今日も今日とて授業が終わり、比企谷八幡はいつもの通りにそそくさと教室を出る。それを横目で眺める由比ヶ浜結衣は、一人で先に部活に行く八幡に少しご不満のご様子だが、今日は親友二人を部室に伴わなくてはならない。今日は仕方がないかと瞬時に気持ちを切り替えて、彼女はお喋りの輪に戻った。
結衣が八幡と一緒に部活に行こうと思うのは、何も特別な恋情があるからではない。そうした気持ちに到達するには、未だ彼女は彼の事を知らなすぎた。だが、彼に対して好意があるのも確かである。そして彼女にとって、目的地が同じなのに別々に行動するという選択肢は考えの埒外であった。彼女の自己判断としてはそんな感じなのだが、彼女を眺める親友二人はそうは受け取らなかったようだ。
「何だか不満そうだけど、何なら結衣だけ先に行ってくれても良いよ?」
「あーし達は先生に見学の許可をもらってから追い掛けるし」
「そ、そんなに気を遣わなくてもいいってば!」
既に昨日の夜に簡単な事情は説明し終えている。入学式の日に結衣の飼い犬を助けたのが彼だと聞いて二人の少女は意外そうな表情を浮かべていたが、それは彼の事をクラスで孤立している男子生徒だという程度にしか知らないからだろう。実は海老名姫菜が彼の受けとしての素質に目を付けているなど、結衣には分かるはずもない事であった。
それに彼女らとしては、二年に進級して以来の謎が解けてスッキリした気持ちでもあった。なぜ結衣が時おり沈んだ表情を浮かべながら思い悩んでいたのか。なぜ結衣が特定の男子生徒を、しかも客観的に言って魅力的とは思えない彼の事を頻繁に目で追っていたのか。それらの理由が判明したからである。
さらに言えば、三浦優美子にとっては結衣に反撃する材料を得られたという意味もあった。ここ数日は二人にからかわれる事が多く、女王気質の彼女としては遺憾に思っていたところである。姫菜の発言に便乗して、彼女には珍しくわざとらしい口調で結衣をからかう事は、ここ最近の借りを返す意味もあり、そして照れて可愛らしい仕草をする結衣という眼福も得られる。優美子としては実行しない理由がないのである。
「じゃあ、そろそろ職員室経由で行きますか」
まだ少し照れている結衣と、そんな彼女を暖かく眺める優美子を促すように、姫菜が号令をかける。首尾よく職員室で許可を取って、三人娘は揃って特別棟へと歩みを進めるのであった。
***
少しだけ時は遡る。それは、その日の昼休みの事だった。教室で独り昼食を終え、適当な場所で次作の構想を練ろうと立ち上がった
教師の用件は単純なものだった。他人と接しようとしない彼に対し、以前から「何かあれば力になるぞ」と言ってくれていた女教師。彼女が、この世界では授業が終わるやいなや独り自室にこもって翌朝まで出て来ない彼の事を心配して、声を掛けてくれたのである。
彼は物心がついた頃からシャイな性格だった。一方で、彼の体格はがっちりしており太りやすい体質でもあった。そうした内外のアンバランスは幼い頃にはあまり問題にならなかったが、小学生になり同級生と過ごす時間が長くなるにつれて、彼の毎日を過ごしにくいものにさせていった。
同級生の女子生徒はもちろん、男子生徒が相手でもうまく喋れない彼は、クラス替えのたびに何とか状況を改善しようと頑張るものの、生来の気質は簡単に解消できるものではない。体が大きく威圧感のある彼が実は同級生との会話を苦手にしている。ならばみんなで彼をクラスの一員として迎えてあげなければ。そんな道徳の模範解答の様な事を言っていたのは低学年までだった。
10歳という区切りの年齢が見えて来る頃、彼は同じクラスの数人の男子生徒から雑な扱いを受ける様になった。いわゆる虐めである。だが、虐めの内容はさほど過激なものではなく、彼らの関係が歪とはいえ関係を結べなかった低学年の頃よりは今の方が良いのかもしれない。当時の担任とて色々と考えた末の結論だったのだが、大人のそうした考え方は子供達に即座に伝播するものである。彼のクラス内での扱いはこの時に定まって、それは小学校を卒業するまで変わらなかった。
彼にとってある意味で救いとなったのは、そんな関係にあった同級生からアニメのキャラクターの物真似を命じられた時の出来事だった。そのグループの中に他人の声を真似るのが得意な少年がいて、それで全員が順に物真似をしてみようという話になったのだ。
彼の物真似は、お世辞にも巧いと言えるものではなかった。だが彼は、そのキャラクターになりきっている時には、途中でつっかえる事もなく普通に言葉を喋れている自分に気付く。家に帰って他のキャラクターの口調で喋ってみても、結果は同じだった。
おそらく、キャラの口調を真似なければと普段より頭を使っている為に、いつもなら口を開きながら考えている「どもったらどうしよう」「また笑われるのかな」といった余計な事を考える余裕がなくなった事が、物事を良い方向に導いたのだろう。
彼にはそうした機序は分からなかったが、色んなキャラの口調を使い分ける事で、彼の小学校生活は以前よりは過ごし易いものになった。同級生にいじられる立場なのは相変わらずだが、行為がエスカレートする前に適当なアニメキャラの喋り方で泣きを入れると、大抵の事は笑って終わりになった。こうした紆余曲折を経て、彼の小学生時代は終わりを告げたのである。
中学に入ると、思春期に差し掛かった少年たちが順に中二病を発症した事で、彼の口調はさほど目立たなくなった。体の存在感は健在だったが、それと話し方とのギャップを笑われる事も少なくなり、そして彼はゆっくりと孤立していった。
小学生の頃から、仲の良い友達を作るというよりは誰かのグループに居候させてもらっているという友人関係が主だった彼である。自ら交友関係を広げるという経験に乏しい彼は、発言を面白がられるという特徴が中二病の同級生が増えた事で埋没してしまった彼は、気付けば独りで過ごす事が多くなった。
彼は状況を打開すべく、より同級生に受けるキャラクターを演じようと考える。既存のキャラではなく彼にしか演じられない設定がいい。自分と同じ名前の歴史上の人物の事は以前から知っていたが、将軍にして剣豪というその属性が彼の心を掴んだ。我こそは、かの足利十三代将軍義輝の生まれ変わり、剣豪将軍義輝である!
