俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

106 / 170
今回も文字数多めですが、シリアスは少し抑えたつもりです。

以下、前回までのあらすじ。

 翌木曜日も由比ヶ浜は朝から忙しなく動いていた。緊急性はなさそうだと思いながらも、八幡はその姿を見て根源的な疑問を抱かずにはいられなかった。どうして雪ノ下と由比ヶ浜が、更には自分が、これほどまでに時間と労力を費やさなければならないのかと。いざという時に優先すべき事項を整理して、八幡はひとまず考察を終えた。

 今日の昼休みは雪ノ下の用事が山積みで、昼食後に戸塚と会って更には生徒会室で全校放送を行うらしい。そうした話の合間に雑談を堪能しながら、八幡は思う。雪ノ下の奇行を温かく見守ったり、由比ヶ浜と仕草だけで意図を伝え合ったり、ふと気付けば凄いことをしているなと。

 そんな気恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、八幡は二人の体調を気遣った後で、朝から悩んでいた問題を軽い調子で口に出した。だが雪ノ下はそれを真剣に受け止めて、部員二人から学んだことを言葉という形にして二人に返す。

 そのまま対話が続いて、基本は三人で助け合いながらも各自で解決できる時は勝手に動くことを、全員が確認し合った。それぞれ抱えるものがあるだけに確たる信頼とまでは言えないが、三人の間には確かに、相通じる何かが存在していた。



10.ぐるぐると色んな事が繋がっているのだと彼女は語る。

 テニスコートでは、男子テニス部の部員数名が昼の練習に参加していた。奉仕部三名の姿を認めた戸塚彩加は部員に指示を送ると、照りつける日差しをはね返すような力強い足取りで単身移動を始めた。目的地は、比企谷八幡と初めて会話をした場所。特別棟の一階、保健室横、購買の斜め後ろに位置する、八幡がベストプレイスと呼んでいる辺りだ。

 

 戸塚は既に朝の時点で、雪ノ下雪乃からのメッセージを受け取っていた。そこには、昨日の噂について直接説明したいと書かれてあった。自分が彼や彼女から仲間として認められているのを目に見える形で確認できた気がして、感情が表情や動きにも出ていることを自覚しながら、戸塚は足を進める。

 

「さいちゃーん、やっはろー!」

 

 声が届く距離まで近付くのが待ちきれないといった様子で、由比ヶ浜結衣が大声で呼びかけてくる。更なる笑顔になって、戸塚はてててっと三人に駆け寄った。日陰に入って、火照った体が冷まされていくのが心地良い。

 

「なにか奉仕部で良いことでもあったのかな。三人とも、すごく楽しそうっていうか、元気な感じがするよね」

 

「うん。みんなで頑張ろって、さっき盛り上がってたんだ」

 

 お互いに挨拶を終えた後で戸塚が三人の印象を口にすると、由比ヶ浜がひときわ元気な声で答えてくれた。由比ヶ浜を見守る二人の表情が穏やかなのを確認して、戸塚は再び視線を戻す。少しだけ由比ヶ浜の肩が下がっていたように見えたのだが、おそらく気のせいだろうと戸塚は思った。

 

「戸塚、これ。んで、俺らは少し離れてたほうが良いのかね?」

 

「別に隠すこともないのだし、戸塚くんさえ良ければ離れなくても大丈夫よ、由比ヶ浜さんは」

 

「固有名詞を出して助詞で強調してまで、俺をぼっちにする必要は……あ、でも」

 

「ぼっちなら良いか、と貴方なら言うのでしょうね……」

 

 八幡が一声かけてから、スポーツ飲料の中では戸塚が一番贔屓にしている飲物を投げてきた。それをしっかり受け止めて、こんな些細なことをちゃんと覚えてくれているのが嬉しいなと思っていると、二人の間で会話がどんどん進んでいた。戸塚は苦笑するしかない。

 

 すぐ横に目を向けると、由比ヶ浜が同じような表情を浮かべていた。聞きようによっては雪ノ下による八幡いじりとも受け取れるやり取りだったが、危うさを感じた千葉村初日の会話とはうって変わって、今はこんな発言からもお互いを信頼する気持ちが伝わって来るように思えた。二人がともに、会話のオチを最初から見通していたように感じられたからだ。

 

 

「じゃあ、八幡と由比ヶ浜さんが一緒にいるこの状態で、話してもらっていい?」

 

「ええ、大丈夫よ」

 

 戸塚がそう提案すると、雪ノ下は事も無げに頷いた。念のために全員で周囲を見回して、人影がないのを確認する。そして、雪ノ下と葉山隼人が幼馴染みであること、小学生のある時期から疎遠になったこと、その切っ掛けとなった事件について戸塚は余さず説明を受けた。

 

「ぼくね、運動部の集まりとかで葉山くんとも去年から何度か喋ってて。その時には理由が分からなかったんだけど、何でもできそうな葉山くんが、たまに会話が途切れた時とかにさ。全く別のことを考えてるのか、遠い目をして、何だか寂しそうに見える時があったのね。ぼくは二人の過去に対して、偉そうなことは何も言えないけど……。葉山くんも色々と悩んでたんだろうなって思っちゃった」

