俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回までのあらすじ。

 文化祭は閉会式に入り、奉仕部のバンドも無事に終わりました。詳しくは、前話のこの辺りから読んで頂けると嬉しいです。



20.かくして彼らの祭りは終わりを迎える。

 アンコールの演奏を聴き終えた観客たちの気怠さと喧噪に満ちた体育館で、葉山隼人は同級生の姿を探していた。彼女はきっとこの場に来ているはずだ。葉山はあの三人への信頼ゆえに、それを信じて疑わなかった。

 

 果たして、葉山の視界が彼女を捉えた。葉山が探していた相模南は体育館の入り口近くに、まるで目立つことを拒否しているかのような雰囲気で立っていた。

 

 少しだけ立ち止まって、周囲の注目を集めないようにと肩の力を抜く。できるだけ自然な流れで話しかけられるように。それからどう話を持って行くべきかと考える。そして葉山はゆっくりと相模に近付いて。

 

「相模さん、こんなところに居たんだね」

 

「え、なんで……戸塚くんがうちに話しかけて来るって……?」

 

 おそらく目的は同じなのだろう。もしかすると、彼から頼まれたのかもしれない。相模に向かって真っ直ぐに歩いてきた戸塚彩加の姿を認めて、葉山はその場で足を止めると静観することにした。

 

 戸塚はこちらに気付いているが、相模には知られていない。二人の会話を聞き取れるほど近くに居るので少し居心地が悪いが、戸塚の表情から察するに、話を聞かれても良いと考えているのだろう。あるいは、聞かれることを望んでいるのか。

 

 クラスの劇で共演したことで、戸塚とは長い時間をともに過ごした。だから葉山には戸塚の気持ちが何となく理解できたし、それは戸塚も同じだろう。戸塚の希望を汲んで、葉山は周囲から不審に思われない態度を取りながら、その場に居続けることにした。

 

「ぼくも、文化祭を成功させるために協力したいなって思って。相模さん、どうして自分はステージからこんなに遠いところに居るんだろ……って思ってるんでしょ?」

 

「え、なんで……戸塚くんがうちの気持ちを?」

 

 まるで壊れた機械のように、相模は同じような返事を口にするしかできない。けれどそのお陰で、相模は戸塚に違和感を抱かなかった。普段ならクラスの女子が戸塚を構って離さないので、戸塚が他人のために自ら動く姿は珍しい。せいぜい男子テニス部と、それから四月のテニス勝負を契機に仲良くなったという彼ぐらいのものだ。

 

「同じ気持ちを味わったから、かな。ぼくもね、遠くから見てるだけしかできなかった時が、何度もあったから」

 

「え、でもだって……戸塚くんの周りには勝手にみんな集まって来るし、誰かに言えば……でもうちは今、独りだし、さ」

 

「相模さんだって、クラスに友達がたくさん居るでしょ。でも、こんなことを言うのは良くないかもだけど……ぼくが動きたい時に、動けない理由になったりしてて」

 

「え、戸塚くんでもそうなの?」

 

「うん……。でもね、それってみんなが悪いわけじゃなくて。ぼくがちゃんと言わないからダメなんだなって、最近ちょっとずつ頑張ってるんだ」

 

「うち……うちも同じかも。うちがしたいことを、反対される気がして言わなかったりしてさ。うちの邪魔をされてるって、たまに思ったりして。でも、うちのために言ってくれてるのにって、自分が嫌になって。だから、言ってくれてる通りにしようって。それで、頑張ってグループを盛り上げようって。なのに、みんな結局、うちだけ独りにして……」

 

 戸塚には話術とか交渉の技術といったものは無い。そんなものが無くとも、勝手に女子生徒が集まって来て、勝手に戸塚の希望(と彼女らが考えていること)を実現してくれたから。むしろ周囲に群がる面々にとっては、戸塚が余計なことを言い出さないためにも、トークが未熟なままで居てくれたほうが都合が良かった。

 

 だから戸塚は、思っていることや自身の経験をそのまま話すことだけが自分に使える武器だと。千葉村で葉山と同じ気持ちを共有したとき以来、そう考えていた。

 

「そっか」

 

「うん……。でも、でもさ。うち、さっきちょっと分かったことがあって」

 

 しかし今回の文化祭を経験して、戸塚の意識はまた少し変わった。葉山とともに主役を演じた劇から着想を得て。受け身ではなく自分から動くことを、戸塚は以前にも増して意識するようになった。

 

 たとえ十万匹のキツネが居たところで、飼い慣らされていなければ区別が付かない。しかしその中から一匹を選んで友達になれば、自分にとって世界でただ一匹のキツネになってくれる。

 

 そう考えて、自分から動こうとして気付いたこと。女子生徒に囲まれて好き勝手に扱われることを、内心ではあまり良く思っていなかったはずなのに。ただ相手に話を向けるだけで、みんなが気軽に思っていることを語ってくれる。

 

 相手の行動は同じでも、自分がそれを引き出す形にするだけで、ずいぶんと印象が変わった。それに、こうまで警戒心を持たれず話してくれるというのは、もしかすると自分の武器にできるかもしれない。そして今日、現実世界からの闖入者が自分の言うことに素直に従ってくれたのを見て、戸塚はその発想に自信を持てるようになった。

 

「うん」

 

「うちさ、呼ばれ方にちょっと憧れみたいなのがあって。仲の良い子だけにこう呼ばれたい、みたいな。でもさ、自分で希望を言わないとダメなんだよね。それがさっき、こいつに『こう呼べ』って言って、その通りに呼ばれたら凄く変な感じで。なんでもっと早く、あの子たちにも言わなかったんだろうって。自分のグループで、なにを遠慮してたんだろうって」

