俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ。

 部室での話し合いの果てに、ついに八幡はずっと欲しいと思っていたものを言語化して二人に伝えた。
 一方、その発言の直前に、突如現れた年下の二人から思わず目を逸らしてしまった雪ノ下は……。



06.ずっと探していた何かに彼女はようやく手を伸ばす。

 たぶんここには居ないだろうなと思いつつ。

 すぐ横に控える小学生にも聞こえるように、ことさら明るく「えいっ」と声を出しながらドアの引手に力を込めると、それは思いのほか軽く動いて。

 

 部室に三人が揃っているのが目に入った。

 

「な~んだ、やっぱり居るじゃ……」

 

 ふと、いつもと配置が違うと思い至り。

 そして名状しがたい重々しい何かによって、わたしの言葉は遮られてしまった。

 

 後から思えば、これは運命(さだめ)としか言い様のないものだったのだろう。

 

「……俺はっ!」

 

 いつもは飄々(ひょうひょう)としていて、口を開けばろくでもない事しか言わないような人なのに。

 言葉の意味をよくよく考えて、それでようやく真意が垣間見えるような、そんな面倒くささが持ち味のせんぱいなのに。

 

 聞こえてきたのは、とても切羽詰まった、男の人らしからぬ涙声で。

 こちらの事なんて、まったく気付いていない様子で。

 

 実際には四人の耳目を集めているのに、せんぱいは目の前の二人だけに向けて。

 さっきの声はなんだったのかって言いたくなるような冷静で落ち着いた話しかたで。

 

「俺は、本物が欲しい」

 

 だから、一色いろはは彼の背中越しに、この発言を耳にした。

 

 

***

 

 

 しんと静まり返った部室の中を、一陣の風が吹き抜ける。

 

 ふわりと舞い上がった髪を押さえながら。

 窓から入って廊下へと去った空気の流れによって、まるで自分たち二人と彼が、彼と新たに登場した二人が分断されてしまったかのような印象を受けた。

 

 そんな幻想を打ち消すために軽く首を左右に振って、そして雪ノ下雪乃は左隣の男を眺める。

 言うべき言葉は口にし終えて、これ以上はもう何も出て来ないと、そんな様子が窺えた。

 

「貴方が言う本物って……なに?」

 

 何かを言わなければと、そう思った時にはもう口が動いていた。

 そんな自分の言動にも困惑させられたが、それ以上に。

 彼の発言が私には理解できなかった。

 

 彼と私が求めているものは同じだと、そう思っていたのに。

 私は「偽物なんて欲しくはない」と望み、そして彼は「本物が欲しい」と望んだ。

 

 この二つは近いようでいて、その実は途轍もなく遠い。

 その距離こそが、今の私と彼の差を物語っている。

 

 彼に劣り、そして彼女にも劣る、私。

 年下の二人の女の子からも視線を逸らしてしまった私。

 そんな私は今、さっきの発言にすがりつくような気配が現れていなかったかを気にしている。

 

 そんなふうに体裁を取り繕ったところで、今更どうしようもないというのに。

 

「正直に言うと、俺にも分からん……が」

 

 いったん言葉を切ったものの、話を続ける意図が見て取れたので口は挟まなかった。

 もっとも、何を言えば良いのかわからなかったのも確かだけれど。

 

「……そうだな。例えば、何も言わなくても解り合えるような関係って、本物っぽく思えるよな。でも、そういうのを望んでるわけじゃねーんだわ。なんでかっつーと、俺は今でもやっぱり、言われたことを疑ってしまうから。だから、言われてもそんな感じなのに言われなくても解るなんて、少なくとも俺には無理だと思うのな」

 

 この時点で既に、私とは考えかたが違っていたのだ。

 油断のならない大人に囲まれて過ごしてきた私は、他人の言葉を疑うのなんて当たり前で、だからこそ疑わずに済むような関係に憧れた。

 

 なのにどうして貴方は、他人の嘘や嘲笑によって人一倍傷付いて来たはずの貴方は、その疑いをやめない先に本物があるって思えるの?

 

 

 知りたくて尋ねたくてたまらないのに、どうしてもその問いを口に出せない私の右隣から、落ち着いた声が耳に届いた。

 

「……うん。続けて?」

 

 たちまち、ほっとしたような空気が部屋中に広がった。

 肩から二の腕のあたりが少し(こわ)ばっているのを自覚して力を抜く。

 

 入り口でずっと棒立ちだった二人も、話の邪魔をするのは良くないと思ったのかその場から動きはしなかったけれど、ドアの引手から指を離して、あるいは口元の辺りまで持ち上げていた両手をゆっくり下ろして、話を聴く姿勢に移ったのが見て取れた。

 

「ああ……そうだな。もしかしたら、俺が言葉足らずなことしか言わなくても、解ってくれる相手ってのは居るのかもなって」

 

 そこで言葉を切った彼はほんの少しだけ躊躇していたけれど、結局は覚悟を決めて続きを口にした。

 

「まあ、お前らとか小町とか……後はあれかね、どっかの後輩とかも変なところで鋭いからな。でも、そういうのに甘え出したら、俺は絶対にダメになる自信があるから……。だから、俺はそれよりも先に、せめて同時に、解りたいと思うんだわ」

 

 駄目になりたくないから、という理由はすとんと腑に落ちた。

 それに行動の目的も筋が通っている。

 ……私とは違って。

 

 私も、()()状態になるのを避けなければならなくて。

 けれども私は理想に憧れるだけで、つまり結果しか見えてなくて。

 疑わなくても済むような関係をどうやって築けば良いのか、今もって何もわかっていない。

 

