「おい、兄ちゃん?」
中年が眉をひそめて、何のリアクションも起こさないスバルに声をかけてくるが、それをどこか判然としない意識で聞き流す。
「おい、兄ちゃん!」
大きな声で再度呼び掛けられる。そしてようやくスバルは飛び跳ねるように顔を上げ、周囲に視線をめぐらせる。
昼下がりの通り、場所は露天商の前だ。
八百屋のような店構えの中には、あちらこちらに色とりどりの野菜や果実が並べられている。そのどれもに見覚えがあるようで些細な違いがある。
左腕が無意識に動き腹部に触れ、そこに何の異常もない肉の感触を感じ取り、内臓がこぼれたような形跡が何もないのを確認した。
「もう、わけわっかんねぇ……」
それだけ呟き、スバルはこみ上げてきた吐き気と目眩に翻弄され、膝から崩れ落ちそうになる。
「っと」
しかしそれを受け止めた人物がいた。
「……シャオン」
「大丈夫……ではないわな」
苦笑いしながらシャオンがスバルの顔色を覗いてくる。そして彼の顔を見て改めて思い出すのはあの盗品蔵で起きた悲劇だ。
おぼろげだった記憶もだんだんと鮮明に思い出してきた。
ロム爺とフェルトがエルザに殺され、スバルはシャオンを彼女の凶刃からかばい、腹を裂かれて気を失った。それまでがスバルの覚えているところだ。
「なあ、シャオン。盗品蔵、どうなったんだ?」
「……ダメだった」
あの後誰かが偶然盗品蔵に駆けつけエルザを撃破ないし追い払い、なおかつスバルを治療してくれた。そんな展開だったら万々歳。あとはのんびりとサテラを探すだけなのだが、そんな展開は夢に過ぎなかったようだ。
そもそも八百屋の前にいる時点でそんな展開はあり得ない。つまりは殺されてしまったのだろう。あそこにいた人物は全員。そして以前に立てた仮説通りにスバルが死んでしまったことにより時間が巻き戻った。
「……まじ、死に戻りとかわけわかんねぇ」
異世界に召喚されたら何らかの能力を得るのはフィクションの世界ではよくあることだが、こんな負けること前提の能力を得ることになるなんて思いもしなかった。
「おいおい、お前さんら大丈夫か?」
項垂れるスバルを心配し中年が労るような声をかける。それにシャオンがスバルの代わりに応える。
「ああ、たぶん大丈夫。それより聞きたいことがあるんだ」
「あ? なんだよ急に」
なんなのだ、一体。これ以上混乱させないでほしい。
しかしスバルの心の声はシャオンに届くことはなく、事態は進んでいく。
「ああ。大丈夫、至極常識的かつ簡単な質問だし、これに答えてくれたらすぐにいなくなるから」
そう言うと目で早く言えと促される。どうやらいつまでもここにいられるよりもさっさと質問に答えていなくなったほうがいいと思ったようだ。
「嫉妬の魔女の名前は?」
嫉妬の魔女、聞き覚えのないその単語にスバルは首をひねる。
シャオン自身が元いた世界で知っていた単語なのだろうか? だとしたら尚更店主にはわからないだろう。
だが、店主の反応はスバルの予想と大きく離れていたものだった。
「お前――」
その言葉を聞いた時の表情の変化は激しく、そしてわかりやすかった。
驚き、怯え、疑問。それらが入り混じったような表情が浮かんでいる。
その表情のまま唸り、その嫉妬の魔女の名をなかなか口にしなかった。
「頼みます」
それでも、頭を下げ、シャオンが頼むと中年は頭をかきながら渋るように小さな声で答える。
「――サテラだよ」
「……は?」
スバルは、何を言われたのか一瞬わからなかった。
なぜ、嫉妬の魔女とやらの名前が追い求めている彼女と同じ名前なのだろうか?
訳が分からず、棒立ちの状態でいるとシャオンがこちらを向いた。
「そういうわけだ、少し話をしよう」
◇
少し離れた場所で蔵のなかで起きた出来事を教えてもらった。
この世界の災害のような存在、嫉妬の魔女について、それにシャオンの治癒能力のことも話してもらった。
「世界を半分のみ込んだほどの奴が嫉妬の魔女。銀髪のハーフエルフでその名前はサテラ。そして俺たちが追いかけている彼女が名乗った名前もサテラ」
「同じ名前だった偶然は?」
「ない。それ以前に俺は彼女が偽名を名乗っていたのを知っていた。一回目の盗品蔵のあたりで」
なぜ、言わなかったのかと責めるような眼で見るとシャオンは申し訳なさそうに目を伏せる。
「混乱すると思ったから言わなかったんだ。悪い。それに彼女にも事情があったからな」
そういわれてしまっては責める気になれない。
それにしてもなぜそんな世界の災厄のような存在と同じ名を偽名として使ったのだろう?
