だから動いたんだし、『あたしなんか』とか言わないで欲しいな」

 

 川崎を可愛らしく睨み付けながら、友達が多いからと先輩風を吹かせるような言い方をする由比ヶ浜だが、発言の内容は穏当なものである。彼女に続いて、性別が戸塚な人物も口を開く。

 

「うん。ぼくも時々『ぼくなんかが』って思っちゃうから気持ちは解るけど、周りの友達がそれを聞くと、ちょっと寂しくなるんだって。大事な友達に、変な風に謙って欲しくないって言ってたよ」

 

「そっか。なら……ありがと」

 

 川崎の短い感謝の言葉を、彼女に指摘をした2人は笑顔で受け入れる。そして大方の意見が出尽くしたと見た生活指導の教師は、ゆっくりと生徒達の輪に近付いて、そして話を始めるのであった。

 

 

「何とか良い具合に話がまとまったみたいだな。私の方からも少し川崎に提案があるので、検討してみて欲しい。……君達は現実の世界で、PCやスマートフォンで色んな授業を体験した事はあるかね?」

 

「それは、Tunes Uなどで配信されている授業の事でしょうか?たしか大学の授業が主だったと記憶しているのですが……」

 

「世界の授業が受けられるとか聞いた事はありますけど、だいたい英語じゃないんですか?」

 

「ふむ。雪ノ下と比企谷の認識で概ね間違っていない。だが、私が提案したいのは大学受験向けの授業を配信しているサービスの事なのだよ。具体的には、R社のお勉強サプリというものを知っているかね?」

 

 平塚先生が意外な話を持ち出した事で、再び生徒達は真面目な顔に戻っていた。とはいえ、質問に答えた雪ノ下も八幡もそのサービスを利用した事がなかったので、教師の説明待ちという姿勢である。そんな生徒達を見て、教師としては思う所がある様子で、彼女は少し愚痴っぽい事を口にし始めた。

 

「実際には我々教師陣も参考にしているのだから、もっと積極的に生徒に紹介すべきなんだがな。進学校ゆえに自前で授業を行う事に拘ったり、生徒に勧めるのは大手予備校のみという現状は申し訳ない限りだ……が、反省は別の機会にして説明をするぞ」

 

「ええ、お願いします」

 

「お勉強サプリのメリットは、大手予備校出身の講師など質の良い授業が揃っている事、そして利用料が月額980円という事だ。未確認だが、この世界のみで使う設定にすればもっと安価で済む可能性もある。デメリットは受ける授業を自分で選ぶ必要がある事だな。それと、質問をしたり添削を受ける事もできない」

 

「成る程。ならば生徒の相談に親身になってくれる教師が居れば、デメリットは概ね解消できますね」

 

 最近はよく観察される素敵な笑顔で、そう言い放つ雪ノ下であった。さすがの平塚先生も、こう返すのが精一杯である。

 

「……君は本当に、教師を使うのが上手くなって来たな」

 

「日頃のご指導の賜物です。では、今度の模試と中間考査の結果を見て、各々に合った授業を選んで試してみる事にしましょうか」

 

 すっかり会話の主導権を奪ってしまった雪ノ下であった。とはいえ彼女にはまだ何か懸念が残っている様子で、少しだけ言い淀んだ後に口を開く。

 

「……ただ、センター試験は私達も受けられる事になりましたが、各大学の二次試験は見通しが立っていません。実質的には飛び級になるわけですが、それへの対応は不透明です。高認も、この世界でだけ特例で2月にも行われる予定だそうですが……その後の進路も考え合わせると、あちらの世界に戻ったものの途方に暮れる事になりかねません」

 

 できるならば川崎には聞かせたくない話である。しかし、厳しい状況だからこそ話さないわけにもいかない。先程とは一転して暗い表情で語る雪ノ下だったが、そんな彼女の発言の意図を理解して、何かを決意した少年が姉に向けてゆっくりと口を開く。

 

「……姉ちゃんは、この世界で2年しっかり勉強してさ、行きたい大学に行けば良いんじゃないかな。急いで1年で帰る事に拘らないで。……ここにいる皆さんと一緒に過ごせるなら、その方が良いかもって俺は思う」

 

「大志……でも、あたしが帰らないと妹や弟が……」

 

「それは俺が何とかするよ。ずっと姉ちゃんに世話を掛け通しだったし、俺は1年で戻れるわけだしさ。……まあ、高校に落ちないように気を付けないとダメなんだけどさ」

 

「でも……」

 

「いいから。姉ちゃんは俺が落ちないように、塾で英語の授業を頑張ってくれよ。あの先生の授業、マジで睡眠薬みたいだからさ」

 

