Re:ゼロから寄り添う異世界生活   作:ウィキッド

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小指の約束

 月明かりが木々に遮られ、森の闇は深い。行く手に立ちはだかる木々を避け、枝葉を掻き分けて進む内、体のあちこちに血のにじむ擦過傷が生まれる。

 だがそれらの痛みを感じるよりも、ただ速く足を駆けさせる。だがいまだに子供たちが見つかる様子は微塵もない。

 先陣を切っていくのはレム。その僅か後ろにスバルとアリシア。シャオンは背後を警戒しながらついてきている。

スバルの目の前の少女は小さく鼻を鳴らしている。その警察犬めいた仕草を指差し、

 

「シャオンもレムそうやってるけどさ、実際臭いで追いかけるなんて真似できんの?」

「一番誤魔化しのできないところですよ。姿かたちや声は偽れても、存在からにじみ出るそれだけは偽れないものですから」

「まぁ俺はレム嬢ほどの嗅覚じゃないけどね。この暗闇だと目だけでは探しきれないから」

 

 当人ではないのでわからないが、どうやらレムとシャオンでは嗅覚に差があるらしい。頼りになることには違いないが。

 

「うちの団長みたいな種族じゃないのによく嗅ぎ取れるっすね」

「団長……?」

 

 スバルはアリシアの口から出た言葉に首をかしげるが、彼女の説明が来るよりも前にレムが足を止めた。

 

「――! 近くに、生き物の臭いです」

 

 レムが顔を右に向けて瞳を細める。スバルは同じ方向につられて目を向けるが、広がるのは一向に変わらない闇だけだ。

 

「子どもたちの臭いか!?」

「わからない。だけど少なくとも獣の臭いじゃない」

 

 レムだけでなくシャオンも嗅ぎ取れたのか僅かに警戒の色を浮かばせた表情で答える。

 

「それだけわかれば十分っす!」

「とにかく行きましょう。こっちです」

 

 身を低くして駆け出すレムに、スバルも追いすがる。

 心なしか、レムの声にも弾むような音色があった。暗闇の中に見えた、文字通りの光明に足取りは意識せずに逸っている。

 だが、期待と不安は表裏一体だ。

 二人が捉えた臭いが子どもたちだと断言しなかったのは知らず知らずその不安を認めているからこそだろう。だからこそ、答えを一刻も早く見つけ出す必要があった。

 前を行くレムは手にした鉄球を乱暴に振るい、道幅いっぱいに広がる樹木を抉り飛ばして道を作る。その煩雑なやりようには焦りが強く感じられ、後を追いかけるスバルも自然と地を踏む蹴りつけが強くなっていた。

 息が切れ、足が重くなる。しかし、転んでタイムロスになることだけは避けるように踏ん張る。次第に真っ暗闇にも目が慣れ始め、スバルの視界にもわずかばかりに森の光景が映り込み始める。

 と、そんな慣れ始めた視界はふいに目の前で開けた。森の中、ぽっかりと木々が口を開けた空間があった。小高い丘が広がるそこは空が開けており、差し込む月光がいっそ幻想的な雰囲気すら醸し出している。

そんな小高い緑の丘、月明かりをを受けるその場所に――、

 

「子どもたちっす!」

 

 緑の絨毯にぐったりと、四肢を投げ出して寝転がる子どもたちの姿があった。

 真っ先に駆け寄ったアリシアに続き、スバルもレムとシャオンと共に子どもたちの安否を確かめる。

 倒れているのは全部で七人。わずかに腕に噛まれた跡がついているがそれ以外に外傷はなく、全員の意識はないが幸いにも呼吸は止まっていない。

 

「生きてる。――生きてるぞ!」

 

スバルは拳を固めて喝采を上げる。どうやら最悪のケースを回避することはできたようだ。

 アリシアとシャオンもそのことに、ほっとした表情を浮かばせる。が、その傍らで眠る少女の容態を見ていたレムの表情は優れない。

 

「今はまだ息がありますが、衰弱が酷すぎます。このままじゃ……」

「衰弱……呪い!」

 

 改めて見れば子どもたちの顔色は蒼白で、熱にうなされているかのように喘いでいる。額にはひどく冷たい汗が浮かび、苦しげな寝顔をしていた。

 

「なんとか、なんとかできないのか。シャオン、治療はできるか?」

 

 ありとあらゆる傷を治療できるシャオンの力。不確定要素が多い能力だがその威力は保証できる。

 シャオンも急いで子供に近づき、軽く拳を当てる。するとわずかに光が瞬き、

 

「……駄目だな」

 

 輝きが収まる頃には体についていた僅かな擦過傷などはなくなったが、子供たちは苦痛の表情を浮かべたままだ。

 

「レムも癒しの魔法をかけつづけます。少しでも体力を戻さないと」

「ああ、頼む。俺達はどうしたらいい?」

「周囲の警戒を。それと、子どもたちを一ヶ所に集めてください」

 

 レムの指示に従い、子どもたちを彼女の前にずらりと並べる。苦しげに呼吸する子どもたちを痛ましげに見やり、レムは地面に鉄の柄を使って円を刻んだ。

 子どもたちをすっぽりと包み込む形の円、その縁にしゃがんで手を触れ、

 

「水の癒し、その祝福を与えたまえ――」

 

 詠唱に続き、淡く青い光が粗末な円の中に浮かび上がり、寝ている子どもたちの体を柔らかに覆うと、その光をゆっくりと体内に沁み込ませていく。

 その輝きが癒しの波動であるのだと、優しく柔和なきらめき。

 時間が経つにつれて光は子どもたちの体に浸透し、次第に苦しげだった呼吸がわずかではあるが穏やかなものへと変わり始めた。

 

