俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ

 もやもやした感情を持て余しながら、雪ノ下は週末を家で過ごしていた。そこにメッセージが届く。送り主は八幡で、月曜日に三人で話をしたいと書いてある。
 部員二人が付き合い始めている可能性が高いと考える雪ノ下は、三人の関係が劇的に変化するのを予感して。そんな追い込まれた状況に背中を押されて、平塚に相談を持ちかけることにした。

 合流した二人は車で海ほたるを目指すことになり、道中では留学時のことや姉・父・母のことが話題に上がった。
 そして平塚がしみじみと「奉仕部に三人が(つど)って良かった」と口にしたのを契機に、雪ノ下の頭脳が再起動を果たす。
 目下の問題を整理して、望ましい未来をこちらから突き付けようと決意するに至った雪ノ下を、平塚は温かく見守っていた。

 海ほたるでは、お腹を満たした直後に雪ノ下の持病が出たものの大事には至らず。
 ワンデーパスポートや海底を掘削した巨大なカッターの話、生涯年収や教師以外の職業について、再び留学時の話から姉との共演について、部員二人のことや小説や音楽の話などなど、その後も話題が尽きることはなかった。

 マンションに戻って、平塚に勧められた漫画を読み終えた雪ノ下は、「私は一人じゃない」と実感しながら部員二人にメッセージを送った。そして翌日に備えて眠りに就く。

 一方、二人のメッセージから状況を把握した由比ヶ浜は、彼女らしい書き方で顧問にお礼を伝えた。

 いずれも心身ともに万全の状態で、三人は部室での話し合いに臨むのだった。



05.しずかに重々しくその言葉は語られる。

 月曜日の朝は底冷えがして、空気は痛いほど澄んでいた。

 素肌が外気に触れないようにマフラーを念入りに首に巻き付けて、彼と彼女と彼女は各々の部屋で身支度を整える。

 

 今日という日が自分たちにとって大きな転換点になると自覚する三人は、外の風景が昨日までと何ら変わらず平穏なのを、訝しく、不思議に、頼もしく思いながら、それぞれの家を後にした。

 

 

***

 

 

 期末試験の答案返却と解説が行われている間も、比企谷八幡は放課後のことばかり考えていた。

 とはいえそれは不真面目さの反映ではない。

 

 もともと国語に関しては解説を聞かずともだいたい解るぐらいには優秀だった八幡だが、今回は他の教科にも力を入れたおかげで、間違った箇所を一瞥するだけで復習には事足りた。

 それに、科目によっては。

 

「今回の数学のテストは満点が五人に増えたぞ。授業でやったことを丁寧に復習したら誰でも満点が取れるんだから、お前らもっと頑張れよ!」

 

 得意教科の国語ですらも満点を取ったことは無かったのに。

 一箇所たりとも修正の必要がない答案を高校に入って初めて受け取って、それが八幡が苦手にしていた数学の試験だというのだから不思議なものだ。

 

 いけ好かないあの男に答案を返す時には「今回も満点だ」と大々的に褒めていたのに、八幡の時には微かに頬を動かしただけで無言で手渡された。

 

 けれども、目は口ほどにものを言うとは言い得て妙だと八幡は思った。

 おそらくあの顧問が上手い具合に話してくれたのだろう。

 

 クラスで目立つようなことがあると挙動不審に陥りかねないと、そんな助言を受けたので表立っては言わなかっただけで。

 数学の教師が本音では「よく頑張ったな」「やれば出来るじゃないか」と伝えたくてうずうずしているのが感じ取れて、あやうく挙動不審になりかけた八幡だった。

 

 

「まあ俺の力ってよりは、プリントを作ってくれた雪ノ下のおかげだしな」

 

 この数日間で何度となく繰り返した言葉を口の中で小さく呟いて、そして八幡は再び放課後に意識を向ける。

 

 どんなふうにして話を切り出そうか。

 最後まで聴いてもらう為には、どう伝えれば良いのだろうか。

 結論らしきものはあれども、話題の出し方も持って行き方も分からないままに「話したい」という感情だけが相変わらず先走っている。

 

 結局のところ、八幡が感情を理解できないのは、自分の中にあるこうした傾向が大きな要因になっているのだろう。

 実際に今までにも、例えば中学の時にもこうして感情が暴走したせいで、あの女の子を巻き込んで黒歴史を作ってしまった。

 

 選挙期間中に、彼女は過去を悔いて謝ってくれたけれど。

 そもそもの発端は自分のそうした性向にあると八幡は考えていたし、だからこそ今回は何としてでも暴走を抑えたいと思っていた。

 

 幸いなことに、あの顧問のおかげで心理的には余裕がある。

 無策なのは週末から変わりがないのに、根拠のない、しかし軽くもない自信が自分の中には確かにある。

 

 あの二人と、きちんと最後まで話がしたい。

 その為には……。

 

「てか、あれだよな。敢えて一線を引くことから始めるか」

 

 土曜日の顧問の応対は大いに参考になった。

 

 相手との距離を置くことは、一見すると冷たいようにも見えるけれど、冷静に話を深めるには都合が良い。そして話が進むうちに、当初は感じたある種の疎外感がすっかり薄れてしまうのは、あの橋の上で身をもって体験したことだ。

 

