クラスで足止めを受けていた由比ヶ浜が部室に入ると、戸部が待っていた。事情を説明されて、危惧していた問題が動いたのだと理解した由比ヶ浜は、「三人で相談する」と言って戸部を部活に送り出した。
戸部の応援に乗り気な雪ノ下の意図を確認して、告白が望み薄との認識を共有した上で三人は話を進める。
相手が好きなものに詳しくなると、関係を深めやすいのではないか。雪ノ下の提案を受けて、海老名の好む古典小説や漫画を戸部に読ませることになった。
平行して、告白によって周囲に影響が出ないように可能なら回避させること。告白が失敗した時の混乱を抑えるべく対策を立てること。そうした方針に落ち着いた。
本日最後の授業が終わると、二年F組の生徒たちはいっせいに席から立ち上がった。そのまま仲の良い面々で集まって、この後に予定されている修学旅行の班決めの話で持ちきりになっている。
そんなクラスメイトの動きもどこ吹く風と、一人だけ席に座ったまま頬杖をついて。比企谷八幡は昨日のことを思い出していた。部活が終わる直前の、戸部翔を交えたやり取りを。
『これ全部読めって、マジ雪ノ下さんスパルタだわー』
戸部の反応を見るに、小説はもちろん漫画ですらも、すべてを読み終えるのは難しそうだ。そう思った三人だったが、連れ立って移動した先の図書室で、戸部は漫画のみならず小説も含めた全作品を借りていた。
参考書を買い集めただけで勉強した気になって、結局は半分も読まないまま無駄にするタイプだなと。そう考えながらも八幡は茶化す気が起きなかったし、それはあの二人も同じだろう。
この世界では貸し出し中とか返却待ちといった事態が起きないので、他の生徒に気兼ねなく本を借りることができる。データとして扱えば書籍がかさばることもないので、いくらでも持ち運びができる。
なのに戸部は、雪ノ下が指定した作品はすべて借りた一方で、腐女子作成のおすすめリストに載っている全作品を借りようとはしなかった。
その行為に深い意味はなかったのだろう。
だが戸部の選択を見て、三人の気持ちが少しだけ前向きになったのも確かだった。読む量に怖じ気づいていても、すべてを読み切るのは無理だと分かっていても、それでもやるだけはやってみようという姿勢が伝わってきたからだ。
『私たちは一作品だけで良かったのだけれど』
戸部の行動に触発されたのか、二人もまた漫画を五作すべて借りていた。小説を借りなかったのは、部長様は既読だから。もう一人は、それ以上は読めないと自己判断した結果だろう。
教室の奥に集まっているトップカーストの中に、由比ヶ浜結衣の姿をちらりと確認して。八幡の頬がすこし緩んだ。
『今日は優美子が離してくれなさそうだし、明日一緒に読もっか』
それに危うく巻き込まれそうになったものの冷静に(と思っているのは当人だけだったが)お断りして、八幡もこっそり小説を借りてみた。重ねてお誘いされなかったのは、まことに遺憾ながらその行為がバレていたからだろう。
『てか、図書室に漫画がぜんぶあるとは思わなかったわ。よく見たらラノベや少年漫画も多いし、いくら卒業生が寄贈したって言っても、ちょっと偏り過ぎじゃねーか?』
照れ隠しもあってそう口にしたら、急に苦い顔になって視線を逸らした女子生徒が一人。
あの人の財力があれば、そして作品の選考に口添えしたのがあの人なら納得だと。二人の顔を思い浮かべた八幡が苦笑をもらすと、それはすぐに由比ヶ浜にも伝わった。誰とも知れない卒業生に、騒々しく感謝の言葉を告げる戸部の姿が引き金になって、ついには部長様にも笑いが移って……。
にやにやと思い出し笑いをしていた八幡の肩を、誰かがちょんちょんとつついた。
「あのね、大和くんと大岡くんが呼んでるんだけど。あ、この二人はテニス部の繋がりでね。職場見学でも一緒だったんだ」
席で待っていれば戸塚彩加が来てくれるだろうと思っていたからか。あるいは夢うつつな気分が続いているからか。八幡はめずらしく穏やかな気分で、友人の登場を受け入れることができた。