 

 戸塚が視線を向けた先には、一年の男子生徒が立っていた。千葉村でゲームの司会をしてくれた彼ににっこりと頷いて、再び相模に顔を向ける。拙い受け答えでも相手が勝手に話してくれるのは良いが、あまり時間が無い。幸いと言って良いのか、ステージ上ではとある姉妹の会話が弾んでいるので助かっているが、それがいつまで続くとも限らない。

 

「じゃあさ。えっと、相模さんはね。あの奉仕部の三人には、何か言いたいこととか無いの?」

 

「うち……まず、雪ノ下さんにはさ、……」

 

「ううん。それをぼくが聞いても、ね。相模さんは実行委員長だから、言いたいことがあるなら、あそこで言えると思うんだ。でも、チャンスは今しか無いけど……どうする?」

 

 そう言って戸塚はステージの上を指差す。さすがに仲裁が入って、姉妹が引き離されている光景が目に入った。いつ舞台を降りても不思議では無い状況だ。

 

 戸塚が静かに頷いて、すぐ横の一年男子もそれに続く。戸塚の顔をまともに見られないほど照れていたのに、彼が相模に向ける表情は一言では言い表せない何かがあった。強いて言えば「積年の」という表現が似合いそうな顔をしている。

 

 そんな二人に背中を押されて。相模は、ステージに向かって走り出した。

 

 

「ごめんね。葉山くんの出番を奪っちゃったかも」

 

「いや、戸塚のほうが適任だったよ。それに正直に言うと、こういう役割にも少し飽きてきてたからさ」

 

「でもさ。あんな感じで、良かったのかな?」

 

「比企谷にも言ったんだけどさ。俺は、戸塚が役立たずだなんて思わない。現に、相模さんを動かしたのは戸塚だろ。自信を持てよ」

 

 すぐ横で同意している後輩男子に軽く頷いて、葉山はそう言葉を締め括った。かつて同じように「身動きできない状況」に陥った経験者として、それを打破して自らの長所を発揮し始めている戸塚を褒める言葉に嘘は無い。

 

 それに、他人のフォローに飽きてきているのも事実だった。もちろん求められる限りは役割を果たすつもりだが、誰かがそれを肩代わりしてくれるのなら、他のことに目を向けられる。戸塚と同様に、自分が持つ長所をじっくりと研くことができる。

 

「ぼく、何となくだけどさ。葉山くんが八幡の呼び方を使い分けてる理由が解ったかも」

 

「それが合ってるかはともかく、俺としては誰にも言わないで欲しいかな。あ、念のために。対立するつもりはないよ。当たり前だけどさ」

 

「うん、分かってる。たぶん仲介とかでしょ、考えてるのは。雪ノ下さんも八幡も、発想が凄すぎてぱっと言われてついて行けない時があるからね」

 

 戸塚にはお見通しか、と思いながら葉山は苦笑する。勿論「今のところは」という限定が付くのだが、そこまで言う必要は無いだろう。

 

 現時点では、俺にはその程度しかできない。確かにあの姉妹に苦言を呈したり、彼に注意を促したりはできる。だがそれは主ではなく従の役割でしかない。それでも追い掛けるためには、まずはその役割から始めて少しずつできることを広げていくしか無いのだ。

 

 葉山は水曜日に「相模さんも含めた全員で」と彼女に告げたことを思い出す。万が一相模が文化祭を台無しにするような失敗を引き起こした時には、相模を見捨てないよう彼女に要請したのは自分だ、という形にするつもりだった。だが、おそらくそうはならないだろうと思っていたし、だとすれば引き受けた責任の何と軽かったことだろう。こんな程度ではとても追いつけないと葉山は思う。

 

『選ばれた人間とは……自分がすぐれていると考える厚顔な人間ではなく……高度の要求を自分に課す人間であると……知っていながら知らないふりをしている』

 

 最近読んだ本の一節を葉山は思い出した。おそらく、最後の部分だ。彼女なら、高度の要求を自分に課すのは当然と考えるのだろう。彼なら、要求が高度なものではないと装うのだろう。けれど俺は、おそらく二人よりもよほど卑俗であるがゆえに。高度の要求に応えている姿を平然と晒すことができる。

 

 彼とも彼女とも、そして戸塚とも違う自分だけの長所を。それを意識しながら、葉山はスクリーンに目を向ける。息せき切ってステージの袖から登場した、相模の姿がそこにはあった。

 

 

***

 

 

『上手く行けば相模を、ステージに立たせる展開にできると思う』

 

『貴方にしては、ずいぶんと相模さんに肩入れするのね。普段なら、連れ戻した後は勝手にしろと、そう言いそうな気がするのだけれど?』

 

『まあ、相模だけならそうなんだが。今回は相模がってより、取り巻き連中が要らん情報をばらまいてくれたのが大きかったからな。相模が汚名を返上したら、見捨てたそいつらの株が下がるだろ。ざまあ見ろってな感じで、俺らしい姑息な案だと思わねーか?』

 

『姑息を陰湿とか卑劣という意味で使っている気がするのだけれど。ちゃんと辞書を引き谷くん?』

 

『……いや、お前がそう言うんなら間違ってるんだろうし後で確認しとくけどな。何なんだよその呼び方は?』

 

 ステージの袖に相模の姿を認めて、比企谷八幡は先程のPA室でのやり取りを思い出していた。それから、屋上で目撃した相模のへたれな姿を。

 

 おそらく走っている間は必死だったのだろう。だがここまで辿り着いて、さて自分は何をどうしたら良いのかと。そんなふうに混乱しているのだろうなと八幡は推測した。

 

