比企谷家の朝は早い。社畜と化して長い両親が、それでも時間ギリギリまで睡眠をとり大急ぎで朝食を流し込み会社に向けて家を出て初めて、比企谷家は落ち着きを取り戻す。それが現実世界での毎日であった。
比企谷兄妹の朝は遅い。両親の薫陶を受けた兄妹が時間ギリギリまで睡眠を貪り、要領よく朝食を作って食べて学校へと向かう。
比企谷兄妹の休日の朝はさらに遅い。しかしゴールデンウイークに突入した休日のこの日の朝は、平日と変わらぬ光景が展開されていた。
「いくら塾の模試で早起きだからって、俺まで起こす必要はないだろ……」
「そんなの、お兄ちゃんと一緒に朝ごはん食べたかったからに決まってるじゃん」
「お前、ただ単に自分だけいつも通りに起きるのが嫌だっただけだろ」
「お兄ちゃんは素直じゃないなー」
「お前の本音を素直に指摘してるんだが……」
寝起きの不機嫌な声で妹に文句を言いながらも、比企谷八幡は兄妹2人ぶんの飲み物を用意する。兄がそうする事をあらかじめ分かっていたかのように、比企谷小町はテーブルに食事を並べる。いつもと変わらぬ比企谷家の朝であった。
「で、おにいひゃん」
「おい、食べるか喋るかどっちかにしろ」
「ん。今日は特に予定ないよね?」
「ばっかお前、こう見えて俺は……」
「そーゆーのはいいから。いそがしーお兄ちゃんにお願いがあるのです」
「なんで『忙しい』だけ棒読みなんだよ……。ま、言ってみ?」
「模試が終わってから、外でごはん食べない?」
「まあ、模試とか疲れるだろうしな。別にいいぞ」
「やった!じゃあ、駅前のサイ○で待っててね」
「席を取っとけって事な。んじゃ、適当に昼を済ませてから早めに出るわ」
話が決まって、小町は出かける支度に、八幡は二度寝の準備に入る。待ち時間に何を読もうかと考えながら横になる八幡は、読書の時間を奪われる未来など、この時点では予想だにしていなかった。
***
その日の午後。由比ヶ浜結衣は駅近くを歩いていた。既に仲の良い同級生とは解散して、あとは帰るだけだ。
同じ頃、雪ノ下雪乃はとある愛玩動物の写真集を書店で満喫した後、やはり駅前を歩いていた。そして彼女ら2人は巡り会う。
「あれ?ゆっきのーん!」
「こんにちは、由比ヶ浜さん。お出掛けかしら?」
「うん。優美子たちと遊びに来たんだけど、2人ともこの後で用事があるって言うから、あたしだけ残ってぶらぶらしてたんだ。ゆきのんは?」
「少し書店に用があって出て来たのよ」
とある動物の写真を、たっぷり時間をかけてこの上なく真剣な眼差しで鑑賞するために出て来たとは言い出せない雪乃であった。
「ほえー。ゆきのんだし、きっと難しくて高そうな本だよね。すごいなぁ」
「いえ、その、それほど難しくはないわね。値段はそれなりにすると思うのだけれど」
「それって、ゆきのんが読むから難しくないだけで、あたしだと難しくて寝ちゃいそう」
「そんな事はないと思うのだけれど。でもそうね、あの本を開きながら眠れたら良い夢が見られそうね」
「本を読みながら眠るゆきのんって、絵になりそうだなぁ……。あ、そだ!ゆきのん、この後は用事ある?」
「後は帰るだけだから、少しぐらいなら大丈夫よ」
「やった!じゃあお店には入らないで、座れるところでお話しよっ」
そんなこんなで落ち着ける場所を見付けて、2人が話に花を咲かせる事しばし。ふと顔を上げた結衣は共通の知り合いの後ろ姿を見付けた。
「ね、あれってヒッキーじゃない?本屋さんに入るのかな」
「あの猫背の後ろ姿はうちの部員に間違いなさそうね。あれ、猫……?」
思わず猫背の彼に猫耳を付けた姿を想像してしまい、それが意外に悪くない事に苦笑してしまう雪乃であった。表情を緩める雪乃を眺めながら、結衣が1つの提案を行う。
「ねね。本屋さんから出て来たらヒッキーも誘って、3人でお話しようよ」
「それは……どうかしら。いつもの部室を思い出して欲しいのだけれど、私達が2人で会話をする時間がほとんどで、彼はあまり話さないじゃない。それなのに休みの日にまで付き合わせるのは、彼には酷な事かもしれないわよ」
「うーん、そっか……。あ、じゃあさ、別々に2人ずつならヒッキーも色々と話してくれるかも!」
「それって、私と由比ヶ浜さんが1人ずつ順番に彼と話をするという意味かしら?」
「うん、それそれ!」
「はあ……。残る1人が時間を持て余す事になるし、それに彼は2人きりでもあまり話をしないと思うわよ」
「そうかなー。ヒッキーって結構、話し出したら色々と喋らない?」
「あまりそうした印象は無いわね」