 私が他人を疑わなければ、他人も私を疑わないでいてくれる。

 そんなわけはないと解っているのに、他のやり方がわからないから、私は誰よりも正しくあろうとした。

 

 でも本当は、そうした姿勢を褒められるたびに、私は声を大にして言いたかったのだ。

 こんなの、我欲から出たまやかしに過ぎないのにって。

 

 とはいえ私は、まやかしがまやかしで無くなる日が来るとも思っていた。

 自分という存在を確たるものにできさえすれば、それで我欲が無くなれば、まやかしは真実に変わるはずだと。

 

 これも結局は、同じまちがいを繰り返していたに過ぎないのに。

 

 姉とは違う自分だけの何かを得ることと、()()()を救うこととの間には、何らの因果関係も無いと……ずっと昔から解っていたのに、私は自己の確立に邁進する以外のやり方を思い付けなかった。

 そして今なお、私ならではの独自性を樹立できていない。

 

 それどころか……。

 

 

「あのね。ちょっとだけ気になったから……また脱線しちゃったらごめんね。えっと、ヒッキーがさ、あたしとゆきのんなら小町ちゃんみたいに解ってくれるって。もしかしたら、いろはちゃんも解ってくれるかもって。そう言ってくれたのは嬉しいんだけどね」

 

 頭の中で続けようとした言葉を、肺の中の空気と一緒に少しずつ身体の外へと吐き出した。

 決して誰にも気付かれないように、普段と寸分変わらぬペースで呼吸を続ける。

 

 それにしても、危ないところを助けられたのはこれで何度目だろう。

 私の心理状態に気付いているのかいないのか、それをまるで悟らせないゆったりとした笑顔をこちらに向けて、続けて入り口にもちらりと視線を送ってから少し間を取った。

 

 そして程なくして、由比ヶ浜は再び話を続ける。

 

「その、解ってくれる中にはさ、さいちゃんとか中二とかって……?」

 

 左隣から「ああ」とも「おう」とも受け取れるような声が聞こえてきて、それが妙に可笑しかった。

 本人には答え難そうだなと思ったし、彼女へのお礼という気持ちもあったので口を開く。

 

「由比ヶ浜さんでも()()()()()が解らないことがあるのね。何と言えば伝わりやすいかしら……そうね。貴女にとっての()()()()と、三浦さんや海老名さんとの違いと同じではないかと、私は思うのだけど?」

 

 たちまち右隣から先程と似た声が耳に届いたので、私は手で口元を覆い隠した。可笑しくて漏れてしまった息と、不安から出た安堵の息を悟られないように。

 そのまま左側に視線を送ると、こちらも気恥ずかしそうな顔つきだ。

 

「お前……絶対さっきの俺らの軽口を根に持ってただろ。まあ、そういう()()()()()()じゃないけどな」

「はい、ストップ。……ごめんね。その手のやり取りは後回しにして話を進めるね」

 

 自分たち二人だけではなく、入り口に立ったままの二人にも気を配って、謝りの一言を入れているのがさすがだなと思った。

 

 左隣の朴念仁は、新たな二人の登場にはまるで気が付いていないみたいだけれど。

 それでも彼女が話を続けるのは、あの二人も私たちにとっては身内のようなものだと考えているからなのだろう。

 

 

「えっと……ヒッキーはさ、何も言わなくても解り合えるような関係は、無理だって思ってて。でも、解ってくれるかもしれないあたしたちのことを、解ってもらうよりも先に、解りたいんだよね。だから話がしたいって、そんな感じで合ってる?」

 

 少し複雑な話になっているからか、途中からは短く区切って一つ一つ確認しながら問い掛けていた。

 それらに適宜(うなず)きを返していた彼が口を開く。

 

「そうだな。俺はやっぱり、言われたことをどうしても疑ってしまうから、だからいっぱい話して欲しくて。それでも俺は性懲りもなく疑い続けると思うんだけどな。けど疑って疑って、話してもらったそばから疑うのを繰り返したその先に、ほんのちょっとだけ解ったかもしれないぞって思えるような手応えっつーのかね。それを、得られるかもなって」

「んで、それすらもすぐに疑い始める気がするんだけど、それでもな。また同じ事を何度でも繰り返して、そうやって俺は解りたいと思う。あれだよな、解って欲しいわけじゃないとか、どこの中二病だって感じだけどな。でも、俺は解ってもらうよりは……それより先に、解りたいと思う」

 

 そう話す彼の声は、途中からは身近な誰かと重なって聞こえた。

 ……いいえ、誰かなんて誤魔化しても仕方の無いことだ。

 

 彼……比企谷八幡は、私にはないものを持っている。

 それは確かに、間違いなく、あの姉と同じで。

 

 そして私には、()()と同じ事はできない。

 

 

「その……ね。あたしもさ、同じようなことで昔けっこう悩んでたからさ。ヒッキーが言ってること、分かる気がするの」

「……みんなで居る時には、みんな仲良しって感じで楽しそうにしてるのにさ。人数が少なくなったら、居なくなった子たちを悪く言ったりして、実は好きじゃない、みたいなね。そういうの、あたしも居ないところでは言われてるんだろうなって思い始めたら、普段の何でもないようなやり取りにも、裏があるように思えて来てさ」

「あ、だからヒッキーが疑ったのとはちょっと違って、あたしは信じられないって感じだったんだけどさ。でも、どう考えても信じられないっていうような例外は、まああったんだけど、それ以外はね、頑張って信じてみようって。それで騙されてたって分かったら、その時にまた考えようって」

