俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前話よりは短いですが、本話にも途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・伏見稲荷大社に飛ぶ。→138p1
・北野天満宮に飛ぶ。→138p2


以下、前回のあらすじ。

 ホテルの一階で鉢合わせになった八幡と雪ノ下は、平塚に誘われて夜の京都を巡り歩く。

 楽器店や鴨川の河畔を経て、京都駅では拉麺小路と空中径路を見て回った。音楽や漫画などお互いの好きなものや好きな理由を、図らずも語り合いながら。お腹を満たして三人の夜歩きはなおも続く。

 次の訪問先は、意外にも京大の正門だった。時計台の下で腰を落ち着けて、教師は進路指導を始める。
 陽乃が地元の国立大学に進学した理由、母親の教育方針や苦労した過去の話を知って。続けて八幡は、雪ノ下の進学先候補と悩む理由とを聞かされた。
 平塚は二人に「京大も選択肢の一つとして考えてみては」と提案し、八幡に数学の復習を求める。その手助けを要請された雪ノ下は頼まれごとを快諾した。

 最後にもう一度ラーメンを堪能して、雪ノ下は八幡と二人並んでホテルに戻ってきた。それを見ていたJ組の同級生に冷やかされながら、二日目の夜は更けて行った。



11.かみさまに願を懸けて三人は洛中洛外を練り歩く。

 修学旅行は三日目を迎えた。

 

 前夜は食べ過ぎたせいか胃が重く、それに考えることも多くてなかなか寝付けなかったので。同じ部屋の生徒たちが朝食に出掛けた後も、比企谷八幡は惰眠を貪り続けていた。

 今日は別行動だからあいつらに合わせる必要はないと、まどろみながらも思考がそこまで進んだところで。

 

「げっ。待ち合わせとか何も聞いてなかった」

 

 本日の同伴相手たる二人を思い出して八幡は飛び起きた。

 そういえば何か鳴っていた気がするなと、おそるおそるメッセージを確認してみると、未読がぼろぼろと出てくる。一番古いものは雪ノ下雪乃からのもので。

 

『おはようございます。一階のロビーが混み合っているので、私は先にお店に向かいます。由比ヶ浜さんは昨夜打ち合わせた通りに。比企谷くんは由比ヶ浜さんの指示に従って下さい』

 

『ゆきのん、ヒッキー、やっはろーヽ(´∀`)人(・ω・)人( ゚Д゚)人』

『ロビーに降りてみたけど、やばいぐらいに激混みだった(゚∀゚;)』

『部屋でヒッキーの連絡待ちヾ(´□`*)』

『ヒッキー、まだ寝てるのかな(´-ω-)´_ _)´-ω-)´_ _)zZZ』

 

『その可能性が高そうね。由比ヶ浜さん、申し訳ないのだけれど部屋の前まで行って、チャイムを鳴らしてみてくれるかしら?』

『りょうかーいヽ(@´∀`*)ノ』

 

『あ、ゆきのんをお店で待たせちゃってるよね(。・人・`。)』

『由比ヶ浜さんは悪くないわ。それに、まだ着いていないから大丈夫よ』

『えっ。でも、そんなに時間かかんない……あ、そっか。気をつかわせちゃってごめんね』

 

『い、いえ。本当にまだ着いていないのよ。その……そう、少し寄り道をしたから。だからゆっくりと来てくれたら良いわ』

『ちゃちゃっとヒッキーを起こして、急いで行くね(*ФωФ)ノ』

 

 たった今届いた由比ヶ浜結衣のメッセージを読み終えると同時に、ピンポンという音が部屋に響いた。

 

 今から慌てて着替えをしたところで、とうてい間に合わない。それにズボンを履いているタイミングでもしも由比ヶ浜がドアを開けたらと思うと、そんな危険な行動はとてもできない。

 俺のそんなシーンとか誰得だよと考えながら。八幡は急いでドアの前まで移動すると、おそるおそる廊下に首を出した。

 

「あ、おはよ。ここで待ってるから、着替えてくれば?」

「お、おう。んじゃま、お言葉に甘えて。……その、あれだ。覗くなよ?」

「もう。男子じゃないんだからさ。ゆきのんが待ってるから、なるべく急いでね」

 

 寝起きの顔で由比ヶ浜と話をすることになって、照れくささをごまかすために軽口をつけ加えてみたものの。素で返されて、更にいたたまれなくなった八幡だった。

 

 

 急いで顔を洗って髪を整えて、制服を身にまとった八幡が再びドアを開けると。

 

「あのね、朝ご飯はキャンセルしといたから。外で一緒に食べよ?」

「どういう……ああ、お店ってそういうことな」

「うん、そういうこと。ゆきのんは『私のほうが遅くなるかもしれないのだけれど』って言ってくれてるけどさ。確実に待たせちゃってるし、急がないとだね」

「いや、あのな由比ヶ浜」

 

 すたすたと階段に向かう由比ヶ浜に、雪ノ下の持病をどう説明したものかと考えて。妙案が思い浮かばなかった八幡は、方向音痴さんの実情を隠蔽することにした。

 

「その、なんだ。雪ノ下がそう言ったのは、あれだろ。朝から急いでタクシーとか飛ばしたら、色々と台無しになるだろ。まあ寄り道とかはできねーけど、市バスに乗って道中を楽しむぐらいは大丈夫だろ。つか俺が寝坊したのが悪いんだし、なんかすまんな」

「ううん。それはいいんだけどさ。ヒッキー、どこ行くか知ってるの?」

「昨日、一緒に雪ノ下のメモを見ただろ?」

「あ、そっか。うん、じゃあ予定通りにバスで行こっか」

 

 しきりに首を左右に動かしたり縦に動かしたりする由比ヶ浜を、朝からこいつは元気だなと眺めながら。後を追うようにして一階のロビーまで降りて行くと、もう残っている生徒はほとんどいなかった。

 

「だいぶ待たせたみたいで、なんか悪いな」

「もういいってば。ゆきのんとメッセージしたり、待ってる間も楽しみだなって考えてたらあっという間だったから。ヒッキーは、その、楽しみ?」

「おう。なんか小中の修学旅行と違いすぎて、俺って今夜にでも死ぬのかねって疑いたくなるレベルだな」

 

