俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→155p1

以下、前回のあらすじ。

 火曜日の朝も、空き教室には一色陣営の面々が集まっていた。
 正式に稼働を始めたwikiを見て、相模と大和は支持率が厳しいと受け止め、八幡は贔屓目に見た概算を口にする。だが当の一色は平然としたものだった。その姿を見て、意外と会長職が合っているかもなと三人は考える。
 前日のあれこれを振り返りながら、今日は集会を開くことにして集まりは解散となった。

 放課後に開いた集会では、一色と八幡の意図がほんの僅かにずれている部分を雪ノ下に突かれてしまった。由比ヶ浜からも引き抜きを提案された一色は、八幡の意思を確認すると、彼女らしい舐めた物言いで対立候補の二人を煽る。

 だが集会はこれで終わらず、海老名と三浦が次期生徒会への参画を表明した。今までの序列を覆して名実ともに由比ヶ浜の下に就くという二人の決断は、八幡や雪ノ下にとっても予想外だった。これで選挙戦は総力戦の段階に入ったと八幡は受け止める。
 材木座がサプライズのついでにwikiを宣伝して、集会はようやく解散となった。

 城廻に対談を申し込んだ八幡は、三年生の置かれた立場を改めて認識して。それを下らないと評するとともに、城廻の決意には心からの敬意を伝えて、裏技的な提案を撤回する。お互いに「頑張ろう」という気持ちを高め合って、二人はそれぞれの目標に向けて足を踏み出した。



12.とまらぬ想いを胸に彼女は敢えて行動に出る。

 水曜日は朝からてんやわんやだった。

 

 時にはファンを自ら煽り、時には大和や友人四人を通して推薦人をはじめとした協力者たちを自在に動かしながら、一年C組で陣頭指揮を執る一色いろは。

 

 その一色の判断を支えるべく、新鮮で正確な情報を提供し続けている相模南とその取り巻きの計五人は、他陣営もまたなりふり構わぬラストスパートに入っているのを肌でひしひしと感じ取っていた。

 

 雪ノ下雪乃は運動部や文化部の部長クラスの手綱を握って、上から下へと支持を拡散しようと目論んでいて。

 由比ヶ浜結衣は友人二人の支持者も含めた横の繋がりを更に広げ、そしてクラスや部活といった既存の枠組みを下から上へと呑み込もうとしていた。

 

 だがそこに、一色の指示を受けたファンが、推薦人が待ったを掛ける。

 有権者の迷いや転向の可能性を、雪ノ下は勿論のこと由比ヶ浜よりも更に早く察知して、ピンポイントで効率的に吊り上げる。

 

 それを可能ならしめているのは、wikiによって整理された膨大な情報と、一色の特徴的な対人スキルだった。

 

 大半の男子生徒には特効、そして多くの女子生徒にもマイナスの方向に特効を示すそのスキルは、いずれにしても同好の士を素早く確実に増やしていく。

 

 一色シンパの男子生徒とアンチ一色の女子生徒が校内の至るところでそれぞれ顔を突き合わせて、前者は忠誠心をますます高め。そして後者は不満や悪口を共有した後のクールタイムに、客観的な情報を提示されて勧誘を受けていた。

 

 

「そりゃあ一色が気に入らないって点では、誰よりも私らが一番気に入らないよ。あいつの悪口を聞いてくれるのなら、一日中だって三日連続だって喋れるよ。けどさ、それだけを理由に会長を決めるのは、ちょっと違うかなって」

「同じ一年なのに、あの雪ノ下先輩や由比ヶ浜先輩と正面から渡り合ってるのを見たら、一色のふてぶてしさって大したものだなって思わなかった?」

 

 推薦人たちが一色を悪く言う口調には実感がこもっていて、だからこそ別の側面に言及する時にも説得力が感じられた。

 そんな彼女らが一色を会長に推すのは、当人の資質の他にも理由があって。

 

「一色本人には腹が立つ時も多いんだけどさ。一色を応援してる先輩たちとか同じクラスの子たちを見てると、なんだか情が湧いちゃって」

「それにさ、一色はサッカー部のマネージャーも続けるみたいだし、そしたら男に色目を使う余裕もぐっと減るじゃん」

 

 この段階に至っては、一色を会長職に祭り上げるという動機ですらも、説得のための一材料に過ぎなくなっていた。

 

 こうした動きに加えて、一色を第一候補とは考えていない層にも積極的に働きかけていく。

 

「第一候補が雪ノ下先輩ならそれでもいいから、二位には一色さんをお願いします!」

「由比ヶ浜先輩を推す気持ちは解るけど、じゃあせめて一色を二位にできない?」

 

 理想を言えば雪ノ下に次ぐ二番手の立場で立会演説会を迎えたかったものの、由比ヶ浜の勢いが事前の予想を大きく上回っていたので方針をあっさり変更した。

 

 当初は「由比ヶ浜より下」だと認めるリスクを嫌って、主に雪ノ下の支持層に訴えていく予定だったのだが。由比ヶ浜をかわして二番人気に躍り出る必要が無いのなら、両者の支持層を無差別に勧誘できるという利点が生じる。

 

 こうした「二位でも良いから」という妥協的な提案とは裏腹の必死さには、当惑する有権者も少なからず居たのだが。そうした反応を示しそうな生徒は後回しにされたり、いよいよ接触するとなった時には説得者を選抜したり事前の打ち合わせをするなどの対策が取られていた。

 

 ここまで細かな対応が可能なのは、一色の観察眼によるところが大きい。各生徒の性格を深い部分まで瞬時に見抜いて、適切な働きかけを指示しているからだ。

 どうしても相手の気持ちを尊重しようとしてしまう由比ヶ浜と、効率的な対応が徹底している一色の差が如実に結果に反映されていた。

 

 選挙戦の一日目に「無党派層の反応を読めるのは一色しかいない」と評したせんぱいの言葉を見事に証明してみせた一色は、ファンや推薦人を手足のように動かして大勢の生徒を籠絡していく。

 

 

 そうした活動的な面々を支えるべく、地味な裏方作業に従事している四人は遊戯部の部室にて膨大な情報をさばいていた。

 

「選管からメッセージ、来ました!」

「自動的にwikiへのアップ……一般公開も下書き情報も込みで成功してます!」

 

 全員のもとにメッセージが届いた瞬間に、秦野と相模が順に声を張り上げると。

 

「了解。秦野と相模はもとの仕事に戻ってくれ。材木座はメッセージと一文字でも違う部分が無いかを確認。続けて下書き情報の文面もチェックして、その後は目に付いた反応を報告するのと、一分後と五分後のアクセス数を読み上げてくれ。タイマーかけとけよ」

「うむ、任せておくが良い」

 

 比企谷八幡の指示を受けた材木座義輝が端的に答える。

 

 いそいそと仕事に励んでいるその横顔をちらりと見やって、「これからの小説家には編集者のスキルも必須だ」という強引な理由付けで朝一番から発破を掛けたのが功を奏しているようなので苦笑いを浮かべつつ、八幡もまたもとの仕事に戻る。

 

『ついに明日は投票日!

