「──君が隠している秘密。それを、教えてもらおうか」
その言葉にスバルの喉がふいに凍る。
だが、それは禁忌を口にしようとした際に訪れる、問答無用のペナルティが原因ではない。
凍りつくスバルの前で、エキドナはただただこちらの言葉を待つように、風に白い髪を揺らしながら無言で待っている。
それが魔女らしくない、思いやりめいたものであると感じれば感じるほどに、拍動は早まり、代わりに舌の滑りは重く遅くなる。
スバルの声を凍らせたのは、原始的な一つの感情――即ち、恐怖である。
「はぁ……はぁ……っ」
これまでスバルは幾度も、その禁忌の言葉を口にする機会を得てきた。
スバルの身に宿る、『死に戻り』の権能。
権能と呼んでいいかどうかさえ判断の難しいそれは、他者へその事情を伝えようとすることを力ずくで妨害される。そしてその毒牙は一度、スバルの身だけでなく、エミリアにも降りかかった。そのときの喪失感と慟哭を、忘れることはないだろう。
シャオンという唯一の例外はいたが、そもそも彼は共に『死に戻り』を知覚している存在だ。似たような存在が現れることは期待しない方がいいだろう。
--あれほど死んでしまいたいと、消えてしまいたいと、そう思ったことは数少ない。
恐い。
この場でその情報を口にすることで、スバルだけではない誰かに、その黒い指先がかかるのではないかという可能性を考えるだけで、震えが止まらない。
「――――」
腕の中で軽くなる、銀髪の少女の記憶がよみがえる。
命が抜けていく、あの喪失感を、また味わうことになるとしたら、それは今度こそ耐え難い。
故に恐怖がスバルを縛り付けて、この場でそれを口にすることを躊躇わせた。
目の前にいるのは魔女エキドナ。はっきり言って、エミリアと比べることすらおこがましいぐらいの浅い関係だ。
彼女の心臓が潰されたとて、スバルはあの瞬間ほどの絶望も喪失感も、味わいはしないだろうという、ひどく打算的な予想を立ててもいる。
だが、スバルの中にある甘さが、その予想の結果を見ることを許可しない。
「試して、みるといい」
「――――!?」
スバルの逡巡の結果、あるいはその被害が己に向くかもしれないことも知らず――否、そうではない。この魔女はおそらく、スバルの懸念している内容を見抜いている。
そしてその結果が見えないことも、魔女自身わかっているのだ。
それでもなお、彼女がそれをやれと口にできるのは、スバルを信じているから、なんてものではない。
そんな乙女のような思考ではない。
――強欲。
ただ、それだけだ。
スバルの覚悟を知りたい。その覚悟を乗り越えた先に、禁忌を破った先に何が起こるのかを把握したい。そしてあわよくばその身で経験したい。
すべてが、ただただ知りたいだけの、強欲だけがこの魔女を動かしているのだ。
だが、それでも、スバルにとって彼女は手助けをしてくれているいわば友人のような存在だ。
命にかかわることだ、そう簡単には踏み出せない。
そしてその様子を見てエキドナは小さく笑い、背中を押すようにささやく。
「望みの結果を得るために、行動することは尊い。その考えは変わらない。そしてその行動に出るものにこそ、生きる価値があるとボクは思う」
「後悔する、暇もないかもしれないんだぜ……?」
「そうなったときは、ボクの亡骸の前で泣き崩れてくれることを期待しようか。ああ、供え物の花は甘い蜜が出るものを所望しよう」
「……はっ、贅沢だ。花摘みは似合わないんでな、用意しないことを祈ってるよ」
あくまで気楽な態度で応じるエキドナ。
それに対して軽口で答えられたのは、彼女のその態度のおかげだろうか。
期待されているわけでも、願われているわけでもない。
ただ可能性を、答えという可能性を欲する彼女の姿に、スバルは背中を押される。
その強さに、惹かれ、
「エキドナ。俺は『死に戻り』をして――」
そして、禁忌の言葉を口にする――。
そのとき、世界は--
◇
「……さて、これからどうしたものか」
時間は少しさかのぼり、裏の聖域。”白い部屋”に雛月沙音はいた。正確には墓所で目が覚めて、移動してきたのだが。
とりあえず、現段階でわかっていることは、シャオンはスバルよりも早く目覚めることだ。おそらくこれは確定だろう。
つまり、シャオンが二度寝でもしない限り、少なくともこの場所に移動できるほど猶予はあるわけだ。
もしくはまた、『死に戻り』の記憶がなくならない限りはだが、こちらは気にすることはない。というよりも、気にしても仕方がないといった方がいいだろうか。
あの現象は、おそらくだが初めてこの”魔女”と強くかかわったことによる影響だと踏んでいる。雛月沙音という意識がブレたことによる、『死に戻りの共有』に多少のミスがあったに違いない。
