俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ。

 三日目は朝から奉仕部の三人で過ごした。

 由比ヶ浜に起こされた八幡は珈琲店でモーニングを食べ、伏見稲荷大社では昨夜に続いて受験の話をさらに深めた。通天橋からの景色を貸し切り状態で堪能して、それらの合間に戸部の告白に対して策を積み上げていく。

 北野天満宮では雪ノ下が四人分の絵馬をこっそり奉納し、三人で小町の合格を願った。その後は境内で紅葉を観賞しながら、勉強の話から趣味の話まで途切れることなく会話が続いた。

 嵐山に移動した三人は渡月橋からの眺めを満喫した。雑貨店でマグカップを二つ購入して、休憩をはさんで竹林の小径に足を踏み入れる。

 課題図書から本日のルート提案まで、これらの効果を総括した上で戸部の説得を試みると話す雪ノ下は、それが無理だった場合には二人に後を任せると口にした。告られるならこの小径が良いと由比ヶ浜が言うので、説得して駄目ならここで告白させるという流れを確認して。

 三人が大通りに戻ると、そこには見知った四人がいた。



12.わすれることなどできない言葉を彼は耳にする。

 バス停の前で四人と出くわす形になって、比企谷八幡は一瞬だけ間の悪さを覚えたものの。すぐに、これはチャンスだと思い直した。戸部翔を説得するには、またとない機会だと考えたのだ。

 

 そこに海老名姫菜を同席させるわけにはいかないので、四人を分断する必要がある。何か良い手はないかと頭を捻っていると。

 

「やあ、偶然だね。俺たちは今からホテルに帰るところだったんだけどさ。せっかくだし、みんなで通天橋まで夕暮れを拝みに行ってみるかい?」

「それも悪くはないのだけれど、少し戸部くんに話があるのよ。だから行くとしてもその後ね」

「えーと、俺っちに?」

 

 うまい具合に葉山隼人が話しかけてくれて。そして雪ノ下雪乃は何を隠すこともなくこちらの要望を伝えた。ストレート過ぎて思わず苦笑が漏れる。

 

「ふうん……なるほどね。じゃあさ、俺も少しヒキタニくんと話があるから、ここでお互いに一旦解散というのはどうかな?」

 

 続く葉山の言葉が意外だったので、すぐに八幡は真顔に戻った。雪ノ下からは同席して欲しいと言われているが、由比ヶ浜結衣がいれば充分だろうと考えて口を開く。

 

「何の話かは、後のお楽しみっぽいな。んじゃま、そっちは二人でも大丈夫だろうし、俺は葉山とちょっと話してくるわ」

「そうね。では私と由比ヶ浜さんから話しておくわね」

「うん。じゃあヒッキーとはここで()()()()お別れだね」

「……あーしらは先に帰るし」

 

 三浦優美子は一瞬だけ由比ヶ浜に視線を向けると他には目もくれず、海老名の手を引いてバスの乗車口へと歩き出した。こちらを振り返りもせず堂々と去って行くその後ろ姿は、女王の貫禄を感じさせる。

 

 ちょうど来た市バスに乗り込む二人を残り全員で見送って。

 八幡は、海老名が一言も喋らなかったことにようやく気が付いた。

 

 

***

 

 

 バス停を背にして三人と二人に分かれ、雪ノ下・由比ヶ浜・戸部の順に竹林の小径に消えて行くのを見送った。説得と告白場所の提案とをこの奥で行うのだろう。

 

「せっかくだしさ、男二人で夕暮れでも眺めながら話そうか」

「あれだな。海老名さんに見られなくて良かったな」

 

 言ってしまってから、口の中に苦い味を覚えた。あの様子だと、仮にこの場にいたとしても普段のような反応はされなかっただろうなと思ったからだ。

 

 口に出た言葉は戻らないので、葉山の目を見ながら少しだけ眉を動かして「すまん」という意図を伝える。軽く首を振った葉山に「いいさ」と言われた気がした。

 

 

 渡月橋の前で右に折れて、川沿いに道を歩いた。観光客が多くて、落ち着いて話ができる環境にはほど遠い。しばらく無言で葉山の背中を追っていると、船乗り場が見えてくる頃には人影もまばらになっていた。男二人で川べりに出て、並んで立ち止まる。

 

「海老名さん、今日はどんな感じだったんだ?」

「いつもよりは落ち着いて見えたかな。でも、夕方になるにつれて口数が少なくなって来てね」

「戸部になんか、二人きりになろうって誘われたとか?」

「戸部の長所は勢いだからな。うまく誘えるような性格じゃないし、姫菜もそれは分かってるから、途中で四人から二人になるのを警戒してたんじゃなくてさ」

 

 肩の力を抜いて突っ立ったまま、両手をぶらぶらさせながら。葉山の発言を頭の中でくり返して、突然の別行動を危惧していたわけではないと理解する。それよりも。

 

「四人でいる間は安心できたけど、解散が近付いたからって意味か。なるほどな」

「呼び出す側は好きな時間を指定できるけど、言われるほうはいつ来るか分からないからね。解散直後か、今夜か。それとも明日の朝かもしれないし。身構え続けるのも楽じゃないさ」

 

 八幡も中学時代に告白をしたことがあり、嘘告白ならされたこともある。いずれも思い出したくない過去ではあるけれど、それでも経験したという事実は大きい。葉山が言う「告白される側の気持ち」が何となく理解できた。

 

「だからさっき、一旦解散を提案したんだな。海老名さんが一息つけるように」

「ヒキタニくんと話をしたかったのも事実だけどね。それに、俺もそのほうが助かるからさ」

 

 

 そう言われて、昨夜のたこ焼き屋での会話を思い出した。

 この旅行中に葉山との距離を縮められないものかと、三浦もまた悩みながら過ごしてきたのだ。その想いを軽く扱うような言われ方をされて。けれども八幡は怒りに駆られることなく冷静に応対する。

