場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→153p1
以下、前回のあらすじ。
雪ノ下の最寄り駅にて、八幡は文化祭前の出来事を振り返っていた。
高校を休むという提案をあっさりと受け入れた雪ノ下の決断に、今更ながらに疑念を抱いたものの。八幡は首を横に振ってその発想を退ける。
付近の喫茶店にて、八幡は数学の勉強法を伝授され雪ノ下謹製のプリントを受け取った。
勉強に関する雑談から、思いがけず昨日の陽乃の話が飛び出して。姉の寸評を伝え聞いた雪ノ下は、甘い考えを改めて選挙戦で勝ちに徹すると宣言した。
その挑発を受け止めた八幡もまた「勝つのは自分だ」と宣言すると、雪ノ下に背中を向ける。そして今後の計画を練り直しながら帰宅の途に就いた。
月曜日の朝はSHRの前に少人数で集まる予定になっていた。
とはいえ一年C組の教室では込み入った話ができないので、かつて顧問にあてがわれた空き教室を利用しようと比企谷八幡が提案して。その結果、部屋の使用権限を持つ者として、誰よりも早い時間に登校する羽目になってしまった。
「全員そろって来てくれたら良いんだが……これ、最初に来た奴と二人きりになるよな?」
教室で椅子に腰掛けて過ごしながら八幡がそんな危惧を抱いていると、たったかと廊下のほうから軽い足取りが聞こえて来る。
「この足音で大和ってことはないよな。もしそうだったら詐欺で訴えられるレベルだろ。だとしたら相模か、その取り巻きか……てか一色の友達もだけど、名前が一致してない奴ばっか一気に来られても厳しいよな。しかも女性率が異常に高いし、この状況って実は詰んでねーか?」
こうなったら一刻も早く関係者全員が集合してくれるのを願うしかないと、八幡が腹を括っていると。
「えいっ……あれっ。こんな早い時間なのに、普通に開いてますね~?」
てへっ、ぺろっ、続けてこつんと自分の頭に拳を当てて。
付近に人影が見えなくとも、一連の流れをいっさい省略することなく律儀にこなした上で、一色いろはは素早く後ろ手に扉を閉めると八幡に向かって真顔を見せた。
「せんぱい、ちょっと早すぎじゃないですか~?」
「なんで開口一番文句を言われてるのか、俺にはさっぱり解らないんだが?」
そう言って、わざとらしくふうっと溜息を吐くと。
軽く首を傾げてから教室の奥にてくてくと歩いて行った一色は、よっこいしょと椅子を引っ張って来ると軽やかな動きでそれに腰掛けて、何故だかほんのり頬を緩めた。
「あっ、もしかして~。少しでも早くいろはちゃんと会いたいからって張り切っちゃいました?」
「まさか俺が、大和に早く会いたいとか思うようになるとはなぁ……」
天井の隅に目をやりながら芝居がかった声で応える八幡に対し、それを聞いた一色は瞬時に真顔に戻った。
「えっ、じゃあ今すぐ海老名先輩を呼んで……」
「呼ばなくて良いから勘弁して下さい」
八幡がそう言い終えると同時に、「勝利っ!」と口にしながらピースサインを見せつけられた。
こいつに手玉に取られるのも何だか慣れて来たし、どこか妹を連想させるこの仕草を見ていると、誰かと二人きりになるのを恐れていたのが嘘のようだ。だからまあ、こんな程度で調子に乗ってくれるのなら別に良いかと八幡は思った。
あざとい後輩の来訪を受けて緊張感が失せているのを自覚した八幡は、先ほど口に出して警戒していた面々の中に一色を含めなかったことには無自覚だった。
たわいもない話をしながら誰かが来るのを待っていると一色の友達四人がなぜか揃って登場したので、事前に考えていたお願いごとをさっそく伝えてみた。
仕事の理由や狙いは昨夜のうちに簡潔にまとめておいたのでそれを説明して、一色にお見送りを頼んだところまではスムーズに済んだのに。
「これでまた二人っきりだよねー。いろは、頑張ってね!」
去り際に、こんなふうに茶化されてしまった。
素早く閉じられた扉に向かって一色がぷるぷる震えているので、その後ろ姿を見てぶるぶるとおののきながら。
頭の片隅では「呼び捨てされる仲になったんだな」と喜びつつも、「勘違いしないのは勿論のこと、勘違いされるような言動も断じて避けるべし」と八幡が決意を新たにしていると。
「あれっ、こんな時間にメッセージって?」
メッセージの着信音が響いたので、首を傾げながら思わず声に出してしまった。精神的にどっと疲れたせいか手を動かすのが億劫だったので、椅子にどさっと腰掛けた一色はそのまま考察を進める。
友達四人とは別れたばかりだし、ここに来る予定の先輩たちに不測の事態が起きたとも思えない。それなら誰かがさっさと顔を見せに来るだろう。少しずつ仲を深めてきた先輩方とは今は選挙戦で敵同士だ。こんな早朝にメッセージを送ってくるような相手は他に思い浮かばない。
ファンの男の子たちはあちらで勝手に厳しい戒律を設けて、相互監視という名の自粛をしてくれているし。突っ掛かってくる女の子たちは、はっきりと証拠が残るメッセージなんてものを使うはずがない。それは小心者の担任も同じだし、ならば誰が?
「俺のところにも来たから、送り主は選管かね」
そんな疑問に事も無げに答えてくれたので、さっきの出来事を無かったことにしようと考えてきらきらした目を向けてあげたのに。このせんぱいときたら、まるで見てくれないのだから腹立たしいにも程がある。
そんな内心を反映してか、つんと拗ねたような仕草を残して、一色はメッセージに目を通した。
『いよいよ生徒会長選挙まであと三日!
今日は各候補から、会長としての基本方針が発表されるかも?
それとは逆に、立会演説会まで秘密を貫く候補も出てくるかも?
三者三様の選挙戦を楽しみながら、しっかり考えて投票しよう!
