俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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今回はテニス勝負の後半です。
文字数がかなり多くなりましたので、時間がある時に読んで頂ければと思います。



20.やはり俺たちのテニス勝負はまちがっている。続

 第五ゲームを終えてコートチェンジを行いながら、比企谷八幡は横に並んで歩いている雪ノ下雪乃に話し掛ける。

 

 

「実際んとこ、お前の体力って後どれぐらい残ってんの?」

 

「そうね……。だいたい六割強といったところかしら」

 

 

 会話が二人の間だけに閉じられたものである事をシステムの表示で確認して、雪乃は答える。相手側のサーブの時に極力体力を温存しても、残るは六割。二人にとっては厳しい数字である。

 

 ゲーム側の世界と違って、こちら側では戦闘を行う事がないので具体的なHPなどの表示はない。だから推測するしかないのだが、他のどの生徒よりもマニュアルを読み込みこの世界に精通している雪乃の判定だけに、その数字は信頼できるものと考えて良いだろう。

 

 

「んじゃ、仕方ねぇな。相手サーブのゲームは捨てて、全力でキープに専念するか」

 

「あら。貴方はそれで良いの?」

 

「馬鹿みたいに熱血して、負けちまうよりマシだろ?」

 

「……確かに。でも意外ね。貴方はいざとなれば、もっと熱血になるのかと思っていたわ」

 

「なんでだよ。効率よく試合を終わらせて、早く帰って寝たいまである。まだ昼だけどな」

 

「でも、由比ヶ浜さんの飼い犬を助けた時は凄く熱心だった……らしいじゃない」

 

「あー。……恥ずかしい過去を抉って来んなよ。ダブルスの相手を虐めて楽しむのは禁止な」

 

 

 少し照れて頭をかく八幡と、ほんの少しだけ微笑を浮かべる雪乃。そんな二人の様子を、対戦相手は余裕の表れと受け取った。だが、取られたものは次で取り返せば良い。次が駄目ならその次だ。だから三浦優美子と葉山隼人は、まずは次のゲームに向けて意識を集中した。

 

 

***

 

 

 第六ゲーム。体力の消耗を抑える為に、雪乃はサービスエースを狙う。全力に近いサーブを放ってポイントを連取するが、次は相手もサーブの速さに順応して来るだろう。雪乃は八幡に目配せをしてから、先程と同じような軌道でサーブを打つ。それは相手に打ち返されたものの、ボールが飛んだ先には図ったように八幡が居た。簡単にボレーを決める繰り返しで、このゲームは雪ノ下ペアがキープしたのであった。

 

 

 第七ゲーム。葉山のサーブを受けはするものの、雪乃はそれ以上は積極的に動かない。八幡がレシーブの時にはラリーに応じるものの、彼の動きもそこまで熱心なものではなかった。特別席では「ヒキタニくん……焦らし受けとは何と鬼畜な事を」と海老名姫菜が身悶えていたが、由比ヶ浜結衣の適切な介抱によって大事には至っていない。ゲームは三浦ペアのキープで終わったものの、試合は少し中だるみの雰囲気になって来た。

 

 

 第八ゲーム。八幡のサーブが葉山に向けて全力で放たれ、彼はこの試合で初めてサービスエースを決めた。同時に、この試合で初めて観客席で流血事件が起きた。先程までは垂れ流す程度で済んでいたのだが、遂に派手に噴出させてしまったのである。薄々ばれていた一人の少女の趣味嗜好が、公然のものとなった瞬間であった。

 

 観客席での騒ぎによって試合が一時中断する中、八幡は先程のサーブの感触を改めて確認していた。彼のサーブは雪ノ下との練習で磨いたものではない。彼が体育のテニスの時間に、ペアを組む相手もなく壁打ちを繰り返して習得したものである。騒がしい他のクラスメイトが、打球がスライスしたとか何とか言って半分遊んでいる時にも、彼は体育教師に注意されないように黙々と壁打ちを続けていたのだ。