「あとは、最後まで聴いてくれって先にお願いしておけば……って待てよ。たしか雪ノ下が」

 

 海浜幕張近くの喫茶店で数学のプリントを渡された時に、たしか彼女はこう言っていた。

 

『これが平塚先生からの依頼だと思えば、貴方も納得できるのではないかしら?』

 

 途中で席を立たれるのを防ぐ為にも、そして重苦しい雰囲気を避ける為にも、この手は有効かもしれない。

 

 自分が依頼人になるという初めての体験に心が躍るのを感じながら。

 そして、ずっと欲しかったもののことを心の奥底で噛みしめながら。

 

 話の始め方という問題を片付けた八幡は、引き続き物思いに耽るのだった。

 

 

***

 

 

 解説の時間がようやく終わって、これで期末試験が完全に済んだと開放感に浸る声がそこかしこから聞こえて来る。

 

 そんな生徒たちをたしなめて、担任が手早くホームルームを片付けると、由比ヶ浜結衣は即座に立ち上がった。

 

「じゃあ、あたしは部室に直行(ちょっこー)するから。あとよろしくね」

 

 二人の友人は軽く頷くだけで、余計な言葉は口にしない。

 状況はあらまし伝えているし、会話が必要になるのは今夜であって今ではない。

 

 三人の間で想いが共有されているのを実感して、そして由比ヶ浜はばたばたと教室を後にした。

 

 

 一歩一歩を踏みしめるようにして廊下を歩きながら、去り際にちらりと見た彼の様子を思い起こす。

 とりあえず外に出るかとお尻を上げかけていた八幡は、こちらの行動を察して力を抜いて座り直していた。

 

 由比ヶ浜の頬が少しだけほころぶ。

 

「ヒッキーがゆきのんに、どんなふうに伝えるのか……。楽しみだけど、その先が大事だもんね。うん、頑張ろう!」

 

 不吉な予感は頭の中から追い出して、その代わりに今日の授業中のことを思い出す。

 

「数学のテストを渡された時のヒッキーって、変になる寸前って感じだったなぁ。なんだか先生もうるうるしてたし、もし満点だったら凄いよね。あたしだって同じプリントを使って……ううん、それはいいんだ。ヒッキーはヒッキーだし、あたしはあたしだから」

 

 あの二人に対して疎外感を抱くのは、この春から何度も経験したことだ。

 それでも自分には自分なりの長所があるし、それで二人の力になれると自信を持てるくらいには、由比ヶ浜は結果を残してきた。

 

 胸を張って前を向いて特別棟へと足を踏み入れた由比ヶ浜は、扉の前で立ち止まると静かに笑みをこぼして。

 そして勢いよくドアを開けた。

 

 

「ゆきのん、やっはろー!」

「こんにちは、由比ヶ浜さん。今日は早いのね」

 

 こちらに向かって親しげに微笑みかけてくれる彼女の顔を見てしまうと、後ろ手に扉を閉める時間すら惜しいと感じてしまう。

 ばたんと閉じたドアから勢いよく離れると、逸る足取りでいつもの場所まで辿り着いた由比ヶ浜は大きく椅子を引いて、そのままお尻を滑り込ませた。

 

「だって三人でちゃんと話ができるんだもん。あのヒッキーが言い出して、ゆきのんも応えてくれて。そりゃあ急いで部室に来なきゃって思っちゃうよ」

 

 始まってもいない話し合いが首尾良く終わるに決まっているとでも言いたげに、由比ヶ浜は上気した頬を彼女に向ける。

 

「そうね。私も楽しみだわ」

「でしょ?」

 

 選挙が終わってもう半月が経つというのに、その間とんと見られなかった余裕が、今の彼女からは感じられる。

 

「でさ、試験のことなんだけどさ。やっぱり数学は……」

 

 そのまま雑談に移行しながら。

 由比ヶ浜は心の中で改めて、顧問に向かってお礼を伝えた。

 

 

***

 

 

 そろそろと扉が動くのに気が付いたのは、おそらく自分が先だったと思う。

 反射的に目線を横に動かすと、右隣に座っていた彼女もそれに続いた。

 

「やっはろー、ヒッキー!」

「こんにちは、比企谷くん」

「う、お、おう。悪い、遅くなった」

 

 いつもの「うす」という挨拶を口にするタイミングを逃してしまい、取り繕うように謝ってみせた彼は、居心地の悪そうな表情を浮かべている。

 

 だから雪ノ下雪乃は、気にしないでいいと首を左右に軽く振って、椅子に座るようにと八幡に向かって頷いた。

 

「いや、それがな……」

 

 けれども、立ったまま椅子に手を置いた八幡は困ったような顔つきで何かを言い淀んでいる。

 

 やがて、意を決したのか。

 何の説明もなくいきなり椅子を持ち上げた八幡は、それを自分たち二人の近くに置いて腰を下ろした。

 

 いつもなら依頼人が座る位置よりも更に近く、互いを隔てるのは机の短辺に相当する距離でしかない。

 こうして彼と間近に向き合ってみると、心の距離はこれほどまでに近づいていたのだと自覚させられるとともに。あの後輩の女の子は距離の詰め方が上手だったなと、比べるのは申し訳ないのだけれど、そんな事を考えてしまった。

 

