俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

141 / 170
前回のあらすじ。

 告白の邪魔をされた戸部は、「誰とも絶対に付き合う気はない」と宣言する海老名に、天然のノリで一矢報いて去って行った。
 竹林に残った四人の前で、宙に浮いたままだった由比ヶ浜の言葉が俎上に載せられる。

 機を見て逃亡を企てた八幡だが、自慢の逃げ足もこの日ばかりは通用せず、雪ノ下に投げ捨てられた。
 策を二人に否定され、自分の代わりに由比ヶ浜が役割を果たし、最後には道路に転がされて醜態を晒して。だがそんな状況だからこそ、八幡は告げられた言葉を信じられた。
 それを由比ヶ浜に伝え、続けて「自分が自分を一番信じられない」と口にした八幡は、返事を明日まで待って欲しいと願い出て了承を得た。

 二年F組の三人娘が先に帰るのを見送って、葉山と戸塚にも事情を伝えて。寄りたいところがあるという雪ノ下を残して、八幡たちは嵐山を去る。
 別れ際に至っても、雪ノ下はどこまでもいつも通りに見えた。

 ホテルのロビーで待っていた川崎に「話がある」と言われ、二人は東山三条まで出向いた。
 歩きながら「奉仕部の活動は続けて欲しい」と伝えた川崎は、何気ないやり取りに心を動かされて。ついに、八幡を困らせるに違いない言葉を告げる。
 八幡の返事に微笑んで、「思うとおりにしたら良い」と励ましてくれて。川崎は先にホテルに帰っていった。



14.きっかけが些細なものでも彼らは気持ちを持ち直せる。

 着信音を耳にして、メッセージが届いたのだと認識しても、比企谷八幡はすぐには行動に移れなかった。脳の大部分は、先程の川崎沙希とのやり取りを振り返るので忙しい。現実逃避に勤しんでいた残りの部分は、きっとこれも良くない報せだと考えて動こうとしない。

 

「まあ、でも。見ないわけにはいかねーよな」

 

 何秒か、それとも何分か。時間と精神力を費やしてようやく決心がついた八幡はそうつぶやくと、のろのろとメッセージの確認に入った。

 

「本命が戸塚で対抗が葉山で、穴が平塚先生で大穴が雪ノ下ってとこかね?」

 

 自分の狭い交友関係から予測を立てて、平安神宮の石碑の前で立ち詰めになったままメッセージを開いてみると。

 

『我だ。二条河原の東岸にて待つ。速やかに来られたし』

 

 すっかり存在を忘れていたが、思い出してみれば大本命だ。

 それすなわち、材木座義輝からの呼び出しだった。

 

 

***

 

 

 がくっと音が出そうな勢いで首をうなだれて。ちっと舌打ちすると同時に、八幡の中でふつふつと怒りの感情がわき上がってくる。

 

 体力的にも精神的にもこれほど疲れた状態で、どうして材木座なんぞの相手ができようか。

 そう言い放って呼び出しを無視したい八幡だが、残念ながら材木座とは長い付き合いだ。長文でくどくどと書いて来たなら取り合う必要はないが、事務的と言えるほどのこの短さは、桜が狂い咲きしても不思議ではないぐらいに異常だ。

 

『今から行く』

 

 こちらも端的に返事を出して、八幡は付近の地図を開いた。

 

 二条通を西に向かうバスに乗って、川端二条で下車して川べりに向かうのが一番早いか。自分の居場所を材木座に把握されていると考えるのはさすがに被害妄想が過ぎるとして、目的地まで一直線なのは助かるなと八幡は思う。

 

 目先の行動が決まって、最優先で考える事ができて。現実逃避と言えばそれまでだが、少し肩の力が抜けた気がする。

 とはいえ材木座に感謝をするのは気が進まないし、どんな目に遭わされるか分かったものではない。行ってみれば「鞍馬の天狗殿と修行だ」などと言われかねない。その時は思いっきり殴り倒してやろうと、八幡は拳を握りしめた。

 

 地図に意識を戻して最終確認をする。京都は碁盤の目のように道路が走っているので、距離の把握が楽だ。丸太町通で考えると、たこ焼き屋から鴨川までの距離と同じぐらいだなと。二条通と見比べながら頷いていると、視界の端に見覚えのある名前があった。

 

「えっ。夷川発電所って実在するのかよ。狸があそこで酒を卸してるなんてことは……ここの運営でもない、よな?」

 

 京都駅の3と9分の4番のりばやら京大の韋駄天コタツやらをこの世界に登場させた運営だけに、全く信頼が置けない。八幡は未成年なのでお酒を飲めないが、森見登美彦氏の作品に頻繁に登場する偽電気ブランがこの世界に実在するならどこかの顧問が喜びそうだよなと考えて。

 

『こちら比企谷隊員。隊長、夷川発電所の存在を確認しました。偽電気ブランの注文が可能か否か、大至急確かめられたし』

 

 材木座のノリに毒されたのか、こんなメッセージを書いてしまった。下書きのまま消そうかとも思ったものの、まあいいかと思い直して送信すると。すぐに返事が来た。

 

『平塚です。比企谷隊員、素晴らしい情報をありがとうございます。おかげで今夜は祝杯を挙げられそうです。まあ注文した偽電気ブランで乾杯するだけですけどね(笑)。それも一人で(爆死)。そういえば昨夜はとても楽しかったですね。君たちに付き添ってもらったおかげで学年主任にも怒られずに済みましたし(汗)、巡礼先はどれ一つとして外れがなく最高でした。おかげで一夜明けても「あそこにも行けば良かった」「あの作品を忘れていた」といった思考から逃れられず、夜の続きのような心地で一日を過ごしました(コラ)。君たちと別れた後にラーメン屋を三軒はしごしたのですが、まず最初のお店はスープの色が……』

