腹を軽く裂かれつつも、スバルの目に闘志は灯ったままだ。
それを見てエルザは恍惚な笑みを浮かべ、スバルの問いに答える。
「なんでここにいるのか、ね。流石に雇い主の情報を渡すほど甘くはないわ」
「そうかよ……最近は、いや今も昔も男に優しい女性のほうがモテるぜ?」
「あら、そうなの? でも安心してちょうだい。私、これでも優しいから」
「お前が優しいのは腸だけだろう――ッ」
狂人と話をして時間を稼ぐ。まずは状況の整理――なんていうものは馬鹿げた思考、ぬるい考えだ。
奴の脅威を知っているなら、行動原理が読めない奴に思考の余裕は割けない。だから、なぜ今、ここにエルザがいるのか。誰も知らないはずの隠し通路に、なぜ潜む。なぜわかる。全て後回し。
疑問の追求は二の次に、今はただ頭を回転させるのだ。
「それにしてもよかったわ、メイリィが村から戻る前に標的を見つけられて」
「……村?」
村、と言われて思いつくものは1つしかない。アーラム村だ、つまりここには複数の人物で来ている。そして、屋敷担当がエルザで、もう一人がそのメイリィと言う奴だろう。
どちらにしろ、 急いで確認してこないといけない、だがそのためには目の前の敵を、エルザを突破する必要がある。
だが、どうやって突破する。
頼みにする戦力は今はない、スバルがいくら死んでも乗り越えるほどの覚悟を持ち合わせていても、戦闘力が上がったと勘違いするほどの馬鹿ではない。
以前の自分なら過去を乗り越えて、なんて思ったかもしれないが。苦い現実はつい最近死ぬほど、いや死ぬたびに見てきたのだ。
だから、自身ができることを選択肢として考え――一番確率が高いものを選んだ。
「――シャマァァァァァァァック!!」
自身の不完全なゲートに無理やりマナを通し、あの暗闇をイメージし、地獄の一歩である魔法を放つ。
咄嗟に前に突き出したスバルの右手からイメージ通りの煙幕が噴出し――通路を闇が覆う。
完全な闇。だが、この闇は通過できるものだ、それこそ遮幕の意味しか持たないものだ。だが、今はこれで十分だし、これ以外にスバルができることはない。
「ッッッ!!」
闇を走り抜け、る前に、空気を読まずに激痛の猛攻がスバルを襲う。
以前味わい、二度と味わいたくないと思っていたあの傷口に熱した刃を突き刺すような嫌な痛み。ゲートを酷使した結果訪れる体への負担が今になって襲ってきたのだ。
だが、それは想像よりも重く、崩れそうになる。だが、その今にも崩れ落ちそうなそれを留めたのは鋭いなにかに肉を抉られる痛みだ。
反射的にスバルは体を起こし、意識がはっきりとする。
予想外の痛みの原因に目を向ければ、自身の背中に合計で四本の鋭い杭が突き刺さっていた。
杭自体はそこまで長くないものだが、当たり所が悪ければ、死ぬかもしれない。ただ、彼女の性格ならばこれはあくまで足止めや、獲物の動きを鈍らせるものだろう。
これに毒が塗られていればここでゲームオーバーだが……それよりも驚くべきことは、
「まさか、見えて……!?」
切り札、とは言えるほどのものではないが、この決死の魔法を、暗闇を透視している。あるいはユリウス等のようにシャマクを無効化する能力もち、もしくは自身の魔法が予想よりもひどい出来だったのだろうか。
様々な可能性を考えたうえで、それらのどれでもないと気付く。
黒煙がなんらかの脅威であり、飛び込むことを危険を判断したエルザが、靄の向こうからこちらへ向けて狙いも付けずに投擲を打ち込んできたのだ。
通路は狭く、適当に投げても、通路のど真ん中を狙えるコントロールがあればどこかに高い確率で命中する。
後は当たれば、獲物は血痕を残すし、足は遅くなり、今は見失ってもすぐに見つけられるだろう。
決死の、本当の意味で死を覚悟した策を簡単に対処された疲労と、ゲートの不調による痛み。それらが同時に襲ってきたこともあり、ほんの一瞬の攻防で、スバルは気力も体力も根こそぎ出し尽くしてしまった。
このまま屋敷の外に戻れたところで、打開する手段がすぐに思い浮かぶわけではない。ただ目先の希望に縋るように、スバルは歯の根を噛み潰して走り続ける。
そして、ようやく屋敷を抜け、外の空気を吸えたと同時に感じたのは、うなじを怖気が駆け上がったのは、幾度も『死』に触れたスバルだからこそ感じ取ることのできた臨死の感覚だったのかもしれない。