「あ、じゃあ、同じ班になるんだよな。あー、えっと、友達がいなかったから、こういう時になんて言えばいいのか分からんけど。よろしく、で良いのか?」
戸塚を含めた三人にぷっと吹き出されたものの、悪い印象は受けなかった。順番に自己紹介をされたので慌てて名乗ると、また苦笑されて。ばつの悪い思いをしながら立ち上がる八幡に、二人が語りかける。
「あのさ。テニス勝負の時に戸塚に、『部活に参加してくれってお願いしてみろ』って言ってくれたよね?」
「あの時は俺たちも、なんて言うかきっかけが欲しかったって感じでさ。だから今、戸塚と一緒に男テニで盛り上がれてるのって、あの言葉のおかげだって思っててさ」
「あー、話は分かった。けどな、もう半年以上も前の話だし、俺の助言なんて微々たるもんだぞ。戸塚の言葉を聞いたから、お前らも部活を続けようって思ったんだろ。だから結論は『戸塚は尊い』で良いんじゃね?」
話の趣旨が判明すると同時に、八幡はそう言って二人の言葉を遮った。すぐ横で戸塚が「ね、言ってた通りでしょ?」と得意げに胸を張っているのが気になるものの。深くは考えないようにして話を続けた。
「んで、大和と大岡は……あっちか。葉山と戸部もいるけど、女子と少し離れてるのは珍しいな。何の用か知らんけど、さっさと行ってくるわ」
「あ、ぼくたちも一緒にって言ってたから、じゃあ行こっか」
その言葉に頷くと、すぐに戸塚が歩き始めたので後を追った。残りの二人も続いている。
程なくして、クラスの最後列やや中央寄りに陣取っていた男子のトップカーストの一団と、顔を合わせる形になった。
「八幡も連れて来たけど、えっと……」
「おー、来てくれて助かった。もうちょい近くに。あ、大和から話があるから、隼人くんと戸部も、もうちょいこっちにさ」
「俺が話すより大岡のほうが……まあいいか。できれば二人には、隼人くんと戸部と一緒の班になって欲しいんだけど」
大岡が軽い口調で一同を手招きして、周囲に声が届かない状況を作り出した上で、大和が端的に要望を口にした。
「え、それって、修学旅行は俺っちと一緒に回らないってことだべ?」
「戸部、そういう意味じゃないぞ。二人がこんなことを言い出すのは俺も意外だったけど、気持ちを汲んでやれよ。ヒキタニくんと戸塚に、協力してもらうんだろ?」
「あ、あー、ああ、そういう……って大和も大岡も、なんかすげー考えてくれててやべーっしょ!」
二人の意図を葉山隼人が解説すると、戸部はぽかんと開けていた口を忙しなく動かしてまくし立てた。
呼ばれた理由を把握して、納得顔で頷きあっている八幡と戸塚の背後に向けて。まじめな顔のまま、大岡と大和が順に話しかける。
「あのな。詳しいことは後でちゃんと説明するから、今回の修学旅行は俺と大和と一緒に回って欲しいんだけど」
「戸部の未来がかかってる」
そう言われたテニス部の二人も事情を察知したのか、眼を細めて「それじゃあ仕方ないね」と協力姿勢を見せていた。
あれだけ派手に戸部が絶賛して回っていた以上、よほど鈍感でもない限りは勘付くだろう。お調子者の放言だと、てんで本気にしていなかった過去の自分を棚に上げて、八幡は頷きを深める。
「じゃあ、三泊四日を戸部と戸塚とヒキタニくんの四人で過ごす形だね。よろしく頼むよ」
「あ、やっぱり血が飛んで来そうだし、俺らはそっちの……ってわけにはいかねーよなぁ。はあ、どうしてこうなった?」
「でもさ。千葉村でもこの四人だったし、八幡も楽しかったって言ってたよね?」
「あの時のヒキタニくんマジ、スゴタニくんだったべ。大和と大岡にもテニス部の二人にもマジ感謝っしょ!」
そんな風に騒いでいると、声こそ聞こえていないものの雰囲気が伝わったのか。首をひょこんと伸ばしながら、由比ヶ浜が近づいてきた。
「さいちゃんとヒッキーまで加わって、どしたの?」
「あー、えっと。俺がちょっと戸塚の前で、っつーか見知らぬこの二人の前で挙動不審に陥ってな。それを見てたこいつらが俺を憐れんで、班を替わってやるって言ってくれたんで、嘆いてたって感じか?」