「ゆきのん相手だと喋りにくいのかなぁ?」
「いえ、そんな事はない、と思うのだけれど……。人の事を斟酌せず、好き放題に言われている気がして来たわね」
何を言われた事を思い出したのか、無意識に周囲の気温を下げ始める雪乃であった。少し慌てた結衣が話を逸らすついでに、思い付きで変な事を口にする。
「ま、まあヒッキーだから仕方ないと言いますか……。じゃあさ、どっちが長い時間ヒッキーと話してられるか、勝負しない?」
「由比ヶ浜さん。勝負事は安易に持ちかけるべきではないと思うのだけれど。それに、残る1人は何をしていれば良いのかしら?」
「じゃ、じゃあさ。メッセージアプリを立ち上げたままにするから、話を聞きながら会話が途切れたら『結衣ー、アウトー!』って判定する、とか?」
「ふむ……。他人の会話を聞くのは気が引けるのだけれど、ルールとしては悪くはないわね。ただ、長引くのも問題だから、上限を設けてくれないかしら?」
「え、いいの?じゃあ30分ぐらいを限度に、とか」
「では、30分上限で。時間稼ぎの為だけの発言はNGで、沈黙が30秒続いたらアウトで良いかしら?ルールとしてはこんなものね」
「……あの、ゆきのん。ホントにするの?」
「あら。貴方から挑まれた勝負なのに、自信が無いのかしら?」
「むっ!ゆきのんが相手でも、あたしが勝つからね!」
こうして、世にも下らない対決が始まったのであった。
***
先攻は由比ヶ浜。彼女は書店の入り口で八幡を待ち受け、元気な声で話し掛ける。
「ヒッキー、やっはろー!」
「お、おい。ちょっと外でそれは恥ずいから、声を落として欲しいんだけど」
「大丈夫だって。誰も気にしてないよ」
「そんな事はないと思うが……。てか、休みの日に偶然だな」
「う、うん。偶然だよね!」
不自然に偶然を主張する結衣に首を傾げながらも、休みの日に同級生の女の子と話をしている現状に内心いっぱいいっぱいの八幡は、それ以上の追求はしなかった。話を逸らすかのように彼女は言う。
「で、でさ。せっかくだし、時間があるなら、少しお喋り、しない?」
「え、ああ。別に時間はいいんだが、その、あれだ。あんま面白い事とか喋れねーぞ」
「無理に面白い事を話そうとしなくていいってば。じゃ、行こっか」
「ん、どこに?」
「え、えっと。その辺の座れるところ、とか?」
「あー、そういう事か。てか、お前もそんなビクビクしながら喋らなくていいからな。嫌な事は嫌って言うし」
「言っちゃうんだ!今の話の流れだと『何を言われても嫌がらない』とか言うところじゃないの?」
「いや、だって、嫌なもんは嫌だし」
「やっぱりヒッキーはヒッキーだ……」
少し呆れながらも、いつもと変わらぬ彼の様子に少しほっとする結衣であった。雪乃が潜伏する地点より手前のベンチに腰を下ろして、彼らは会話を続ける。
「……でさ。優美子は何でも似合うけど、姫菜もカジュアルからオタクっぽい恰好まで何でも着こなせちゃうから、試着してたらキリがなくて」
「あー。お前ら3人で店を回るだけで丸一日過ごせそうだよな」
長年にわたって妹の相手をして来ただけに、八幡の傾聴スキルはそれほど低くはない。しかし、主に結衣が一方的に話している現状はルール上問題はないのかと、密かに悩む雪乃であった。そんな彼女の耳に、意外な発言が届く。
「てか、今度は雪ノ下も連れてってやれよ。あいつも何でも似合うだろうから、更に時間がかかりそうだけどな」
「あ、うん。確かに。ゆきのんなら何でも合いそう」
「まあ、あんまり安い店に連れて行ったら怒られそうだけどな。『由比ヶ浜さん、私はこんなに悪い生地を今までに見た事がなかったのだけれど』とか言いそうだし」
「え……。ゆきのんの真似、上手すぎない?」
「おう。こないだ寝る前に暇だったからちょっと練習してみたら、自分でも結構似てるなって……あれ、風邪かな?なぜか寒気が」
「たはは……」
実はすっかり雪乃との勝負を忘れていた結衣であった。手早く時刻を確認すると上限時間に近かったので、交替の支度に入る。
「あ。ちょっとあたし、駅前で用事を1つ忘れてた!荷物を持って行きたくないから、ちょっとだけここで見ててくれない、かな?」
「おう。俺の方はまだ時間はあるから別にいいぞ。もし長引くようなら連絡くれ」
「うん、分かった。ごめんね、ヒッキー……」
「いいから、まあ、行って来い」
「うん。今日はありがとね。楽しかった!」
「いや、それって、戻って来る気ないのかよ」
「そうじゃないけど……まあいいや。行ってくるね」
「ん。行ってらっしゃい」