「また、そんな言い方して……。楽しいなら楽しいってちゃんと言って欲しいなって、あたしは思うけどな。ほら、言いたくても言えないこととか、言わないほうが良さそうなこととかもあるわけだしさ」

 

 例えば、告白とか。

 八幡は心の中でそう続けて、昨日の夜に戸部翔から託された想いに意識を向けた。言わないほうが良さそうなことを言ってしまうまで、あと何時間ぐらいの猶予があるのだろうか。

 

「まあ、その話は雪ノ下と合流してからだな。せっかくの旅行だし、お前が言うとおり楽しむべきだよな」

「うん。だね」

 

 膨らませていた頬をたちまち緩めて大きく頷いた由比ヶ浜と並ぶようにして、八幡はホテルの外へと足を踏み出した。

 

 

***

 

 

 昨夜と同じように丸太町通を南に渡って。岡崎神社の前から西向きの市バスに乗ると、夜とは違った景色が八幡を出迎えてくれた。

 たこ焼き屋は朝の光に照らされて、なんだか寝不足みたいな顔をしているし。夜には厳かに見えた熊野神社は思ったよりも小さくて、しかしなぜか昼間のほうが霊験あらたかに見えた。

 

 隣の席で「わぁー」と言いながら町並みを楽しんでいる由比ヶ浜にちらりと目を向けて。たこ焼き屋を見ても何も言われなかったので、自分からは話を振らないでおこうと考えていると。

 

「ねね。さっきの聖護院ってさ、八ッ橋を作ってるとこだよね?」

「だな。あと聖護院って言えばかぶも有名だぞ。千枚漬けに使われてる、すっげーでかいやつな。ちなみに国内産のかぶの三割は千葉県産だ」

「出た、ヒッキーの千葉ネタ!」

 

 そんなふうに気張らないやり取りをしていると、バスは鴨川を渡って河原町通を視界に捉えた。そこでいったん降りて乗ってきた車両を見送ると、二人は南向きの市バスに乗り換える。

 

 車内で落ち着く間もなく、二つ目の京都市役所前で下車した。その名のとおり、道路の西向かいには年月の重みを感じさせる市役所の庁舎がそびえている。目の前にはぴかぴかと輝くホテルオクーラの雄姿がある。

 変わらぬものと変わってしまったものとが共存する京都らしい光景に、伝統と革新が息づくさまを見せつけられた気がした。

 

 

「ここからは歩きだね。あれっ。本能寺って、あの本能寺?」

「あの本能寺だけどな。ホテルとか文化会館に囲まれて、正直ちょっと期待はずれな感じがするよな」

「あ、商店街だ。寺町って書いてあるけど、たしか有名なとこだよね?」

 

「おう。秀吉は分かるだろ。天下を統一した後に、京都を攻められないように色々と改造してな。この道の東側にお寺を集めたから寺町通って言うらしいぞ。ほら、寺とか攻めたら罰があたりそうだろ?」

「あー、あたりそう。秀吉ってやっぱり賢かったんだね」

「ちょっとずる賢い感じもするよな。……寺町のアーケードって、偽叡山電車が走り抜けたとこだっけか。平塚先生なら『有頂天家族』も知ってると思うし、後で確認してみるか」

 

 後半は口の中でのつぶやきにとどめたものの、昨夜の巡礼モードが抜け切っていないようだ。初めて来た場所なのに見覚えがあるのは楽しいなと考えながら。八幡は由比ヶ浜と並んで、御池通の南側を西へと向かう。

 

「堺町通ってところで左に曲がるみたい」

「んじゃ次だな。つか、ここって柳八幡町って名前なのな」

「あ。堺町通の向こう側は、丸木材木町だって。ヒッキー、良かったね」

「いや、良くねーだろ。こんなとこまで付きまとわれてもなあ……」

 

 不満げにそう述べるも、心底から嫌がっているようには見えない。

 

 一方通行の小さな通りを南へと歩いて行くと、三条を越えた辺りで看板が見えた。歩きながら軽く頷き合って。二人はイーノダコーヒー本店へと入っていった。

 

 

***

 

 

 テラス席では雪ノ下が待っていた。まるで今しがた着いたばかりのように息を切らしている。

 道に迷ったあげくに急いでタクシーとか飛ばして来たんだろうなと考えながらも、八幡は口をつぐんだ。言わないほうが良さそうなことは、まだまだいっぱいあるのだ。

 

「限定のウインナーセットも捨てがたいのだけれど。やはり京の朝食を注文すべきでしょうね」

「ふわふわのスクランブルエッグと、ハムとサラダとクロワッサンと、それにオレンジジュースまでついてる!」

「由比ヶ浜、よだれが出てるぞ」

 

 それらに加えてコーヒーも楽しみで、メニューを見ながら思わずつばを飲み込んだ八幡が、自分を棚に上げてそう指摘すると。あわてて両手で口を覆っている。

 

 ジュースから始まって、出されたものをひととおり堪能し終えるまで。三人の口からは飲食物の話題しか出なかった。

 

 

「さて。お腹も膨れたところで、今日の予定を話し合いたいのだけれど」

「うーんと。今日あたしたちが回るコースは決まってるし、あっちの話だよね?」

「それ、ここで喋っても大丈夫なのか?」

「ええ。昨日予約をした時に、周囲に同じ高校の生徒を近づけさせないようにと頼んでおいたのよ。ここに入る時に見たのだけれど、海老名さんたちも旧館に通されていたわよ」

「あ、やっぱりとべっち、ゆきのんのメモのところを回るんだね」

 

 そんなふうに話を始めて早々に、八幡の頭に疑問がよぎる。

 

「なあ。よく考えたら、四人でいる時に告白されたら万事休すだよな?」

「それはさすがにさ。優美子も隼人くんもいるわけだし、姫菜も避けようとするだろうし、ないんじゃないかな」

「そうね。あれで戸部くんは自分に酔う傾向がありそうだから、告白をするなら最低でも二人きりの状況を作り出すと思うのだけれど」

「それ、ロマンチストとかその手の言葉を使ってやれよ。まあ良いけどな」

「あれっ。結局いいんだ……」

 

 取りなしているのか突き放しているのかよく分からない八幡の発言に右往左往しつつも。由比ヶ浜はすぐに気持ちを入れ替えて、まじめな顔になって話を続けた。

 

「でさ。ぶっちゃけ告白を避けるいい方法って、もう、無いんだよね?」

「いいえ、そうでもないわ」

「えっ?」

 

