「なんですか、そのありえないものでも見たみたいな自分の脳みその働きが信じられない、みたいな素っ頓狂な顔は」
「……それな」
腰に手を当て、やや憤慨した顔のオットーを見上げ、スバルは何とかそう呟く。
「……お前が来るのは、予想外オブ予想外。んで、お前たちが一緒にいるのは更にその外だ」
「おや」
「そんなあからさまに驚いた表情を向けてもなぁ……お前たち、知り合いだったか?」
スバルの記憶が正しければカロンとオットーは知り合いではないはず、というよりもカロンの知り合いというのはほとんどいないはずだ、
だからこそ、この組み合わせは意外だったのだが、スバルの知らない間に何かが大きく変わったのだろうか。
「いえ、僕もさっき知りあったばっかで……そのあたりの事情について、話をしたいのですが……とりあえずここから出る準備をしながら」
「――今何日たってる?」
「その質問が、ナツキさんが行方をくらましてからというなら、3日。あれから3日が過ぎて、今は夜……『試練』の時間です。」
「3日……それに、『試練』もまだ続けてんのか!?」
質問の解答とそれに付随した情報にスバルが血相を変えて吠える。
恐らく、三日後の夜。それは屋敷をエルザたちが襲うまでのタイムリミット、の半日後に控えた時間だ。
そしてエミリアの『試練』への挑戦の継続は、『聖域』の状況とダイレクトにかかわる。
その反応に、オットーはつかれた顔で首を横に振る。
「ナツキさんの気持ちもわかりますが、エミリア様もしっかりと考えてのことです。結界を解く必要があるのは変わっていませんし」
「……俺がいない間、何があったか聞かせてもらっていいか?」
「僕もあまり、詳しい話は――」
「――それよりも」
オットーが経緯を話そうとしたその時、沈黙を貫いていたカロンが初めて口を開く。
「移動しながらのほうがいいかと、オットーが頼りにされてうれしいの気持ちはわかりますが」
「いや、あの。そ、そんなことは」
図星を突かれたのか照れ臭そうに鼻をかくオットー。
その様子に思わず気持ち悪さを覚えたが、そこでようやく気付く。
「まて、なんでそこまで急いでいるんだ?」
「……」
「ここには決まったタイミング以外じゃ人は来ない。外に大きな変化がなければガーフィールが来ることもないはず」
「あー、やっぱり気になりますよね。少し、言いづらいことなんですが」
「今更だ。むしろ今なら驚く報告が連続してるから、目立たないぞ? 貯金の残高とか」
「借金の帳面なら……」
「ごまかすな」
軽口をたたいたのはスバルだが、それに乗じて逃げようとするのは許さない。
スバルのその意図を察して、オットーは観念した風に嘆息すると、
「いえ、実はですね……ナツキさんと同じく、僕もガーフィールに目をつけられた……絶賛逃げ回っている最中で」
「――は?」
「ですから! ナツキさんが監禁されてた被害者なら、僕は追われる逃亡者! だいぶ追い詰められている状況なんです! 急ぎたくもなるでしょう!?」
オットーの自棄になった叫びにスバルは改めてまじまじとオットーを見る。そこでようやく気付くのは、オットーのボロボロのその風貌だ。
髪の毛はよれよれ、帽子はつぶれ、顔は汗と土で汚し、ひっかき傷も少なくない。
「そして、臭う。と」
「それは、俺にも適応されるから……逆になんでお前はそんなに汚れていないんだ?」
悪臭漂わせる二人の中に清潔感あふれるカロンの様子。
よくよく見るならば服装もほつれすらないその様子は、今この場に来る前に風呂にでも入ったのではないかとでも思える。
「精霊ですからね、人工とはいえ」
「ずっこいな」
「ええ、ずっこいでしょう。唯一の利点ですよ」
胸を張るカロンにネガティブすぎるだろ、というツッコミをし、改めて状況を考える。
その上で疑問が生まれてくる。
「……最後にもう2個だけいいか?」
「……なんなんですか、もう。本当にこれで最後にしてくださいよ? あまり時間がないのは本当なんですから」
「悪い悪い。……お前は、なんでガーフィールに追われているんだ、そもそも」
「――――僕がガーフィールに終われている理由。それは、ナツキさんのせいですよ」
「俺の……?」