「ふーん、そっか。って、え、嘆いてたって?」
「いや、だって葉山と一緒とか、誰かが暴走する未来しか見えねーだろ?」
慌てて八幡が音声をオンにして、話しながら適当な理由をでっち上げると納得しかけたものの。最後の言葉が気になったらしく、問い返されてしまった。
ここで彼女に気づかれるわけにはいかない。そんな緊張感を胸に、ふだんは「さん」づけで呼んでいる腐女子を、名前を呼んではいけない人扱いしたものの。
「聞ーいーたーぞー。ぶはっ、修学旅行の班分けではやはちが実現するだけでも大歓喜なのに安定のとつはちに加えて最近の界隈で注目度が急上昇中のとべはちまで実現するなんてこれってもう経緯もまさにヘタレ受けの王道だし絶対に見逃せない取り組みの連続じゃんって言っても夜中に男子部屋に侵入するわけにもいかないしこのままだと一番おいしい場面を見逃しちゃうじゃない私はどうすれば良いのよってこうなったら今すぐ秋葉原に行って怪しげな盗撮グッズをダース単位で仕入れて愚腐っ旅先の開放感でただれにただれた四人の関係はついに抜き差しならぬ抜き挿しな状況に追い込まれ挿されてさされてサされる愚腐ぉぅっなんて絵になる姿なの恐るべしはやはちとつはちとべはち三本同時挿しヘタレ受けの真の姿がついに明らかに愚腐ぅ我が生涯に一片の悔い無し!」
そう言い終えるや否やばたんと仰向けに倒れて、顔面を赤に染めながらぴくぴくと痙攣を起こしつつも満面の笑みを浮かべている腐女子。
教室中がしんと静まり返る中で、八幡は己の失敗をかみしめていた。当人の名前を避けるのに必死で、葉山の名前を口に出す危険性に気づけなかった自分のうかつさを呪う。
一つ大きくため息をついて。葉山はクラス委員の名前を呼ぶと、LHRを始めるよう要請した。
***
班分けはつつがなく終わり、八幡は男女のトップカーストにまじって京都での四日間を過ごすことになった。
一日目はクラス全体で、二日目は各班で、三日目は完全に自由行動となる。つまり二日間さえ我慢すればお役御免だと、三日目は鴨川べりでぼーっと過ごすのもいいなと、そんな空想にふけっていると。
「じゃあ二日目の予定はあたしたちで考えとくけど、希望があったら早めに言ってね」
由比ヶ浜が早めの解散を促すような物言いなのはめずらしいなと、そこまで考えて。八幡は先程の惨劇を思い出してしまった。今日はさっさと葉山と距離を取ったほうが良いだろう。
「ま、その辺は任せるわ。んじゃお先に」
そう言って席を立つと、あの戸部ですらも「うぃーっす」と言いながら片手を挙げる程度で、気安く話しかけては来ない。腐女子のネタの中にしっかり入っていたのを気にしているのだろう。
お互い行動に困るよなと、内心で戸部に話しかけながら苦笑いして。八幡は一同に背中を向けた。
窓際から教室の出口に向かう途中で、男子四人組に一声かける。
「あー、えっと、班を替わってくれて助かった……のかね俺。よけいな災難を呼び込んだ気もするんだが、まあ、気を遣わせてすまんかった」
「困った時はお互いさまって感じでさ。隼人くんほどじゃないけど、俺らもヒキタニくんが頼りになるって知ってるから、何かあったら頼むわー」
「なんといっても、はやはちは至高だからな」
「おい、お前ら……」
クラスの他の連中に、何より当事者に勘ぐられないように、八幡は由比ヶ浜との会話ででっち上げた理由を踏襲したのだが。
こいつら、戸部をからかう時もこんなノリなんだろうなと思いながら。言葉ではなく眼で伝えられたものを、大岡と大和から託された気持ちを、八幡はこっそりと受け取った。
***
急ぐ理由もなかったので、八幡は自販機でエネルギーを補給してからのそのそと部室に向かった。旅先で発作とか起こされたら困るよなと、すっかり戸部の依頼を忘れて腐女子対策にかまけていると。
「ヒッキー、そこで待ってて」
「ん?」
聞き慣れた声に従って立ち止まった八幡がゆっくりと振り返ると、廊下の先には由比ヶ浜と並んでもう一人、女子生徒の姿が目についた。
特に急ぐでもなく、ぽつぽつと話しながら近づいてくる二人を、首をひねりながら眺める。
