俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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今回で原作1巻部分は終了です。
ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。



21.俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。

 観客席からの拍手と歓声が鳴り止まぬ中、試合を終えた選手達はコートの中央で健闘を称え合っていた。既に試合が終わったのでコート内に存在した種々の設定は解除されており、選手達の会話が観客に聞かれる事はない。

 

 

「今日はあーしの負けだし」

 

「あら、意外と素直なのね。とはいえ私も、勝ったという気分ではないのだけれど」

 

「内容も結果も、そっちの勝ちだし。あーし達は、奉仕部の二人に負けたんだし」

 

「……そうね。私一人では勝てなかったと思うわ。ただ、どうせなら奉仕部の三人と助っ人の二人に負けたと言って欲しいわね」

 

 

 もともと険悪な関係ではなかった二人の少女は、力を尽くした勝負を終えた事で一段と気安い関係になったように見える。三浦優美子がこれほど素直に負けを認めるのも、雪ノ下雪乃が勝った気がしないと本音をあっさり吐露するのも、お互いを親密な仲だと認めている証拠だろう。

 

 

「戸塚も、あの変なのも、なかなかやるじゃん。あいつらと奉仕部の三人がそれぞれの長所を出し合って、チームとしてまとまったのが勝因だし?」

 

「ええ。実際に試合をしたのは私と比企谷くんだけれど、あの変わった人も含めて五人による勝利と言えるでしょうね」

 

「ダブルスの奥の深さを味わったし。あーし達は別々にテニスのスキルを上げる事に集中してて、連携とか考えてなかったし。てか、それで充分勝てると思ってたし」

 

「私達はそれでは勝てない状況だったから、色々と策を練っただけよ。それに、試合中の比企谷くんの上達ぶりも予想以上だったし、色んな偶然が良い方向に作用しただけだわ」

 

「でもやっぱり、あーしとしては()()に負けたって気持ちが強いし」

 

 

 三浦の指摘は感傷的なものではなく、本質を突いている。確かに試合の最後の場面では比企谷八幡が指揮を執って勝利の立役者となったが、そこに至るまでの展開も含めて全ての戦略は雪乃が決めた事である。二人は彼女が作った設計図に従って練習を行い試合を戦い、最後になって現場の責任者が交替したものの、それとて想定内の一手であった。

 

 だがそれは、他の四人の貢献度が劣るという意味ではない。各々に合った役割分担の結果、雪乃が果たす役割が事の根幹に当たるものだっただけの話で、戸塚彩加のテニスの知識や材木座義輝の煽りの技が無ければそれだけで敗北は濃厚になっていただろう。

 

 そんな事を考えながら、雪乃は目の前の友人の呼び掛けに答えるべく、口を開く。決して照れる事なく、あっさりと何でもない事のように名前を呼ぶのだと気合いを入れて。

 

 

「ゆ……み浦さんに、再戦の意志があるのなら私も返り討ちにできるよう練習しないといけないわね」

 

「無理して名前で呼ばなくていいし。それに雪乃が照れたら可愛いのは結衣から聞いて知ってるし」

 

「な、何を言い出すのかしら。だいたい貴女は由比ヶ浜さんの言葉を鵜呑みにしすぎではないかしら?」

 

 

 名前で呼ぶ事は、雪乃にはまだハードルが高すぎた模様である。話の流れで悪く言われる由比ヶ浜結衣には気の毒な事だが、仮にこの場に彼女が居たら話の内容に頓着せず嬉しそうに雪乃に抱き付いているだろうから、特に問題は無いだろう。

 

 

「結衣が自信を持って口にした事は信頼できるし。雪乃も、結衣の長所をよく知ってるはずだし」

 

「……そうね。先程の最後のサーブの直前、比企谷くんに声を掛けるタイミングも完璧だったものね。そう考えると、貴女たちは由比ヶ浜さんが敵に回ったから負けてしまったのかもしれないわね」

 

「あと、姫菜が趣味に走り過ぎだったのも予想外だったし」

 

 