 今日は次期生徒会の人事案が発表されるかも?

 でも明日まで秘密の陣営もありそうだぞ?

 各候補の主張をよく聴いて、よく考えて投票しよう!

 以上、選挙管理委員会がお伝えしました』

 

 選管からのメッセージはここで終わっている。しかしwikiにはこの通知に続けて、決定済みの副会長・書記の名前が記されていて、さらには昨日判明した情報も明記されていた。

 すなわち、雪ノ下には役職不明で一色を採用する意思があり、由比ヶ浜は友人二人を会計と庶務にして監査役に一色を据える予定であると書かれている。

 

 選管が人事案の話に言及するのは事前に判っていたので、前もって下書き状態で保存しておいた文面をメッセージの自動転送と同時にアップしたのだ。

 

 

「ほむん、さすがは此奴らが作ったプログラムよ。文面に相違は無く、下書き情報もそのまま残っておるわ。だが、いまださしたる反応は無いようだの。一分間のアクセスは……のべ三割である!」

「各自でメッセージを確認できるのに、一分で全校生徒の三割が来るのか……」

「記念カキコのついでに他の生徒の反応を見に来たって感じですかね?」

 

 全校生徒がどの候補を支持しているのか、その情報をまとめる形で始まったwikiだったが、早い段階で遊戯部の二人が「まとめサイト」的な側面を充実させようと提案して来た。コメントも自由にできる形式にして一気に集客数を上げたいとの訴えを、八幡は二つ返事で了承する。

 

 一色陣営のみが閲覧できる裏ページを整備し終えた二人はすぐさまそれに着手して、昨日の最終下校時間の直前にようやく公開まで漕ぎ着けた。昨日材木座が宣言した編集機能の一部開放は、特にこの「まとめサイト」において顕著だった。

 

 とはいえ編集はあくまでも編集であり、各陣営の集会の詳細や選管の発表一覧などを最初にひととおりまとめておかないと、訂正やコメントどころか誰も見てくれないだろう。

 

「昨日アップした情報が評判になってるみたいだし、それの影響も大きいんじゃね。まあ、そのせいで俺は連日深夜まで自室で缶詰になってたわけだが」

 

 材木座の報告を受けた秦野が驚きまじりの口調で呟き、続けて相模が斜に構えた口調で推測を口にしたのでこう答えたものの。

 たちまち連夜の疲労が蘇ってきて机に突っ伏したくなった八幡は、働きたくないでござると小声で繰り返しながらも首に力を込めて、下を向いてしまわないように身構える。

 

「さすがは国語力に定評のある我が相棒よ。記述が正確で読みやすいのは長い付き合いゆえに予測しておったのだが。自らの発言すらも客観的に編集できておるのを見た時には、我の専属編集者はやはりお主しか務まらぬと……」

「お前の世迷い言は今度聞いてやるからちょい黙れ。つか小説のダメ出しでは俺以上にこいつらの世話になってるだろ?」

 

 自分が喋っている動画を見ながら発言の趣旨をまとめた時には、恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。それでも、この動画を一般に晒されるよりはと頑張ったのに。無情にも「動画も置いたほうがいいですよね~?」という一色の一言で八幡の目論見は露と消えた。

 

 一色の主張も理解できるので昨夜は感情を押し殺したものの、嫌なものは嫌という気持ちは消えていない。ゆえに材木座の物言いに苛立ちを覚えて、言葉を遮った八幡だったが。

 

「いえいえ、比企谷先輩を差し置いて俺たちなんて!」

「ええ、専属編集者は比企谷先輩しか務まりませんよ!」

 

 後輩二人との間で材木座の押し付け合いが始まっていた。

 とはいえ、こうなると苦笑するしか無いので逆に肩の力が抜けた気がする。そう考えながら八幡は話を元に戻す。

 

 

「ま、それはこいつのデビューが決まってから考えりゃ充分だろ。だからその日が来るまで永遠に挑み続けてくれ。……んで、そろそろ五分じゃね?」

「うむ、残り五秒・四……。ほほう。五分間で何と、のべ八割とな!」

 

 のべ人数を生徒数で割った数字とはいえ、ここまで高い数値が出ると驚きとともに喜びもひとしおだ。

 

「これって完全にポータルサイトとして認識されてますね。話題になってるし便利だからか……それとも昨日の剣豪さんのパフォが功を奏したのか?」

 

 選挙戦を争っている一陣営が主催しているにもかかわらず、実質的には公的なメディアとして受け入れられている。そんな手応えを感じた秦野が、理由を検証している声が聞こえて来た。

 

 その瞬間、なぜか「デファクトスタンダード」という言葉を口にしながらろくろを回している見知らぬ男の姿を幻視してしまった。

 とはいえその手の意識高い系と顔を合わせる機会は当分なさそうなので記憶から抹殺して、八幡もまた原因の推測に頭を働かせる。

 

 話題になっているのも大きいし、大勢が知っているという側面も大きいのだろう。これらが相乗効果をもたらして、選挙の話題を出す時にはあのサイトを見ている前提で、というぐらいにまでwikiの存在が広がっているという実感がある。

 

 全校生徒のそうした認識を支え担保しているのは、便利さもあるとは思うのだけれど、やはり情報の正確さではないかと八幡は思う。そして材木座が派手な捏造をぶち上げたことが、以後はやらないという宣言とともに良い方向へと働いている。

 

 なぜなら、公正に書いているのは読めば判るといくら主張したところで、疑いの目を向けてくる生徒たちを説得するのは難しい。どうせ一色陣営に有利な書き方をしてるんだろ、という思い込みを打破するには、あのパフォーマンスは意外と理に適っていたりするのだった。

 

 そして「まとめサイト」という側面を加え、気軽にコメントも書けるようにして参加型の要素も組み入れたことで、この流れは確定した。今から対立候補がこの手の情報サイトを立ち上げても追いつくのは不可能だろうし、そんな暇もないはずだ。

 

 おそらく有権者たちはこのwikiを見るたびに、一色への認識を改めるだろう。それは勿論ほんの僅かな改善に過ぎないけれど、他とは違う面白いこと・役に立つことをやっているなと捉える生徒が少しでも増えてくれれば万々歳だ。

 

 そんなふうに考察を続けていると、相模の声が聞こえて来た。

 

「剣豪さん、コメントはどんな感じですか?」

「ふむ……情報が早いという感想が目立つ程度よな。特に『サラマンダーより、ずっとはやい!!』というセンスあふれるコメントが……」

「思いっきりお前の書き込みじゃねーか。名前がばっちり出るんだから、あんま馬鹿なことをしでかすなよ」

 

 こいつの評価をもう少し上げてやるかと見直した途端にこれなのだから、わざとやっているのかと勘繰りたくもなるのだけれど。横からじろっと眺めてみても、ただ単に大受け間違いなしと考えてやったとしか思えない。