 

 戸塚が葉山を擁護するかのような物言いになるのは、運動部所属で縁があったことに加えて、千葉村でともに過ごしたことも影響していた。一日目の夜に、葉山が実感のこもった声でぼそっと呟いた言葉を、戸塚は今でも明瞭に覚えている。

 

『見てるだけしかできないって、辛いよな』

 

 誰かを助けたいと思っても、そのたびに周囲から「戸塚王子が手を出さなくても」と止められて、何もできずに傍観するしかなかった自分と。幼馴染みを助けたいと思って動いて失敗して、何もしないことが最善の選択だと理解せざるを得ない状況に追い込まれた葉山と。あの時の言葉には、そうした気持ちが込められていたのだろうなと戸塚は思う。

 

 そしてもう一つ、気になる発言を思い出して、戸塚はこっそりと八幡の様子を窺う。自分の感想を聞いて、八幡は複数の感情が内面で覇を競っているかのような複雑な表情を浮かべている。同じことを思い出しているのだなと戸塚は思う。好きな子のイニシャルだけでもと戸部翔に言われた葉山は、こう言ったのだ。

 

『Yだよ』

 

 あの時ですら、一番可能性が高いのは雪ノ下ではないかと戸塚は思った。おそらく八幡も戸部も同じ気持ちだっただろう。そして雪ノ下と葉山の過去を知った今、その可能性は更に高まったと戸塚は考える。

 

 もしもそれが正しいとしたら、つらかっただろうなと戸塚は思った。自分はまだ恋愛の何たるかを理解できるとは思えないし、だから何に対しての感想なのか、現状に対してなのか経緯に対してなのか、それとも契機に対してなのかも全く分からなかったが、ただつらかっただろうなと戸塚は思った。

 

「とはいえ、ここに居ない人の話をしても仕方がないと思うのだけれど」

 

 物思いに耽る男性陣を見かねてか、雪ノ下が少し強い口調でそう述べた。その強さは今ここにいる面々に向けられたもので、葉山に対してではない。幼馴染みに対して過剰に反応する必要も理由もなく、ただ事実を口にしてこの場の一同に注意を喚起するために強く言っただけだと、そんな風に戸塚には思えた。そしてそれは、今の雪ノ下の心境を反映したものなのだろう。

 

「まあ確かに、葉山の悩みは葉山が解決するしかねーからな」

 

「隼人くんが助けて欲しいって言い出すのも、なんだか想像つかないや」

 

 八幡の発言に続いて由比ヶ浜が口を開いて、場の雰囲気が柔らかくなった。だが何故か戸塚には、由比ヶ浜の発言の余韻が気になった。先程の見間違えが頭に残っていたから変な風に考えてしまったのだろうと戸塚は思う。まるでほっと息をついたかのような、助けが要らないことに安心したかのような感じを受けたのだが、これも気のせいだろうと考えることにした。

 

「いや、でも前に依頼があっただろ。あれは違うのか?」

 

「変な噂でクラスがぎくしゃくする前に事を収めるには、奉仕部に依頼するのが最善だと、あの時は考えたのでしょうね。葉山くんなら、その辺りの優先順位を間違えることはないと思うわ。それに……いえ、校内放送の準備が整ったら連絡が入る手筈になっているのだけれど、まだ余裕がありそうね」

 

 おそらく葉山にとっては、身近な四人の男子生徒を対象にした噂でさえも、興味を惹かれるものではなかったのだろうと雪ノ下は考えていた。だから自分の手で解決することに何らの拘りもなく、簡単に他者を頼ったのだろうと。問題を解決すべき責任があるとは考えたのだろうが、役割を果たすという以上の意図は無かったのだろうと雪ノ下は思う。

 

 むしろ問題の解決よりも、奉仕部との繋がりを得ることこそが目的だったのかもしれない。いきなり部室に来るのではなく、葉山が一人で顧問の許可を得ている間に女性陣を先に寄越して事情を説明させた辺りからも、何に一番注意を払っていたかは明らかだ。自惚れや勘違いの可能性を一応は考慮して、その上で雪ノ下はあの時のことをそう解釈していた。

 

 だが、そうした話をこの場の面々に敢えて伝える必要もない。そう考えて雪ノ下は話題を逸らした。

 

 

「じゃあさ、連絡が来るまで、さいちゃんも一緒にお話しよっ。最近は勉強以外にも難しい話が多いから、あたしの頭が限界なんだけど……」

 

「うん、いいよ。由比ヶ浜さん、一学期の途中から勉強も頑張ってたもんね」

 

 何度か一緒に勉強会をしているので、戸塚は由比ヶ浜の努力を知っている。だから由比ヶ浜の誘いにすぐに応えて、お陰で再び重くなりかけていた場の空気が緩くなった。それに便乗するように雪ノ下が口を開く。

 