「え、どしたのヒッキー?」

「何か思う所があるのでしょうけれど、何も言わないと解らないわよ?」

 

 自分でやっておきながら、距離が近いのが落ち着かないのか目を合わせようとしない八幡に、由比ヶ浜が言葉をかける。

 続けて雪ノ下がフォローの言葉を伝えると、八幡はようやく目を正面に向けて、そしておもむろに口を開いた。

 

「お前らに一つ依頼がある。……つっても、まあ、難しい話じゃなくてだな。その、俺の話を最後まで聴いて欲しいっつーか、それをどう思うかを聞かせて欲しいっつーか、そんな程度の事なんだけどな」

「うん、いいよ」

 

 由比ヶ浜の即答が耳に届いて、思わず目を細めてしまった雪ノ下は、自分はどう答えようかと少し悩んで。結局は思ったままを口にすることにした。

 

「貴方がちゃんと話してくれるのなら、私にも異論は無いわ」

 

 彼の話を受け止める用意はできている。

 なぜなら今の雪ノ下にとって、そこはゴールではないからだ。

 彼の話を聞いて、その上で望ましい未来を突き付ける事こそが、今の自分の目指す先だ。

 

「じゃあ……ただ、どう話したもんか自分でも整理が付いてなくてな。いちおう議題としては、修学旅行の時の話と、それから会長選挙の話とがあるんだが」

「それってふつうに起きた順でいいんじゃないかな。えっと、修学旅行の最終日から、あんまりゆきのんと話せてないよね?」

 

 何でもないような軽い口調で、その実こちらを気遣ってくれている。

 そんな由比ヶ浜に小さく頷きを返してから口を開いた。

 

 

「では最初に、貴方が由比ヶ浜さんにどんなふうに返事をしたのか教えてくれるかしら。部長として、そのくらいの権利はあると思うのだけれど?」

 

 隣に座る由比ヶ浜を見習って、冗談交じりの軽い口調で話を促したつもりだったのだけど。

 お手本にした当の彼女が「あー、やっぱり」と小声で呟いているのは何故だろうか。

 

「あー、えっと、結論から言うとだな。由比ヶ浜には返事を先延ばしにして貰った」

「なるほ……はい?」

 

 あらかじめ用意しておいた返し文句を言い終える直前に、彼が語った言葉の意味が理解できて。思わず大きな声を出してしまった。

 そのまま二の句を継げないでいると。

 

「まあ、ヒッキーはヒッキーだからさ。仕方がないかなって」

「……貴女は、それでも良いの?」

 

 彼が返事を先延ばしにするのは、あの竹林でのやり取りに続けてこれで二度目だ。

 それだけでも理解に苦しむというのに、そもそも由比ヶ浜のような(女の自分から見ても)素敵な女の子から告白されたにもかかわらず返事を保留にするとは、この男はいったい何様のつもりなのかと苛立つような気持ちが湧き上がってくる。

 

 なぜ怒りではなく苛立ちなのかは、考えないようにした。

 

「うーん。いい、とは言えないけどさ。でも、あの時に教えてくれたヒッキーの気持ちとか考え方とかは、嘘じゃないって思ったし。ヒッキーらしくない事を言われるよりはさ、そっちのほうがいいやって、そんな感じ?」

 

 不意に、隣の彼女が途轍もなく大きく見えた。

 

 自分は先の未来を見据えた上でここに座っているのだと、そう考えていたけれど。

 もしかすると由比ヶ浜は更に先まで見通しているのかもしれない。

 あの立会演説会の時には、自分と同格の域にあると思ったけれども、あるいはもう……。

 

「それでも、だって、私には()()()()気持ちは解らないのだけれど、でも()()なら、普通は付き合いたいと思うものなのでしょう?」

「うん。ヒッキーが好きだし、できれば付き合いたいなって思うよ。でも、付き合い始めたら終わりってわけじゃないからさ」

 

 確定だ。

 うじうじと時を浪費するだけだった自分とは違って、由比ヶ浜はこの二週間ちょっとで更なる高みへと進んでいる。

 その引き金になったのは、おそらく、彼女なりの「覚悟」だろう。

 

 厳しい現実を受け入れて、それが逆に心の余裕へと繋がった雪ノ下は、視線を左に動かしながらこう問い掛けた。

 

 

「では貴方は、返事を延期して何を考えているのかしら。私が聞いても良い範囲で、教えてくれると嬉しいのだけれど?」

 

 しばしの間、難しい顔をして黙り込んだまま言葉を探していた八幡が、ようやく口を開く。

 

「……結論を出すための材料が、不足している気がしてな。俺には知らないことが多すぎるし、知って貰ってることが少なすぎるって思ったんだわ。だから、結論を出す前にもっと話をしたいって伝えて、返事を先延ばしにして貰った」

 

 お互いをより深く知るために、という理由は至極真っ当に感じられた。

 けれどもその誠実さには、やはり苛立ちを覚えてしまう。

 

 認めたくはないのだけれど、きっと自分は疎外感を抱いているのだろう。

 あるいは、劣等感か。

 それとも……?

