もう一話前の話があります。
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アナスタシアの登場後、事前に想定していた内容の通りに事は進んで行く。
一度スバルの情報を競らせるのかともめかけたが、そこは即座に誤解を解き、そこから話をスバルに有利に進めていった。
そしてクルシュの周囲からの評価、そしてそれを解消するために企てていることも予想通りであった。
途中ヴィルヘルムの事情や商人が白鯨に対する感情の予想がスバルの範疇内に収まらないといったイレギュラーも見えたが、おおむね予想通りに事は進む、そして、
「改めて言う。エミリアとクルシュの同盟に関して、エミリア陣営から差し出せるのはエリオール大森林の魔鉱石採掘権の分譲と、白鯨出現の時間と場所の情報。つまるところ、長いこと世界を騒がしてきた魔獣討伐――その栄誉だ!」
「――――」
「俺の言葉が的外れで、全然意に沿わないってんならばっさり切り捨ててくれ。無駄話の礼ってことで情報は渡す」
この情報だけでも、この場にいる商人二人ならばうまく利益に繋げ、クルシュの面目を保つことはするだろう。王都の商人たちの見る目も、クルシュに対して好意的に変わる可能性は十分にある。
だが、
「けど、もしもあんたの狙いと俺の望みがかち合うなら――」
手を広げて前に差し出し、スバルはクルシュへと求める。
同じ、障害を前にする者、そして何より未来を掴むための同士であることを望む。
「白鯨を、討伐しよう。――ひと狩りいこうぜ」
あの異形の存在を、悪夢めいた強大な魔獣を。
行商人たちにとっての災いの象徴を、スバル達にとって忌むべき存在を、霧の魔獣の討伐を、スバルはクルシュに提案する。
「ひとつ、最後の問いを発そう」
差し出されたスバルの手を見下ろし、クルシュはこちらに指をひとつ立てた。
その問いかけが、言葉通り、最後の確認だとスバルは理解する。
ここまで、スバルは彼女の『風見の加護』の力を掻い潜ってきた。そしてその上で目的を、交渉の重要な場面を引き出すことに成功した。
だから、ここを乗り越えれば、とスバルは唾をのむ。
「卿が――白鯨の出る時間と場所を知っているのは、確実か?」
「――ああ、本当だ。白鯨の出る時間と場所は俺が保障する。命、懸けてもいいぜ」
文字通り、自分の命懸けで他人の命を支払って、今現在も消費して得た情報だ。
その確実性に疑うところはないし、ここは引け腰になる場面でもない。自信をもって答える。
これならば、加護は発動しないはずだ。
そのスバルの希望が叶ったのか、クルシュは、
「なるほど、これはずいぶんと手ごわい人物が同盟相手に現れたものだ」
小さく吐息し、観念したように目をつむってそう答える。
その答えに最初、スバルは理解が追い付かなかった。が、その言葉がゆっくり脳に沁み込み、形を作るにつれて輪郭が明快になり、
「それじゃ……」
「疑問はある、疑念もある腑に落ちない点も多く即座に頷くのは難しい……だが――この状況を作った卿の意気と、この目を信じることにしよう」
指し伸ばされた手を見て、ようやく、ようやく一歩進めたことに感動を覚えつつひっこめられる前にその手を掴む。
交渉は、成立だ。
その二人の交わす握手を見て、盛大に肩の力を抜いたものがひとり――ラッセルだ。彼は大げさに息をつくと、やれやれとばかりに首を振り、
「いくらかひやひやさせられましたが、成立したようでなによりです。スバル殿も、会談の前のお約束は確かに」
「ああ、悪かったな、ラッセルさん。白鯨の討伐が済んだら、約束通りにミーティアはあんたに譲るさ」
握手する二人に頬をゆるめるラッセルに、スバルもまた人の悪い笑みで応じる。その会話を聞いて、眼前のクルシュは露骨に顔をしかめると、
「やはり、通じていたか」
「ええ、ですが私共としては不自然に肩入れはしていないつもりでしたよ。あくまで、同盟成立後を見据えての関係ですので」
しれっと語るスバルとラッセルに、クルシュは瞑目して鼻を鳴らす。
クルシュとの交渉前にスバルはその足でラッセルとの連絡を取った。話し合いが決裂し、彼がクルシュの邸宅を出て自宅へ戻るところを捕まえ、今回の話を持ちかけたというわけだ。