「……すげぇな」

 

 シャオンの能力で治療した時とは違い、子供たちの顔色は良くなる。癒しの拳と治癒魔法、何か通常の魔法とは違うものがあるのだろうか。

 

「駄目です。言った通り、これは気休め。こうして体内のマナに語りかけられる内は大丈夫かもしれませんが、それが枯渇してしまえば応急処置にもなりません。一刻も早く、根本的な原因を排除しないと」

「解呪、だな。よし、戻ろう。屋敷まで行けばベアトリスとパックが何とかしてくれる」

「なら急いで子どもたちを担いで……」

「――スバル?」

 

 即時撤退の覚悟を固めた直後、ふいに名前を呼ばれてスバルは驚く。声の方へ視線を向ければ、そこには薄目を開く麻色の髪をした少女の姿があった。

 そして少女の手には彼女の妹分である赤髪の少女の手が握られていた。

そして、僅かに意識が戻ったらしき少女はその瞳にスバルを映し、苦しげに喘ぎながら、

 

「スバル、スバ……」

「起きたのか、ペトラ。よし、いい子だ強い子だ。妹分をしっかりと守ったんだな。でも無理すんな。すぐに連れ帰って、苦しい理由とはサヨナラさせてやる。あとは俺たちに任せてくれていいから、今は大人しく休んで……」

「ひとり、奥……まだ……奥に……たすけて、あげて」

「……? まさか――」

 

 途切れ途切れになにかを伝えようとするペトラ。

 その断片的な情報に聞き逃せないものを感じ、子供たちに視線を戻す。そして、あることに気付いてしまった。

 その事実にスバルは小さく「くそ」と悪態をつき、それから森の奥へと視線を向け、

 

「昼の、あの場所にいた面子が行方不明のガキ共なら……」

「あのお下げの子が、いない」

 

 シャオンもスバルの言いたいことに気付いたようだ。

この場にいたのは七人、全員が名前を見知った子どもたちだ。が、この場に欠けているのは昼間にスバルを子犬の場所へと導いた少女。引っ込み思案なのか、なかなかスバルたちの輪に入ってこれなかった内気な子だ。

 そんな子が、この場にその姿を現していない。

 

「クソったれ」

 

 もう一度悪態をついて、スバルはその場に立ち上がる。

 

「レム。子どもたちに癒しの魔法をかけっ放しにすれば、制限時間を延ばすことはできるか?」

「……現状は、可能です。でも、本当にそれはただの時間稼ぎにしかなりません。レムもこの場にかかりっきりになってしまいます」

 

 スバルの意図が読み取れず、応じるレムの言葉の歯切れは悪い。

 それを聞きながら、スバルの脳はめまぐるしく回転させる。どうすればいいのか。この場において役立たずの自分は、どう動くのが最善となるのか。 

 幸いにもこの場にいるのはスバルだけではない。

 

「レム。子どものひとりがまだ奥に連れていかれてる」

 

 そして、恐らくそこにこの事件の元凶である魔獣がいる。だが、一人で魔獣と居て生き残る可能性は少ない。

レムもそれを知っているのだろう、表情が暗くなる。

 

「状況が悪いのは俺もわかってる。でも、かなりヤバいって思ってた子どもたちの命はどうにか拾えた。なら、残りも拾い切る努力はするべきだろ?」

「欲張って、拾って戻れるはずだったものまでこぼれ落とすかもしれませんよ」

 

 確かにレムの言うことも十分にわかる。だが納得はしたくない。

 

「アタシはスバルの意見に賛成っす」

 

 アリシアは横たわる子供の一人を優しく撫でながら、しかし覚悟を込めた声でスバルに同意を示す。

 

「もしも、たった一人だけ助けられなかったってなったら子供たちに顔向けできないっすから」

「それになにも俺も考えなしにこんなこと言ってるわけじゃねえよ」

 

 食い下がるレムが鼻白む。彼女の前でスバルは両腕を広げ、

 

「レムの力なら七人担いで逃げるのも無理じゃねぇだろ? 逆に俺もそこそこ力自慢なつもりだったが、ガキ七人担ぐのは無理だ。せいぜい二人、無理して三人ってとこ。シャオンと協力したら全員担げるかもしれないけどそれでもきつい。アリシアも十分馬鹿力だけど、俺たちに合流するのは難しい」

 

「でも……」

 

「俺が奥を見てくる。レムは子どもたちを連れて、一度村へ戻ってくれ。――なぁに、無理無茶無謀はしねぇし、できねぇよ。村の連中に子どもたちを預けたら、レムが飛んで戻ってきてくれればいい」

 

スバルの無茶苦茶な論法を、レムは無言で聞いている。

その彼女の視線が一向に和らがないのを受けながら、しかしスバルの唇は口八丁手八丁でまくし立てる。

スバルの判断が受け入れ難いのか、レムはスバルの袖を掴んで言い募る。

こちらの身を案じているのか、それとも純粋に無謀なスバルの案を飲み込むことができないのか。前者だと嬉しいなと思いながら、スバルは苦笑して彼女の指を袖から外す。

 

「スバル、もしもあの連れていかれた子供が、その、最悪の状況だったら――」

「ああ、それなら俺も引き返すさ。でも、もしもまだ望みがあるなら、時間稼ぎぐらいはできる」

 

 言いにくそうなシャオンの言葉を遮りスバルは断言する。

 