 

「……そう」

 

 考え事に意識の大部分を傾けていた雪ノ下が気のない相鎚を返すと、がしがしと頭を掻く音が聞こえてきた。

 顔を上げて、再び視線を彼に向ける。

 

「そのな。俺はぼっちだったから、男女の付き合い以前に他人との付き合い方に問題を抱えててな。んで、なんつーか、その、唯一の成功体験が、この、なんだ、部活だったと思うんだわ」

 

 自虐的な発言は以前からよく耳にしていたけれど、こんなふうに前向きな文脈で口にすることはほとんど無かった気がする。

 

 過去の至らぬ自分をきちんと見据えることができている八幡からも成長の気配が伝わって来て、今度は明確な劣等感を肌で感じた。

 

 だが、それでもまだ雪ノ下には余裕があった。

 昨日顧問と過ごしたおかげだと思いながら口を開く。

 

「そうね。……私も、この部活のおかげでクラスのみんなと、別に問題を抱えていたわけではないのだけれど、以前よりも楽に身近に接することができるようになったと思うわ」

 

 しみじみとした口調でそう伝えると、すぐに右隣から声がした。

 

「それってたぶん、国際教養科のみんなも同じだと思うよ。だって、ゆきのんが伏見稲荷で息切れしてた時とかさ。前だったら心配でしかたないって感じで遠くからはらはら見てたと思うんだけど、飲物を届けただけで後はほったらかして、あたしにがんがん質問して来たじゃん。あの時に、ゆきのんとの距離が縮まってるなーって思ったもん」

 

 おそらくそれは、妙な勘違いから勝手に気を回していただけだと思うのだけど。

 それでも、というかそれもまた、距離が縮まっている証拠ではあるのだろう。

 

「あー、その、話を戻して良いか?」

「あ、ごめん。脱線しちゃったね。ヒッキー続けて?」

 

 付き合っているわけではないにせよ、二人のやり取りがとても自然で仲の良さが伝わって来て、なんだか微笑ましいなと思ってしまった。

 先程までの苛立ちがすっかり消えてしまったのを心の隅で訝しんでいると。

 

「上手く伝わるのか、あんま自信は無いんだけどな。変な表現だと思ったら笑って欲しいんだが……この部活が、その、俺にとっては人間関係の原点みたいな感じなのな」

「うん、ぜんぜん変じゃないし、ヒッキーがそう言ってくれるのって嬉しいなって思うし、たぶんゆきのんも同じだよね?」

「ええ、そうね。……あら?」

 

 同意の言葉を返すと同時にメッセージの着信音が聞こえたので、思わず声が出てしまった。

 どうやら二人にも届いたみたいで、確認は話し合いが終わった後にと考えた雪ノ下とは違って目線を横に移している。

 

「ああ、これ後回しで良いやつだぞ」

「え、でもさ。いろはちゃん、『やばいですやばいです~』って書いてるけど、続き読まなくても大丈夫?」

「あいつって、本当に緊急の話だったらこんな書き方はしないからな。ただの戯れ言だと思うから、既読にしなくて良いんじゃね?」

「むー、ゆきのんはどう思う?」

 

 不機嫌そうな彼女の口調で、自分もまた面白くないと考えていることに気が付いた。

 だから雪ノ下は指を動かしながら口を開く。

 

「だったら私が確かめてみるわね。えっと、『向こうの生徒会長の話し方がやばい』って。……良かったわね、比企谷くん。変な表現だと笑われているわよ?」

「笑われてるのは俺じゃないし、あいつに頼んだわけでもないっつーの。つか、やっぱり確かめなくて正解だったろ?」

「むー、そうなんだけどさ」

 

 口を尖らせた由比ヶ浜だが、先程と比べると感情は抑え気味だ。

 

 確かに彼が言ったとおりのくだらない内容だったけれど、良い気分転換になったなと考えながら、雪ノ下は話を続けることにした。

 

 

「それで、貴方がこの部活のことを人間関係の原点だと考えているのは理解したのだけれど。それが、結論を先延ばしにしたことと、どう繋がるのかしら?」

 

 結局のところ、疑問はこれに尽きる。

 

 お互いをより深く知りたいのであれば、二人でいくらでも話をすれば良いではないか。

 そんな真っ当な、けれど自分でもどこかやけっぱちに思える提案を口にできないでいると。

 

 左隣の男の子の目が、以前とは少し違って見えた。

 

「俺は……なんか改まって言うのは照れくさいんだがな。お前ら二人と、もっと話がしたいと思う。俺が知らないような、けど雪ノ下が知ってる由比ヶ浜を、俺も知りたいと思うし。由比ヶ浜が知ってる雪ノ下のことも知りたいと思う。由比ヶ浜だけが知ってる俺とか雪ノ下だけが知ってる俺とかも、もしそれが悪口ばっかになったとしても、知っておいて欲しいと思うし。その、あれだ。嵐山の竹林で言われたようなこととかも、ばんばん指摘して欲しいって思ってる」

 

 こんなに素直に希望を口にするなんて、これこそ自分が知らなかった彼の一面ではないかと雪ノ下は思った。

 そして、気付く。

 

 八幡は希望を口にすると同時に、既にそれを実践しているのだと。

 

「いちおうゆきのんに言っとくけど、こんな具体的な話はあたしも初耳だからね。でさ。うん、正直に言うと、あたしもそれ、いいなって思った。だって……だってさ。最近のあたしたちって、三人でちゃんと話せてなかったじゃん。旅行とか選挙とか依頼とかあって、難しかったのは分かってるけどさ。それでも、あたし、ずっと」