 雪ノ下の思わぬ発言に、八幡と由比ヶ浜から疑問の声がまろび出た。言葉が重なったことよりも、知りたい気持ちが先に立って。二人の視線は雪ノ下の口元を見据えている。

 

「依頼当日の課題図書から始まって、今日のルートまで。告白の成功率を高めるために私たちが提案したことは、これで全部でしょう。だから今日の夕方の時点で効果を判定して、可能性に変化はないと諭すことで何とかしたいと私は考えているのだけれど」

 

「うーん。それってさ、ゆきのんの考えは分かるんだけどさ。とべっちは納得しないと思うよ?」

「試験の点数と違って、可能性とかは数字にできないからな。たしか依頼の日だっけか、お前が家庭教師を例に出しただろ。要はセンター試験の点数を眼前に突き付けて『無謀だから志望校を変更しろ』って迫るようなイメージだと思うんだがな。客観的な数値に置き換えられない以上は、俺らが『可能性は皆無』って言っても戸部が『かなり高くなったっしょ』って言えば水掛け論だぞ?」

 

 やはり雪ノ下はどこまでも雪ノ下らしい。だが、その正攻法では見解の相違を埋められないと八幡は思う。昨夜の様子を見る限り、生半可な説得には応じないだろう。脅して告白させないという手もなくはないが、それだと奉仕部の理念から大きく逸脱する形になってしまう。

 

「あとな、昨日の夜に戸部とちょっと話したんだがな。明言こそしなかったけど、振られるって分かった上で告白するみたいでな。今回を逃したら『告白の機会すら作らせてもらえねーべ』って言ってたわ。正直なにも反論できなくて、そうだろうなって俺も瞬間的に納得させられたっつーか」

 

「姫菜ならたしかに、今回みたいな隙はもう作らせないかもしれないけどさ。振られるのを覚悟で告白する気持ちも分かるし、できたら応援してあげたいけどさ。でも……やっぱりね。行動を急ぐよりも、次の機会があるって考えて、関係を積み重ねてくれたらなって」

 

「結局のところは本人の意志を尊重するしかないものね。無駄骨に終わる可能性が高いとは、実は私も同感なのだけれど。依頼を引き受けた者の責任として、説得はしてみるつもりよ。だから、もしもそれが不首尾に終わったら……比企谷くんと由比ヶ浜さんに、後を任せても良いかしら?」

 

 その物言いから、文化祭や体育祭での役割分担に手応えを感じていたのは雪ノ下も同じだと理解して。二人の目が鋭さを増した。

 

「うん、大丈夫。結果が出た後のことは、あたしが頑張るからさ。ゆきのんも、できることをお願い」

「だな。他になんか手がないか、俺ももうちょい考えてみるわ。あと、振られた後のフォローは由比ヶ浜に任せるとしてもな。身近な連中は仕方がないとして、他の生徒にはなるべく知られないように告白の舞台を調えるべきだろうな。今日のコースを周りながら、これも話を煮詰めていくか」

 

 頭の中で形になりつつある策を見据えて、八幡はそう締めくくった。

 一日目の朝に駅長から伝授された能力を思い出しながら、おもむろに立ち上がると。しっかりと頷いた二人がそれに続いた。

 

 

*****

 

 

 珈琲店を出た三人はそのまま堺町通を南に歩いた。四条通で市バスに乗って東に向かい、橋を渡った先の停留所で降りる。

 

 鴨川のすぐ東側には京阪電車が走っている。祇園四条駅から乗り込むと、しばらくは地下線なので味気なかったが、七条を過ぎて地上に出る瞬間は格別だった。ごうっという音とともに外の光が差し込んできて、左右には民家が軒を連ねている。景観と言うには程遠いけれども、普段着の生活感というか、関東も関西も変わらないなという安心感が旅の緊張をやわらげてくれる。

 地元では気にも留めないような、なんら特別な感じがしない景色から目を離せないでいるうちに。列車は伏見稲荷駅に到着した。

 

 

「んで、大丈夫かお前?」

「あたし飲物買ってくる。ゆきのん、ちょっと待っててね」

 

 千本鳥居に感動していたのは最初だけで、途中からはひたすら登山をしている気分だった。

 なんとか四ツ辻まではたどり着いたものの。学力の高さは勿論のこと、体力の無さでも他の追随を許さない雪ノ下がベンチでぐてっとなるのも当然だよなと八幡は思う。

 

 返事が期待できそうにないので、八幡は黙って傍らに立ったまま後ろを振り返った。

 

 一日目の朝に家を出た時こそ曇り空だったが、すぐに日が差して以来ずっと晴天に恵まれている。ここからは京都市内が一望できて、絶景とはまさにこのことかと感に堪えない。詩情を解する者ならば、この眺望をなんと表現するのだろうか。

 両手をズボンのポケットに突っ込んで、猫背を少ししゃきっとさせて遠くを眺めながら、八幡がそんなことを考えていると。

 

「はい、雪ノ下さん。これ飲んでゆっくり休んでて。今あっちで由比ヶ浜さんから部活の様子とかを聞き出してるから、ゆーっくりしてて良いからね。じゃあ、ごゆっくり」

 

 おそらくJ組の女子生徒なのだろう。雪ノ下に飲物を手渡して、やたらと「ゆっくり」を強調すると、ちらりとこちらに視線を送った直後に逃げるようにして離れていった。

 ああ、いつもの反応だなと、八幡は妙にほっとした顔で勘違いをしている。

 その横でうつむく雪ノ下がどんな表情を浮かべていたのか、残念ながらそれを見た者はいなかった。

 

 

「ちょっと落ち着いたか。動けるようなら、座る向きを逆にしてみ?」

「ええ……。ふう、たしかにこれは絶景ね」

「俺には芸術関連の語彙が乏しいんだが、これってなんて言って表現したら良いのかね?」

 

「そんなに気張らなくても良いと思うのだけれど。視界の手前には赤や緑に黄色の木々が色とりどりに群れをなして、少し靄がかかった向こうには高速道路や大きな建物が、更に奥には山々が連なって空に繋がっているでしょう。特に難しい言葉は必要なくて、こうした風景をそのまま描写するだけでも充分に詩的になるわよ」

