「――――本当に、覚えていないんだな」
「ああ、試練を受けてからは一切の記憶がない、試練と同時にスバルが死んだのだったら話は別だが」
「……いや、俺が死んだのと少なくとも時間軸はずれているな。試練の記憶だけが持ち越されないとかだったら別だけども、というより……『死に戻り』の話はできるんだな」
「確かに、言われてみるとそうだな」
『死に戻り』の記憶はない。だが、『死に戻り』の存在は知っているし、その存在をスバルが口にしても所謂『ペナルティ』というものが発生していない。
そうなると、試練の記憶だけ本当に持ち越せていないだけなのかもしれない。
「……いまは、その話はいいや。死因についての話だ、いや、俺を殺した奴についてだ」
「あー、なんか嫌な名前が聞こえていたな」
スバルの言葉にシャオンは避けていた現実に向き合う。
「エルザ、『腸狩り』エルザ・グランヒルテが、俺を殺した」
そう呟き、額に手を当てて、嘆くように空を仰ぐスバル。
気持ちはわかる。それほどまでにエルザと言う女は強烈な印象をシャオン達に与えたのだ。
少なくとも異世界にきて、初めて命を奪った相手なのだから良い感情は抱けない。
ともあれ、屋敷を襲った脅威がエルザであることはスバルの中で結論とされる。そうしてしまえば、問題となってくるのは――、
「エルザが屋敷にいた理由と、フレデリカたちがどうしたのか」
「そして、村自体を襲った別の襲撃者たち、『魔獣使い』とよくわからない男か」
「ああ」
スバルが屋敷に到着したとき、夜の屋敷には生活感がわずかではあるが残されていた。ペトラの自室の灯りや、玄関ホールの照明などがそうだ。執務室は脱出路を利用するために使われたものであるから除外とするが、その二ヶ所の灯りから考えられるのは、
「少なくとも、到着した夜までは何事も起きてなかった……ってことか?」
そう結論づけることも早まってはいないか考慮する。
もしかすると、ペトラの部屋や玄関ホール、執務室などの照明は一日中付けっ放しになっていて、スバルがあの夜までは無事と勘違いしている可能性もある。
ただ、その仮定を否定する要素として上げられるのは、照明の持続時間だ。たしかラグマイト鉱石と違って屋敷に使われている物はそこまで長くないはずだ。確か、約八十時間
時間にして、およそ八十時間がスバルに残されたタイムリミット。
その限られた時間を使ってスバルに課せられた今回の役割。それは、
「あの『腸狩り』に襲われた屋敷の防衛、もしくは屋敷の奴らの安全の確保」
あの蛇のような、蜘蛛のような殺人鬼を前に、彼女らが無事に逃げおおせたかどうかは確証が持てない。あの逃げ道がどこに続いていたかはわからないが、屋敷から逃げたフレデリカたちが向かうとすれば、主であるロズワールとの合流を目指して『聖域』であるはずなのだ。
なのに、自分たちは『聖域』の道筋の途中で遭遇していない。
考えたくはないが、逃げ出すことが叶わなかったケース、だ。
彼我の戦力差を考慮して、スバルは考えたくない後者の可能性の高さに眉を寄せる。
だが現実、スバルの目にしたエルザの実力はそれほどの高みにあった。異世界で少なくない経験と、幾人もの実力者を目にしてきてなおそう思うのだ。
あの殺人鬼は純粋に戦闘力という技量のみで計りにかければ、
「シャオン、エルザと戦って勝てたよな。俺が勝てる可能性は――」
「ないよ」
スパっと言いきる。
残酷な現実だがあの殺人鬼とスバルが戦えば100回戦っても、100回負けるだろう。
そしてそれはスバルもわかっているようで、頭を振る。本題は、
「ですよねー。んで、お前が今エルザと戦って勝てる可能性は」
「――もちろんある、と言いたいが」
以前倒した相手なのだ、勝てる可能性は十分にある。ただ、それは
スバルの話した内容の限りでは、こちらに不利すぎる条件であることは確実だ、そうなると、
「三人、下手すればそれ以上の相手と戦って勝てる自信がない。そもそも、俺は聖域から抜け出せるかわからない。勿論、それを試してもいいが……」
もしもそれで体が裂けるなどの物理的な影響があるならば気軽に試すことはできないだろう。
それか、以前リューズに言われた通り魂と体が分離されてしまう可能性もあるだろう。だから、シャオンがこの聖域の外に出ることは少なくとも今はできない。