 

 唇を噛むようにして、由比ヶ浜は続く言葉を呑み込んだ。というよりも、嗚咽(おえつ)が漏れそうになるのを呑み込んだのだろう。

 その証拠に、少し間を置いただけで、いつもどおりの声が聞こえて来た。

 

「だからさ。投票の前の晩に、ここで集まったじゃん。約束とか何もしてないのに、三人とも揃っちゃって。あれ、あたし、すっごく楽しかったし、嬉しかったんだ」

 

 その気持ちは自分も解ると雪ノ下は思った。

 だが同時に、雪ノ下にはわからないこともある。

 

「そういや、あのクマ柄のパジャマは何だったんだ?」

 

 えっと、そういうことではなくて。

 

「ちょ、ヒッキー。今それ言うの違うくない?」

「そうよ、比企谷くん。あのクマ柄のパジャマは由比ヶ浜さんのお気に入りなのだから」

 

 えっと、そういうことではなくて、と言いたげな視線が左隣から届いている。

 

「いやま、にあ……似合っ、てた、のは、確かだけどな。だからって、この部室に来るなら別のものを着てくるのが普通じゃね?」

「可愛いパジャマが由比ヶ浜さんに似合うのなんて当たり前じゃない。それよりも貴方は、由比ヶ浜さんの普通は普通じゃない時があるって、まだ解ってなかったの?」

 

 えっと、そういうことではなくて、というか泣いちゃうぞと言いたげな視線が右隣から。

 

 仕方がないので溜息を大袈裟に一つ吐いて。

 そして雪ノ下は、なぜかほんのりと顔を赤らめている二人に向かって語りかける。

 

「だって由比ヶ浜さんは入学式の朝にも、あのパジャマで外を歩いていたもの」

 

 ここで言葉を切った雪ノ下は、二人がはっと息を呑むのを確認してから話を続けた。

 

「考えてみれば、いつの間にか、あの事故の話を避けるようになっていたのよね。比企谷くんが知りたいと思うことの中には、由比ヶ浜さんが話したいと思うことの中にも、こうした話題が含まれているのでしょう?」

 

 話の途中で合点がいったという顔つきになっていた八幡が、言葉を引き継ぐ。

 

「そうだな。なんつーか、そういうタブーがどんどん増えていって会話が窮屈になるのが嫌っつーか。使える文字が一つずつ消えて行くって作品が昔あったけど、あんなのは創作物の中だけで充分なのに、なんか気が付いたらこの三人の間でさえ変な縛り付きで話をしてるってのが……嫌だったな」

 

 筒井康隆の「残像に口紅を」は確かに怪作だったと何度もこくこくと頷く雪ノ下は、八幡が違う作品(幽☆遊☆白書)を想定しているとは気付かなかった。とはいえ、この程度のすれ違いが問題になることはないだろう。

 

「変なすれ違いとか誤解とかが出ないように、この辺の話題は避けようねってのは、まあ割とあるんだけどさ。でも、ここでの会話って……ゆきのんとヒッキーが頭いいからなのかもしれないけどさ、ものすっごく徹底的に避けてるっていうか。それが逆に、避けてるのが丸分かりっていうか……うん、あたしも正直に言うと嫌だったな」

 

 他のケースと比較ができるのが彼女の強みだなと改めて思いながら、けれど頭の出来よりも性格のほうが大きいのではないかと雪ノ下が考えていると。

 

「それな、頭の出来よりも……あー、つい思い付いたから今から俺ちょっとキモいこと言うけどな、たぶんあれなんだわ。要するに、大切だから傷つけたくないとか、まあ、そんな感じの……キモいよな。忘れてくれ」

 

 おそらく今の言葉は、純粋に彼の中から出て来たものではないのだろう。

 右隣を見ると、目が合うなり由比ヶ浜が大きく頷いたので、揃って苦笑を漏らしてしまった。

 

 まるで魂を抜かれてしまったかのように硬直していた彼がますます縮こまってしまったので、今度はこっそりくすっと。そのまま雪ノ下は口を開く。

 

「貴方の普段の気持ち悪さと比べたら、今のなんて問題にならないわよ。それに、たとえ借り物の言葉だとしても……貴方の熱い想いは、私たちの心に響いたわ」

 

 二人とも仕方がないなぁと言いたげな気配が話の途中で届いたからか、言い終えると同時に雪ノ下まで硬直していると。

 

「大切だから傷つけたくなくて、だからあたしたちって、選挙を戦うことになったんだよね。でもさ、あれはあれで……楽しかったよね?」

「楽しくて、充実した日々だったわ」

「ああ。俺もそうだった」

 

 明るく元気に問い掛けるそのすぐ裏側には、儚い想いが潜んでいる。

 だが、それを今さら察知できない二人ではない。

 高二に進級した頃と比べるとずいぶん交友関係が広がったとはいえ、二人にとって他者との関係の始まりは、原点は、由比ヶ浜なのだから。

 

「ちょ、二人とも即答ってどういうことだし!?」

「言葉のとおり、楽しかったということよ。もちろん結末には不満なのだけれど……あら?」

 