「その、雑談の中にも勉強の話を含めるのは、由比ヶ浜さんの頭には負担だったのかしら?」

 

「ゆきのん、それって気遣ってくれてるようで、ちょっと言い方が変じゃない?」

 

「馬鹿にしたつもりはないのだけれど、由比ヶ浜さんも言葉の微妙なニュアンスによく気が付いたわね」

 

「比企谷くん。それは誰の物真似なのかしら?」

 

 由比ヶ浜の指摘を受けて、雪ノ下が「そんなつもりでは」という表情で少し慌てている隙に、八幡が変な声色で会話を続けた。周囲の温度が一気に下がったが、そんな三人を見て苦笑していた戸塚が口を開いたことで気温が元に戻る。

 

「八幡が話してくれたんだけど、雪ノ下さんって雑談の中に韓信とか児玉源太郎の名前が出て来るから気が楽だって言ってたよ。羨ましいなって、ぼくも聞きたいなって思ってたんだけど、由比ヶ浜さんは歴史の話とか聞くと疲れちゃうかな?」

 

「ううん、そんなことないよ。あたしも授業だと眠くなっちゃうんだけど、ゆきのんやヒッキーが説明してくれたらへーってなるし、聞いてて楽しいなって」

 

 八幡に向けて「ね?」と可愛らしいウインクを送って、戸塚は頼れる友人の悩みを一つ解消できたことを内心で喜んでいた。たとえ歴史の話でも、由比ヶ浜なら喜んで聞いてくれると証明できてご満悦の戸塚は。自らの可愛らしさを自覚できていない戸塚は、八幡が今それどころではない状態に陥っていると気付いていない。

 

「あ、でね。韓信は漢文で習ったから分かるんだけど、児玉源太郎ってどんな流れで出て来たの?」

 

「ん、ああ、そういえば、言われて納得はしたけど、けっこう唐突だったよな?」

 

「ゆきのんがやる気だ、って話で出て来た人だよね?」

 

 戸塚が潤んだ目を雪ノ下に向けたことでようやく少しだけ余裕を得られた八幡は、言葉を呟きながら徐々に正気を取り戻していった。その話が出たのは実行委員で集まっていた時だったので由比ヶ浜は直接は耳にしていないのだが、クラスと実行委員との橋渡し役であるために八幡から報告を受けて知っていた。

 

「どう説明しようかしら。戸塚くん、児玉源太郎と聞いて思い浮かべるものは?」

 

「えっと、日露戦争とか、司馬遼太郎の『坂の上の雲』とか。でもぼく、まだ読んでないんだよね……」

 

「迂闊に読み始めると八冊全てを読破するまで止まらなくなるから、気を付けたほうが良いわよ」

 

 二人の会話を聞きながら、雪ノ下でもそうなるのかと新鮮な驚きに浸っている八幡だった。もしもスラムダンク全巻を進呈しても、やはり自分たちと同様に読み終えるまで止まらなくなるのだろうか。まだ混乱が残っているのか、そんな馬鹿げたことを考えている八幡の横で会話が進む。

 

「では質問を変えて、児玉源太郎と縁が深い人物と言えば?」

 

「乃木希典、かな?」

 

「あ、たしか自殺した人だよね。昔パパが赤坂の乃木神社に連れて行ってくれたから知ってるんだけどさ」

 

 意外な理由で由比ヶ浜が会話に加わって、八幡はようやくなるほどと納得がいった気がした。勉強や読書以外でもこうした知識を得られると、気付いてしまえば当たり前のことなのに。勉強が苦手だから、読書をしないから知らないだろうと決めつけるのは早計だなと八幡は思った。そこに雪ノ下からの質問が届く。

 

「では比企谷くんに問題。乃木希典の自殺を受けて書かれた文学作品を二つ」

 

「鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』と……なるほどな、漱石の『こころ』か」

 

「漱石って、平塚先生が色々と教えてくれたよね。教え子が自殺しちゃった、とかさ」

 

「そういえば、あの時に岩波書店の創業者の話が出たのを覚えているかしら。岩波が出した最初の小説が、漱石自ら装丁を手掛けた『こころ』なのよね。……どうやら準備ができたみたいね」

 

 ユキペディアを存分に発揮しながら、雪ノ下は発想の一端を、更には色んな事が繋がっているのだという気付きを三人に伝えた。雪ノ下が意図するところの全容は未だ見えて来ないが、少なくとも過去にみんなで体験したことを糧に行動しているのだと理解して、八幡たちは気を引き締める。そこにメッセージが届いて、雑談はお開きになった。

 

 生徒会室へと移動する雪ノ下を見送って、三人もまた行動に移る。

 

「さいちゃんも、奉仕部の部室で一緒に見る?」

 

「迷っちゃうけど、ぼくはやっぱりテニス部のみんなと一緒に見るよ」

 

「雪ノ下の話が終わってからも雑談に巻き込んで、練習を邪魔して悪かったな。今度なんか奢るから、その、あれだ。また遊びにでも行こうぜ」

 