 

 はあと一つ溜息を吐いて、八幡は再び口を開く。

 

 

「問題は今日の集会だよな。俺らは開催しないから良いとして、雪ノ下と由比ヶ浜のをどうするかね。昨日みたいに何を言われるか分からないって考えると、できれば現場に居たいところなんだが……」

 

 情報を簡潔に分かりやすくまとめる能力に長けている者は、一色陣営にそれほど多くは居ない。八幡が連日深夜まで拘束されてしまったのはそれが原因だ。

 

 それに八幡は国語学年三位(中間は同点で二位)とはいえ四位以下とは大きく差が開いているので、実質的には三強の一角と言って良い。そこまで図抜けた能力を考えると、裏方でwikiの編集に専従させたい気もするのだが、と八幡が妙に客観的に自分を認識していると。

 

「裏ページで昨日やったリアルタイム速報って、比企谷先輩はどうでした?」

「ああ。あれは確かに便利だったし、なるほどな」

 

 少しだけ控え目な口調で提案する秦野の声が聞こえて来たので意識を戻して、瞬時に意図を悟った八幡がそう答えると。

 

「少しぐらい読みにくくても、リアルタイムってだけで価値がありますし。集会に参加しながらでも、話の流れを振り返れたら便利だと思うんですよね」

「安心するが良い。我は編集能力も一流であると見せつけてくれようぞ」

 

 相模の話には深く頷いた八幡だったが、材木座のことは全く安心できない。

 とはいえそれは後輩二人も同じ気持ちだったみたいで。

 

「剣豪さん、速報なんだから編集とか入れてる暇ないですよ」

「現地特派員の先輩たちからの報告を、そのまま垂れ流す感じですかね。要約とか編集は、集会から帰って来てから比企谷先輩が一晩でやってくれますよ」

 

 秦野とは気持ちが同じだったが、相模は少し刺々しい。

 それでも八幡が相模に向ける目には、同情と慰めの気持ちが込められていた。

 

「お前って同学年からすっかり弟認定されてたもんな。まあ、あれだ。諦めて一回ぐらいはねーちゃんって呼んでやれ。たぶん激しく喜ぶと思うぞ?」

 

 お前の気持ちはばっちり解るぜ災難だったなと目で伝えながらも、人生の先輩として良い忠告をしたつもりの八幡だったが。

 

 混同を避けるためとはいえ、八幡が「相模弟」と連呼していたのが最大の原因であるとは一色陣営の誰もが認めることなので、当然ながら相模の恨みは収まらない。

 

「……比企谷先輩は一色を応援している身でありながらも同じ陣営の相模南や対立候補の二人にまで……」

「だから管理者権限を使ってwikiを改竄するのはやめてくれ。からかい過ぎたのは認めるから、つか秦野も爆笑してないでこいつを止めろよな。あと材木座、自分のページに隠しリンクを作って小説をアップするのはやめろっつーの」

 

 そんなふうにぎゃあぎゃあと言い争いをしながらも、為すべきことはそれぞれきっちりこなしている。

 

 昼休みに届くであろう選管からのメッセージに備えて、今までの集会の概要をまとめたページに飛べるリンクを下書きしている八幡。

 システム全体を見渡して不具合や不正なアクセスがないかを随時監視している秦野と相模。

 書き込まれたコメントを逐一確認して、問題ありと見なせばただちに一同に報告する材木座。

 

 始業時間が始まるギリギリまで、四人が手を止めることはなかった。

 

 

***

 

 

 昼休みの通知に対しては驚きの声が校舎のそこかしこから漏れたものの、それ以外にはさしたる出来事もなく。とはいえ短い休み時間すら惜しんで各陣営が勧誘を繰り返したので、校内はすっかり浮かれまじりの熱気に包まれていた。

 

 そして放課後がやって来る。

 

 この日に開催されるのは、雪ノ下の集会ひとつだけ。なので前日・前々日と比べて半時間ほど遅い時刻が記されていた。

 

 一色陣営が集会に及び腰なのは周知のことではあるのだけれど。

 集会を見送った由比ヶ浜の意図がどこにあるのか分からないままに、関係者一同は二年J組に集結した。

 

 

***

 

 

 教室内の様子は先日の集会と同じようなものだった。

 向かって左手には雪ノ下と葉山隼人が座っている。右手側には由比ヶ浜・一色の両候補と、その後ろには三浦優美子・海老名姫菜・大和・八幡が並んでいる。

 

「相模がかちんこちんだったって文実の一年が言ってたけど、なんか悪かったな。今日は俺に任せてくれるか?」

「えっ、と。その、うちは座ってただけだし、謝る必要なんて……で、でもどうしたの今日のヒキタニくん、いつもよりも格好い……いたっ」

 

 すぱこーんと良い音が響いたので相模の背後に視線を送ると、なぜか一色がハリセン片手に迫力のある笑顔を浮かべていた。いつもは同じように容赦なく頭を叩いて相模を正気に戻している取り巻き四人衆すらも若干引いている。

 

 そのままくいっと顎で席を指されたので、やましい現場を目撃されたような居心地の悪さから一刻も早く抜け出したくて、八幡はすごすごと椅子に歩み寄ってちょこんと腰掛けたまま不動を貫いていた。

 

「なあ。空席が五つって、どういう……?」

「ん……ああ、いや、俺にも分からん」

 

 隣席の大和が訝しげな様子を隠そうともせず小声で尋ねて来たので、奥に座る二人にちらりと視線を送った八幡はそのまま素直に答える。そして雪ノ下たちの様子を盗み見て、言葉を付け足した。

 

「ただ、由比ヶ浜の陣営だけは心当たりがあるみたいだな。今の俺らが校内の情報収拾で後れを取るとは、正直考えにくいんだが……?」

 

 そんな八幡の疑問は、城廻めぐりの登場によって解消された。

 

 いつものように本牧牧人と藤沢沙和子が後を追って入って来て。続けて教室に顔を見せたのは、違う制服をまとった女子生徒二人。

 

 つまり、折本かおりと仲町千佳だった。

 

 

*****

 

 

「予定の時刻になったので、選管を代表して現生徒会長の私が、雪ノ下さんの集会開催を宣言します!」

 

 そう言い終えた城廻は、教室の入り口に並んで立っていた他の四人を促して空席へと向かった。

 

 すぐ横を通り過ぎる時に、昂揚した表情の仲町からは小さく手を振られ、今にも笑い出しそうな折本からは大きなピースサインを示されて。頭の中で色んな可能性を考察するので精一杯の八幡は、曖昧な苦笑を返すぐらいしかできなかった。

 

「はじめに、この二人の特別ゲストを紹介するねー。来月のクリスマスイブに合同イベントをしたいって提案してくれた、海浜の折本さんと仲町さん!」

 

 椅子の前でくるりと周りを見渡して、教室の後方に向けて姿勢を定めた城廻がそう言うと、二人がぺこりと頭を下げた。そして大きな拍手に包まれる中で顔を上げる。

 