「じゃあ、一緒に行こっか」
上機嫌でそんなことを告げられて、口元を緩めながらも。八幡は気恥ずかしい気持ちが先に立って、由比ヶ浜の向こうにいる川崎沙希の顔をまともに見られなかった。
考えてみれば、こんなに近くで接するのは文化祭が終わってからは初めてだ。さっきのLHRでは八幡とはちょうど対角線の位置で、何やら不機嫌そうに外を眺めていたのであまり意識せずに済んだけれども。
文化祭の二日目に自分の口から出た言葉を思い出しそうになるたびに、意識の中でそれを黒塗りする作業を何度かこなして。八幡は部室までの道のりを何とか乗りきった。
「川崎さんとは、なんだかずいぶん久しぶりな気がするわね。塾のほうは……」
そんなふうに雪ノ下雪乃が雑談を持ちかけている姿を、二人の部員はなごやかに眺めていた。付き合いが浅い相手に対しては、今でもつっけんどんではあるものの。仲を深めた相手に対してはこんな感じだ。
二人がこの部室で初めて相まみえた時とは雲泥の差だなと、そんなことを考えていると。
「あのね、旅行に行く前にサキサキともうちょっと仲よくなっておきたいなって思って。せっかくだし部室に来てもらおうって思って連れてきたんだけど。別によかった、よね?」
由比ヶ浜が椅子ごとこちらに移動して、こしょっと話しかけて来た。
「いや、あのな。それは別に良いんだが、お前な。座った姿勢のまま椅子を両手で持って移動してくるって、まさかボンドでも塗られてたのか。その手の嫌がらせには俺も一家言あるからな。仕返しするなら良い方法を……」
動きに見惚れてしまったのをごまかそうと、軽口をたたいてみたら。心なしか由比ヶ浜の上半身を遠く感じる。これはいつものやつが来るなと身構えていると。
「なるほど、来るのが遅かったのはアリバイを確保するためだったのね。由比ヶ浜さん、そこの男はいったん退室させるから、その間にスカートを脱いで着替えれば良いわ。それにしても、犯行を自白するだなんて、エドガ谷くんにしてはお粗末だったわね」
ほら来た、と思いながら反射的に返事を口にする。
「ああ、うん。お前が昨日、何を読んだか分かったから、まあ落ち着け。デュパンのつもりなのか明智小五郎なのかは判別できないけどな。つーか、別に何も事件はないって分かってるだろ?」
「イメージとしてはモルグ街だったのだけれど。まあいいわ。由比ヶ浜さんが川崎さんを連れて来たのは、グループ四人のなかで一人だけ孤立しないようにという意図と、それから事情を説明しておくためよね?」
いつもの応酬ができて満足したのか、雪ノ下が一気に核心に触れた。
あっさりと見破られたことに笑みをいっそう深くして、由比ヶ浜が答える。
「だって、せっかく一緒の班だしさ。優美子と、こう、合わないだろうなってのは分かるんだけど、あたしも姫菜もサキサキともっと色んな話をしたいなって思って。昨日は姫菜と喋ってたんだよね?」
「まあ、二割ぐらいは変な勧誘だったけどさ。あんたたちの気持ちは、その、伝わってるからさ。あんまり気にしないでいいよ。で、事情って?」
そう問われて、由比ヶ浜と雪ノ下がかわるがわる説明している。
川崎がこちらに顔を向けないので、八幡も無理に口を挟むことなく二人に任せた。
「ふーん。そんなことになってたんだね。でもさ、海老名はたぶん、無理じゃないかな」
「ええ。だから戸部くんを鍛えつつ、告白よりも前に現実を突きつけられればベストだと思うのだけれど」
「あー、そういえば小町が言ってたんだがな。お前もけっこう告白されてたって聞いたんだが、なんか角が立たないような断り方ってないのかね?」
部長様がまたぞろ過激なことを口にし始めたので、八幡は妹からの情報を振ってみたのだが。
「ちょ、ヒッキーそれ聞く?」
「昨日の今日でその発言は、さすがにどうかと思うのだけれど」
「……はあ。いいよ、由比ヶ浜、雪ノ下。あたしは見知らぬ相手に告白されるのが嫌だったからさ。空手の型を披露する直前みたいな心境でね。心を落ち着けて、でもすぐに動けるように身構えるっていうかさ。そんな感じで備えてたら、無遠慮に呼び出されるのは目に見えて減ったよ」