「相手がどんな相手なのかもわからない上に、レムがどのぐらいで戻ってこれるかもわかりません。最悪、見失って合流できないことだって……」

「なぁに、見失ったりしねぇさ」

「なにを根拠に……」

「根拠ならあるとも」

 

 その言葉を待っていたとばかりに笑い、スバルは自分の鼻に指で触れて、それから彼女の顔を指差し、

 

「――魔女の残り香」

 

 スバルの口にした単語に押し黙り、目を見開くレム。

 彼女のその驚愕に、いつかのレムに、このレムが知らない彼女に意趣返しするように笑みを深める。

 

「他の誰も気付かなくても、お前だけは俺の臭いに気付く。俺の身にまとう悪臭に、咎人の残り香に――そうだろ?」

「スバルくんは……どこまで、知って……?」

「さぁて、わかんねぇことばっかりだぜ。わかんねぇことだらけで、昨日も今日も明日も、何度繰り返しても望む答えになかなか辿り着かない。はぁ、人生って辛い」

 

 急な話題の飛び方に、レムは煙に巻かれたような顔をする。そんな彼女の反応を仕方ないと思う反面、このことを笑い話にできる自分の心境に驚嘆する。

 慣れてしまったのか、はたまた壊れてしまったのか。どちらにしろ似たようなものだが。

 

「お前が俺に聞きたいこといっぱいあるみたいに、俺もお前に聞きたいことがいっぱいある。だから、全部片付いたらお話しようぜ。勿論、お前が作ったお菓子をつまみながらな」

 

 そうして無理やり、手に取ったままだった彼女の指と己の指を絡める。

 小指と小指が絡んだ状態で、レムはスバルを戸惑いの瞳で見る。そんなレムの前でスバルは大きくその絡めた指を上下に振り、

 

「ゆーび切った、と」

「い、今のは……?」

 

 畳みかけられ、スバルの言動はもはやレムの理解を越えている。困惑に困惑を重ねて言葉もないレムに、スバルは「つまるところ」と前置きして、

 

「俺はレムを信じてるよ。だから、レムに信じてもらえるように俺も行動したい。そのための約束を、今しよう」

「――――」

「言ったろ? 俺は約束を守るし、守らせる性質だって。だから、心配されなくたってへっちゃらぷーだっての」

「ぷーって……」

 

 ついに堪え切れず、レムが呆れのため息をこぼしながら力なく笑う。

 そのまま笑いの衝動を殺し切れず、レムは小さく笑い続け、それにつられたようにスバルもまた声を殺したまま笑う。

 そうしてひとしきり笑い、笑い終えて、顔を上げたレムは、

 

「約束、しましたよ。――本当に、色々と聞かせてもらいますからね」

「初恋の子の名前でもなんでも話すよ。現在進行形で好きな子の名前以外はな」

「それはもう知ってます」

「本人には届かないのにね!」

 

 どこか、置き去りにしていたような彼女とのやり取り。

 それを再現して、スバルは己の満足を得る。レムもまた、真剣な面差しで、頷く。

 

「ちょいちょーい、お二人さん」

「いい雰囲気になるのは構わないんすけどね、途中からアタシたちのこと忘れてないっすか?」

「いやっ!? しっかりたよりにしていますよっ!」

 

 不満そうにレムとスバルのやり取りを眺めていた他の二人組が、抗議の声を上げる。慌ててフォローすると、その必死な姿が面白かったのか二人は笑いをこぼした。

 

「スバルの戦闘力のなさは俺たちでカバーできる。だから、レム嬢は安全確実に子供たちを頼む」

「なんかよくわかんないすけど、レムちゃんはスバルの体臭を嗅ぎ取れるんすよね? なら適任すよ」

 

 スバルと同じように、二人もレムが無事合流することを疑わない。

 そのことにレムは紡ごうとした言葉が詰まり、しかしすぐに覚悟を決めた顔つきに変わる。

 

「すぐに戻ります。皆さん、決して、無茶はしないでください」

「ああ、エミリアたんにも怒られちまうしな、気をつけよう。――ま、それに大丈夫だって。今日の俺、だいぶ鬼がかってっから」

「神がかる、じゃなくて?」

「神がかるの鬼バージョン! 最近の俺のマイフェイバリット!」

 

 両腕を交差して足を開き、虚空を掴む新ポージング。周囲の反応は何もない。だが、レムは、

 

「また、あとで」

 

 と、一言を残し、子どもたちをひとまとめに抱え上げる。小柄な少女がその小さな肩に、年少とはいえ人を六人も担ぐ姿は大道芸じみていて、こんな状況なのに遠ざかる背中を見送りながらスバルは笑ってしまう。

 静寂が落ちる世界で深く息を吐き、スバルはゆっくりと件の方向へ振り向き、

 

「んじゃま、やるとしますか。お二人さん、手を貸してくれよ」

「足震えてるっスよ」

「ついでに言うと手もね」

「だーっ!指摘すんなよっ!」

 

 かっこつけたことを台無しにした二人の指摘に照れ隠しと、空気を読んでほしいという意味で吠える。

 

「……ん?」

 

 そんなスバルの両腕をアリシアとシャオンがそれぞれ手に取り、小指を絡める。

 

「アタシたちも、ゆびきりするっす」

「時間がないのはわかってるけど、こういう願掛けは意外と役立つからね」

 