 

 

 彼は自分がぼっちである事を、ある意味で誇りに思っている。上っ面のくだらない友人関係を得たところで、そんな連中と漫然と時間を過ごして何になるのだろうか。勉強であれ趣味であれ、一人で取り組む時間の長さによって習熟度が変わってくる。誰かから有益な助言を得られれば、掛かる時間は短縮できるかもしれない。しかし、そんな助言ができる人が身近に数多く居るとも思えない。ましてや、お互いの抜け駆けを避ける為に牽制し合って、できない事を言い訳し合うような集まりなどお断りだ。

 

 彼にとって、ぼっちという環境はある意味では望ましいものである。彼が不満なのは、ぼっちを見下す目線であり、彼を憐れむような視線である。そんな連中に向けて、ぼっちは可哀想な奴なんかじゃないと証明したい。ぼっちが劣っているわけではないと認めさせたい。それは彼の心の奥底にあった、長年の願望と言っても良かった。だが、自分が陽の当たる舞台に上がる事などないと思って諦めていたのである。

 

 さっき、俺は葉山を相手に、真剣な試合の場でサービスエースを決めた。ぼっちとして、こつこつ積み重ねてきた練習が実を結んだのだ。俺は決して過去のぼっちの自分を否定しない。ぼっちとして過ごした時間を罪だと、ぼっちで居る事が悪だと決して言わないし言わせない。彼は何度、虚空に向かってその誓いを呟いた事だろう。今、彼は自らの正義を公衆の面前で証明できる機会を得て、そしてそれを証明しつつあるのだ。一人で何でもしなければならないぼっちが、何もしなくても周囲の人に助けてもらえる校内随一の人気者に勝てるのだという事を。

 

 

 試合が再開され、八幡は引き続き全力でサーブを打つ。三浦が返した球を雪乃が簡単に決める。再び葉山にサーブを打つ。葉山が打ち上げたボールは、ふらふらと八幡の少し前へと近付いて来た。この時ばかりは体力を温存する為ではなく、八幡にそれを決めさせる為に、雪乃はそのボールを譲る。それを八幡は力強く決め、その勢いのままに三浦に対してもサービスエースを決めた。

 

 観客の喝采は、彼を見事に導いた雪乃へと送られている。だが、そんな事は彼にはどうでも良かった。彼にとって、そしてペアを組む雪乃にとっても、このゲームの主役が八幡だった事は明らかなのだから。これでゲームカウントは3-5。次のサービスゲームをキープすれば、彼らの勝利が確定する。

 

 

***

 

 

 第九ゲーム。追い込まれた三浦ペアだが、二人ともこうした局面には部活の試合で何度も直面した事がある。どうせ相手は体力温存を優先して真面目にプレイしないだろう等と決めつけると、こちらが痛い目に遭う事を百も承知の二人は、このゲームでも手を抜く事はない。

 

 あるいは、少しだけ隙を見せて相手に向かって来てもらう作戦がベターなのかもしれない。雪乃の体力は更に落ちているだろうし、そこに付け込むのは卑怯な事ではない。だが、地力で上回っているという矜持が三浦にそれを許さないし、第五ゲームで露呈したように彼女は手を抜いたプレイが上手ではない。下手をすれば、肉を切らせて骨を断つはずが致命傷を受ける展開にもなりかねない。相手のサービスゲームを待つまでもなく、このゲームを落とせば負けが確定してしまうのだ。葉山はそう考えて、とにかくこのゲームをキープする事に集中した。

 

 

 一方の八幡は、正直なところ少し迷っていた。早々にポイントをリードされれば、今まで通りにこのゲームは流して次に集中すれば良い。だが、もしチャンスがあればどうするべきか。先程の自己申告からして、今の雪ノ下の体力は確実に四割を切っているだろう。下手をすれば三割も怪しい。ならば、勝負を急ぐべきではないか。

 

 