「でもなんでだ? 外見が嫉妬の魔女に似ているっていうのに名前まで同じくしても何もいいことないだろ?」
周囲のほとんどから拒絶され、完全に世界から孤立するだことは容易に想像できる。だからこそなぜそのようなことをしたのだろうかわからない。
シャオンは少し考えるそぶりを出して口を開いた。
「恐らく、心優しい彼女の配慮だろう」
「――そういうこと、なのか?」
嫉妬の魔女に瓜二つの存在である彼女は今までに想像ができないほどの扱いをされてきたのだろう。当然、彼女の周囲にいた人物も被害は受けていたはずだ。
あの優しすぎる彼女はそれに耐えることができなかった、他人が傷つくよりも自らが傷つくほうがいいと判断したのだ。
だからこそ、その名を名乗り人との関わりを絶った。
「……辛すぎんだろ」
誰にも頼ることもできず、誰かに頼られることもない。元の世界で他人に頼りっきりだったスバルにはその辛さはわからないが、並大抵のものではないことだけはわかった。
「ま、真実はわからんさ。で? スバル、この後はどうするんだ?」
「この後?」
「探しつづけた彼女の名は偽名だった。追いかける手掛かりはなくなった」
彼は袋の中から取り出したリンガに齧り付きながら、スバルに話しかける。
「偽名を頼りに探す? 馬鹿を言うんじゃない。さっきのやり取りを見ていて分かったろ? 嫉妬の魔女名はそれほどの影響力があるんだ、おいそれと出していい名前ではないはずだ」
確かにシャオンの言う通りだ。そこまで大きくもない八百屋の店主でもその名を聞いただけで青ざめるほどだ、嫉妬の魔女の影響力は並大抵のものではない。
「――君には一切の得はない、それ以前に損をする。いや、もう二回は死んでいるんだから完全に損をしている」
リンガの芯を丸ごと口に放り込み、咀嚼し、飲み込むちこちらに目を向ける。糸目がちだった目が開かれ、光が一切と灯らない沼のような黒目がスバルをとらえる。
「それでも、彼女を追い求めるのかい?」
シャオンの声色は先ほどと変わらない、変わらないはずだ。だが、感じる威圧感はエルザに襲われた時とそこまで差がないように感じる。
「う、あ」
圧されながらも考える。
スバルがあきらめると言ったら彼はどうこたえるのだろうか?
いや、そんなことよりも重要なのはスバル自身の意思だ。
彼女は助けたい。――だが、どうする?
シャオンの言う通り、方法はない。勿論、スバルには力もないし奇策を思いつくほどの知恵もない。そもそもなぜ自分はこんなに必死になっているのだろう。
親しい中でもない、本名すら知らない彼女になぜここまで命を張っているのだろう。
「お、おれは……」
返答に戸惑っているとスバルの横を通り過ぎる、とある人影が見えた。―白いローブを羽織り、銀髪を揺らして歩く少女の姿が。
ひとつに束ねた長い銀髪が揺れ、風にまじる花の芳香のような匂いが鼻孔をくすぐる。アメジストの意思の強そうな瞳はスバルを見ておらず、ただ真っ直ぐに自分の進むべき道を見据えているような鋭さを秘めていた。
その凛とした佇まいは変わりなく、その震えるような美貌は一切の陰がなく、求め続けた存在がスバルの目の前を通り過ぎようとしていた。
「ま――」
――それだけで、スバルの体は動きだしていた。
シャオンの体を押しのけ、走り出す。
「スバル!」
とっさに声が出ず、喉の奥で音を詰まらせて行き過ぎる背中に追いすがる。シャオンの呼びかける声すら無視し、走る。すいすいと、人波を縫うように歩き抜ける少女。人にぶつかりながらも逃げる銀髪を追いかけながら、スバルは泣きそうな声で呼びかける。
「ちょ、待って……待ってくれ……っ。頼む、待って……」
名前で呼べばいいのだがその肝心の名がわからない、ただただ止まってくれるように声を出す。周りから見れば変人そのものだ。だがそんなことは気にしていられない。
すると不意に彼女が足を止めた。
スバルの願いが届いたのだろうか? いやこの際なんでもいい。今は彼女の声を聴きたい、彼女と話をしたい。
シャオンに言われた通り自分は損をしている。助けたい理由もスバル自身がわかっていない。が、だがそれでも彼女の役に立ちたい、彼女の笑顔を見たいのだ。
振り返った彼女はこちらを驚いたような表情で見つめる、それもそうだ。いきなり見ず知らずの男が汗だくで呼び止めているのだから。
「ちょ、ちょっとまった。息を、整えさせて」
とりあえず呼び止めることはできた。ただなんと言って呼び止めた理由を話せばいいのだろうか?