「あの夜、僕はナツキさんとガーフィールが最後に会ったのを見てたじゃないですか。その後貴方が行方不明、当然彼を疑うのは当然で、目撃者を口封じするのも当然です」
「なるほど……で、なんでそんな危険な中、俺を助けに?」
「……貴方のことを喋らないように、取引は持ちかけられました。高価な魔石の類も見せてきて」
「なのに、それを断ったのか?」
オットーを疑いたいわけではないが、腑に落ちない部分であるのは事実。実際、オットーにとってこの『聖域』を取り巻く問題は行き掛かり上の関わり合いだ。本来ならばこの場のいざこざはもちろん、王選絡みすらも彼には関係がない。
スバルほどでないにせよ、彼にだって状況を打開する光明は見えないはずだ。
それだけに、スバルには彼がこうまで危険を冒して味方してくれる理由がわからなかった。
これだけ悪状況が積み重なった現在で、オットーのことにまで気を回さなくてはならない『なにか』があるはずがない、という逃避めいた信頼が。
だが、もしも、仮に彼にすらスバルの信じられない裏があるのだとしたら、それはもう――。
「答えてくれよ、オットー。お前がどうして、こんな懸命に尽くすのか」
懇願にも似た、静かな問いかけ。
息を止めて、スバルはオットーの返答を待つ。
「あのですね、ナツキさん」
スバルの問いかけを飲み込み、オットーは自分の灰色の髪の毛を撫でつける。
そして、つぶれた帽子の形を直しながら、言った。
「――友人助けようとするってのは、そんなにおかしなことですかね?」
――一瞬、なにを言われたのかわからなくてスバルの中の時間が止まった。
時間が動き出すまでに数秒。再起動にかかる時間でさらに数秒。
しかし、動き出してからも混乱は止まない。言葉の意味が分からない
ユージン? ユージンってなんだっけ? そんな人、でてきたか?
「な、なんでそんな驚き顔で固まってんですか、この人」
「友人の少ない人生だったんでしょう、悲惨」
「いや、突然に俺の知らない人物名が出たもんだから話についていけなくて。で、そのユージンさんってのは、えっと?」
「頭から尻まで間違ってますよ! ユージンじゃなくて友人! 友達!」
「トモダチ……誰と誰が!?」
「僕と! ナツキさんが!」
地団駄を踏んで、オットーが自分とスバルを交互に指差す。
だが、その行動にスバルはなおも信じられない、と目を見開く。
痺れを切らしたように、彼は床を踏み鳴らしながら「いいですか」と手を振り、
「確かに! 僕がここに来たのは利害の一致がありますよ! 辺境伯と併せて頂くためだったり、その取引はエミリア様救出に協力したからだとか、そもそも魔女教徒に捕まったのをナツキサンが助けてくれたからだったり!」
「――――」
「それでも、そういう面倒な問題を取っ払ってしまえば、僕はナツキさんを友人だと思ってますよ。普段の扱いに対しては思うところもあるけど、それも距離感だから、って」
途中から照れ臭くなったのか、頭を掻きながら視線をそらすオットー。
そしてそのオットーの言葉を聞きながらスバルは無反応だった。
「――ぷは」
「はい?」
「わはははは! と、友達? 友達かぁ! ああ、そっかそっか。オットー、お前、俺と友達になりたかったのかよ!」
「なぁ――!?」
堪え切れずに吹き出して、スバルは顔を赤くするオットーの肩を乱暴に叩く。それでもなお笑いの衝動は消えず、腹を抱えたままスバルは床を踏み、
「ぶはは、友達。ああ、チキショウ。オットー、てめぇ、この野郎」
「痛い痛い! なにすんですか! ああ、言った僕が馬鹿でしたよ! ナツキさんが笑うことぐらい!、読めてました! でも、いくらなんでもそこまで笑うこたあないでしょうよ!」
「いやいやいやいや、笑わずにいられるかってんだよ。お前がおかしいんじゃない。……自分の馬鹿さ加減がひどすぎて、呆れてんだ」
――何がオットーが理解できない、何を信じればいいのかわからない、だ。
スバルを友人だと口にして、その身を心配して手助けにきてくれたオットー。彼の存在を前にして、その心根を信じるより先に疑いに走る自分の愚かしさ。
状況に翻弄されるあまり、人を信じることができなくなっていた自分自身の哀れさよ。