こちらをいっさい見ることなく、雪ノ下と由比ヶ浜に交互に顔を向けながら話す川崎に、ほーんと頷きながら。八幡は思考を進める。
あらかじめ備えるか斬って捨てるかの違いはあれども、怖さをにじませるという意味では雪ノ下と同型だろう。だが、それをするためには。
「海老名さんに話を通して、告白の隙を作らせないってわけにはいかないよな?」
「あたしは、どっちかって言われたら姫菜の味方だけどさ。とべっちの気持ちを勝手に伝えるのは、ちょっとね」
「とはいえ海老名さんなら、ある程度は察しているのではないかしら?」
「今日のあの反応を見てると、海老名もストレスがたまってるのかもね。あたしの印象だから、本当のところは分かんないけどさ」
川崎の発言に首を傾げる雪ノ下に、由比ヶ浜がクラスでの一幕を伝える。
言われるまでは気づかなかったが、たしかにあれはストレスからの過剰反応と見るべきかもしれないなと八幡も思う。
「姫菜のフォローもちゃんと考えておかないとだね。そんな感じで、旅行中も色々あるかもだけどさ。できればサキサキも一緒に」
「いや、それはダメだろ」
由比ヶ浜が協力を要請しようとしたのを耳にして、八幡は反射的にその言葉を遮った。
女子生徒三人の視線が集まる環境でも物怖じすることなく、落ち着いて理由を述べる。
「俺とか雪ノ下が動くのは、まあ奉仕部に依頼されたからって言い訳があるけどな。川崎まで巻き込んだら海老名さん包囲網みたいになるっつーか、なんつーか。できれば中立ぐらいの立場で止めておいたほうが良いと思うんだわ。ぶっちゃけ戸部の告白は成功率が低いし、なのに裏で海老名さんの味方を削っていくような動きをしてたら、お前らの関係にまで」
「うん、ありがとヒッキー。ごめんサキサキ、さっき言いかけたの、無しで。ゆきのんとヒッキーも巻き込んじゃってごめんだけど、そこは勘弁して欲しいな」
今度は由比ヶ浜が八幡にみなまで言わせず、自分で自分の発言の後始末をする。
そして、自分の責任を他人に負わせることに難色を示す生徒がもう一人。
「そもそも戸部くんの依頼を受けたのは私なのだから、そこまで由比ヶ浜さんが責任を引き受けることはないわ。それで、少し話を戻したいのだけれど。海老名さんに事情を伝えるのは無しと考えて良いのよね?」
「だね。その、とべっちに悪いってのもだしさ。あたしが姫菜に黙ってっていうのとおんなじで、ヒッキーもとべっちに黙って、バレたら怒られそうなことをしちゃうわけじゃん。そういうの、ヤだなって」
部員二人がお互いのことを思い遣っている姿に、思わず雪ノ下からほほえみがこぼれる。やはりこの二人はお似合いだなと、頭の片隅で引っかかる想いに気づかぬようにしている傍らでは。
胸の奥をちくっと刺す痛みを川崎は感じていた。
修学旅行の班が決まって、男子四人を含めた総勢八人で行き先をあれこれと話し合っていた時も。そしてこの部室に来てからも、川崎は八幡と視線を合わせられずにいた。
気を抜けばすぐにでも、文化祭の時に言われたセリフが頭の中で蘇る。
あれは単なる言葉の綾なのだからと、そう思おうとしても。見覚えのない相手に呼び出されて何度となく告げられた言葉とは、まるで違った響きを感じる。
思い出す回数に比例するかのように、その響きは特別なおもむきをたたえ始めた。もうあれから一月半、もうすぐ二ヶ月が経つというのに。鈍いにも程があると川崎は自嘲する。
それにしても。ようやく視線を向けられたと思ったら、聞かされたのは由比ヶ浜を案じる発言なのだから、やってられない。
そこに滑稽さを認めて、川崎は二人を眺める雪ノ下を視界に捉えて、ぷっと吹き出した。それに気づいてこちらを見る雪ノ下に、川崎は表情を変えずに顔を向けた。
きっと、上手く笑えている。川崎はそう思った。
「んじゃ、海老名さん以外の第三者が現実を突きつけるしかないかもな。前もって話を通すのは無理でも、海老名さんなら状況を把握して、アドリブで上手く処理してくれるんじゃね?」