 

 続きは眠れない夜のためにとっておこうと考えて、八幡はそっとメッセージを閉じた。画面右にあるスクロールバーが上の方で止まったまま、ほとんど動いていなかったのだが、それも見なかった事にしようと考えて。

 

「んじゃ、バス乗り場まで移動するか」

 

 そもそもメッセージの送受信をなかった事にしてしまえば良いのだと思い直して。八幡は「俺は何も見なかった。何も送らなかった」と自分に言い聞かせながら、二条通を南に渡った。

 

 

***

 

 

 二条大橋の東南から鴨川を見下ろしてみたものの、材木座らしき人影はない。八幡は横断歩道で北に移動して、そこから川べりに下りた。橋の北側にも姿がないのを確認して、ひとまず立ち止まって橋の下に目を凝らしていると。

 

「ほう。思ったより早かったではないか。まだ腑抜けてはおらぬようだな」

 

 竹刀の剣先を地面につけて、柄頭を覆うように右手を置きその上に左手を添えた状態で仁王立ちしている。そんな材木座の姿が夜の闇に浮かんで見えた。ちょうど橋の真下あたりだ。よくよく見ると竹刀を二本持っている。

 

「お前な、二刀流でもやらかすつもりか?」

 

 そう言いながら八幡は無防備に近づいていった。出会い頭から挑発的な物言いをされて、穏やかな気分には程遠い。

 

「ふん。一本は貴様の得物だ。受け取れい」

 

 そう言って竹刀を軽く投げて寄越した材木座を、訝しげに眺める。なんとなく剣の間合いに入らないぐらいの距離で立ち止まって、受け取った竹刀をしげしげと見つめて首を傾げながら。

 

「どうでも良いけどお前、武士の魂を放り投げても大丈夫なのか?」

「ぐむっ。こ、これは竹刀ゆえ、この程度の扱いでも構わぬ」

 

 言葉の奇襲に耐えた材木座を見て、ふっと笑いを漏らして。とはいえ意図が全く見えないのが困ったところだ。こいつの小芝居に付き合うしかないのかと、そんなことを考えていると。

 

「貴様は知らぬだろうがな。京童が噂をしておったのだ」

「……はあ?」

「身を慎んで聴くが良い。……此のごろ都にはやる物。夜歩き、強情、偽告白!」

「っ!?」

 

 

 どうして材木座がそれを、と思う間もなく頭の中が一瞬で真っ白になって。気を取り直した時には、材木座への怒りでいっぱいになっていた。今日の出来事は、こいつに土足で踏みにじられるような、そんな扱いを受けて良い話ではない。二条河原で落書にされる筋合いはない。

 

「お前な。よく事情を知りもしないで迂闊な事を言ってると、あれだ。この竹刀でぶちのめすぞ?」

「ふっ。八幡よ、やれるものならやってみるが良い。だが忘れるな、我が名は剣豪将軍よしてっ……」

 

 これ以上は減らず口を叩かせまいと、上段から袈裟懸けに斬りかかったものの。ばしっと横薙ぎに受け止められた。ちっと舌打ちして、力を込めながら口を開く。

 

「んで、剣豪将軍をよして、次は何を名乗るんだ?」

「八幡よ。いかなお主でも、我が真名をこれ以上愚弄すれば命の保証はできぬぞ?」

「えっ。お前、剣豪将軍のほうが真名なの?」

「け、剣豪将軍義輝とは一にして全、切り離す事などできぬ名よ。それを思い知らせてやろう」

 

 強引に振り払われて、再び距離ができる。

 俺は何をしてるのかねと心の片隅では冷静な自分が健在だが、今日は色々とありすぎて精神力が限界に近い。いっそのこと派手に暴れてやるかと、そう考えて身構えると。

 

「まずはこれが、昨夜貴様が雪ノ下嬢と夜歩きを楽しんだ分!」

「おまっ……ぬあっ?」

 

 先程とちょうど立場を入れ替える形で、袈裟懸けを横薙ぎに受け止めたと思ったのに。竹刀が鞭のように動いて、気付けば喉元に突き付けられていた。自分の武器は虚しく天を仰いでいる。

 

 うむ、と重々しくつぶやいて、材木座は竹刀を引いて距離を取った。そして再び構える。

 

「な、なんでお前がそんな事を知ってんだよ?」

「知れた事よ。痴れ者の貴様が姿を消し、戸塚氏が早々に眠りに就いてしまったので、我の相手を務められる者が居なくなってな。夜の都を眺めるのも一興と、我は窓際に」

「なるほどな。窓際っつーか隅のほうに追っ払われたお前に、帰って来るところを見られてたわけか」

 

 並んでホテルに戻って来たのはまずかったかと反省して。とはいえ帰って来た瞬間を見逃さないのはこの暇人以外には不可能だろうと考えて、八幡は気持ちを切り替える。

 

 同級生を心配したJ組の女子生徒が頻繁に外を確認していたために、彼女らにもばっちり見られていたりするのだが。それは完全に八幡の想像力の埒外なのでさておいて。

 

 

「理解できたか。ならば良し。次なる我の攻撃は……ふんふんふんふん!」

「……なあ。真上からの唐竹で始まって、袈裟、逆袈裟、左右の薙ぎと、左右の切り上げと、真下からのは逆風だっけか。順番に八方向に素振りをしてもな。いや、お前がやりたい技は判るんだけどな。それ、見てるだけでも疲れるんだが?」

 

 心底呆れ果てたという八幡の口調も意に介さず、材木座は素振りを二回りくり返すと。

 