「今日も飲物をもらっちゃったし、気にしないで。けど、遊ぶのは絶対に行こうね!」

 

 そんなふうに話を締め括って、彼らは二手に分かれた。数日前、会議室から教室まで由比ヶ浜と二人で歩いた時には随分と緊張したものだが。今は比べ物にならないほどリラックスしているなと、八幡は心境の変化を不思議に思う。

 

 会話を途切れさせないように由比ヶ浜が細かなところまで気遣ってくれたあの時とは、微妙な違いがあることに。会話の合間にほんの少し、間が差し挟まれる時があることに、八幡は気付いていなかった。

 

 

***

 

 

 お昼休みも残りが見えてきた頃になって、この後すぐに生徒会が校内放送を行うという音声通知が全校に響いた。放送は映像形式で、校内に居る者には最寄りの教室の教卓に話者の姿が映し出される形になること。その他の場所に居る者には音声のみが届く等々、注意事項が続けて語られている。

 

 男子テニス部の面々も手近な教室に移動したのだろうなと思いながら、八幡は由比ヶ浜と並んで座って放送が始まるのを待っていた。部室内はバンド練習ができるようにスタジオに換装された状態になっていて、ドラムセットやアンプなどが所狭しと置かれているので、パイプ椅子に腰を下ろした二人は肩が触れ合うような距離にある。

 

「ち、近いな……」

 

「ご、ごめん。ちょっと離すね……って、やっぱ無理っぽい、かも」

 

「い、いや。由比ヶ浜が良いなら、別に俺は、大丈夫だから。その、悪いな」

 

「あ、あのさ。入学式とかで並んで座るのと同じだって考えたら、えっと、どうかなって?」

 

「お、おう。あー、雪ノ下はまだ出ないのかね」

 

 密室に二人きりで肩を寄せ合っている現状を入学式と比較するのは悪いけど無理だと結論付けた八幡は、無理矢理に話題を逸らす。

 

 そんなふうに、ともに緊張の面持ちで教卓の辺りを眺めながら落ち着きなく過ごしていると、ようやく人の姿が浮かび上がった。生徒会長の城廻めぐりが自己紹介をして、そのまま話を続ける。

 

『えっと、部活の予算を見直すべきだという提案に対して、校内放送という形でお返事したいと思います。六月の部長会議で話をまとめてくれた雪ノ下さんに、今回も来てもらいました。じゃあ、よろしくねー』

 

『奉仕部の雪ノ下です。今回も会長から委任を受けて、この話を預かることになりました。よろしくお願いします。では早速ですが、今から全校生徒に宛てて書類を送付します。文書フォルダをご覧頂けますか』

 

 城廻が一歩下がったと思ったら映像が消えて、代わって雪ノ下の姿が浮かび上がる。よくできた手品のようだなと思いながら、すぐ横の由比ヶ浜に倣って八幡も文書フォルダを参照する。テキストを開くと、昨年度と今年度の予算額およびその増減を部活ごとに整理した表が眼前に展開された。

 

「まあ、雪ノ下らしい正攻法だな。つか、これだけ増やしてもらってるのにまだ不満を言うって、何様のつもりかね」

 

「うーん。これ以上の予算を欲しいって、本気で思ってるわけじゃないのかもね」

 

 思わず八幡が呟くと、由比ヶ浜が普通に返事を返してくれた。ドキドキしていたことをすっかり忘れていたなと思いながら、八幡は再びそちらに気を取られないように身構えつつ会話を続ける。

 

「結果が欲しいんじゃなくて、ただ文句を言いたいがために騒ぎ立てる連中って、どこにでも居るよな」

 

「さっきもヒッキー、相手するのが馬鹿らしいって言ってたよね。あれ、ゆきのんが言ってたんだっけ。まあいいや。頑張れー、ゆきのん!」

 

 発言者や細かな表現や人物の名前などの記憶は曖昧ながらも、勘所は外してないんだよなと八幡は思う。先程の四人での会話の時にも、そして今も、由比ヶ浜は話の一番大事な部分は押さえている。そういえば遊戯部とクイズをした時も頑張ってたもんな、と八幡は思う。そんな由比ヶ浜が、そして雪ノ下が、こんな連中のために時間を費やしている。

 

 思考が横に逸れそうになるのを何とか堪えた八幡は、教卓に映し出されている雪ノ下の映像を眺めた。

 

 

『予算案を全くの白紙状態から見直すべきだという要望ですが、この現在の予算表のどこを問題視しているのか、具体的な指摘は何もありませんでした。生徒会が内容証明・配達証明の形でメッセージを送って、当事者に問いかけてくれたのですが、お昼の校内放送までに返信を求めたにもかかわらず何も反応がありません』

 

 メッセージ送付を主導したのは雪ノ下だろうなと八幡は苦笑いしている。こうした正当な手続きを積み重ねて行く形では、雪ノ下には敵わないなと八幡は思う。だが、一学期であれば落ち込んだかもしれない事実でも、今の八幡は素直に受け止めることができる。雪ノ下が正攻法を担ってくれるのなら、自分は搦め手を考えれば良いのだから。