死に戻りをしたことを伝える? そんなことしたら不審者扱いだ。いくら優しい彼女でも警戒するのは間違いないし、スバルにそんな狂言じみたことを言える勇気はない。
そもそも時間軸がはっきりわからない。
今、彼女は徽章を盗まれた後なのか?それともまだ盗まれていないのだろうか? そもそも必ず盗まれるのだろうか?
色々と考えがめぐり、なんて切り出そうかと迷う。
――その迷いがスバルの判断を鈍らせた。故に、彼は目の前で起きた出来事を、指をくわえて見過ごすことになる。
「――――っ!」
小さく息を呑む声がしたのは、スバルの身長より頭ひとつ高い位置――露天商の屋台、その幌立ての屋根の上からだった。
跳躍。小柄な体が重力に引かれて軽やかに落ち、着地と同時に風に乗って加速する。
疾風は薄汚れた服を着て、金色の髪をなびかせていた。人込みを神がかり的な体捌きですり抜けると、スッと伸びた腕が刺繍の入ったローブの中へと入る。
接触は一瞬、しかし、その一瞬の邂逅で十分だった。
風がローブをはためかせ、身をよじる少女から跳ねるように飛びずさる。あまりの手際に拍手さえしてしまいそうだ。
「な――!」
銀髪の少女が驚愕の声を上げ、己のローブの内に手を入れる。
そこに目的のものが見つからず、目を見開き彼女が追うのは急速に遠ざかる風の行方。
その風の手に握られた竜を象ったあの徽章、そして後ろ姿を見てとっさにスバルは叫ぶ。
「フェルト!?」
呼びかけに風が戸惑うように揺れる。が、その速度はゆるまずに一気に大通りから細い路地へと飛び込んでいく。ほんの一瞬だけしか見えなかったがあの姿はおそらく、いや絶対にフェルト、前回の世界で無惨に死んでしまった彼女の姿そのものだ。
めまぐるしく動く状況に対応できず、棒立ちで眺めていたが偽サテラがフェルトを追いかけるのを見て我に帰る。スバルもまた路地へと二人の影を追う。
走りながら、スバルの胸中は不可思議への疑問でいっぱいになっていた。
情報量が多すぎて、焦る頭では処理し切れない。それでなくても、今日は二度も死ぬような目にあって混乱しているのだ。いや、それ以前に異世界に召喚されたこと自体が大きすぎるイベントだ。
「ああ、もう展開がはえーよ!」
嵐のように過ぎていく事態に対して叫ぶように暴言を吐き、薄暗い路地をふらつきながら駆け抜ける。
持久力には自信がないが短距離での速度ならば二人にも引けをとらない。すぐにその背中に追いついて、この疑問を晴らしてやる。
そんな心づもりで走っていたのだが、
「ちょいとまちな兄ちゃん」
それを邪魔するように三人のごろつきが道をふさいでいた。
二度あることは三度あるということだろうか。こいつらとは三度目の出会いだ。腐れ縁どころの話ではない。
「……神様がいるなら絶対、俺のこと嫌いだろ」
その問いに神はおろか誰も答えてくれなかった。
◇
現在シャオンは偽サテラを追いかけたスバルを探していた。現在のスバルを一人にさせてしまうと何をするかわからないかもしれない。
「ああもう! 人多いな!」
だが人が多く、また結構な速度で追いかけているためスバルにはなかなか追い付けない。なんとか見失わないでいるが距離はどんどん離れていく。無理やりにでも人混みをかけ割ってでも追いかけようとする。すると、
「きゃっ!」
「おっと、悪い!」
横から出てきた桃色の髪をした給仕服をまとった少女にぶつかってしまった。本来なら立ち止まってちゃんと謝りたいが今はそれどころではない。軽い謝罪をし、スバルの姿を追いかけようとする。
しかし視線を戻すとすでに彼の姿はなく、彼が追いかけていた偽サテラの姿もない。
――まずい、見失った。
遠くには行っていないはずだが、この人混みだ。一度姿を見失ったら見つけるのにも一苦労だろう。
焦り、口の中が乾く。いっそ恥を捨て、大声で叫んでみようかと考える。そんな中、
「……だろ。表に逃……。面倒どころの話じゃねえ」
「あーあ、こりゃ……。……傷付いてっから死ぬな。……着物も……」
近くの路地裏の方向でそんな声がかすかに聞こえた。
普段だったらまずは覗き込んで状況を確認するのだが、そんな余裕はない。慌てて路地裏に駆け込む。
「なっ……」
そこには――倒れているスバルとその背中の腰あたりにナイフが突き刺さっていた光景が広がっていた。
「ごぁっ……がっ……」
スバルは血を吐き、うめき声に近い悲鳴を上げながら倒れている。