由比ヶ浜の記録。30分(上限)。
***
後攻は雪ノ下。彼女は散歩の途中という雰囲気で八幡が座るベンチの前に姿を現し、そして彼と視線を交わした後に、何事もなかったかのように通り過ぎた。
「……おい、ちょっと待てって。今、確実に目が合ったよね?」
「あら。そんなところに居たとは気付かなかったわ」
「はあ。まあいいけどな。こんなところで何してんだ?」
「見て判らないのかしら?この辺りを散歩していたのだけれど……。少し休ませて貰っても良いかしら?」
「ああ、そういやお前、体力なかったもんな。……あんま無理すんなよ」
「ええ。その……お気遣いには感謝するわ」
慣れない事ゆえに、攻撃的な姿勢で会話を始めてしまう雪乃であったが、予想外の八幡の気遣いに更に混乱の度を深めている。そんな彼女の内心に気付かず、八幡が話を続ける。
「さっきまで由比ヶ浜が居たんだけどな。用事で席を外してるけど、すぐ戻るって言ってたし。あいつが戻るまで、お前も休んでたらいいんじゃね?」
「……そうね」
「つか、由比ヶ浜と出かけたりとか、あんまねーの?」
「まだ、仲良くなって日が経っていないから……。そのうち、そんな事もあるかもしれないわね」
「あー。由比ヶ浜の方はいつでも来いって感じだろうから、付き合ってやったらいいんじゃね?」
「あら。随分と由比ヶ浜さんの心情を理解しているのね」
「そりゃお前、部室であんだけ仲良さそうにしてたら誰でも判るだろ」
ここには居ない共通の知人の話を中心に、意外に話題が途切れる事なく会話を続ける2人であった。それを付近で聴いている結衣は恥ずかしさのあまり、しきりに身悶えしていたのだが。
「……てかお前って、必要な時以外はあんま外に出ないと思ってたけどな」
「そんな風に言われると反論したくなるのだけれど、確かに目的のない外出はしないわね」
「だろ?由比ヶ浜とかは、何もなくても外に遊びに行きそうだしな」
「あら。由比ヶ浜さんには計画性がないと言いたいのかしら?」
「まあ、由比ヶ浜はアレだ。……頭がガハマさんだからな」
「……言葉の意味は解らないのに、言いたい内容は伝わって来るのが悔しいわね」
今すぐに2人の前に飛び出して「どういう意味だし!」と問い詰めたい衝動を必死に抑える結衣であった。時計を見ると、もうすぐ時間である。意識を戻すと、雪乃の発言が聞こえて来た。
「……そういう貴方も、あまり外に出るようには見えないのだけれど」
「まあ、できるだけ家で過ごしたいとは思っているな」
「そんな貴方が外出した時に限って、私や由比ヶ浜さんと偶然会うというのも面白いわね」
ふと、先ほど由比ヶ浜に言われた言葉を思い出して、八幡は答える。
「正直、お前らに立て続けに会った時は『うげっ』って思ったけど、あれだ。意外に、その、楽しかった、かもな」
「そ、そう。……突然素直になって、どうしたのかしら?」
「なんてか、あれだ。さっき由比ヶ浜に『楽しかった』って言われてな。ちょっと、嬉しかったから、その……」
「普段のお出掛けとは違った印象になって、良かったのではないかしら?」
「そうだな。てかお前、俺の普段のお出掛けがどんな感じか知ってるのかよ?」
「知りはしないけれど、想像は可能だわ。普段の貴方なら……そうね。『ゆーうちゅの、おでかけ』って感じではないかしら?」
悪戯っぽい表情を浮かべながら、雪乃は舌っ足らずな言葉を告げる。一瞬馬鹿にされているのかと思ったものの、彼女が幼児語を口にした衝撃と、発言の時に口を尖らせる彼女の表情が可愛らしくて、八幡は言葉に詰まる。
「お、お前……。赤ちゃん言葉で、いきなり何を言い出すんだよ……」
「え?その、そういう意味ではなかった、の、だけれど……」
雪乃も途端に恥ずかしくなったのだろう。ベンチに座る二人は互いに顔を赤らめて、他所を向いている。やがて、視線を戻さないまま小声で、彼女は彼に事の真意を告げた。
「その……。ちょっと洒落てみただけなのだけれど。普段の貴方はおそらく、”You would choose no ODEKAKE.”なのでしょう?」
雪ノ下の記録。30分(上限)。
***
その後、時間が来るまで3人で仲良くお話して、八幡のこの日のお出掛けは楽しく終わったのであった。
次回は週の半ばの更新になります。
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追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/20,11/15,2/20)