以上、選挙管理委員会からのお願いでした』
相変わらず独特のノリだなぁというのが第一印象だった。それと同時に、いざ自分が立候補してみると学ぶべき点が多いな、とも思った。
そうした感想をひとまず胸の奥に仕舞い込んで、一色は当座の問題に触れる。
「あ~。そういえばこれ、どうしたら良いですかね~?」
「どうしたらっつーか、城廻先輩が中立の立場でフォローしてくれてるだろ。だから選挙当日まで黙秘でも良いんじゃね?」
じとっとした目を向けて、言葉には出さないけれども「それ、本気で言ってます?」と訴えかけると、たちまち視線を逸らされた。心なしか頬が少し赤くなっているようにも見えるのだが、まさか今さら照れるはずもないだろうし、ということは冗談のつもりだったのだろうか。
わたしを和ませようとしてああ言ってくれたのだとしたら、ちょっと冷たい反応だったかなと軽く反省して。どうせ擬態はバレバレだろうけど真顔よりは良いかと思ってにんまりと微笑みかけてあげると、途端に身震いし始めるのだからよく解らない。
とある部長様の笑顔が原因だとは、さすがに思い付けない一色だった。
「でもせんぱい。雪ノ下先輩や結衣先輩が方針を表明して、わたしだけ何も言わないのって、印象悪くなりませんか?」
ならばと真顔に戻って真面目な話を振ってみると、目の前の男子生徒はみるみる落ち着きを取り戻していった。その変化を余すことなく観察した一色が「やっぱり変な人だなぁ~」とごもっともな感想を思い浮かべていると。
「まあ、そのデメリットはあるな。けどな、あんま詳しいことを喋りすぎると、立会演説会を待たずして丸裸にされちまうぞ。向こうに対策を立てさせた上で更にその裏をかく、なんて余裕は今の俺らには無いからな。もっと言えば、もし今こちらの弱みを突かれたら、その対応だけで手一杯になるぞ」
現状についての耳の痛い指摘を受けて、一色も思わず渋い顔になってしまった。ぶすっとした表情でも愛嬌が残るようにと訓練はしているものの、あまり長々と人目に晒したいものではない。なので手っ取り早く甘えてみるかと考えて、顔の力をふにゃんと抜くと。
「じゃあせんぱ~い。弱みを見せちゃわないように、何か考えて下さいよ~?」
「いや……あのな。俺が何か適当な言葉をでっち上げても、それで全校生徒を騙せるかっていうと無理なのはお前も解るだろ。だから、これはお前が自分の言葉で有権者に伝えるべきものなんだわ。突き放した言い方をしたいわけじゃなくて、なんつーか……」
ここまで何の反応も返って来ないとなるとプライドが少々傷つくけれど、とても大事な話をしてくれているのは理解できる。だから「はあ、仕方ないですね~」と内心でこっそりため息を吐いて済ませて。頭を本気モードに切り替えると、八幡の言葉を遮って口を開く。
「まあ、そこの部分で手を抜こうとするのは確かにダメですね~。雪ノ下先輩は当然として、結衣先輩も自分の言葉で訴えて来るって、せんぱいは考えてるんですよね?」
「その辺は由比ヶ浜も本能で理解してるだろうし、三浦や海老名さんも横から指摘するだろうからな。お前だけが原稿棒読みとか、その場しのぎの発言を繰り返してたら、とたんに窮地に追い込まれるぞ?」
一色は首を大きく動かして、八幡の言葉になるほどと頷いた。
言葉にすれば当たり前の事だけど、あの二人と自分は同じ候補者という立場なのだと実感できた気がしたのだ。
男子から特別な扱いを受けるために、一色は長年にわたって自分を磨いてきた。同性から何を言われようとも男受けを重視して、ほんの些細な言葉遣いや細かな仕草に至るまで気を配って改善を続けてきた。
だがその努力は他人には見えないものだ。それに過程が目的ではなく結果が目的である以上は、自分がいかに努力したかを切々と訴えたところで意味がない。
それでも、一色が獲得した人気を「なんの努力もなしに」とか「生来の見た目の良さで」とか言われるとやはり腹が立つ。
だって、努力していないのはわたしではなく、それを口にしている当人なのだから。
一色に言わせれば、それは努力をしない言い訳を述べているに過ぎないし、一言で片付けるなら「人のせいにするな」となる。あるいは「いい迷惑だ」とも言えそうだ。
今までの一色は、そう思っていた。
けれども視野を広げてみると、並外れた努力をしているのは自分だけではなかった。
対立候補の先輩二人は、おそらく一色と同等かそれ以上の努力を重ねて今の地位を築いている。いや、あの二人ならきっと努力なんて思ってなくて、当然のことだと考えているのだろう。雑音などは気にも留めず。それに現状の地位なんてのも通過点に過ぎなくて、もっと先を見据えているのだろう。
なら、自分は?
一色は、目の前のせんぱいに唆されて立候補を決意した時のことを思い出した。
わたしが少しだけ自由を失うことで、この人たちの負担を肩代わりできる。
どうしても会長になりたいというわけではないけれど、当選したらこの人たちと一緒に仕事ができる。
あの二人に挑んでいる今も思った以上に充実しているけれど、だからこそと言うべきか。この人たちの近くにいたいという想いが以前とは比べ物にならないほど大きくなっている。
だって、この人たちはそんな反応をしないから。
やるべき事を積み重ねてきただけなのに、それをズルいなんて言うはずがないから。
それどころか、わたしももっと頑張ろうって思わせてくれる人たちだから。
だから、わたしが会長になってこの人たちの負担を軽くして。
その代わりに、この人たちがわたしに更なるやる気を与えてくれる。
これは或いは、利己的な理由になるのかもしれない。
生徒会長という職を私物化することになるかもしれない。
それでも、わたしと、この人たちと、新しくできた友人たちと、そこから更に直接の繋がりがある生徒だけを含めたとしても、きっと少なくない数の面々に良い影響を与えられる。
「……問題は、この気持ちをどこまでオブラートに包んで伝えるかですよね~」
「……ん、ああ。お前の本性を解き放つのは程々にしておけよ?」
割と良い感じのことを考えていた気がした一色だったが、この発言を耳にして何もかもが一気に頭の中からすっ飛んでしまった。
「もう~。今ちょっと良い感じで話がまとまりそうだったのに、せんぱいが変なこと言うから~」
「えっ……また俺なにかやっちゃいました?」
八幡の変な口調が逆に功を奏したのか、一色はぷっと吹き出すと同時に突き出していた唇を引っ込めて、眦を下げながらこう告げる。
「ふふっ。何でもないですよ~だ」
この土日で、年上の美人や同い年の美女の笑顔を何度も見てきたというのに。
窓の外へと視線を向けながら考え事に耽っている年下の可愛い女の子から、しばらく目が離せなかった八幡だった。
***
教室が沈黙に包まれてしばらくしてから、んんっと軽く咳払いをした後で八幡が口を開いた。
「にしても、あいつら遅いな」
「う~ん、ちょっと見て来ましょうか?」
そう答えた一色は椅子からひょいっと立ち上がると、軽い足取りでドアのほうへと歩いて行く。
廊下から、がたっと音がした。
「……なんで入って来ないんですか?」
はぁっと一つ溜息をついてから勢いよくドアを開けると、そこには総勢九名が控えていた。見るからに異様な集団なので他の生徒たちも敬遠したのか、付近には他に人の気配はない。
「いや、こんな張り紙を貼られてたらな」
常になく感情を抑えている様子の一色を見て、びびっていた一同の中で、平然とした声を上げたのは大和だった。
ドアの裏へと指を向けているので、廊下にぴょこんと首を出した一色がそちらに視線を送ると。
『二人きり♡』