「ふんふんふんふん……きえーっ!」

「んで、最後は刺突な。悪いけど逃げ……ちっ、またかよ」

 

 身を翻して逃げたはずが、気が付けば先程と同様に首元すぐの辺りに竹刀があった。

 

「これは貴様が、依頼を一人で解決すると強情をはってた分!」

「だから、なんでお前がそんな事を知ってんだよ!」

「ぬん。これは今日知った事ではないわ。貴様の危うい傾向に、我が気付かぬとでも思うたか!」

 

 再び距離を取られ、そして好き勝手な事を言われてしまった。

 竹刀でも口でも主導権をすっかり握られて、思わず八幡は唇を噛んだ。どちらも腹立たしいが、より深刻なのはこちらだと考えて。

 

「なあ。強情って、どういう意味だ。俺がやるべきだと思ったから、あいつら二人にはできないと思ったからやろうとしただけだ。それを……」

「八幡よ、『二人にはできない』ではなく、『やらせたくない』の間違いであろう。よもや我が、貴様の発言を添削することになろうとはな」

 

 完全に下に見ていたはずの男にそう言われて。見下すと同時に、評価すべき部分は密かに評価していたことも忘れて。

 八幡は左手で竹刀を水平に持ち上げると、右足を前に出して深く腰を落とし、左片手一本突きの体勢になった。そして右手を剣先の付近まで伸ばして、軽く竹刀に触れる。左利きの人がビリヤードをやるような体勢だ。

 

「どうせお前の最後の技はこれだろ。先に使うけど、悪く思うなよ」

「ほう。では我も、同じ技で行くとしようぞ」

 

 同じ構えを取る材木座に心底からいらついて、八幡は下半身の撥条(ばね)を極限まで効かせて突進した。構えたまま動かない材木座の、顔のすぐ右の辺りを狙って突きを放つと。

 

「牙突など、我には通じぬ!」

「んなっ?」

 

 ぴたっと剣先を合わせて受け止められた。力を込めてもびくともしないので、慌てて後ずさる。

 

「そういえば、話が途中であったか。貴様の強情はの、遊戯部が相手の時はまだ良かったのだ。貴様の進退が掛かっておったからな。だが!」

「……ちっ」

 

 今回の依頼に限った話ではないのなら、八幡にも身に覚えがあった。きっかけや理由はどうあれ、確かに八幡は「なんとしてでも結果を出す」と決意したことが何度かあった。いや、二学期に入ってからは毎回そうだったと言っても過言ではない。

 

「いくら一人で結果が出せたとて、貴様が度を超えて犠牲になることなど、報われぬことなど、我も含めて誰も望んでおらぬわ!」

 

 そう言い放った材木座は地面を蹴って、八幡に向けて突進した。竹刀を細かく動かして威嚇しながら回避しようとした八幡だが、首筋に剣先が触れたのを感じて動きを止めた。

 強く奥歯を噛みしめて、だが材木座の顔をまともに見られない。

 

「ましてや嘘告白で事を収めるなど、誰一人として望んでおらぬ!」

「ちっ。それな、雪ノ下にも由比ヶ浜にも言われたから、今日はさすがに勘弁してくれ」

「うむ。……今の嘘告白の分で、我の攻撃は最後だ」

「あ、お前ちょっと興奮しすぎて決め台詞を忘れてただろ。俺は誤魔化されないからな」

 

 殊勝なセリフを耳にした材木座が気を緩めたところで、言葉のカウンターが綺麗に決まった。ぬううと言いながらぷるぷる震えて。材木座は手元に戻した竹刀で川べりを指すと、そこに向かって歩き始めた。

 ゆっくりと後を追いながら、その背中に向けて語りかける。

 

 

「なあ、材木座。俺は自分が報われるよりもな、あいつらに報われて欲しかったんだわ。あいつらに、苦しい思いをして欲しくなかったんだわ。それがなんで、こんな展開になったんだろな」

 

 千葉村でキャンプファイヤーを見ながら、部長様に伝えた言葉があった。

 あの小学生の女の子が黙って横を通り過ぎて行くのを一緒に見送って。宥めるつもりで言った「報われねーな」という言葉は、軽い口調ではあったけれども。そこには、八幡の本心がこもっていた。

 

 雪ノ下雪乃が、報われて欲しいと。

 

「あいつらが今回の依頼のために費やした労力を、一歩間違えば台無しにしてた可能性もあったし。そうじゃなくても由比ヶ浜には……そういやお前、どこまで話を知ってんだ?」

 

 黙って川面を眺めている材木差の横で立ち止まって話を続けていると、大事な事を思い出した。それを尋ねてみると。

 

「おおよそは聞いておる。だが、心配は無用よ。我にはお主と違って、話す相手が真におらぬからの。だから八幡よ、思う事があれば全てを吐き出しても良いのだぞ。今の我らは常世の闇に覆われておる。夜に紛れ貴様の声も届かないよ、というわけだ」

 

 ちょっと哀しい事を言われて、続けて少し格好いい事を言われて、最後には脱力するような事を言われてしまった。声が外に漏れない状態にあると伝えれば済むのに、どうしてそんな引用過多の言い回しになるのやら。

 あれは文化祭の準備期間だったなと思いながら、八幡が口を開く。

 

「そういやカラオケに行って『千本桜』を歌った事もあったな。雪ノ下と葉山が同じ小学校だったって判明した時か。あの時のお前の振り付けは、見るに堪えなかったぞ」

 

「はぽん。貴様は視覚に頼りすぎよ。点は線に、線は円になって全てを繋げていくと、なぜ解らぬ。あの時から貴様の問題は変わっておらぬ。由比ヶ浜嬢が何を口にしたとて、今に始まったことではないわ。全ての始まりはもっと昔よ」

 