 第五ゲームで雪乃が動けなくなったのは、一定期間内における体力の消耗が規定値を上回った事が原因である。その判定は、体力の現在値に対して所定の割合を基準に行われる。勝負を行う事が決まってからの二日間、奉仕部の部室をテニスコートに換装して行った練習と検証とによって、雪乃はそれを一割程度と見積もっていた。

 

 例えば、体力が80残っている状態で一時的な体力不足に陥るには、一定期間内に8程度の体力を消耗しなければならない。しかし、体力が30しか残っていない状態だと、たった3程度の体力消耗で一時的に動けなくなってしまうのである。当人の気力次第で再び動けるようになるまでの時間を短縮できるとは言え、それを0にできない以上は大きなリスクである。

 

 もしもラリーの途中で動けなくなってしまったら、それはポイントを連続で落とす可能性が高い事を意味する。もはや相手ペアは悠長に待つことなく、こちらが動けるようになる前に試合を続けるだろう。この世界でも真面目に部活動をしている葉山であれば、雪乃ほどの精度ではないにせよ、回復までのおおよその時間を把握していても不思議ではない。

 

 

 幸いな事にと言うべきか。この状況に至って三浦のサーブが冴え渡り、特に波乱もなく彼女らはサービスゲームをキープした。これでゲームカウント4-5。雪ノ下ペアが王手をかけている状況に変わりはなく、次のゲームが大一番となる。

 

 

***

 

 

 第十ゲーム。張り詰めた空気が漂う中、雪乃のサーブによってゲームは始まった。ここで勝負を決めるべく、彼女は全力に近いサーブを放つ。だが、この試合で何度も彼女のサーブを受けた相手側としても、ここで大人しくサービスエースを決められるわけにはいかない。最初は三浦が、次には葉山がサーブを打ち返し、連続してラリーに持ち込まれる展開になり、結果は痛み分けに終わった。15-15。

 

 少しだけ間を置いて、雪乃は三度目のサーブを打つ。同時に彼女は周囲にも聞こえる声で八幡に指示を送り、自らも前方へと走る。この試合で今までに見せた事のない雪乃の動きが目に入って、三浦は何とかボールを打ち返したものの簡単に雪乃に決められてしまった。これで30-15。

 

 また少し間を置いて、雪乃が四度目のサーブを打つその直前。あらかじめ打ち合わせをしていたのだろう。今までサイド寄りに位置していた八幡が中央に寄る。彼の横を雪乃のサーブが通り過ぎ、葉山はストレートにリターンを打つべきか、それともクロスに返すべきか一瞬だけ迷ってしまった。その結果、どっちつかずのリターンを八幡に決められて40-15。遂にマッチポイントを迎えた。しかし。

 

 

 ゆっくりと時間を使って打った五度目のサーブ。だが、雪乃はその直後に崩れ落ちてしまう。三浦がその隙を見逃すはずもなく、クロスに返したボールは八幡のラケットも届かず、リターンエースとなった。これで40-30だが、雪乃の消耗は激しい。残っている体力の量を考えると、以後はほんの数動作で、一時的な体力の枯渇と判定されかねない状態だ。

 

 立会人の判断により、雪乃がサーブを打てる状態に戻るまで時間を置く事は認められた。しかし、それほど長い時間ではない。ぜいぜいと息も絶え絶えの雪乃に三浦が話し掛ける。

 

 

「あんさ。何でそうまで試合に拘るんだし?正直、どっちが勝っても戸塚にとって悪い事にはなんないし。それに今思うと、あの教師に乗せられた気がするし」

 

「あら……。意外ね。貴女は試合に全力で勝ちに来るのだと思っていたわ」

 

「勝ちが見えたから言ってるんだし」

 

「なら、私の返事は一つよ。……勝てる勝負を放り出すわけにはいかないじゃない」

 

「ふーん。なら、叩き潰すだけだし」

 

「それはこちらのセリフだわ。大人しく、私()に敗北なさい」

 

 