びりびりとテープを剥がして紙をぐちゃぐちゃに丸めると、一色はそれを眼鏡の男三人に向けてぽいっと放り投げて。廊下に佇む一同ににこっと笑いかけてから教室に戻ると、九人に向かってひょいひょいと手招きをした。そのまま自身は元の席に戻る。
「な、なあ。何が書いてあったんだ?」
「せんぱいは知らなくて良いですよ~。あの娘たちとは、ちょおっと腰を据えて話し合う必要がありそうですね~」
このせんぱいに求めているのは異性としての何かではなく、お互いに気を使わなくて済むという気楽な関係性なのに。その話はあの娘たちにも、この週末にちゃんと説明しておいたはずなのに。
この短時間で何度もからかわれたせいか、八幡の顔をまともに見られなくて。
だから一色は静かにゆらりと立ち上がると、椅子を八幡から思いっきり遠ざけた。
とは言っても、せいぜい数メートルの距離なのだけど。
距離を隔てて座ったまま身じろぎしない一色と八幡や、教室の外で固まったままの他八名を尻目に、あまり動じた様子のない大和は教室の後ろに積み上げられた中から椅子を人数分だけ下ろすと、廊下の一同を手招きした。
「ほら。一色さんが配置を決めてくれたから、この間みたいに円形にな」
この声を受けて進み出たのは眼鏡の男三人衆。すなわち遊戯部の秦野と相模と、誰あろう材木座義輝だった。
しばらくは大和の指示に従っていそいそと椅子を運んでいたのだが、ふと我に返ったのか。
「は、八幡よ。このリア充が我に指図をするなどと、少し見ぬ間にどんな事態になっておるのだ?」
「あー、あれだな。お前がいつもの調子だから珍しく助かったわ。大和はお前と違って最初から協力してくれてたぞ。海老名さんの甘い誘いに乗って馬鹿を見たお前と違ってな」
どうせこんな感じだろうと考えながら八幡が挑発的な言葉を投げかけると。
「うぐっ、貴様……後輩といちゃこらしていても八幡の名は伊達ではないということか。だがそれだけに惜しいっ。このままでは大菩薩の名が廃るぞっ!」
「はい。ちょっと中二さんは黙っててくれませんかね~?」
秦野と相模は黒子に徹して静かにゆっくりと椅子を運び続け、廊下にいる女子五人は足を踏み入れるのを躊躇していて。
そんな状況ゆえにか一色の声はよく通った。そのまま八幡に視線だけをじろっと向ける。
「まあ、あれだ。お前が書いた小説を添削してやるとか海老名さんのと一緒に並べてやっても良いとか言われてひょいひょい乗ったあげくに、赤ペンまみれの原稿が返って来たので逆ギレしてたとかそんな感じだろ。お前はむしろ海老名さんの有言実行ぶりに感謝したほうが良いと思うぞ?」
解説役を仰せ付かったのだと受け止めて、八幡が一般人にもよく解るように噛み砕いて説明しながら忠告を口にすると。
「八幡よ、それだけではない。我の作品を有名サークルの絵師に見せても良いと……」
「はい、それ以上は興味ないんでもう良いですよ~。じゃあ、次の人?」
あの女狐に裏切られたと訴える切なる声は無情にも遮られ、材木座は目の前の椅子にどさっと腰を下ろすと燃え尽きたかのように身動きを止めた。
そんな隣席の男を哀れと眺めながら、どうせ見せるだけってオチだったんだろうなぁと八幡が考えていると。
「な、ナイトプール年パス持ちで、うちの学年きっての芸能通、もはや芸能人と言っても過言ではないパリピの女王こと一色さんと話せるなんて光栄です。秦野です!」
「ブランド品も似合えばインスタ映えも半端ない、IT企業の社長にも顔が利くという一色さんの選挙に協力できるのが嬉しいです。相模です!」
おそらく彼らなりに一生懸命考えて一色を持ち上げようとしたのだろうけれど、二人が聞き知っていた噂に問題があったのではどうにもならない。
「あの子たちが適当に流した噂を、ここまで真っ正直に信じる人たちもいるんですね~」
とはいえ一色が呆れ顔を浮かべてくれたおかげで、二人は九死に一生を得た。
新顔の自己紹介が終わってようやく呪縛が解けたのか、廊下にいた五人の女子生徒が意を決して教室に入ってきた。俗に言う相模南とその取り巻きの五人衆だが、その中にあって一番名前を知られている女子生徒は四人の後ろを大人しく付いてくるばかりで、よく見たら涙目になっている。
「うち、まさか二人が……」
「それは誤解だっつーか、頼む、相模、ストップ!」
「えっとぉ~。まさか二人が……何ですか、相模先輩?」
「ひいっ!」
よろよろと近くの椅子まで歩み寄った相模は、材木座の左隣でこちらも灰になった。
「時間も押し気味だし、さっさと打ち合わせを始めようぜ」
遊戯部の秦野と相模がおずおずと歩み出て八幡の隣に順に腰を下ろすと、その奥の席に座った大和が掠れぎみの声でそう提案した。続けて残りの四人を手招きして、自分と一色の間に二人、その奥に二人という配置で席に着かせる。
その指先が微かに震えているのが見て取れた。
他に適任が居ないから役割を買って出てくれただけで、この状況を動かそうとするのは大和にとっても厳しいんだなと考えながら。奥の席を指示された女子二人が灰になった相模を持ち上げて両脇から支える位置に座り直したのを見て、今度は八幡が口を開く。
「じゃあさっそく、相模グループのお前らに……って言っても相模は無理か。そのな、各自で担当を決めてからF組とJ組に行って、雪ノ下・由比ヶ浜・葉山・海老名さんの四人の様子を探って来て欲しいんだわ。たぶん変な事はなにも起きないっつーか、前もって予定を立ててると思うんだがな。万が一でも予想外の行動に出られると対処できないから、異常なしって確かめるだけでも価値があるんだよな。これ、基本は木曜の放課後まで続けて欲しいんだが?」
四人のうち三人は頷いてくれたものの、残りの一人は首を捻っている。
「ちなみに、南が動けたらどうするつもりだったの?」
「できたら城廻先輩のところに行かせたかったんだけどな。それは優先順位が低いし別に気にしなくて良いから、その四人の情報だけは絶対に頼む」
「城廻先輩かぁ……言い方からして打ち合わせっぽいし、じゃあ南じゃないと無理だね。あとさ、三浦さんとか戸塚くんとか川崎さんとか、その辺は気を付けなくても良いの?」
「その辺りはなんつーか、表立って動くことで効果を最大限に発揮するような面々だろ。だから予測がしやすいし、動いたらすぐに情報が伝わってくると思うんだわ。裏で動かれてもそこまで脅威にはならんと思うし、優先度が低いとこにまで人を割く余裕は無いからな。これが海老名さんや葉山だと何でもないような行動に変な意味があったりするから、直接観察した情報が大事っつーか、そんな感じかね」
おそらく、余裕があるようなら相模の分までと考えて質問してくれたのだろう。そう考えた八幡が説明を終えると、今度は全員が頷いてくれた。
「じゃあ南は寝かせておくから、気が向いたら手を出しても良いよ?」
その言葉を耳にして、思わずちょっとだけエッチな想像をしてしまったので八幡が目を泳がせていると、いつの間にか復活した材木座と(おそらく「手を出しても良い」というセリフに反応したのだろう)、並んで座っている遊戯部の二人も同じような状況なのが見て取れた。
このタイミングで、八幡と一色にメッセージが届く。
『一色さんの陣営は、今日は集会なしの予定かな?』
思わず一色と顔を見合わせて、お互いがいつも通りの表情だったので普段の調子が戻って来た。
「いま選管から確認が来たんですけど~、集会は今日は開かないってことで大丈夫ですよね?」
「だな。今日のところは敵情視察っつーか、お手並み拝見って感じだな。まあ俺は行かないつもりだが」
他の面々に説明がてら先程の話を蒸し返した一色にとっては、返事は予想通りだったものの最後に付け足した情報が意外だった。なのでこてんと首を横に倒して目の動きだけで意図を問うと。