「そも、エルザが屋敷にきた理由は……やっぱり、前回と同じで王選の妨害か。けっきょく、あいつは誰に雇われてエミリアの邪魔をしてやがんだ」
王都でのフェルトによるエミリアの徽章盗難。
その依頼主はエルザであり、さらにその裏にはエルザを雇った黒幕の存在がある。王選参加資格である徽章をエミリアから奪おうとした経緯を踏めば、他陣営に違いあるまいと踏んでいたのだが。
「……あの時に比べて情報量が違う、どう考えても他の陣営がそんな手を取るとは思えねぇ」
白鯨討伐時に絡んだこともあり、好感度補正という物もあるかもしれないが、暗殺者を雇うという手を取るならば。その時点でクルシュが候補から外れる。共に命を懸けて戦ったからわかるが、彼女はそんなことをするような人間では決してないと断言できる。
また、フェルトもエルザに殺されかけているため、当然候補から外れる。そもそも彼女が王選に参加するようになったのは徽章に関するもめ事の後だ。
残るのはプリシラとアナスタシアの二人だけだが――、
「プリシラ……はねぇな。性格的にこんなこそこそ動かない。騎士であるアルが動くことはあり得るが……勝手に動いてプリシラの機嫌を損ねることはしないだろう」
「そうなるとアナスタシア嬢だが……」
消去法で残されたのは紫髪の商人の女性。
柔和な顔立ちの中にも、野生の動物のように鋭い目、そしてそれを刈る狩人としての勘があり、自身の立ち回りを意識して万全な対応が取れる。
彼女であればあるいは、合理的に他者を蹴落とす方法を選択するかもしれない。金で外部の人間を雇う、というある種の禁じ手を嬉々として行う突飛な発想力にも長けているだろう。
だが、
「ないな」
「随分と言いきるじゃねぇか、絆されているんじゃないよな?」
スバルの訝しげな視線を横に流し、首を振る。
「アナスタシア嬢は殺すまではやらないだろう。それに何よりユリウスの奴がそれを見過ごすとも思えない」
あるいは彼女の騎士であるユリウスに隠れてのことかもしれないが、彼の性格ならば絶対に暗殺者を派遣するなんてことは認めないだろう。アナスタシアも円満な主従関係に取り返しのつかない亀裂を入れてまでやることはないだろう。
それに、
「後は……あの人がそんな手を使うとは思えない。屋敷に招かれて絆されている、って言うのはあるかもしれないけど。少なくとも、あの殺し屋を雇う性格はしていない」
「へぇ、だいぶ買っているんだな」
「まぁね。とにかく、彼女は――命を軽くは扱わないはずだ」
あの屋敷での一日はそれを十分にシャオンに実感させたのだ。
ルゥやリカード、ミミたちなど、彼女の仲間である彼らは乱暴ではあるがどこか優しい。それはアナスタシアの人柄もあらわしているのだろう。
以上を含め独特な勘もあるが、スバルと意見をまとめた結果、アナスタシア陣営の関与も消極的に廃案となり、
「候補者から候補がいなくなる。ただ……それでも、考える余地はいくらでもあんだよな。エミリアの、扱われ方を考えると」
王選候補者が依頼人でないのなら、純粋にエミリアを王選から排除したいと考える派閥の人間の可能性がある。ただ、ハーフエルフである彼女を忌み嫌うものがそこまでするだろうか。
「……仮にそういう性格の悪い奴が依頼したとして、事実上、依頼人の身元を暴くのは不可能になっちまうな。エルザ本人が吐いてくれない限りは」
そして、それを吐かせるには力が足りない――堂々巡りである。
けっきょく、エルザ来襲に対して対処できる可能性があるのは、
「俺はばっちりダメ、シャオンとアリシアは聖域から出られずそもそも対応ができない。オットーも数えるだけ無駄。エミリアたんは現在不良中。ラムは長期戦になる可能性を考慮するとスタミナに不安。ロズワールはケガ人で安定の役立たず。フレデリカがどれぐらいやれるのかわからないのと、ペトラやルカはも勿論論外…となると」
打開策は少ない。
一つは屋敷に舞い戻り最低限の人員を連れ出して『聖域』へ逃げ込み、エルザの襲撃を回避すること。
そしてもう一つは、
「――こんなとこでなァにをうだうだやってやがんだよォ?」
壁に背を預けて地面に座り込む二人を、外に出てきたガーフィールが見下ろしていた。
「ちょっと整理したいこととかがあってな、考えごとしてた。エミリアは?」
「お姫様ならまァだグースカと寝てやがんぜ」
お姫様という言葉に込められた侮りに、わずかに苛立ちを覚えるが、立ち上がってガーフィールに向き直る。