 女王二人の会話が終わり、雪乃は立ち上がる。ペアを組む男子生徒と簡単な打ち合わせをして、彼女は所定の位置へと戻った。

 

 

***

 

 

 第十ゲームが始まって六度目となるサーブ。雪乃はサーブを打った後も立っており、サーブだけで体力が一時的に尽きる事はないようだ。八幡は後衛に近い位置まで下がり、雪乃が打ち返す機会を極力減らすべく縦横に動き回る。主に八幡と葉山によってラリーが行われ、それは観客席の少女を再び流血させたが、雪ノ下ペアにとっては苦しい状況である。ラリーを続けながら相手の隙を窺うという時点で、他に策は無いと吐露しているに等しいからだ。久しぶりに自分の前に転がってきたボールを雪乃に向けて力強く打ち返しながら、三浦が叫ぶ。

 

 

「あんさー。正直、今すっげー楽しーんだけ、ど!」

 

「それは、ご期待に沿えて何よりだわ、ねっ!」

 

「やっぱりあーし、戸塚の練習はともかく、他の部員の事なんかどうでもいい、し!」

 

「それでは、貴女は彼の依頼を放棄するのかし、ら!」

 

 

 どうやらラリーをしながら会話を続けたがっている三浦に合わせて、雪乃は少し力を抜いて、相手が打ち返しやすい位置にボールを返す。勝負が逼迫している状況なのに我ながらどうかとも思うが、この会話は勝負と同程度の重要性を持つのではないかという勘が働いたのだ。それに、三浦がこの隙に乗じるような事をするとも思えない。

 

 

「つーか、今も真面目に部活をやってる連中を優先で良くないし?」

 

「たとえ今は不参加でも、彼らが不真面目とは限らないわ」

 

「でも、それを証明するのは本人の行動だし」

 

「ええ、だから彼らが部活に復帰しやすいように、環境を整えておくべきではないかしら?」

 

「サボってる連中の為に、そこまでする必要があるし?」

 

「彼らが一人で己の弱さを乗り越えられないのなら、手を差し伸べる必要があるのではないかしら?」

 

 

 少しラリーを続けるのが面倒になって来たのだろう。三浦はボールを八幡に向けて打つと、葉山とラリーを続けろと身振りで指示して雪ノ下と向き合う。奔放な女王様のお相手は大変だと、下僕根性が身に付いてきた八幡であった。コート脇に互いに近付いて、彼女らは会場全てに聞かせるように対話を続ける。

 

 

「手を差し伸べるにも限度があるし。もともと嫌いなら強制しても無駄だし、もともと好きな事ならそのうち帰ってくるし」

 

「それは、貴女がテニスをやっていて楽しいと思っているからかしら?」

 

「その通りだし。正直、ここまで楽しめるとは思ってなかったし」

 

「それは光栄ね。でも、負けた後でもそう言えるのかしら?」

 

「勝つのはあーしだし」

 

 

 その時、ラリーを続けていた八幡に変化が起きた。雪ノ下を庇って人一倍動いていた彼にも、一時的な体力の枯渇が訪れたのだ。雪ノ下と比べると残っている体力の量が違うので頻繁に動けなくなることは無さそうだが、しかし何にせよこの試合で初めてデュースとなってしまった。

 

 

 マッチポイントを二度無駄にした事になるが、雪乃はそれをさほど悔いてはいなかった。そもそも、相手のサービスゲームをブレイクした時、勝つ為に可能な事は何でもやると決めて取った行動ではあったが、あれが勝利の要因となってしまうのは少し納得がいかない。あの一手を後悔する事はないが、あれで勝負が決まると面白くないと考える、複雑なお年頃の彼女であった。

 

 三浦を真正面から打ち破る事は、相手が積み上げた実力や己の体力の問題から今は不可能だが、それは将来リベンジすれば良い。それよりも彼女は、この試合に備えて練習し対策した事を発揮して、勝利を決定づけたいと思ったのである。そしてその上で、戸塚の依頼を完遂する事。そこまで行っての完全勝利だと彼女は考えていた。