「ほーん、なるほどな。そういうもんか」

「むしろ上級者でもない限り、『もみじの錦』といった表現を文章の中に溶け込ませるのは難しいと思うのだけれど」

 

 午後に参拝予定の学問の神様を意識したのか、雪ノ下がそんな軽口を叩いている。

 受験からの連想で昨夜の会話を思い出して、八幡は気楽な調子で口を開いた。

 

「昨日な、京大の話をしてただろ。俺はずっと私立文系志望だったから詳しくないんだけどな。じゃあ東大はどんな感じなんだろなって、帰ってから妙に気になってな」

「そうね……まず言えることは、文系でも数学があるわね」

「お前な。まあ、体力が回復基調で何よりだわ」

 

「私も他の大学のことには詳しくないのだけれど、国公立の文系なら数学を課す大学も少なくないと思うわ。むしろ平塚先生も仰っていたけれど、理系の二次試験で国語を課すほうが珍しいでしょうね。父が受験した頃には、京大でも工学部は国語が必要なかったと、聞いていたのだけれど。でもこの話は今は関係ないわね」

 

 少しずつ雪ノ下の頭が回り始めたのを感じ取って、八幡は具体的な話に移る。

 

「知りたいのは英語の話だな。あと、平塚先生が東大じゃなくて京大を勧めた理由もか」

「昨日仰っていたように、貴方の性格に合っているというのが理由かしら。英語の話をすると、東大はオーソドックスな良問が揃っているわね。それに昨日はああ言ったけれど、出される文章のレベルも決して低くはないわ。でも大学の先生がたも本音を言えば、もっと難度を上げたいと考えているでしょうね。私や平塚先生が思いつくようなことは、当事者なら百も承知だと思うのだけれど」

 

「つっても一気に難しくしたら、英語が得意なやつも苦手なやつも等しく点が取れなくて差がつかないって話だよな」

「ええ。それでも結局は、少しずつでも難しくしていくしかないでしょうね」

 

 ここで一息ついて飲物を口に含むと、雪ノ下は再び話し始めた。

 

「それに東大は他のどの大学よりも、奇問や珍問を出すわけにはいかない立場でしょう。だからこそ、対策が立てやすいのよ。大学としてはオールマイティな能力を求めていて、付け焼き刃ではなく総合的な実力を測るために試験問題を練り上げているのだけれど。現実には、中高一貫校や大手の予備校・学習塾などが積み上げたノウハウに従って東大に合格するための勉強に没頭する生徒のほうが、はるかに合格率が高くなるのよね」

 

「総合的に能力が高いやつよりも、東大対策に特化したやつのほうがって話な。でもそれって当然じゃね?」

 

「ええ。それが悪いとは思わないし、どんな勉強法でも使い方次第なのだけれど。合格者に多様性が見られなくなって久しいと、父と同期で大学に残られた先生が仰っていたわ。たしかに優秀ではあるのだけれど、同じような勉強をして入って来た生徒ばかりだと。乱暴な例を挙げれば、必要性に乏しいという理由で東大対策から除外された領域や知識があったとして。入学後にそれが必要になった時に、ほとんどの生徒がそれを知らないという事態が有り得るのよね。でも入試では、仮に問われてもほぼ全員が解けないから、やっぱり学習する必要は無いのよ」

 

 まだ本調子とはいかないのか、話が拡散気味ではあるけれども。本筋から少しずれるぐらいの話題のほうが興味深く思えてしまう。

 とはいえ時間が無限にあるわけでもなし。これ以上詳しい話は教育論が専門の偉い先生たちに頑張ってもらおうと、心の中で丸投げして。八幡は話を元に戻すために口を開いた。

 

「文化祭で戸部の友達と話しただろ。あの時に聞いた感じだと、そのあたりの問題も認識してるっぽかったし、人によるんじゃね。それよりも、もうちょい京大との比較を知りたいんだが?」

 

「東大がオーソドックスなのに対して、京大はかなり尖っている印象ね。例えば試験時間も、東大は時間効率を考えて解答を進める必要があるのだけれど、京大は時間はたくさんあげるから解答の質を高めて欲しいという、どこか芸術家気質な考え方ね。東大は官僚的だと言えば、悪く聞こえるかもしれないのだけれど。創立以来ずっと官僚を養成する役割を担い続けてきたわけだから、むしろ褒め言葉だと思うわ」

「なるほどな。官僚と芸術家、片や真面目で片や自由って感じか」

 

 漠然と聞き及んでいた校風の違いに納得して、八幡が小さく頷いていると。

 

「でも、京大も最近は他大学との違いが少なくなって来たみたいね。それが昨日聞いた東西の格差に繋がっているのか、それとも逆に差を詰めるために自ら変化した結果なのか、私には断言できないのだけれど。英語について言えば、和訳と英作がほとんどという出題形式には確かに惹かれるものがあるわね。そういえば、平塚先生の進路指導はなかなかユニークだったと思わないかしら?」

 

「偏差値を見て大学を探すわけでもなかったし、入学後に何を学べるか的な意識の高い話でもなかったよな」

「ええ。入試問題の傾向を見て、入学時点でどんな能力が身に付いているのかという視点での指導は面白かったわね。夏休みの勉強会のことを覚えているかしら?」

「あれってそういや東大英語か。んで、お前が感銘を受けてたのって『綺麗な日本語に訳せてこそ価値がある』って部分だったよな。それだと確かに京大の問題のほうが面白いかもな」

 

 では、自分はどうだろうと八幡は自問する。

 

 専業主夫という夢をあきらめて少しでも良い就職先を求めるのであれば、英語の能力は高いほど良い。国内の業務が主な会社でも重宝されるだろうし、海外展開を重視する企業ならなおさらだ。同輩とは日本語でやり取りするのだろうし、ならば和訳と英作に特化した試験は願ったりかもしれない。

 そんなことを考えていると、雪ノ下の声が耳に届いた。

 

「東大なら要約やリスニングの問題もあるので、幅広く能力を上げられるという利点はあるのよ。ただ、それらは国語や小論文やTOEFLでも補えるし、特に話す聞くの部分は私には物足りないのだけれど。比企谷くんだと話が違ってくるわね」

「まあ、そうだな。つっても俺の場合は、日本語でも話す聞くの能力は微妙だがな」

 