 何やら話が愚痴めいて来たが、そこに居るのは敵同士でもなければ女王同士でもなく、普通に仲の良い女子生徒二人であり、彼女らの顔には共に笑顔が浮かんでいたのであった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、女王二人の公式会見を邪魔してはならぬと三歩下がって横の方に控えていた八幡は、親しげな笑顔を浮かべる対戦相手が近付いて来た事で平穏を乱されご機嫌斜めであった。体力を随分と消耗したので、精神的な余裕があまり無いのである。しかし葉山隼人には嫌そうな顔も通用せず、彼らもまた会話を始める事になった。会話が始まった直後に特別席で何が起きたのかは、もはや()裸々に心()を注いで語るまでもなく明白であろう。

 

 

「ヒキタニくん、今日は完璧にやられたよ。試合が始まった時はテニスのスキルは同じぐらいだったと思うんだけど、試合中に引き離された気がする。俺達の完敗だ」

 

「あー……。なんてか、運が良かったんじゃねーの。お前らの実力が凄かったから、とにかく必死でやってただけだ」

 

「試合中にあれだけ成長するなんて俺には無理だよ。君にちゃんとした下地ができていたからだし、雪ノ下さんの指導も適切だったんだろうな」

 

「お、おう」

 

「俺達は、お互いのテニスのスキルを上げる事を第一に考えて練習したんだけど。雪ノ下さんは君を育てる事を考えて、そしてダブルスとしてどう戦うかも考えて練習メニューを組んだんだろ?」

 

「あ、ああ」

 

「それを考えると、勝負の結果に加えて、戸塚の練習に協力するのは雪ノ下さんの方が相応しいって事も内容で証明したんだよな。……本当に、彼女は凄いな」

 

「そ、そうだな」

 

「かなり観客も盛り上がってたから、各クラブに活気が戻る切っ掛けになるだろうし。この世界に捕われて後ろ向きになりがちだった生徒達の意識も変わってくれたらいいな」

 

「そうだな」

 

 

 彼のような捻くれぼっちにすら親しげに話し掛ける葉山に対して、最初は斜に構えて応対したものの次第に圧倒されて、すぐに相鎚しか打てなくなった八幡であった。しかし彼は、リア充のコミュニケーション能力にたじたじになりながらも、話の内容を聞き漏らす事はなかった。雪ノ下が試合に備えて組み立てた戦略も、彼女が何を考えてそれを準備したのかも全て見破った上で、こんな風に話し掛けられる葉山という男子生徒に、彼は何か薄ら寒いものを覚えた。

 

 しかし一方で、彼が最後に発言した内容には少し感心させられもした。リア充の座にふんぞり返っているだけで何の役にも立たない連中が多かった小中学生時代と違って、目の前の男は、周囲を見渡してそこにある問題が解決される事を願うだけの観察力と素直さとを持っている。問題解決能力という点では雪ノ下に遠く及ばないのだろうが、それは比べる対象が間違っているだけだ。自分よりも余程多くの人を救えるのであろう葉山という同級生を、八幡は以前と変わらず疎ましく、しかし同時に少しだけ羨ましく思いながら眺めるのであった。

 

 

***

 

 

「あ〜!葉山先輩〜。試合が終わったんなら、部活の方に来てくださいよ〜」

 

 

 その時、不意に観客席から、辺りの熱狂に全くそぐわない間延びした声がコート内の人物へと掛けられた。本人が言う通り、部活をしているからだろう。ピンクのジャージを着た亜麻色セミロングの女子生徒が、周りの雰囲気を完全に無視して葉山の方へと歩いて行く。周囲の観衆を全く気にせずコートへ降りて行こうとする少女の姿に、珍しく葉山が動揺を見せる。

 

 

「い、いろは……」

 

「やっぱり葉山先輩が居ないと、一年だけでは、まとまらないんですよ〜」

 

 

 そう言いながらコートに降り立ち、葉山のテニスウェアの半袖をちょこんと掴む。葉山と向かい合って話していた八幡に、まあ一応ねという程度の微笑みを送った後で、彼女は葉山を確保したまま連行する気配を見せていた。ふんわりほわほわ系美少女の予期せぬ登場に、八幡の警戒心は最大限まで上がっている。どこからどう観察しても、危険な匂いしかしない。特別席にいた面々もコート内に降りては来たものの、困惑の空気が辺りを支配していた。

 

 

「えと、一色ちゃんだよね?一年でサッカー部のマネージャーの」

 