今のシャオンならば、同じ現状は起きない、はずだ。
だから、気にする必要はない。それよりも大事なのは、これからのことで――
「どうしたもこうしたも、これからは裏から手助けをするのでは? 腰抜け」
「……ひどい言いようだ」
そう冷たく言い放つのは推定自身の弟子兼、子供であるカロンだ。
彼がここにいるのは部屋の主なのだから当然なのだが、少しは優しくしてもらいたいものだ。
「だけどな……カロン。お前には話はしているが、俺は”シャオン”ではない」
「はい、以前も全く違うと話はしましたが」
「……でも、”今は”だ。近いうちに俺は”シャオン”になるかもしれない」
自身が”シャオン”に近づく要因は二つだ。
1つは自身の精神が弱っていること。
今のシャオンの精神、メンタルはかなり弱っていると自覚がある。
レムを救えなかったことが、一番の傷だろ
つまり、雛月沙音の心の弱さが、そのまま”シャオン”になり替わる可能性の高さにつながるわけだ。
2つ目は”魔女との接触”。どちらかといえばこちらの方が重要だろう。
1つ目の要因と、この”強欲の魔女の墓場”に訪れたことが雛月沙音としての自我を薄めているのだろう。
……おそらく、これからエミリアが、スバルが彼女を王様にしていくにあたって”魔女”の存在は避けて通れない問題だろう。
嫉妬の魔女と同じ種族のエミリアの進む道には、今回のように必ず魔女が絡んでくる。嫉妬ではなく、ほかの大罪魔女の存在が。
そして、その存在は雛月沙音よりも”シャオン”としての記憶を呼び起こす力になってしまう。
そうなれば、今は雛月沙音としていられても、いつかは必ず自分の意識が消えていく事になるだろう。
だから、今この場面で自分は裏に生きるのが最善手のはずだ。そう、はずなのだ。
「……はぁ、なんていうか、視野が狭いといいますか。臆病」
「うぐっ……」
そのような事情を説明しても彼の言葉にはどこか棘がある。変にかしこまられるよりはいいのだが。
自信がないまま決断したことを見抜かれ、カロンにため息を付かれる。
そして、彼は、部屋の入口に目をむけ、
「それで、この”裏の聖域”に隠れたのはまだいいとして--彼女を呼んだのはなぜです?」
そこにいたのは、桃色の髪色が特徴の少女。
魔女との記憶を取り戻しつつある自身にとっては、その姿がカーミラに似ているように感じるのは気のせいではないだろう。
なぜならば、彼女は『人工精霊』であり、作られるには参考となる存在が必要だからだ、きっとほかの魔女を参考した精霊もいるだろう。
「おとーさま。なんのようだー?」
そう、間延びした言い方でこちらに語り掛けるのは、件の少女、シャロだ。
彼女に関しては、こちらが用事があって呼んだのだが、
「猫は被らなくていいぞ。大体察しているからね、君の本性」
「……本性って言い方はひどいと思います。これでも誓約に基づいた結果なんですから」
以前の世界でシャロの本来の性格はもう少し理知的なものだと知っている。
それをつつくと、彼女は不満そうにしながらも否定はしなかった。
「お父様と誓約した内容のうちに私の知識に制限を加えるというものがあったので」
「知識に制限」
「ええ。なので、日が出ているうちはほとんど頭が回りません。具体的に言うと、先ほど猫かぶっていた状態になります。逆に夕方当たり、まぁ今の時間程度であれば元の頭の回転にはなりそうですが」
つまりはスバルが墓所から出るころには、彼女はこの性格だというわけだ。しかし、
「シャオンと君は誓約を結んでいたんだな、なんのために?」
「……」
「こういうのが空気を読めないというんですかね」
カロンの言葉にシャオンは罰が悪そうに頭を掻く。
それはそうだ、自身の知能を犠牲にするほどの約定、きっと彼女の中でも大切なものに触れる内容に違いない。
それに気づかずに尋ねたのは、完全にこちらの落ち度だ。
「あー、話すのがきつければいい。むしろ悪かったな」
「いえ」
カロンは耐えきれなかったのか、「あーあ」といい部屋の外に出てしまっていた。
今は、この部屋にいるより、外に出て寒い聖域の森にいる方がマシということだろう。薄情者め。
長い沈黙が狭い部屋を包む、流石に用件を言う前にこの空気はつらい。
どうしたものかと考えていると、彼女がぽつりとしゃべりだした。
「――友人を救うためです」
「え?」
「私の短い人生の中で、唯一の友人、親友を助けてもらえるように頼んだのです」
シャロはどこか遠くを見るように、少なくともこちらを見ていない様子で彼女は語る。
だが、シャオンにとっては今、知らなければいけないことだ。
「いつになるかはわかりませんが、必ず救うように助力してもらえるように、私はお父様にこの身を、知恵をささげたのです」