「それは相手によると思うのだけれど。仕事だったり止むに止まれぬ事情があれば、比企谷くんの話に耳を傾けてくれる人もきっと現れるはずよ」

「おー。もしかしたらとか、ごく稀にって言われると思ってたから安心したわ」

「でも実際、貴方は別に話が下手なわけではないでしょう。頭ごなしに見下してくる相手とコミュニケーションを取るのは、誰であっても難しいと思うのだけれど」

「まあ、それは、そうかもな」

 

 軽く罵倒されるぐらいがいちばん対応が楽で、普通に褒められたり自分と同じ目線からフォローされるほうが反応に困るのは、我ながら困った傾向だよなと思いつつ。

 すっかり見透かされている状況に内心で白旗を揚げていると。

 

「そういえば、ここの風景描写の話をしたでしょう。そうしたことに関心があるのなら、和訳と英作といった読み書き限定の勉強も面白いと思うわよ?」

「まあ、たしかにな。暗記前提のほうが楽なんだが、私立文系ってかなりマニアックな文法問題とかあるもんな。それを覚えるよりも、和訳と英作に特化して地力を高めるほうが、将来なんだかんだで役に立ちそうな気もするな」

 

 でもそれだと、社畜まっしぐらな気がするんだよなあと内心で続けながら。

 八幡は昨日よりも更に少し、京大への関心を強くした。

 

 

「なんだか、受験を控える高校生らしい話だったわね。そろそろ下に……っ!」

「あぶねっ!」

 

 立ち上がりかけたところで体勢を崩した雪ノ下に、あわてて手を伸ばして。右の二の腕のあたりを掴んでなんとか事なきを得た。ふうっと大きく息を吐くと同時に、手で触れている先の柔らかい感触が認識できて。心臓がたちまち跳ね出したのを自覚する。

 表面上はどこまでも落ち着いて、しかし内心ではあっぷあっぷの状態で、八幡は優しく手を離した。

 

「もうちょい座っとけ。由比ヶ浜は……なんかすげー包囲網ができてるんだが」

「ええ。ごめんなさい。……あの子たちにも困ったものね」

「それだけお前のことを知りたいと思ってるんじゃね。カースト底辺の立場から言わせてもらえば、人望があるのは良いことだと思うぞ」

「比企谷くんはぼっちを気取っているだけで、実質的にはそう悪い立場でもないでしょう。それに、貴方のせいで……」

 

 そこまで言いかけて、雪ノ下はあわてて口を閉じた。昨日の夜に同級生から言われたあれこれを愚痴りたい気持ちもあるけれど。それを伝えた先にあるのは二人そろって赤面する未来だろう。

 

 はぁと小さくため息を吐いて、雪ノ下は肩越しに振り返っていた姿勢をいったん元に戻してから、京都市内を背にする形に向き直った。

 もぞもぞと動きながら横目でちらりと確認すると、「俺が同じ部にいるせいか?」と首を傾げている。勘違いしたままでいてもらおうと雪ノ下は思った。

 

「そういえば、今日会ったら尋ねようと思っていたのだけれど。昨夜の炬燵は、一体なんだったのかしら?」

「あー、時計台の外側にいきなり現れたやつな。あれは韋駄天コタツって呼ばれてる神出鬼没なコタツだ。学園祭で賑わう校内の各地に現れて、豆乳鍋を振る舞ってくれるらしいぞ。京大出身の人が書いた『夜は短し歩けよ乙女』って小説に出てくるんだわ」

「つまり運営の誰かが、いつもながらの行動力を発揮したということね」

 

 先程とは違った気持ちでため息を吐いて、雪ノ下は同級生に囲まれた己が部員に視線を向けた。少しずつ突破口が広がってきたが、追いすがるJ組の生徒たちも諦めていない。そのうちの一人が軽くウインクを送ってきたので、思わず額に手を当てると。

 

「さっきの高校生らしい話に戻るけどな。もうちょい東大のことも調べてみて、京大と比較しながら検討するのが分かりやすそうだな」

「そうね。自分で調べるだけではなくて、例えば……貴方が話題に出していたけれど、戸部くんの友人に話を聞いてみるのはどうかしら?」

「あー、その手もあるか。まあ、どうなるか分からんけど、色々と考えてみますかね」

 

 一緒に話を聞きたいという感じではなさそうなので、ほっと胸をなで下ろしながら。八幡は頭の中で情報の整理を行う。

 

 全国一位のやつに勉強で勝てるとは、とても思えないけれど。負けたくないとも思ってしまう。成績を伸ばすのは一朝一夕では不可能だからこそ、他の何かで。雪ノ下の助けになれるような何かでだけは上回りたい。

 

 だが、その気持ちと志望校の話とは別の問題だ。自分の役に立つことを感情的な理由で排除するのはもったいないし、その手の自尊心は意識高い系の連中に任せておけば良い。

 

 心置きなく戸部の友達と会うためにも。そして雪ノ下の正攻法でも駄目だった時には、俺が解決できるように。今までのどの依頼よりも真剣に、八幡は策を模索した。

 気負いすぎている自分には、気づけなかった。

 

 

***

 

 

 雪ノ下に無理をさせないように、こまめに休憩を挟みながら。おおぜいの観光客に囲まれるようにしてなんとか下山を果たした三人は、今度はJRの稲荷駅に向かった。京阪でも良かったのだが気分を変えてみようという話になったのだ。

 

 ひとつ先の東福寺駅は京阪とJRのホームが横並びになっている。かつて国鉄時代には駅の業務を全て京阪に委託して、駅員がいないのはもちろんのこと、乗車券の販売なども任せきりだったらしい。

 そんなユキペディアに「へえー」「ほーん」と感嘆の声を上げつつ、三人は東福寺の境内に歩を進めた。

 

 

「んで、あの人数はなんなの?」

「ぎゅうぎゅう詰めになってるよね。あたし、ちょっとパスかも」

「私も見ているだけでお腹がいっぱいになって来たわね」

 

 名高い通天橋は観光客でごった返していた。伏見稲荷の混雑ぶりも予想以上だったが、ここは更にひどい。写真を撮ることはおろか、自由に身動きするのも難しそうだ。

 今こそあの能力を使うべきだと八幡は思い、同伴の二人を目についた便所に誘う。

 

「えーと、ヒッキー?」

「トイレも一人で行けないのかしら、幼児谷(よーじや)くんは?」

「おー、そういえばあぶらとり紙を買うの忘れてたわ。んじゃま、説明するな」

 