「そう思って過ごしてたら、不思議だよね。なんとなく、信じてもいい相手とそうじゃない相手が分かってきてさ。でもそれって、あたしが差別をしてるだけかもって思ったりもして。だから(おんな)じようにって思いながらみんなと過ごすんだけど、それだと、もっと仲良くなりたい人よりも、そうじゃない人と居る時間のほうが長くなるんだよね。でも今度は、そんなことを思ってるのがバレたらどうしようって、変におどおどしちゃったりさ」

「だからね、さっきヒッキーが言ってたじゃん。この部活が人間関係の原点だって。それ、実はあたしも同じなんだ。去年までとは違うあたしになれたのは、この部活のおかげ。それと、きっかけをくれた優美子のおかげかな。高二になって真っ先に、姫菜と一緒にあたしを誘ってくれたから。だから、変わりたいなって思って。だから、この部室で初めて……じゃないけど話すのって初めてだったもんね。あの時に、初めて二人をちゃんと見た気がするんだけどさ。『仲良くなりたい』って、『この二人なら信じられる』って、そう思った気持ちを大事にしたいなって」

「でもさ、あたしなんて実はそれだけなのにね。なんで、人間関係ならあたしに聞けって感じになっちゃったんだろ?」

 

 それは……と口を挟むのは、なぜだか気が引けた。

 ……いえ、それも欺瞞ね。

 だって、理由なんてもう判り切っているのだから。

 

 そんな私とは違って、目の辺りに泣き跡が残る彼は、彼女をまっすぐ見つめながら。

 

「それは、由比ヶ浜がずっと、他人を信じようとして頑張り続けて来たからだろが。積み重ねて来たものが他とは段違いだって、ちょっとは自覚して自信を持っても良いと思うぞ。つーか俺がやりたいと思ってることも、突き詰めればお前が過去にやって来たことと同じだからな。あんまぐだぐだ言ってると、お前のこと『せんぱ~い』とか呼ぶかもしれんぞ俺は」

 

「微妙に似てるのが……ってまあそれは後でいいや。それより……って、ゆきのん?」

 

 

 小首を傾げながら私を呼んでくれる彼女の声も、姉のそれと重なって聞こえた。

 だって、姉もずっと、他人を()()()()()()()頑張り続けて来たのだから。

 

 彼女……由比ヶ浜結衣も、私にはないものを持っている。

 それは確かに、間違いなく、あの姉と同じで。

 

 やはり私には、()()と同じ事はできない。

 

 私には……部員の二人と同じ事ができないし。

 私には……年下の二人と向き合えるだけのものも、実は、ない。

 

 なぜなら……。

 

「わかるものだと、ばかり……」

 

 思わず呟きが漏れてしまったので、慌てて口を閉じる。

 小さな小さな声だったので誰にも聞こえてはいないだろうし、私の雰囲気に戸惑ってはいても強いて行動に出ようとする人も居ないみたいだ。

 

 だから、もう少しだけ考え事を続けよう。

 

 私はやっぱり、わかるものだとばかり、思っていただけで。

 実際にわかったのは、とうに手遅れだったということだけ。

 

 ああ、それと。

 始まりの日が判明したことぐらいだろうか。

 

 つまり、こういうことだ。

 

『私は、比企谷くんと由比ヶ浜さんに、依存している』

 

 昔のことがあったから、それに警戒を怠ったつもりもなかったから、きっと大丈夫だと思っていた。

 ()()ならないための用心も対策も、既に()()を経験した私なら、わかるものだと思っていた。

 

 その対策を確認したのは、いつだっただろう。

 たしか文化祭の準備期間中に、くだらない連中が蠢動していたのを一掃しに行く直前だったと思う。

 

 一つは可能な限り余裕を持ち続けること。

 もう一つは頼るべき対象であっても「何もかも敵わない」とは思わないこと。

 

 けれど私はそのあと何度となく余裕を失ってしまったし。

 それに私は、個人に対しては気を付けていたのだけれど、「二人」に対しては無防備だった。

 

 彼の勧めで、そして彼女の助言もあって、文化祭の前に高校を休むという選択をしたあの日。

 あの日が、二人への依存の始まりだったのだ。

 

 そして選挙の結果が出た日にも、私はこう思っていた。

 

『彼と彼女が揃って勧めてくれたことに、間違いは、無い』

『つまり、二人に反対された時点で、私が立候補しても無駄だったのだ』

 

 これほどまでに二人を盲信して、それが自分ではわからないのだから。

 そして今も、どうしたら良いのか、まるでわからないのだから……重症だ。

 

 ただ、一つだけ。

 この二人に、そしてできれば年下の二人にも、こんな私を見られたくないという気持ちだけはわかるから。

 今の私の心からの声だとわかるから。

 

「私には……わからないわ」

 

 雪ノ下はそう言い残すと、そのまま逃げるようにして席を立った。

 

 

***

 

 

「えっ、ちょ、ゆきのん!?」

 

 その呼び掛けには小さな声で「ごめんなさい」と口にして、雪ノ下は廊下へと走り去ろうとした。

 けれども行く手を遮る者が一人。

 

「どこ行くんですか?」

 

 甘ったるく間延びさせる話しかたではなく底冷えすら感じさせるような声で、一色は部室の入り口から問い掛ける。

 

 至近距離で立ち止まって、背後から「え、一色?」という間の抜けた声が聞こえてくるのを(きっと戦々恐々として、目で確認できるまでに相当の時間が掛かるに違いない)微笑ましく思いながら、それでも雪ノ下の気持ちは変わらない。

 

「そこをどいて」

「イヤだって言ったら、どうします?」

 

 いつもなら、正々堂々と己が主張を述べるだろうに。

 口を半開きにしたものの続く言葉が出て来なくて。

 後輩を見つめる目にも力が入らなくて。

 

