「おっと、まずは体を整えよう」
男――シャオンは、軽く自身の体に触れる。すると、まるで何もなかったかのように傷がすべて消え去っていく。
その速度も、技術力も治療魔法などではない、そんなレベルのものではないモノで、治療がされたのだ。
「お兄さんさァ、いったい何者なのサ?」
「ふむ。ボクの名は残されていないようだね、少し残念ではあるが必然だ」
言葉とは裏腹にくつくつと喉を鳴らして笑う目の前の男。彼は先ほどまでの男と、同じ存在だと思えないほどに、邪悪、かと思うと聖人のような慈愛に満ちた雰囲気を混ぜ合わせたような雰囲気を醸し出していた。
――気持ちが悪い。
この世全ての悪と、この世全ての善をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせてできた、そのような怪物だ。
それでも、怯まずにバテンカイトスは立ち向かう。そんな気持ちが悪い存在であろうとも、未知の存在と言うだけでバテンカイトスの食指は十分に動く。
「いやいや、僕たち相手に偽名を使うだけの小賢しさがあるだなんて思わなかった。すっかり騙されたよ、お兄さんそういうの苦手そうなのに……『名前』を暴くまでがっつくのは避けてたつもりだったんだけど……まァさか、それを逆手に取られるだなんてね」
「正確には偽名を使っているのじゃなくて、本名が嫌いだからなんだけどね」
「どっちだって構わないッ! 俺たち、僕たちにはただ美味しく食べきることだけが第一さァ! それに、『権能』の正体がわかったところでどうなのかな? お兄さんの名前を知っている人物を探すのは骨が折れそうだけど可能性は零じゃない。そうだ、そうだよ、そうしよう! そこまでしっかりと保管して、じっくりと熟成しよう!」
まるで新しい料理のレシピを思い出したかのように、長い舌をだらりと垂らし、服が汚れるにも関わらず、血が混ざった涎をまき散らす。
ただただ『食』のことのみを考えている、その様子はまさに『暴食』。そして、
「そうして、そうやって、じっくり、コトコトと煮込んだスープのように、時間をかければかけるほどに、食した時の感動が濃厚になる――ああ、それはそれはとっても楽しみだッ!」
堪えきれないとばかりに、勢いよく吹き抜ける風のような速さでバテンカイトスはシャオンへと飛びかかる。
対して、シャオンは腕を下から上へ振上げただけだ。男の手には武器は持っていない、先ほどまで所持していた武器は遠くに投げ飛ばされており、何も攻撃にはならない。
だが、直後。
「がっ、ぐぉ!?」
「ふむ、不完全だね。今の一撃で片腕ぐらい吹き飛ばしたかったんだけど……”刀”も”宝玉”もないし、仕方ないか。娘たちに貸し与えたものを欲しがるのはどうかと思うし」
バテンカイトスの体が何か、鞭ようなもので勢いよく弾かれる。
防御すら意味がない、
その威力はバテンカイトスの首筋から胴にかけて黒い痣ができていたほどに強い。
「あ、ぐ――ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃとさァ! 意味の分からないことをべらべらとしゃべってもサァ! 僕たちには理解なんてしないんだよぉ!」
「おや、これは失礼。先生の癖が移ってしまったかな。でも、理解しないなんてもったいない、君達にだって可能性は――」
「エル・ヒューマッ!」
話の最中に予備動作無く、バテンカイトスが放ったのは氷の魔法。
今までの肉弾戦とは違った、魔法による不意打ちに近い一撃。
鋭く、ギラリと煌く氷の刃が十本ほどバテンカイトスの周囲に浮かび、目にも見えない速さで飛び、そしてシャオンに当たる直前、
「――解」
「――――は?」
一言、その呟きで霧散した。
すべて同時に、砕かれるわけでもなく、溶かされるわけでもなく、消滅したのだ。
理解できない光景を目にしバテンカイトスは唖然とした表情を浮かべる。
それを見て、クスクスと笑いながらシャオンは説明をする。
まるで出来の悪い生徒に教える教師のように。いや、事実この男にとってバテンカイトスとの戦闘は殺し合いにすらなっていないのだ。