 

「露悪的な言い方をしても、騙されてやらねーぞ。お前は俺以上に三浦の性格を知ってるだろ?」

「まあ、そうだな。さっきの別れ際も、俺には目もくれなかったしね。優美子は女王だなんだと言われてるけど、自分の気持ちよりも姫菜の状況を思いやれる、名前のとおりの優しい側面があるからさ。俺には正直もったいないよ」

 

 思わず葉山の顔をまじまじと眺めてしまった。だが、にこやかな表情の奥に潜めた感情は、何も読み取れない。口調からも、今の言葉が韜晦なのか、それとも本心なのかが判別できなかった。

 

 どう言ったものかと考えながら、何の気なしに右手をズボンのポケットに入れて。何もないのを確認して、ひとまず話を逸らすことにした。

 

「最初に夕暮れの提案をしたのは、あれだろ。三浦に『先に帰る』って言い出させるための誘い水みたいな意図があったんだろ?」

「それもなくはないけどさ。単純にみんなで夕暮れを拝みたいって気持ちもあったんだよ。奉仕部の三人なら、姫菜も味方が増えたと思って少しは安心するだろうしさ」

 

 文字通りに受け取れば良いのか、それとも皮肉なのか。

 たしかに告白の阻止をもくろんではいるけれども、戸部に協力しているのも事実だ。どっちつかずの自分たちを味方と見てもらえるとは、八幡には思えなかった。

 

 

「なんにせよ、離脱できて良かったと言うべきかね。バレバレだとは思うけど、今頃は雪ノ下が最後の説得を試みているはずだ。それで無理ならさっさと告白させて、事態の収拾に動く予定なんだが。どう思う?」

 

「依頼とはいえ奉仕部も大変だよね。俺たちができる範囲のフォローは勿論するけどさ。どこまで変わらないでいられるかは、何とも言えないな。俺ももう少し楽観的に考えてたんだけど、今日の姫菜の様子を見てるとね」

 

 葉山はそう言うが、楽観的だったのは八幡も同じだ。

 旅行前に部室で雪ノ下に「うやむやに収められるなら、そのほうがいい」とは言ったけれど。実際にその時が迫ってみると「うやむやに収められるなら、どんなにいいか」と思ってしまう。

 

 だからこそ密かに策を練っているわけだが、それをここで明かすわけにはいかない。ネタがばれてしまえばどうにもならないからだ。

 

「いっそ空気を読まずに、海老名さんに『誰とも付き合う気はない』って宣言してもらうか?」

「それができれば苦労はしないけどね。自分からそう宣言するのは、男女を問わず風当たりが厳しくなるだけだからさ。お高く止まってるとか、モテる自信があるんだとかね。変に話が拗れるだけだし、あんまりお勧めできないな」

 

 つまり、海老名がそう宣言しても不自然ではない状況を作れば、問題はないはずだ。もちろん誰かが泥を被るはめになるが、閉ざされた空間でなら大勢に知られることもないだろう。当事者の口さえ塞げば、他の連中には適当に言い繕っておけば良い。

 

 事が無事に収まれば、後は何とかなるだろうと一人頷いた。両手の指を絡めて反転させ、胸の前に突き出すようにして「んっ」とストレッチを行うと、頬の辺りに視線を感じる。腕の力を抜いて、隣の男をじろっと眺めると。

 

 

「君は、どうしてそこまで親身になれるんだ?」

「そんなもんお前、部活なんだから仕方ないだろ」

「部活の範囲を超えていると俺は思うけどね。雪ノ下さんなら……いや、俺が憶測でものを言うのは良くないか」

 

「雪ノ下がどう思おうが、部活は部活だ。なら、できるだけ労力を少なくしたいだろ。未然に防げたら一番楽ができそうだから、この期に及んでなんか良い手がないかって考えてるだけなんだがな」

 

 なんとなく反抗的な気分が芽生えたので、ぶっきらぼうな口調でそう返した。

 なのに葉山は平然とした表情で話を続ける。

 

「それで、何かいい手は思いついたのかい?」

「そんなにひょいひょい思いつくなら、こんなところでお前に相談なんかするわけねーだろ?」

「まあ、そうだな。一本取られたよ」

 

 ふと右手の空を仰ぎ見ると、山の合間に日が落ちている。もうすぐ日没なのだろう。茜色の雲が山に沿うように長く伸びて、水面(みなも)にも淡い色を映し出している。

 

 八つ当たりじみた発言にも動じない葉山に、ふんと鼻を鳴らして。意地を張るのをやめて話を戻す。

 

 

「もしも告白を阻止できたら、お前らの関係はどうなるんだ?」

「そうだな……もう告白のおそれはないって姫菜が思えたら、後はみんな元通りになるかもな。大和や大岡も、戸部が乗り気だからはやし立ててる感じでさ。戸部が自重するなら、度を超したことは言わないはずだ。俺や優美子も波風を立てる気はないし、結衣のことは君のほうがよく知ってるだろ?」

 

 自意識過剰なだけかもしれないが、葉山の発言にはところどころ角が立つ部分があるよなと八幡は思う。とはいえ、そのたびに拗ねていたら話が進まないので気にしないことにして。

 

「逆に、戸部が告白して振られたとしたら。お前は三浦をどうするつもりだ?」

「どうする、とは?」

「海老名さんと戸部が気まずくなって、お前らと距離ができたら、寂しがるんじゃねーの?」

 

「その時はその時だし、俺のほうから何かをする気はないな。できるだけ現状維持でいたいとは思うけどね。たしか文化祭の前に取材を受けた日だったかな。問題を先送りにできるという雪ノ下さんの提案を俺が受け入れたのは、君も知ってるだろ?」

 