 姉弟の会話に、誰も口を挟む者はいない。川崎が1年で帰る必要が無くなれば、当面はバイトをする意味もなくなるのだが、それを指摘するのは無粋というものだろう。それに姉の意地として、全てを弟の言う通りにするというのも癪なものである。だから川崎は弟に告げる。

 

「あんたの言いたい事は解ったよ。さっき雪ノ下が言ってたように、受験とかどんな形になるのか分からない部分もあるし、もしあたしが1年で帰れなかった場合はあんたに任せるね。でも……あたしは1年で帰る事を諦めないよ。とにかく勉強とバイトと、やれる事はやるつもりだから」

 

 友人を得て大きく視野が開けた川崎は、家族の為に行動するという一見したところ褒められるべき、しかし他方から見ると自分では何も選択していない状況から、抜け出す事になる。この世界でも家族の愛情に恵まれ、そしてこの世界で初めて親しい仲間を得た彼女は、今までとは全く違った日々を過ごす事になるのだろう。

 

 そうした彼女の変化によって、今までは知られていなかった彼女の長所に気付く者も出て来るだろう。そうした外部からの刺激によって、この場にいる者達との関係も変化があるに違いない。もしかしたら彼女にだって、ラブコメのような事が起きるかもしれない。

 

 つまるところ、彼女の青春ラブコメはこの世界ではじまるのである。

 

 

***

 

 

 話がまとまって、一行は撤収の支度に入る。既に遅い時間帯なので、由比ヶ浜は雪ノ下の家に泊まる事になった。川崎姉弟は本音で語り合った直後だけにお互い気恥ずかしそうにしているが、2人で仲良く家に帰るのだろう。そして、戸塚が八幡に語り掛ける。

 

「八幡、今日はこの服を貸してくれてありがとね。洗って返すとかはできないけど、明日また学校で渡すから」

 

「……え。あの、戸塚?家で一緒に着替えねーの?」

 

「うん。ぼく、これでも結構、空気が読めるんだよ?八幡は小町ちゃんと一緒に帰ってあげてね」

 

 八幡だけに聞こえる音量で、戸塚は少し冗談めかした口調でそう言った。戸塚の意図を完璧に理解できたわけではないが、八幡とても川崎姉弟のやり取りを見て妹の事を構ってやりたい心境になっていたので、ありがたく申し出を受ける事にする。

 

「ん、了解。でも戸塚は1人で帰る事になるけど大丈夫か?」

 

「ならば私の出番だな。戸塚は私の車で送り届けてやろう」

 

 生徒達の色々なやり取りを間近で見て、興奮したり涙腺が緩んだりで、このまま独りで帰りたくない大人の女性がそこに居た。そうした恩師の意図は簡単に見て取れたが、八幡はあえて追求する事なく口を開く。戸塚と過ごせたはずの時間を惜しみながら、しかし同時に翌日の再会を楽しみにして。

 

「じゃあ先生、お願いします。戸塚も先生が暴走しないようしっかり見張っとけよ」

 

 

 こうして平塚先生と戸塚は帰って行った。川崎姉弟も彼らの方へ軽く頭を下げてから帰路に就く。後に残ったのは奉仕部の3名と小町である。

 

「明日からは、今まで以上に勉強を頑張らないといけないわね」

 

「友達のサキサキの為だもんね、ゆきのん」

 

 そんな彼女らのやり取りを、八幡は当事者のような傍観者のような奇妙な立ち位置で眺める。この2人とこんな距離感で過ごせるとは、改めて考えると不思議な事である。すっかり慣れたようでいて、いつまで経っても慣れない気持ちも残っているが、いずれにせよ八幡の顔には微かに笑顔が浮かんでいた。

 

 小町はそんな兄の様子をすぐ傍で眺めていた。入学前から危惧していたが、入学式の直前に事故に遭った事で、兄は高校でもぼっちで過ごすのだろうと小町は覚悟していた。しかし何の因果か、この世界に巻き込まれてからの兄は、面白い縁を次々と結んでいる。中でもこの2人との縁は、事故の関係者だというのに不思議なものだ。

 

 兄の為にも自分が頑張らなければと、そう気合いを入れ直して、小町はこっそりと兄の服を握りしめるのであった。

 

「比企谷くんも、今日のところはお疲れ様。小町さんと一緒に気を付けて帰ってね」

 

「ヒッキー、お疲れー。小町ちゃん、テスト終わったら打ち上げやろうね!」

 

 そう言い残して部活の仲間2人も帰って行った。総勢8人だったのが一気に2人に減って、夜の空気が兄妹にも帰宅を促す。お互いに言葉は無いがしっかり頷き合って、八幡と小町もまた帰宅の途に就くのであった。

 

 

***

 

 