 口を閉じて先程とは逆の方向に目を逸らしてしまった雪ノ下の耳に、「はぁ」という聞こえよがしな溜息が届いた。

 それでも私は、誰も居ない廊下の先を、見るとはなしに見ることしかできない。

 

「いろはちゃん、お願い。ゆきのんを止めて!」

 

 背後からそんな声が聞こえたので、万事休すかと唇を噛もうとしたところ。

 目の前の後輩がすっと少しだけ横に動いて、再び視界に入ってきた。

 身体の正面には、通り抜けられるだけの空間が生まれる。

 

「逃げたいのなら、逃げてもいいですよ?」

 

 小馬鹿にしたような口調にも、何も言い返せないままに下を向く。

 

 そして逆側の視界の端に向けて、再び小さく「ごめんなさい」と呟いて。

 視線を床に落としたまま、雪ノ下は廊下へと飛び出していった。

 

 

***

 

 

 はぁと大きく息を吐きながら、のそのそと背中を部室のほうへと向けて元の立ち位置に戻った。

 視線の先からぴくっと反応があったので、溜息を吐いた()()があったと思いつつ。

 階段に足を向けた雪ノ下を見送って、そして一色はくるりと回れ右をした。

 

「いろはちゃん……どうして?」

「それよりも、追い掛けなくていいんですか?」

 

 自分で逃がしておきながら、こんなことを口にするのはどうかと思う。

 でも、入学式から始まって今まで何度となくお世話になってきた、わたしにとっては恩人とも言えるこの先輩が相手でも……いや、この先輩だからこそ、わたしが怒ってるってことぐらいは解って欲しい。

 

「うん……だね。じゃあヒッキー、……ヒッキー?」

 

 そう考えたそばから伝わっているのは、やっぱりさすがだなと思う。

 でも、こちらからは表情が見えないんだけど、せんぱいがどうかしたのだろうか?

 

 きょとんとしてしまった一色の耳に、重苦しい声が途切れ途切れに聞こえて来た。

 

「……すまん。せっかく雪ノ下から、『本物って、なに?』って尋ねてくれたのに……結局俺は、まともな答えを返せなかったな」

「とにかく話がしたいって言っても、興味を引かれない話題だったら退屈なだけだし、時間を無駄にするだけだってのは、解ってたんだが」

「けど、さっき雪ノ下が『私は……』って言いかけた時に、もしかしたら通じるかもって、俺と同じ気持ちなのかもって、思っちまってな」

「でも、それは俺の思い込みに過ぎなくて、雪ノ下には通じてなくて……。こうまではっきりと愛想を尽かされた以上は、もう諦めるしか」

 

「なんでよっ!?」

 

 その剣幕に、こちらまでびくっと身をすくめてしまった。

 

 目の前の机をばんと叩きながら身を乗り出して。

 もともと華奢(きゃしゃ)な体つきなのに、あんなにも大きな声を出して。

 せんぱいを見つめる両目からは、糸のように細い線がきらりと垂れていて。

 

「なんで、ヒッキーが、そんなこと言うの?」

「今のゆきのんの気持ち、ヒッキーなら、ヒッキーだけは、絶対に解るはずじゃん」

「だからさ、思い出してよ。嵐山の竹林とか、文化祭の一日目とか……職場見学の時とかさ。あの時のヒッキーの気持ちを、ちゃんと思い出してよ」

「……思い出した?」

「うん、そういうこと。だってさ、ヒッキーだってよく逃げてたじゃん。だから逃げるのにも色々あるって、ヒッキーなら知ってるでしょ。考えて考えて、考えて考え続けて、でも他にどうしようもなくて、逃げるしかないって時があるの、ヒッキーが一番よく知ってるはずだし!」

 

 途中までは冷静な話しかただったのに、最後はまた感情的に訴えている。

 

 どうしてこの人たちは、他人のことでこれほどまでに熱くなれるのだろうか。

 もしかしてわたしにも、それができないにしてもせめてこの輪の中に、入ることはできるだろうか。

 

 でも、そのためには……わたしが正しいと思うことを、曲げるわけにはいかない。

 本当にこれが、わたしがずっと探していたものの答えなら……なおさら曲げられない。

 

 

「由比ヶ浜……ありがとな。じゃあ、雪ノ下を追い掛けるぞ?」

「うん!」

 

 だから、そう言って立ち上がった二人に向けて、わたしは。

 

「なんで、る……一色?」

 

 こちらを向いたせんぱいが気を取られそうになった小学生を廊下に残して。

 部室へと、二人へと一歩を踏み出したわたしは、後ろ手にドアを勢いよく閉めて。

 反動でまた開いちゃったので、結局ほとんど状況は変わってないんだけど。

 それでも、わたしの意図は二人に届いたみたいで。

 

「いろはちゃん……」

「結衣先輩の気持ちは解るんですけどね。せんぱいは、どうして雪ノ下先輩を追い掛けるんですか?」

「どうして、って……なんでお前が?」

 

 せんぱいだけが解っていないようなので、また溜息をわざとらしく盛大に吐いて。

 それからわたしは語り始める。

 

「わたしがそんなことを気にするなんて、変かもしれないですね。でも、わかんないんですよ。雪ノ下先輩をわざわざ追い掛ける理由が、わたしにはわかんないです」

「だって、自分から逃げたんだから、放っておけばいいじゃないですか。雪ノ下先輩なら馬鹿なことはしないと思いますし、どうせそのうち戻って来ますよ。それからまた、さっきの話を続けたらいいじゃないですか」