 強引に絡ませた小指をそれぞれ上下に振らせた。

 体勢上一つの輪を作るようになったが、指切りが終わるとともにその輪も切れた。

 スバルはその僅かな指を絡ませた間に気付くことができた――二人の小さな震えを。

 二人ともスバル程ではないがわずかに震えを隠せずにいたのだ。

 仕方ない、命を懸けて戦うというのはやはり誰でも怖いのだ。

 頼りになる二人のその姿を見ても、不安にはならない。むしろこの恐怖を感じているのはスバルだけではないということ、そして、

 

「――行こう」

 

 何より、その伝わってくる暖かさから自分は一人ではない、そう訴えられているようで、不思議と震えはどこかに消えていた。

 

 心は急ぎ、しかし足取りは慎重に。

 シャオン達は森の奥――朦朧とした意識の中でも懸命に絞り出したペトラの言葉に従って、暗い夜を裂くように駆けていく。

息を殺し、足音を殺し、魔獣どもに悟られない様に森を進む。

 この戦い、勝算は限りなく低いものだろう。

 シャオン達の勝利条件はお下げの子供の安否を確認、そしてできるならば連れ帰ることだ。逆にそれ以外はこちらの負けとなる。

 子供達を襲ったのがあの子犬ならば撃退は容易だと考えるが……

「さすがに負けねぇ、よな……?」

「たぶん。でも油断は大敵……以前の戦いで十分に身に染みたからな」

「魔獣に見た目なんて関係ないっすよ。その気になれば数倍になれるのが奴らっすから」

 あの魔獣が巨大化したり、上位の魔法を使えたりしたら……などと最悪の想像が頭によぎる。

 

「よせよせ、やめろ。最悪のパターンを描くと、喜んでそのラインをくぐってもっとひどい状況を持ってくるんだ」

 シャオンの顔色から心情を読み取ったのかスバルが肩を小突く。

確かにこれまでの実績を鑑みて、手酷いしっぺ返しを食らう前に予防線を張る。その予防線を無慈悲に引き剥がし、下に隠した傷口を抉るのがこの世界なりの親愛の示し方だと身をもって知っている。

 ならばできるだけ明るく、ポジティブに考えようと決めたその時、

 

「――止まれ」

 

ふいに生じた悪臭に息を詰め、足を止めるよう呼びかける。

 二人もシャオンの緊張した声に警戒をする。

空気が変わる、という感覚が如実に肌に伝わせ、大気の温かさが変わり、空気の流れが乱れるとそれは更に異臭を運んでくる。

 先ほどまでは鬱蒼とした草と土の臭いだけが立ち込めていた森の中に、思わず顔をしかめてしまうほどの生臭さが漂ってきていた。

 嫌な予感を掻き立てられるのを止められないまま、シャオンは息を殺して前へ。

 ――それは森の深い闇と同化する、漆黒の体毛をまとっていた。

体躯は大型犬に匹敵するだろうか。長い四肢が大地をしっかりと踏みしめ、重量のある長い体を支えている。発達した獣爪と、口の中に収まり切らない牙は、まさしく肉を穿ち切り裂くことに特化して進化した暴力の結集だ。

 枝葉に光を遮られる闇の中にあって、その爛々と光り輝く赤い双眸だけは見落としようがない。それは周囲をめまぐるしく睥睨し、その牙に獲物をかけることをいまかいまかと待ちわびているように見える。

 こと、暗闇に浮かぶその姿を見て、はっきりとわかる。――屋敷を襲った魔獣と同じ種類だ。 

 あちらはこちらの存在に気付いていないようで、今なら撃退は楽だろう。だが、わざわざ危険を冒す必要もなく、この場から離れてレムとの合流を待とう、そう判断しかけたときだった。

 

「――――」

 

 魔獣が立ち尽くす森の深淵、倒木が折り重なる場所がある。おそらくはその倒れた木々の隙間に、魔獣の住処のようなものがあるのだろう。

 ――その倒木の傍らに、ひとりの少女が打ち捨てられていたのを目にした。

 ボロボロになった衣服。ほつれてしまった藍色のお下げ。白い肌にはあちこち血がにじみ、うつ伏せに倒れる体の負傷がどれほどのものかは遠目ではわからない。

 だが、しかし、その子は、

 

「――う」

 

 小さく、か細く、声がした。

普通に考えれば届くはずのない距離だった。あるいは少女が生きていてほしい、という希望が生んだ幻聴かもしれない。

 証拠に件の少女はピクリとも体を動かさない。うめき声も二度目は聞こえない。

 弱々しい呟き、視線の先では魔獣がその首をぐるりとめぐらせ、倒れる少女の方を見ていた。そのまま鋭い爪で地面を掻き、ゆるやかな動きで彼女へ向かう。

 魔獣の意図が読めない。彼女をここまで引きずり込んだのは奴のはずだ。いつだって、奴は彼女を殺せたはずだ。なのにまだ生かしていた。生かしていたあの子が動いたから、今度はそれを止めようとする。

 

「――止めなきゃ」

「あ、ああ」

「ちょいまち、お二人さん」

 

 今にも駆け出そうとする二人を止める。

 当然、獣よりもこちらを先に殺すぞとでも言いたそうなほどの殺意を向けられる。

 だが、それを治めるよりも早く、不可視の手を発動し、魔獣の首をたたき折る。嫌な音が聞こえるとともに、魔獣の口から血が吐き出される。

 そして、魔獣は血を吐くことすら止め、完全にその命を停止した。

 

「い、いったい何が」

 

 状況が全く分からないアリシアに説明しようとすると、

 

「――あれ?」

「どしたよ」

 

 隣で疑問の声を上げるスバルが信じられない光景でも見たかのように、目をこする。そして、こちらに顔を向け、

 