「えっと、選挙前日の大事な集会だって聞いて、一緒にイベントをする人たちをもっと詳しく知りたいなーって思ったので来ちゃいました!」

「わたしは、そんなかおりの付き添いとー。あと、葉山くんの応援に来ました!」

「えっ、千佳?」

 

 隣に並ぶ折本すらも意表を突かれて立ち尽くしている。

 それとは対照的に仲町はきびきびとした動きで再び前を向くと、葉山に向かって軽く頷きかけてからゆっくりと席に着いた。

 

 どうしたものかと本牧と藤沢がおろおろしていると、折本がぷっと吹き出して、「千佳が本気すぎてウケる!」と小声で呟きながら勢いよく腰を下ろした。そして八幡に向かってこれ見よがしに再びピースサインを送る。

 

「波乱含みの始まりだし、今日の集会も気を抜けないなー。じゃあ、私たちも座っちゃうから、あとは雪ノ下さんにお願いするねー」

 

 とはいえこんな程度の波乱では、総武高校が誇る現生徒会長を驚かせるには至らない。

 いつもと何ら変わりのないぽわぽわとした口調で雪ノ下に進行役を委ねると、城廻は後輩二人に一声掛けてから椅子に腰を落ち着けた。

 

 

「では集会を始めます。まずは、私としては不本意なのだけれど、先程の仲町さんの発言を取り上げたいと思います。おそらく、この部屋に居るほぼ全員がそれを希望していると思うのですが、いかがでしょうか?」

 

 陣営の枠を超えて、ほぼ全ての生徒が雪ノ下の提案に拍手を送っていた。その中には、壇上に座る二人の眼力にはさすがに及ばないものの、怒りの篭もった目で仲町を凝視する女子生徒も少なくない。

 

 そんな環境でも平然と座っている仲町と、面白がって人一倍大きな拍手を続けている折本を除けば、例外はたったの二人。

 

 葉山は、少なくとも表面的には何らの変化も見せず。しかし身動きどころか瞬き一つせず、同じ表情と姿勢を保っている。

 八幡も目立った変化がない点では同じだが、その背中には冷たい汗が流れていた。気になることを思い出したからだ。

 

 土曜日に折本たちを見送った後で、八幡は葉山の正面に席を移した。その時に、店を出て帰路に就いたはずの二人の姿を窓越しに確認できなかった。そして幾ばくかの間を置いて、()()()が姿を見せた。

 

 目だけを動かしてじろりと葉山を睨み付けると、ふと視線が合った。

 静かに目を閉じて再びゆっくりと見開いたのは、おそらく同意の意思表示だろう。

 つまり、この一件の黒幕は……。

 

 

「葉山くんが応援してるあなたが苦戦してるって聞いて、葉山くんの助けになれたらいいなって思ったから来たんだけどねー。もしかして、お呼びじゃなかった?」

 

 きょとんと首を傾げながら返事をした仲町は、金曜とも土曜とも違って見えた。あの時には感じられなかった静かな決意が、心の奥底に灯っているような印象を受ける。

 

 覚悟を決めた者特有の雰囲気は、先週と今週の二度にわたって立て続けに見た。さすがに彼ら二人には劣るものの、同種の気配が仲町からも伝わって来る。

 

「最初から、楽に勝てるとは思っていなかったわ。由比ヶ浜さんも一色さんも、手強い相手なのは以前から分かっていたことだから。ところで、選挙戦が終わったら葉山くんは生徒会には関わらなくなるのだけれど。それでも私を応援してくれるのかしら?」

 

 んんっと首を傾けて、ようやく意味が理解できたのか仲町がそれに答える。

 

「合同イベントは、わたしはあんまり関わる気はないんだよねー。かおりとか会長が頑張ってくれるんじゃないかな。わたしはそういうイベント絡みじゃなくて、個人的に葉山くんと逢えたらいいなって思ってるだけでさー」

 

 話にならないと受け取ったのか、雪ノ下は軽く息を吐いてから視線をゆっくりと左に逸らした。いつ爆発しても不思議ではない二人の様子を確認して、再び仲町を正面から見据える。

 

「葉山くんの応援に来たとか助けになれたらとか、そんなことを言っていたと記憶しているのだけれど。貴女の言動を振り返ると、葉山くんの邪魔をしに来たとしか思えないわよ?」

 

「だって、応援は応援でしょー。わたしが葉山くんを応援してるのは間違いないじゃん。それがどうして邪魔しに来たってなるの?」

 

 これは能力の差がありすぎて話が成立しないパターンだなと八幡は思った。

 

 同じ日本語で対話をしていても、言葉の捉え方がかけ離れていたり、あるいは抽象的な思考に優れている者と不得手な者では会話にならないことがある。

 具体的な例を挙げると、「大した胆力だこと」と大人の美人から皮肉を言われても、その言葉に身構える者がいる一方で、心底から褒められたと受け取る者もいる。そういう話だ。

 

 どうしてこんな具体例を思い浮かべてしまったのか、なぜこんなにも背中がぞくぞくするのか理解できないままに、八幡は再び二人に意識を戻す。

 

「……貴女にとっては、葉山くんを助けたいという善意に基づく行動なのね。でも、他校の生徒から応援を受けるのはリスクを伴うのよ?」

 

 根気強く説明を続ける雪ノ下だが、まず通じないだろうなと八幡は思う。

 

 内部の問題に外部の者が口を挟むことは、確かに抜群の効果をもたらす時もあるけれど、強い忌避感を呼び覚ますことも多い。そしてその負の感情は、部外者に向く時もあれば、その者を呼び込んだ人や手助けを受けた人に向けられる場合もある。

 

 雪ノ下はリスクという言葉を使って、これでも婉曲に話をまとめようとしているけれど、要するに早い話が「ありがた迷惑」なのだ。そこまではっきり告げないと、仲町にはおそらく通じないだろう。

 

「えっ。他の高校にも応援してくれる人が居るってなったら、心強いと思うんだけどなー。リスクって、なんで?」

 

 やはりかと八幡は歎息するしかない。

 

 葉山を助けたいというその決断はご立派だし、同性から恨みを買うリスクに対しても覚悟ができているのだろう。すぐ目の前と奥の席から伝わって来る怒りのオーラは尋常ではなく、この件に関しては部外者の八幡でさえも可能なら逃げ出したいと思うほどなのに。

 

 仲町は今なお平然と佇んでいて、隣席の折本が冷や汗を浮かべながら何度も首を捻っているのとは対照的だ。

 

「我が校のことは我が校の生徒だけで解決すべきだということよ。外部の手を借りて選挙に勝ったところで、正統性という点で問題があると思うのだけれど?」

 

 そして雪ノ下にも問題、と言うと少し表現が過剰ではあるものの、世間ずれした側面が顔を覗かせている点が話をますます面倒にしている。

 