 あの時も、抜本的な解決をする気はないと葉山は言外に主張していた。人間関係は現状維持で、男女関係なら薄れても構わないと、今もそんな感じなのだろう。

 なんで俺はこんなお節介みたいなことを言ってるのかねと思いつつ、話を続ける。

 

「その辺はまあ、お前の意思を尊重するとしてもな。女子三人の寂しそうな姿は、あんま見たくねーな」

「まあ、それは俺も同感だな」

「お前らもな。戸部が教室で騒いでたら鬱陶しいけど、でも活気がないのもな」

「さっきの質問をくり返そうか。君は、どうしてそこまで親身になれるんだ?」

 

 今度はあからさまに冗談っぽくそう言われて。ようやく八幡は葉山の話し方が気にならなくなった。こちらの気にしすぎでもあり、そしておそらくは、葉山も色々と身構えていたのだろう。気付いてしまえば納得できる話だ。

 

「そんなもんお前、部活なんだから仕方ないだろって、くり返すしかないだろ?」

「だな。できれば、君にだけは頼りたくなかったのにな……」

 

 

 一日目の地主神社での会話を、葉山も思い出しているはずだ。「サッカー部と奉仕部が同盟を組んだら」などと言いながらも、二人ともそれが絵空事だと解っていた。

 なぜなら彼ら二人に、共同で事に当たるつもりがないのだから。

 

 八幡と、戸部やあざといマネージャーとの組み合わせなら有り得るかもしれない。葉山と、由比ヶ浜や雪ノ下との組み合わせも、少し胸がざわつくもののなくはないだろう。

 だが、八幡と葉山が協力し合うことはない。

 

 八幡とは別の道を歩むと、葉山は合宿の二日目の夜にあの千葉村で決意したし。八幡もまたそれを気配で察していた。

 そして葉山が独自の成長を見せ始めると、八幡にも同じ想いが芽生えて。体育祭で葉山の仲裁ぶりを見た時には、それは決意に変わっていた。

 以来、彼ら二人は以前にも増してお互いを意識し合ってきた。

 

 些細なことなら別に良い。だが、各々にとって大事な事であればあるほど、こいつにだけは頼るまいと。そう考えていたはずなのに。

 葉山に先に折れられて、なぜだか逆に負けたような気になった八幡が口を開く。

 

「頼りになるかは、終わってみないと分からんぞ。それに、お前を頼る場面もあるはずだしな」

「貸し借りをゼロで行くんじゃなくて、イーブン近くで手を打とうか。できれば俺の貸しのほうが多くなるようにね」

「言っとけ。そっくりそのまま返してやるよ」

 

 今回の件で影響を受けるものの中には、お互いにとって大事なものが多すぎるから。失う可能性が見えて初めて、どれほど大切に思っていたのかようやく気付いたから。自分とは違ったやり方ができる男を、遊ばせておくほどの余裕はないから。

 

 戸部や葉山や女子三人に、今の関係を失わせたくないと思ってしまったから。

 その変化が、今の自分を取り巻く環境にも影響を及ぼすのが怖くて。あの特別な関係は決して失いたくないと、そう思ってしまったから。

 

 だから八幡は自分にできることはやろうと決意して。

 葉山もまた、自分にできることはやろうと決意した。

 

「失ったものはもとに戻らないからな。俺は小学生の時に、それを嫌というほど味わったよ」

「奇遇だな。俺も小学生の時にそう思ったわ。まあ、ぼっちの環境は意外に快適だったし、済んだ話だけどな。今にして思えば、失ったものはお前ほど大したもんじゃなかったしな」

 

「でも、今回は違うだろ。やり方に口は出さないけど、気を付けろよ」

「つか、失わないためにやるんだろ?」

 

 そう言って葉山と頷き合った八幡は、忠告の意味を理解できていなかった。

 

 

***

 

 

 ぶらぶらと来た道を引き返して先程のバス停に向かっていると、由比ヶ浜からメッセージが入った。同時に葉山にも戸部から連絡が来たみたいで。

 

「同じぐらいにバス停に着く感じかな。そっちにも書いてあると思うけど、告白決行だね」

「まあ、戸部の気持ちも分かるけどな。気持ちを伝えられないまま今後は告白のチャンスすらなく過ごすって、かなりつらいわな」

 

 やるべき事は分かっているので、二人に動揺はない。

 

「ところで、帰りはどうする。五人で一緒にバスに乗っても俺は良いけどさ」

「俺らが一本遅らせるわ。打ち合わせがあるから、戸部を連れて帰ってくれると助かる」

 

 少しずつ暗くなっていく中を、適当に雑談を交わしながら歩いて行く。今日どこに行ったとか、通天橋の人混みがすごかったとか、そんな感じの話だ。

 

「じゃあ、俺と戸部は先に帰るな。夕食の時間には遅れないようにね」

「結衣と雪ノ下さんにはお礼を言ったんだけどさ。ヒキタニくんも、いい場所を見つけてくれて助かったっしょ。千葉に帰ったらお礼すんべ」

 

 そう言って、葉山と戸部は市バスの中へと消えて行った。

 

 

***

 

 

 予定どおりに三人が再集合して、バスに乗る前に情報の共有を始めた。既にすっかり日は落ちているが、この付近は照明のおかげで明るいほうだ。

 

「夜にこのバス停で待ち合わせて、竹林の小径の奥で告白する手筈になっているのだけれど」

「ヒッキーの貸し切り能力も、ゆきのんが説明してくれたから伝わってると思う。でさ、姫菜にはなんて説明したらいいかな?」

「たぶん海老名さんなら、別空間とかインスタンスで通じると思うがな。んで、俺は戸部と海老名さんを招待すれば良いんだな。集合時間よりも前に来ておく必要があるか」

 

 今のところは想定内だなと八幡が考えていると。

 