低い背丈、短い金髪。鋭い眼に額の白い傷跡。尖りすぎた犬歯と獰猛な獣じみた全身から放たれる鬼気――強者だけが持つ、自身への信頼。
なによりシャオンは彼と戦ってその実力を身をもって知っている。そして、あれが全力でないことも薄々ではあるがわかっている。
で、あるからこそエルザへの対処として浮かんだ二つの手段、そのもう一つが、この青年だ。
『試練』を踏破して『聖域』を解放すれば、彼をこの場所から連れ出すことができる。そしてエルザへの対抗戦力として期待が持てる。逃走が一時しのぎでしかないことを考慮すれば、撃退あるいは討伐が望ましい。
「なぁ、ガーフィール」
「んっだよ」
「お前は最強、なんだよな。誰にも負けない自信がある、そうだろ?」
「あァ? ったりめェだろうが俺様がぶっ潰して、上に立ってやんよ」
確認するようなこちらの問いかけに、意味が分からねぇとばかりの様子で応じるガーフィール。
言い方はアレなものだがその言葉の裏にある自信は揺らがない。
「――この『聖域』から外に出たら、お前のその力が必要になるときがすぐにくると思うんだ。そうなったとき、お前の力に頼ることがあると思う」
「あんだと? なんでお前らにそんなことを――」
「その言葉嘘じゃないなら、証明してみせてくれよ。それが一番、頼りになりそうだ。それに、聖域から解放できれば俺らは恩人だろう?」
「――――」
困惑顔のガーフィールの肩を叩き、それからリューズの家の中へ。
戸を開けて入ってきたこちらに中の四人――ラム、リューズ、オットー、アリシアの視線が集まるが、そんな彼らの注視を浴びながらスバルはエミリアの眠る寝室の方へ足を向け、
「バルス、まだエミリア様は……」
「――エミリアたん、顔出しづらいんだろうけど、話をしようぜ。みんなもそれを待ってるからさ」
扉越しに中へ呼びかけると、かすかな息遣いが向こう側から届いた。
そして数秒の後におずおずとドアノブが回され、寝室から俯き加減にエミリアが姿を見せる。
彼女は扉の正面に立つスバルを上目に唇を震わせて、
「その……迷惑ばっかりかけて、ごめんなさい。墓所の中でも、それに今も……」
「それらはすべて俺のやりたいことだから平気。それより、体調はどう?」
「う、うん、大丈夫よ。それより、中の……『試練』の話をしなくちゃだもの、ね」
スバルの心配に対して喰い気味に答え、エミリアは部屋の中央へ進み出る。
程なくガーフィールも家の中に入ってきて、エミリアを件の面子が囲む形に。
そうして全員からの注視を浴びながら、エミリアが『試練』説明を行う。
そして、
「それで、中に入ったナツキさんとヒナヅキさんの二人が無事だったのはなんでなんです?」
そう、小さく手を上げるオットーが代表しての疑問の声。
「言ったろ? 『資格』をもらったから中に入るんだ、って。どこでもらったかって話をするなら、たぶん昼間の墓所でだ。それで、中に入ってどうなったかっていうと……俺もエミリアたんと同じ『試練』ってやつを受けた。結果は、通ったみたいだけどな」
「俺が資格をもらったのは『裏の聖域』だろうな。詳しくはカロンから聞いてくれ……結果は、まぁ残念だったが」
シャオンの記憶ではあの白黒の少年の導きでエキドナに出会うことはできたのだ。そして、恐らくその時だろう、『資格』を得ることができたのは。
そして、その二人の発言に室内を動揺が走る。
中でも、同じく『試練』に挑み、スバルとは違い、失敗したエミリアの驚愕は一際大きい。
「前もって言っておくけど、別に俺の方が優秀だったから『試練』を抜けたとかってことじゃない。それだったらシャオンやエミリアたんが抜けられないのは納得がいかないからな。……『試練』は過去と向き合うことだった。そこそこ折り合い付けてた俺にとっちゃまだ楽だったわけだ」
「ふむ、スー坊が『試練』を越えたというのなら……驚くべきことじゃな」
「でも、さっきのエミリア様の話からすると、『試練』は一つで終わりではないのでしょう? まず、という言葉には続きがあることが予想できるから」
リューズの受け入れとラムの言葉。それらに頷き返しながら、スバルはちらとエミリアの様子をうかがう。だが、彼女の困惑した様子に、答えさせるのは酷だと考え、