携帯を利用しての、魔物警報機トークも事前打ち合わせ通り――もっとも、警報機の役割を果たさない点やらはラッセルにも報せていないが。
それらの答えを受け、クルシュは今度はゆっくりとアナスタシアへ視線を向ける。
「ラッセル・フェローとナツキ・スバルの繋がりは理解した。だが、そうなると卿の立ち位置が不鮮明だ。何故、卿はここへ呼び出された?」
「まあ、ひとつは説得力の水増しやろね」
楽しげに部屋の中を見回し、アナスタシアは襟巻きの毛に触れながら、
「王選の候補者が二人と、王都有数の商人がひとり。同盟交渉の場にそれだけの関係者を集めて、不用意な情報やら発言ができるもんやないもん。せやから、ウチがここにおるだけで、その子の言葉に重みが出るやろ?」
違う? とアナスタシアはスバルの思惑を読み取って首を傾げる。
内心、ほぼ的確に当てられ頬が引きつるのをスバルは感じる。
「ならば、別の理由はなんだ?」
「そっちはもっと簡単やん――親友があないな眼で頼みに来たら応じるのが人情ってもんやない?」
そう照れずにいう彼女と対照的に親友――アリシアの頬は隠せないほどに赤みを帯びている。
それを見て口元に手を当てて嫌らしく笑い、すこし彼女の元でからかった後に、アナスタシアは弾むように前へ出る。
それからいまだ、手を取り合っているスバルとクルシュの手の上に自分の両手の掌もそっと被せると、
「でも、商人としては当然白鯨の討伐、大いに応援しますわ。ウチら商人にとって、白鯨の存在は死活問題。勿論うちの傭兵団も手ぇ貸すよ? みんな準備は万端やし」
「待て。卿らの話を聞くと、かなり時間の猶予がないようだが?」
「ああ、そこは話してへんの? なんでヒナヅキくんがいないのかも関わってくるのに」
細めた流し目に見られながら、スバルはドキリとする。が、事ここに至って、これ以上に情報を隠匿するのも何かと不味い。
士気に影響が出るかもしれなかったが、実害が出るよりはましだ。
「ああ、そうだ――ミーティアによると、白鯨が出るのは今から約三十一時間後、明日の夜だ。場所は……フリューゲルの大樹、その近辺だ」
「三十一時間、フリューゲルの大樹」
クルシュが残り時間の少なさに驚く。
そう、時間との勝負なのだ。白鯨の出現時間と場所の情報は、その存在が出現する寸前までしか価値を持たない。
しかも、スバルが知るのは一度目のみだ。
白鯨を討伐するのを目的とするならば、
「三十一時間以内にリーファウス街道に討伐隊を展開し、出現した直後の白鯨を一瞬で仕留めなければならない。そのために必要なものは……」
素早く状況を呑み込んだクルシュにスバルが応じ、部屋の中の人員を見渡す。と、スバルの言葉を引き継ぐように前に出たのは老齢の剣士――ヴィルヘルムだ。
彼はこれまでの沈黙を破り捨てると、
「まず討伐隊の編成。これ自体はすでに数日前より、滞りなく。そも、白鯨の出現時期に合わせての準備です。王選の開始とほぼ同時になったのは、クルシュ様の強運の為せる業だと思いますが」
「話が早いな! 白鯨の出る時期ってランダムだろ!?」
パターンがあるのか、とスバルは驚きを口にする。
以前までの世界で、オットーなどの口ぶりからすると、白鯨の出現は場所も時期も完全にランダムで、それ故に神出鬼没の怪物と恐れられているようであったが。
「ヴィル爺の執念の賜物にゃの。もう十四年も、そればっかり考えて色々とやってきてたんだからネ」
言いながら、スバルの疑問の声に答えたのはフェリスだ。彼はヴィルヘルムの隣に並ぶと、その肩幅の広い老人の腕に触れて、
「ですが、いまだ武器や道具の準備は万全とは言えませんが……」
フェリスの言葉にヴィルヘルムが頷く。が、老人はその鋭い瞳をスバルへ、それからアナスタシアとラッセルの二人へ向けると、
「そのための意味も合わせて、お二人の同席というわけでしょう。スバル殿」
「いやまぁ、こういうこともあろうかとってやつ?」
頭を掻き、ヴィルヘルムの言葉に弱気ながら謙遜で答えるスバル。
そのスバルの消極的な肯定の返事を受け取り、ラッセルが己の顎に触れて、
「すでに組合を動かし、準備を進めております。明日の昼過ぎまでには、王都中の商店から必要なものをかき集めてみせましょう」