 話を進めようとした矢先に再びメッセージが届いたので、今度は三人ともが目線を動かして。

 

「これも未読で済ませて良いのかしら?」

「書き出しが同じだし、スルーで良いんじゃね?」

「もう……。いろはちゃんって、構って欲しいんだなーって分かりやすい時あるよね」

 

 三人の意見が一致した瞬間だった。

 

 

「頭の切り替えができて、ちょうど良かったかもしれないわね。では、選挙のことなのだけど」

 

 そんなふうに雪ノ下が口火を切ると、八幡がそれに続いた。

 

「選挙結果が出た後で、この部屋でお前が言ったセリフがあっただろ。んで、もし期待してくれてたんなら、情けないんだけどな。俺は今でも、お前が『わかるものだと』思ってたことが、わかってなくて……」

「ヒッキー、大丈夫だよ」

 

 途中からは俯きがちになり、声も消え入りそうになっていた八幡の耳に、頼もしい声が届く。

 それもまた何だか情けなく思えて来たので、敢えて挑発的に。

 

「……何が大丈夫なんだよ?」

「だって、あたしもわかってないからさ」

 

 あっけらかんと言われてしまうと、拗ねている自分がよけいに情けなく思えてくる。

 けれども、奇妙な可笑しさが自分の中で少しずつ大きくなってきて。遂にふへっと変な声が出てしまった。

 

「まあ、そうだな。由比ヶ浜で無理なら、なおさら俺が、あれだ。()()()()()がわかるわけなかったわ」

「でしょ。あたしもね、そんな感じで開き直っちゃうヒッキーの()()()()()()じゃないよ?」

 

 ふふんと胸を張って言い返してくるので、素直に両手を挙げて降参の意を伝えた。

 視界の右隅では部長様が額に手を当てて、なのに微笑ましいものを見るような目をしている。

 

 ぱちぱちと何度か瞬いて、そして雪ノ下の唇が動いた。

 

「ずっと前から、考えていたの。私のこれから先の人生を見据えた時に、どんなふうに高校生活を送るのが一番良いのかって。だから正直に言うと、どうしても生徒会長になりたいとは思ってなくて。でも、それが一番良いんじゃないかって思ったの」

 

 こんなふうに自分の気持ちを素直に打ち明けてくれるなんて、思いもしなかった。

 それはつまり、こちらが勝手に障壁を作っていただけで。

 雪ノ下は自分とは違う世界の住人だと、そんな考えを捨て切れていない己に原因があるのだと八幡は思った。

 

「うん。続けて?」

「私が思い描いていた生徒会は、この奉仕部を発展的に解消した先にあると同時に奉仕部を内包するものでもあると。立会演説会ではそんなふうに説明したと思うのだけど……」

「うん。難しい言葉はわかんないけど、覚えてるよ。そういうのもいいなって、ちょっと思ったもん。でも、あたしにも譲れないことがあったからさ」

「ええ、それは解っているわ。だから問題は、意図を伝えていなかった私にあるのよ」

 

 二人が話しているのを静かに聴いていようと考えていた八幡だが、今の言葉は二重の意味で引っ掛かった。

 

「いや、あのな。確かに伝えられてはなかったけど、お前が目指す生徒会の形に思い至らなかったのは俺の問題だろ。その責任を勝手に取り上げるなよ。それに由比ヶ浜も一色も、お前の構想を知った後でも主張を曲げなかったじゃねーか。だから意図を伝えなかったことに問題があるとは思えないんだが?」

 

「貴方こそ、私の責任を勝手に取り上げないで欲しいのだけど。伝えなくてもわかると、自分の気持ちなんてわかると思い込んで、(はかりごと)帷幄(いあく)(うち)(めぐ)らしたつもりで、私は何もわかってなかったのよ」

「あー、もう。二人とも、ちょっと落ち着いてってば」

 

 

 たしか漢の高祖が張良を評した言葉だったなと。

 宥めて宥められてを繰り返している眼前の二人よりも原典に意識が向いた八幡はふと、文化祭の記憶を呼び起こした。

 

 あの時、性別不詳の友人が俺を評してこう言ってくれた。

 

『やっぱり韓信みたいだなって。それでね、色々とフォローをしてくれる由比ヶ浜さんが蕭何で、頭が良くて交渉とかもできちゃう雪ノ下さんが張良だって考えたら面白いなぁって』

 

 それに対して、俺はたしか。

 

『今んとこ三人で上手く役割分担ができてる気はするんだが、劉邦を皇帝にするとか、はっきりした目標みたいなのがないと、いつまで続くかって気もするんだよな』

 

 目の前のやり取りを眺めていても、由比ヶ浜のフォローはあの頃よりも更に効果的・包括的になっているし。

 雪ノ下だって、さっきはああ言っていたけれど、選挙戦略で見せた頭の切れは確実に文化祭の頃を上回っていた。

 では、俺は?

 

 自分でも多少の手応えはあるし、土曜日にはあの顧問にも「良い方向に変わり続けている」と褒めてもらった。

 でも、この二人の成長スピードと比べると、相対的にはどうなのだろう。

 

 かつてのように自分を過小に評価しようとは思わないけれど、それ以上にこの二人を過小評価できるわけがない。

 特に由比ヶ浜は、正面から雪ノ下に異を唱えられるほどにまで成長している。

 

 よしんば俺と二人の差が文化祭の頃と変わっていないとしても。ここまで成長した二人を収めておくには、三人での役割分担が前提の奉仕部という器では、きっともう小さすぎるのだ。

 ならば、どうする?