「俺が『試練』を攻略したときに聞いたんだが……『試練』への挑戦者が複数人同時に入ると、次の『試練』には進めないらしいんだ。日を改めなきゃ入れない」
「……えっと、それってどういうことっすか?」
「『試練』の優先度は一番最初の試練が高いってことだ。エミリアたんの『試練』が始まるばかりで俺は『試練』を……第二のそれが受けられないってわけだ」
「ちょちょ、待ってくださいよ、ナツキさん」
スバルの言葉を中断させ、早口にオットーが割り込む。彼は胡乱げな自分に向けるスバルの視線に気付かず、その灰色がかった髪に手を差し込み、
「今の話の流れからすると、ナツキさんも『試練』に挑戦する腹積もりなわけですか? もともと、これはエミリア様の功績にするためのものなんじゃ……」
「馬鹿、オットー」
焦り気味の言葉を舌に乗せるオットーに、シャオンはその名前を呼んで制止を呼びかけるが遅い。
彼はその呼びかけで慌てて口を塞ぐ。だが、すでに内容は全員の耳に――一番聞かせてはならないエミリアの耳にも入ってしまった。
気まずげなオットーと、そのオットーを蔑む目をするスバル。アリシアもため息を零し、ラムはいつも通りの、いや若干目がゴミ虫を見るかのように鋭い。
「今のって、どういうことなの?」
「エミリア、落ち着こう。今のはその……」
「ちゃんと教えて。――お願い、スバル」
エミリアが縋りつくような目で、スバルに懇願してくる。
様々な感情で揺らいでいるその瞳を向けられ、弱っている彼女の懇願を振り払うことができるほど、スバルは酷な人間ではない。
だが、なるべく言葉を考えて、たどたどしくも答えた。
「君が『試練』をクリアすれば、アーラム村の人たちは人質から解放されるし、『聖域』の人たちもこの土地に縛られる生活からおさらばできる。『試練』が攻略できれば、その二つの陣営からの支持を得られるはず……ってのが、事の本当の目論見ってやつだったんだよ」
「……そんな、の。スバルは、知ってたの?」
「俺のほうはある程度想像はついていたよ。ただ想像の段階だからということで、スバルに話していなかった俺が悪いね」
「……まぁ、色々話してほしかったのはあるが、そう! 全く気づきもしなかった」
動揺を隠せないエミリアの前で、シャオンがカバーに入る。
打ち合わせのない行動だったが、それならば、といっそ胸を張って堂々と嘘をつく。
そしてシャオンがスバルから引き継ぎ、
「全部、師匠。あー、ロズワールの思惑だね。ここまでくるとどこまでが演技なのか――」
「いくらロズワールでもそこまで……なんて、言い切れないのよね。今の状況を考えてみたら、それぐらいのことしかねいもの」
戸惑い気味のエミリア。わずかに俯く彼女の前で腰を折り、スバルは下から見つめる。まるで子供に話しかけるように。
「スバル?」
「俺は君の力になりたい。試練で君がなにを見たのかわからない。でも、それで心が砕けそうになる辛さを味わうんなら……手を差し伸べてあげたい」
「……スバル」
「『試練』を受けて、『聖域』を解放するだけなら俺がやっても問題ないはずだ。その手柄が必要だってんなら、俺のものは全部君にあげる、俺にできることは少ないけどね――だから、せめて明日一日は俺に譲ってみてほしい。これだけ疲弊してる君を明日も墓所に連れていくことは、俺にはできない。なら、それなら二個目の『試練』を先に予習する意味でも、余裕のある俺が挑んでおくべきって考えなんだけど、どう?」
端から見てもスバルの提案にエミリアが揺れているのがわかる。
今の弱り切った彼女には救いの手に見えるだろう。だが、それは、彼女の弱さに漬け込む卑怯な手だ。
それをスバルもわかっているのだろう、必死に表情を作っているが、どこか動きが硬い。
だが、恐らくこれが最善手のはずだ、のんびりとしていては全員が――。
「黙って聞いてりゃァ、そうやって好き勝手に話進めてやがっけどよォ」
その言葉は獣人特有の牙を鳴らしながら放たれた。
「俺様ァ、そのお姫様……エミリア様以外が『試練』を受けるのなんざ反対だ。少なくとも、てめェにだけは絶対の絶対の絶対に、解放してもらいたいたァ思わねェ」
「な――!?」
「いいか? 繰り返すぜ? 俺様ァ、エミリア様以外が『試練』を受けるのを認めねェ。この聖域にいる中で絶対に守ってもらう『ルール』って奴だ。おぼえとけ」
そう、鼻面に皺を寄せて、不機嫌全開のガーフィールは吐き捨てたのだった。