「いま、一瞬お前の不可視の腕がみえたような」

「本当?」

 

 今までは決して視認することができなかった不可視の腕。それがスバルにも認識できた。それも何のきっかけもなく、突然に。

 

「見える?」

「……いや、全然。気のせいだったかも」

 

 だが、残念なことに、極度の緊張が生んだ幻覚だったのかもしれない。別段スバルに見えても何のメリットもないと思うが少し残念だ。

 

「な、なにがなんやらなんすけど、倒したんすよ、ね?」

「ああ――そうだ、あの子はっ!?」

 

急ぎ、倒木の傍らの少女の下へ。

高揚感も勝利の余韻も今は必要ない。ただただ、今の争いの果てに求めたものが取り戻せているか、それを確かめたい焦燥感の方がずっと勝っていた。

 

「――無駄に、ならなくてよかった」

 

 左腕を抱えたまま倒木に背中を投げ出し、スバルは深い安堵の息を吐く。

 どうやら救出目的の少女の体に確かな生命が残っていることが確認できた。むしろ、遠目で見てもその顔色は先ほどの子どもたちと比較しても血色がよく、ささやかな外傷を除けば被害はないと言える。

 

「心配かけやがって……まぁ、いいってことよ。女の子の体に傷なんか残っちゃった日には、責任とってお嫁にもらってあげにゃいけねぇもんな。エミリアたん、一夫多妻には厳しそうだし」

「一妻すら難しい状態なんじゃないっすか?」

「もうすこしオブラートに包もうぜ? 結婚は難しそう、とか」

「そっちの方がひでぇ」

 

ドッと安堵が降り注げば、戻ってくるのは軽口による精神安定だ。

 スバルだけでなくアリシアも、そしてシャオンも精神的にだいぶきつかったものがあったのだ。こんな軽口を口にだすぐらい許してくれるだろう。

さて、レムには時間稼ぎなどと言ったものだが、蓋を開けてみれば呆気ないともいえるほどに、見事、脅威事態を排除した形になる。

 この後は大人しく、レムの合流を待つのが得策だろうか。下手に入れ違いになるよりもそのほうがいいかもしれない。

 

――ふと、生き物の臭いがした。

 

「――ッ!」

 

 顔を上げる。慎重に、確信を得るためにもう一度嗅覚に意識を回す。

 同じ臭いが真っ直ぐ正面――シャオン達が様子を伺っていた方角から漂っていた。そして同時にその方向にある茂みが揺れる。

 その方向はレムと別れた方角にもなる。ともなれば、茂みを揺らしてくるのは青い髪のあの子……だったらどんなに良かったのだろう。

 シャオンが嗅ぎ取れた臭いは――

 

「待ちくたびれたぜ……あいにく、お前の相手は残ってねぇよ」

 「違う、スバル。レム嬢じゃない」

 

 来訪者がレムだと思い込んでいたスバルは、その言葉に緩んでいた顔を引き締めさせ、茂みからゆっくりと離れる。

 そう、シャオンが嗅ぎ取った臭いは――今さっき葬った獣と同じものだった。

 

「アリシア、スバルとその女の子に指一本触れさせんなよ!」

 

 草木が揺れ、茂みの向こうで立ち止まる気配。茂みが揺れる、向こう側から踏み出してくる、背の低い四足の影。

 そして、

 

「おいおい、嘘だろ……」

 

 夜の森を煌々と切り裂く赤い双眸――その光点が数えきれないほど、正面の木々の群れの向こうから覗くのが見えた。

 数えるのも嫌になるそれは、おそらくは両手両足の指を足してもまだ足りない。

 ふと、シャオンは自分の頬に右手で触れ、それが引き歪んでいるのに気付いた。口の端がひきつり、笑みの形を作っている。

 人間、ピンチになると笑ってしまうとは聞いたことがあるがどうやら本当だったようだ。だが、それだけで心は折れない。なぜなら、ようやく進むことができたのだから。

 

「かかってこいよ――不可視の、手」

 

 二つの圧倒的な殺意がその一言に爆発し、静寂の森が狂乱に飲み込まれた。

 

 赤い光点がシャオンめがけて一斉に飛びかかってくる。

 近づくにつれ、それが次第に輪郭を結び、漆黒を身にまとう猛獣が牙をむき出して襲いかかってきているのだと見てとれた。

 背後でスバルの叫び声が響く。だが、シャオンは慌てない。慌ててしまったらここにいる全員の死につながってしまう。なので焦らずに不可視の腕で目の前の魔獣を薙ぎ払う。

 魔手に襲われた魔獣たちは悲鳴を上げる時間すら与えられず、首と同体を分断され、吹き飛ぶ。

至近での撲殺に血飛沫がばらまかれ、頭からその鮮血を浴びる。

 ねっとりとした液体が頭を襲い、その不快感を払うことと、視界を確保をするために頭を振るって赤い液体を飛ばす。

 目の前の魔獣たちはいったい何が起きたのか知覚できていない。だが、確実に警戒させてしまったようだ。

 じりじりとシャオンから距離を取る。シャオンもそれに合わせて距離を詰める。

 すると、警戒を露わにしている魔獣の頭が、勢いよく粉砕された。その異常事態に他の魔獣が反応を示すよりも前に、2匹、3匹と同じように赤い華を咲かせ、その命が失われていく。

――いったい何が起きた、その疑問はすぐに解決された。

 

「遅くなりましたが――レムがいなくても大丈夫だったかもしれませんね」

「いや、ふぅ。この数で、しかも守りながらの戦いって結構しんどいからマジで、助かったよ」

 