今、問いかける――そこまで、ナツキ・スバルは『傲慢』だったのか、と。
ほんの数回の死を経て世界をやり直したぐらいで、全知全能を語る神様にでもなったつもりか。
こんなに身近に自身を友と呼んでくれる存在がいたこと、命を懸けてまで助けてくれる存在を見落とすなど。
スバルの自嘲と自戒、それがわからずにオットーはなおも疑問を顔に浮かべている。
その彼にスバルはどこか晴れやかな気持ちで、
「悪かった。お前は俺の友達だよ、オットー。――助けにきてくれて、ありがとう」
あらためて感謝の言葉を告げたのだ。
□
「あのー」
友人認定され、笑みを隠せないオットーをからかいつつ、荒んだ心にわずかな癒しを感じる中、カロンがわざとらしく咳を一つし、視線を集めた。
「悪い悪い、お前を仲間はずれにしたわけじゃ」
「……いえ、そこで不機嫌になったわけではありません」
「そもそも、なんでお前がここにいるんだ?」
カロンという人は、正直言って詳しくはわからない。
唯一知っているのは『裏の聖域』『試練』の案内人のような人物だということだけだ。
そんな人物が、なぜここにいるのかを推測するには彼自身の情報が少なすぎるのだ。
「――シャオンさんから頼まれたんですよ、はい」
シャオンは、今この場にいない、スバルの相棒とも言える存在であり、ひそかに目標としている存在だ。
そんな彼が関わり合いの少ないであろうカロンに頼みごとをしていたことも気になるが、それよりも、
「というより、アイツは一体今何をしているんだ? シャオンがいればここまでの事態にはなっていないだろう」
「……ヒナヅキさんの所在は僕もわかりません。ナツキさんが『試練』に挑んでから誰も見ていないそうで」
シャオンの行方が分からなくなったのは、スバル『試練』を受けた時からだ。
つまり、『死に戻り』の再スタート地点から、彼の存在が消えている。
自分と同じように誰かに誘拐、幽閉されている説もないわけではないが――かなり薄いだろう。
それ程までにあの男は強く、頼りになる存在だ。
故に考えられるのは――彼自身が何かの考えがあって、身を潜めていることだろう。
そうなれば、スバルには彼の思考を読むことができない、なので、
「って、ことで早いところ教えてくれると助かるんだが、最終目撃者」
「言い方が気に入らない」
「悪いな、俺は過程も大事にするが考えてもわからない場合は答えを真っ先に教えてもらいたくなるんだよ」
「褒められたものではないですね……」
「楽ができるところはとことん楽に、がモットーだよ……自嘲はするけどな」
自分自身のモットーを告げるスバルに、呆れたように突っ込むオットー。
長い間孤独を味わっていたからか、彼の叩けば響くような反応にわずかに口角が緩む。
ああ、人との対話はここまで安心するものなのか。
そんな感動を抱いているスバルを他所に、カロンは無表情のまま話し始めた。
「ボクがここにいるのは彼が行方不明になった際、シャオンさんから頼まれたからです――ナツキスバルを手助けしろと」
「……どこであったんだ?」
「あー、そうか。それも知らなかったんですよね。『墓所』には抜け道があって、『裏の墓所』に繋がる経路があるんですよ」
「……なるほどな、それをシャオンが偶然見つけて……なんでお前に?」
「さぁ? 人望ですかね? それとも偶々裏の聖域にいた自分に頼ったとか……そらそうか、頼りになる要素ないですからね、偶然」
「凹むなよ……それで、アイツは今どこに?」
シャオンが本人ではなくカロンを使いによこしてきたということは、何か事情があるのだろう。
それにしても、スバルが幽閉されることを読んでここまで手配を済ませていたとは、頼もしさを越えた恐ろしさを覚えてしまう。
なので、できればその恐ろしさが疑念に変わる前にはっきりと意図を把握したいので問いただしたのだが、
「さぁ?」
「さぁって……」
首をカクリ、と傾けるその姿は人形そのものだ。
ふざけた様子にも見えるが、真意は読めない。
「ボクが頼まれたのは手助けをしてほしいということと、一つの言伝です。所在は知りません」
「言伝?」
「―ーもう、恐らく自分は手助けできないから、と」