「ホーシン商会も同じく、商機を見逃さんのが商人言うもんや。これがウチが呼び出しに応じた大きな理由……あぁ、ええなぁ」
ラッセルに続き、アナスタシアも力強い協力を宣言。
そしてアナスタシアに関しては興奮した表情で笑っており、紅潮した頬と可憐な容姿も相まって、それは非常に絵になる姿であるのだが、理由が理由だ、恐怖が勝る。
「今味方だからアレだけど、改めて聞くとマジおっかねぇな、この商人!」
「いや、親友ながらにそれは同意っす」
悲鳴を上げるスバルに、応じるアリシア。
しかしそれを受けても「ええやんええやん」とアナスタシアは上機嫌。
「なるほど。この場面において、覚悟が足りていなかったのは私の方だというわけか。感服したよ、ナツキ・スバル」
交渉の第一段階、即ち、乗り越えなければならない壁のひとつの突破だ。
事前に準備を張り巡らせた結果とはいえ、それでも紙一重の成立だとしか思えない。イレギュラーがスバルに味方したことも、反省点のひとつといえるだろう。
それでも、
「なんとか、王都に残った面目は保てただろ、レム」
「――はい。さすが、スバルくんは素敵です」
言って、クルシュたちに差し出すのとは反対の手を、握られっ放しだった方の手をやわらかに握り返して、交渉の勝利をレムと分かち合う。
王都に残った当初、スバルに打ち明けられない彼女は孤独の中、クルシュとの交渉に臨んだはずだ。許された権限いっぱいで交渉に挑み、それでもなお同盟を維持することはできずにいた。 それが、すべて良い方向に解消して今のレムの笑顔が作られたのならばそうだったとしたら、今はそれだけがスバルには嬉しかった。
そして――もう1人にもこの吉報を伝えたいものだ。
「そういえば、ヒナヅキ・シャオンがいない理由とはなんだ?」
「ちょうどその話題だ――これは、白鯨の件とは少しだけ話がずれる……白鯨を呼び出せるやつがいる」
「なに?」
クルシュが眉をあげ、フェリスが眉をしかめ、ヴィルヘルムの目が細まる。その言葉に事情を知っている一部の人物を除いて明らかな動揺が生まれるのがわかる。
怒り、困惑どれも似たような感情ではあるが、あまりいいものではない。
だからスバルは慌てて言葉を付け足す。
「でも、安心してくれそいつの対処に関してはシャオンが、引きつけているんだ。それに関しては、俺らの白鯨討伐には絶対関わらせないはずだ」
「ふむ……」
それでも心配なのか、あるいは信用ができないのかクルシュは考え込む。
「シャオンの実力はあの場にいた方々ならば把握しているはず、スバルの言葉は信憑性があると思うっす。それに」
「それに関してはウチからも保証しとこか、あの”竜砕き”に対していい勝負しとったからな」
アリシアとアナスタシアがフォローするようにクルシュへと進言する。
どうやらシャオン自身もアナスタシアのところで実力を見せていたらしい。それが実を結ぶとは予想できていなかったが、どうやらクルシュを納得させるのに十分なものでもあったらしい。
「ほう。であれば、問題はないが……ナツキ・スバル。何か言いたいことがあれば安心して口にして構わない。もう、同盟の破棄などといったことは行うつもりはないのでな」
こちらの心を読んだかのようなクルシュの配慮に感謝をしつつ、スバルは口にする。
今までとは違ったような、おどおどとした様子ではあるが、確実に。
「えっと、だから、白鯨は必ず、この機会で討伐してくれ。シャオンが……俺の親友も命を賭けてるんだ」
白鯨の討伐に全力を尽くすのは当たり前のことだ。
だがそれでも、スバルの中にあるのはこの場にいない、一人で戦うことになる男の姿を思い浮かべると口を開かずにはいられない。
その言葉に呆気に取られている人物がいる中、
「色々と問いただしたいこともあるが、ナツキ・スバル」
クルシュだけはしっかりとこちらの目を見据え、答える。
「卿のその想いに嘘はない様だ、であれば同盟相手として全力を尽くそう」
「――ありがとう」
そしてその芯の通った声に、返事に、小さく、本当に小さな声ではあるがスバルは感謝の言葉を口にしたのだ。
原作とほぼ同じ部分はだいぶ割愛しております。
次回、戦闘。