 茂みの奥から現れたのはレムだ。

 スカートの裾を優雅にひるがえし、白いエプロンドレスを片手で軽く摘まみ、それと反対の手に血の付いた凶悪な鉄球を携えて、青い髪の少女が深淵に降り立つ。

 身を回し、ダンスを踊るかのように軽やかなステップと共に、鎖の音を響かせる。、

 その反応を横目に、レムはゆっくりと己の正面――新たな獲物の参入に、舌舐めずりしてこちらをうかがう魔獣の群れを見やる。

 奴らは群れの一匹が一瞬で屠られた事実を、決して軽んじて見ていない。ケダモノの見た目に反して連中は、かなり強かで小賢しいのだ。

 

「レム……」

 

 仁王立ちするその背中に声をかけ、その警戒を促す。

 スバルのトーンを落とした声にレムは振り返らず、ただ吐息をこぼし、

 

「スバルくんのひどい体臭を追いかけて、さらに人目をはばからない奇声に急いで駆けつけてみればこの有様。碌な状態じゃありませんね」

「ひどい体臭とか軽く凹む。あと、自覚ないけど俺ってさっきなにを叫んでたのか詳しく聞きたい」

 

 鉄の柄で正面を指し示し、レムはまるで挑発でもするように剣呑な光を瞳に宿す。その敵意を向けられる魔獣たちの心中は穏やかではないらしい。黙してこちらを睥睨していた奴らの目に、はっきりとした交戦の構えと蹂躙の先走りが浮かび出していた。

 

「それはまた今度、時間があるときにレムの気が向けば」

「――レム嬢!」

 

 シャオンの叫びを合図に彼女の正面でふいに生じたのは、左右に散る二匹の魔獣の猛攻だ。彼女までの距離を数歩まで詰めたところで、並走していた二匹が同時に左右に割れる。

片方を潰せばもう片方が確実に攻撃を当ててくる。効果的で、小賢しい策だ。だが、

 

「――――しっ!」

 

 鉄の柄を握る右腕が、ぞんざいに虫でも払うかのように振るわれる。

 うなりを上げて回転する破壊兵器はすさまじい勢いで、軌道上の全てを薙ぎ払い、その軌道の途中にあった二匹の魔獣の胴体を直撃させ、胴体を文字通り砕く。

 吹き飛ばされた魔獣の肉体は骨と内臓がぶちまけられ、地に落ちる。

 実際にシャオンはレムの戦闘力は知らなかった。

 ロズワールが言うには水魔法を扱うことができて、それなりの戦闘力を有して言るとは聞いたが……それが嘘でも謙遜でもなかったということが名実とともに明らかになる。

 

「つ、強ぇぇぇぇええええ!!」

「女性にその言葉はどうかと思いますよ、スバルくん」

「ボキャ貧の俺にはこんなんしか今の状況を表現する言葉が思い浮かばねぇよ。マジお前パネェな」

 

 スバルの激励を受けてもレムは表情を緩めない。

 

「これでも多勢に無勢、じり貧です」

「俺はまだ、いけるだろうけど、森で戦うにはあいつらが有利すぎるな」

「アタシも魔鉱石がなくなったら近接技しかできないっすね」

 

 戦闘要員である三人が現在置かれた状況の悪さを口に出す。だったらやるべきことは一つだ。

 

「ということは、撤退あるのみだな!」

「先頭はアタシがいくっす、スバルついてくるっすよ!」

 

 スバルは少女を抱いたままアリシアの隣へ。

 警戒しているのだろうか、新たに群れの二匹を失った魔獣たちの動きは鈍い。こちらの出方をうかがうように身を低くしている。威嚇の視線が光るものの行動にはでない。

 奴らは慎重と臆病を履き違え、最優の選択肢を自ら誤った。数で押されれば確実に死んでいたのはこちらだったのだ、おかげで生き残る道ができたので感謝するが。

 

「そこ!」

 

 スバルの叫びにレムの一撃が呼応する。

 大気を穿ち、殺戮を喝采する鉄球のうなり。それは狙い過たず、魔獣の群れが密集する地点のすぐ手前、その大地を爆砕――土塊と粉塵が舞い上がり、土砂の瀑布が飛び退く魔獣たちの視界を数秒間塞いだ。

 

「今だ――!」

 

シャオンの叫びに、スバルの体は蹴飛ばされるように走り出す。

隙間に飛び込むアリシアとスバルに、道を譲った魔獣が咆哮を上げる。猛獣は吠えながら再びスバルの進路を阻もうと跳躍するが、こちらを忘れてもらっては困る。

 

「フーラ!」

 

 風魔法をスバルに当てないように細心の注意を払いながら放つ。見えない空気の刃は魔物の腹を縦に裂き、確実に絶命させた。

 

「――うおおお 臓物がこぼれる音が背後から!!」

「我慢するっす! ほら走れっ!」

 

スバルは鮮血を浴びながらもアリシアの誘導を受け、ただ走る。そして遅れてシャオンとレムも続いていく。

 

「レム、道がわかんねぇ!」

「真っ直ぐ、正面です。結界を抜ければ勝負がつきます。それまで、方向を見失わないでください!」

「なら俺が誘導する。アリシアはこっちを頼む!」

 

 走るスピードを上げ、入れ替わるようにアリシアがレムの助太刀に、シャオンがスバルとおさげの子の前に移動し案内役になる。

 ほんのわずか先しか見えぬ暗闇が、これほど方向感覚を狂わせるとは思っていなかった。

 同じような景色が続き、自分がまるで一歩も進んでいないような感覚に陥る。だが、確実に臭いは村に近づいていることを知らせてくる。

「ああ、クソ! 横っ腹が痛ぇ――!」

「もっと鍛えとけ!」

 