感情のこもらないカロンの言葉は、不思議とシャオンの姿と重なる。
だからこそ真実味が、ある。いや、そうでなくても彼の放った言葉はナツキスバルの思考を止めるのには十分だった。
□
オットーから細かな説明を聞いたうえで要約すると、いま『聖域』の状態はかなりまずい状態らしい。
具体的に言うならばいつ爆発してもおかしくない爆弾。ほんのわずかな火花で引火しそうな花火のような、状態らしい。
慣れない閉鎖空間に長期間閉じ込められているうえに、事情も分からず、ましてや解放されるタイミングも不明。ストレス過多になるのは当然だ。
だが……それでも今までは問題がなかったのだ、まだ、ここまでひっ迫した状態にはなっていなかったのだが……スバルの行方不明が事態を加速させた。
アーラム村の住人にとっては英雄視されているスバルが行方不明、下手をすれば誘拐されたなど知られれば暴動が起きるのは待ったなしだ。
そこはオットーのおかげで未だ行方不明で済んでいるようだが……事態は思ったよりも本当に最悪だった。
「はぁ、しゃんとしなさい。わざわざラムが協力してあげるのだから」
「だとしても、出会い頭に頭を叩くかよ……」
シャオンからの衝撃的な事実を告げられた後も、時間は過ぎていく。
現在の状況を聞き、何とか頭を動かし、オットーが言うには『協力者』がいるらしいので、その者との合流場所に到着すれば、姿を現したのは見知らぬ誰かではなく、見知ったラムの姿だったのだ。
その事実に動転し、ただでさえパンクしそうな頭を、ラムは軽く叩き、今に至る。
「最初はつけられていたのかと思った、オットーだしな」
「なんですかその評価は!?」
「腹立たしいけど、バルスの意見には同意するわ」
「どゆことです!?」
「オットー、うるさい」
「カロンさんまで! どこでも僕ってこの扱い何ですかっ!?」
オットーの扱いはきっと生まれた星が間違っていたくらいなほどに、不幸ではあるが、これであっているのだろう。
そんな慣れたやり取りを他所に、スバルはラムに確信めいた問いかけを投げる。
「ラム……お前がここにいるのはロズワールの指示、なんだな?」
「……手助けしろ、という指示よ。でも、現状の『聖域』でならバルスを外へ逃がすのが最善手なのはわかるでしょう?」
「まぁ、な。で、俺を、どうやって逃がす手はずだったんだ?」
暴発寸前の火薬庫からスバルという火種をどう離れさせるのか、というスバルの問いかけに、ラムは「簡単よ」と前置きし、
「エミリア様が『試練』に挑む間、ガーフは墓所を離れられない。アレの目が外れている今、バルスはただ地竜を走らせて結界を抜ければいい」
「シンプルだな、もう少しデコイとかを」
「こういうのは単純な方がいいのよ」
さっさと背を向け、ラムはスバルを逃がす方向へ先導しようとする。
その指示に従い、早々に『聖域』を離脱するのが正当だ――それだけで解決するならば
「――ラム、計画変更。逃げる前に寄り道が必要だ」
「ナツキさん!?」
悲鳴を上げるオットーとは裏腹に冷静にラムはスバルを見る。
「それは、なにをするつもり?」
冷然とした声音がスバルの発言の意図を問う。
そのまなざしに深く息を吐くと、スバルは口の端を歪めて答える。
「しっかりと、聞きださなくちゃいけないことがあったんだ。それを、やりに行く」
「――仲良く散歩の相談ッかよ。俺様も混ぜッちゃァくれねェか?」
――鋭い牙を噛み鳴らし、猛々しい鬼気を放ちながら笑みを浮かべる人影が、集落を照らす篝火によって浮かび出る。
途端、パトラッシュが低く唸り、ラムとオットーに緊張が走り、スバルは自身にやられた行いを思い出し身震いをする。
その様子に人影はますます楽し気に笑みを深める。
「ガーフィール……」
「何でここに、ッて質問はァ、下らねェな? 俺様ァ、この『聖域』を守る立場にあんだ。それがッ脅かされたとあっちゃァ……そりこっちを優先すんだろうよォ?」
オットーの話ではエミリアが試練を受けている間は彼が管理を果たすはずだ。だが、何らかの方法でこちらの動きを読み、今に至る訳だ。
「……随分と、目がいいもんだな。それとも、鼻か?」
「ハッ!『聖域の目』のことを知ってそれなら白々しいなァ、オイ?」
「『聖域の目』……?」