 なにせ高校の生徒会長に対して使うには、正統性という言葉はどう考えても重すぎる。なのに当人は得意げな顔つきで、今にもアタナシウス派とか南北朝正閏論といった歴史用語を口に出しそうな勢いなのだから。

 

 雪ノ下にとっての常識って高校生離れした水準にあるんだよなと、八幡は苦笑いを漏らすしかない。

 

「うーんと……合同イベントに関わる気はないってさっき言ったよね。例えばさ、会長があなた以外だと協力しないとか、そういう脅しかたをしたら問題なのは分かるんだけどねー。どうしてわたしが葉山くんを応援したら問題になるの?」

 

 教室の後ろと繋がっている体育館からざわつく声が聞こえて来た。壇上の一同や椅子に座っている面々に目立った動揺は見られないものの、驚きの気配は伝わって来る。

 

 意外と考えるところは考えているんだなと少しだけ仲町を見直しながら、八幡は雪ノ下に視線を向ける。

 

「なるほど。つまり貴女は、葉山くんに応援の言葉を届けることだけを考えているのね。私の当落には興味を持たず、むしろ警戒されていると考えたほうが良いのかしら。でも明確にしておきたいのだけれど、私と葉山くんがそうした関係に発展することは、金輪際あり得ないわ。つまり貴女は警戒する相手を間違えているのよ」

 

 そう言って雪ノ下が視線を壇上に戻すと、まるで檻から飛び出した猛獣のような勢いで三浦が口を開いた。

 

 

「いくら健気に応援したからって、そんなので隼人の気持ちが動くわけないし!」

 

 八幡はこの辺りの機微に疎いので、雪ノ下の発言に飛躍があるのではないかと受け取ったのだが。どうやら女子生徒の間では、先程の洞察に異論は無いみたいだ。

 その証拠に、すぐ目の前からも声が上がる。

 

「ですね~。葉山先輩って、そんな楽な相手じゃないですよ~?」

 

 のんびりとした口調の奥に底知れぬ迫力を湛えて一色が告げると、仲町はぽかんとした顔つきになって、そして静かに疑問を口にする。

 

「えっと……そんなに葉山くんのことが好きなら、どうして違う候補を応援してるの?」

 

 一色が立候補者だと認識できていないのが丸分かりの発言だが、その主旨は明確だ。

 思いがけない問いかけを受けて、八幡の目の前では一色が首を左右に捻っている。

 

「あれっ。そういえば、なんででしょうね~。葉山先輩に手伝って貰えたらばっちりだったのに、でも雪ノ下先輩がさっさと、けど思い付きもしなかったのは、だってせんぱいが……あれっ、なんでだろ?」

 

 誰にも聞こえないような小さな声で戸惑いを口に出していた。

 

「何でもかんでも隼人に賛成ばっかりなのは良くないし!」

「わたしは、そうは思わないなー」

 

 そんな一色を尻目に、三浦が吠える。好きという指摘はスルーしたものの、ほんのりと頬が赤くなっているのが微笑ましい。

 

「隼人は隼人で、応援したい候補を応援したら良いし。あーしはあーしで、結衣を応援したいから応援するんだし!」

「じゃあさー。葉山くんと、その結衣さんと。どっちかを選ばないとってなったら、結衣さんを選ぶんだ?」

 

 ぶちっと、三浦の何かが切れた音が聞こえた気がした。

 それは八幡の気のせいではなかったみたいで、ここまで沈黙を守っていた海老名と由比ヶ浜が立て続けに口を開く。

 

「ほら、優美子。集会の真っ最中なんだから、今はこらえて」

「あたしは気にしないけど、こんな質問には答えなくていいからね。えっと、仲町さんも極端な質問は遠慮して欲しいなって」

 

 そんな由比ヶ浜の配慮にも聞く耳を持たず、仲町は何かに取り憑かれたような勢いで話を続ける。

 

「わたしは、かおりと葉山くんのどっちかを選べって言われたら、葉山くんを選ぶよ!」

「ちょ、千佳っ……でも、悔しいけどマジウケる!」

 

 こんな状況すらも楽しめてしまえる折本って凄ぇなと、呆れを通り越して賞賛の気持ちを抱いてしまった八幡だった。

 だが、ここまで言われて三浦が黙っているはずもなく。

 

「あーしは、あーしだって隼人を……でも結衣も特別なんだしっ!」

「だからさー、それって、その程度の気持ちだったってことでしょ?」

「隼人のことも結衣のこともよく知らないから、そんなことが言えるんだし!」

「そうかなー。少なくとも、葉山くんが特別だってことは知ってるよー。わたしみたいな普通の子とは違うなって」

 

 最初に雪ノ下のことを「あなた」呼ばわりした時から、仲町にはどこか挑発的な雰囲気が感じられた。それがぴたりと止まったので、対話相手の三浦をはじめとした一同が虚を突かれて口を挟めないでいると。

 

「この間ここに来た時も思ったけど、みんな凄いよねー。葉山くんと同じぐらい特別な子が大勢いてさ。普通のわたしとは、住んでる世界が違うなーって。……けど、普通の子にだってチャンスは来るんだよね。合同イベントがあって、総武の会長選挙があって、葉山くんが応援してる候補がいて、けっこう苦戦してるみたいでさ。わたしがここに来る理由があって、葉山くんを応援できるんだから、そんなの来るしかないし応援するしかないじゃん。どっちかを選べって言われたら、かおりじゃなくて葉山くんを選ぶよ。だって、普通の私には、こんな機会はもう二度と来ないかもしれないんだもん」

 

 自分は普通に過ぎないと苦悩していた男子生徒を思い出した。

 特別な異性に胸を焦がして、でもその相手にとっては自分などモブに過ぎないと理解させられて。夕暮れの海辺で、ラクダに乗った王子と姫の銅像を遠くから眺めていた男の横顔を、八幡は連想する。

 

「だからさ、もう一度だけ訊くね。あなたたちが応援してる候補と葉山くんと、たった今どっちかしか選べないってなったら、どっちを選ぶの?」

「……たった今なら、結衣を応援するし」

 

 苦渋の表情を浮かべて、それでも三浦はきっぱりと答えた。

 それを聞いて少しほっとしたような顔つきで仲町が口を開く。

 

「ふうん。やっぱり、その程度なんだねー。まあ、そう答えてくれないと、普通のわたしが勝てるわけないんだけどさ。じゃあ、そっちのあなたは?」

 

 問い掛けられた一色は、うーんとわざとらしく首を右に傾けながら人差し指で頬に触れて。そして良いことを思い付いたと言わんばかりのきらきらした目つきで答えを述べる。

 

「そうですね~。ま、自分と葉山先輩だったら、選ぶのは自分ですよね~。けど~、会長になって葉山先輩も選ぶって選択肢がどうして駄目なのか、わたしには理解できないですけどね。勿論わたしは両方選びますよ~!」

 

 仲町の勘違いが功を奏したと言うべきか、一色はまたもや舐めた返事を堂々と宣言する。

 