 スバルの泣き言に八つ当たりの叫びをぶつける。そんな言葉を発する力すら足に込めろと言いたい。

 そしてふいに、眼前で闇が開かれる。

 視界が広がり、突然のことに思わず目を細める眼前、遠く、人工の明かりがともされているのが見えた。

 

「明かりだ! 人が……結界に辿り着くぞ!」

「はぁ……はぁ。こんなに走ったのは中学のマラソン大会ぶりだ」

 

文字通りの光明の出現に、首を後ろに向けて歓喜を伝える。

が、スバルとシャオンは直後に凝然とその目を見張ることになった。

 背後、こちらの背を守りながら戦っていた二人の姿が、あまりに壮絶だったからだ。

レムの糊の効いた仕立てのいいメイド服のあちこちに、爪や牙のいずれかによる裂傷がいくつも刻まれている。むき出しの白い肌には浅からぬ手傷がいくつも浮かび、目にも鮮やかだった青い髪は乱れに乱れ、頭からかぶった返り血が多すぎて元の色が判別できないほどだった。

 アリシアに至っては胴体を大きく切られており、出血が激しく、綺麗だった金髪も返り血か、負傷によるものかを判別できないほどに澱んでいた。

 

「二人とも――!」

「走ってください! ……レムが、レムがまだレムでいられる内に!」

「レムちゃんよそ見はしないで!」

 

 身を案じるスバルの声は、後ろからの強い言葉に切り落とされる。納得はできない。だが、その叫びに迷いを振り切って結界を目指して走る。

 

「……?」

「どうした――」

 

 呆気にとられているようなスバルの視線を追うと――それは結界を司る結晶の輝き、それが埋められた大樹のから離れた場所に向いている。視線は低く、ほとんど地面と平行の位置。その場所に小さな、小さな小さな影が蹲っているのだ

 そして、それに気づくと同時に小さな影――子犬の周囲が歪むほどのマナが生まれ――

 

「嘘だろ……」

 

 大きな土砂となってシャオンたちを襲い掛かった。真横から襲い掛かるその一撃は人の命を奪うには十分すぎる脅威だ。

 幸運だったことはその一撃は範囲は狭く手を伸ばして、引っ張ることができれば躱すことなど容易なことだ。

 だが、今まで走っていた足を止めてその行動に出るには難しすぎた。

 

「掴まれっ!」

「――ッ」

 

 転びそうになる体を何とか引き留めスバルの体を掴もうと手を伸ばしきる――だが、わずかに、届かない。

ゆっくりと、ゆるやかになる世界。

 その全てが遅々として進む世界で、目の目の友人が土砂に呑まれそうになる。

 

「スバルくん――!!」

「おごあああ!?」

 

 回避の手段はない。そして流れに呑まれれば、砂と石の狂宴は一瞬でその身を八つ裂きにするだろう。そう思ったと同時に、木々を巻き込みながらスバルがこちらに向けてぶっ飛ばされた。

 いきなり襲ってきた衝撃に思考が追い付かなかったが、ただ飛んできた二人を守るために体を抱え込むように丸め、そのまま太い幹に背中から激突、息が詰まり、地に落ちる。

 

「がはっ、あふっ、ああ……痛ぇ……ッ!」

「わ、悪い。そ、そうだレム――」

 

 スバルの言葉に点滅する意識の中、何とか目を開けると土石流が暴力的に地面をめくっている光景、そして、土砂流の直撃に木々の上まではね飛ばされる、レムの姿を直視した。

 そのままレムの体は受け身も取れず、地面の上に派手に落下する。唯一の幸いは土石流によって耕された大地が、落下した少女の頭を砕かなかったことだけ。

土砂流に襲われそうになるスバルを、レムが己の回避する時間を犠牲にして突き飛ばしたのだ。そして、自分はまともにその衝撃を受ける羽目になった。

 もちろん、人間の、それも女の子では耐え切れるはずのない威力。体の原型が残っていることすら奇跡に近いかもしれない。

 

「レム、バカ野郎! お前、こんな……俺は、これじゃ……!」

「どけ、スバル。今俺が――」

 

 治療する、そう言いレムの体に触れようと近づく。だが、そのシャオンを引き留めるかのように何かに引っ張られた。振り返るとそこにはいつの間にか追いついてきたアリシアの姿があった。

 

「アリシア……?」

「離れるっすよ。二人とも」

 

 なにを言っているんだ、とそう叫びかけた瞬間、シャオンの背筋が凍った。

 ――ゆっくりと、倒れていたレムの体が起き上がっていた。勿論そのことに驚いたが、さらに驚愕することは別にあった。

 レムの体はあれだけ派手な攻撃を受けたというのに、負傷の気配が見当たらない。それどころか、受けたはずの傷口が見る間に塞がる。すさまじい回復力が高熱を発し、血を蒸発させた。

そして、

 

「――はは」

 

ぐるりと、レムは理性の消失した瞳で何かを探す。そして、魔獣の姿をとらえると、返り血にまみれた形相を恍惚の笑みに歪む。

 

「なんだ、あれ」

「――鬼?」

「ああ、ずっと感じてた違和感の正体はこれっすか」

 

 三人はそれぞれが違う感想を口にするが、互いに現在みているものは同じはずだ。

 そう――髪飾りが外れた頭部から、白い角を生やした彼女の姿を。

 