「――ひっ」
間一髪しゃがみ、それを避ける。
頭上を通ったのは刃だ。いや、正確には爪だ。それがスバルの首を確実に刈り取ろうとしていたのだ。避けれたのは本当に奇跡だっただろう。
そして、スバルにとっては大差ないものだが、正確には爪。獣、”魔獣”の物だ。
なぜ魔獣の物かを判断できた理由はたった一つ。目の前にいた人物の存在だ。
「――――お前は」
「もう! エルザったらまた遊んで、後で起こられても知らないわよ?」
以前の魔獣騒動の際にシャオンが対応した、藍色の髪をお下げにした純朴な顔立ちの小柄な少女。『魔獣使い』だ。
ペトラと同じ年頃に見えるその無邪気さは、いや、その無邪気さゆえに周りに従えている彼女と対比する気にすらなれないほどに巨大な魔獣のアンバランスさがスバルの危険度を助長させている。
そして、もう一人。
「まーま。メイリィよ、姐さんも逃がしはしないだろう? 多少の遊びは許してやってもいいんじゃねぇか?」
「仕事に手を抜いてはいないわ、ヴェルク。貴方と違ってね。――その子は?」
ヴェルクと呼ばれたのは、無精髭に前に垂れたくしゃくしゃの髪をした男性だ。軽薄そうな彼は、エルザの指摘に「へいへい」と軽く流している。
――そんなことはどうでもいい。それよりも重要なのは、その腕の中で抱えている1人の――
「兄ちゃんには気の毒だが、いつかは終わるから耐えてくれ。男だろ?」
――――青い、髪の、愛しき少女
「――レムにさわんじゃねぇっ!」
勢いに、感情を乗せた拳は空を切る。
そして触れられないスバルに対し、ヴェルクは皮肉気にレムを大事に抱えながら、こちらの鳩尾を蹴り抜く。
体が僅かに浮き、骨が折れた音と共に視界が赤く染まる。
「あー、なるほど。この嬢ちゃんはアンタの所有物か。なら、仕方ないな」
「……れ、むを物扱いしてんじゃねぇ!」
息をするのですら激痛を伴う中、スバルは叫び、立ち上がる。
視界はまともに見えず、見えたところで満身創痍。
だが、それでも、スバルがスバルであるために。彼女の望む英雄である為に、立ち上がる。
「あら、意外」
エルザの冷やかす声すら届かない。
先ほどまで冷静に物事を考えていた自分は既に消え去り、今は、ただ、今は目の前の男からレムをーー
「……はあ、暑苦しいね。兄ちゃん。嫌いなタイプだ」
面倒くさそうにしつつ、ヴェルクは頭を掻く。
そして、
「起動しろ、『ミーティア』」
懐から出した、小さな杖。
まるでそこらに落ちていた木の枝と間違えるほどの、小さなそれをヴェルクはスバルに向けた。そして――
「――――は?」
目の前の空間が歪み、混ざり、弾けた。
至近距離にいたスバルは避けることはおろか、何が起きたのかすら正確に把握できていない。だが、
「――あ」
分離された頭と胴体、ないはずの視界がそれらを捉え、最期に聞こえないはずの聴覚から僅かに自身の亡骸が落ちた音だけは聞こえたのだ。
□
『聖域』の中は異常な光景になっていた。
姓名溢れる森は全て凍り付き、死の森へと変わっている。
そんな中、一人の青年だけが、呑気に笑っていた。
「ふぅ、寒い寒い」
震えを抑えるように腕をこすり、シャオンの吐き出した息が白くなる。
「こういう時は君のような毛皮持ちが羨ましいよ。寒さにも強いだろう? 生憎と『傲慢姫のドレス』は自然現象まで防げなくてね」
「……」
「羨ましい。ボク自身の力はそこまで『価値』のあるものじゃないよ」
白い吐息と共に軽く笑い、シャオンはつぶやく。
それもそのはず、目の前に広がっているのは、氷土だ。
比喩、ではないのかもしれない。生き物達は死に、近くの空気も、マナすら凍りつく。
「キミが培ってきた努力や経験のほうが十分に価値がある。それは当然のことだけどね」
話しかけたのは氷の槍。
正確にはそこにいた人物、ガーフィールだ。
氷の槍に肉体を貫かれ、拘束されたガーフィールに話しかけたのだ。
中心に大きなものが1つ、それよりも小さなものだが鋭利なものが数本関節のあるであろう位置を貫いている。
「でも、価値っていうものは衰えていく。愛が減るようにね」
誰かの真似をするように、シャオンは呟く。
「だから、その前に刈り取るのがボクの役割だ。勿論価値が衰えていない、ボクよりも強い、価値があるという証明ができれば刈り取ることはないけども……君は――残念だけど」