 

 

 試合をそっちのけで舌戦を始めた二人の女子生徒に観客の多くは戸惑っていたが、勝負の行方が判らなくなって来た事と、そして対話の内容にも思うところがあったのだろう。三浦を応援する声が一段と高まる。その多くは、部活にきちんと参加している生徒達であった。そんな誰かが叫ぶ。

 

 

「この世界でも部活やってて楽しーんだって!だから、サボってないで参加しようぜ」

 

「サボってるわけじゃねーよ!でもなんか、行き辛くなったんだよ」

 

「いいから行ってみろよ。それが嫌なら活発な部活を見学に行ってみろって。サッカー部とか、最近すげー盛り上がってるぞ」

 

 

 そもそも、この問題は戸塚だけの問題ではなく、多くの部活に共通した問題である。そして観客の中には、部活に参加する者しない者に関係なく、いわゆる当事者が多く含まれていた。それぞれを代表するような本音のやり取りが観客席で期せずして起こり、そしてその発言によってコート内の一人の選手が脚光を浴びる事になる。

 

 

「……ああ。確かに嬉しい事に、うちのサッカー部は最近かなり盛り上がってきたね。今も一年の連中はこの試合を観戦せず練習してるらしいし。部員のみんなが参加してくれるから助かってるよ」

 

 

 テニスの試合をしていたはずなのに変な展開になってしまって戸惑う葉山だが、それでも彼は求められている役割を放棄する事はない。観客席の名もなき生徒に向けて返事を返したところ、聞き覚えのある声が発言を始めた。

 

 

「葉山、柔道部の城山だ。……少し情けない事を言うが、それはサッカー部が強いから上手くいっているだけじゃないのか?俺たちみたいな弱小クラブでも、同じ事ができると思うか?」

 

 

 それは特に詰問という感じの口調ではない。自分にはどうしても解けない素朴な、しかし切実な疑問を、葉山に向けて投げ掛けたに過ぎない。

 

 

「それは……。俺には分からない。俺にできるのは、参加してくれる部員達の期待に応えて、練習メニューを工夫したり率先して練習に参加する事ぐらいだ」

 

「そうか……。やはり、参加してくれないと話にならんのだな」

 

「それは違うわ」

 

 

 良く通る声が、一言で観衆の意識を引きつける。雪乃は己に集中する視線をものともせず、冷静に話を始める。

 

 

「貴方たちが間違っているのは、『参加してもらう』という意識でいるからだと思うわ。もちろん強制は良くないのだけれど、部活に来ない生徒を『参加させる』ための行動を考えるべきではないかしら?」

 

「どういう事だ?」

 

「貴方たちも部活に来るよう説得したとは思うのだけれど。でも、本当に彼らを参加させたいのなら、例えば彼らの希望を汲む事で参加せざるを得ない状況に持ち込むとか、そうした主体的な取り組みをした方が良いと思うわ」

 

「そんな、半ば無理矢理に部活に引き入れるような事をして、上手く行くのか?」

 

「それは貴方たち次第ね。少なくとも、三浦さんのように貴方たち自身が楽しいと思っていないと、部活に参加させても長続きはしないでしょうね」

 

 

 自分にはどうでも良い事だと集中を高める事に専念していた三浦だが、自身の名前が出て来た事に驚く。それは観客たちも同様で、ざわめきが一段と大きくなった。

 

 

「この試合を観ている人達に問い掛けたいのだけれど、あなたたちはこの試合を観て、自分も体を動かしたいと思わないかしら?楽しそうにプレイしている三浦さんを見て、羨ましいと思わないのかしら?」

 

「……そうだな。正直に言って俺も、今すぐ柔道をしたいと思ってうずうずしている部分はあるな」

 

「なら、問題は無いじゃない。自分が嫌な事を他人に強制するのは良くないけれど、自分が楽しいと思う事に他人を誘うのは、それほど悪い事ではないと思うわ。……ちなみに、戸塚くんはどうかしら?」