 運営命名の観光モード、八幡がこっそり貸し切りモードと呼んでいる能力を紹介すると、二人はばつの悪そうな表情を浮かべた。とはいえ有無を言わさずトイレの前まで連れて来たのは自分なので、八幡は軽く首を振って「気にすんな」と伝える。

 昨日の夜に戸部にポリ袋を渡した時といい、説明が後回しになる傾向があるので気を付けないとなと八幡は思った。

 

「んじゃ今から能力を使ってお前ら二人を招待するから、女子トイレでドアを出入りしてくれるか。ポップアップで移動の確認が出るはずだ」

「その、インスタンスってところに移動するって選べばいいんだよね?」

「そのようね。では、すぐ後で」

 

 東京駅で体験はしているものの、誰かと一緒に別空間に移動するのは初めてだ。男子トイレから出て、観光客が消え失せた境内をドキドキしながら見渡していると、すぐに二人が出てきてくれた。大きく安堵の息を吐く。

 

「やっぱ初めてやると緊張するな。じゃあ通天橋に行ってみるか」

「うん、だね。この景色を貸し切りできるなんて、ヒッキーすごい!」

「私も楽しみだわ。比企谷くん、ありがとう」

 

 素直に称賛されると、やっぱり尻の辺りがむず痒い。しょせんは借り物の能力だからと自分にごにょごにょ言い聞かせながら、八幡は二人と並んで足を進める。

 通天橋を独占した三人は、しばしその景観に酔いしれた。

 

 

「んじゃま、さっきのトイレで元の空間に戻るか」

「空間の大きさやドアの場所に制限がないのなら、入ってすぐに駐車場があったでしょう。そこのトイレで戻るほうが良いのではないかしら?」

「ゆきのんが言ってるのって、人混みをギリギリまで避けるってことだよね。そのほうがあたしも助かるかも」

「大きさは観光地をすっぽり覆う感じだな。ここだと境内がまるまる入ってるから、雪ノ下の案で大丈夫だ。この空間のまま別の場所に移動とかはできないけどな」

 

 そう説明しながら、内心では雪ノ下の応用力に舌を巻いていた。

 この能力を詳しく知られないうちに、提案しておくべきかもしれない。

 

「それでな、朝に言ってただろ。戸部の告白を、他の生徒にはなるべく知られないようにって。告白に向いた場所があるのか俺には分からんけど、それが観光地だったら戸部と海老名さんをこの空間に招待できるんだわ」

「告白に向いた場所かあ……。でもさ、有名な観光地を貸し切りにして告白できるってすごいよね。誰にも見られないなら姫菜も助かると思うし、とべっちも乗り気になるんじゃないかな」

「そうね。でも……貴方も同席する形になるのよね?」

 

 当然のように急所を突いてくる雪ノ下に、思わず声を上げそうになって。八幡は唇を噛みしめると、静かに深呼吸をして平静を取り戻す。それこそが八幡の目的だと、まだ悟られたわけではない。

 

「告白の場に居合わせるのも悪いし、そうなったら俺はどっか草葉の陰にでも隠れてるわ」

「あ、それってあたしが間違って使ってたやつだよね。文化祭の時だっけ、『草葉の陰とは、墓の下とかあの世って意味なのだけれど』ってゆきのんが教えてくれてさ。ゆきのんの話し方で覚えてるから、もう間違えないよ!」

「なんだか懐かしいわね。由比ヶ浜さんは丸暗記は苦手でも、他と関連付けた記憶なら覚えていられるのだから、それを勉強にも役立てると良いわ。また一緒に考えましょうか」

 

 由比ヶ浜が覚えているか否かは半々だと思っていたが。いずれにしても雪ノ下の意識を逸らせるだろうと考えて口にした言葉が、思った以上の効果を発揮して。八幡はこっそりと息を吐いた。

 

 なし崩し的に勉強の話題に誘導しながら。八幡は二人と一緒に元の空間に戻って、そのまま東福寺を後にした。

 

 

*****

 

 

 付近で昼食を摂って少し休憩して。東福寺の北側から市バスに乗って九条通を西に向かう。やがてバスは西大路通で右折して進路を北へと変えた。五条からは駅伝中継で見た景色を眺め、四条で別のバスに乗り換えて北上を続ける。今出川通を右折したバスは、次の停留所で三人を下ろしてそのまま東へと走り去った。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜に促された八幡が先頭に立って、三人は北野天満宮の一の鳥居をくぐり抜ける。境内のあちこちにある牛をなでながら進んで行くと。

 

「なんか付き合わせて悪いな。とりあえず本殿に行けば良いのかね?」

「だから気にしないでって言ってるのにさ。小町ちゃんの合格を願ってるのは、ヒッキーだけじゃないんだから」

「そうよ。まずは本殿にお参りするとして……すぐに追いつくから、先に行っててくれるかしら?」

 

 楼門を抜けたところで、雪ノ下は本殿を指差して二人に指示を送ると、ひとり絵馬所に向かった。途中で振り返って、首を傾げていた二人が大人しく三光門に向かっているのを見て頬をゆるめる。

 

 絵馬を裏返して、ひとつ深呼吸して一気に筆を揮った。達筆で記された文字を眺めると、そこにはこう書かれていた。

 

『比企谷八幡、合格祈願。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 わたわたと一瞬だけあわてたものの。悪戯心が勝ったので、真ん中あたりに「京大絶対合格」と付け加えてみた。少し顔を離して子細に検分してみたが、思った以上によく書けている。

 

 それを丁寧に奉納してから再び筆を執った。今度は間違えないように、細心の注意を払って筆を進める。

 

『比企谷小町、総武高校合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 なんだか楽しくなってきたので、更に二つ絵馬を用意して。

 

『由比ヶ浜結衣、大学現役合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

『京大合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 こんなに簡単に国内の志望校を決めても良いのかと、思う気持ちもあったのだけれど。旅先での戯れだと自分を宥めて、雪ノ下は最終的に四つの絵馬を奉納した。

 

 

 絵馬を一つ一つ写真に収めてから急いで本殿に向かうと、二人が待っていた。まだお参りを済ませていないようだ。

 

「せっかくだし、一緒にお参りしてくれると嬉しいんだが?」

「てかさ、ゆきのん何してたの。すっごく楽しそうな笑顔なんだけど?」

「少し用事があったのよ。今は話せないのだけれど、そのうちね」

 