「それなんだけどさ。あたしとゆきのんも、ヒッキーと一緒に貸し切り空間で見守りたいなって」

「え、っと。あのな、別になんもすることねーぞ?」

 

「あたしもそう思ってたんだけどさ。そのね、この世界だと危ないことはされないって分かっててもね。誰もいない空間で男子と二人っきりって、やっぱりちょっと怖いんだよね。それに姫菜はとべっちを振るつもりなわけだしさ」

「そうした女性心理を説明して、戸部くんからも了解を得たのだけれど」

 

 じろりとした目つきで雪ノ下にそう言われると、八幡も反論しようがない。

 

 誰よりもこの二人には見られたくないと思ったからこそ、自分だけが同席できる形に誘導していたはずなのに。

 でも、女性心理を持ち出されてしまえばどうにもならない。たしかに「怖い」という気持ちは理解できるからだ。

 

 自分にとって一番避けたかったことが避けられなくなって。それでも八幡は、瞬時の迷いで済ませて事態を受け入れた。俺の目的を、理由を説明すれば、この二人なら許してくれるだろうと。そんな甘い予測を抱きながら。

 

 

「葉山との話はバスの中で済むと思うし、とりあえずホテルに戻るか」

 

 去年までは途中で宿の移動があったらしいのだが、今年度は三日とも同じホテルに泊まることになっている。だから今日も帰る先は同じだ。

 

 丸太町通をひたすら東に向かって走るバスに、雪ノ下・由比ヶ浜・八幡の順に乗り込んだ。最後尾の席がまるまる空いていたので、向かって右の奥から順に並んで腰を下ろす。

 

「なんか丸太町通って文字を見ると、帰ってきたって気持ちになるな」

「この三日間で何度も通っているものね。愛着が湧いても不思議ではないと思うのだけれど」

「でもさ、けっこうホテルまでは遠いよね」

 

「丸太町通の西の端がここ長辻通で、ホテルから東の端の鹿ヶ谷通までは二百メートルほどの距離しかないのよね」

「西から東までめいっぱい移動させられるって、なんかの陰謀じゃね?」

 

「貴方は鹿ヶ谷の陰謀の話をしたいだけでしょう。でも、先に葉山くんの話を済ませてからね。由比ヶ浜さん、あとでちゃんと比企谷くんに説明させるから、そんなに哀しそうな顔をしないで欲しいのだけれど」

 

 早く教えて欲しいと身を乗り出している由比ヶ浜は微笑ましいし、今日一日で歴史への興味が大きくなったのは喜ばしいことだが。

 自分で調べることも教えないといけないわねと、そんなことを思う雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 ホテルのロビーでいったん別れて、同じ班の生徒と夕食を摂って。お風呂を済ませてからだとライトアップの時間が終わってしまうので、あとで内風呂を使わせてもらうことにした。

 

「大和と大岡はここに残って、他の連中が騒ぎすぎないように見ていて欲しい。それと、俺らが部屋にいないのを教師に不審に思われないように。頼めるか?」

「おう」

「こっちのことは心配しないでさ、そっちは戸部の告白に専念してくれ」

「ちょ、そんな言われ方したらよけいに緊張するっしょ!」

 

 部屋の中には同じ班の四人の他には大和と大岡しかおらず、大部分の生徒は今夜のことを何も知らない。

 そろそろ先に出るかと、八幡が考えていると。

 

「ぼくも葉山くんと一緒に、バス停近くのカフェで待ってるから。いい結果になって欲しいけど……八幡、無理しないでね」

「おう、任せろ戸塚」

 

 誰にもらうよりも嬉しい励ましの言葉を受け取って。戸塚彩加を抱きしめたいと言って今にも動き出しそうな両手を、必死で抑えるはめになった。

 

 戸部の告白は望み薄だと戸塚は知っている。一日目に新幹線のデッキで話をしたからだ。

 それでも戸塚は、みんなにとって少しでもいい結果になって欲しいと願っている。そんな天使の思い遣りに深く感動しながら、足に力を込めて立ち上がったところで。

 

 

「ん、メッセージか。俺だけかね?」

「ぼくのところには来てないよ」

 

 送り主は雪ノ下だった。内容をざっと確認して、八幡は部屋にいる全員に向けて話しかける。

 

「ちょっと聞いてくれ。いま雪ノ下からメッセージが来たんだけどな。俺らの班の四人と、三浦の班の四人と、あと雪ノ下と。平塚先生に申請して、その九人の外出許可を取ったそうだ。移動時間の短縮も解禁してもらったって、あいつすげーな。まあ、だから教師のことは心配しなくて良さそうだな。大和と大岡には、他の同級生とかにバレないように頼むわ」

 

 静かに頷く大和と、「手続き早っ」とびびりながらも親指を立ててきた大岡の反応を確認して。そのまま戸部に視線を移すと。

 

「やっぱ雪ノ下さんすげーっしょ。じゃあ、そろそろメッセージを……なんて送ったらいいんだべ?」

「凝った表現はしなくて良いから、必要最低限のことを書いたらどうだ。俺とヒキタニくんが添削するから、とりあえず下書きしてみろよ」

 

 ここまで他人任せなのも逆にすごいよなと思いつつ。戸部を挟むようにして、葉山とは逆の側から手元を覗き込むと、一文字たりとも書けていない。

 

「んじゃ、俺が言ったとおりに書いてみてくれ。葉山には添削を頼むわ。えーと、『ライトアップした竹林の小径を見に行きませんか。野々宮のバス停前で待ってます』ぐらいでいいんじゃね?」

 

「あとは集合時間を伝えるぐらいで充分だと俺も思うな。ヒキタニくんは先に出るんだろ?」

「だな。バスに乗ったら一瞬なのは助かるわ。そろそろ景色も見飽きてきたしな」

 

 そう言って八幡はドアのほうへと歩いて行く。

 廊下に出ると同時に、「送ったべ!」という戸部の声が聞こえて来た。

 