「まあ、そうかもな。お前の言い方を真似ると、あれだな。変わらない日々を疑ってなかったのは、俺だけだったって事か」

「ふん。まったく貴様は、ラノベ主人公みたいな奴よの」

「おいちょっと待て。俺はバカでも変態でも鈍感でも難聴でもねーし、ハーレムなんて程遠い状況だろが。まあ、ハーレムなんていらんけどな」

 

 材木座の言葉に反射的に応えながら、こうしたやり取りを懐かしく感じてしまった。

 奉仕部で過ごす時間に不満はないけれど、この手の話だけはできないなと、そう考えて。昨夜の巡礼を思い出した。こんな話題ですらも、あの二人とならできるかもしれないなと思い直す。

 

「ハーレムには、選ばなくて済むという利点がある。お主には向いておるかもしれぬぞ?」

「ばっかお前、選ばない奴が選ばれるわけねーだろ。一瞬なら成立しても、結局は自分だけ取り残されてぼっちエンド確定じゃね?」

 

「そういえば、あの時にお主は『トリノコシティ』の世界に浸りたいと言っておったの。我に言わせれば、一瞬でも二人でいられたのなら良いではないかと思うがな」

「知らないうちはそう思うけどな。知った後で取り残されたら、よけいにつらくなるって話も解るだろ。まあ、だからって知りたくなかったとは思わないけどな」

 

 八幡の言葉に頷きながら、材木座はふんと鼻を鳴らした。そのままおもむろに話を続ける。

 

「ならば、取り残される前に結論を出せば解決ではないか。それとも、それができない理由がお主にはあるのか?」

「ちっ。お前も勘付いてるだろが」

「知らぬなー。我には見当もつかぬなー。八幡に教えて欲しいなー」

 

 再び竹刀で殴りつけたくなって、でもそれは後だと思い直す。

 そして八幡は、一日目の夜に聞いた話をふと連想した。誰しも一生のうちで三人の特別な異性と巡り逢うという、稲村純の話を。

 

 

「こないだな、自分にとって特別な異性と出逢ったって奴の話を聞いてな。俺が『特別だって判ったのはなんでだ』って尋ねたら、一目見りゃ判るんだと。そいつの思い込みって可能性もあるし、まあ真偽は別に良いんだけどな。自分にとっては特別でも、相手にとってはそうじゃなかったって事で、結論としては何も起きなかったらしいんだが」

 

「うむ、喜ばしい話である。続けるが良い」

「お前のそういう最低なところ、俺は嫌いじゃねーぞ。んで、この話を聞いた時からうすうす覚悟はしてたんだけどな。特に今言った、相手にとってはモブでも自分にとっては特別って部分がな。けっこう突き刺さってたんだわ」

 

 からかうような事を言われるかと思ったが、材木座は何も言わなかった。ただ軽く頷いて、先を促している。

 

 考えてみれば、一年の時から付き合いがあるのはこいつぐらいだ。俺のぞんざいな扱いに文句を言いながらも、決して離れていく事はなかった。馬鹿げた依頼を持ち込まれもしたけれど、奉仕部に入る前から俺の話をちゃんと聞いてくれたのは、こいつとあの顧問ぐらいのものだ。

 

 それは、今になっても変わらない。

 

 先程こいつに言われたように、今の俺には少ないとはいえ話ができる相手がいる。信頼できる連中がいる。こいつの性格なら裏切り者とか何とか悪態を吐いて、離れていっても不思議ではないのに。俺が窮地に陥った時に唾を吐きかけられても、文句は言えないのに。

 だって、心の中ではずっとこいつを見下していたから。

 

 こいつだって、そうした気配には敏感なはずなのに。それでも俺が苦しい時には、いつも助けてくれる。

 

 材木座に今日の話を伝えたのは、まず確実に戸塚彩加だろう。それに気付いても、二人を責める気持ちは湧かなかった。

 なぜなら八幡は、二人の性格を知っているから。

 

 自分では力になれないと考えて、材木座に話を伝えてくれた戸塚の気持ちも。

 話を聞いて、すぐに行動に出てくれた材木座の気持ちも。

 今の八幡には理解できてしまうから。

 

 だから八幡は、嘘偽りのない自分の気持ちを伝える。

 

「二人にとってはモブでも、俺にとっては違うのかもなって、そう思ってて。そしたら、由比ヶ浜があんなことを言ってくれてな」

 

 そこで言葉を切った八幡は、川崎のことを思い出した。

 ちゃんと気持ちを込めて自分に告白してくれた、二人目の女の子。

 

 もしも先に川崎の告白を受けていたら、返事は変わっていたかもしれない。

 そう考えて、八幡は即座にその仮定を却下する。それでは川崎にあまりに申し訳ないし、点が線になって円になって繋がっていくのだと、さっき材木座に教えられたばかりだ。

 

 最初に由比ヶ浜結衣の告白があった。身に余るような言葉をもらって、ちゃんと自分の事を見てくれていたのがすごく嬉しくて。それを言葉で伝えてもらったのも嬉しくて。

 

 だから、俺や奉仕部の事を思い遣ってくれた川崎に、お礼の言葉を伝えたくて。川崎の良いところをちゃんと口に出して教えてやりたいと、そんな気持ちだったのに。

 

 言葉は、もっと大きな言葉になって返って来た。

 けれど、自分にとって川崎は素敵な女の子ではあるけれども、特別ではないと判ってしまった。

 

 稲村の話を全て信じられるかというと微妙だし、そもそも特別な相手と付き合えたとして、それが幸せに直結するとは限らない。特別であるがゆえに、お互いにとって害になるという可能性もあるのではないかと。疑い深い八幡は、どうしてもそう考えてしまう。

 