「うーん、でもさ。ふつうに歩いてる時にはそんな話にならないし、かといって告白の現場に立ち入るのも違うんじゃないかって思うしさ。男子だけの時にとべっちを説得するのも、たぶん無理だよね?」
「あれだけ戸部が乗り気だとなぁ。葉山も告白を延期させたがってたけど、突っ走るやつって聞く耳を持たないからな」
そんなふうに相談を続けている二人に向けて、川崎が口を開く。
「じゃあ、あたしは協力しないけどさ。第三者としてあんたらに言っておきたいのは、優先順位を間違えないようにってことだね。当事者とか状況とか、色んなものに配慮してたら何もできなくなっちゃうしさ。まあ、特に
八幡をなるべく見ないように、あごでしゃくるようにして言及を済ませた川崎がそう言い終えると。
「見極めた後の行動に迷いがないのが、
「で、でもさ。
「あー、まあ、いちおう考慮しとく」
言質を与えないように、八幡はごまかしの返事を口にした。
今までのやり取りで明らかになったように、同じ奉仕部の一員でも三人はそれぞれ立場が違う。由比ヶ浜が一番大変な立ち位置なのは確実だ。俺も同じクラスである上に戸部とはそれなりの付き合いがあるし、大和と大岡からも気持ちを託されている。雪ノ下はクラスは別だが、依頼を受けた自負もあるだろう。
やはり、見極めるべき時と場合を、見逃すわけにはいかない。
川崎は良いことを言ってくれたなと考えつつも、それでも注意しておくべきことを思い出した八幡は。
「そういや小町が言ってたけどな。お前、大志に頼まれて小町に時々『お姉ちゃん』呼びさせてるんだって?」
「あんた、何言ってんだい。小町が勝手にそう呼んでるだけで、大志とは関係ないからさ。訂正してくんない?」
先程までは目も合わせられなかったのに、妹と弟が理由なら睨み合いも辞さない両者だった。
ぼそっと、二人には聞こえないぐらいの小さな声が漏れる。
「小町ちゃん、サキサキに名前呼び捨てにさせてるんだ……」
そして、この状況をどう収拾したものかと頭を悩ませる雪ノ下だった。
***
川崎には何とか円満にお帰り頂いて、三人はお茶を淹れなおして寛いでいた。
「そういえば、さっきお前がネタにしてたけど。漫画、読んだんだな」
「エドガーとアラン、そしてポーの一族ね。少女漫画の四作には、ひととおり目を通したのだけれど。たしかに名作ぞろいだったわ。由比ヶ浜さんは、昨日は読む時間がないと言っていたけれど。古代史の知識があるほうが楽しめると思うので、日出処は私か海老名さんがいる時に一緒に読むのが良いと思うわ」
その言葉に「うん」と嬉しそうに頷いている由比ヶ浜をちらりと見て。今まで読書は一人でするものだと思い込んでいた八幡は考えを改める。
由比ヶ浜が机に座って本を広げている背後で、雪ノ下と並んであれこれと教えている自分を想像してしまい。これだと由比ヶ浜に嫌がられそうだなと、苦笑しながら口を開いた。
「あれ読んでると、続けて梅原さんの本とか引っ張り出したくなるもんな。そういや、あとの三作は?」
「少女漫画らしい、といえば語弊があると思うのだけれど。むしろ、いわゆる『少女漫画』の原型を作ったと、そう解釈すべきなのかもしれないわね。どれも内容が濃密で面白かったのだけれど……」
そのまま雪ノ下が長口上を続けている。未読の由比ヶ浜に配慮してはいるものの、作品を堪能してくれたのがよく分かる物言いだった。
自分が好きな作品について、こうして語ってもらえるのは嬉しいもんだなと思いながら。八幡は飽きることなく雪ノ下の感想を聞き続けている。
そして由比ヶ浜も、雪ノ下が面白いと感じたその気持ちに触れられるのが嬉しくて。やはり飽きることなく耳を傾けている。
「それはそうと、一つ気になっていたのだけれど」
だから雪ノ下がそう口にした時に、二人はそろって首を傾げてしまった。
雪ノ下の意図を予測することも身構えることもなく、説明を待っていると。