「相模先輩、一緒に行きましょう」

 

 そんな相模を介護しながら、副委員長の藤沢沙和子がステージに上がった。相模の背中を手で押すようにして、雪ノ下雪乃に向かって歩いて行く。そして「まずは自己紹介ですね」と言われながら、藤沢にマイクを手渡された相模は。

 

「じ、実行委員長の相模です。あの、えっと……ごめんなさい!」

 

 まずはお礼の言葉を言おうと考えていたはずなのに、なぜか全力で頭を下げて謝っていた。言われた側も予想外だったが、言った本人もビックリである。

 

「そ、その。相模さんが謝ることはないと思うのだけれど?」

 

「だ、だってうち、委員長らしい仕事なんて全然できてないし、ヘマばっかして、うちより雪ノ下さんのほうがよっぽど仕事してるし、でもこんなに大勢が集まるなんて思ってもなかったし……。うちみたいな小心者が委員長なんて、働いてるより愚痴ってるほうが似合ってるのに、ゆいちゃんとか、いつも最後まで話を聞いてくれて、八つ当たりとかも絶対あったのに、すっごい笑顔で受け入れてくれて……。うちのせいで、厳しいことを言わせたりとか、悪者にさせたりとか、でもやり方がむかつくから、けどそれに反発して何とか過ごせてた部分もあって、でもうざいのはうざいし……」

 

 そして続いたのは、相模による奉仕部の三人評だった。もはや自分が何を喋っているのかも理解できていない相模は支離滅裂な、しかし心の中ではずっと思っていたことだけにそれなりに筋の通った言葉を口走っていた。いつしか女の子座りになってお尻をぺたんと床に着けて、まるで小さな子供のようだ。

 

 そんな相模のすぐそばに悠然と歩み寄った由比ヶ浜結衣が、藤沢から介抱役を引き継いだ。まだ藤沢には閉会の言葉を述べるという仕事が残っている。この事態を挨拶の中に組み込むためにも、由比ヶ浜は目だけで城廻めぐりに、更には雪ノ下陽乃に助けを求める。

 

 今のうちに原稿の修正を、という意図を受け取った三人が、目立たないようにステージ後方へと移動した。教師が手持ち無沙汰だが、総武高校は生徒の自主性を重視している。在校生と、そして卒業生の助けも得られるこの状況では教師がお呼びじゃないのも当然だと、当人も納得顔だった。

 

「ゆいちゃん、ごめんね。雪ノ下さんも、ごめんなさい。うちのせいで色々と迷惑をかけたのに、こんなに凄い文化祭にしてくれて、こんなに盛り上げてくれて。委員長なんてほんとに名前だけで、悔しいけどあいつが言った通り、雪ノ下さんがいないと何にもできなくて。うちも、山積みの書類とか、片付けるの頑張ったつもりだけどさ……みんな、三人とも凄いから。あ、だから、ごめんなさいじゃなくて、えっと……こんなに凄い文化祭にしてくれて、ありがとって。うち、今年の文化祭のこと、絶対に忘れないから。だから、ありがとうって、それだけ言いたくて、なのにうち、さっきからなに言ってんだろ?」

 

 しゃがみ込んだ由比ヶ浜に背中を撫でられながら、相模は何度となくつっかえながらも喋り続けていた。ステージ下の観客の存在を意識することも、現実世界に映像が送られているのを思い出すことも無く、ただ思いの丈を口にしていた。

 

 ドラムセット越しにその光景を眺めながら、これって確実に黒歴史になるよなあと八幡は思う。だが、茶化す気にはなれない。何となくドラムスティックをくるくると回しながら、八幡は己の予測が外れたことを受け入れていた。相模はせいぜい「ごめん、ありがとう」ぐらいしか言えないだろうし、雪ノ下がそれに応えて終わりだろうと思っていた。

 

 けれど、実際には。相模の告解を耳にした観客の間から、いつしか拍手が沸き起こっている。

 

 こんなのは茶番だと、感情をあらわにすれば何でも良いのかよと、そう言いたい気持ちもある。でも、相模の感情は八幡にも理解できるものだったから。現実を無視して自分を認めろとがなり立てるような、そんな類いのものではなかったから。

 

「ま、三人とも凄いってのは勘違いだけどな」

 

 そう小さく呟いて、八幡は立ち上がった。泣きべそをかく相模を両脇から抱えるようにして、雪ノ下と由比ヶ浜が退場しようとしている。適度な間隔を置いて由比ヶ浜が観客に手を振って応えているが、それが無くともスクリーンには、相模の背中を優しくぽんぽんと叩く雪ノ下の手の動きが映っている。きっとこのまま、上手い具合に幕引きができるだろう。

 

 できる限り存在感を希薄にして、八幡はステージを後にした。横並びになった女子生徒三人がそれに続く。助っ人の三人はいつの間にか退場していて、後には副委員長の藤沢だけが残された。

 

 もとより人見知りのする性格だけに、藤沢の挨拶は原稿をそのまま読む形だった。だがつい先程の件も含めて淡々と二日間を振り返るその挨拶は、素朴であるがゆえに聞く者の心を打った。二人の先輩による直前の添削も功を奏したのだろう。

 

 こうして暖かい拍手が鳴り響く中、今年の総武高校の文化祭は無事に終わりを迎えた。

 

 

***

 

 

 去年までは文化祭の後は、日曜と振替休日となる月曜が休みで、火曜の午前に各教室の撤去作業が行われていた。しかし今年は、現実世界と比べると片付けの手間が掛からないので、生徒たちはそのまま作業に移ることになっている。