 

『あたしとゆきのんの案の、いいとこ取りって言うのかな。無理に戦わなくても、もっといい形にできたのかもなって』

 

 選挙結果が出た後に、そして雪ノ下がこの部室から先に消えてしまった後で、由比ヶ浜はこんなことを言っていた。

 けれども三者の役員案をまとめてみても、各々の案には及ばなかった。

 

 二人が成長を続けるその先に、もしかすると決別という未来はあるのかもしれない。

 でもあの顧問は、別れの未来をそれほど悲観的には捉えていなかった。

 個人的には避けたいと願う未来だけれど、顧問の意図も理解はできる。

 

 それよりも絶対に避けるべきなのは、二人が雌雄を決せざるを得ない展開だろう。

 なぜなら、二人のどちらにも、俺は負けて欲しくないから。

 二人の決戦よりも、二人が協力し合う姿こそを見たいと思うからだ。

 

 ならば、漢の三傑の話題に続けてあの時に語った話が使えるかもしれない。

 

『聖騎士みたいな奴がいて、暗黒戦士みたいな奴もいて、そいつらはいずれ覇権を掛けて争うしかないだろうって、みんな思ってたんだわ。けど大賢者さんがな、『二人の上に立つ人が居れば良いじゃない』とか言い出してな』

『何か上位の存在を置いたら良いんじゃね、的な』

『理念とか』

 

 二人が納得できる理念があれば、それの下で二人は協力関係を維持できる。

 奉仕部という器がなくなった後でも、俺は二人と繋がりを持てる。

 

 でも、果たして良いのだろうか?

 俺が提案できる理念なんて、ずっと欲しいと願っていた、他には何も要らないと思える()()しか無いのだけれど。

 

 三人で色んな話をした末に、微かにでも感じられたら良いなと思っていた()()を、堂々と目標に掲げても良いのだろうか?

 二人に受け入れて貰えるのだろうか?

 

 そしてそれ以上にやばいと思うのは、俺はどんな顔をしてどんな切り出し方で、()()の話に持ち込めば良いのだろう。

 

『やばいですったら本当にやばいですって~』

 

 眼球以外は微動だにせずスルーを決め込んだ八幡だが、気を削がれるよりも却って覚悟が定まった気がした。

 だから、自分と同じく変わった様子が微塵も見受けられない二人に向かって口を開く。

 敢えて再び、挑発的に。

 

 

「たしかに、雪ノ下はなんにもわかってねーな。……最初に会った時に言っただろ。人助けなんてしたところで、誰もその内実なんて見てないってな。同じ事をしても、お前の外見を見たら感謝するし、()()俺だったら罵倒されて終わりだった。要するに、人を表面的にしか見ない奴が大半だって話だ」

 

「それは覚えているのだけれど……なぜ、今その話を?」

 

 無頼を装ったところで、今さら騙されてはくれないなと。

 それを嬉しいと思う気持ちを何とか噛み殺していると。

 

「じゃあヒッキーは、わかって欲しいってゆきのんが考えてたのは無理だって、そう言いたいの?」

「ああ……普通は無理だと思う。()()()()、な」

 

 雪ノ下がはっと息を呑む音が、耳に届いた。

 由比ヶ浜が何かを言い淀んだ気配も伝わって来る。

 

 上を目指そうとした二人と、普通を訴えたあの後輩と。

 選挙の結果は後者に微笑んだ。

 けれども。

 

「けど、な。俺はこの話を、普通で済ませたくねーんだわ」

「比企谷くん……」

「ヒッキー……」

 

 この二人を特別に想うからこそ、傷つけてしまうのかもしれない。

 できることなら、俺が傷つけられるのは構わないから、傷ついて欲しくなかった。

 

 そう思っていたけれど、実はこれは仮定も結論も欺瞞だ。

 

 特別なこの二人に傷つけられるなんて俺にはとても耐えられないし。

 特別なこの二人に望むことは、傷ついて欲しくないなんて域に止まらない。

 

 ゆえにこそ、余計な希望を削ぎ落として削ぎ落として、最後に残った感情を二人に伝えるべきなのだ。

 それがどんなに無様で情けなくて大それた押し付けがましい結論でも。

 

 なぜなら。

 

「どうせ言っても伝わらないって、ずっと思ってた。だから本来、雪ノ下を糾弾する資格なんて俺には無いんだわ。確かに雪ノ下は『伝えなかった』けど、俺はそれ以前の段階で……ずっと立ち止まってたわけだからな」

 

 自分の過ちを認めるのは、どうしてこうも耐えがたいのだろう。

 

 他人の間違いを指摘するのは、たとえそれが名の知れた専門家に対してでも簡単なのに。

 こいつらにも金曜日にちらっと言ったけど、SNSとかで暴言を吐いておきながらも、自分は正しいことを言っていると思い込んでいた時期が俺にはあったというのに。

 

 それと同じ事が、自分に対してだけはできない。

 