 

「うん。ぼくも今すぐにでもテニスがしたいと思ってるよ。できれば、部員のみんなと一緒に」

 

「あのな、戸塚。お前って、ちゃんと部員に練習に参加して欲しいって頼んだのか?」

 

 

 戸塚の可愛さのあまり、思わず口を挟んでしまった八幡であった。怪訝そうな顔をする雪ノ下の視線を何とかやり過ごして、彼は戸塚と話を続ける。

 

 

「ぼく、他の人にお願いするのが苦手だから……。みんなすぐ顔を赤くして逃げちゃうから、ちゃんと説得した事って実はないんだ」

 

「なら簡単だ。ちゃんと真正面から『部活に参加してくれ』ってお願いしてみろ。戸塚にそこまで言われて、断れる奴が居るとは思えねーよ」

 

「うん、分かった。あのビラみたいな可愛い感じにはできないと思うけど、男の子らしく真剣にお願いしてみるね」

 

 

 男らしく潔くお願いする戸塚の姿が全く想像できない一同ではあったが、どうやら図らずして彼の依頼は片付いた模様である。練習方法を巡る対立もそれほど根が深かったわけではなく、試合の結果がどうあれ妥協点は見出せるだろう。男らしさって一体どんなことだろう?と分からなくなって来た観客たちは各自で正気に戻ってもらうとして、後は勝負を決するだけである。

 

 

「さて。随分と回復する時間をもらった事だし、このゲームは貴女たちのブレイク扱いで良いわ」

 

「は?何を言い出すし」

 

「私達のブレイクも、この世界のシステムを利用した不意打ちみたいなものだったし。これでお互いに貸し借りなしにしたいのだけれど」

 

「別に貸しがあるとは思ってないし。でも、それで満足すんならあーしは別にどっちでもいいから、早く試合を再開するし」

 

「あら。テニスをする楽しさにかまけていると、勝負に負けてしまうわよ?」

 

「雪ノ下。そういう話なら、昼休みも残り時間が少なくなって来たし、6-6は引き分け扱いでどうだろう?つまり、どういう展開になっても残り二ゲームで終了だ」

 

 

 盛り上がっている二人の女王に立会人が口を挟む。優美子としてはこのまま延々とテニスを続けたい気分ではあったが、午後の授業の事を言われると反論できない。雪乃にも特に異論はなく、こうして彼らのテニス対決は残り二ゲームの勝負となった。

 

 

***

 

 

 第十一ゲーム。葉山のサーブで試合が再開するが、この試合を通して何かコツを掴んだのか、八幡はそれを見事に打ち返す。リターンエース。先程の戸塚への助言といい、雪ノ下の下僕としか認識していなかったが奴は何者だと、観客からはそんな戸惑いの声が挙がっていた。

 

 ところで、ここまで雪乃への歓声は三浦や葉山へのそれと引けを取らない量だったのだが、後者の二人と違って気軽に名前を呼びにくい雰囲気ゆえに、言葉にならない歓声が主だった。しかし、観客席には、人知れず世論を操作する謎の男が存在したのである。

 

 

「かの御仁、雪ノ下雪乃嬢の名前を呼び捨てにできる、千載一遇の機会であるぞ。者ども、一層奮励努力せよ!」

 

 

 何やら芝居がかった発言に促されて、観客席のあちらこちらから雪乃コールが巻き起こる。それに対抗するかのように三浦コールも、そして特別席を発端にHA・YA・TOコールも盛り上がりを見せる。観客の興奮は最高潮に達し、そして八幡への関心は即座に忘れられたのであった。彼が材木座に感謝をしたのか恨んだのか、おそらくは「うざい」と思ったのが正解なのだろう。

 

 