 

 クラスに戻る生徒たちと別れて、文実の委員たちは体育館のステージ前に集合していた。先ほど観客を盛り上げた奉仕部の三人と何か一言でも話がしたいと、多くの委員が隙を窺っていたものの。渉外部門の一員として雪ノ下や八幡と最も長い時間をともに過ごした面々が、間に入ってそれを防いでくれていた。

 

「みんな、お待たせー。じゃあ相模さん、最後に一言よろしくねー」

 

 そして、相模を伴って城廻が姿を現した。背後には何人か教師の姿も見える。作業が終わった順で各自クラスに移動する予定なので、冒頭に挨拶をする形になったのだ。

 

「あ、えっと。……みなさん、お疲れ様でした。今年の文化祭は、最高でした。……ありがとうございました!」

 

 先程のステージ上での醜態を思い返して、半ばやけくそ気味に相模がそう締め括った。引き続いて藤沢が感謝の言葉を、最後に雪ノ下がねぎらいの言葉を口にすると、委員の間からこんな声が挙がった。

 

「振り返ってみると、今年の文実って良かったよな」

「このメンバーで打ち上げとか、したくなってきちゃったかも?」

「おー、それ良いかも。でも、クラスとか有志でも打ち上げがあるだろうし……」

「別に後日でも良いんじゃね?」

「だね。じゃあ委員長、今年の文実最後の仕事、お願いできるかな?」

「お願いします!」

 

 渉外部門の先輩と後輩に囲まれながら「え、それって俺も参加するの?」と面倒臭そうな表情を浮かべている八幡だったが。すぐ近くにいる同級生の笑顔を見て、俺もあいつも引っ張って行かれるのは確定かと、潔く諦めていた。それに加えて。

 

「やっぱり比企谷くんは、不真面目で最低だね?」

 

 後ろから城廻に小声でそう言われてしまうと、八幡に抵抗の余地は無かった。大人しく頭を下げて「謹んで参加させて頂きます」という意図を伝えると、うんうんと頷いてくれる。どうせ逃げられないのなら、せめてほんわかパワーで最大限癒やされようと、そんな現実逃避を行う八幡だった。

 

 盛り上がる生徒たちが落ち着くのを待って、体育教師が代表して言葉を述べる。ぶっきらぼうな口調ではあったが「俺が見てきた中で一番だった」と言われ、生徒たちも顔をほころばせていた。そして打ち上げでの再会を約して、今年の文実はひとまず解散となった。

 

 

***

 

 

 作業を終えた八幡が、由比ヶ浜と一緒に教室に戻ろうとしたところ。それを呼び止める声があった。平塚静は由比ヶ浜に軽く謝りを入れて、八幡を後ろに従えると空き教室へと移動する。かつて八幡が奉仕部と距離を置いていた時期に、寛げる場所が無いのは不便だろうと言ってあてがって貰った教室だ。懐かしい気分に浸りながら、八幡は教師の言葉を待った。

 

「さて、では文化祭の振り返りをしようか」

 

「その、雪ノ下と由比ヶ浜は参加しなくても良いんですかね?」

 

「ふむ。あの二人は、それぞれの問題点を認識できているみたいだからな」

 

「それって、俺が問題を認識できてないって意味ですよね?」

 

 その言葉に軽く頷いて、平塚はそのまま話を続ける。

 

「比企谷。最初に言っておくと、私の言うことが全て正しいとは限らない。だから、あくまでも一つの意見として聞きたまえ。その意見を聞いて、それをどう受け取るかは君次第だよ」

 

「はあ。まあ、それは解りましたけど……。問題点って何ですかね?」

 

「それを聞きたいのは私のほうなのだがね。今回の文化祭で君が取った行動のうち、一番問題だったのはどの行動だと思うかね?」

 

「一番だと……あれですかね。中学の同級生から逃げて職務放棄した時の」

 

「ふむ。では、その次は?」

 

「その次は……人の字の発言とかですか?」

 

「なるほど。おそらく雪ノ下も由比ヶ浜も、私と同じ意見だと思うのだが……ああ、それより先にもう一つ質問があるな。バンドはどうだったかね?」

 

「どうって……大成功って言って良いんじゃないですかね?」

 

「客観的な評価ではなく、君の感想を教えて欲しいものだな」

 

 真面目な表情の教師から質問が矢継ぎ早に飛んでくるが、だからといって重苦しい雰囲気には程遠い。八幡が答えやすいように配慮してくれているのが伝わって来る。だから八幡も一つ一つの質問にゆっくりと答えていたのだが、ここで平塚の表情が変わった。苦笑気味に問い直されて、八幡も言葉を選ぶ。

 

「なんか、言葉にし難いんですよ。それこそ最高とか、気持ち良かったとか、それはその通りだって思うんですけど、それだけでは片付けられないっていうか……」

 

「君のその気持ちは、私にも解るよ。三人でも六人でも、それは同じかね?」

 

「そう、ですね。ちょっと印象は違うんですけど、どっちも記憶に残ってるっていうか」

 

「そうか。なるほどな。まず人の字の話だが、私はあの程度の意見のぶつかり合いは全く問題ないと思っているよ。むしろ最近の生徒は大人しすぎる気がするし、拳で語り合うような関係性があった昔を懐かしく思うよ」

 

「まあ、そういう殴り合って和解みたいな展開は、古武士の間でやって下さいよ」

 

「ふっ。どうした比企谷、いつもの切れがないぞ。私を古物扱いしようとしても、なにせ私は君たちとバンドをした仲だからな。これは同世代と言っても良いはずだ!」

 