 

『それに、もしも一部分を変更するとなれば、他の部活からも要望や批判が出ると予想できます。それに対して今回の提案者が説得力のある説明をできるとは、現時点での反応を見る限り私には思えませんでした。彼らの唯一の主張は、私と二年F組の葉山くんが同じ小学校だったのを隠して不正を行ったというものですが』

 

 そこで言葉を切った雪ノ下を眺めながら、八幡が苦笑交じりに呟く。

 

「要するに、雪ノ下の目的はこれか。だから校内放送の前に戸塚と話しに行ったんだな」

 

「ゆきのんのそういう、なんていうのかな、ちゃんとしてるところ。やっぱり凄いなって」

 

「筋を通すってこういう事なんだろうな。不穏な噂が流れてるから今がチャンスだって動いたんだろうけど、関係者は迷わず成仏してくれ」

 

「たぶん、そういうことなんだろうね。噂はあれで終わりなのかなって疑ってる子も多かったし、ゆきのんたちを問い詰める空気に便乗しよう、みたいな感じでさ」

 

「ま、相手が悪かったとしか言いようがないな」

 

 そう八幡が締め括って、二人は映像の雪ノ下を注視する。二人の会話が終わるのを待っていたわけではないのだろうが、タイミング良く雪ノ下が再び口を開いた。

 

『六月の部長会議において、私は何ら議論を誘導するような発言はしておりません。図書室に議事録があるので、私の発言が信用できないという方は、そちらを確認して下さい。葉山くんは運動部の取りまとめのような役割を以前から担っていましたし、私と共謀して彼に何の得があるのか、私には分かりません。そもそも、小学校が同じというだけでここまでの疑いを持たれるのであれば。今回の提案者の方々は、同じ小学校同士で普段どんな企み事をしているのか、後学のためにも教えて頂けると助かるのですが』

 

 ものすごく怒っていらっしゃると考えて、昼食時に続いて身をすくめる二人だった。

 

 

 一方の雪ノ下は、話をしながら懐かしい気分に浸っていた。それは以前ならあまり思い出したくないと思っていた感情であり、交際の申し出を断る際に頻繁に感じていたことだった。

 

 無遠慮な告白は最近ではめっきり体験しなくなったが、入学してからしばらくの間は酷かった。そのたびに雪ノ下は、意味と響きとを完璧に計算して組み立てた辛辣な言葉を告げて、彼らを撃退したものだった。

 

 彼らは誰一人として、私の意図に気付かなかったのだろうと雪ノ下は思う。一つは、告白という行動に出た者に最低限の敬意を表して、嘘偽りなく誠意ある返事を行うこと。一つは、当人の中で尾を引かないように、同時に安易に行動に出る者への抑止力になるように、容赦なく一刀で切り捨てること。そして最後に、そんな私の発言を受けて、それでも向かって来る男の子がいつか現れるのではないかと密かに期待していたこと。

 

 雪ノ下は誰かに告白をした経験がないので片手落ちの状態だが、振られた者よりも振る者のほうが辛いのではないかと考えている。誰かの想いを断るという行為は、何度繰り返してもなかなか慣れるものではなかった。だからといって、姉のようにそうした機会を巧みに回避することは、雪ノ下にはできなかった。つい正面から受け止めてしまうのは、最後の意図が大きく影響しているのだろうと雪ノ下は考えている。

 

 雪ノ下が完璧に計算した辛辣な言葉を告げても、それでも向かってくる男の子が居たとして。しかしそれはスタートに過ぎない。その時点ですぐさま恋仲になれるわけもなく、そもそも恋愛とはどういうものなのか、自分にはこの先もずっと分からないのではないかと思う時もある。とはいえそんな悩みも、現実には空疎なものでしかない。何故なら、そんな男の子は現れる気配すら無かったのだから。

 

 交際を申し込まれて断るたびに、雪ノ下は誰にもねぎらって貰えないつらさと、明快な応対を果たせた充実感と、そして見果てぬ夢を抱いている寂しさとを感じていた。自らの意図が誰にも伝わらないことを残念に思い、同時に安心してもいた。それを繰り返しているうちに、おそらく噂が伝わったのだろう。二年への進級が近付く頃には、もう誰も雪ノ下に告白して来なくなった。諸々の感情を抑えた雪ノ下は、それをシンプルに、煩わしさが減ったとだけ受け止めた。

 

 そして二年へと進級して、雪ノ下は彼と出逢った。入学式の日から一方的に知ってはいたが、向かい合って話したのは今年度になってからだった。雪ノ下が思ったままの辛辣な言葉を口にしても、それでも平然と厳しい意見を主張してきたのは、彼が初めて部室に来た時。まだこの世界に捕らわれる前のことだった。

 