 だが特別を知ってしまえば、それ以外の相手を考えられなくなるのも確かだ。

 

 もともとあの二人は、八幡にとって大切な存在だった。その事実を心から受け止めたのは文化祭の直前のこと。クラスの劇の原作でもあるあの作品の中で、キツネが王子さまに伝えた言葉。それを自分たちに適応して、やっと気が付いた。

 

 二人のために費やした時間のぶんだけ、二人は俺にとって大切なのだ。

 

 とはいえ同じ部活の大切な仲間と、特別な異性とは違う。もしも二人が俺の事を大切な仲間だと思ってくれているとしたら、そんな二人に異性としての目を向けるのは、ひどい裏切りになるのではないかと。そんなふうに考えもした。

 

 それでも、気持ちというものは消えてくれない。

 

「結局な、俺は自分への言い訳を探し続けていただけで、何も考えてなかったし何も行動してなかったんだよな。自分からは確かめようともしないで、由比ヶ浜が動いてくれてやっと判って。それでもあいつらには正直に言えなくて、嘘じゃないからって別の事を言って誤魔化してな。その時点で充分に大嘘つきだっつーの。でもま、そろそろ認めないと前に進めないみたいだわ」

 

 そう言って八幡は、鴨川のはるか下流を眺めて。

 噛みしめるように言葉を発した。

 

「俺にとって、二人は大切なだけじゃなくて。特別な異性でもあるんだわ。二人にとっての俺が、特別だろうがモブだろうが関係なしにな。けどなあ……なんで俺の場合、二人まとめて現れるのかね?」

 

 由比ヶ浜に返事ができない本当の理由を、八幡は材木座にだけ伝えた。

 

 

***

 

 

 八幡の気持ちが落ち着くまで待ってくれていたのか。大きく息を吐いてから材木座を見ると、無言のまま竹刀を土手に向けて、ゆっくりと歩き始めた。

 それを追って半分ぐらい歩いたところで。

 

「あ、待った。お前を一回ぶちのめすのを忘れてたわ」

 

 そう言って八幡は左足を前に出すと、腰を低く落として右にひねった。竹刀を右で逆手に持って、材木座を見据える。

 

「ほむん。目には目を、ストラッシュにはストラッシュを。八幡よ、いつでも良いぞ」

 

 同じ体勢になった材木座に向けて、八幡は地を蹴って突進する。そして剣の間合いの少し外から、大声で。

 

「ストラーッシュ、アロー!」

 

 そう叫ぶとともに、勢いよく竹刀を投げつけた。

 

「ぬぅおうっ!?」

 

 奇声を発しつつも、材木座は身体の正面で竹刀を逆手に掲げ、飛んで来た武器を受け止めた。ほっと一息ついて、地面にぼとっと落ちたそれを眺めていると。

 

「ここまで近づいても気付かないとは、油断したな」

 

 材木座の左側に回り込んでいた八幡が、走りながら腕を後ろに大きくそらしていた。驚きの声を上げる間もなく、腹に向かって拳が突き出される。せめて竹刀を正眼に構えて、衝撃に備えて目を瞑ると。

 

「お前が一発も当ててないのに、俺が当てるわけにはいかねーだろ」

 

 そう言われて目を開けると、腹の手前で寸止めされていた。思わず声が出る。

 

「は、八幡よ。今のは我もちょっと本気でびびったぞ。まさかこんな短時間で攻略されるとはな」

「まあ半分は賭けだけどな。演技スキルのことをすっかり忘れてたわ」

 

 そう言いながら八幡が息を吐いているので、同じように深呼吸して話を続ける。

 

「もしや、条件を見破ったのか?」

「だいたいな。攻撃の時は相手の竹刀をすり抜けて必中で、守備の時には竹刀を必ず受け止めるとか、だいたいそんな感じだろ。攻守の切り替えを突いても良かったんだが、まずは生身の拳で殴ってみるかって思ってな。条件付けを竹刀に限定したのが失敗だったな」

 

 何だかんだと文句を言いつつも、自分のノリに付き合ってくれて。一緒にバカをやる時もあれば、今みたいに思いがけない対応を見せてくれる時もある。

 

 自分を内心で見下しているのは知っているが、大事な部分を蔑ろにはしない。材木座が大切に思う事は尊重してくれるし、土足で踏み込むべきでない領域があると理解してくれている。

 

 だから材木座は、八幡が限りなくリア充に近くなろうとも付き合いを続けられる。

 

 そこに打算がないわけではないが、仮に八幡が校内一の嫌われ者になったとしても材木座は気に留めない。八幡がどんな状況に陥ろうとも今の関係を続けるつもりだ。

 

 とばっちりで実害を被る可能性が出てくれば遠慮なく逃げるが、それは立場が逆でも同じだろう。なぜなら、カースト底辺が何人集まって抵抗しても被害者が増える結果にしかならないと、身にしみて理解しているからだ。ならば逃げられる者は逃げたほうが良い。

 

 でも、助けられる状況ならば。力になれる場面ならば、労は厭わない。

 

 割に合うか否かで考えると、少なくとも相対的には割に合わない。八幡がおいしいところを持っていくのはほぼ確実だからだ。

 だが、それがいったい何だというのだろうか。

 戸塚に頼られて、八幡を元気付ける事ができた。この結果以上の何を、求める必要があるのだろうか。

 

 

「貴様のセンスには、我ですらも時に驚かされるわ。そういえば、音羽の滝でお主に言われて考えたのだが、『心頭を滅却(クインシー)する』とルビを振るのは最高にオサレだと思わぬか?」

 

「お前なあ。まんまパクリだし、二次創作で使っても受けるかどうか怪しいもんだぞ。ユーはバッカ?」

「……八幡よ。さすがの我も今のはちょっと寒いと思うのだが」

 