「比企谷くんは昨日『ポーよりもトーマを推す』と言っていたじゃない。その理由を考えていたのだけれど。読んでいて、ここのセリフが引っかかったのよ。文庫版の168ページなのだけれど」
雪ノ下はそう言いながら作品を広げると、該当の箇所を読み上げた。
『はためには、たいそうよくやってるように見えるだろう。その実、なかがからっぽなんて……見ぬいたの、きみぐらいなもんさね』
そして続けて、こう質問の言葉を口にする。
「貴方はこの場面で、誰を思い浮かべるのかしら?」
実のところ、雪ノ下は軽い気持ちで問いかけたに過ぎない。
けれども問われた八幡は、瞬間的に一人の姿を思い浮かべてしまった。
彼女に告げられた言葉が脳裏に蘇る。
『ずっと、葉山先輩のことが分かんないな〜って思ってたんですよ。何でもそつなくこなして、感情を乱すようなこともなくて。でもよく見ると、誰とも一定以上の距離を保っていて。もしかしたら、中身のない人なのかなって、そんな事を思ったりもして』
葉山の中身が空っぽなのか否かは、八幡には判らないし特に興味もない。けれど、もしもそうだったとして。それを見抜けるあの後輩の洞察力が、八幡には恐ろしかった。いや、違う。それを恐ろしいと思わせないことが恐ろしいと、あの時に八幡は思ったのだった。
「まあ、あいつじゃね。本当に中が空っぽなのかは判らんけど、お前みたいに付き合いが長いわけじゃないからな」
「私も、お互いに関与しない時間が長かったから。今となっては貴方とさほど変わらないと思うわ。でも、意外ね。貴方なら、見ぬいた側に興味を示すのではないかと思っていたのだけれど」
「いや、そう言われてもあれだぞ。そんな簡単に他人の内面を見ぬけるような奴が、そこらへんにいるわけないだろ?」
そう反論してはみたものの。言いながら反例がわんさと浮かんできて、八幡は空想の手で頭を抱えた。
「少なくとも、私と貴方と由比ヶ浜さんと。海老名さんと、それから三浦さんも見ぬくときはあっさり見ぬくと思うわ。それと葉山くんも、見ぬく側にも立てるでしょうね」
「まあ、そうだな。さっき反論しておいてすぐに撤回するのも情けねーけど、俺もそう思うわ」
「えっと、ゆきのんの言いたいことがよくわかんないんだけど。向き不向きって言うのかな、優美子が得意な相手と、あたしが得意な相手は違うと思うんだけど?」
一定の間隔で首を左右にゆっくりと動かしながら、ぽかんとした顔で由比ヶ浜が会話に加わった。
対照的に首を縦に一つ動かして。鋭いまなざしを軽く緩めて、雪ノ下が話を続ける。
「城廻先輩も洞察力には長けていると思うのだけれど。あの人は短所よりも長所を見ようとするから、他人の空虚さには気づきにくい気がするわね。たしかに由比ヶ浜さんが言う通り、見ぬけると言っても相性があるのよね」
「それも何となく分かるけどな。結局お前は何が言いたいんだ?」
そう問われた雪ノ下は、今度ははっきりと微笑んで。そのまま口を開く。
「すこし、奉仕部のことを考えていたのよ。もしも他に部員を入れるとすれば、由比ヶ浜さんや比企谷くんのように、この手のことを見ぬける人じゃないと難しい気がするのよね。それで」
「ゆきのん!」
「それって、会長選挙がらみの話か?」
由比ヶ浜が思わず言葉を遮り、八幡がストレートに指摘する。
ふるふると首を横に振って、雪ノ下は表情を変えずにそれに答える。
「その話は、立候補の締め切りが過ぎてからのお楽しみだと言ったでしょう。でも、言い方が悪かったわね。もしも四人目の部員を入れるとすれば、という話よ」
「もう。ゆきのん、ビックリさせないでよ」
止めていた息を吐き出している八幡をちらりと確認して。言葉とは裏腹に再び険しい表情になって、雪ノ下が話を続ける。
「実現の可能性は低いのだけれど。もしも部員を補充できるなら、一色さんが良いのではないかと思ったのよ」
「いっ、げほっ。一色が奉仕部とか、なんか逆じゃね。奉仕される側が合ってる気がするんだが?」
「うーん、言われてみたらいろはちゃんって、奉仕部でもやって行けそうだよね。サッカー部のマネージャーがあるから無理だと思うけどさ。さっきの中身を見ぬくって話も、いろはちゃんならできそうだし」