「あ、由比ヶ浜先輩。こんにちはです〜。葉山先輩を連れて行きますね〜」

 

 

 一色いろは(いっしきいろは)という固有名詞を葉山と由比ヶ浜の発言から突き止めて、八幡は彼女を要注意人物リストの上位グループに追加する。あの手の女子生徒が彼に興味を抱くとは到底思えないが、もしも何かの偶然が重なって彼女と関わりを持つ羽目になったら、悲惨な目に遭う未来しか想像できない。告白していないのに振られるという因果律を完全に無視した状況にすら陥りかねない。八幡はそう考えて、いつでも逃げられる体勢で通りすがりの一般人を装いながら、事態の成り行きを見守るのであった。

 

 

「わりー、いろはす……」

 

「あ、葉山先輩だけで大丈夫ですよ〜」

 

 

 葉山グループの男子生徒の一人が彼女に話し掛けようとするも、にっこりとお淑やかな表情を浮かべる彼女に完全に機先を制せられて撃沈した。彼女の振る舞いはまるでお姫様の我が儘のようで、多少の格差はあっても等しく平民に過ぎぬ彼らには、それを止める事はできない。姫の御乱行に対抗できるのは、この場では女王のみである。

 

 

「ねぇ、あんさー。今は隼人、忙しいんだし?」

 

「え〜?でも、部活も大変ですしぃ〜」

 

「は?」

 

「まぁ……、二人とも落ち着いて」

 

 

 女王の声音は聞く者の耳を火傷させるような激しさを秘めていた。しかし姫が相手では、一般人に対する程の効果は得られない模様である。激しい炎をそよそよとした風で受け流すかのような応対を見て、三浦は灼熱の炎を纏った言葉を浴びせるべく意識を彼女に集中する。さすがにまずいと冷や汗をかきながら、葉山が二人の間に入った。

 

 彼が三浦を宥めている間、一色は葉山の後ろに隠れてテニスウェアの背中の辺りをちんまりと握ってびくびくしている。どこかわざとらしい小動物的なその仕草は三浦の神経を逆撫でして、彼女は深く息を吐き出してから葉山に向けて話し掛ける。

 

 

「あんさ。隼人はサッカー部の一年のところに行っていいよ。あーしはこの子と、ちょっと話があるし」

 

「え?」

 

「サッカー部のほうも頑張ってね」

 

 

 彼女の意外な言葉に呆気にとられる葉山を尻目に、普段は素っ気ない口調の彼女が、語尾に音符かハートマークでも付いているかのような感情のこもった言葉を葉山に告げる。極上の笑顔を浮かべたまま一色をずるずると引き摺っていく女王には、擬態をする余裕が失われつつある姫の「はやませんぱーい」という悲鳴も聞こえない。さすがにそれを放っておくわけにもいかず、葉山も二人を追ってコートを去った。

 

 

***

 

 

 主役のうち二人が姿を消した事で、観客達の気持ちも撤収モードに傾いた。平塚静教諭が他の教師達を説得してくれた結果、昼休みは普段よりも三十分延長になっている。先程の試合の事を振り返ってがやがやとお喋りをしながら、観客の生徒達もまた三々五々、教室へと帰って行った。

 

 審判を務めてくれた女子テニス部の面々も、葉山グループの男子生徒達も、簡単な別れの言葉を交わして先にコートを去った。残っている生徒が居ない事を確認して観客席を解除した平塚先生も、職員室へと戻って行った。後に残ったのは奉仕部の三人と戸塚と材木座、そして疲労困憊で伏せっている海老名姫菜だけである。イベントが終わった後の物悲しい雰囲気の中、誰もが口を開くのを躊躇していたが、やはり真っ先に耐えきれなくなったのは彼だった。

 

 

「八幡、よくやった。さすがは我が相棒よ。だが貴様とは、雌雄を決せざるを得ない日がいずれ来るやもしれぬな」

 

 

 そう呟いた彼は、八幡の返事が期待できない事など百も承知なのだろう。他の面々が気付いた時には既に彼の姿は無かった。彼もまた、このイベントを通して何かの能力に目覚めてしまったのかもしれない。戸惑いと苛立ちの気持ちを何にぶつけようかと残された者達が思案していると、可愛らしいソプラノの声が発せられた。

 

 