 清々しいぐらいに自己中だよなと背後で思われている気がして少しだけむっとしたものの、今は気分が良いので勝ち気な笑顔がそれに優った。何故なら、頭の片隅で引っ掛かっていた疑問に、当座の答えを与えられた気がしたからだ。

 

「えっ。あー、候補者だったのかー。やっぱり、どっちも手強いね。他にもライバルはいるみたいだけど、あなたたち二人さえ何とかすればって感じっぽいかな」

 

 そう呟いた仲町は、二人の迫力にも怯むことなく視線を合わせて、順に火花を散らせていく。

 それを見た誰かが息を呑んだのと同時に、ふうっと息を吐いた雪ノ下が改めて口を開いた。

 

「これ以上この話を続けても仕方がなさそうね。だから葉山くんに、収拾をお願いしたいのだけれど?」

「まあ、仕方ないな。身から出た錆だと思えば諦めもつくよ」

 

 隣席にだけ聞こえるように小声で返して、葉山がおもむろに立ち上がった。そして仲町の前まで歩いて行くと、そこでしゃがみ込んで、目線の高さを同じにしてから話し始める。

 

「君の気持ちは嬉しかったし、応援もありがたいなって思ったけどね。でも、ごめん。今はそういうこと、あまり考えられないから」

「うん……わかった。ごめん、わたし帰るね」

「えっ、ちょっと千佳っ……」

 

 たっと椅子から立ち上がって廊下へと走り去る仲町に慌てて声を掛けたものの、がらっと扉を開けた時にこちらを振り返って少し頭を下げただけで、そのまま背中を向けられた。

 

「あー、えーと、私も帰ります。選挙の邪魔してごめんなさい!」

 

 おそらく自分ではなく総武の生徒たちにごめんなさいって意味のお辞儀だろうなと考えながら、折本も急いで立ち上がると慣れない謝罪の言葉を口にして、そのまま仲町の後を追う。

 

「あー、もうっ。暴走するのは千佳じゃなくて私の役目でしょー!」

 

 程なくして廊下から大きな声が聞こえて来た。続けてすすり泣くような声が伝わってくる。

 静かに立ち上がった城廻は、「聞いちゃ駄目だよー」と口にしながら扉をしっかり閉めて。そして元の席に戻ると、雪ノ下を見つめながら頭を小さく縦に動かした。

 

 

「なんだか嵐に遭ったみたいな気分ですね。ところで、城廻先輩から連絡を頂いたので空席を五つ用意したのですが。一色さんはともかく、由比ヶ浜さんは誰が来るかを知っていたのではないかしら?」

 

 まずは城廻の頷きに応えて、雪ノ下はそのまま由比ヶ浜に視線を向けて疑問を伝える。

 

「うん、まあね。あたしの友達の友達が海浜の生徒会に居てさ。けど、こんな話になるなんて予想できなかったよね……」

 

 由比ヶ浜が正直に答えたものの、雪ノ下は険しい表情を浮かべたまま口を開かない。

 それを見た壇上の面々が首を傾げていると、元の席に戻った葉山が少し疲れた声で話し始めた。

 

「念のための確認だから、気を悪くしないで欲しいんだけどさ。これ、結衣たちが仕組んだわけじゃないよね?」

 

 その言い草を耳にするなり、思わず八幡は立ち上がって反論しそうになった。だがすんでの所で自制心を働かせて、身体を前のめりにしただけで踏み止まる。

 一色の参謀役という立場のせいで自由に声を発することができない己の状況に辟易しながらも、責任感でその感情を押し殺した。そしてますます自分自身に辟易する。

 

 仲町の暴走が発端となって、雪ノ下陣営の対応に違和感を覚える生徒が出始めたのは明らかだ。事態を収拾するためとはいえ、公然の場で葉山に断りを入れさせた雪ノ下の振る舞いは、男子からも女子からも良くは思われないだろう。

 

 もちろんその行動は理に叶っている。だから表立って非難する声は出ないだろうけれど、感情は別物だ。雪ノ下が葉山との関係をきっぱり否定したことすらも、今後の状況次第では悪いように受け取られかねない。

 

「うん。あたしたちは、そんなことはしないよ。さっきも言ったけど、海浜の二人が来るのは知ってたんだ。それは、うん、間違ってない。けど、何かを企んだり仕組んだりってのは、考えもしなかったな。証拠とかがあるわけじゃないから、信じて欲しいって言うしか無いんだけどね」

 

 我先に口を開こうとする背後の二人を大きな身振りで制して。珍しく固い表情を維持したままで、由比ヶ浜は静かな口調できっぱりと疑惑を否定する。

 

 葉山の問いかけはその言葉どおり確認に過ぎず、むしろこのタイミングで話を明確にしておくことがお互いにとって一番良いと理解しているからこそ、由比ヶ浜は自らの非にも言及して話を終えた。

 

「そう。それなら良いの。不躾な質問をして、言いにくい事を言わせてしまってごめんなさい」

 

 そう言って雪ノ下が頭を下げると、大勢の口からどよめきが漏れた。

 そして反応は半々に割れる。

 

 雪ノ下陣営からのあまりと言えばあまりな質問に、忌避感をますます強くする生徒も居れば。

 三陣営の中で唯一情報を掴んでいたのは間違いないのに。そして疑惑が広がる前に敵陣営に火消しをして貰ったとも言える状況なのに。その上さらに雪ノ下に頭を下げさせた由比ヶ浜に対して、負の感情を抱く生徒も出始めた。

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も、自分への評価はともかく、相手に対してはそんなふうに思って欲しくないと考えているにもかかわらず。

 

「ううん、いいの。でも、何だか変な雰囲気になっちゃったね」

 

 そんな生徒たちの反応を余さず把握できてしまえる由比ヶ浜は、小さく首を振りながらそう返して。そして少しでも場の空気を変えようとして言葉を付け足すと、微かに笑顔を浮かべた。

 

 

 葉山が発言した直後にここまでの展開を予測していた八幡は、強く唇を噛みしめながら不動を貫いていた。そして頭を目一杯に働かせて、今後の対応を検討していく。

 

 まず今の状況は、一色陣営にとっては理想的と言って良い。ライバル二陣営が株を落として、自分たちには何らの影響も出ていないからだ。

 

 そもそもこうした場面を見据えて、八幡は二位狙い戦略を組み立てていた。一位の候補に対して疑念が湧いた時に、じゃあ二位で投票するはずだった候補を繰り上げで一位にするかと有権者に考えて貰えるようにあれを仕組んだのだ。

 

 けれども、こんな理不尽な形で雪ノ下と由比ヶ浜が評価を落とすのを、八幡は望んでいなかった。できれば一色の主張が二人を上回るという形で、全校生徒からの支持を逆転させる展開を望んでいたのに。

 

 何もしがらみが無ければ、今すぐにでも二人を擁護するための行動に出たい。なのに今の自分は肩書きに邪魔をされて、本当にしたいことができない状況にある。

 