しかし、彼の渾身の設定は、同級生に全く受けなかった。ちょうど高校受験が視野に入り出した時期だった事も影響したのだろう。馬鹿に付き合っていると自分まで落ちこぼれてしまうと、罵倒ではなく無視に近い扱いを受けるようになって、彼は独りで残りの中学生活を送った。
他にする事があるでもなし、彼は持て余した暇な時間を潰す為に予習復習をこなした。宿題をやらず教師に呼び出されたとして、どんな口調で話していいやら彼にはもはや分からなかった。ならば呼び出されない様にするしかない。こうした積み重ねが功を奏して、彼はこの辺りで一番の進学校である総武高校に入学できたのである。
高校生になっても彼の日常に変化はなかった。気晴らしに街中に出てゲームセンターに行く事を覚え、会えば簡単な会話をする程度の知己は得たが、話の内容はゲームの話題が殆どで後はノリと煽りによって成り立つ程度のものだった。
生意気な中学生にゲームで負けて見下されたり、そうした嫌な事も何度か経験したが、居ないものとして扱われる高校での毎日よりはマシだ。彼は次第にゲームにのめり込むようになり、そしてある日、ゲーム仲間との会話を通して創作活動に興味を持った。
考えてみれば、アニメキャラの口調を真似ていた小学生時代の自分は、ある意味では二次創作を行っていたようなものである。誰にも受けなかったが、中学時代に考えた自分の前世設定は、ある意味ではオリジナルの創作と言ってもいい。将来の進路を思い描く事ができずにいた彼だが、昔からやっていた創作という分野なら、自分に向いているのではないか。
そんな風に思ったものの、彼はそれを実行に移す事はなかった。毎日のようにゲームセンターに通い、浅い付き合いとはいえゲーム仲間との会話を楽しみ、家でもネット上で彼らとやり取りをする。彼の毎日は意外にも多忙なものになっていた。
ちょうどその頃、体育のペアを組まされた事がきっかけで、同級生の男子生徒と会えば簡単な話をするようになった。濁った目の同級生は彼と同様に周囲から孤立しており、そして何より彼の前世設定を聞いてもそれを根底から嗤うことはなかった。こちらを見下したり馬鹿にする様な事も言ってくるが、それでも最低限のラインは守っている様に感じられた。小学生の頃から虐められた経験を持つ彼にとって、その線引きはとても重要な事だったのだ。
二年に進級する際に、彼は唯一の友達と呼べそうな男とどうか同じクラスにしてくれと祈った。祈る対象は八幡大菩薩である。かの男の名を連想する武運の神は、彼の前世である足利将軍家も信奉していたほど霊験あらたかな武神である。願いが叶わぬはずはないと、新学期になるまで彼は信じて疑わなかった。
しかし、彼ら二人を引き離そうとする勢力は予想以上の力を備えていたのだろう。残念ながら同じクラスとなる事あたわず、さらにこの世界に閉じ込められた事で、彼はゲームセンターを介した友人関係をも失う事になった。
事件が起きた当夜、彼は部屋で独り考えた。我に残されたものは、もはや創作以外にないと。彼の敵勢力が恐るべき実力を備えている事が明らかになった以上、軽々しく唯一の友人に関与するのも問題かもしれない。
設定と現実が混同した彼の思考は危うさを秘めていたが、意外に真っ当な一面もあった。創作によって彼にどんな力が備わるのかは彼にしか解らない設定だが、何かをやり遂げて自分に自信を持たせる事は、事態打開の為の有効な手段である。
彼が教師に呼び出されたのは、ようやく彼が前夜に処女作を完成させ、一息ついたタイミングであった。
***
机を挟んで向かい合って座った生徒に向けて、教師は質問を投げかける。
「……材木座。言い触らすようなことはしないから出来れば教えて欲しいのだが、君は毎日授業が終わってから、どのように過ごしているのかね?」
「む。我の行動は、本来なれば誰にも打ち明けること叶わぬが、貴君の頼みとあらば断るわけにはいかぬな」
「……やはり、普通の話し方では喋りづらいか?」
「然り。我はこの口調でないと、たとえ短い内容であっても、言い淀まず語り終えることは出来ぬでござるよ」
「まぁ、それは仕方がないか。あと、貴君は男性に使う言葉だからな」
「モ、モハハハハ。これはしたり」