 正直に言うと、恋愛の相手としては未だにぴんと来ない。彼と恋人になった自分も友達になった自分も想像することができない。それは由比ヶ浜の誕生日にカラオケ店にて、友達になろうという彼の申し出を断った時と変わらない。私と彼とはそうした関係ではないのだろうと雪ノ下は考えているし、むしろ部員同士で付き合うほうがしっくり来るようにも思う。当人たちの意思が雪ノ下には分からないので、こんなことを考えていると知られたら怒られるのかもしれないが。

 

 だがそれはそれとして、彼の存在が雪ノ下にとって特別なのも確かだった。彼と彼女なら私の意図を解ってくれるだろうし、あの二人とならどんなことでも実現できるのではないかとすら雪ノ下は考えている。私にとって特別な二人のうちの一人が彼なのだ。それ以上は()()()()()必要ないと雪ノ下は思う。

 

 おそらく今も部室から見守ってくれているのであろう二人に思いを馳せて、雪ノ下は現在進行形で抱いている感情と向かい合う。当事者には、私の意図は今回も、何も伝わらないのだろう。だがそれでも良いと雪ノ下は思う。今はまず事態を収拾するために動こうと思いを新たにして、雪ノ下は再び口を開く。

 

 

『ここで明言しておきたいのは、小学校を卒業してから最近に至るまでずっと疎遠だった葉山くんとの仲を無遠慮に疑うような姿勢を、私は批判しています。もしも予算配分に対して何かしらの意見をお持ちなのであれば。あるいは部活動に対して何らかのご不満なりがあれば、生徒会まで気軽に申し出て欲しいと会長が仰っています。その際には、ご希望があれば私も同席します。今回の話が、単に一時的な感情の盛り上がりが原因なのであれば、このまま水に流すという結末になることを我々は望んでいます』

 

 正直なことを言えば、正論でとことんまで叩き潰しても良いのだがと雪ノ下は思う。だが由比ヶ浜なら、このように当事者に温情を残す形を選択するのだろう。そして八幡なら、弾圧するほどに意地になって余計に面倒な目に遭うぞと言うのではないか。昨日からの噂に終止符を打つという裏の目的も果たせたことだし、この程度で勘弁してあげようかと雪ノ下は思った。むしろ彼らの蠢動は、雪ノ下にとっては非常に都合が良かったとすら言える展開になっているのだから。

 

 全校生徒に対してここまで説明しておけば、仮に姉が幼馴染みの話を暴露しても乗り切ることができると雪ノ下は思う。そもそも雪ノ下は嘘を一切口にしていない。ずっと疎遠だったのは事実であり、だからこそそれ以前の関係を表に出すのが面倒だった。ただそれだけの話だし、そこに偽りはない。姉の言動に対しては色々と言いたいこともあるが、終わってみれば良い結果に繋がったのだから、多少は情けをかけても良いだろう。

 

 そんなことを考えながら雪ノ下が一歩下がって、再び城廻が姿を見せる。文化祭が近いので今は部活は自由参加という形になっているが、部活も文化祭もみんなで頑張ろうと、城廻はいつものように唱和を求める。生徒の大多数が口を揃えて、ようやく校内放送は終了となった。

 

 

「うまく行ったみたいだし、やっぱゆきのんって凄いよねー」

 

「もっと当事者連中を叩き潰すのかと思ってたけど、もしかしたらお前の影響もあるのかもな」

 

「え、っと。そうなの?」

 

「雪ノ下本人がさっき、『随分と助かっているのよ』って言ってただろ。お前の役割は俺にも雪ノ下にも真似できねーし、『もっと自信を持って欲しい』って言われたのを、そのまま受け取ったらどうだ?」

 

「あたしは、どこがってわけじゃないけど、ヒッキーの影響かなって思いながら聞いてたんだけどさ」

 

「今回の話はほぼ正論だし、俺の捻くれた思考が入り込む余地ってあんま無くね?」

 

「うーん。そういうのじゃなくて、見切り方っていうか……分かんないしいいや!」

 

 奉仕部の部室では校内放送が終わった後も、二人が並んで椅子に座ったまま感想を言い合っていた。この距離感に慣れたのか、それとも感覚が麻痺してしまったのか。あるいは話をしながらも、二人が頭の中では別のことを考えていたからなのかもしれない。

 

 由比ヶ浜は、文化祭から体育祭を経て修学旅行に至る今後の日程を思い浮かべながら、奉仕部三人の未来に思いを馳せていた。不安や心配をそこに反映させたい気分ではなかったので、由比ヶ浜はただ来るべき楽しい日々を思い描いていた。

 

 八幡は、先ほど四人で雑談した時に聞いた話を、今は教卓から消えてしまった雪ノ下の残像に重ねていた。

 

 おそらくは鴎外よりも漱石だろうと八幡は思う。たしか「こころ」の作中で、先生は「明治の精神に殉死するつもりだ」と言っていた。その決断に決定的な役割を果たした乃木の自刃は、明治天皇に殉死した形だった。そして児玉は、日露戦争で全ての生命力を使い果たしたかのように、戦後すぐに急死したはずだ。

 