 ここに来て、雪ノ下ペアの役割分担は明確になった。雪乃がフォローして八幡が決める。全ての指示は雪乃が出し、時には相手の動きを先読みして八幡を適切に動かす。三浦ペアに弱点があるとすれば、それは彼女らがダブルスに精通していない事である。三浦は中学時代にシングルスに専念して、ダブルスの知識を得る時間があるならシングルスの研究をしたいとまで思って過ごしてきた。勝負が決まってからも、ダブルスとしての練習よりも各々の技量を磨く事が主だったのである。

 

 雪乃の指示に従って、前衛と後衛が連動して相手の隙を作る。時に陣形を大きく変化させ、時にはオーソドックスに相手のサーブを受け止める。奉仕部の部室で二日間に亘って行われた練習の成果を存分に発揮して、二人はこのゲームのブレイクを果たした。ゲームカウント5-6。次はいよいよ最終ゲームである。しかし、雪乃には再び疲労の色が出始めていた。

 

 

***

 

 

 最終の第十二ゲーム。たとえ勝ちはなくなったとしても、大人しく負けを認める気などさらさらない三浦と葉山は、全力で雪ノ下ペアの前に立ち塞がる。このゲームをブレイクすれば、試合は引き分けで終われるのだ。

 

 八幡のサーブを葉山が返し、ボールは雪乃へと向かう。もうこれ以上、試合中に疲労困憊に陥るわけにはいかない彼女は、手加減をして打ち返すのがやっとだった。もはや八幡に指示を出せるほどの余裕も無い。チャンスボールを三浦が綺麗に決めて、0-15。

 

 

 ここに至って、八幡は覚悟を決める。前もって打ち合わせをしていた通りではあったが、正直ここまで追い込まれるとは予想していなかった。雪ノ下に合図を送り了承を得た事で、彼は自分が主役として振る舞うという、最後の手を打つのであった。

 

 勝負が決まった際の取り決めで、お互いの練習時間は昼休みと放課後に限定された。だが、体を動かす練習はできなくとも、他の時間にやれる事はある。それはテニスの知識を蓄える事であった。八幡はこの二日間、ぼっちとして過ごす時間を全て、過去のダブルスの試合を動画で観戦する事と、図書室にあったテニスの戦術書を読破する事に費やしたのだ。目標は、いざという時に雪ノ下に指示を出せる域である。その成果が今、試される。

 

 

 少しだけ時間を置いて、再び八幡がサーブを放ち、それを三浦が打ち返す。しかしそれは、八幡がサーブの前に雪ノ下に指示していた通りの方向だった。最小限の動きで雪乃が確実に決めて、15-15。

 

 八幡の三度目のサーブを葉山が打ち返す。彼ら二人のラリーという特別席の少女を興奮させ続けた展開は、あまり目立った動きをしていなかった前衛が突然動いた事で呆気なく途切れる。雪ノ下に指示を出しながら、葉山に勝負を誘うようなボールを八幡は打つ。それを正面から打ち返した瞬間、葉山の視界は雪乃の動きを捉えた。必死にラケットを伸ばす三浦も届かず、これで30-15。

 

 

 いつしか歓声は止み、辺りには不自然なまでの静けさが漂っていた。もうすぐ昼休みが終わる。コートにボールを打ち付けながら、八幡はただ耳を澄ませて、その音を聞き漏らさぬよう集中する。ひゅうっ、という音を耳にした瞬間、彼は力を抜いて、ゆるやかなサーブを打った。

 

 ふわふわと浮かび上がる打球に一瞬戸惑った相手ペアだが、このチャンスを逃す手はないと三浦が果敢に前進する。地面に着いて自分に向かってバウンドして来るボールにラケットを合わせる三浦を見て、彼らがポイントを得るのは確定的かと観客の誰もが思った。

 

 しかしその時、一陣の風が吹いた。この特殊な潮風の事を、八幡以外の誰が知るだろう。ぼっちとして昼休みに独り外で食事を摂る事を余儀なくされ、そんな彼だからこそ気付けたこの風の事を。風に煽られたボールは三浦から離れていくが、彼女にも意地がある。こんなサーブを決められるわけにはいかない。