 互いに目配せをして、今の会話はなかった事にしようと約束を交わして。そろってため息を吐くと、どちらからともなく川に背を向けて歩き始めた。

 

 秘めていた気持ちを口に出して、材木座にも一泡吹かせて。そのおかげで八幡が、すっかり普段通りに戻っているのを確認して。

 明日はまた大変なのだろうが、少なくとも今夜眠れないということはないだろうと材木座は思った。

 

 引き続きくだらない話題で盛り上がりながら、川端通に戻って二条通を少し東に歩いて。二人はホテルに向かうバスに乗り込んだ。

 

 

***

 

 

 ホテルのロビーでは、先ほど八幡が記憶を闇に葬った人物が待ち構えていた。すなわち平塚静である。

 

 ソファの前のテーブルにはボトルとグラスが置かれていて、左手には具現化した文庫本を持っている。その横には何か荷物が置かれているが、どこかで土産物でも買ってきたのだろう。一人なのにずいぶんと楽しそうだ。

 

「君が教えてくれた偽電気ブランだがね。芳醇で何杯でも飲めてしまえる気がするよ。まさに美酒だな」

 

 ソファに座るようにと促されたので、仕方なく腰を下ろした。逆らっても無駄だと理解しているからか、材木座も大人しく隣に座っている。

 

 メッセージを途中までしか読んでいないとはおくびにも出さず、適当に相手を続けていると。いつの間にか材木座の姿が見えない。隙を見て先に逃げ出したようだ。カースト底辺の鑑だなと八幡は思った。

 

「あの、そろそろ俺も帰って良いですかね?」

 

 京都と千葉のラーメンを比較して長々と論じ続けていた平塚が、なみなみと注がれたグラスの中身をぐいっと飲み終えた瞬間を狙ってそう告げると。

 

「む……いかんな、杯を傾けすぎたか。君にも長居をさせてしまったな。部屋に帰ってゆっくり休みたまえ」

 

 いつもこうだと助かるのになと思いながら、八幡はロビーを後にした。

 平塚が誰を待っているのか、それを尋ねるという発想は思い浮かばなかった。

 

 

***

 

 

 部屋に戻ると、同じ班の三人が寝ずに待っていた。他の生徒の姿はない。

 

「今日はさすがにみんな疲れてるみたいでさ。早々に解散したよ」

「大和と大岡にもざっと説明しといたっしょ。でも結衣の事は話してないから大丈夫だべ」

「勝手に材木座くんに事情を話しちゃって、ごめんね」

 

 葉山隼人と戸部翔には頷くだけで済ませて、口を開く。

 

「いや、かなり気晴らしになったし助かった。結論が出せるかは分からんけど、とりあえず体力不足で明日を迎えることはなさそうだわ」

「眠れそうなら良かった。明日の朝は、ぼくがギリギリの時間に起こしてあげるから、ゆっくり休んでてね」

 

 戸塚との新婚生活はこんな感じになるのだろうかと八幡が幸せを噛みしめていると。

 意外にも、戸部が話しかけてきた。

 

「でさ。千葉に帰ったら奉仕部にお礼に行くつもりだけどさ。海老名さんが好きな漫画とか小説を読むようにって、あれ、すげー役に立ったっしょ!」

「あー。いや、でも結局はあれじゃね。告白する前に海老名さんの気持ちが判明した形だから、あんま意味なかった気がするんだが?」

 

 風呂の支度をしながら、不思議そうに八幡がそう返すと。

 

「海老名さんの好きなものとかを全然知らなかった俺っちだとさ、付き合えるかどうかが一番大事だったんだべ。けどさ、今はちょっと違う感じでさ。なんて言ったらいいんだべ、えーと……」

 

 戸部が感情の言語化に苦しんでいるが、ここは手を貸すべきではないなと八幡は思った。葉山の様子をこっそり窺うと、苦笑する事も呆れる事もなく真顔でじっと見守っている。おそらくは同意見なのだろう。

 

「その、海老名さんが好きなものそれ自体がさ、面白いって言うかさ。海老名さんを詳しく知るために始めた事なのに、そっちも楽しくなっちゃったんだべ。こんな面白い作品をたくさん知ってる海老名さんって、やっぱ凄くねって思ったりさ。そりゃあ、付き合えるなら今すぐにでも付き合いたいっしょ。でも、今の関係のままでも海老名さんをもっと知る事はできるから、告白できなくても俺っち的には問題ないって感じだべ」

 

 なぜか、材木座の依頼を思い出した。

 問題だらけの原稿でも、本人にとってはそれが何よりも楽しくて。ごく少数でも他人に読んでもらえると幸せで。たとえ酷評でも反応があると嬉しくて。そんな材木座の姿が、誰もが告白は失敗に終わると考えていた戸部の姿と重なった。

 

 海老名にとって、戸部は特別な異性ではないのかもしれない。だが戸部にとっては特別な異性なのだ。海老名との関係に、付き合う以外の価値を見いだしているのがその証拠だ。

 

 八幡は戸塚を見て、次に葉山を見た。二人とも、自分と同じ気持ちだなと理解して。

 

「じゃああれだな。戸部には海老名さんともっと仲良くなってもらって。BLネタの餌食になって、一人で犠牲になってくれる事を願ってるわ。んじゃ、俺は内風呂に入ってくるな」

「ちょ、ヒキタニくんそりゃねーっしょ!」

 

 男子部屋に響いた戸部の声は、朗らかで楽しそうで、そして満更でもないように感じられた。

 

 

***

 

 

 バス停で男子三人を見送って、雪ノ下は少し時間を置いてからタクシーに乗り込んだ。

 待ち時間を利用してルートを検討していたので、運転手に指示を送る雪ノ下に迷いはない。

 