焦った様子の材木座と違って余裕のある表情を見せる平塚先生だが、仮に材木座が貴君を言い直して貴嬢などと言い出せば「どうして私は結婚できないんだろうなぁ……」と落ち込む展開になっていた事だろう。密かに彼の語彙の無さに感謝する国語教師であった。
少しだけ時間を置いて、彼女は視線で話を促す。
「うむ。我はここ数日、ひたすら創作活動をしておった。ジャンルとしてはライトノベルになると思うが、新人賞に応募するに値する内容だと自負して居る」
「なるほど。作品は完成したのか?」
「我が遠大なる創作世界のほんの一端ではあるが、第一巻として上梓できる内容は昨日までに書き終えた。続いて二巻に取り掛かるか、それとも新作に取り組むかで悩んで居る」
「ふむ。……時に、君は比企谷とは友人だったな?」
「貴奴とは、あの地獄のような時間を共に駆け抜けた仲よ」
単に、友達とペアになる事を強制される体育の時間の話である。が、平塚先生は何かの設定だと思ったのだろう。特に追求することもなく何か考え事をして、そしておもむろに口を開く。
「では材木座。君には今日の放課後、昨日書き終えた原稿を持って奉仕部に行って貰う。比企谷が所属している部活だ」
「なんと!貴奴め、いつの間に部活など?」
「つい先日の事だ。そこで比企谷を始め奉仕部の面々に原稿を読んで貰い、君に足りないところをアドバイスして貰うよう依頼したまえ」
「承知した。我が原稿が日の目を見る日がこんなに早く訪れようとは……。まさに八幡大菩薩のお導きによるものであろうな」
「私の話は以上だ。何かあれば気軽に相談したまえ」
「うむ。貴殿の協力に感謝する次第である」
「……貴殿も男性に向けて使う言葉だからな」
「げふぅっ!」
ぞんざいな扱いとは裏腹に、彼の様子がそれほど酷いものではない事に密かに胸をなで下ろす平塚先生であった。
***
教室で本日最後の授業を受けながら、材木座は頭を働かせる。八幡とは旧知の仲であるが、奉仕部とやらの他の部員とは全く接点がない。八幡が所属できているくらいだから女性は居ないとは思うが、男子生徒であっても知らぬ顔と会話をするのは彼には気の重いことであった。八幡以外は全て女性という状況など、彼にとっては想像力の範囲外である。
彼は、間もなく訪れる他者との遭遇に緊張感を募らせる。そして残念なことに、快晴で気温も高くなった今日という日にも、彼は律儀にコートを羽織って指ぬきグローブを装着していた。緊張と気温と装備品のお陰で汗を大量に流しながら授業を受ける彼に気付き、教師は保健室行きを提案する。一計を思い付き、彼は鞄を持って席を立ち教室を出るのであった。
彼の装備品は、実は購買で入手したものである。自分の分身とも言うべき装備品をこの世界でも身に着けたいと思うのは、彼にとって自然なことであった。その為に彼は購買のNPCを相手に、「こんな品は無いか」「無いです」「これならどうだ」「無いです」というやり取りを延々と繰り返した。そして遂に、購買で50回以上断られるという隠しコマンドを達成して、中二病ご用達のアイテムの数々を入手できる権利を得たのである。ゲームマスターが何を考えてこんな設定を用意したのか解らないが、現時点でこれを達成しているのは、もちろん彼一人であった。
愛用の装備品に身を包み、彼は教師に教えられた奉仕部の部室へと向かっていた。この時間であれば、部員が勢揃いして待ち受けているという事はあるまい。一対多の状況に挑むのは、我には難易度が高すぎる。だが教室内で待ち伏せして部室に来た順に各個撃破するのであれば、我にもまだ勝機はある。彼はそんな事を思い付いて、授業を早退したのであった。彼が何と戦うつもりなのか、彼が正気なのかは誰にも分からない。
教室の前に着いて、彼はおもむろにドアに手を伸ばす。そして気付く。ドアには鍵が掛かっていることを。予想外の展開に唖然とする彼であったが、鍵が無いのだから仕方がない。少し悩んだ末に、教室の前で仁王立ちして部員を待ち受けることにした材木座であった。
雪ノ下雪乃と比企谷八幡がその場を訪れるのは、そして少し遅れて三浦優美子率いる三人娘が合流するのは、それからたっぷり30分以上後の事であった。
今回は完全に材木座の回でした。
次回は週の半ばの更新になります。
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