「驚くことではないよ、魔法の練度がボクの解析能力よりも低かっただけだからね」
指をクルクルと回しながら説明するその男の声がバテンカイトスには酷く遠くに聞こえていた。それよりも、目の前の男が何を言っているのかが理解できなかった。
魔法の練度? 解析? いったい何を口にしているのかが全く分からない。
「さて、君の名前はライ・バテンカイトスだったね。当代の、あー、魔女教大罪司教『暴食』か」
名前を呼ばれた瞬間、視界に、対象にとられたその瞬間にバテンカイトスの体がびくりと跳ねる。
その姿は先ほどまでの捕食者としての姿はなく、狩られるだけの獣だ。
「因子の適合はあるみたいだけど、ダフネの後を継ぐ価値があるのかどうかはわからないな――だから、天秤にかけよう。ボクとキミ、どちらがこの世界に残るべき価値があるのか。見せてくれるかい?」
◇
折れかけた心をつなぎ合わせ、迫りくる脅威になんとかバテンカイトスは改めて牙をむく。
自身の権能を最大限に用いて、目の前の脅威に抗おうと試む、全ては食事を、飢餓を満たすために。
「『双剣の蛇』ッ!」
わざと、一度地面に短剣を落とし、視線がそちらに移動した直後、その短剣を素早く足で蹴り上げ、身を翻してキャッチして斬撃の嵐を 浴びせる。
その連撃は曲芸に近い始まりではあるが、威力は保証付きだ。本来ならば後退し、短剣に近づいてきたところを奇襲するように放つ連撃ではあるが、効果は十分、のはずだった。
「おっと」
「――はァ!?」
バテンカイトスの一撃は、いや斬撃は短剣を指でつままれて止まってしまう。
その刃は指二つだけで捕らえられているはずなのに、引くことも、押すことも何もできない。連撃は初激すら与えられずに止められ、バテンカイトスの体は拘束されてしまう。
追撃が来ると覚悟をするも、驚いたことにシャオンはその刃を離し、ポンとバテンカイトスを軽く押しただけだ。
気を抜いたところに予想外の行動を受け、思わず尻餅をつく。
「ほら、次を見せてごらん」
「ふざけるなよッ!」
「ふむ、では『双剣の蛇』」
その言葉と共にバテンカイトスの先ほどはなった一撃と同様の技が放たれる。
いや、同様であり、
違うのは短剣ではなく、手刀であること。そして何よりも別の技だと思ってしまうほどに、それほどまでに威力が、速度が違い過ぎていた。
それを浴びたバテンカイトスの肉体は裂ける。だが、それだけで攻撃は終わらず、突きの余波により空気が裂け、鎌鼬のような風の刃がさらなる傷をつける。
傷は当然深い、だがそれよりもバテンカイトスには問いただす必要が出てきた。
「な、んで。『権能』が無いくせにその技をッ!」
「簡単な話さ、誰かにできることならば、ボクもできるんだ」
自嘲気味に、驚くべき事実を口にする。
「模倣の加護、と名付けられたからそう言ってるけどね。ああ、安心して。加護だから因子による権能は取れないよ、でもそこで諦めるほどボクは無能ではない。その成果とは違うけど、権能でも、加護の能力でもない。”全く別のもの”が生まれる、この世に唯一無二の物が生まれる」
愛おし気に、見えない何かを抱きしめる。
届かない星を見つめる子供のように、純粋で、どこか悲しみを、宿している瞳、救いようがないほどに光のない闇を。
バテンカイトスでさえ、思わずひるんでしまうようなその闇を垣間見て、止まる。だが、
「例えばそうだね、現状の『怠惰』の魔女因子は当代の者が有しているようだけど……『不可視の腕』」
その言葉と共に、バテンカイトスの体が地面へと沈む。
無理やり巨大な手が頭の上から抑えつけてくるかのように、バテンカイトスを潰し続ける。
もうバテンカイトスは戦闘する力はないだろう。だがそれはシャオンにとって攻撃を終わらせる理由はなく、ただただ彼の身体は沈み続ける。骨が軋み、手足がひしゃげ、ねじれ、血肉の破壊が絶叫として生まれる。
「ガぁ!? ―――――ッ!」
一度吐き出した空気を再び吸うことすらできないほどの重圧。