「結衣先輩が追い掛ける理由は解りますし、その邪魔をしようとは思ってないんですけどね。でもせんぱいは……さっき『愛想を尽かされた』って言ってましたけど、結衣先輩が言ってたとおり、あれって逃げただけですよ。せんぱいが、あの捻くれ者のせんぱいが、あんなにも真剣に欲しいもののことを伝えたのに……逃げられたんですよ?」

 

 わたしの言葉を聞いたせんぱいは、目を丸くしながら。

 

「ちょ、おま……聞いて?」

「それはもうバッチリと」

「マジか……忘れてくれ」

「忘れませんよ。……忘れられません」

 

 誰にも聞こえないような小声で付け足して、そしてわたしは改めてせんぱいに視線を向ける。

 

「だから、結衣先輩に付き添うだけって理由なら、わたしが言い訳を用意してあげてもいいですよ。わたしに捕まったから追い掛けることができなかったって。それと、雪ノ下先輩が戻ってくるまで一緒にここで待っててあげますけど……それならどうですか?」

 

 わたしの提案に絶句しているせんぱいのすぐ横から、落ち着いた声が聞こえて来る。

 

「いろはちゃんは、ヒッキーのために言ってくれてるんだよね。けどあたしはさ、二人とも大事だからさ」

「まあ、あれですけどね。わたしも雪ノ下先輩のこと、けっこう好きですよ。そうじゃなかったら通してないですし。でも……たしか選挙の時にも言いましたよね。わたしは、才能や努力が悪者にされるのって、嫌なんですよ」

 

 さっき「そこをどいて」と言われた時よりもはるかに強く、嫌悪の気持ちが出てしまった。

 でも、それがわたしの本心だから。

 わたしが正しいと思うことだから、これだけは絶対に曲げられない。

 

「だから、頑張ってる人は応援したいなって思いますし、才能を持て余してる人は勿体ないなって思います。でも、どっちかに肩入れするなら、そりゃあ頑張って努力してるほうですよね~?」

「だからいろはちゃんは、頑張って頑張ってあんなふうに言葉にしてくれたヒッキーを、ねぎらってあげたいんだよね。うん、その気持ちはすっごく解るんだけどさ。でもあたしは、今のゆきのんを、独りにしておきたくはないからさ」

「そこは平行線ですね。っていうか結衣先輩も結論は同じですよね?」

「だね。だからヒッキー、あたしたちはこんな感じだからさ。ゆきのんのところに一緒に行くか行かないか、ヒッキーが決めて?」

 

 その言葉には脅しや強制や媚の色はもちろん、哀願の気配もまるで感じられなくて。

 ごく自然に、本当にどっちでもいいような些細な選択を求めているような口ぶりで。

 

 わたしとは違ったやりかたで男の人の背中を押せる人なんだなって、改めて思った。

 

「……決まってるだろ。俺はさっき、雪ノ下を追い掛けるって言ったはずだぞ」

「どうしてですか?」

 

 間髪入れずに問い掛けると、少しだけ躊躇していたけれどすぐに答えが返ってきた。

 

「……雪ノ下には借りがあるからな」

「借り、ですか?」

「ああ。連れ戻されたり(由比ヶ浜の誕生日とか)監視下に置かれたり(文化祭の二日目とか)、挙げ句の果てには投げ飛ばされたから(修学旅行の三日目とか)な。やり返すには絶好の機会だろ?」

 

 そう言ってにやっと笑ったせんぱいは、物語の主人公にするには似合ってないにも程があって。

 でも物語の悪役にするには、まぁまぁいい線を行っている気もして。

 

「じゃあせんぱい。いろはちゃんに何か言うことがありますよね?」

「ああ。雪ノ下を追い掛けるから、そこを通して……」

「却下です」

「えっ、ちょ、おま……もしかして、あれか。えっと、お前ってさっきも言ってたけど、雪ノ下のこと……」

「ちょっと喋りすぎですよ、せんぱい。あんまり変なことを言うようだと、生徒会長の権限で鍵かけちゃいますよ?」

「すまん、今のは俺が悪かった。だから……一色も一緒に来てくれるか?」

「そうまで言われたら仕方ないですね~。でも……次からは、仲間外れは無しですよ?」

 

 こうまで言っても、わたしが内心では怒ってるって、この人には伝わらないだろうなと思った。

 そんなわたしの気持ちを察して「たはは」と笑う恩人と、やるせない感情を共有していると。

 

 

「あのっ……あのね。雪乃さんを追いかけるの、私もいっしょに、連れてってほしいの」

 

 ここまでは目の前の展開に圧倒されるばかりで、一言も口を挟めなかった小学生……鶴見留美が、初めて口を開いた。

 

「てか、なんでる……鶴見が」

「留美」

「すまん。なんで留美が、ここにいるんだ?」

「そんなの……雪乃さんと八幡に相談があったからに決まってるじゃん」

「相談?」

「あ、えっと、依頼だったっけ?」

「いや、どっちでも良いんだけどな。あと外野うるさい」

 

 他の二人が「小学生とはいえ、せんぱいが女の子を呼び捨て?」「え、ヒッキーも呼び捨てにされてたっけ?」「最初にせんぱいが言い直したのも怪しいですけど、言われてすぐに再度訂正したのってもう完全に、ぎるてぃ~ですよね」「ゆきのんには『さん』付けなのになあ」などとごそごそ言い合っているので、軽く注意を促したつもりが。

 

「だってさ、留美ちゃんが下の名前で呼んで欲しいって言ってたのはあたしも知ってるけどさ。けど、ヒッキーまで名前を呼び捨てにされる必要なくない?」

「それに、雪ノ下先輩もたしか『留美さん』呼びでしたよね~。なんでせんぱいに限って呼び捨てさせるのか、わたしにも教えてほしいな~って」

 