 

 だがその時、またしても風が吹いた。この風が二度吹く事など、一体誰が気付けるというのだろう。八幡が過ごした孤独で静謐な時間こそが、それを可能にしたのである。ボールは三浦のラケットから逃げて、そしてコートの隅へと転がって行った。40-15。マッチポイントである。

 

 

「そういえば、聞いた事がある……。風を意のままに操る伝説の技。その名も『風を継ぐ者・風精悪戯(オイレン・シルフィード)』!!」

 

 

 観客席からの謎の声に、辺り一面はお祭り騒ぎとなる。「風精悪戯(オイレン・シルフィード)?」「風精悪戯(オイレン・シルフィード)!」と盛り上がる観客を尻目に、次のサーブへと集中する八幡。次第に歓声は収まって行き、辺りは再び静けさが支配した。

 

 

 八幡は知っている。昼休みが始まった時には海からの潮風が強く吹いているが、昼休みが終わる頃には、その風は陸から海へと方向を変える事を。先程の小さな風を先駆けにして、急に強い風が吹き始める事を。彼はそれを最後の手段として活かすべく、奉仕部の部室で追い風に煽られる状況でのサーブを練習していたのである。今こそ、それを披露する時だ。

 

 しかし、八幡の精神力は既に限界であった。ずっと日陰者だった彼が、こんな大舞台で勝負を決める一打を打つのである。ワールドカップの決勝で最後のPKに向かう選手もかくやと思われるほどの重圧が、彼の内心に伸し掛かる。しきりにボールを付いて落ち着こうとするものの、彼の手は震えたままだ。そんな彼の耳に、最近聞き慣れた声が届く。

 

 

「ヒッキー!頑張れー!」

「……比企谷くん。屍は拾ってあげるから安心なさい」

 

 

 声を上げた二人の少女と順に視線を合わせて、彼は平静に戻る。もはや彼の耳には何も聞こえない。付近の静寂に自らも同化したような心持ちで、彼は静かに風を感じた。そしてそれに合わせて、自然な動きでサーブを開始する。自身の力を込めた打球を、背後からの風に乗せる。ただそれだけを考えて。

 

 流れるような動作でサーブが放たれると同時に、強烈な向かい風が巻き起こった。葉山は思わず目を瞑ってしまうが、仮に目を開けていたとしてもこのサーブには反応できなかっただろう。凄まじい速さのサーブが彼の横を通り抜け、そして去って行った。サービスエース。

 

 

「あ、あれは……『空駆けし破壊神・隕鉄滅殺(メテオストライク)』!!」

 

 

 またもや観客席から妙な声が響き渡り、辺りは絶叫の渦に巻き込まれた。すぐに雪ノ下を讃える雪乃コールが始まって、観客の意識は試合を決めた男子生徒から逸れてしまう。しかし、この試合を決めたのは、紛れもなく彼なのだ。

 

 

「ゲームカウント5-7で、雪ノ下ペアの勝利です」

 

 

 立会人によって静かにさせられた観客達は、主審の宣言がなされると同時に再び盛り上がる。全てを出し尽くした八幡は、それを他人事のようにぼんやりと眺めるのであった。

 




次回の木曜日の更新で、原作一巻分のお話は終了です。
一旦「連載完結」として、少しお休みを頂いてから、再びこの作品を定期的に更新したいと考えています。
宜しければ、二巻以降もお付き合い頂けますと嬉しいです。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
テレビの表記に従って、ポイント表示でも常に、試合の最初にサーブを行った側を先にして書いたのですが。先程ウィンブルドンの男子シングルス決勝のアナウンスを聞いていて、やはりサーブ側を先に書くべきか悩んでいます。もし詳しい方が居られましたら、教えて頂けると嬉しいです。(7/11)→ポイント表示を、サーブ側を先に書くよう変更しました。(8/13)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,9/20)
誤字報告を頂いて、自力→地力に修正しました。ありがとうございます!(2017/10/16)

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