「あん? 教えてねェのか、義理かそれとも何か企んでやんのかよォ? カロン」
「あー、忘れてました」
「……チッ。で、テメェはこれッからどこに行くんだ、オイ」
カロンに対して意味ありげな視線を向けるも肝心の彼は目を合わせようともしない
その様子に気にくわなさそうに歯を鳴らすガーフィールは改めて、鼻面に皺をよせ、スバルの同行を問う。
その質問にスバルは質問に答えるべきかためらった。
だが、
「バルスは、これから、『聖域』の外へ逃がすわ。中にいられて迷惑なのは誰にとっても同じよ」
「……ラム」
「言っておくけど……これはガーフの手落ちよ。それをわざわざ代わりに処理してあげようって話なんだから、感謝してほしいぐらいね」
胸を張り、ラムはいっそ挑発的にガーフィールに方針を伝える。
事実、ラムの言い分は正しい。今、自身の存在はこの場で起爆寸前の爆弾でしかないのだから。
「……ロズワール様との対談は改めなさい」
「……仕方ねぇ、か」
先ほどのたくらみを見抜いていたラムに釘を刺される。
だが、いくら何でもこの状況から行くほど勇気もなく、無謀でもない。
今は、ただただこの場から抜け出すことが第一だ、このループでは。
ガーフィールはラムの言葉に頭を掻きむしると、
「こっちの腹ァお見通しってわけッかよ」
「当然よ、ラムだもの」
「なんだその理由……とにかく、俺たちを見逃すってことだと思っていいのか?」
妙に説得感があるラムの根拠に、僅かに空気が和らぐ。
嘆息とともに吐き出された言葉に、スバルは光明を見出して目を見張る。
直後、
「――確かになァ、理にかなった提案ッだ。ただ『ホーシンのバナン落陽』って言い方もある」
不機嫌に唸ったガーフィールが拳を振るうのと、カロンによって後ろに引っ張られたのは同時だった。
僅かに鼻先を剛腕が掠り、肉が抉れる。
痛みと共に熱を鼻先に感じるが、それどころではない。
「どういうつもりだ! ガーフィール!?」
「当然だろ、テメェみてェな得体の知れねェ野郎、外に出すわけにゃァいかねェ。管理するのが一番ッだろォが」
全員が警戒を露わにする中、ラムが視線を鋭くする。
「その判断、ロズワール様のご機嫌を損ねるかもしれないわよ? そこのバルスはロズワール様にとって――いえ、捨ててもいいわね」
「この状況で冗談は言わないでくださいな、姉さまよぉ」
途中までの庇い立てを即座に捨てるラムに、スバルは脱力する。
しかし、その発言に受けた印象が、ガーフィールの地雷を踏んだ。
「ロズワールの、機嫌が悪くなるだァ……?」
「――――」
瞬間、肌が粟立つ感覚にスバルは全身を緊張させた。
「野郎がどれだッけ、ここのことを、ババア達のことを考えてる? 野郎はこっちをしっかり見てやがんのかァ? あぁ?」
「ガーフィール、ロズワール様は」
「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、だまッりやがれェ!!」
癇癪を起した子供のようにガーフィールは、怒鳴り散らす。
そして、強く一歩踏み出し、猛々しい闘気を膨れ上げさせる。
「……アリシアはこっち側につかなかったのか?」
目の前にいる怪物に現状対応できる存在は、シャオンとアリシアだろう。
だが今二人とも行方知れず、ないものに縋るのは良くないが、どこにいるのか、無事なのかは知りたい。
「それがアリシアさんは……集落で寝ているらしくて」
「なんじゃそりゃ……」
「どうやらここに来てから体調がすぐれていないらしくて……嘘はついていないようでしたし」
「『結界』の影響か?」
「定かではありません……でも、わかることは一つ」
声を潜めて、現状手詰まりであることを再確認する。
どうしたものかと考えている中、怪物が吠えた。
「最後のッ、譲歩だァ!! そいつをよこせ! それでテメェ等は黙ってろ!」
「今この場を切り抜けるのが、何よりも優先ってことですよっ!」
オットーのその悲痛な叫びと共に、ガーフィールという獣は牙を一度鳴らし、こちらへとびかかってきた。
□
オットーが、スバルの元に着く少し前のこと。
アリシアはあてがわれた部屋で目を覚ましていた。