 もしかしたら、二人と敵対したから罰が当たったのかもしれない。そんな疑いがちらりと頭を過ぎるほどに、八幡は現状に対してやるせない想いを抱いていた。

 

 けれども冷静になってみると、選挙戦はまだ終わっていない。それに差は確実に縮まったとはいえ、一色の勝利が厳しいことに変わりはないのだ。敵陣営に温情を掛ける余裕など、自分たちは持ち合わせていない。

 

 だから、心を鬼にしなければならない。

 

 自ら仕組んで二人を陥れるような邪法は死んでも御免だが、ひょんなアクシデントで二人が足をすくわれて、なのにそれに乗じないのは逆に二人に対して失礼だ。選挙戦の序盤から今に至るまで、一色を格下とは欠片も思わず全力で勝負を挑んできた雪ノ下と由比ヶ浜に応えるには、このチャンスを見過ごすなんて論外だ。

 

 そう結論付けて、明日の立会演説会までの戦略を組み立て直している八幡の耳に、雪ノ下の声が聞こえて来た。

 

 

「では、時間も時間なので今日の集会はここまでにしたいと思います。もともと私は人事案を発表する気は無く、明日の演説で奉仕部への対応と合わせて説明する予定でした。その点をご理解下さい。明日の今頃の時間には結果が出ていると思いますが、最後まで悔いのない戦いをしたいと考えていますので宜しくお願いします」

 

 由比ヶ浜が集会を開かなかったのは、おそらく既に人事案を発表し終えていたからだろう。

 そして雪ノ下が集会を開いたのは、真面目で責任感の強い性格のせいだろう。

 だが二人の決断が異なった結果、このような展開になってしまった。

 

 雪ノ下が開く必要のない集会を開かなければ、あるいは由比ヶ浜が人事案を公表しておらず今日なんとしても集会を開く必要があったなら、こんな事態にはならなかった。

 

 仮に集会が二つあったとしても、海浜からの移動時間を考えると折本たちは由比ヶ浜の集会に出席することになっただろう。その場合に仲町と対話を重ねるのは主催者たる由比ヶ浜だ。となると、今とは違った結末になっていた可能性が高い。

 

 そう考えると、いずれにせよ集会を開くという責任を引き受けた者が一番損をして、そして弱小候補の利点を最大限に活かして端から集会を開く気がなかった自分たちが一番得している。

 

 それに、情報の収集という点で自分たちは敵陣営に後れを取ったのに。なのに海浜のあの二人が参加するという情報を得てしまったがゆえに、由比ヶ浜は窮地に陥った。

 

 いずれも、理不尽な話だ。

 

 責任を引き受けられる者が、そして情報を得られた者が馬鹿を見る。ならば個人の能力に一体なんの意味があるのだろう。人より秀でているのに報われないなんて、他人を思い遣ったり笑顔にできるあの二人が酷い目に遭うなんて、どう考えても不条理じゃないか。

 

 だからこそ、二人をそんな立場に立たせるのではなく、能力を存分に発揮できる奉仕部という組織に居続けて欲しいと八幡は思う。同時に、一色ならその手の理不尽にも上手く対応できるだろうと期待を寄せる。だから、この配置こそが適材適所のはずだ。

 

 とはいえ、今は何よりも優先して片付けておくべき事がある。

 だから八幡は、集会直後のざわついた雰囲気の中でいち早く席を立つと、一色の背中に声を掛けた。

 

「悪いけど、後は一色に任せるわ。あ、遊戯部の二人と材木座の誰でもいいから、俺が行くのが少し遅れるって連絡しておいてくれると助かる。じゃあな」

 

 そう言い終えると、八幡は一色の反応を待たずに教室を出る。

 少しだけ距離を置いて後を追ってくる男の存在を背中に感じながら、八幡は空き教室へと移動した。

 

 

***

 

 

 空き教室にて、八幡は葉山と二人で向かい合っていた。

 とはいえ目の前の男と対話をするのが目的ではない。

 

「この時間に連絡しても繋がるのかね?」

「ああ。今日に限っては出てくれると思うよ。じゃあ、俺が映像通話でかければ良いかな?」

 

 その提案に頷きを返すと、葉山はアプリを立ち上げて相手を呼び出す。

 ほぼノータイムで通話が繋がって、二人の前に見知った女子大生の姿が浮かび上がった。

 

「隼人がこんな時間に連絡してくるなんて珍しいね。お、比企谷くんも居るじゃん。ひゃっはろー?」

 

 いつもと何ら変わらぬ口調の雪ノ下陽乃とは対照的に、葉山と八幡は険しい表情を崩そうともしない。

 そんな二人の様子を見て取って、陽乃はたちまち冷酷な笑みを浮かべる。

 

「その調子だと、何か面白いことでもあったのかな?」

「……土曜日にあの二人と会った時に焚き付けたんですよね?」

「雪乃ちゃんの姉だと名乗って、二人の味方を装いながら誘導したんじゃないかな?」

 

 八幡に続いて葉山が推測を述べると、陽乃の目が怪しく光った気がした。

 

「もう、二人とも大袈裟だなあ。焚き付けるとか味方を装うとか誘導とか、お姉ちゃんこれでも一介の女子大生に過ぎないんだけどなー」

「もしかすると、折本から声を掛けたのかもですね。雪ノ下と似てるって思ったら、そのまま口に出しそうですし」

「その流れで雪乃ちゃんの苦戦を伝えて、だから応援に行ったら俺が感謝するはずだとか、そんな感じかな。ああ見えて義理堅いし、なんて言われてそうだけど?」

 

 陽乃の戯れ言には聞く耳を持たず、二人は推測を続ける。

 

「ふーん。それで?」

「投票前日に先が全く読めなくなったって意味では、大成功なんじゃないですか?」

「陽乃さんが結衣にここまで目を掛けてるって判ったのは大きな収穫かな」

 

 そこまでは考えていなかったので、思わずぐいっと首を捻って葉山の顔を凝視してしまった。相変わらず涼しい表情をしてやがるなと考えていると。

 

「へーえ。比企谷くんでも分かんないことってあるんだね。ガハマちゃんって交友関係が広いからさ、海浜の生徒会とも繋がりがあるみたいだね」

「だからなんで俺の知らないことまで知ってんだよこの人は……」

「あの二人から情報を引き出したと考えれば辻褄は合うけど、別ルートも確実にあるだろうな」

 

 やっぱりこの人の相手は面倒くさいと精神をごりごり削られながらも、八幡は意を決して口を開く。

 

「それで本題なんですけどね。選挙戦にちょっかいを掛けるのは、これで終わりにして欲しいんですけど?」

「嫌そうな顔で要望したら、ますます喜び勇んで介入してくるぞ。陽乃さんも、引き際は心得ていると思うけどな」

 

 さすがに付き合いが長いだけあって、葉山は八幡にフォローを入れつつ挑発的な目で陽乃を見据えた。こちらが弱さを見せるとたちまち距離を詰めてくるのを嫌というほど知っているからだ。