 由比ヶ浜に言われるまでもなく、笑顔がこぼれているのが自分でも分かる。それをごまかす意図もあって、二人の背中をそっと押した。こちらから誰かに触れようとするのが新鮮で、笑みが更に深まって。このまま表情が戻らない気さえもする。

 

「では、小町さんの合格を一緒にお願いしましょうか」

 

 八幡を中央に立たせて、右に雪ノ下、左に由比ヶ浜という配置になって。三人は心を一つにして、天然あざとい少女が自分たちの後輩になることを願った。

 

 

 このまま引き返すのは何だか味気ない気がして。きょろきょろと周囲を見回していた三人は、誰からともなく足を西に向けた。東門のすぐ外に道路が見えたので、逆方向を選んだだけだったのだが。

 やがて三人の前に「もみじ苑、入口」という案内板が姿を現した。

 

「こないだ姫菜がさ、梅の季節にここに来たいって言ってたんだけどね。ここって、もみじもあるんだね」

「いえ、私が見たガイドブックには載っていなかったのだけれど……」

「あそこに書いてあるけど、なんか最近みたいだな。平成十九年から公開しはじめたんだとさ」

 

 それなら仕方がないと雪ノ下も納得顔だ。実際あまり知られていないのか、人影もそう多くはない。まさか十年も経たないうちに観光客が群がることになるなどとは、今の三人には知る由もなく。偶然の発見に気を良くしながら、軽やかに足を踏み入れた。

 

「あれは欅かしら。樹齢六百年と書いてあるわね」

「けやきって、木だよね。なんで東風って名前なんだろ?」

「それな、道真さんが大宰府に流された時に詠んだ和歌があるんだわ。ちなみに読み方は『こち』な」

 

「春を告げる東からの風が吹いたら、梅の花の匂いを届けて欲しい。私がいないからといって、春を忘れるようなことはしてくれるなよ。……道真公は家の梅にそう語りかけて、都を去ったのよ。比企谷くん、和歌の朗読を」

「朗々と歌い上げるとかできねーぞ。東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」

「最後の『な〜そ』は試験にもよく出てくるから、覚えておくと良いわ。禁止の意味になるのだけれど、『春を忘るな』よりも柔らかい感じが出るのよ」

 

 即席の勉強会を挟みながら、三人は大欅を右に曲がった。北向きに少し歩くと、さっき参拝した本殿がもみじの合間から一望できる。

 道沿いにくるっと左に回って紙屋川に近付くと、そこには朱塗りの橋が架かっていた。橋の途中で立ち止まって、上流と下流とを順番に観賞してから先に進む。

 

 そのまま南向きに歩いていると。ふと、対岸を見た八幡が。

 

「なあ。これ、もしかして御土居か?」

「そうね。間違いないと思うわ」

「えーっと、おどいって何?」

 

 興奮気味の二人についていけない由比ヶ浜が、当然の疑問を口にすると。

 

「俺も詳しい話はブラモリタを観て知ったんだけどな。ほら、来る時に寺町の話をしただろ。京都を攻められないように、秀吉が寺を集めたって」

「あ、うん。それは覚えてるけどさ。これってお寺じゃない、よね?」

「御土居は、言ってしまえば土塁ね。こうして土を盛り上げて敵の侵入を防ぐ目的があるのよ。紙屋川は堀の役割を果たしていると考えれば良いわ」

 

「土塁の内側が洛中で、外側が洛外な。まあ天下泰平の江戸時代になると、こんな境なんてあってないようなもんになるんだけどな。基本的には西はこの辺りまで、東は寺町ぐらいまでが洛中だって秀吉さんが決めたんだわ」

「じゃあ朝は東の洛外から来て、今はちょこっとだけ西の洛外にいるんだよね。ふーん、なんだかすごいなあ」

 

 二人にかわるがわる解説してもらった由比ヶ浜は、そう言ってしっかりと頷いた。すると、視界の端に光るものが。

 

「あっ、上」

 

 由比ヶ浜がそう言うので、立ち止まったまま首を上に向けると、陽の光に照らされて紅い葉っぱが輝いて見える。もみじが敷きつめられた天頂から視線を足元に移すと、かさかさと音をたてながら落ち葉が川へと流されて行った。

 

 足を進めると、左手に橋が見えてきた。どうやらあそこから引き返すみたいだ。右手には竹林が現れて、鮮やかな緑と紅のコントラストが目に飛び込んでくる。それをじっくりと堪能してから、橋を渡って北向きに進路を変える。

 

 道に沿って歩いて行くと、やがて御土居の上に出た。最初に見た大欅に向かってゆっくりと歩みを進めながら。話題はこの境内で催されたという秀吉の茶会に移っている。それが一段落すると、最後に再び和歌の話が持ち出された。

 

「道真が詠んだ例のもみじの和歌って、たしか百人一首に入ってたよな?」

「ええ。下の句はこうよ。もみじの錦、神のまにまに」

「まにまに?」

「御心のままに、ってな意味な」

「ふーん。まにまに」

 

 その後も、八幡が思いついた話を雪ノ下に質問して、雪ノ下の解説を時に八幡が補足して、由比ヶ浜がにこにこと相鎚を打って。

 そんなふうにして、三人は北野天満宮を後にした。

 

 

***

 

 

 今出川通を西に歩いて西大路まで戻った。そこは北野白梅町という名の交差点で、西側には同名の京福電鉄の駅がある。乗り込んだ路面電車は、家が密集する地帯を縫うようにして走り抜け。帷子ノ辻で北野線から嵐山本線に乗り換えて、三人は嵐山駅に降り立った。

 

 目の前の通りをまずは南に移動して、周囲の景色を眺めながら渡月橋をゆっくりと往復した。何も言葉を出さなくとも、山々の色づく様を眺めているだけで時間がどんどん過ぎていく。どれだけ観賞しても、まったく飽きる気がしないのが不思議だ。

 

 きりがないので、適当なところで我慢して。渡月橋の北詰から長辻通を北に向かうと、左右にはコロッケや唐揚げを売る店が並んでいた。それらをついつい買ってしまう由比ヶ浜に餌づけをされるようにして、二人もお腹を膨らませていく。

 