「比企谷くん、由比ヶ浜さん。それから雪ノ下さん。ぼくの依頼を叶えてくれて、ありがと」

 

「俺は別になんもしてねーよ」

 

 

 疲れた体に染み渡る戸塚の声に、八幡はそう答えるのがやっとだった。恥ずかしくてこちらも目を逸らしているのだが、視界の端では照れたように目を逸らす戸塚の姿を捉えている。性別など関係なく、可愛らしいものを思い切り抱きしめたいと思う気持ちに必死に抗いながら、八幡は部活仲間の言葉に耳を傾ける。

 

 

「そうね、私も大した事はしていないわ。戸塚くんが自分で解決したのだから、自信を持って部員たちに接したら良いと思うわ」

 

「あたしも全然さいちゃんの役に立てなかったけど、解決できて良かったね。お互いに部活、頑張ろうねっ」

 

 

 そして、残っていた者達もそれぞれの帰路に就いた。雪乃と結衣は姫菜の両脇から肩を貸して校舎に向けて去って行った。戸塚は今すぐにでも部員と話をしたいと言って、一年の教室へ向けて歩いて行った。残された八幡は、テニスコートでしばし孤独に浸る。先程まで多くの生徒が視線を送る中でテニスをしていたのが嘘のようだ。

 

 彼はテニスコートに大の字になって寝転んで、中空を眺める。太陽の光を程よく雲が和らげて、とても穏やかでぽかぽかした暖かみに包まれている。彼の人生において、これほどまでに祝福された日が今までにあっただろうか。いや、今は何も考えまい。頭をぽっかり空にして過ごすのも、たまには許されるだろう。彼はそう決めて、しばしの時を過ごした。

 

 

***

 

 

 気付いた時には寝過ごしてしまったかと焦ったが、実際には数分も経っていなかった。八幡はゆっくりと立ち上がって、校舎に向けて歩いて行く。昼食がまだだがどうしたものかと考えて、彼はふと奉仕部の部室でも配膳を受けられる事に気付いた。当初は職員室にて鍵を借りる必要があったが、今は部員として登録してあれば自由に部室に出入りできる。

 

 特別棟の廊下をゆっくり歩いて、彼は目的の教室へと辿り着く。いつの間にか、このルートにもすっかり慣れてしまった。少しだけ感傷に浸りながら、彼はおもむろに扉を開いた。中に人が居る可能性を全く考えず、ノックもしないで。

 

 

 扉を開けながら教室の中に足を踏み入れた八幡の目の前では、二人の女子生徒が着替えの真っ最中だった。一人はブラウスの前がはだけ、控えめな胸部には薄いライムグリーンの下着がちらついている。もう一人はボタンを下から留める途中だったらしく、胸元が大きく開いてピンクの下着と谷間が覗いている。居たたまれなくなって下方へと視線を避難させると、更に悪い事に二人とも下着しか履いていない。共に上下お揃いの下着から伸びるふとももは甲乙付けがたく、健康的ですらりとしていて、足の先は紺ハイで包まれている。

 

 

「な、なななな」

 

「す、すまん!」

 

 

 突然の事態に三者とも固まっていたが、いち早く再起動した由比ヶ浜の奇声によって我に返った八幡は、慌てて廊下に出て扉を閉める。一応は謝罪の言葉を投げておいたものの、それが何の役にも立たない事は明白である。先日のお尻といいパンチラといい、どうして最近の俺はこんなラブコメ展開に巻き込まれるんだ?と、嬉しさよりも厄介さが先に立った気持ちを必死で抑えながら、彼は大きく息を吐いて扉を背にずるずると座り込むのであった。

 

 

 程なくして扉が内側から開き、彼は無言で教室内へと手招きされる。生きた心地がしなかったが、なるようにしかならないと諦めて、彼はいつもの席に着いた。教室の隅では幸せそうな腐った笑顔を浮かべたまま、ベッドに女子生徒が寝かされていた。あの横に、俺は恐怖に引き攣った表情を浮かべたまま寝かされる事になるのだろうか。そう脅える八幡だったが、意外な事に女子生徒二人の風当たりはそれほど厳しいものではなかった。

 

 