 雪ノ下が何かに殉じるとはとても思えないが、ではどんな意図を秘めているのだろうか。仮に自分の中にある何かを殉死させるのだとしたら、それは何なのだろうかと八幡は思う。だが、それを考察するには圧倒的に情報が足りないのが現状だ。今は不吉なことに頭を使わず、問題が一つ片付いたことを喜ぶべきなのだろう。

 

 八幡は顎に手を当てて、由比ヶ浜は両手の指を絡めて膝の上に置いて、いずれもお互いとは反対側へと視線を向けながら物思いに耽っていた。そこにがらりとドアが開いた音がする。

 

「……二人とも、練習はどうしたのかしら?」

 

 首尾良く任務を果たしてきた雪ノ下が練習をサボっている二人を見付けて、こうして居残り練習のノルマが課されることになるのだった。

 

 

***

 

 

 この日、三浦優美子は朝から機嫌が悪かった。とはいえ、それをそのまま表には出したくない理由があったので、周囲にもそれほど問題は起きていない。

 

 昨夜の女子会で聞いた話は、三浦の中で今も残ったまま、暗い気分を誘起していた。雪ノ下と葉山の過去を知って、やはり最大の障害は彼女なのだと認めてしまうのが、三浦は嫌だった。だが現実を見ないままでは何も事が進まない。

 

 少し気分を変えるために、良かったことを考えようと三浦は思う。女子会の場所を提供してくれた中学生の少女から、天然な口調でお礼を言われたことを三浦は思い出す。

 

 

 千葉村で「適当な扱いをするのは良くない」と、「相手がどう思ってるのか、分かるようで分からないもんだ」と口にした時には、正直に言うとあの少女には何らの思い入れもなかった。三浦はただ己の過去を振り返って、中三で女子テニス部を引退した時の嫌な経験から、年長者として忠告をしたに過ぎなかった。自分の気持ちが他の部員にはまるで伝わっていなかったという残酷な事実を突き付けられて、独り部室を後にしたあの時の思いを、勝手に重ねていたに過ぎなかった。

 

 三浦の忠告がどうやら役に立ったらしいとは、由比ヶ浜から簡単に聞いていた。だが三浦本人としては、それほど重要なことを言ったとは思っていなかったし、だから昨日いきなりお礼を言われて少し驚いてしまった。だが素直にそうした感情を伝えてくれた少女の行動はとても微笑ましく、なぜか中学時代の苦い体験すらも、少しだけ報われたように感じられた。

 

 三浦は中三のあの日を最後にテニスをやめた。今でも時どき女テニの練習に付き合ってはいるが、部活に入るつもりはない。何故なら今の三浦には、テニスで上手くなることよりも、優先したいことが幾つかあるから。葉山と特別な関係になりたいという想いもその一つだし、ただ女王として君臨するだけでなく内実の伴った統治をしたいと考えているのもその一つだった。

 

 後者には、中学時代の経験に加えて昨年度のことも影響していた。意味のある深い会話など何もできず、三浦が敢えて理不尽なことを口にしてみても女王様のお戯れとして処理されるような、そんな関係は二度と御免だと三浦は思う。お飾りの女王や我が儘な女王ではなく、どうせなら統治を讃えられるような女王になりたいと三浦は考えていた。

 

 とはいえ事細かに口を出して配下を導くような真似は、三浦の性格的に不可能だった。三浦はただ誰かが物事の筋目や基本を疎かにしていたら注意をするだけで、基本的には放任主義だった。揉め事があった時には明確な裁定を下して、後のことは下々に任せる形が合っていた。注意するだけでも、裁定をするだけでも、それによって話は随分と簡単になる。そこにこそ自分の存在意義があると三浦は考えていたし、実際に高二になってからクラスは上手く回っていた。昨日もらったあの少女からのお礼は、そんな三浦の自信を更に裏付けるものになったと考えて良いのだろう。

 

 

 しかし、昨日の主題はそれではなかった。そして、色々と文句を言いたい気持ちは確かにありながらも、三浦は雪ノ下を相手に感情を爆発させる気にはなれなかった。千葉村でやってしまったからという理由が一つ。そして、雪ノ下の心情を理解できてしまったことがもう一つの理由だった。

 

 昨日の真面目な話し合いの最後に、雪ノ下は「決定的な偽りを口にして物事を収めるような真似はしたくない」と口にした。それは紛れもなく、三浦が中三の夏に部室で抱いたのと同じ想いだった。あの時に三浦はいい加減な形で済ませたくないと考えて、敢えてストレートな物言いで問題を指摘して、そして誰からも反応を得られなかった。その経験があっただけに、三浦は雪ノ下の気持ちを我が事のように理解できた。だから、雪ノ下を責めようという気持ちが沸いてこなかった。

 

 葉山との仲を深めたいと思うのも、中三のあの経験を上手く活かしたいと思うのも、三浦にとってはどちらも大切なことだった。では、その二つがかち合ってしまったら、自分はどちらを優先させれば良いのだろうか。

 