部員二人の反応を確認して、ようやく雪ノ下の顔から険が取れた。咳き込んでいる八幡を楽しそうに眺めて、そのまま言葉を継ぐ。
「昨日、生徒会役員に一色さんが加わったら、という話をしたでしょう。あれから少し考えたのだけれど。生徒会に取られるくらいなら奉仕部で強奪……奉仕部に迎え入れるほうが、よほど学校のためになると思ったのよ」
「まあ今さらだけど、ちょっと言い方な。どっちにしろ、サッカー部に葉山がいる以上は他には行かないんじゃね?」
八幡が常識的な反応を返したものの、今度は由比ヶ浜が身を乗り出してきた。
「でもさ、こういうもしもって、考えてみると面白いね。もしさ、いろはちゃんがあたしたちと同い年でさ。あ、でも隼人くんがいたらダメか。でも優美子と衝突する理由がなかったら、同じグループになってたかもなって。ゆきのんも国際教養科じゃなかったら絶対に同じグループになりたいけど、今みたいに奉仕部で集まれてるし……あれ、ちょっと頭が痛くなって来たかも?」
仮定に仮定を重ねて考察していた由比ヶ浜の頭から、ぶすぶすと煙が出ているような錯覚に陥った。とはいえ部室内の雰囲気がふだんどおりに戻ったことに安堵していた八幡は、大して気に留めなかった。きっとお優しい部長様が介抱してくれるだろう。
「何だか変な話になってしまったわね。由比ヶ浜さん、今の話で作品にマイナスのイメージを持たれると申し訳ないので、もう一つ面白かった部分を引用しようと思うのだけれど。作中の人物がヘルマン・ヘッセをこう論じているわ」
手で優しく由比ヶ浜の髪を梳きながら。雪ノ下はそう言って作品を開き、該当箇所を読み上げる。
『詩人になりたい。さもなくば生きていたくないとヘッセはいったが、小説家として名をなして、しつこく八十五歳まで生きた』
そこで言葉を切ってぱたんと漫画を閉じると、いたずらっぽい口調で話を続ける。
「何だか、どこかの誰かさんが書きそうな文章だと思わないかしら?」
「あ、それ思った!」
二人そろってじろっとした眼を向けられた八幡は、明後日の方向を向くことで応える。
「比企谷くんや材木座くんの病気は、古今東西万国共通ということなのかしら?」
「中二って、海外にもいたんだねー」
「お前らな……。まあ、あれだ。要は俺が世界基準だってことだよな」
その言葉に対して雪ノ下と由比ヶ浜から続けざまにツッコミが入り、部室は和気藹々とした雰囲気に包まれる。
そして、それが落ち着いた頃に由比ヶ浜が。
「あ、忘れてた。あのさ、修学旅行の三日目って自由行動じゃん。ゆきのんはJ組の人たちと一緒にどっか行くの?」
「いえ。せっかく京都に行くのだし、一人でゆっくり回ろうかと思っていたのだけれど」
「やっぱ京都は一人旅だよな。俺も池田屋跡とか一乗寺下り松とか、色々と捨てがたくて迷ってるんだよなぁ」
「え、ちょ、ヒッキーって一人で回るつもり?」
「いや、だってな。どんな理由でここを見たいとか、説明するの面倒だぞ」
そう言いつつも、怒られるか呆れられるかの二択だろうなと予測していると、意外にも見慣れた反応が返ってきた。眼をきらーんと輝かせて、天然のあざと可愛さを周囲にまき散らす妹のような反応が。
「ヒッキーの理由って、だいたいは歴史関連だよね。じゃあさ、ゆきのんなら説明しなくても通じるよね?」
「はあ……仕方ないわね。由比ヶ浜さんへの説明は私が引き受けるわ」
「なあ、それって……」
「さいちゃんとかサキサキがどうなるかだけどさ。どっちにしても、三日目は一緒に回ろうね!」
首尾よく二人ともを巻き込んで、由比ヶ浜は満面の笑みを浮かべている。
それに不承不承ながら頷くそぶりを見せつつも。雪ノ下も八幡も、由比ヶ浜と同じ表情を浮かべていた。
次回は一週間後に更新する予定です。
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追記。
誤字を一つ修正しました。(8/16)
細かな表現を修正しました。(9/1,12/17)