「いや、あの……たぶん授業中とかに『お静ちゃん』って連呼されると思うんですけど、気を強く持って下さいね」

 

 八幡の返しに平塚は「え、そうなの?」という表情になっている。だが空元気を振り絞った教師は、何とかそのまま話を続ける。

 

「ごほん。それと人の字の一件は、雪ノ下がフォローをしてくれただろう?」

 

「まあ、そうですね。じゃあ逃げた一件……だと、さっきのバンドの質問って何だったんですか?」

 

「そうだな。先に君が挙げた一件を済ませようか。君は逃げたと言うが、そんな気持ちは無かったのだろう?」

 

「ですね。むしろ言いたいことを言ってやったみたいな感じで。でも、職務放棄は事実ですし」

 

「そこもあまり問題では無いと私は思うよ。現に君は今日、色々と走り回って仕事をこなしていたはずだが?」

 

「まあ、そう言って貰えると、確かにそうなんですけど……じゃあ何が問題なんですかね?」

 

「ふっ。その一件は問題では無いと、私は思っているということだよ。由比ヶ浜が居合わせたらしいが……君が啖呵を切ったことに対しては、喜んでいる気がするよ」

 

「でも、責任を感じさせたのかもって、思うんですけど……」

 

 由比ヶ浜の心配をしている自分を照れ臭く感じて、少し歯切れの悪い言い方になった。だが平塚はそんな程度なら今更だとばかりに、まるで反応を示さず言葉を続ける。

 

「確かに由比ヶ浜はそう考えるだろうな。だが君が発端だったとしても、それは由比ヶ浜の問題だよ。それに、この程度で押し潰されるほど由比ヶ浜は弱くはないと、私は思っているのだが?」

 

「それはまあ、そうですね。でも、あの連中からネチネチ言われてたところに駆け付けてくれて、後の始末も任せる形になって、なのに責任を感じさせてるのが……なんていうか落ち着かないんですよ」

 

「君はそういうところは潔癖だからな。養われはしても施しは受けないと夏休みに言っていたのを思い出すよ。あの時に、誰しも限界はあるという話をしたはずだが?」

 

 あの時の対話を思い出して、更には先週の校内放送直前に「過保護」について考えていたことを思い出して、八幡は首を縦に振った。二人を信頼したいと思えばこそ、時には手出しをしないことが正解となる場面があるのだと。八幡はそう考えて、この問題を飲み込むことにした。

 

 

「でもじゃあ結局、問題って……?」

 

「できれば自分で気付いて欲しいのだが……今の君なら正面から言っても大丈夫そうだな。では、比企谷。君はアンコールの時に『二人をねぎらうため』と言っていたな。どうしてそこに、自分を含めないのかね?」

 

「え、だって俺は二人と比べて……」

 

「君は今回の文化祭に対して、二人にも劣らぬ貢献をしていると私は思うよ。他には?」

 

「いや、えっと、自分もねぎらって欲しいって言うのは、なんか違うんじゃないかって」

 

「うむ。その気持ちは私にも理解はできるよ。ただ、二人がどう思うかを考えてみたまえ。二人はきっと、君にも報われて欲しいと思っているはずだよ。違うかね?」

 

「それは……そうかもしれませんけど」

 

 教師からお叱りを受けている状態なのに。二人がそう思っているのかもと考えただけで、何やら顔が熱くなってきた気がする。ああ、そういえばあの時も。アンコールで登場した三人が全員、俺を数に入れて話してくれたのを聞いた時も。同じ気持ちだった気がするなと八幡は思った。

 

「比企谷。由比ヶ浜がアンコールで、君を何と言って紹介したか。まさか覚えていないとは言うまいな。なにせ『お静ちゃん』を覚えているぐらいだからな」

 

『最後ドラムス、それからあたしたちに内緒でアンコール企画をこっそり企んでた……ヒッキー!』

 

 言われるまでもなく、忘れられるわけがない。あの時に八幡は演奏をしながら、嬉し涙をこらえるのに必死だったのだから。でもまさか、先程の軽口をこんな形で返されるとは思わなかった。楽しそうに勝ち誇りながらも、生徒をよく見てくれているのが伝わって来る。やっぱり、この先生には敵わないなと八幡は思う。

 

「まあ、なんつーかお手上げですね。でも俺の性格的に、自分をねぎらえって言うのはやっぱり……」

 

「比企谷、そこは諦めることだよ。確かに最初から『自分をねぎらえ』と言うのは違うかもしれないな。だが照れ隠しのためとはいえ、君は最後まで二人のためだという姿勢を崩さなかっただろう。ねぎらいの言葉を掛けられた時には、観念して受け入れることだよ。もちろん、仕事をせずにそれを求めるのは問題だがね。君なら、言わんとする意味が解るだろう?」

 

 相模という反面教師のことを連想しながら八幡は頷きを返した。だが客観的に見れば、自分と相模とは両極端なだけで。碌に仕事もしないで評価だけを求めていた相模と、仕事をしていながら評価やねぎらいを拒絶していた自分と。どちらの場合でも、同じ仕事をしている()()からすれば、不満を抱いても仕方が無い。八幡はようやくそれを理解できた気がした。

 

「あとは、類似の問題だがね。君は今朝、自分は悪くないと知っていながら相模に謝っただろう。文実の会議の時の話だよ」

 

「あ、はい。あれも……そっか。雪ノ下が止めようとしてたのは、そういう意味だったってことですね。俺としては『こんな程度は問題ない』ってつもりで、でも雪ノ下は……」

 

「理由も無いのに君が悪く言われるのは、雪ノ下も由比ヶ浜も避けて欲しいと思っているはずだよ。それは私も同じ意見だな」

 