「そう、かよォ」
血を吐き出しながらもガーフィールは敵意の目を向ける。
満身創痍のその姿であっても、戦意は削がれていない。首だけになってもこちらにかみついてやる、というほどの熱を感じる。
それを見て、シャオンは手を叩いて嬉しそうに笑った。
「凄いね。君の加護はもう使えないはずなのにその回復力。流石亜人か」
加護はもう使えない、正確には封じられている。だが、シャオンが行ったことは単純。ガーフィールの触れる可能性のある
直接触れられない様に、広く、砕かれることがないように硬く、ただ膜を張る様にすべてに氷を敷く。
言葉にすれば簡単だが、その行動を実際に行うことに一体どれほどのマナを使う必要があるのだろうか、少なくともガーフィールにはわからない。
ただ、わかることは1つ――この男には、自分では勝てない。
「――ああ、今回はここまでかな?」
ガーフィールは自身の力不足に歯を噛み砕くほど力んでいると、ここではないどこか遠くを眺めながら、シャオンは呟く。
何が何だかわからないが、まるでこちらに一切の興味を持っていないその様子に苛立ちを抱く。
だが、その苛立ちをぶつけることすらできない自身の弱さに一番苛立ちを覚えているだろう。
こちらの様子を見て、「ごめんごめん」とシャオンは笑い、ようやくこちらに焦点を当て直す。
「君のことを忘れていたわけではないんだ。ただ、一応まだ用事はあってね。時間が許すなら弟弟子に、会いに行こうかとおもってさ。たぶんあっちの方にいると思うんだけど、間に合うかな」
見つめる先、その方角はあの忌々しい男が休んでいる――
「その必要はないよ」
ガーフィールの苛立ちを加速させるような、本能からの嫌悪感を感じさせる男の声。
その声の主は、ちょうどシャオンが見ていた方角から歩いてきた。
いつものような道化師を思わせる服装に、背後には従者であり、愛しい女性を控えさせながら歩いてくる。
「はじめまして、だーぁね」
顔だけは白粉を解いた、普通の人間としてのロズワールがそこにいた。
隠しきれないほどの狂気と嫉妬心を宿しながら。
□
「ロズ、わーる」
「随分な様子だーぁね、ガーフィール。生きていたとは驚きだ」
にらみを利かせるガーフィールをからかうように。いや、一種の憐れみを混ぜた視線を向ける。
ただ、常人であるガーフィールが読み取れるのはそこまでで、その視線の中に含めているもの、瞳の奥にある暗さを読み取ることまではできない。
そんな中、もう一人の人外が動き出した。
「――ああ、君が先生の弟子、一応はキミが弟弟子かな? よろしく。」
差し伸ばした手を黙って見つめながらロズワールが口を開く。
「……君は、ヒナヅキくん。でいいんだーぁね?」
「半分正解だよ」
「半分?」
小さな驚きと僅かな苛立ちを含めた声を上げるロズワール。
シャオンとしてはこのような反応を見るのは久しぶりであり、内心楽しい。ただ、残された時間は少ない、早く用事を済ませる必要がある。
だが、
「その前に――そちらの亜人さんは、大丈夫かい?」
シャオンは目線でロズワールの後ろに控えるラムを指す。
ロズワールに仕える、いわゆる右腕のような存在。桃色の髪をした彼女はいたって普通の様子だ。
だが、わかる人物はわかるだろう、彼女に宿るその感情を。
「ずいぶんと殺気立っているようだけど、何かあったかな?」
「……」
ラムは何も言わない。
いや、何か言いたげにしつつも主であるロズワールの前だからなのか、それとも別の理由があるのか。
ただ、目に宿る敵意はシャオンへと向けられており爆発寸前の爆弾とでも評するような危うさを表している。
「彼女のことは気にしないでくれたまーぁえ。わーぁたしがいるなら手は出させないからね」
「そ。ならいいか……結論から話そう。ボクは”器”の一つだ」
「器?」
「そう!」とシャオンは頷く。そして、大げさに手を広げ、まるで空から見ている誰かに説明するかのような立ち振る舞い。ラムは勿論、ロズワールでさえ怪訝そうな目を向ける。
ただ、それに気づいていないのか、それとも気づいていても気にしていないのかシャオンは続ける。
「いつかボクが、いや。シャオンが元に戻る際に用意した多くの依代、器のひとつ――それが雛月沙音さ」
そしてヴェルクさん2章に名前だけ登場