 完全に藪蛇だった上に自分ではどうすることもできそうにないので、縋るような目つきで小学生を見つめていると。

 

「私が呼び捨てしてほしいから、私が八幡って呼びたいからって理由じゃ、だめですか?」

「あ~、小学生でも強い娘は強いんだよね~」

「いろはちゃんは強かったかもだけど、あたしは違うからね」

「ちょ、結衣先輩。ここで裏切らないで下さいよ~」

「だってさっきからいろはちゃんに足止めされてたわけだしさ」

 

 今度は内紛が始まったので、目の濁りを強くしながら口を開く。

 

「ちょっとお前ら落ち着け。つか由比ヶ浜が今言ったとおり、早く雪ノ下を追い掛けないといけないからな。だから……あー、でも急かす気は無いからな。留美の相談内容を、簡単で良いから教えてくれるか?」

「うん。……えっとね」

 

 そう言われて端的に話をまとめられる辺りに、留美の地頭の良さが現れてるなと八幡は思った。

 

 かつて留美と仲良くしていた、そして留美が孤立していた時には人一倍厳しく接してきた女の子が、今も孤高を保ったまま留美を近寄らせてくれないらしい。

 

 厳しい言葉は、留美がハブられる期間が少しでも短くなるようにと考えてのことで。

 けれど自分でも気付かぬうちに、留美に厳しくすること自体がいつしか目的になっていて。

 そうした過ちを今でも許せないままに、その女の子は夏休みからずっと自罰的な日々を送っているとのこと。

 

「自責の念が強すぎるのも問題だよなあ……」

 

 思わずそんなことを口にすると、留美は一瞬だけ奥歯を噛みしめるような顔つきになった。

 

 きっと留美は、自分も自責の念が強い性格だと、そんなことを考えたのだろう。

 そうした聡さが留美本人を苦しめることになるのだから、さっきの一色ではないけれど才能というものは難しいなと八幡は思う。

 

「でね、あの時に『逃げることをためらわないで欲しい』って教えてもらったの、今でも助かってるんだけどね。けど、じゃあ、逃げられたほうはどうしたらいいのかなって、わかんなくて。ずっと考えてるんだけど、ぜんぜんわからなくて……もうすぐ年が変わって中学生になっちゃうし、でも私、このままお別れしたくないって、思ってて」

「だから、いろはさんの顔は覚えてたから、無理を言って連れてきてもらったの」

 

 どこで一色に会ったのか等々、細かな疑問はいくつか残っているけれど、それらは後回しで良いと判断して。

 

「じゃあ、あれだな。今から俺らが、雪ノ下に逃げられた俺らが追い掛けるから……けど正直、参考になるのかは分からんけどな。でも、留美も一緒に来てくれるか?」

「うん、行く。いっしょに行って、私にできることがあれば何でもするから、何でも言って?」

 

 安易に「何でも」なんて言うと後で困るぞと、忠告を与えたいところだけど。

 下手なことを言えば残る二人に何を言われるか分かったものではないので、八幡は鷹揚に頷くだけに止めた。

 

 そして改めて、三人と順に視線を合わせて。

 

「じゃあ、雪ノ下を……」

「あ、せんぱい。雪ノ下先輩なら上です、上」

 

 決めの言葉を遮られて、八幡が憮然とした表情を浮かべている。

 そんな八幡を置き去りにして、由比ヶ浜と留美は苦笑まじりに階段に向けて駆けていった。

 

 気を取り直して、二人を追い掛けようと足に力を込めた八幡の耳に。

 

「せんぱい。……覚えてます?」

「ずっと昔に同じようなセリフ(上です、上)を聞いた気がするな」

「文化祭の時だから、まだ三ヶ月ですよ。せんぱいに初めてを奪われたって知ってから、まだ三ヶ月です」

「だからお前、その微妙な言い方はやめてねって散々言っただろうが。男に手作りのケーキを食べられたのが初めてだって話だろ?」

「もう三ヶ月になるんですね〜」

「だから、おなかに手を当てながら不穏なことを言うのやめてくれない?」

 

 あの時は行き場が無くて、だから一色に匿われたような形だった。

 そして、この上にある空中廊下で一色とゆっくり話ができたおかげで。

 体育祭の目玉競技の後で、そして修学旅行先からも、やり取りを重ねることができて。

 会長選挙では候補と参謀という間柄で、濃密な時間をともに過ごした。

 

「ヒッキー、いろはちゃんも、早く来てってば」

 

 階段の手前から由比ヶ浜が、こちらに向かって手招きをしてくれる。

 よく見ると片手は留美と繋がっていて、面倒見の良さには感心してしまう。

 留美はわりと人見知りをする性格だった気がするのだけど、手を繋ぐのを嫌がるどころか安心しきっているように見えるのだから、本当に大したものだ。

 

 すぐ隣にいる一色と頷き合ってから早足に部室を後にしたところで。

 階段の上から、どすんという大きな音が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 空中廊下で一人(たたず)んで、寒風に身を晒しながら雪ノ下は遠くを眺めていた。

 その視線を、今度は近くへと移す。

 

 もう日が暮れる時刻なのに、校舎のそこここで煌々と明かりが灯っていて、窓の向こうでは生徒や教師が思い思いに時を過ごしているのだろう。

 

 頭を空っぽにして時間を過ごしていたおかげで、そうした身近なあれこれに意識を向けられるくらいには、心の余裕を回復できたみたいだ。

 そう考えた雪ノ下は、ようやく身体が冷え切っているのを自覚して、特別棟に向けてゆっくりと歩を進める。

 