 その公園は彼ら兄妹の帰宅途上にあった。2人にとっては子供の頃から馴染みの公園で、どちらからともなく寄って行こうという話になったのである。彼らとしても、このまま家に帰ってしまうには、この夜の体験は濃厚に過ぎたという事なのだろう。

 

 公園の入り口にあった自動販売機で飲物を買って、2人はベンチに並んで腰を下ろす。そのままぽつりぽつりと、今日の出来事を述べ合うのであった。

 

「……沙希さんは気っ風が良いって感じの格好良さだったけど、雪乃さんは触れたら斬るって感じの格好良さだったし、凄かったねー」

 

「まあ、正直どっちも正面からは相手したくないな。やはり俺の相手は戸塚に限る」

 

「また始まったよ……。てか結衣さんも普段は面白い感じだけど、いざという時には頼りになる感じだよね」

 

「お前な、面白い感じってそれ褒めてねーからな。でもま、やっぱり今日は川崎姉弟だろうな」

 

「うーん。なんだか羨ましいぐらいに仲が良かったよね。お兄ちゃんも、もう少し妹をいたわるとかできないかなー?」

 

 本心からの発言ではない事が見え見えの小町の発言であった。

 

 普段であれば八幡も小町の要求をそのまま容れて、小町を褒めるなり愛情の気持ちを伝えるなり、いつものやり取りをしていたのだろう。しかし、小町の為にもう少し時間を割いて、家族として一緒に過ごす時間を長くすべきかと悩んでいた八幡は、兄妹のいつもの応酬に上手く乗る事ができなかった。

 

「あー……そうだな。前向きに善処するわ」

 

「え?……いや、あの、別にそこまで真面目に返さなくても……」

 

 兄妹の会話が少しずつずれ始める。お互いを大切に思うが故に。そしてお互いに、こちらの事よりも我が身を大切にして欲しいと思っているが故に。

 

 

「時々な、お前が寂しそうな顔をしてる事には気付いてたんだわ。でも正直、どう言葉を掛けたら良いのか、ぼっちの俺には分からなくてな。川崎たちを見てて、せめてもう少し小町と一緒に過ごす時間を増やさないとな、とか考えたりして。まあ、俺なんかと過ごしても、小町は楽しくないかも……」

 

「そんな事ない!それに、さっき結衣さんが言ってたじゃん。『俺なんか』とか言っちゃダメだって」

 

「ああ……そういや戸塚も言ってたな。んじゃ、なんだ。俺と一緒に居ろ!とか?」

 

「お兄ちゃんにオラオラは似合わないかなー。というか小町的には、お兄ちゃんがそんな事を考えてくれてるってだけで、充分に嬉しいのです。だからお兄ちゃんは、結衣さんや雪乃さんたちと仲良く過ごして……」

 

 気丈に振る舞う少女の頬に、静かに一筋の線が下りる。それは一度では終わらず、頬を伝うものに気付いてしまった彼女は、流れるものを止める事ができない。自分でも理由が解らないまま、小町は静かに涙を垂れ流していた。

 

「あれ?なんで小町……」

 

 そう呟く妹の姿を見て、何を考えるよりも先に八幡の手が動いた。小町の肩に手を回して自分の胸へと引き寄せ、そこに妹の顔を押し付ける。肩に回した手はそのままに、もう片方の手は優しく妹の後頭部を撫でる。

 

 そして小町は、その体勢で号泣した。

 

 

 涙が涸れ果てるという事は、もしかしたら無いのかもしれない。ひとたび溢れてしまった涙はいっこうに尽きる気配がなく、しかしさすがに頃合いだと冷静さが戻って来た頭で考えて、小町は意志の力で涙を止める事にする。同時に、泣き止む力を貸して貰おうと、抱き付いたままの兄に向かって話し掛ける。

 

「小町ね。お兄ちゃんが事故に遭ったって聞いた時……じゃないや。お兄ちゃんが助かるって、後遺症とかも残らないって聞いた時かな。本当は大声で泣き叫びたかったの」

 

「……そっか」

 

「お兄ちゃんが目を覚ました時にも、思いっ切り殴ったりしながら、やっぱり泣きたかったの」

 

「……そうだよな」

 

「なんでそんな馬鹿な事をしたんだ、って。小町がどんな気持ちになるのか解ってるのか、って」

 

 八幡は静かに妹の頭を撫で続ける。しっかり聴いていると伝える為に。小町が言う事を全て受け止めるという意志を示す為に。

 

「でも、小町はお兄ちゃんの妹だから。お兄ちゃんがそんな事をやっちゃう人だって知ってるから。だから、お兄ちゃんを責めたくはなかったの」

 

 夜の公園に、少女の呟きが静かに拡散されては消える。

 