「やっぱ働かないで食う飯はうまいな」

「そう言いながらも、養われはしても施しは受けないなどと妙な事を口走って、結局はちゃんと働いていそうな気がするのよね」

「ヒッキーって変なとこ真面目だよね」

 

 何を喋っても二人にやり込められる展開が見えたので、いつもの通りに八幡は逃げることを視野に入れる。

 

「さっきせっかく思い出したし、あそこであぶらとり紙を買って来るわ」

「あ、ちょっと待って。せっかくだし一緒に行こうよ。でさ、その前にここに寄りたいんだけど?」

「では、その順番で回りましょうか」

 

 

 あっさりと逃亡を封じられて。由比ヶ浜に手を引かれるようにして入ったお店は、色んな雑貨を扱っていた。しばらく思い思いに商品を眺めていると。

 

「あ、このマグカップ可愛くない?」

 

 やる気のなさそうな犬がプリントされている。だれた様子が気に入ったのか、由比ヶ浜は買う気満々だ。

 少しはその元気を犬にわけてやったら良いのにと、八幡がそんなことを考えていると。

 

「ねね、ゆきのん。これ、部室で使ったらダメかな?」

「そうね。別に構わないのだけれど。やる気のなさそうな部員も既にいるわけだし、ちょうど良いかもしれないわね」

 

 それって誰のことですかねと思いながら、八幡がそっぽを向いた先には。愛嬌を感じさせる狸がプリントされたマグカップがあった。

 

「人を化かす狸か。あいつも男を化かすのが上手そうだし、オススメって言ってたからこれで良いか。なんか言われても、『阿呆の血のしからしむるところだ』って言ってごまかせば何とかなるだろ」

 

 寺町通で思い出した作品から印象深い一節を引用しながら。小声でそんな屁理屈を捏ねて、商品を手に取ると。

 

「あ、ヒッキーもマグカップ買うんだ。じゃあ部室で一緒に使おうよ」

「いや、これはそういうのじゃなくてだな。つか俺は紙コップで充分なんだが」

「ぶー。ゆきのんもさ、ヒッキー専用のマグカップがあったほうが嬉しいよね?」

「そうね……。でも」

 

 そこで言葉を切った雪ノ下は、何やらこそこそと由比ヶ浜の耳元にささやきかけている。ふんふんと聞いていた由比ヶ浜がぱあっと明るい表情になったのだが、八幡には何のことやら見当もつかない。

 

 この時の二人の企みを八幡が知るのは、一ヶ月以上も先のことだった。

 

 

 あぶらとり紙を首尾良く仕入れて、併設されていたカフェで少し休憩して。三人が通りに戻るといい時間になっていた。

 

「このまま帰るか、それとも近場なら一箇所ぐらいは行けると思うのだけれど」

「あ、じゃあさ。この道をちょっと歩いて行かない?」

「竹林の小径か。さっき見たやつも綺麗だったし、まあ良いんじゃね」

 

 お店のすぐ近くにあった小径を進んで行くと、すぐに左右を竹で囲まれた空間に入った。風が通るたびにざあっという音がして、見上げれば鬱蒼と葉が茂っている。足元を見れば灯籠が等間隔で置かれていて、おそらく日が暮れたらライトアップされるのだろう。

 

「ここ、ここがいいって!」

「なんかお前、にわとりになってるぞ。つか人が多いな」

「人が少なければ風情を感じられると思うのだけれど、この人混みでは難しいわね」

 

 さすがに通天橋ほどではないものの、ひっきりなしに人が歩いている。八幡と雪ノ下の顔に少しずつ疲労の色が見え始めていたが、由比ヶ浜は気付かない。

 

「だからさ、ヒッキーの貸し切り能力なら人の心配はしなくて済むじゃん。あたしはここしかないって思うな」

「だからなんの話だ?」

「由比ヶ浜さん、まさか?」

「うん。告られるなら絶対ここだって!」

 

 どうして受動態で話すんだ、と疑問が浮かんで。いつだったかは思い出せないものの、同じ疑問を抱いた時の記憶が断片的に蘇り、八幡が物思いに耽ろうとしたところで。

 

「なるほど。たしかに人がいない状況で夜にライトアップされると、幻想的な光景になりそうね。由比ヶ浜さんが告白を願う気持ちも分からないではないわね」

「ちち違うってば。あたしじゃなくて、その、とべっちの話だし!」

 

 気が付けばとんでもない話になっているので、八幡は即座に考察を中断した。由比ヶ浜が告白を願うとか、雪ノ下がその気持ちも分かるとか、八幡からすれば悪夢でしかない。だから話題を差し替えて。

 

「じゃあ順番としては、雪ノ下が戸部を説得してみて、それが駄目ならここで告白させる流れかね?」

「そうね。説得には二人も同席して欲しいのだけれど、あまり時間に余裕があるとは言えないわね。そろそろ戻りましょうか」

「うん、ホテルに戻ろっか。でもさ、あたし何だか緊張してきたかも」

 

 先々の不安を予測してか、急に神妙な顔になる由比ヶ浜に適当な話題を振りながら。三人はもと来た道を引き返していった。

 

 小径の両側から竹の姿が消えて、大通りにたどり着くと。すぐそばのバス停には、見知った四人の姿があった。




更新が遅れて申し訳ありませんでした。

進路指導が原因なのですが、まさか私が東大と京大の英語の問題を眺め解答を斜め読みして解説を前に居眠りする日が来るとは思いませんでした。
この時点では八幡に数学の勉強を始めてもらえばそれで良かったはずなのに、調べる→二人が興味を持ちそう→もっと調べる→二人がもっと興味を持ちそうのループに陥ったあげくに、こんな内容になりました。特に絵馬が予想外。

本筋のほうも、ついに三日目の夕方を迎えて、すいすいと書き切れるか断言しにくい部分がありますが。
次話はいちおう一週間後を考えています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
本話で三人が訪れた中で、マグカップを購入した雑貨屋さんだけは存在しない(はず)です。
だれた犬のマグカップは初出が7巻で(作中の時系列では6.5巻)、唐突に登場した印象だったので、せっかくだし軽いエピソードを創作してみました。私の見落としでしたらこっそり教えて下さい。

タイトルを、かみに願を懸けながら→かみさまに願を懸けて、に変更しました。
その他、細かな表現を修正しました。(10/19,12/17)
また、長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/19)

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