 開きっぱなしのガラス戸を抜けて、階段の踊り場から手を伸ばして扉を閉めた。

 思った以上に大きな音がどすんと響いたので、下のほうでも聞こえているかもしれないと、その場で立ち止まって聞き耳を立てていると。

 

「あ、ゆきのん!」

 

 階下から、とても懐かしい声が聞こえて来た。

 

 

「由比ヶ浜さん。心配を掛けたみたいで、申し訳なかったわね。少し落ち着いたから、部室に戻ろうと思うのだけど……」

 

 ずいぶんと時間が経ってしまった気がするのだけれど、それは自分の感覚が少し変になっているからで、実際はさほどでも無いのだろう。

 そう考えながら雪ノ下が言葉を返して、段差に足を踏み出そうとしたところで。

 

「追い掛けて来てくれるのが当然って感じで、いい身分ですよね〜」

「おい、一色」

 

 最初に姿が見えた二人に続いて、残りの二人も顔を見せてくれたのを嬉しいと思った。

 だから今なら、部室の入り口での対話も含めて、この後輩の真意が充分に理解できる。

 

「貴女はそう言うけれど、わざわざ追い掛けてきて『君の味方にはなれない』って言われるよりは……追い掛けて来る人が居ないほうが、良い身分かもしれないわよ?」

 

 たしかに私は、彼女なら追い掛けて来てくれるだろうと、それを当然のこととして受け入れていた。

 それは見ようによっては傲慢と受け取られることも重々承知している。

 

 けれども、それが私の育って来た環境だったのだから、仕方がないとしか言い様がない。

 そこで恐縮すると、自己・自分というものをどんどん出せなくなって行って、その先に待っているのはお察しの通りというわけだ。

 

 残念ながら世の中には、わざわざ労力を掛けて「嫌い」を伝えてくれる人が一定数存在する。

 勿論その中のごく一握りには、純粋にこちらの為を思った前向きな指摘も含まれているのだけれど、それ以外の大多数は単に感情的な鬱憤を押し付けてくるだけの無用の代物だ。

 

 親が政治に携わっている環境だからこそ、私はそうした雑音と数多く接することになったのだろう。

 一般の人の感覚では、有用と無用の割合はもっと前者に傾くのかもしれない。

 

 でも、私はもうそれを嘆いていられるような年齢では無いし。

 普通の人と比べると有用な指摘を受けることが少ないからこそ、その希少な価値を一般の人よりもはるかに高く見積もれていると自負している。

 

 我ながら、皮肉なことだとは思うのだけど。

 普通の人間関係は解らないことが多いのに、こうした政治的な人間関係については一端(いっぱし)のことを語れるのだから、なんとも不思議なことだ。

 

 だから、私の言葉を聞いた四人が何を考えて口ごもっているのか、私には正確なところはよく理解できないのだけれど。

 追い掛けて来てくれたことに感謝しているのは、そして敢えて挑発的な言葉で私に発破を掛けようとしてくれた後輩を頼もしく思っているのも、間違いなく私の本心だ。

 

「とはいえ……由比ヶ浜さん。留美さん。比企谷くん。そして一色さん。私を追い掛けて来てくれて……感謝しています、だといかにも政治家の答弁って感じだし、嬉しいと言うのも少し違う気がするのだけれど、どう言えば良いのかしら?」

 

 こんな肝心なところで対人関係の拙さが出るのだから、我ながら困ったものだと。

 そんなことをのんびりと考えていると、やはり彼女の声が聞こえて来て。

 

「だからさあ。ゆきのん、そういう時は『ありがと』でいいんだってば」

「そうね。じゃあ改めて……ありがとう」

「う〜ん。やっぱり雪ノ下先輩が言うと、かしこまった感じになっちゃいますね〜」

「お前さっきから文句ばっか言ってねーか?」

「え、っと。私でも分かるのに、八幡もしかして本気で言ってるの?」

「いや、留美は騙されても仕方がないとは思うけどな。こいつって割と素で喋ってるぞ?」

「はい。留美ちゃんもヒッキーも半分正解。それよりさ」

「ちょ、やっぱり結衣先輩、さっきからわたしに厳しいですよね〜?」

 

 階下でがやがやと盛り上がる四人を、ぱちぱちと何度も瞬きしながら見つめていた。

 

 私の問題は、さっきから何も変わっていないのに。

 昨日あの顧問と話した時と同じように、それでもきっと何とかなるって、根拠なく思えてしまえるのだから不思議なものだ。

 

 

「二つ、教えて欲しいのだけど」

 

 会話の隙間を狙ってそう告げると、四人がいっせいに私を見上げた。

 

「一つ目は、由比ヶ浜さんと比企谷くんが部室を出る時に、一色さんはどう行動したのかしら?」

「最初は邪魔されたけど、最後には快く通してくれたぞ?」

「せんぱい。通してあげたんじゃなくて、一緒に来てあげたんですよ?」

「いろはちゃんって、そういうとこ割と面倒くさいよね。留美ちゃんは素直に育って欲しいなあ」

「お前、いま密かに雪ノ下も除外しただろ?」

「というかわたしが思うにですね、小町ちゃんも除外してた気がするんですけどね〜?」

「いや、なに言ってんのお前。小町のあの面倒くささが最高なんだろが」

「あの、雪乃さんの質問に誰も答えていない気がするんですけど……あ、あれでよかった、の?」

 

 仲良く盛り上がっているのを微笑ましく眺めていたら、本心を見抜かれてしまった。

 あの年齢で大したものだと思うと同時に、もう一つの疑問が湧き上がってくる。

 

 でも、それを問い掛けるよりも先に、私は昨日言われた言葉を思い返していた。

 

『男が真剣に涙を流す時には、ただ寄り添えば良いのか、それとも力強く励ませば良いのか、あるいは問題の根本を解決するために積極的に協力すれば良いのか……女としてどれが正解なのかと考え込んでしまうよ』

 

 きっとあの後輩は、彼に寄り添うことを望んだのだろう。

 彼が来ると言えば一緒に来るし、彼が私を部室で待つと言えば一緒に待っていたのだろうなと思う。

 

 あの部員は、彼に行動に移るようにと力強く励まし続けたに違いない。

 同時に私のことも考慮に入れて、三人にとって一番良い方法を考えてくれたはずだ。

 

 おそらく姉なら、男が涙を流したその隙に完全な支配を確立しようと動くのだろう。

 その上で、支配下に置いた男がそこから何ができるのかを見極めようとするはずだ。

 

 では、私は?