「貴方が来るとは思っていなくて……。外から開けられない鍵を掛ける事もできたのに、それをせず着替えをしていた私達にも非はあるのだから、先程の記憶を直ちに完璧に抹消してくれれば不問にするわ。それとも、覗き魔谷くんとか窃視谷くんと呼ばれる方をお望みかしら?」

 

「はあ……。分かったよ。お互い何も見なかったし見られなかった。これでいいな?」

 

「……で、でもさ。完璧に無かった事になっちゃうのも、それはそれで寂しい気もするっていうか、さ……」

 

 

 物理的なペナルティこそ無かったものの、なかなかに厳しい事を言う部長様であった。一方で、もう一人の部員は何やら小声でよく分からない事を呟いている。だが、どうせ俺の事を呪詛する言葉だろうと勝手に解釈して、八幡はそれを気にしない事にした。

 

 彼女らの説明によると、選手として参加できなかった由比ヶ浜が、せめて記念写真を一緒に撮りたいと言い出したのが原因らしい。お揃いのテニスウェアに着替えて撮影を終えて、再び制服に着替えていたさなかに彼が部室を訪れたのだ。彼もまた部室に来た理由を説明して、それに納得する女子生徒二人。少しだけ悩む素振りを見せた後で、結衣が少しおどおどしながら口を開く。

 

 

「じゃ、じゃあさ。あたし達もまだ食べてないから、三人でここで一緒に食べるとかどう、かな?」

 

「あー。……すまん。さっきの記憶は完璧に消去したんだが、まだちょっと恥ずかしいんだわ。一緒に食べるのは、また、いずれ、そのうちって事にしてくれると助かるんだが」

 

「そ、そうね。記憶を抹消したという言葉は信じてあげるとして、一緒に食べるのはまた、今度ね」

 

 

 珍しくあまり余裕のなさそうな声で雪乃が決定を下す。しかし考えてみれば、最近の彼女は切羽詰まった様子を見せる事も少なくなかった。学年一の才女だから物事に動じないとか勝手なイメージを押し付けていたが、共に時間を過ごしてみると違った部分が色々と見えてくるものである。

 

 八幡はそんな事を考えながら、外に持ち出せるメニューを選ぶ。「んじゃまた、放課後な」とだけ告げて、彼は恥ずかしい気持ちを何とか隠そうとしながら部室を出た。彼の羞恥心が二人の少女にバレバレだった事は言うまでもない。

 

 

***

 

 

 昼食を食べ慣れた場所へと戻って来て、八幡はゆっくりと腰を下ろしてパンをもしゃもしゃと食べ始める。先程は記憶から抹消すると言ったものの、彼女らの姿が刺激的過ぎて消えてくれる気配がない。この世界に閉じ込められてから、俺の日常はどうなってしまったんだろう?と彼は考える。かつてのぼっちの自分は何処に行ってしまったのだろう。

 

 

 この世界とは、いったい何なのだろうか?もちろん今いる世界は仮想のものだが、しかしここには現実に生きている人達が存在している。俺だってそうだし、あいつら二人だってそうだ。じゃあ、そんな生きた人間が過ごすこの世界は、完全に虚構とは言い切れないではないか。

 

 八幡は幾つかの対義語を思い浮かべる。例えば、original(本物・独創品)とreplica(偽物・複製品)。例えば、real(現実)とvirtual(仮想)。例えば、true(真)とfalse(偽)。

 

 この世界に閉じ込められて皆が閉塞感に苦しんでいた時、生徒会長の演説があった。彼女の言葉を聴きながら、本物と偽物について少しだけ考えた事を彼は思い出す。内容にあまり違いは無いと思えるのに、片や人の心に訴えかける作品があり、片や胡散臭いとしか思えない作品がある。もしかすると両者を隔てる基準は従来考えていたよりもずっと曖昧で、そして時と場合によって大きく揺らいでしまうものなのかもしれない。

 

 

 今のところ、この世界に巻き込まれた事は彼にとって良い方向へと働いている。いや、彼だけではない。クッキー作りを経て、落ち着きと強さを得たように思える由比ヶ浜も。作品の出来映えは酷いものだったが、やるべき道を見付け、そして彼ならではの特殊な技能に目覚めつつある材木座も。戸塚だって、生来の可愛らしさに加えて勇気を出すような発言が増えた。本人が目指す男らしさに至る事はないのかもしれないが、以前と比べれば彼も変わったのだ。そして、雪ノ下雪乃。