 

***

 

 

 雪ノ下からのメッセージを受け取った由比ヶ浜は、同じ班の三人と打ち合わせをしていた。

 

「じゃあ、サキサキはここに残ってもらって。ゆきのんが許可を取ってくれたから、先生にバレないようにって考えなくても済むのは助かるけどさ。あたしも優美子も姫菜もいないから、なにか問題が起きた時にはお願い」

 

 文化祭ではクラスの衣装を一手に引き受けて。体育祭では大将騎の一人として、白組の生徒を統率してチバセンを盛り上げて。

 

 一匹狼の傾向がある川崎沙希だが、二学期に入ってからの活躍によって知名度がどんどん高まっていた。それを知らぬは本人ばかりで、一日目にしろ三日目の今日にしろ、単独行動中の川崎を遠巻きにして話しかける隙を窺っていた女子生徒は少なくなかった。

 

 事情を知っているのに現地に赴くことなくホテルで待機してもらうのは、損な役回りだと思う。つい先程には川崎から率先して、事が終わった直後に海老名の傍にいてやりたいと、そうまで言ってくれたのに。

 

 だからとても心苦しいのだけれど、自分たち三人がいない状況で後を託せるのは川崎だけだと由比ヶ浜は思う。

 気持ちを込めて頭を下げると、川崎も最後には了解してくれた。

 

「そのかわり、あったことは全部話してもらうよ。少しでもいい結果になるように、ここで祈ってるからさ」

 

 昨夜かわした雑談を川崎は思い出していた。「何か手があるなら諦めないでさ」と。いざとなったら「一緒に由比ヶ浜や雪ノ下に謝ってやるよ」と言って八幡を励ましたことを。

 これらの自分の発言に責任を持つためにも、川崎は後で詳しい話を教えて欲しいと要請した。

 

「うん、隠したりしないから大丈夫。それにヒッキーが何か考えてるっぽいし、報告を楽しみに待ってて」

 

 由比ヶ浜も川崎も、八幡を信頼していた。何かをしてくれるのではないかと期待していた。

 川崎との約束を悔やむことになるとは、この時の由比ヶ浜は思ってもいなかった。

 

 

「……メッセージ、来たよ」

「なんて書いてるし?」

「竹林の小径へのお誘い。さっきのバス停で待ち合わせだって」

「こうやって行動に出られたら仕方ないし。あーしも近くで待ってるから、やることをさっさと済ませて戻って来るし」

 

 海老名と三浦のやり取りを耳に入れながら、由比ヶ浜はぎゅっと手を握りしめて。そしてようやく口を開くことができた。

 

「……だね。あたしも同じ空間にいるからさ。それに、ヒッキーもゆきのんもいるし」

「ごめんね、結衣。こうなるんだったら、無理に奉仕部を巻き込まないで私が断るだけで良かったのにさ」

 

 海老名の発言に、あわててかぶりを振る。

 

「ううん、そんなことない。あたしがもうちょっと、ゆきのんとかヒッキーみたいにぱぱっといい案を思い付けたらよかったんだけどね。でもさ、ちょっと希望を持たせちゃうかもだけどさ。ヒッキーは最後まであきらめないと思うから、なにか変なことを言い出したら、それを逃さないで姫菜も」

 

「うん。せっかくみんなが色々と考えてくれてるわけだしさ。少しでも良い展開になりそうな兆しがあったら、私も見逃さないようにするから。じゃあサキサキはここで、優美子はバス停の近くで、結衣は同じ空間で、お願いね」

 

 迷いを振り払った様子の海老名に、無理に微笑みかけながら。

 一足先に現地に向かうべく、由比ヶ浜は部屋を出ると階段をゆっくり下りて行った。

 

 

***

 

 

 ロビーで三たび集合を果たして、奉仕部の三人は丸太町通から西向きのバスに乗り込んだ。道中の時間を短縮すると、あっという間に嵐山だ。

 

 午後にお茶をしたカフェに入って、そこのトイレから別空間に移動する。他の人に見られていると移動できないと、一昨日に駅長さんから言われたものの。トイレの個室から出てくる形だとほぼ確実に移動できる。

 

「戸部と海老名さんにも、トイレから移動してくれってメッセージを送っとくわ」

「そうね。では、奥に向かいましょうか」

「だね。……こんな時じゃなかったらさ。すごく綺麗だなって、見惚れたいだけ見惚れていられたのにね」

 

 そんな重くなりがちな雰囲気を嫌って、八幡が気楽な調子で口を開く。

 

「てか、ここまで俺らの言った通りに行動されるのも、なんだかなって感じはするよな」

「今日のルートも、私の提案通りだったと。先程ここでそう言っていたわね」

「うーん、まあとべっちだしさ。そういうとこで素直なのが長所っていうか」

 

 由比ヶ浜が言いたいことも理解できるし。こうして話題に出すことで苦笑まじりの雰囲気を生み出せるのも、戸部の良いところではあるのだろう。当人は嬉しくないかもしれないが。

 

 

「雑誌に載ってたデートコースそのまんまとか、普通だと嫌われるもんだけどな」

「あら。まるでデートをしたことがあるかのような物言いなのだけれど。私の聞き間違いかしら?」

「ばっかお前、デートなんか腐るほど経験あるっつーの。でもなあ、マジで雑誌の通りだと激怒されるんだよなあ……」

 

「そういうとこ、小町ちゃんヒッキーに厳しそうだもんね」

「楽しみにしていただけに、小町さんも失望が強くなるのでしょうね」

「なあ。お前ら一体いつから、これが小町の話だって確信してたんだ?」

 

 二人から呆れるような視線を受け取って、「まあ最初からですよねー」と呟きながら。少しは雰囲気がマシになったかなと考えていると。

 