外に出てみると既に日は落ちているが、もう慣れたものだ。
というのも、『聖域』に入ってから体調がすぐれない事態が多いのだ。
気分がいい時間もあれば、今みたいにずっと寝ていないとダメな時もある。
完全な不健康生活。
きっとここの問題が解決すればまた、ロズワール邸に戻り、仕事詰めの毎日になるだろう。
だったら、今のうちに堕落を満喫するのも悪くない。
幸か不幸かは知らないが、スバルやシャオンのように咎める人物はいないし、ラムのように罵倒してくる先輩もいないのだから。
そんなことを考えていると、一人の少女が、集落の中で泣いていることに気付く。
見覚えはなく、聖域に住んでいた子供だろう。
そう判断すると、少女もこちらに気づいたのか怯えた目を向けた。
「お、おねえちゃん」
「あー、どうしたっすか? 迷子っすか。いや、村の中で迷子って言うのも?」
「えっと、みんな、どこかに集まっているみたいで……」
「んー、でもアタシもその話は聴いていないしなぁ……」
というよりも、自分だけに話されていなかった説もある。体調を気遣ってか、それとも別の理由かはわからない。
だが、この状況はあまり良くない。まるで自身が子供を泣かしたように見える。
「仕方ない、任せるっす」
鬼の感覚を活用し、どこに人が集まっているのかを探る。
ラムのように『千里眼』という力はないが、自分にだって特殊な能力はあるのだ。
角の探知能力、正確には今は角は出していないがアリシアはほんの少しだけ感知能力――所謂、勘がいいのだ。
才能か、それとも自身に流れる『血』の影響なのかは定かではないが、活用しない手はない。
頭に両手を当てていると、音が聞こえ始める、自分以外には聞こえていないのではたから見ると変人だが、確かに聞こえているのだ。
ここから離れたところが、少し騒がしい。
……騒がしい?
「あっちの方から僅かに音が聞こえるし、そっちにみんないるかも」
「うぅ」
不安そうな様子に、アリシアの中のどこかにある姉心を擽る。一人っ子だが。
そんな庇護欲を煽る少女の為に一緒についていこうとしたが――
「──大丈夫、お姉ちゃんもすぐ行くから、先に行っててくれるかな?」
「え、で、でも」
「大丈夫! ほら、これあげるから……食べるとおいしいよ?」
懐に持っていた木の実を渡し、頭を軽く撫でて半ば無理矢理に彼女を送り出す。
急な態度の変化に違和感を覚えていながらも、少女はゆっくりと指示した方向に進みだす。
心が痛いが、許してほしい――それよりも、優先すべき事項ができたのだから。
「……待っててくれてありがとうっす──シャロちゃん」
背後から、血のように赤い髪色の少女が、目をぎらつかせながら現れる。
シャロ。
人工精霊であり、この村でもそれなりに立場がある人物だったはず。
先ほどの感知の際にひときわ感じた殺意に似た物は背後から感じられたが、信じがたいがこの少女の者だろう。
そう考えていると、シャロは凛とした声でつぶやく。
「驚かないのですね」
「その口調の変化のほうが驚いているっすけど、そっちが本心?」
以前会った時のような子供らしさはなく、自分よりも年上のような振る舞いに警戒を隠さない。
自分も、親友であるアナスタシアも同じように、本心を隠している人物がそれを表している時ほどろくなことにならないのだから。
「村の人たちがいないこと、知っているっすか?」
「……お父様の命令で、この村を壊滅せよとのこと」
彼女の言う、お父様……思いつくのはシャオンだ。
そう、雛月沙音。エミリアが『試練』に最初に挑んだ夜から行方知らずの彼。
その、彼がそう命じた、と。
「残る村での脅威の一つは、貴方のみ」
「どういうことっす?」
「もう、終わりに進んでいるってこと」
その言葉と共に、唐突にアリシアの身体は上から強い力で押しつぶされた。
シャロが、助走どころか予備動作すらなく、こちらに近づき、拳を振り下ろしたのだ。
「お、防いだ」
「ぅ、おぁぁあぁあぁああああッ!!!」
身体が沈み、地面がわずかに陥没する。
歯と歯がぶつかり合い、軋み、血が流れる。
「よいしょ」
軽い言葉と共に、胸部を襲う強い蹴り。
純粋な暴力、力の塊のような存在。
そんな存在に、アリシアは呑みこまれた。