「たぶん、雪ノ下と由比ヶ浜は三十分間隔ぐらいで集会を開くと思うのな。放課後になって半時間後に雪ノ下、その半時間後に由比ヶ浜って感じかね。その一時間の間に、ちょっと済ませておきたいことがあるんだわ」
一色の首の傾きがますます深くなったけれど、八幡がこれ以上の説明をする気はないと理解したからか、重ねて問いかけることはなかった。
「じゃあ先輩方には本職の情報収集をお願いします。ダミー部隊はこっちで手配しておきますので、勝手に泳がせておいて下さいね~」
そう言ってぺこりと頭を下げる一色に、なぜか二年生の女子四人も律儀にお辞儀を返して。よしっと声を合わせて顔を上げると、彼女らは意気揚々と教室を出て行った。
四人の足音が遠ざかって行くのを耳にしながら、八幡が再び口を開く。
「んーじゃあ、お客さんが来る前にこいつらの仕事を確認しとくか」
「たしか、俺の提案をこいつらが形にしてくれるって話だったよな?」
大和が補足を入れてくれたので、うむと重々しく頷きながら両脇の三人の顔を順に眺めていると。
「相模のねーちゃんから雑な話は聞いてますけど……」
「おい、血縁じゃないって言ってるだろ。久しぶりに顔を出したらいつの間にか姉弟になってたなんて、そんな世にも奇妙な現象が起きるわけない。起きるわけがないんだ……」
灰になったままの女子生徒に対して、いずれも何か言いたい事がありそうな遊戯部の二人だったが、時間が無いので片方の言い分はさくっと無視して八幡は話を続けた。
「相模の説明だと不十分だったってことか。まあ相模義弟のほうは落ち着け」
「いや、だから義理でもなくて……」
「材木座が前に言ってたけど、無料のwikiをベースにして一部のページに閲覧制限を設けたりとか編集の権限を絞ったりもできるんだよな?」
往生際の悪いことを呟き続けている後輩を温かい目で見守りつつ、具体的な話に入った。
信頼できる面々が集めて来てくれた情報には限られた顔ぶれしかアクセスできず、一般向けのページには一色の推薦人やファンからの情報をそのまま載せる。誰がどの情報を集めて来たのかは、鍵付きの別ページでしか確認できない仕様にする。
「じゃあメインの情報は、誰がどの陣営を応援しているのかを全校規模で網羅すること……で良いんですかね?」
「基本は偽情報なしでな。ぶっちゃけ推薦人の造反とかファンの暴走を防ぐのと、一色の知名度アップが目的だから、面白いことをやってるなって話題に出るような仕様を優先してくれると助かる」
あごに手を当てて八幡の説明に頷きながら、秦野が言葉を続ける。
「セキュリティはどこまで凝れば良いですかね。まあ運営に申請すれば不法侵入はほぼ防げると思いますけど……」
「もし入れたとしても履歴の改竄までは無理だろうし、それで取引材料が手に入るって考えたら程々で良いかもな。セキュリティの突破に労力を掛けてくれるなら逆に助かるし、まあその場合は盛大にお出迎えしてやってくれ」
そんな事態になったら楽しそうだなと思いつつも私情を挟むことはせず、更なる改良ができないものかと頭を働かせている秦野の横では。
「そこで伸びてるやつだけは、比企谷先輩推しって設定にしようかな」
「……後でちゃんと話を聞いてやるからそれは勘弁してくれ」
ぼそっと恐ろしいことを呟かれたので、冷や汗が背中を伝うのを感じながら素直に相模に謝っていると。
「ふむぅ、我を推す声もあってしかるべきだと思うのだが?」
「中二さんも寝てていいですよ~?」
「我には三時間もあれば充分ゆえ、ご心配召されるな。して八幡よ、こんなのはどうだ?」
投げやりな調子で一色が口を挟んでもどこ吹く風で、材木座はこそこそと八幡にだけ話しかける。
「なるほどな。まあサプライズとしては良いんじゃね。んで、発案者からは他に希望とかないのか?」
「いや、俺の理解を超えた話になってるからな。俺は大人しく一色さんのボディガードでも務めてるよ。ファンがそういう方向に暴走しないとも限らないだろ?」
その発想は無かったなと思った八幡が反射的に思い浮かべたのは、ここには居ない二人。
「葉山先輩はもちろんですけど、戸部先輩も腕っぷしだけは頼りになりますからね~」
「まあ、そうだな。お前もいざとなったら大和を生け贄に捧げて逃げろよ」
呆れているようなふくれているような呆れているような微妙な顔つきで一色がぼそっと呟いたので、八幡は慌ててフォローを入れると両手を胸の前で合わせて「南~無~」と口にした。眼鏡三人衆が続けて唱和してくれて、大和も軽く吹き出したので場の雰囲気が軽くなる。
何とか誤魔化せたかなと考えていると、倒れていた女子生徒が「うーん」とか何とか言いながら起き上がった。
椅子にちゃんと座らせて、ここまでの経緯を説明し終えたところで。
こんこんとノックを告げる音が聞こえてきた。
***
教室に入ってきたのは一年C組の生徒五名とD組の生徒一名。いずれも一色の推薦人に名を連ねている女子生徒たちだった。C組とD組の生徒一人ずつは文化祭の実行委員を務めていて、C組の全員は一色と露骨に対立していた面々だ。
「こっちの席に座っていいよ~。え~と、せんぱいの席に相模先輩が移動してもらっていいですか?」
「なあ。それって、俺とお前は立ったままって意味か?」
上機嫌で宿敵を迎え入れた一色はそう言って勢いよく立ち上がると、八幡の問いににやりと返した。
同じような笑みを浮かべてはっと息を漏らして、八幡はあっさりと相模に席を譲ると一色の背後で腕を組んでだらっとした姿勢で控えている。
円を描くように置かれた椅子の群れのちょうど中心あたりに立ち位置を定めて、一色は再びふふんと頬を膨らませてから、椅子に座る六人の女子生徒たちに視線を送った。
「こっちを見下ろして悦に浸ろうってわけ?」
「まさか~。
「よく言うよ。無理矢理に協力させておいてさ」
「うん、無理矢理は良くないよね~。でも
ぽかっと頭を叩かれたので、反射的に両手で頭を押さえてむっとした表情を浮かべつつも愛嬌を残した顔つきで後ろを振り向くと。
「いくら他にギャラリーが居ないからって口喧嘩してる場合じゃないだろ。えーと、そこの二人は文実で見た事があるな。あれを経験したお前らなら雪ノ下に投票したいのが本音かもしれないけど、まあ今回は記名投票だしお前らは推薦人だからな。諦めて一色に協力してくれ」
頭をぶったのは貸し一つとして意外と説得力のある話し方をしますね~、などと一色が考えていると。
「……その、木曜日に雪ノ下先輩に話した事は伝わってるんですよね?」
「んーと……ああ、俺と雪ノ下の雑談を参考にしたって話な。まあ著作権とか主張するつもりもないし、一色の擁立までは手際も良かったんじゃね?」
そんなのを褒めるとかせんぱいは一体どっちの味方なんですかと、一色がぷんぷんしているのを尻目に話は続く。
「文実での活躍を直接見てたから、雪ノ下先輩の事は本当に尊敬してます。けど、先輩がすごくたくさんの仕事をしてたのも知ってるし、そこにいる相模先輩が今はあの時とは違うのも何となく分かります。だから文実組にも『あの二人が一色を応援してるなら』って声は、ちらほらあるんですよ」
てっきり、文実の生徒たちはあいつの信者と化しているのだろうと思っていたのに。意外なことを言われてしまい、八幡が目をぱちくりとさせていると。
「たしかに、この人は変わったなって思いますよ。現に俺ら二人も材木座先輩も、この人に説得されてこっちの陣営に来たわけですし」
「うむ、至言である」
「そう言う割には、うちへの尊敬が感じられないんだけど。少なくとも、南先輩って呼びなさいよ」