 

 さっきも確認したとおり、私には姉や彼女らと同じことはできない。

 彼と同じこともできない。

 けれども、彼が抱える問題の根本を解決するべく協力することは……もしかすると姉よりもこの二人よりも、あるいは誰よりも私が適任なのでは?

 

 ずっと探していた答えの一端が、突然目の前に現れた気がした。

 あとは、家に帰って一人になってから、これを精査すればいい。

 

 

「もう一つ、留美さんがここに来た理由を知りたかったのだけれど……おそらく、ゲームでトルコを担当していた娘が原因ね?」

「うん。やっぱり雪乃さんにはお見通しかあ。たのもしいんだけど、ちょっとくやしいな」

「文化祭の時に、たまたま彼女を見かけたのよ。だから推測できただけで……たぶん小町さんが頑張ってくれていたと思うのだけど、受験生だし私たちが動いたほうが良さそうね」

「小町さんもすごくたよりになるんだけど、もう十二月だもんね。雪乃さんと結衣さんと八幡なら、私も安心だし」

 

 その答えにふっと笑みを返して、それにしてもいつの間に彼女と下の名前で呼ぶ仲になったのだろうかと疑問に思いつつ。

 

 そして私は残りの三人を順に眺める。

 なにか後ろめたいことでもあるのか、一人だけ後ずさった男がいるのだけれど?

 

「いや、あれだぞ。階段を登っていたと思ったら、いつのまにか降りていただけだからな。ちょっとやってみたかっただけで深い意味は無いから、そんな死亡宣告みたいな目で見ないで欲しいんだが……」

 

 どうやら例の発作が出ただけみたいなので聞き流すことにして。

 そして私は再び口を開く。

 

「部室での話し合いが長くなって、私も体力的に疲れてしまったから、具体的な話は明日にしたいと思うのだけれど……。三人で打ち合わせをしておくので、明日また同じぐらいの時間に来てくれるかしら?」

「うん。雪乃さんにそう言ってもらえたら安心だし、お願いします」

「え、でもじゃあ明日はせんぱいに来て貰うのは難しいですかね?」

「まあ、まだクリスマスまで日があるし、一日ぐらい大丈夫じゃね?」

「いえ、それがですね、ちょっと向こうの生徒会長が……と言っても最後には納得してくれましたけどね」

「おお、さすがいろはちゃん。じゃあさ、明日はいろはちゃんが好きなお菓子を用意しておくからさ」

「結衣先輩ってほんとそういうの上手いですよね〜。まあお菓子はありがたく頂きますけど」

「そういえば、うちの小町も由比ヶ浜に餌付けされてるんだよなあ……」

 

 遠い目をして黄昏れている彼をじっと見つめていると、ようやく視線に気付いたみたいで何やらびくびくしているので。

 

「そういえば、比企谷くんに言っていなかったことがあるのだけれど」

 

 そう告げると、残りの女の子三人までが緊張した面持ちになったので内心で首を傾げながら。

 

「留美さんの依頼に加えて……さっきの貴方の依頼、受けるわ。ね、由比ヶ浜さん?」

 

 私が呼びかけると同時に、だっと階段を上がってきて。

 勢いよく抱きつかれてしまった。

 

 私はしっかりと彼女を受け止めて。

 そして他の人に、とりわけ彼に見られないように、彼女の涙顔をそっと両手で包み込む。

 

 それからぽんぽんと背中を軽く叩いてあげたり、そっと撫でてあげたりしながら、察しの良い後輩に苦笑を向けると。

 

「あ〜、じゃあわたしは先に帰りますね〜」

「それなら私も帰ります。明日またくるから、八幡ばいばい」

 

 さっさと行動に移った女の子二人を間の抜けた顔で見送る彼だけが残った。

 こんなにも不器用な性格なのに、いざという時には誰よりも頼りになるのだから、人は見かけによらないものだ。

 

「比企谷くんも、今日はもう帰ってくれて良いわよ。そろそろ、『なんで俺はあんな恥ずかしいことを……』って身悶えしたくなる頃だと思うのだけど?」

「おいやめろ。こんなところで意識させるなっつーの。けど……あれだな。俺のほうこそ、話を聞いてくれて、依頼を受けるって言ってくれて、ありがとな」

 

 そう言い残して、さすがにもう限界だったのだろう。

 瞬時に身を翻した彼は、そのまま無言で全速力で廊下の向こうへと去って行く。

 

「もう誰も残っていないわよ?」

 

 腕の中の彼女に優しく話しかけると、静かな嗚咽が耳に届いた。

 




何とか意地で更新しましたが、遅くなって申し訳ありません。
最近は予告が意味をなしていませんが、いちおう二週間ぐらいで次話を更新したいと考えています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

あ、あと前回宣伝するのを忘れていましたが、アンソロ1を読んで短編を一つ更新したので、良かったら読んでやって下さい。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)

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