「あは、ははは――」

 

 笑い声。まるで蝶の羽を毟って遊ぶ童女のような、剥き出しの残酷さから溢れるものだった。

 身をひるがえし、風に乗るレムの体が群れへ突進。足を止めていた先頭の魔獣が反応するよりも早く、その胴体がレムの踵に踏み潰される。骨を潰され絶命した魔獣、その死体を思い切り蹴り飛ばし、別の魔獣にぶつける。

 そして動きの止まるものから順に鉄球を、蹴りを、拳を浴びせる。

 

「魔獣、魔獣、魔獣――魔女!!」

 

 彼女はそのほとばしる獣性に身を委ねながらも、状況を見失っているわけではないのだ。その圧倒的な力で、己の内に燻るなにがしかの因縁を吐き出している。

 血が弾け、破砕した顔面から眼球が飛び散り、腸と脳漿がおびただしい勢いで森にばらまかれる。

 

「――っ」

 

 その 惨状は吐き気を襲うに十分なものだった。

 だが、何とか堪える。――今、声は出せない。それをしてしまえば、あのレムの意識に入り、殺されてしまいそうな気がしてならない。

 どれだけの返り血を浴びようと、白い角だけは決して汚れることはない。

 その存在は穢されることを拒むように、鋭い先端を光らせている。

 完全に状況に呑まれ、恐怖に体が縛られ動くことはできない。瞬くことすらできず、ただただ彼女の虐殺を見せつけられる。

 だが、虐殺の対象である魔獣たちはただ座して屠られるのを待つはずがない。硬直から逃れた個体が次々とレムを取り囲む。

 彼らは一撃ごとに死骸の数を積み上げながらも、少しずつ彼女の体に爪を、牙を届かせていく。

 元より多勢に無勢なのだ。最初に群れに加わっていた数を、森の中の移動の途中でさらに増やした魔獣の数は計り知れない。すでに最初の群れの数ぐらいは潰されているはずだが、闇夜に浮かぶ赤い光点は途切れることなく次々にわき上がっていた。

 数の暴力。単純ながらもその恐ろしさをシャオンたちは今、目にしているのだ。

 

「……まずいっすね。あれじゃ持たない」

 

 めまぐるしい状況の変化、だが変化していないことは自分たちが崖っぷちの状況にあるということだけだ。そしてアリシアの言う通り今のままではレムの体がもたずに朽ちるだろう。

 なにか、状況を変えることができることはないかと、考え始めたその時、

 

「シャオンっ――!」

「――!」

 

 唐突ともいえるスバルの叫びにシャオンもようやく気付いた。レムのはるか後方で、先ほどの土砂を起こした魔獣が、再びマナを集めているということに。

 発動前に気付けたことは僥倖。だがこの距離では魔法を使用しても間に合わない、ならば――

 

「不可視の手ッ――!」

 

 魔法よりも発動の速い不可視の攻撃を発動する。

 だが、威力よりも速度を重視したからか腕は一本のみ、そして大きさも小さい。

 

「ぐっ――!」

 

 逸る気持ちからか、それとも先ほどから行われている虐殺に思考が停止していたのを無理やり動かしたからか、僅かに不可視の攻撃はそれ、子犬の手前を抉ってしまう。

 直撃させることはできなかったが何とか魔法の発動を止めることができた。しかし、

 

「――魔女っ!」

 一番気づかれてはいけない存在に気付かれてしまった。レムがこちらに振り返り、今しがた魔獣の内臓を抉った手刀を構えてシャオンの方へ――しかし、

 ――駆け出そうとするその機を見逃さず、魔獣の群れが一斉にその背中に飛びかかっていた。

 

「――――ッ!」

 

 ――間に合わない。

 シャオンにレムの攻撃が当たるよりも、不可視の腕をもう一度発動させるよりも、魔獣の牙が彼女の柔肌を噛み抜き、命を奪うほうがわずかに早い。

 アリシアも魔法を飛ばすが、数多くの魔獣を殺すには足りない――もう、彼女を救うには間に合わない。

 諦め、せめて惨殺の光景を目にしないよう視線をそらす。だが、

 

「――え?」

 

聞こえてきたのは動揺したような声。

 理性が消えていた鬼の瞳に感情が戻り、血にまみれた凶笑がふと崩れ、状況がわからずうろたえているような少女の表情。

 そして、彼女がなにかを口に出すよりも早く、

「――がああああああ!!!」

 

 噛み砕かれた左腕の激痛に耐えられず、スバルの喉が張り裂けそうな絶叫を上げるのをシャオンは耳にした。

そしてそれに呼応するように、

 

「スバルくん――!!」

 

悲鳴のような声を上げ、レムは魔獣を蹴散らしながらスバルに駆け寄る。

「死なないで、死なないで、死なないで――!」

「くそっ! おい、意識を保て! 馬鹿っ!」

 

 シャオンは顔面を八つ当たり気味に殴りつける。すると、淡い光が彼を包み、魔獣の牙の痕跡をかき消す。

 癒しの拳でスバルの傷は治された。だが、いまだ意識はこちらに戻っては来ない。噛まれたショックで意識がないのだろう、でも息はある。

 

「まだ来るっすよ! とりあえず今はスバルを連れて退却するっす!」

「っ! レム嬢、スバルを頼んだ!」

 

 アリシアの言葉に現在置かれている状況を思い出し、放心しているレムを叱咤し、意識のないスバルとおさげの子を連れ、村へと駆け出した。

 




絶賛!インフルエンザ!
……すいません、文章荒いです。

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