「え。普通に嫌ですが、なにか?」
材木座の発言を軽く流して、哀れな秦野を間に挟んで相模漫才が始まったので、呆れ顔になった八幡が後ろを振り向きながら口を開く。
「あー、もう。お前ら姉弟喧嘩はそれぐらいにしとけ」
「ちょっとヒキタニくん。うちらを姉弟扱いするのは……」
「そう言いながらも相模先輩って、『南お姉ちゃん』とか呼ばれてみたいんじゃないですか~?」
「な、なにそれ。いい響き……あいたっ」
正面から相模の頭に手刀を入れて、おもむろに一年生のほうへと振り向くと口を開く。
「なあ。さっき褒めてたのに申し訳ないんだが、こいつのこういう側面も健在だぞ?」
「ヒキタニくん、それどういう意味よ。うちが成長してないってこと?」
自分以外の(一年生も含めた)全員から大きく頷かれて、相模がまたもや涙目になっていると。
「そういう面も含めて相模先輩の魅力なんだなって、最近やっと分かって来たんですよ。だから一色のことは今でも気にくわない部分があるんですけど、先輩と相模先輩が応援する限りは、この二人は協力しようと思ってます」
「まあ、推薦人じゃなかったら雪ノ下先輩を応援してたと思いますけどね」
そう言って苦笑する元文実の二人に「そりゃ当然だ」という意味を込めて何度か頷きかけてから、八幡は他の四人に視線を移した。
「ていうか、協力するのは強制でしょ。じゃあ仕方ないじゃん」
小悪党の典型のようなやけっぱちのセリフが飛び出したので、これ以上脅すのは逆効果かもしれないと考えた八幡が口を開けないでいると。
「推薦人の君らには、情報収集をお願いしたいと思ってる。実は各陣営の支持者の情報をwikiでまとめる話になってるんだけどさ……」
大和が淡々とした口調で仕事の内容を伝えてくれた。
八幡の予想どおり四人は渋い顔になっている。
「情報をどんだけ集めてきたかを競わせるって、マジ発想が最悪なんですけど?」
そんなストレートな嘲りにも目立った反応を見せず、大和がそのまま応対を続ける。
「ちなみに発案したのは俺だからな。でな、今みたいに悪く受け取られても仕方がないとは思うけどさ。年パス持ちとか何とか一色さんの
妙に実感のこもった発言が続くので、誰も口を挟めないでいる。
少しだけ言葉を止めて目の前の床をじっと見つめていた大和が再び話し始めた。
「それどころか、こうやって悪事が発覚したら色んな人が敵に回るよな。雪ノ下さんとか隼人くんは勿論だし、ここにいるヒキタニくんとか、うちのクラスの女子三人とかさ。目先の、その……
「それは……うちもそう思う。今はここに居ないけどさ、うちの友達四人がヒキタニくんの悪い噂を流したの、知ってるよね。嘘ででっち上げた話だって判明してからは風当たりが本当にきつくてさ。自業自得だって言えばそうなんだけど、横で見てても凄くつらそうで、でもうちは一緒に居ることしかできなかったんだよね」
「あいつらは、相模さんが一緒にいてくれたから助かってた部分も大きいと思うけどな。俺とか大岡も、戸部が居てくれて……あ、その、戸部と比べるのは相模さんは嫌かもしれないけど、居るだけで元気になれる、みたいな意味でさ」
話の途中で一瞬だけ慌てた素振りを見せた大和だったが、誰も不審に思ってはいないようだ。ほっと胸をなで下ろしながら、自分は卑怯者だなとしみじみ思い知らされた気がして密かに落ち込んでいると。
「あれだよな。こいつが文化祭の最初と最後で愉快な姿を披露してくれたから、なんか盛り上がったってのもあるもんな。だから大和が言ったとおり気にすんな」
「ヒキタニくん、それうちへのフォローのつもり?」
秘密をぽろっと漏らしてしまいそうになった自分の発言をフォローしてくれたのが八幡だというこの巡り合わせに、大和は苦悩や後悔を通り越して苦笑するしかなかった。
だから息を大きく吸い込んで、慣れない語りを継続する。
「同じクラスなんだから、その喧嘩はF組に帰ってからな。でさ、wikiの仕様に文句があるかもしれないけどさ。選挙って基本はお祭りだって俺は思うのよ。君らが集めてきた情報がwikiでどんなふうに反映されるのか、俺には想像もつかないけどさ。今届いた情報で、現在の勢力図はこんな感じになりました、とかって変化が見えたら楽しそうじゃん。無茶を言ってるのは自覚してるけど、どうせ協力するなら君らも楽しんで欲しいなって俺は思うな」
何とか言いたいことを喋り終えた大和は、後は任せたと八幡に目線を送った。返って来た視線から「良いところを持って行きやがって」というセリフが伝わって来た気がしたので、ふっと息を漏らして椅子に座り直す。
この時の発言が原因なのか、後に一年生女子四人との間に事実無根の四股疑惑が持ち上がった大和だったが、それはまた別のお話*1。
*****
推薦人の中でも一色への反感が飛び抜けていた六人から、少しは前向きな協力を得られる形になって、朝の集まりは無事に終わった。
彼女らに「空き教室まで来て欲しい」と伝えた後は、一色の友達四人は一年C組にて他の推薦人やファン一同の相手をして過ごしていた。
今日の放課後からは四人の指示のもとに、大々的な情報収集作戦が(とはいえこちらは一般公開前提なので、重要度の低い、言わばダミーの情報収集部隊なのだが)実施される予定になっている。
お昼休みには再び選管からメールが届いて、二陣営の集会開催を伝えられた。
予想どおりのスケジュールだなと一つ頷いてから、八幡は数学のプリントに目を通す作業に戻る。
そして何事もなく放課後を迎えた。
***
いったん一年C組に集合した一色陣営の一同は、すぐに各々の仕事を遂行するべく散って行った。
いま教室に残っているのは、忙しそうに立ち回っている一色の友達四人を除けば、一色・八幡・相模・大和の四人だけ。遊戯部の二人は部室にて材木座監修のもとでwikiを大急ぎで仕上げている。
周囲が慌ただしいので朝とは違って立ったまま、四人は顔を合わせていた。周囲には声が聞こえない設定にした上で、まずは八幡が口火を切る。
「雪ノ下と由比ヶ浜の集会にはこの三人で行ってもらおうと思ってるんだが、何か質問が飛んできても黙秘してたら良いからな。それよりも敵陣をじっくり観察して、どんな些細なことでも良いから情報を多く持ち帰ってきて欲しい。とにかく何をするにも情報が第一だからな」
「それは分かるんだけどさ。うちがやったみたいに、もっと大勢を勧誘するんだと思ってたんだけど?」
相模の素朴な疑問を耳にして、話がスムーズに進むことに手応えを感じながら八幡が答える。
「実を言うと、今からちょっと勧誘してみるつもりだけどな。口説ける確率が高い連中って、あんま多くは居ないだろ。だからこれも仕事をしてるフリぐらいの扱いで、他に労力を掛けたほうが良いって思うんだわ」
「仕事をしてるフリって、それは雪ノ下先輩とか結衣先輩に対してですか?」
相変わらず勘が良いなと思いながら、この面々で話がどんどん早くなっている現状に思わず笑みを浮かべつつ口を開く。
「この辺はお互い様だけどな。海老名さんだって、雪ノ下が速攻で運動部と文化部を押さえたから対抗として支持者の奪い合いをしてたけど、あんなのは小競り合いみたいなもんでな。大きな戦に備えて形だけやりあってる程度の意味合いしか無いんだわ。ついでに言うと、それを少なくするために二位・三位連合の話を出したって側面もあるんだけどな」
「それって……同盟があるから手を出せないな~って言い訳しながら別のことに労力を掛ける、みたいな感じですか?」
「とりあえずは現状維持で休戦しようって話だからな。とか言いつつ支持者自身の意思で応援先を変更するのはもちろん自由だから、説得の成功率が高そうならお互い手を出すけどな。例えば材木座なんて由比ヶ浜の陣営に居たわけだし」