「あ、最初に言ってた『同じ意見』って、そういう意味だったんですね」

 

 納得したような表情を浮かべたものの、すぐに訝しげな顔に変わって八幡はそのまま話を続ける。

 

「えっと、ちょっと思い出したんですけど。由比ヶ浜の問題点って、さっきの責任を感じてるって話ですよね。でも雪ノ下の問題点って、俺には特に見当たらない気がするっていうか……強いて言えば、雪ノ下の今までのやり方とは違うっていうか、掲げていた理想とは少し違うなって思うんですけど。でも、それじゃないですよね?」

 

「ふむ……。雪ノ下が掲げていた理想とは何かね?」

 

「なんつーか、独りでも生きていける強さを求めてたっていうか……奉仕部の理念とかもそんな感じに思えるんですけど。えーと、どう言ったら良いのかな。あの、雪ノ下ができる仕事を他人に振るのは特に問題なかったと思うんですけど。昔はもっと自分にできないことにはムキになってた気がするというか。それが、あんまり頓着せずに仕事を振るようになって来たというか。その結果、俺の負担が酷いことになってたりして……」

 

 途中までは鋭いことを言っているなと思いながら聞いていたのに、最後で思わず吹き出してしまった。とはいえ、良い関係を築けているのは間違いない。そう考えながら平塚は口を開く。

 

「なかなか興味深い話だが、私にはそれが問題だとは思えないな。おそらく君もそうだろう?」

 

 八幡の頷きを受けて、そのまま話を続ける。

 

「雪ノ下の問題点は、家庭に関することだよ。君も何となくは予想できるだろうが、その詳細は私の口からは説明できないな」

 

 そう言われて、八幡は千葉村で雪ノ下の歌を聴いた帰り道のことを思い出した。あの時に気付いたこと。つまり、雪ノ下が母親の話題を一切口に出さないということを。

 

 もしかすると、深読みが過ぎるのかもしれない。単純に姉とのことだと理解しても、充分に問題になる気はする。けれども半年近くをともに過ごして来た経験から、雪ノ下は姉よりも母との間に問題を抱えているのではないかと八幡は思った。

 

「じゃあ、もしも問題が表面化したら本人から聞きますよ」

 

 そう返事をした八幡を、平塚は満足げに眺める。おそらく母親が怪しいという辺りまでは気付いているのだろう。それ以上は今は必要ないし、八幡がいま言った方針で特に問題は無いはずだ。そう考えた平塚は、そのまま少し考え事に耽る。

 

『雪ノ下の家のことは?』

 

 水曜日に陽乃と話し合いをした時に、最後から二番目に陽乃が確認したのがこの問いだった。最後に確認したのは発案者が雪ノ下ではなく八幡だったことだが、それは平塚にはおまけの質問に聞こえた。

 

 もしもあの時「お母さんのことは?」と聞かれていたら、どうなっていたかは分からない。だから雪ノ下は、姉に手加減をされたと考えているはずだ。あれは姉妹の問題を凝集したようなやり取りだったと、記憶を振り返りながら平塚は思う。

 

「では、お小言はこの辺にしておこうか。せっかくの楽しい一日に水を差してしまったかね?」

 

「いえ、その。これから打ち上げもあるみたいですし、これぐらいの反省があったほうが精神安定上いい気がしますね」

 

 生徒をよく見て、そして押し付けがましい形をできるだけ避けて忠告を与えてくれる。そんな教師に素直にお礼を言うのが気恥ずかしくて、八幡はそう答えた。もちろん、そんな取り繕いが役に立たないのは百も承知なのだが。

 

「君のそうした捻くれた部分は、私は嫌いではないよ。ただ、時と場合と相手を選ぶようにな。では、また打ち上げで会おう」

 

「……え、先生も参加するんですか?」

 

 最後の八幡の言葉が一番痛かったと、教師は数刻後に語っている。

 

 

***

 

 

 八幡が二年F組の教室に戻ると、既にホームルームが始まっていた。それでも普段なら同級生の意識に上らないまま席まで辿り着けるのだが。あのバンドの後では、いかに八幡がステルスヒッキーを発動させようとしたところで無駄だった。クラスの注目を集めているのが原因なのだろう。

 

 既に何度も会話をしたことのある面々は勿論のこと。今までは接点が無かった同級生も、何やらこちらの様子を窺っては慌てて視線を逸らしている。由比ヶ浜は普段からこんな環境で過ごしているのかと、頭が下がる思いがした八幡だった。

 

 程なく担任の話が終わって、教室の中は開放感に包まれる。その瞬間、八幡はここを先途と必死でステルスヒッキーを展開して、即座に教室の外へと逃げた。かつての戸塚との会話を思い出しながら、これぞ脱兎のごとし、などと胸を張る八幡。もちろんその間も、足は高速で動かしている。

 

 少しだけ冷静になって。もしかすると先程の文実と同じように、教室に居たままのほうが顔見知りの連中が守ってくれたかもしれないと八幡は思い至った。だが動いてしまったものは仕方がない。それに今日は打ち上げ先の会場で集合と言われているので、よもや俺が部室に居るとは思うまいと八幡は前向きに考える。

 

「あら。こんにちは」

 

 だから部室の扉を開いた時にそう声を掛けられて、八幡はビックリしてしまった。そして声の主に、不覚にも見惚れてしまう。一緒にバンドをした影響なのか、今までよりも遙かに近く、雪ノ下を感じてしまったから。

 

「なな、なんでお前がここに居んの?」

 