 

 彼女だって、現実の世界では周囲から浮いた存在だったのが、今では同性の友達が何人もいる。あくまでも部長と部員という間柄ではあるが、俺との仲も険悪なものではない。こんな世界に閉じ込められた己の不運を嘆いていたが、物事の見方を変えれば良い変化も少なくなかった。

 

 

 彼はふと、自分が物語の主人公になったような気持ちがした。これでは材木座の事を悪く言えない。自分もまだ完治していなかったのかと自嘲しながらも、彼は自分が主人公を務める作品のタイトルを、思わず口ずさまずにはいられなかった。

 

 

“My youth romantic comedy has been changing in this world.”

 

 

 普通に日本語のタイトルではなく、英語で名付けてしまう辺りに彼の闇の深さがある。しかし、それでも良いじゃないかと彼は思う。現在完了進行形は日本語に訳したら野暮ったい言い回しになりがちだが、端的に言うとこんな感じだろうか。

 

 

「俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。」

 

 

 うん、何と言うか俺には全く似合わない。そう思いながらも、彼は悪い気持ちもしなかった。ずっとぼっちとして生きてきた彼が、これほど知人や状況に恵まれ祝福された一日を送れるなどと、想像すらできなかった。しかし今日は紛れもなく現実の一日なのだ。

 

 

 彼は未だ自分の能力を把握できていない。あくまでも世界が変わった事が原因で今の変化が起きているのだと思っている。しかし、我々は知っている。仮にこの世界に巻き込まれなかったとしても、間違っていながらも素敵な青春ラブコメに遭遇する未来が彼を待っていた事を。その未来を導くのは彼自身の才知であり、その殆どは彼がぼっちの時間に育んだものなのだ。

 

 

 うららかな春の日差しが彼の身体をくまなく照らし、少し火照った身体を海へと向かう風が優しく癒やす。どこまでも続く平和な空を眺めながら、比企谷八幡は満ち足りた気持ちに包まれて、食後の時間を過ごすのだった。

 

 

 

 原作1巻、了。

 




その1.テニス編について。
 本編は原作7.5巻収録の柔道大会編の要素を加味しています。その理由は柔道部の先輩がこの世界に来られない為、部員の復帰という目的が共通している為、そして世界設定の関係から盛り上がるイベントを必要としていた為です。


その2.原作1巻部分について。
 最初の書き出しと最後のシーンが思い浮かんだ事で、この作品を書き始めました。今から振り返ると各話の構成や物語の設定など修正すべき点も多々あるかと思いますが、私の能力ではより良いものに改訂できる気がしないので、このままの形にしておきます。これが私の全力であり限界でもあると理解して頂ければ幸いです。


その3.今後について。
 前回の後書きに書いた通り、少しお休みを頂いてからまた再開する予定です。幕間の数話を挟んでから二巻に突入する構成になります。再開は1ヶ月後の8/14(日)を予定していますが、場合によっては早まるかもしれません。


その4.作品へのご意見や評価について。
 もし本作を読んで何か思う事がありましたら、感想でも評価のついででもメッセージでも構いませんので、お気軽にお知らせ頂けると嬉しいです。良かった点を教えて頂けると嬉しいですし、気になった点や悪かった点を教えて貰えるとそれ以上に喜びます。評価については、付けて頂いた点数を謙虚に受け止め今後の参考にしますので、作品全体を通した率直な印象をそのまま点数として教えて下さると助かります。


その5.謝辞。
 当初の目標通りに原作1巻末までの部分を無事完結できたのは、ひとえに作品を読んで下さる読者様のお陰です。私の拙い物語が、更新後1時間で数百、1回の更新ごとに千数百のUAを頂けるとは、改めて考えると凄い事だなと思います。本当にありがとうございました。

 具体的なお名前は省略させて頂きますが、本作をお気に入りに加えて下さった方々、本作に評価を下さった方々、本作に感想を下さった方々と、その中でも繰り返し感想を書いて下さったお三方、そして作品の構想を聞いて投稿を後押ししてくれた大切な友人に心からの感謝を込めて、ひとまずの結びとさせて頂きます。



追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/16,8/12)

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