なんだか大人って汚いなぁと相模が顔を曇らせながら呟いているので、八幡は苦笑いを浮かべながらも首を縦に動かして同意の気持ちを伝えておく。そしてふと、同盟を組んだ時に言われたセリフを思い出した。
あの時に、たしか「結局はこっちよりもそっちが得する形になるよ」と言われたのだった。
八幡の数少ない友人にまで両陣営の手が伸びていたのを知った時には愕然としたものだったが、結果的にはたしかにこちらが得している。限られた人材を動かしながら少しずつ数が増えて行くという流れは、きっと対立陣営にはない自分たちだけの強みだろう。
「で、だ。相模にちょっと頼み事があるんだがな」
「あれだよね。朝言ってた城廻先輩のところにってやつ」
「あの四人から聞いたのか?」
「うん。うちらだけ集会を開かないわけだから、非難とかが来てないかって探って欲しいんだと思ったんだけどさ……」
なるほどなと大和が頷いているが、相模が言い淀んだのはその先まで読んでいるという事だ。
では一色はと八幡が目だけを動かすと、ぱっと視線が合った。勝ち気そうな目でにぱっと笑うと、そのまま一色の口が動く。
「せんぱいは朝から相模先輩に動いて欲しそうでしたけど、あの時点では非難とか来てるわけないですよね。じゃあ、何を狙ってたのかなぁ~?」
「お前な、想像が付くなら言っちまっても良いぞ?」
「えっ、いいんですか?」
そんな二人のやり取りに、残りの二人が盛大に首を傾げていると。
「たぶんですけど、せんぱいは城廻先輩に説得して欲しかったんですよね~?」
「ん、正解。まあぶっちゃけ人材が足りてないからな。つっても、相模の意思は尊重するつもりだから問題ないはずだ」
「ですね。だから相模先輩、嫌だったら遠慮なく断って下さいね~」
そこまで言われても見当が付かないので、二人の頭が地面と平行の角度を超えて大きく傾いている。
「俺らの思惑は別にして、用事が終わってからも城廻先輩と話を続けて、色んな情報を仕入れてきて欲しいのな。んで、たぶんその流れで提案されると思うんだがな。大和はラグビー部だし一色の友達連中も無理っぽいけど、相模は生徒会に入る気はないか?」
「あー、うちが生徒会かぁ……うん。文実の委員長を務めて思ったんだけどさ、うちってそういうのは合ってないなって。だから、ごめん。選挙の協力は惜しまないけど、うちらは生徒会って柄じゃないよ」
少し考えただけで即答した辺りに、相模の成長が感じられるなと八幡は思った。ここまで頼りがいを感じられるようになった人材を手放してしまうのは惜しいけれど、本人の意向を曲げてまで無理強いする気は八幡にも一色にも無かった。
「まあ、そうかもな。ほいじゃ、気合いを入れ直して頑張りますかね」
これでますます失敗できなくなったなと考えながら、八幡はまずは当面の仕事に向けて頭を切り替えた。メッセージアプリを立ち上げて、先日の木曜日にも連絡を取った四人に宛てて「一年C組の教室まで来て欲しい」と書いて送信する。
生徒会室に向かう相模を見送って、一色と大和と三人で敵陣営での振る舞いについて打ち合わせをしていると。
連絡を受けた四人が呼び出しを予測していたのか、それとも四人を束ねる元副委員長様に八幡の動きを読まれているからか。
さほど間を置かずして、文実では八幡とともに渉外部門に属していた四人が揃って姿を見せた。
「わざわざ来て貰ってすみません。ちょっとバタバタしてるので立ち話で済ませますけど……」
「用件も判るし、気にしなくて良いからな」
「でもさ、思ったより大勢が集まってるんだね。お、珍しい顔じゃん。やっほー?」
四人に向けて歩み寄った八幡が軽く頭を下げると、部門のまとめ役みたいな仕事を多くこなしていた男の先輩が軽い口調で返してくれた。続けて顔の広い女の先輩が口を開いたかと思いきや、知人を見付けたみたいで軽く話し込んでいる。
「先輩には協力してもいいかなって思いますけど、一色のためって考えると……」
「俺もこいつに睨まれたくないから、一色の協力はちょっとって感じっす」
続けて口を開いたのは、唐突に持ち上がった取材の話にどう対応したものかと協議していた委員長以下の首脳陣と渉外部門の間で連絡役を務めてくれた、一年生の男女カップルだった。
「まあ、お前らは推薦人じゃないし仕方ないよな。先輩たちは……?」
「正直に言うと、去る立場の俺ら三年生があんま表に出るのは良くないと思うんだよな」
「だから、一・二年生の間で一番人気の雪ノ下さんに協力してるんだけどね。と言っても、個人的な希望でも雪ノ下さんが第一候補なんだけどさ」
なるほどと頷きながら八幡は頭を働かせる。
もしも一色が一番人気に躍り出れば、今の話し方からするとこの二人は味方になってくれそうだ。だが思い描いていた予定では、立会演説会の最後の最後でトップに立つ形を目指している。というよりも、それより前のタイミングで対立候補二人を抜き去るのは不可能だと考えているのが正直なところだ。
立会演説会で劣勢の雰囲気を変えることができたら、きっとこの二人を始めとした多くの先輩方が投票してくれて、一色は地滑り的な勝利を手にできるだろう。だが同時に、事前の協力はまず得られないと考えるべきだろう。
「じゃあ、あれですね。雪ノ下の応援第一で構わないですし、でももし余裕があったら、二位には一色の名前をって周りに勧めてくれると助かります」
「二位って……それでも良いのか?」
「惨敗は避けたいってこと……ああ、なるほどね。推薦人が勝手に盛り上がったんじゃなくて、って話なんだろうねー」
本気でこちらを気遣ってくれる男の先輩と察しの良い女の先輩に続けて、後輩二人も口を開く。
「一色も気に食わないけど、このやり方もどうかと思うので、いいですよ。それぐらいは協力します」
「じゃあ俺も異論は無いっす」
同じ学年だからか以前から事情を把握していたのだろう。きっぱりとそう口にした女子生徒に続けて、カップルの片割れも協力を約束してくれた。
「すまん、助かる。わざわざ来て貰って……」
「それは最初に聞いたし、あれだな。お互いの健闘をって感じかな」
「どこまで雪ノ下さんに迫れるか、楽しみにしてるねー」
「一色はどうでもいいけど、先輩のことは応援してますね」
「渉外部門の絆は意外と強いんで、また何かあったら声を掛けて欲しいっす」
八幡の言葉を遮って、四人が順に嬉しい事を言ってくれたので。
一人一人の言葉に大きく頷き返してから、八幡は渉外部門の仲間四人を見送った。
***
廊下の先から四人の姿が見えなくなったので、八幡は踵を返して教室の奥へと戻る。一色と大和が待つ場所まで辿り着くと、すぐさま声を掛けられた。
「せんぱい。そろそろ二年J組に移動しようと思うんですけど~?」
「うげっ、もうこんな時間か。そっちは完全に任せるわ。大和も一色を頼むな」
「おう」
これ以上の会話はもう必要なかった。だから八幡は軽く手を挙げて二人を見送ると、自分の仕事に意識を集中する。
メッセージアプリを立ち上げて用件を送信すると、すぐに返事が来た。
『ちょい話したい事があるんだけど、今どこに居る?』
『勝浦の隣の御宿ってとこ。駅からのルート込みで地図情報を添付したから、悪いけどここまで来てくれ』
予想はしていたけれど、高校からは遠く離れた場所に居る。
もし尾行されても簡単に巻けることといい、電車での移動時間を省略できるってやっぱ反則だよなぁと考えながら。八幡は急いで教室を出ると校門を抜けて、そのまま最寄り駅へと向かった。
御宿の駅を降りて道沿いに進むとすぐに国道にぶつかった。片側一車線の車道を越えて、そのまま数十メートルほど歩いたところで右に曲がる。