 だからこそ、自ら責任を引き受けようとする姿に惹かれたのだろう。

 だからこそ、前向きに改善点を教えてくれる姿に惹かれたのだろう。

 

「でも……貴方の主張をひとまず肯定したとして、それでも私がわかっていなかったことに変わりはないと思うのだけど。だから私にも責任が……」

「ゆきのん。たぶんそれ、違うよ。選挙のことはヒッキーの責任だからゆきのんに責任は無いなんて、そんな話じゃないと思う」

 

 二人の言葉を聴いて、情けなくて嬉しくて涙が出そうだ。

 それを何とか堪えて、平然とした風を装いながら声を出す。

 

「そうだな。今の俺は自分のことだけで精一杯だから、雪ノ下の責任を負えるほどの余裕はねーんだわ。俺が言いたいのは、普通なら伝わらないとか誰も内実なんて見ないとか、そんな小賢しい忠告なんて吹き飛ばしてしまえるような特別なものが、実は身近なところにもあるんじゃねーかなって。だから俺は……お前らに伝えたいのは……」

 

 

 両手を強く握りしめて、上半身は小刻みに動いている。

 そんな八幡の姿を、由比ヶ浜は一瞬たりとも見逃すまいと見つめていた。

 

 もうずいぶん昔に、「待つよりも、自分から行く」とは伝えたけれど、それは自分の希望を押し付けるという意味ではない。

 彼と彼女に無理をさせてまで、それぞれのらしさを失わせてまで何かを強制するのではなくて。らしさを発揮している二人のところに自分から行くと決めたのだから。

 

 だから、二人が希望を伝えてくれるのなら、あたしはそれを受け入れるだけだ。

 あたしの行動は、その後にある。

 

 何とか言葉を捻り出そうとしている八幡を、由比ヶ浜は静かに見つめ続ける。

 

 

 慈愛に満ちたとは、こんな表情を指すのだろうなと雪ノ下は思った。

 八幡もまた東京駅で同じことを考えていたとはつゆ知らず、由比ヶ浜の視線に後押しされるようにして自身も左隣の男の子を眺める。

 

 先程からずっと、雪ノ下にはわからないことがあった。

 どうして彼は、私まで巻き込んで三人に拘るのだろうか。

 どうして彼女は、投票前夜に二人きりではなく三人で揃ったことを喜んでいるのだろうか。

 

 そして今、必死になって想いを言葉にしようと試みている八幡の姿を視界に捉えて、理解できたことがあった。

 おそらく、いや間違いなく、彼と私が求めているものは同じだ。

 そして彼女は、自分たち二人がそれを口に出せるようになるのを待ってくれていた。

 

 昨日からずっと、心の中では存在していた想いが、雪ノ下の頭の中で言葉になる。

 

 私は、偽物なんて欲しくはない。

 

 どんな事情があるにせよ、いくら小学生だったからって、肝心な時に助けてくれない彼も。

 どんなに頼れる存在でも、いくら身内だからって、頼り切りになってしまうような()()も。

 

 あの()()を偽物と呼ぶのは、楽しかった想い出まで捨て去ることになるから、当時の自分をも偽物だったと認めることになるから、私にはできないのだけれど。

 

 それでも、まがいものなんて私は欲しくなかった。

 

 

「俺は……」

 

 苦しそうにそこまで口にして、それでも彼の口から続く言葉は出て来ない。

 それならば、私が先に言った方が良いのだろうか?

 

 判断に迷って右隣をちらりと見ると、その表情は先程と何ら変わりはない。

 ということは、彼が想いを言葉にするのを待つべきなのだろう。

 

「私は……」

 

 だから私は、彼を急かすような言葉を口にする。

 彼女が一瞬だけこちらを見て、それでも何も言わなかったから、決して間違いではないのだろう。

 その証拠に、左側から再び声が。

 

「俺、は……」

 

 あとはタイミングを合わせるだけだ。

 彼が言い終えた後に口に出しても良いのだけれど、どうせなら同時に口にしたい。

 

 この土壇場に至って、まだ私にこれほどの余裕が残っているのを自覚して、次に顧問に会った時にはなんて言おうかなんて考えていると。

 

 

「えいっ。……あれ?」

 

 そんな場違いな声とともに扉が開く音がした。

 思わずそちらに視線を送ると、そこに居たのは現生徒会長にして、先日の選挙で私が敗れた張本人。

 

「な〜んだ、やっぱり居るじゃ……」

 

 この部屋の雰囲気を察したのだろう。明るい声が途中で止んだ。

 

 そして私は、部員の二人と会うための心の準備はできていたのだけれど。

 こんなにも真剣に過去の自分と向き合っている時に、一敗地に塗れた相手と向き合えるまでの余裕は残っていなくて。

 

 だから、つい、視線を彼女の横に……。

 

「……なぜ、こんなところに?」

 

 そこに居たのは、私に過去のあの一件を思い出させる小さな友人。

 

「……俺はっ!」

 

 目が合った二人から続けざまに視線を逸らしてしまった私の耳に、泣きじゃくるような声が届いた。

 

 急いでそちらに目をやると、頬を濡らして身体を震わせて、それでも顔をしっかり上げた彼の姿が。

 

 

 そして八幡は、しずかに重々しく、その言葉を口にする。

 

「俺は、本物が欲しい」

 




次回は月末の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)

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