 八幡の反応に首を傾けて、きょとんとしている雪ノ下。今の俺に色んな表情を見せるのは止めろと、内心で八つ当たりをしながら。八幡はぎこちない足取りで部室に入った。

 

「部室の前でこの間、平塚先生と話した時に、貴方も一緒にいたでしょう。落ち着いて進路希望を書こうと思って、ここに来たのだけれど。比企谷くんは、どうして部室に?」

 

 そう言って、紙をひらひらさせて来る。そんな雪ノ下の仕草一つ一つが新鮮に思えて。これって吊り橋効果とかそんな感じなのかねと、八幡は余計なことを考えて何とか気を紛らわせようとする。

 

「置いてた荷物を取りに来たのと、あれだ。クラスの連中から話しかけられるのが怖くて逃げてきたんだわ」

 

「なるほど、だから挙動不審なのね。一学期の最初に戻ってしまったのかと思って……考えてみると、色んなことがあったわね」

 

「まあ、そうだな。お前らと……なんて言うんだろうな、この関係って。友達じゃ無いって言ってたことには同意するけど……やっぱ仲間、なのかね?」

 

「そうね。友達という言葉で片付けたくはないわね。だから……今までの部活仲間という関係に加えて、バンド仲間という関係にもなったと、そういう解釈で良いのではないかしら?」

 

「ほーん。なるほどな。確かにそう言われると嬉しいもんだな」

 

 ようやく八幡が冷静さを取り戻しつつあるのとは対照的に、雪ノ下が何やら照れ臭そうな気配を漂わせているのだが。残念ながら八幡には、そうした機微は読み取れない。それを瞬時に見抜けるのは、奉仕部では一人だけ。

 

「やっはろー。やっぱり二人とも、ここに来てたんだ!」

 

 元気よく扉を開けて、由比ヶ浜が部室に入ってきた。せっかく雪ノ下への免疫ができてきたかと思っていたのに、由比ヶ浜の表情や動きの一つ一つが眩しすぎて、八幡は再び挙動不審に陥っている。

 

「って、二人とも何かあったの?」

 

「いえ。今までは部活仲間だったのだけれど。今日はバンド仲間にもなったわね、という話をしていたのよ。その直後に由比ヶ浜さんが来てくれたものだから……」

 

「わあ。ゆきのん照れてる……って言いたいけど。そうストレートに言われたら、あたしもちょっと恥ずかしいっていうかさ。嬉しいんだけどね!」

 

「俺の羞恥心が限界だから、ちょっと自重して欲しいんだが」

 

「でもさ。ヒッキーもバンド、楽しかったよね?」

 

「ま、まあな。それは否定しないが……」

 

「うん。じゃあいいじゃん。あたしも、ゆきのんも、ヒッキーも、バンド仲間みんなが楽しかったってことでさ。でね、打ち上げなんだけどさ」

 

「話しかけられるのが怖いみたいで、比企谷くんが逃げたいと言っていたのだけれど?」

 

「えー。さっきの文実みたいに、知ってる子にガードしてもらうようにお願いするからさ。ヒッキーも行こうよー?」

 

「なんつーか、あれだな。これなら、校内一の嫌われ者とかになったほうがまだマシって気がするんだが……」

 

「え、そんなの嫌だ。ゆきのんもそう思うよね?」

 

「そうね。でも、比企谷くんの意図も、もう少し詳しく尋もn……確認したほうが良いと思うのだけれど?」

 

「なあ。お前いま絶対に『尋問』って言いかけたよな?」

 

「さあ。それよりも貴方は、仮に校内一の嫌われ者になったところで、『ごく少数の身近な人に理解されるならそれで良い』などと思うのでしょう?」

 

「え、ヒッキーの身近な人って、えっ?」

 

「由比ヶ浜さん。私たちは友達と言うには少し奇妙な関係かもしれないのだけれど。部活仲間でもあり、今やバンド仲間でもあるのよ?」

 

「あ、そういう意味……そっか、だね!」

 

「なあ。お前らもしかして共謀で、俺が恥ずか死ねるように企んでるわけじゃねーよな?」

 

「話を戻すと、由比ヶ浜さんの提案通りに、周囲を固めて貰う案で行きましょうか」

 

「ねえ。俺の言うこと聞いてる?」

 

「では、そろそろ移動しましょうか。打ち上げが楽しみなのか、大勢が一斉に移動したみたいで。校内に残っている生徒は少ないはずよ」

 

「うん、じゃあ三人で一緒に行こっ!」

 

 そんな由比ヶ浜の勢いに引っ張られるようにして、八幡は特別棟から昇降口へと移動した。靴を履き替えて外に出ると、たなびく雲の絶え間から夕日が差している。耳に聞こえて来る風の音は、秋の到来を感じさせる。

 

 そんな秋らしいうららかな日和の九月中日。比企谷八幡は、自分と雪ノ下の手を引っ張って元気に打ち上げ会場へと歩を進める由比ヶ浜に苦笑しながら、ゆっくりと高校の校舎を後にした。

 

 

原作六巻、了。

 




その1.本章について

 作品全体を大きく二つに分けようと試みた場合、後半は既に前章から始まっています。しかし同時に、本章まで持ち越していた未解決の要素が幾つかありました。本章ではそれらの諸要素を出し惜しみなく扱ったつもりですが、その観点からすると、本章は前半ラストに該当することになると思います。

 本章終了時点では、奉仕部の三人を始め多くのキャラに変化や成長の兆しが見えてきて、もはや原作と同じキャラだとは主張し辛くなって来た感があります。作者としては、原作と地続きのキャラだと受け取って頂けるように各人を書いて来たつもりですが、そこで満足するのではなく。彼らの年代に特有の悩みを抱えながら各キャラが生きていく様を、より分かり易くより鮮明にお伝えできるよう頑張りたいと思っています。