 葉山のことを優先させるのであれば、雪ノ下を責めるなり手出しをさせない約束を取り付けるなりすべきなのだろうし、その為には共有された感情が犠牲になるのも仕方がないのだろう。だが、それを三浦は望まなかった。そして、まだ葉山と付き合える目処が立っていないのだからと自分の中で言い訳をして、昨日の話を穏便な形で終わらせた。だが、解消されないもやもやした思いが一夜明けても残っている。昨日の自分の行動は、本当に正しかったのだろうか。

 

 普段であれば、女テニの練習に参加することで気分を紛らわせることができた。しかし今は文化祭の直前なので、部活は自由参加になっている。それにそもそも総武高校には、三浦が本気で打ち合える相手はごく僅かしか存在しない。そしてその筆頭は、三浦が現在抱えている悩み事の当事者なのだ。雪ノ下を相手に思い切りボールを叩けたらどんなに気持ちが良いだろうと思いながらも、今の三浦には彼女を誘うことができない。

 

 鬱屈した思いを更に重ねて、三浦は放課後のことを思う。クラスの出し物が順調に進んでいるので、昨日から三浦たちは有志の出し物のためにバンド練習を行っていた。放課後の前半はクラスを手伝って、後半は練習するというスケジュールだ。そこには三浦にとっては恋敵とも言える後輩も参加している。今の気分のまま彼女の相手をするのは正直厳しいものがあった。

 

 三浦は女王としてクラスに君臨しているが、動かせる手足は限られている。ましてや、三浦が頼れる存在となると実質的には二人しか居ない。彼女らがともに忙しい日々を過ごしているのは重々承知しているが、今だけは自分を助けて欲しいと三浦は思う。

 

 海老名姫菜がクラスの出し物を取り仕切っている以上、由比ヶ浜を頼る以外の選択肢は三浦には無かった。ただ練習の場に居てくれるだけで良いからと言って、三浦は由比ヶ浜をバンド練習に誘った。この日も、そして翌日の金曜日も。更には土曜日も。

 

 

***

 

 

 相模南はこのところ毎日「こんなはずではなかったのに」と思いながら過ごしていた。実行委員長の仕事は思っていた以上に大変で、誰かの手助けがなければ一日たりとも務められる気がしなかった。

 

 それに加えて副委員長の一年生が地味に優秀なので、相模は下手に手を抜くこともできない。おどおどとした彼女の性格は演技ではなく生来のものだと理解はしている。だがもの凄く穿った見方をすれば、相模を矢面に立たせておいて、自分は安全な場所で順調に経験を積んでいるようにも見えてしまう。それは本来、うちが目指していたポジションなのにと相模は思う。

 

 小さな頃からずっと、うちは運がないというか、巡り合わせの悪いことばかりを体験してきた記憶がある。もう一人の実行委員と顔馴染みになって、そこから上手い具合に雪ノ下と知り合えたところまでは順調だったのに。名だけを得られれば良かったはずのうちがこんなに苦労をしている反面、肩書きを持たない雪ノ下はみんなから頼りにされて輝いているように見える。

 

 そもそも、一年の頃にはうちと同じような立ち位置だったのに、と相模は矛先を変える。高二になってクラスどころか校内でも指折りのトップカーストになった由比ヶ浜は、うちと何が違うというのだろうか。なぜか三浦に気に入られて、気が付いたら雪ノ下とも親しい仲になっていて。一年の頃にはあったおどおどとした雰囲気は、最近では欠片すらも感じられない。運以外の理由があるなら教えて欲しいものだと相模は思う。

 

 葉山の提案なので仕方なく一日の終わりに話し合いをしているが、由比ヶ浜と顔を合わせるたびにイライラした気持ちが湧き上がってくる。本当は、由比ヶ浜に当たりたいわけではないのに。由比ヶ浜の優しい性格は、去年から付き合いがあるうちもよく知っているのだ。だけど、どうしても苛立ちをぶつけないと気が済まないのだ。由比ヶ浜なら許してくれるだろうと、相模は甘えることしかできない。昨日も今日も、そして明日も明後日も。

 

 

***

 

 

 文化祭に向けて、こうして木曜日と金曜日が過ぎていった。来週からは授業が半日になって、午後の時間がまるまる使えることになっている。それにこの世界では、教師やクラス委員長の権限で、校内の環境を自由に変更することができる。つまり飾り付けなどに時間を費やす必要がなく、全体の仕事量は例年と比べて確実に少なく済んでいた。

 

 それでも日程が迫っているだけに、土曜日にも多くの生徒が登校して文化祭の準備に従事していた。それに仕事は減っても生徒の数は当然そのままで、ゆえに人間関係の揉め事は従前通りの確率で発生している。由比ヶ浜が身体を休める時間はこの日も無かった。

 

 生徒会および文化祭実行委員会からの通達によって、日曜日は完全休養日に指定されていた。土曜日さえ乗り切れば休めると、あるいは少し無理をしてしまったのかもしれない。

 

 

 週明けの月曜日、雪ノ下と由比ヶ浜は高校に姿を見せなかった。




次回は来週の木曜か金曜、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/13)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。