 雪ノ下が重度の方向音痴を周囲に隠せているのは、人前では指示に徹しているからだった。自分が先陣を切ると変な方向に歩き出してしまうが、集団の最後のほうで重々しく行動すれば誰にもバレない。

 

 一人の時にはあえてバスなどを使う事もあるが、その結果はかんばしくない。成長が見られないのは自分でもどうかと思うのだが、これは宿痾と呼ぶべきなのだろう。

 そんなわけで、時間のない時にはタクシーを多用している雪ノ下だった。

 

 

 丸太町通を東に向かい、円町で左に曲がって西大路通を北上した。そして今出川通で右折して北野天満宮の前でタクシーを待たせておく。

 

 夜でも境内には人がちらほら歩いている。雪ノ下は足早に絵馬所に向かうと、昼間に奉納した絵馬を探した。四人分が近くにあるのを確認して、軽く手を合わせるとすぐに踵を返す。

 

 タクシーにUターンさせて北野白梅町の交差点まで戻ると、西大路通をひたすら南下した。九条通を左に折れて、河原町通と鴨川を越えて、東福寺の北駐車場に車を入れる。そこにあるトイレに目をやりながら、雪ノ下はしばし車内で無言の時間を過ごした。

 

 外に出ぬまま駐車場を出ると、更に南へと向かわせた。JRの駅前で一瞬だけタクシーを停めて。伏見稲荷大社の大鳥居を眺めてから車を出させる。

 

 師団街道を北上して、そのまま川端通に入った。四条で左に曲がって、堺町通は南向きの一方通行だと言われたのですぐ東隣の柳馬場通を北上して。三条通で左に折れて、すぐにまた左折した。堺町通を南下しながらイーノダコーヒー本店を眺めて、再び四条に戻る。

 

 四条通を東に向かって、川を渡ってすぐに左折した。川端通を少し北上して、車を停めさせる。車内から見覚えのある木に微笑みかけて、「3月のライオン」という作品名を記憶の中にもう一度焼き付けてから運転手に出発を命じた。

 

 三条通で左折して橋を渡ると、河原町通のすぐ手前で停車させた。西へと続いていくアーケードに頷きかけてから、車を南下させる。

 

 四条通で左折して、川端通で右折して、七条通でまた右折した。四条で曲がらずそのまま河原町通を南下すれば良いのにと自分でも苦笑しながら、それでも昨夜と同じルートを選んだことに後悔はなかった。烏丸通で左に曲がって、突き当たりで右に折れてすぐに車を停める。

 

 左手に京都駅の威容を拝み、右手に京都タワーを見上げた。あの時に耳にした「ワンダーフォーゲル」という曲の名を記憶に刻んで、車は再び烏丸通に戻った。そこから丸太町通を目指してひたすら北上する。

 

 御所の南を通り抜けながら、見慣れた大通りの姿に安堵の息を漏らして。東大路通りで東から北へと進路を変える。東一条通を右折して、大学の正門前でタクシーにUターンを命じて、その場で待たせることにした。

 

 

 時計台下のサロンに入って、一人で腰を下ろした。

 昨夜と比べると人数的には寂しいものだが、雪ノ下の表情は変わらない。ホテルで夕食を済ませて嵐山を再訪して以来、雪ノ下の顔つきは恐ろしいほど変わっていなかった。

 

 昨夜と今日と、人数は同じ三人でも構成は違ったのだが、雪ノ下にとって近しい人たちである事に変わりはない。三人で回った場所をもう一度だけ追体験して、ようやく気が済んだ。

 これできっと、二人をきちんと祝福できるだろうと雪ノ下は思う。

 

 そもそも、あの二人はお似合いだと文化祭の頃から考えていたではないか。今抱えているままならない想いは、三人で過ごす時間があまりに甘美で居心地の良いものだったから、それを惜しんでいるに過ぎないのだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 あの竹林で起きた出来事の最初から最後まで、雪ノ下は当事者各位の表情を一つたりとも見逃さなかった。だから八幡が返事を躊躇していることも、由比ヶ浜が悪い結果を予測している事も、雪ノ下は見抜いていた。

 

 それでも、二人は最終的にはわだかまりを克服できるだろうと雪ノ下は思う。他の誰よりも近い場所から二人を見てきたからこそ、そう太鼓判が押せる。

 なのに、なぜ。このやるせない想いは消えないのだろうか。

 

 八幡に恋愛感情を抱いているのかと問われれば、断じて否だと即答できる。そうではない。うまく説明できないのだけれど、そうではないのだ。

 

 だが、続く言葉が出てこない。なぜなら、恋愛とはどういうものなのか、雪ノ下には未だに解らないのだから。数多の告白を断っても、解らないものは解らない。

 

 解らないと言えば、今後の身の振り方も雪ノ下には解らない。付き合っている二人の中に交じって、自分はいったいどんなふうに身を処せば良いのだろうか。

 

 解らない事が多すぎて、一人では処理できそうにないと思えてしまって、誰かに助けて欲しいと雪ノ下は思う。だが、誰かとはいったい誰なのだろう。そんな人物が都合良く目の前に現れるなんてあり得ないと、そう考えてしまう。だって……と思考を進めかけて、雪ノ下はそこで強引に考察を断ち切る。

 

 

 他のことを考えようと話題を探していた雪ノ下は、ふと千葉村で顧問に言われた言葉を思い出した。あれは一日目の夜に、比企谷小町を加えた四人で平塚のログハウスを訪れた時だった。

 

『弱さこそが大事な場面もある』

『強さだけを重視していると最悪の事態に繋がる可能性がある』

 