 そのほか本章の反省点を、謝辞の後に改行を挟んで書いておきます。そうした話を読みたくないという方は、改行前で引き返して下さいませ。


その2.参考書籍

 まずは以下の二冊を挙げさせて下さい(敬称略)。原作でも取り上げられていたこの作品を読み返す機会を得られて、更には作中でその内容に言及できたことに心からの感謝を。

・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「星の王子さま」 (池澤夏樹訳、集英社)
・“The Little Prince” (Mariner Books, Translated from the French by Richard Howard)

 さて、本章を書く際のテーマの一つが「モブを書くこと」でした。彼らの言動に説得力を持たせるために、二冊の古典作品を参考にしました。本章のモブたちがリアリティを持ち得ていたら、それはこれらの名高い名作のお陰です。

・ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 (桑名一博訳、白水社)
・ギュスターヴ・ル・ボン「群集心理」 (桜井成夫訳、講談社)

 八幡が12話で葉山が本話で言及した「選ばれた人間とは」の下りはオルテガ(p.64)、18話で八幡と雪ノ下が話題にした「賢者は」の下りもオルテガ(p.138)、19話の「理論より印象」という雪ノ下の方針はル・ボン(p.21)から引用しました。つまり雪ノ下は二冊とも、八幡と葉山はオルテガを読んでいます。

・西部邁「思想の英雄たち」 (角川)

 本章を更新中に西部の訃報を聞きました。私は西部個人の思想については正直よく解りません。しかし上記のオルテガやル・ボンを始め古典を読む際の手引きとして、西部の解釈は私にとって欠かせないものでした。本書の名を出すことで、故人へのお礼に代えさせて下さい。

・渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」 (中公)

 最近のSFは物語的な面白さに加えて理論的な説得力が凄いという印象ですが、本書は逆に理論的な説得力に加えて物語的な面白さもあるという印象でした。VRを扱ったラノベを読む際にも、本書の知識があると更に面白く読めそうな気がします。同時に、2巻幕間で参考にした書籍の内容が既に当たり前のものとして扱われていることに、この分野の凄まじい進歩ぶりを思い知らされました。なお、陽乃が15話で説明している内容は、本書p.137を参考にしました。

・金谷治「老子」 (講談社)、隅谷三喜男「日本の歴史22 大日本帝国の試煉」(中公)

 雪ノ下が14話で話題にした老子の解釈は金谷の。そして4話や10話で出た児玉や乃木についての説明、4巻8話における藤村操の話は隅谷の上記書籍を参考にしました。

 なお本項では書籍に限定しましたが、本作で取り上げた音楽作品については前話の後書きをご参照下さい。


その3.今後について

 原作6.5巻は簡単に終わらせる予定ですが、7巻をどの程度の密度で書くべきかを少し悩んでいます(マクロの流れは最終話まで確定しています)。何となくの印象としては、5巻ぐらいの書き方が一番受けが良さそうですが……。もう少し考えさせて下さい。

 この後はBTと幕間を挟んで6.5巻に入ります。更新は一週間後を予定しています。


その4.謝辞

 原作六巻も無事に書き終えることができました。何度も同じことを申し上げて恐縮ですが、読んで下さる皆様のお陰でここまで書き続けられています。お気に入りや評価や感想を下さった方々はもちろんのこと、ただ読んで頂けるだけでも格別の思いがします。

 そして原作最新巻との齟齬に悩んでいた頃にとある作品を薦めて頂いた方、描写と説明と会話のバランスに悩んでいた時に(4巻連載時の話ですが)相談に乗って頂いた方、メッセージで真剣な話からたわいもない話まで付き合って下さった方々に。その都度お礼を述べてきたつもりではありますが、この場でもう一度。心からの感謝を込めて、六巻の結びとさせて頂きます。


追記。
計算ミスと後書きの誤字を修正しました。(4/4)






その5.反省点

 まず一つは文章量の問題。それには二つの要素があり、一つは更新頻度が下がるのでせめてボリュームをと考えた構成上の問題です。時間の余裕が無いから頻度を下げたのに、書く内容を多くしたら無理が生じるのは当たり前なわけで。ただ、まとまった量を書けることの利点もあり、時間さえあれば一話数千字よりも数万字の方が書いていて楽しいのが正直なところです。

 文章量に関するもう一つの問題は、特に後半のことですが、予定の五割増しぐらいの文字数になってしまったこと。実はこれでもプロットを削りまくっているのが頭の痛いところで、二千字のプロットのうち採用したのが三百字だった時は乾いた笑いが出ました。以上の二点とも、現在進行形で悩んでいます。

 そしてもう一つ大きなことが、原作最新巻の存在でした。最新巻の陽乃はヘイトを貯める言動が多く(続巻での活躍を期待しています)、その印象を引き摺ったまま陽乃を悪目立ちさせたくないと考え、本作における陽乃の境遇を早急に確定させることにしました。

 その結果、特に6話の城廻の行動については、ミクロの視点で問題があったと考えています。あの場面だけは、マクロ的な要求(7話の舞台を整えること)を優先しました。3話までに城廻視点を一つ入れていれば良かったのですが、当初は二週目に登場する予定だった上に既に更新済みの話はどうにもならず。

 ただ、同じく修正要因だった「過保護」ネタを解決するために八幡のレベルを当初より上げたのですが。その影響で二週目は外部の手助けが不要になり、奉仕部の三人で話を進められる形になりました。つまり6話で無理を通したことが11話以降で報われたとも言えそうで、何とも不思議なものですね。

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