「だけど、まだお兄ちゃんが助かるか判んなかった時に、もしお兄ちゃんが、じんじゃっだらってがんがえだら……」

 

 八幡は妹の小さな身体を、力の限りに抱きしめる。その両手を通して、妹に何を伝えたいのかも解らないままに。辛い思いをさせた事への謝罪ではない。自分の事をこれほどまでに思ってくれている事への御礼でもない。泣き叫ぶ妹を元気付ける為でもなければ、己の無力を伝える為でもない。ただ言葉にはできない、したいとは思わない何かを伝えたくて。

 

 

 ひとしきり泣き終えて、小町は独白を続ける。

 

「どうしてお兄ちゃんが、こんな事をしないといけないんだって考えちゃうとね。小町の中に嫌な気持ちが広がって来るの。お兄ちゃんは悪くないって。他に悪い人がいるんだって。……小町、そんな事を考えたくないのに!あの事故は、結衣さんや雪乃さんが悪いんだって、そんな事は絶対に考えたくないのに!」

 

 涙を流している様子こそないものの、身を強く震わせている妹をしっかり抱き留めて、八幡は思う。自分の軽はずみな行動で、妹をここまで深く傷付けていた事を。事故の瞬間に「どうせ俺が死んでも」などと考えていた事を。それらは何と罪深い行いだったのかと。

 

 だが、終わった事は終わった事である。今から何を覆せるわけでもない。そして彼の両手の中には、泣き疲れてぐったりしている妹がいる。彼にとってはかけがえのない、たった1人しかいない妹が。

 

 だから八幡は口を開く。何を言えば良いのかさっぱり分からないが、だからこそ思う事をそのまま伝えるのが一番だろうと、そう考えて。

 

「小町な、変な事は考えるな。あの事故はどう考えても俺が悪い。もし事故の事を思い出して、嫌な気持ちになりそうだったら、そん時は俺の事を怒ってくれたら良いからさ。呼び出してくれたら、すぐに飛んで行くから。好きなだけ罵って、叩いたりとかもして良いから」

 

 八幡としてはこの上なく真剣に話したつもりだが、妹の反応は芳しくない。先程と違った事といえば、彼の背中を撫でるようになった事ぐらい……。と、そこまで考えて八幡は気付く。小町が彼の背中を叩いているのだという事を。

 

 泣き疲れて力が入らないのか、それとも投げやりな気持ちで叩いているのか判らないが、そうした動作を行うようになった妹からは、先程と違って落ち着いたような雰囲気が感じられた。もう少しこうしていれば、いつもの調子に戻るだろう。八幡はそう考えて、妹の頭を撫でながら、その時を待つのであった。

 

 

 ずっと胸の内に秘めていた事を思いがけずぶちまけた公園から、小町は兄と並んで一緒に去って行く。久しぶりに兄妹で手を繋いで、ゆっくりと歩みを合わせながら。

 

 あの時の事故から、彼女の中では幾つかの事が止まったままだった。それは彼女の行動に影響を及ぼして、必要以上に明るく振る舞ったり、時には独りで寂しさを抱える事もあった。だが、そうした事柄は、兄に思いの丈を打ち明けた事で全てが解消したのである。不思議なものだが、治る時は全てが一気に治るという事なのかもしれない。

 

 彼女もまた、この夜を経て少しずつ変わっていくのだろう。兄の友人達との関係も、そして自身の友人達との関係も。もともと交友関係の広い彼女だけに、その変化は川崎よりも大きいかもしれない。しかし、何が変わろうとも彼女は八幡の妹であり、2人の関係は大きな部分では何も変わらない。たとえ彼女がラブコメ展開に巻き込まれたとしても。

 

 ともあれ、彼女の青春ラブコメもまたこの世界ではじまるのであった。

 

 

 夜でも明るい大通りに沿って、兄妹2人はゆっくりと家路を辿る。いつもと少し違った部分はあったものの、いつも通りに仲の良い兄妹の姿が、街灯の照らす道路脇にて観察されたのであった。

 

 

 

 原作2巻、了。

 




原作2巻の本筋はここで終了です。詳しい話はこの章の最終話にて。

実在の組織や団体、サービスなどの名称は、微妙に変化させています。以前は「サイ○」などと表記していましたが、この辺りはどう表現すべきか結論が出ず難しいですね。

原作2巻からお読み頂いた方々には、八幡が過去に小町と同じ塾に通っていた事や、この世界で八幡と再会するまでの小町の心情などをご存じなく、本話の幾つかの場面に唐突な印象を持たれたかもしれません。もしよろしければ、幕間1話幕間2話もご覧頂けると嬉しいです。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
誤字を1つ修正しました。(10/31)
細かな表現を修正しました。(11/15)

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