 

「うーん。ちょっかいとか介入とかお姉ちゃん分かんないなー。けどま、分かんないけど興味もないって感じかな。どっちみち明日には結果が出るんでしょ?」

「ですね。じゃあ俺らは選挙戦に戻りますけど、一つだけ訊いても良いですか?」

 

 明言こそしていないものの、こうまで口にした陽乃が言を翻したり屁理屈を捏ねるとは考えにくい。なのでこちらも引き時だと判断した八幡がそう告げると、にこやかに頷かれたので。くいっと顎を動かして葉山を促した。

 

「陽乃さんは、雪乃ちゃんがどんな結果になるのを望んでいるのかな?」

「うーん、どんな結果って言われてもさ。まあ結果自体はどうでもよくて、それを雪乃ちゃんがどう受け止めるかが楽しみだって感じかなー」

 

 目をくりんと動かす仕草は無邪気なもので、まさかこの人が仮面の下に多面性を備えているとは誰も思わないだろう。自分たちにしたところで、今の発言だけは本音ではないかと考えてしまいそうになる。けれども、そんな保証などありゃしないのがこの人の厄介なところだ。

 

「どんな結果になっても、陽乃さんは意外に思わないってことかな?」

 

 八幡がそんなことを考えていると、葉山が少し渋い顔で疑問を重ねた。

 それに答える陽乃に皮肉な調子はかけらもなく、やはり本音を口にしているように思えてしまう。何らの理由も裏付けも無いというのに。

 

「まあねー。もしかしたら雪乃ちゃんのことだから、わたしの知らないやり方を見せてやろうとか考えてるかもしれないけどさ。隼人なら、めぐりの前の生徒会長を覚えてるでしょ。あの子にしろめぐりにしろ、わたしとは違うやり方で結果を出せる人材なんて、意外とそこらに居るんだよね」

 

 葉山の表情がますます険しくなっているが、陽乃はどこ吹く風だ。それどころか、こんな一言まで付け足してくる。

 

「ねー、比企谷くん?」

「まあ、ぼっちになるって結果は陽乃さんには出せないでしょうね」

 

 

 その返答にうんうんと大きく頷いて、陽乃は楽しそうに話を続ける。

 

「比企谷くんってそういうところが面白いよねー。じゃあ……あ、そうだ。隼人に苦労させたお詫びに、ちょっとしたプレゼントがあるんだけど?」

 

 地雷でも渡されそうな気がしたので、葉山だけではなく八幡までうげっとした顔をしていると。

 

「そんな顔をしなくても、ちゃんと役に立つものだってば。たしかさ、隼人って雪乃ちゃんに試験で一度も勝ててないよね。それと静ちゃんから聞いたんだけど、比企谷くんって国語だけなら隼人と同じぐらいの成績なんだって。隼人が気を抜けば抜かれる可能性もあるんだってさ」

 

 瞬時に真剣な表情に戻って、葉山が何かを検討している。

 この提案に乗るのは危険だと言いたいのは山々だが、八幡も当事者だけに余計なことは口にできない。

 そんな二人を交互に眺めてますます笑みを深めながら、陽乃が詳細を述べる。

 

「今度あるのは高二の二学期の期末試験だよね。国語の過去問と静ちゃんの性格分析も含めた対策ノート、今回のお詫びにあげるって言ったらどうする?」

「それ、もしかしてわざわざ持ち込んだんですか?」

 

 この世界にログインした段階でどこまでを見通していたのかとおののきながら、八幡が敢えて道化た口調で疑問を伝えると。今度こそ擬態なしのきょとんとした目つきを向けられた気がした。

 

「ぷっ。比企谷くんって時々すごく冗談が上手いよねー。持ち込んだんじゃなくて、今から作るだけだってば」

「え、っと。三年前の試験問題を覚えてるんですか?」

「あれっ。それぐらい普通は覚えてるでしょ。小学校の小テストを思い出せって言われたらちょっと時間が掛かるけどさ」

 

 それでも時間を掛ければ思い出せるのかと、八幡が呆れ顔を浮かべていると。

 その横では、葉山が決意を固めていた。

 

「陽乃さんの目論見は分かるけど、俺も一度ぐらいは一位を狙ってみたいからね。ここは乗っからせて貰おうかな」

「そうか……。まあ、俺がどうこう言える筋合いじゃねーし、好きにすれば良いんじゃね?」

 

 そうは言ったものの、今度こそ葉山を抜いて雪ノ下の牙城に迫りたいと考えていたので内心は複雑だ。この人の介入によって、色んな先行きが不透明になるなと思いながら、じろりと視線を送ると。

 にっこりと、澄んだ目で返されてしまった。嘘くさいことこの上ない。

 

「学生の本分は勉強だからさ。隼人も比企谷くんも、大いに励みたまえ。じゃねー」

 

 その言葉とともに通話を切ったのだろう。陽乃の姿が瞬時に消えて、空き教室にはそりの合わぬ男二人が残った。

 

「選挙前日に言われても、まあ無理だわな……」

「だね。陽乃さんのせいで変な雲行きになったけど、お互いに明日の放課後まではベストを尽くそうか」

 

 そりが合わなくとも共通の敵がいれば協力し合えるし、いざ対立となると話は早い。

 空き教室を出た八幡と葉山は、各々が応援する候補のために身を粉にして働くべく、それぞれの仕事場に向かった。

 

 

***

 

 

 放課後の残りの時間はあっという間に過ぎて、たちまち夜を迎えた。

 八幡は自室にてぐったりしている。

 

「仲町の話にはできる限り触れないようにしてまとめたけど、客観的に要約するのが面倒な集会だったな……」

 

 リアルタイム速報のページも残してあるので、詳しく知りたいと思えばすぐに情報が出てくる状況だ。

 それでも公平な記述という要素が集客に役立っていると考える八幡は、選挙戦に関係のない話題や仲町の個人的な話などは極力省いて集会のまとめとした。

 

 八幡のこの姿勢は、今日の雪ノ下の応対に疑問を持った層からの支持を地味に増やす効果をもたらすことになるのだが、今の段階ではそれが判るわけもなく。後々への影響など考える余裕もないままに、八幡はベッドに寝転がってじっと身体を休めていた。

 

 身体は疲れているのに、頭が妙に醒めているのですぐには眠れそうにない。

 八幡がそんなことを考えていると着信音が響いたので、よっこいしょと起き上がってベッドの端に腰掛けてからメッセージを開封した。

 

『一色さんの生徒会に会計として参加したい。他の候補が当選したら生徒会に関わる気はないから、演説でそれを利用できそうなら利用してくれ。じゃあまたな』

 

 稲村純の決断をはっきりと目の当たりにして、気が付けば小さく頭を下げていた。

 そして八幡はゆっくりと立ち上がると、部屋を出て階段を下りてリビングに向かった。

 




次回はできれば来週中に更新したいので、何とか頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(7/26)

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