民宿や民家が建ち並ぶ小道の先には大きなマンションがいくつか見えた。おそらくは別荘か、あるいは保養施設なのだろう。外見からはバブル期の気配が漂ってくる気がしたけれど、実際のところはよく分からない。
それらの建物を通り抜けると、川沿いの大きな道に出た。進行方向の道路も道幅が増えて車道と歩道に分かれている。
横断歩道を渡って橋を越えてしばらく進むと、”Amigo Onjuku”という文字を掲げた大きなサボテンの像が現れたので、そこで左に折れて海岸を目指す。
広い砂浜の向こうには網代湾が一望できた。傾きかけた太陽の光をきらきらと乱反射している海面のその先では、水平線が横一文字に伸びている。
そうした景色を堪能しながらゆっくりと波打ち際まで近づいて行くと、もう十一月も下旬になろうというのに沖合では数人のサーファーが漂っていた。
その中の一人がこちらに向けて片手を挙げて、そして背後を窺うと、ちょうどやってきた大波に乗って一気にざざっと浅瀬の辺りまでやって来た。そこでボードを蹴って再び海の中にざぶんと浸かると、右手で顔を拭い左手では紐か何かを掴んで相棒を曳航しながら近寄ってくる。
「耳栓を取るから、ちょっと待っててくれるか?」
その言葉に大きく頷いて、その場でぼーっと突っ立っていると、陸に上がった男がいそいそと動き回り始めた。
グローブを外してヘッドキャップを取って、くるくると一纏めにしてからビニールの袋に入れて仕舞い込んで。それと引き替えに取り出したシャワーの末端を砂浜に置いてあったポリタンクに突っ込むと、自らはブーツを脱いでバケツの中に両足を入れて頭から水を浴び始めた。
「なるほどな。ポリタンクの中にお湯を入れてるのか」
「冷えた身体が温まるのが気持ちいいんだわ」
聞こえなくても良いと思いながら呟いた言葉だったが、どうやら意図は通じたみたいで。にかっと何の屈託もない笑顔でそう言われると、八幡も頷きを返すしかない。
そのまま苦笑を漏らしていると、なぜか父親に連れられてスーパー銭湯に行った時の記憶が蘇ってきたので、それをひっそりと懐かしんでいると。
「ここでシャンプーまで済ませる人もいるんだけどな。あ、ちょい水を飛ばすから離れてくれるか?」
八幡が距離を取ったのを見てから髪をがしがしと乱暴に洗って、電動シャワーを止めると頭を盛大にぶるぶると動かして。ここで耳栓を取ると落とさないようにさっさと仕舞い込んでから、タオルを使って髪の毛の水分を素早く丁寧に吸い取らせていく。
「なあ。お前が着てる……スーツって言うのかね。それも濡れたままだと寒そうだし、俺はここで待ってるから先に着替えてきたらどうだ?」
「んー、そうだな。じゃあ悪いけどさくっと着替えてくるわ」
八幡の提案をすんなりと受け入れて、サーファーは荷物を抱えて道路のほうへと去って行った。おそらく海水浴客のための脱衣所か何かが近くにあるのだろう。シャワーが自前なのは、この時期に温水設備は稼働していないという事か。
そんなふうに推測を重ねながら、八幡は秋から冬を迎えようとしている海と向かい合う。穏やかにうねる波をじっと眺めていると、時間が経つのはあっという間だった。
「すまん、待たせた」
「いや、こっちが時間を取って貰ったわけだし気にすんな」
そう答えながら後ろを振り向くと、そこにはニット帽子を被ってポンチョを着た変な男が立っていた。
「温かそうなのは分かるけどな。それ、見た目としてはどうなんだ?」
「見た目なんかを気にするよりは機能性重視だろ?」
そう言って稲村純はにかっと笑った。
そのまま左のほうを指差して歩き始めたので、ゆっくりと後を追いながら背中に向かって話しかける。
「お前のことだから、湘南とかあっちのほうに行ってると思ってたんだがな」
「そっちも考えたけどさ。現実世界に戻った後を考えたら、やっぱ千葉の周辺でって思うじゃん。この辺りは遠浅で波もそんなに大きくないから初心者向けだしな」
正直なところ、八幡は向こうに戻った後の自分をうまく想像できずにいる。この世界に慣れたという理由もあるし、あっちで過ごしていた頃とはうって変わって自分を取り巻く環境が良い方向へと進んでいくので、二つの世界が意識の中でうまく融合できないのだ。
だが大部分の連中にとっては、あっちは帰るべき世界だし、いつか帰ると自分に言い聞かせ続けないとやってられない気分になるのだろう。
「んっ、なんか変な像があるな。……ああ、あれが『月の沙漠』の記念像か」
「そうそう。あの童謡のモチーフになったのが、この砂浜らしいな。焼津のほうじゃないかって説もあるみたいだけど」
意外な雑学を披露してくれた稲村が途中で立ち止まったので、八幡もその隣に並んだ。
左手にはラクダに乗った王子と姫の銅像が見えて、右手には白い砂浜の向こうに青い海と水平線が浮かんでいる。そんな環境で、二人は本題に入る。
「比企谷が俺に会いに来た理由は分かるよ。……一色さんに協力してるんだろ?」
「まあな。京都でお前と話した時には思いもしなかった展開だけどな」
修学旅行の一日目の夜に、偶然こいつと話していなかったら。きっとその時点で、勝利は潰えていただろう。
だが、今ここでこいつを説得できれば、一色当選の可能性が残る。
相変わらず首の皮一枚で繋がっているような状況だとしても、こいつが生徒会に加わってくれれば最低限の形が整うのだ。
そしてもう、他に候補はいない。
「あの時に、俺の過去の話をしたよな。それを知ってて、それでも俺を勧誘に来たんだよな」
「まあ……な」
稲村が言う過去の話とは、両親が大ファンだというあのバンドの話ではなくて、今年の入学式での出来事だろう。
長い人生の中で、誰しもが三人の特別な異性と出逢う。
その話を信じている稲村は、実際に入学式で
「なあ。俺にこんな事を言う資格があるのか分からんけどな。お前が由比ヶ浜のことを……」
「えっ。俺はべつに由比ヶ浜さんは……?」
「えっ。いや、だってお前あの時に……?」
思わぬ意見の食い違いに、慌ててがばっとお互いの顔を見合わせて。そして同時に勘違いに気付いた二人はぶはっと盛大に吹き出した。
「比企谷な、ちょっとこの勘違いはありえねーだろ。由比ヶ浜さんには簡単に返せないほどの恩があるけどさ、特別な異性じゃないっての」
「マジか……。由比ヶ浜の話題になるたびにお前が口ごもってたから、俺はてっきりそうだと思い込んでたわ」
そうだったかなと首を振って、稲村はおずおずと自信なさげに口を開く。
「多分だけどな。由比ヶ浜さんのおかげで俺は助かったし、簡単な言葉では表現できないくらい凄い人だって思ってるから、それを勘違いしたのかね。あとは、その、
「ん、待てよ。じゃあお前にとっての特別な異性って、もしかして……」
「ああ。……一色さんだ」
それを聞いた八幡は心の中で盛大に頭を抱えた。
勘違いが明らかになる前ですら、必死に土下座をして稲村に追い縋って、それでようやく説得できるかどうかだと思っていたのに。
それなのに、今やあいつらと同じぐらい仲が良い(と周囲からは見られているであろう)一色が稲村にとっての特別な異性なら、どの面下げてこいつに頼み込めば良いのか全く分からない。
ただ、もしも事前にそれを知っていたら、ここには来られなかっただろう。だって説得の可能性がまるで見えないからだ。
見込みのない相手と一緒に、生徒会で一年を過ごして欲しい。
そんな残酷な提案を、誰がどうして口にできるというのだろうか。
けれど事実として、いま俺はここにいる。
そして俺は、一色を当選させなければならない。
何故なら、あいつらに負けられない理由があるからだ。
ならば、どうする?