「その友人の名前は--」
「貴方もご存じでしょう――ベアトリスという禁書庫にいる、精霊の名前は」
「……ここで絡んでくるのかよ、ベティ、いや、ベアトリス」
◇
「君の知識を制限する理由が、その、正直わからない」
「私もお父様の考えを理解できておりません。ですが、『シャロのため』とだけを伝えられていました」
シャロのため、というのはどういう意味だろうか。
これではまるで、子供にあなたのためにやっていると言っている親と変わらないではないか。
……ひょっとすると、あのシャオンとこの娘たちの仲はそこまでいいわけではないのかもしれない。
いや、悪いわけでもないのだろうが、その、互いに心の中まで信用し合っている感じが見られない。
その結果、好感度の低下が自身にまで及んでいるのならば勘弁してほしいものだ。
「……救うっていうのは」
「ベアトリスの、ベティーの待ち人を必ず連れてくる、と」
「待ち人?」
「……何も知らないのですね、ああ、だからこんなにも質問が多いのですか」
あきれたように肩をすくめるシャロに、何も言い返せないでいるとシャロはまるで本に記された文字を読むように、機械的に、感情を抑えた声で応えた。
「ベアトリスは強欲の魔女、エキドナが作った人工精霊。魔女は彼女に一つの役割を、人工的な命に生きる意味を与えたーーベアトリスは待ち人、『その人』がくるまでに禁書庫を守るという役割が、400年前に結んだ条約です」
400年。
言葉にするだけで、その長さに圧巻する。
その長い年月をたった一人で、禁書庫を守るためだけに、彼女は存在しているのだ。
そう、その人こと、待ち人が来るまで。
「その、待ち人っていうのは誰なんだ」
「……」
シャオンの言葉に初めてシャロは口を閉じ、こちらの視線を避けるようにそっぽを向く。
だが、それをさせないようにシャオンは彼女の頬を抑え、固定させる。
「…………教えてくれ、スバル達を救うには彼女の力が必要不可欠なんだ。何より、彼女も救いたいんだ……!」
「随分と勝手ですね……どちらにしろ、どんな理由があろうとダメです」
「確かに勝手だとは思う……お前の父親であるシャオンに恨みがあるからやらないというなら、すべて終われば俺を好きにしていい」
「あいにくと、私は妹と違い、お父様に怒りを覚えていません」
「だったら、なんでだよっ! ベアトリスを、助けたくないのか!?」
「――そんなわけ無いっ!!」
こちらの手を振りはらい、あらわになった彼女の表情には大粒の涙がこぼれ落ちていた。
抑えていた感情が、こぼれていくように、涙も止まる様子はない。
そして、シャロはこちらに向けて初めて、怒りの表情を向けた。
「助けたいに決まっているでしょう!? あの子は、私の、私たちの親友なんですよ! でもダメなんです、無理なんです!」
彼女はいままでダメ、無理とは言うが『嫌だ』とは口にしていない。
つまりは、彼女自身もベアトリスを救いたい気持ちはあるのだろう、だが、
「待ち人が誰か? そんなの、ベティを悲しませる大馬鹿者なんて、私が一番知りたいですよ」
「それって」
「誰も……ベティの待ち人を知る人は、いない。彼女が持つ福音書にも、答えが、ないんですよ」
助けられない、理由がある。
それが、『助ける方法がわからない』ということだろう。
「そりゃ、ないだろ……そうだ、エキドナ、彼女に聞けばーー」
生みの親である彼女に詳しい話を聞くことができたのならば、きっと面倒な契約を結ばれるかもしれないが、きっとそれならば解決できる。
そう、シャロに伝えようとした瞬間--意識が一瞬途切れた。
「――っあ?」
合わないパズルのピースを無理やりはめ込んだ、そんな違和感と不快感、唐突にそれが現れた。
視界に広がるノイズ、鼻が曲がりそうな瘴気に、立っていられずに、思わず片膝をつく。
「――大丈夫ですか?」
「ああ、いや、きつい。逆に、お前は大丈夫なのか?」
「? ええ、まぁ。というか、いったい何が?」
「あー、いい……嗅覚が鋭すぎるのも嫌なものだ」
シャロに肩を借りながら立ち上がる。正直ベアトリスに関する話はまだ終わっていない。だが、こんな状態では、話をするどころではない。
「墓所、で。いや、聖域で何かがあったにーー」
カロンと、いや、ここまでの事態になったのであれば様子を見て聖域にいる人々の避難を--そう考え、部屋から出ると、遠くにその姿は見えた。
いや、遠くなどない、はずだ。
「……おい、なんでここにいる」
絶対に存在してはいけない存在。
その存在が、今この目の前にいる。
そう、その存在の名前は、
「”嫉妬の魔女”」
史上最悪の怪物が、シャオンの前で産声を上げていた。