「でもさ。雑誌のコースなら別にいいやって思うんだけどさ。別の女の子と出かけたコースと全く同じとかだと、さすがにね」

「それは、男性側も楽しめるものなのかしら。一度行ったコースを何度もくり返すなんて、飽きが来そうな気がするのだけれど」

「俺にもその心理は分からんけど、世の中にはマニュアル大好き人間とかもいるからな。嫌な言い方をすれば、予想外のことを極端に嫌うっつーか」

 

 二人が頷いてくれたのを見て、ふと悪戯心が浮かんだ。こいつらからデートの希望を聞き出せる機会などそうそうないはずだ。そう考えながら口を開く。

 

「んじゃお前らは、別のやつと同じコースとか、一度行ったコースをくり返すのは駄目ってことだよな?」

「えっ。あー、うん。あたしは、ちょっとイヤだなって……」

「私は、できるなら色んな場所に行きたいわね」

 

 ふんふんと首を縦に振りながら、雪ノ下の隙を見つけた八幡は一気に斬り込んだ。

 

「まあ、由比ヶ浜の気持ちは何となく分かるとして。雪ノ下はあれだな。デートで毎回のように猫カフェに通うのは論外ってことだよな?」

「っ……そうね。猫カフェも一箇所だけではないのだから、色んなお店に行きたいと思うのが普通ではないかしら?」

 

 残念ながら討ち漏らしたものの、一瞬とはいえ雪ノ下のあわてた姿を見られてご満悦の八幡だった。

 そして別の女の子と同じコースはイヤだと言ってしまった由比ヶ浜が、将来その発言を後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

 

 そんなこんなで少しだけ雰囲気を上向きにしながら歩いて行くと、道が少し曲がりくねっている。歩いてきた側からは見えにくいので、待機するには最適な場所だ。

 

「んで、場所はここで間違いないんだよな?」

「戸部くんの性格的にも、ここに辿り着くまでは告白の話を出さないと思うのだけれど」

「だね。うー、ちょっと緊張してきたかも」

 

 由比ヶ浜はそう言ったものの。八幡は、自分たちの緊張を和らげるためにあえて口に出してくれたような気がした。ふうと一息いれて、頭と身体が弛緩したところで。

 

「それで、貴方は何を企んでいるのかしら?」

 

 その隙に雪ノ下に斬り込まれてしまった。とっさに言葉が出て来ない。

 

「あ、やっぱりゆきのんも気付いてたよね。ヒッキーが何か考えてるなって」

「慣れてしまえば分かり易いのよね。でも、私たちに何も話そうとしない辺りで、少し嫌な感じを受けるのだけれど」

「……はあ。まあ、お手上げだな」

 

 戸部たちがここに来るまでには、まだ時間がたっぷりある。隠し通すのは難しいと結論付けて、仕方なく八幡は腹をくくった。

 

「どう説明したもんかな。まあ、告白の現場に乱入して雰囲気を壊すってのが第一の目的なんだけどな。千葉村とかでやったのと、同じような感じっつーか」

「なるほど。具体的な行動は考えているのかしら?」

「ゆきのん、ちょっと話し方がきつくなってるからさ。まだ時間はあるし、ね」

 

 直立不動でこちらを見据えているものの、雪ノ下がまとう雰囲気はそれほど険悪なものではない。それに由比ヶ浜も空気を和らげようと口を挟んでくれた。

 だから、しばらくは素直に答えるかと考えながら話を続ける。

 

「内輪で話してる時に異物が突然現れると、意識がそっちに持ってかれるだろ。その隙に、何か二人の興味をひくような言葉を投げかけたら良いんじゃねって、そんな感じだな」

「そういえば、一日目の音羽の滝でさ。滝のところに中二がいるって思ったら、それまでの話が吹っ飛んじゃったもんね」

 

 由比ヶ浜の具体例が適切なので、少し驚きながら。八幡はまた別の例を思い出していた。昨日の夜に、一般客を装って自分たちの前を通り過ぎようとした顧問の姿を。率直に言って、あれでバレないと思えるのが理解できない。

 

「二人の興味をひく言葉とは、例えばどんなものがあるのかしら?」

「なんだろな。まあ、そこをずっと決めかねてたんだけどな」

「たぶん姫菜もとべっちも、告白のことで頭がいっぱいだからさ。よっぽどじゃないと注意をそらすのは無理っぽいよね」

 

 自分が引っかかっていたのと同じ部分に言及してくる二人を、頼もしく思いながら。これなら全部話しても大丈夫かなと八幡は思う。とはいえ微妙な話になるだけに、慎重に説明しなくてはと気合いを入れ直して。

 

 

「それでな、俺のぼっち経験から何か応用できないかなって考えてたらな。一つ思い出した事があったんだわ」

 

 急に反応がなくなったことに、違和感を感じながらも。ここまで話してしまえば最後まで続けるしかないと考えて。

 

「前にお前らにも言ったと思うけど、俺は嘘告白をされた事があってな。じゃあそれを」

「待って。ちょっと待ってヒッキー。それ、本気で言ってるの?」

 

 文化祭の前に、雪ノ下と葉山が同じ小学校だと判明した日のことだったか。あの時に八幡の家のリビングで、やはり嘘告白の話を持ち出したことがあった。あの時は、冗談のつもりだったのに沈黙が返ってきただけだったが。今度はそれでは終わらなかった。

 

「わざわざ呼び出しておいて告白は嘘でしたと言い出すのは、人として最低の行為だと思うのだけれど。いくら当の貴方が気にしないと言っても、それで済むほど軽い問題だとは思わないわ」

「いや、ちょっと待て。もう過去の話だし、今は議論してる場合じゃねーだろ?」

 