 結局のところ、自分が抱えている問題は、その原因はまさにこれだろう。

 

 今ここに至ってなお、他人からは平然として見える事を雪ノ下は疑っていない。内心ではこれほど混乱して困惑して、誰かに縋りたいとすら考えているのに。外見からそれを見抜くのは、不可能に近いだろうと自分でも思う。

 

 こんな時ですら、私は我慢ができてしまう。自分にとって特別だと、大切だと、かけがえのないものだと言い切れる部員たちとの関係が劇的に変化してしまう可能性に直面してなお、私は我慢ができてしまう。いつもと変わらぬ表情を浮かべて、いつもと同じように行動できる。

 

 その強さが、自分でも恨めしかった。

 

 

 今回の一連の出来事で、一番割を食ったのは自分と海老名姫菜だろうと雪ノ下は思う。ホテルのロビーで八幡に歌舞伎の話をした事を思い出す。あれはやはり、ある種の予感だったのだ。

 

 由比ヶ浜を通して定期的に付き合いがあるとはいえ、海老名の性格を雪ノ下は把握し切れていない。

 だが先ほど男子三人に伝えたように、八幡と海老名の間に類似点があるのならば。八幡の思考の傾向を応用する事で、雪ノ下は海老名の気持ちを推測できる。きっと今頃は、私に勝るとも劣らない忸怩たる想いを抱えている事だろう。

 

 予期せぬ告白をしてしまい、更には振られる事を覚悟している由比ヶ浜も。そして葉山との仲を深められないまま難易度だけを目の当たりにする形になった三浦優美子も。それから由比ヶ浜が告白したという事実を知っていながら気持ちを伝えてしまった川崎も。

 海老名を含めた四人が沈痛な想いを抱えて夜を過ごしている事を、雪ノ下は知らない。

 

 強く両目を瞑って。そして再びしっかり見開いて。雪ノ下は一つ頷くと席を立った。ここにいつまでもいても仕方がないし、どうしようもないなりに覚悟が付いた気がする。

 そう考えて、雪ノ下は時計台を後にした。

 

 

 東一条通に出ると、正門のすぐ目の前にはコタツがあった。昨夜も見たとはいえあり得ない光景に遭遇した雪ノ下が、珍しく呆然と突っ立っていると。コタツに入っている浴衣を着た男と目が合った。おそらくはNPCだろう。

 

「学祭は来週なので具はないけどね。豆乳鍋のだしだけで良ければ、食べていくかね?」

 

 どうして頷いたのか、後になっても雪ノ下は自分の行動を説明できなかった。端的に言えば魔が差したのだろう。

 

 ふらふらと歩み寄った雪ノ下は、男の対面で正座して両膝をコタツの中に入れた。すぐにお椀と割り箸が目の前に置かれる。男が手ずから用意してくれたものだ。

 

「これからの季節だと、鍋は身体が温まるので良いですね」

 

 怪しげな男に差し出された謎の液体を忌避する気持ちが湧かないのが、自分でも不思議だった。雪ノ下はお椀の中身を飲み干すと、そう言って男にお礼を告げた。

 

「貴君はなかなか見所があるよ。だが、骨を折るところをまちがえているのが惜しいな」

 

 その言葉すらも素直に受け取って。雪ノ下は一つ頭を下げるとコタツを出た。通りの向こうには、待たせていたタクシーの姿が見える。

 

 車内からもう一度頭を下げて、雪ノ下は東大路通を右に曲がった。今出川通を東へ、白川通を北に向かい、北大路通の手前でUターンさせる。昨夜食べたラーメンの味を思い出しながら。

 

 白川通を南下して、丸太町通で右折して。せっかくなので岡崎神社の向こうでUターンさせて、ホテルのすぐ前に車を着けさせた。運転手にお礼を言ってタクシーを降りる。

 

 

 ホテルに入ると、ロビーには見知った顔があった。平塚の前にはボトルとグラスが置かれていて、しかし当人はペットボトルのお水を飲んでいる。

 珍しいこともあるものだと、雪ノ下が狐につままれたような気持ちで立っていると。

 

「無事に帰ってきて何よりだよ。入浴がまだだろう?」

 

 そう言って平塚は、傍らの荷物を持ち上げた。どうやら風呂敷包みのようだ。

 

「その中には、何が入っているのですか?」

 

 あまり良い予感はしないのだけれど、と思いながらも尋ねてみると。

 

「浴衣とタオルと、それから替えの下着だな。大浴場に入れるから、ついて来たまえ」

「先生はお酒をお召しになっていると思うのですが。その状態での入浴は、健康に良くないのではないでしょうか?」

「ふむ、途中からは控えていたので大丈夫だとは思うがね。万が一に備えて君が付き添ってくれると、私としては助かるな」

 

 物は言い様だなと思いながらも、拒否する気持ちは起きなかった。手のかかる親戚のお姉さんという表現がぴったり来るなと思い付いて、含み笑いを漏らしてしまう。

 

「愉快なことでもあったのかね。私も比企谷のおかげでな、小説に出てくるこのお酒を味わうことができたよ。この世界にはまだまだ多くの可能性が隠れているな」

「そうですね。私も小説の世界に迷い込んだような体験をしたのですが。そんな些細な出来事でも、心の持ちようは変わるものですね」

 

 同じ原作者の話をしているとは、二人には気付けるはずもなく。

 平塚は、飲み残したボトルを部屋に届けておいて欲しいと命じると、雪ノ下と並んで大浴場へと歩いて行った。

 

 

 波瀾万丈という表現がふさわしい一日ではあったけれども。

 各々に少しずつ明るい兆しを見せながら、修学旅行の三日目はこうして終わった。

 




次回は週末に何とか更新したいと思っています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。