痛みよりも、酸欠で気を失ってしまいそうになるほどの、奇妙な事態。
肋骨が折れ、肺に刺さる嫌な感触とあふれ出る血を感じ、涙が零れ落ちる。
「おっと、ごめんね。『癒しの拳』」
不可視の重圧から解放され、穴の開いた灰に急いで酸素を贈る。
バテンカイトスの疲労と、負傷が癒される。癒されてしまう。
それが意味することは――また惨劇が始まってしまうのだ。
「ひっ、あ、ぐぅ……――『跳躍者ドルケルの縮地』ィ!」
その負の思考を放棄し、代わりにバテンカイトスは一瞬で、近い距離、それこそ離れた距離を詰める。
まさに、瞬きの合間にだ。
惨劇が始まることはない、先に殺し、奪い、喰らえば済むのだ、それで、終わるのだ。今までもそうやって乗り越えてきたのだから。
自暴自棄にも似た行動ではあるが、驚くべき速さでシャオンの首筋に対して短剣を振るう。
その刃は柔らかいのその首筋に触れ――短剣が砕けた
「――! 『流法』って、どこまで!」
今シャオンが行ったのは――マナを扱う戦闘技法、『流法』だ。
頑健な肉体を維持し、刃や打撃を通さない技術であり、魔法と異なるマナの使い方を模索した技術体系の一種だ。
ただ、その精度は今まで見たことがないほどに、高く、バテンカイトスには破ることが出来なさそうなほどに頑強。
「次は――『拳王の掌』はどうかな?」
「『絶掌』!!」
シャオンの宣言通りに、まさに拳王と言う名にふさわしい拳が放たれる。
間一髪ではあるが、放たれた拳に対して胸の前で合わさった黒い掌が挟み込み、貫こうとした一撃を押し止める。
拳の接触は免れたが、直後。
「ほら、油断しないで、アル・フーラ」
バテンカイトスの耳に、嫌な音が響く。
風の塊が、シャオンの右手から放たれる……バテンカイトスが止めてしまった右手から。
皮肉にも突き手を防いだばかりに、躱すことが出来ないその一撃は、まるでそれが本命のものだというばかりに、重く、あまりの衝撃に、足が地面から離れ、視界の端が血で赤くなる。
爆発にも似たその一撃はバテンカイトスの腹を蹂躙し、収まった。
目の前の存在は、勝ち目がない、勝ち目を作ることが出来ない。それだけでなく、負けることすら許さない。
傷がついたのなら治され、また傷をつけられる。その行為に悪意はなく、純粋に価値を判断するだけの行為。
明らかに異質。魔女教の大罪司教だってここまで歪んでいない。そんな存在を前にバテンカイトスがとった行動は一つ、
「ああ、それはだめだ。それは価値がなくなる」
――逃げ出すことだ。
福音書の記述など、頭の中から完全に抜け落ち、今はただ、生き残るために、生存本能に従ってただただ逃げる。
その選択が、一番やってはいけないことだとバテンカイトスは知らなかった。
戦闘から逃げ出すことは、シャオンにとってこの世界からバテンカイトスの価値がなくなったということにつながる。
そんな存在はこの世から消す必要がある、ゆえに、ゆっくりと手を掲げとどめを刺そうとしたその瞬間。
「おや?」
上がった声は疑問の声。
その原因は逃げていたバテンカイトスの足が――がぴたり、と止まったのだ。
それだけでなく、その後ろ姿が変化していく。
肉が一度盛り上がり、反対に何度か縮みそして落ち着いたころに、彼女はいた。
「……君の名前は?」
シャオンの問いに目の前の少女は振り返る。
細く華奢な肢体に、透き通るほどの金色の髪はまるで、今の今まで世界から隔離されていたかのように混ざりけがない。
可憐で整った顔立ちには、反転して悪意に満ちた表情が浮かんでいる。
無垢で、混じりけのない、純粋な存在。それは――
「アタシたちの名前は、魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ……あは、お兄さんに興味を持っちゃったから、お兄ちゃんの体を使って無理やり出てきちゃった」
新しく名乗ったのだ、その名を、表情に隠す気のない悪意を載せて。
あ、ちなみに前回出ていたテネポラは感想欄でも触れてくださった方がいましたが
元ネタはデネボラ。しし座の恒星2等星。アラビア語で「獅子の尾」