 そう言うと、雪ノ下はいったん口をつぐんだものの。身にまとう雰囲気に剣呑なものが交じり始めた。助けを求めようと由比ヶ浜に目をやると、こちらは泣き出しそうな表情になっている。唇を噛みしめて、どうしてこんな状況になったのかと考えていると。

 

「じゃあさ。ヒッキーは姫菜に嘘告白をするってこと?」

「それで話がまとまるとは、私には思えないのだけれど」

 

 八幡には感情というものが理解できない。もちろん浅い部分は理解できるが、感情の深みを突き詰めて行けば行くほど、理解不能なおどろおどろしいものに思えてしまう。

 だからこそ、感情ではなく理屈にすがる。

 

 理路整然と話をすれば、雪ノ下なら理解してくれるのではないかと、そう考えて。八幡は口を開く。

 

「あのな。俺が海老名さんに『付き合って下さい』って言うとするだろ。その時点で戸部の言葉は封じられて、海老名さんの返事待ちの状態になるよな。そこで海老名さんが『誰とも付き合う気はない』って宣言すれば、戸部もそれ以上は無理押しできないだろ?」

 

 落ち着かない沈黙が場を支配している。早く何か言ってくれと、そう願いながら静かに時が過ぎていくのを感じていると。

 

「なるほど」

 

 ぼそっと、雪ノ下がそう呟いた。なんとか理解してくれたかと、八幡が胸をなで下ろそうとしたのも束の間。まるで刃物で斬り付けられたかのように、鋭い視線で射すくめられた。

 

 怒っているだけでも、嘆いているだけでも、哀しんでいるだけでも寂しがっているだけでもなく。それらの感情を持て余しながら、何よりも強く伝わって来るのは否定の気持ち。

 

 思わず、背筋が震えた。こんな雪ノ下は見たことがない。由比ヶ浜以上に感情に支配されている雪ノ下なんて、今まで一度たりとも見たことがなかった。

 

「由比ヶ浜さんの誕生日と。それから、部長会議の反対派の残党が、文化祭前に蠢動した時だったかしら。貴方はたしかに言ったわね。『遠慮なく言ってくれ』と。とはいえ、貴方のせいにするつもりはないわ。私は、今から貴方に告げる言葉に、己の全てを懸けても良い。それぐらいの気持ちで貴方に伝えたいのだけれど」

 

 既に雪ノ下の目は、八幡以外を捉えていない。すぐ傍にいる由比ヶ浜の存在すら忘れて。結果を理で判定するのではなくやり方を情で問う域に至った雪ノ下は、言葉を続ける。千葉村で比企谷小町と話をした時には至っていなかった領域から、静かにこう宣告する。

 

「あなたのやり方、嫌いだわ」

 

 

 それは確かに、かつて二度にわたって二人と話題にした言葉だった。「俺のやりかたが嫌いだと思ったら、その時は遠慮なく言ってくれ」と言い出したのは八幡なのに。実際にそれを突き付けられてみると、いかに覚悟の足りない発言だったかが分かる。

 それほどまでに痛く、そしてつらい言葉だった。

 

「ヒッキーはさ」

 

 そして、氷像と化したかのように身動きすらしない雪ノ下に代わって、由比ヶ浜が話し始めた。これ以上はもう聞きたくないと思ってしまう。でも、聞かないわけにはいかない。自分がこの話を始めてしまった以上は、八幡には全てを聞き果せる責任がある。

 

「たぶん効率がいいとか、俺は大丈夫だって言ってさ。ヒッキーは、けっこう平然と行動できちゃうのかもしれないけどさ。体育祭の後に、あたしが言ったことを覚えてるかな。『あたしたちがどう思うかってことは考えてくれてたかもだけど』ってさ。でもさ、違ったよね。ぜんぜん考えてくれてないよね。あたしたちがどう思うかなんて、ヒッキーはぜんぜん、考えてくれてないじゃん」

 

 途中までは冷静な口調で、でもそれのほうがつらいなと、思っていたのに。ぜんぜんという言葉とともに嗚咽が漏れ出したのを聞いて、この上なくいたたまれない想いに包まれた。

 

 できることなら、この場で消えてしまいたい。だが、そんなわけにもいかない。呆然と立ちすくんだまま、八幡は続く言葉に耳を傾けるしかできない。

 手の甲で涙をぬぐって、由比ヶ浜が話を続ける。

 

「ゆきのんがさ、朝ご飯の時に言ったじゃん。ヒッキーとあたしに『後を任せても良いかしら』ってさ。覚えてる?」

 

 ああ、覚えている。そうだ、たしかに雪ノ下にそう言われたのだ。だから俺は、雪ノ下の代わりに結果を出そうと策を練ったのだ。なのになぜ、否定されなければならないのだろうか。

 混濁した頭で、八幡がそんなことを考えていると。

 

「でもさ、後を任せるって、こういうことじゃないじゃん。ヒッキーに嘘告白をさせてまで依頼を解決して欲しいって、そんなわけないじゃん。ゆきのんはさ、自分にやれることは全部やって、それで後を託してくれたんじゃん。ゆきのんなら、傍で見てて哀しい想いをするようなことは絶対にしないって、あたしも自分を懸けてもいいよ。けど、ヒッキーは違うじゃん」

 

「信頼して後を任せるとは、こういうことではないと私も思うわ。貴方が身を削るような想いをすることは、私も由比ヶ浜さんも平塚先生も、戸塚くんも材木座くんも、川崎さんも三浦さんも海老名さんも、葉山くんや戸部くんだって望んではいないのよ。貴方はそれが分からないの?」

 

 由比ヶ浜の言葉を補足すべく、雪ノ下が口を開いて。そこまで言い終えると再び動かぬ彫像に戻った。由比ヶ浜にも全てを言い切って欲しいと、そう思って。

 