「……すまん。それでも俺は、お前に生徒会メンバーとして参加して欲しい」
「理由を、聞いても良いか?」
二人は、絞り出すような声で会話を続ける。事ここに至っては偽りは無用、どころか害悪だ。だから本音を突き付け合うしかない。
「あいつらに……雪ノ下と由比ヶ浜に会長職を押し付けたくない。あいつらにはもっと自由な立場で、奉仕部ってな変な名前の部活を通して、この高校に良い影響を与えて欲しいんだわ。あとな、一色が生徒会長になってくれたら、あいつらとの連携も今の城廻先輩と同じかそれ以上に上手く行く。それは俺が全力で保証する」
「……一色さん、この数日で凄い勢いで変わってるなって思いながら見てたのな。その横に比企谷がいて、俺はそれが悔しくてさ。でも俺には何もできなくて。……こんな離れた場所までサーフィンに来るぐらいしか、やることが無いんだよな」
「なあ……残酷なことを言ってるのは自覚してる。けどな、あの時お前『どうしようもない絶望感に浸れたほうが、きっぱりと次の大波に備えられる気がする』って言ってただろ。今みたいに遠くから眺めてるだけだと、それは無理だと俺は思うぞ」
「だからって、お前がそれを言うのかよ。よりによって、お前が、俺に……っ!」
燃えるような眼差しできっと睨み付けられながら、胸ぐらを掴まれそうな勢いでそう言われても、八幡は神妙な顔つきで弁明するしかできない。
「お前の過去の話を知ってるのは、本牧と俺だけだからな。それなのに、こんな話を持ち出して……」
「違うっ。話を持ち出されたことじゃない。なんでお前が、いつの間にか、い……一色さんの隣にいるんだよっ。その……俺にとっては違うけど、あの二人だって飛び抜けてすげーじゃねーか。誰にとっての特別な異性でも不思議じゃないだろが。なんで、あの二人で満足してくれないんだよっ?」
「……すまん。多分お前が言うとおり、あいつらは俺にとって特別な異性なんだろな。けどな、だからこそ、あいつらを当選させるわけにはいかねーんだわ」
「その為に……一色さんを犠牲に捧げるのか?」
「いや、そこはさっき言ったとおりだ。一色がそれを望んでるからこそ、俺も全力で協力できてるって思ってる」
「それが……一色さんの、希望なのか?」
あらんばかりの力をあごの付近に余さず集めて、ゆっくりと一つだけ頷いた。
それと同時に思い出したセリフがある。
「そういえば、お前たしか言ってたよな。『この件だけは例外だ』って。一色が勝手に立候補させられたってのが明るみに出た時に、『知ってしまった以上は、動かないって選択はない』ってな。なのにお前、こんなところで何やってんだ?」
ぎりっと奥歯を噛みしめる音がたしかに聞こえた気がした。それでも八幡は相手を想い遣る感情を捨てて、腐ったと評される目つきの奥にまばゆい光を灯して隣の男を睨み付ける。
「俺が知ってる比企谷は、もっと搦め手とか使いそうなイメージだったんだけどな。正面から力押し一辺倒って、なんか心境の変化でもあったのか?」
「さあな。とりあえず俺にとっては、ここは退けねーって話でな」
その迫力に気圧されてか、怒りと嫉妬に支配されていた稲村に少し冷静さが戻った。
だが、あと一手が足りない。
「そういやお前って、入学式の手伝いに行ってて一色と遭遇したんだよな。それで由比ヶ浜に助けられて……待てよ?」
「……一色さんが他の一年と揉め事を起こしてたから引き離してな。そしたらお礼を言われたから、そんなのいいって言おうとしたら目が合ってさ。一目で『この娘が特別な異性だ』って思って周りが見えなくなって。何か言うかするかしようとした瞬間に、由比ヶ浜さんが通りかかってくれてさ。あの人が真剣な口調で話しかけてくれたから正気に戻れて、それと同時に向こうにとっては俺はモブだって実感してさ。その後は、まあ、比企谷が言ったとおりだよな。サーフィンに逃げて、今も逃げてる。お前が言ったことは正しいよ」
稲村の語りを聞きながら、頭の中で話をまとめて。八幡がおもむろに口を開く。
「入学式の時に一色と揉めてた連中な。そいつら、今回の勝手に立候補の首謀者連中だぞ?」
「えっ……いや、でも……ああ、たしかに、それって有り得るのか」
「ここまで材料が揃ってて、今回の一件に一番最初から関与してて、お前はそれでも傍観を貫くのか?」
「……俺に、選択の余地は無いってことか」
稲村が首をがくっと落としてうなだれている。
抵抗を諦めたのは見るまでもなく判るけれど、生ける屍を生徒会役員に迎え入れても意味がない。
だから鋭い視線を緩めることなく隣の男を注視していると。
「比企谷が言いたいことは理解できたと思う。他の連中には明かさないようなお前の感情もな。けど俺も、この春から数えて半年以上は拗らせ続けたわけだからさ。選挙当日までには気持ちを入れ替えるから、あと何日かだけ待ってくれないか?」
きっとこれは稲村の意地なのだろう。会った時と同じようににかっと笑って、憑きものが落ちたと言わんばかりのすがすがしい顔を見せつけられた。死地に向かうと知っていてなお覚悟を決めた男の表情がそこにはあった。
同じような顔をどこかで見た気がするなと考えていると、京都であのお調子者のサッカー部員と話をした時の記憶が蘇った。結果的には回避できたけれども、玉砕すると分かっていてなお想いを伝えると決意したあの時の戸部翔の表情が、八幡の脳裏に鮮やかに蘇る。
覚悟を決めて死に向かう人はみな、こうした表情を浮かべていたのだろう。きっと乃木希典も、おそらく藤村操も。戸部も、そして稲村も。
その列に、次は誰が加わるのだろう。自分が加わる未来は果たしてあるのだろうかと考えながら、八幡は返事を伝えるべく口を開く。
「その答えで充分だ。俺らが一色を当選させるから、あいつが会長になった後は、お前らに頼む。……じゃあ、またな」
小さくしっかりと稲村が頷く様子を目に焼き付けて、八幡は独り歩き出した。砂浜を踏みしめるようにして足を運び、駅を目指してゆっくりと進む。
時計を確認すると、予定の一時間がもうすぐ終わろうとしていた。
更新が遅れた事もですし、目安の日時を全くお知らせできなかった事も申し訳ありません。
来月になれば落ち着くはず……と毎月のように願っているのですがままならず、とはいえ作品を放り出すつもりはありませんので、少し気長にお待ち頂けますと助かります。
次回は何とか今月中に更新できるよう頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
細かな表現を修正しました。(6/15,7/4)
■補足:大和の四股疑惑について
軽く読み流して下さると一番いいのですが、気になる方も少なからずおられるようなので補足しておきます。
まず作者としては、三股や四股といった噂が立つのは不名誉なことだと考えています。
古来より「男の甲斐性」という言葉がありますが、これの頭に「浮気は」と付くことがあります。でもそれは「本妻はもちろん浮気相手も経済的に養える」という前提ですし、たとえ複数の女性に手を出したところで男がヒモなら昔も今も蔑まれてきました。
一方で、「大和が複数の女性と噂になるなんて」と不快に思う読者さんがおられること、つまり三股や四股を「凄いこと」だと受け止める考え方があるのも理解しました。大勢の女性にもてている男を「羨ましい」と思うのは、たしかに納得できる部分があります。
それらを前提に本話の大和について考えてみますと、
・事実無根であること
・当人がそれを嬉しいとは思っていないこと
・なのに周囲には「有り得る」と受け止められるだろうこと
以上の理由から、大和にとっては「ご褒美」ではなく「罰」に当たると私は思います。
一学期の自身の行動が今もちくちくと大和を苛んでいるという、でも他の人から見たらちょっと羨ましいという、そんな微妙な余韻を残した終わり方を狙って「四股」描写を入れました。