それをごろつき達は面倒臭そうに眺めている。人をひとり刺しておいて、罪悪感を感じている様子は微塵もない。
「スバル!」
「……おい、見られたぞ」
咄嗟に出た叫びに男たちはようやくシャオンの存在に気付いた。
「相手は一人だ」
「こっちは三人、やれる」
ごろつき達は犯行現場を見たシャオンの対処を相談しているようだが、今はそんなものどうでもいい。今はスバルのほうが大事だ。
「どけっ! 今ならまだ治せる!」
前の世界で得た力が残っていれば瀕死の状態でも治療はできる。だが、死んでからはおそらくはせない。そこまで便利なものではないだろう。
今のスバルは遠くからでもわかるほど出血が激しく、長くはもたないのが素人目でもわかる。だが、まだ間に合う。
そう思い、急いでスバルのそばに駆け寄ろうとする。しかし、
「ヒャッハー!」
ごろつきの一人に蹴りを入れられ、後ろに吹き飛ばされる。勢いよく吹き飛んだ体は壁にぶつかることでようやく停止した。
痛む体を無理やり起こすと、いつの間にか近づいていたごろつき達が追撃をしてくる。
「おらっ!」
図体の大きい男の蹴りが側頭部に命中する。その勢いに耐えることができず地面に頭からたたきつけられる。
だがそれでも歯を食いしばり、起き上がろうとすると、そうはさせまいと男の一人が体重をのせた体当たり食らわせる。耐えきれず倒れてしまう。そこからはリンチの始まりだ。
蹴る、殴る、唾を吐きかけられる。そんな暴力の嵐に飲み込まれる。
何故、どうして、なんでこんな目に合う。痛みの中、様々な疑問がシャオンの脳内をかき回し、混ざりあい、 そして――
「――もう、面倒臭い」
ぷつり、とシャオンの中で何かが切れたような気がした。
それとともに体から力が流れ出るように抜け、ぺたりと地面に座り込んでしまう。
「おいおい大丈夫かあんちゃん?」
「これ以上痛い目見たくなかったら身ぐるみ全部置いてきな!」
ごろつきがシャオンの顔を覗き込み、下衆な笑みを浮かべる。しかし、今の彼にはそんなことに反応するのすら億劫に感じていた。
呼吸をするのすら面倒くさくなり、それとともに急激な睡魔が襲ってくる。だが眠るわけには行かない。
「ああもう。ダルい。面倒。そもそも、はぁ、あんたたちは、ふぅ、たった3人で優位になって、いるとでも?」
「はぁ?なにいってんだこいつ」
呟きにごろつきの一人が呆れ半分、得体の知れない恐怖半分が入り混じった声を発する。
「数の、ふぅ。問題じゃ、はぁ。ないんだよ」
シャオンはゆっくりと、気怠そうに手を右に振るう。なぜ、そうしたのかは彼自身にもわからない。ただ、そうしたほうが
すると呆れた顔でこちらを見つめていたごろつきたちの表情が歪んだ。
「なっ!? 」
ごろつきの驚いた声と共にそれをかき消すような轟音が路地裏に響く。
路地裏の壁がシャオンの手の動きに沿ったように大きくえぐれていたのだ。
しかしその跡はシャオンの手の大きさよりもはるかに大きく、まるで強い力で無理矢理削り取ったように歪だった。ふと、シャオンは自分のに足元に目を落とす。そこには黒い、自身の腕の数倍の大きさはあるであろう巨大な手が数本、生えていた。
禍々しく蠢いているその手は不思議と恐怖などの暗い感情を感じなかった。むしろ自らの体の一部分だとすら感じている。
試しに、ごろつき達の近くの地面を黒い手がえぐるイメージをする。
「ひっ! な、なんなんだよっ!?」
イメージ通りに一本の手が動き、いとも簡単に大きく地面が削り取られた。
ごろつき達に目を戻すと何が起こったのかわからず混乱している者や、誰の仕業か、隠れている人間がいないかを探していたりした。
その慌てぶりが滑稽で、シャオンは小さく笑みをこぼす。そして確信した。
――どうやらこの手は自分以外には見えていないらしい。
「ふぅ、ああなら簡単だ」
先程猛威を振るった黒い手の一本がシャオンの頭上にまで伸び、しなりを上げて今にもごろつき達の頭を粉砕しようとする。このままこの黒い手を振り下ろせばごろつき達は死に至るだろう、どのように死んだのかすらわからずに。
だが、罪悪感も、躊躇も今のシャオンには一切感じていない。今は障害を排除し、スバルを治療することが大事なのだ。スバルに寄り添い、助けるのがシャオンの役目だ。
そう、それが、それだけがシャオンの生きる意味なのだから。
「――そこまでだ」
その声は唐突に、しかし明確に、路地裏のひりつくような緊迫感を切り裂いた。
お気に入り百越え。ありがとうございます。
プレッシャーではきそうです。