「事故の時にさ、簡単に命を投げ出すようなヒッキーを見ちゃったからさ。あたしずっと不安だったんだ。ヒッキーがまた、自分を犠牲にするようなことをし始めるんじゃないかって。そんなことをしなくても、ヒッキーなら色んな事を考えて、変なアイデアとかを思い付いて、あたしじゃできないような方法で依頼を解決するのを見せてくれるんじゃないかって、最近やっとそう思えてきたのにさ。ヒッキー、変わってないじゃん。あたしたちの気持ちも、ぜんぜん考えてくれてないじゃん」

 

 何も言い返せないまま、由比ヶ浜の言葉を聴き続けるしかない。自分にとって何よりも大切なことを言ってくれていると解るから。先ほど抱いた反発の気持ちは、ろくでもない戯れ言だと気付いたから。

 

「なんで、色んな事を知ってるのにさ。色んなことを思いつくのにさ。いろんなことがわかるのに、それがわかんないのかな。あたしたちがさ。ああいうの、やだって思ってるって、なんでわかってくれないのかな」

 

 ぼそぼそとした声で、時々しゃくり上げながら、それでも由比ヶ浜の言葉は八幡の耳によく届いた。聞き漏らしたり聞き違えたりする気はさらさらないけれど、まるで脳に直接響いているかのように、声がはっきり伝わってくる。

 

「たしかにさ。さっき言ってたとおりにしたら、姫菜の依頼は解決するかもしれないけどさ。けど、けどさ……こういうの、もう、なしね。あたしもゆきのんも、こんなヒッキーはもう見たくないからさ。だから、一つだけ約束して欲しいの」

 

 そう言って言葉を切って、由比ヶ浜が潤んだ瞳でしっかりとこちらを見据えてきた。とても他には目を逸らせない。その状態で、すすり泣くような声が耳に響いた。

 

「人の気持ち、もっと考えてよ……」

 

 

 由比ヶ浜と目を合わせたまま、どれほどの時間が経ったのだろうか。意思を込めて小さく頷くと、ようやく視線が動かせるようになった。

 

 すぐ近くには、大切な二人の部活仲間がいる。そして、耳に届くのは。

 

「やばい。いま向こうの方から足音が聞こえた。あいつらがもうすぐ来る」

 

 小声でそう告げると、二人もいつもの雰囲気に戻った。

 手持ちの策は出尽くした。だが、戸部たちの前にとつぜん姿を現すことで、少しは告白の機運を削ぐことができるはずだ。告白を中止にはできないまでも、馬鹿げた雰囲気にさせることは。

 

「どこに行こうというのかしら?」

 

 だが、八幡の前に雪ノ下が立ちはだかる。

 たしかに、あんな案を実行しようとしていた俺が信頼できないのは解るけれども。その話はもう終わったし、あんな無茶をするつもりもない。だからそこを通して欲しいと、そう言いたいのに。

 

「貴方が、もうあんなことはしないと、そう言ったとしても。今日だけはここを通すわけにはいかないわ」

「けどな。俺はお前らとの関係も失いたくないし、あいつらの関係も失わせたくなかったんだわ。戸部や葉山もだし、由比ヶ浜と三浦と海老名さんの三人にもな。だから」

 

「この程度で失われてしまうようなら、そこまでの関係だったということよ。でも、少なくとも。由比ヶ浜さんたち三人の関係が失われるようなことはないと、私は確信しているわ」

 

「でも、恋愛が絡むとわかんねーだろが。俺は、戸部が馬鹿やったり、葉山がすまし顔でなんかほざいてたり、その近くで由比ヶ浜たちが笑ってる教室が、思ってた以上に気に入ってんだよ。だから、それらのどれ一つとして、失わせたくないなって、そう考えてんだよ。だから、頼むからそこをどいてくれ」

 

 もはや自分の感情を隠そうともせず、八幡が雪ノ下に懇願している。

 それでも、立ち塞がる雪ノ下に迷いはない。決して八幡を通さないと、その気迫がはっきりと伝わって来る。

 

 

「そっか。ヒッキーは、そんなふうに考えてたんだ」

 

 奉仕部での関係を、失いたくはない。

 三浦と海老名との関係はもちろん、葉山たち男子との関係も、できれば失いたくはない。

 でも、それ以上に。

 八幡が失うのが嫌だと言った諸々を、失わせたくなかった。

 それらのどれ一つとして、失わせたくないと、思ってしまった。

 

 そのためには、どうすればいいんだろう。

 ゆきのんとかヒッキーみたいにぱぱっといい案を思い付けたら。

 あ、でも。

 ひとつだけ、あたしにもできる方法があった。

 

 これならきっと、大丈夫だ。

 たしかに全部ではないけれど。

 ヒッキーが失いたくないと思ってたほとんどは残る。

 たとえ、自分との関係だけが、失われたとしても。

 

「なあ。由比ヶ浜も言ってやってくれよ。俺はもう無茶なことはしないから、そこを通してやって欲しいって、雪ノ下に」

 

 その言葉を片方の耳で聞きながら、雪ノ下と並ぶようにして八幡の前に立つ。顔を青ざめさせているが、もうちょっとだけ待って欲しい。

 もう片方の耳は、来た道のほうへ。ちょうど、立ち止まったみたいだ。

 

「あ、あのさ……」

 

 戸部の声が、こちらにも聞こえて来る。

 目の前では八幡が、万事休すかと瞑目している。

 

 目を閉じていると、普段よりも数歳ほど幼く思えて、なんだか可愛らしいなと。新幹線の中でも思った事を、心の中でくり返して。

 

 その八幡に向けて、由比ヶ浜は声を張り上げて話しかける。海老名と戸部にも聞こえるように。

 

「あのねっ。あたし、ヒッキーのことが好き。ずっと前から、ヒッキーのことが、好きだったの」

 

 

 幻想的な雰囲気の竹林に、由比ヶ浜の声が響き渡った。

 




次回は一週間後の予定です。
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