さて、もう終盤です。
そしてとある人物の『多少のキャラ崩壊注意』です。
――街道を行く竜車の揺れに身を任せ、王都へ向かっていた。
竜車の中に差し込む日差しの強さにその目をわずかに細めた。
正面、彼女の視線の先にあるのは集団を先導するいくつかの竜車であり、そこには白鯨討伐戦に参加した負傷者が何人も担ぎ込まれている。
全員が全員、最低限の応急処置を施されただけの状態での帰還であり、重傷者の数も少ないとはいえない。ただ、傷の痛みに顔をしかめながらも、その彼らの口元には長年の想いを遂げた達成感が刻まれている。
彼らがずっと抱え続けてきた積年の想い。それが果たされた事実に比べれば、死なないで済んだ負傷など比べるべくもない。
そんな中、シャオンとレム、それにクルシュが乗る竜車の中では沈黙が空気を支配していた。
理由は簡単、レムだ。
スバルと別れる際にはしっかりとしていたがやはり離れ、時間が立っていくと同時に心配する気持ちが強まってきたのだろう。落ち着きがない上に、顔が沈んでいる。
「……浮かない顔だね。レム嬢、やっぱ心配?」
「シャオンくん……ええ、どうしても」
だが女性を励ます術はシャオンにはなく、気休めの励まししかできない。
第一本当に彼女を励ますのならばそれこそスバルの力が必要だろう。それでも何も言わないよりはいいかと、
「ヴィルヘルムさんとフェリス、それにユリウスやルツさんも、同行した討伐隊の勇士も精鋭。鉄の牙の人たちも十分に手練れ……相手の戦力は不安要素だが、負ける要素は感じられないよ」
「それでも、もしもって可能性が頭の中から抜けなくて」
「まぁ、うん」
その気持ちはシャオンにも十分にわかる。だが、今自分たちができることは何もない。無いから祈っているのだが――
「だが、どうしようもあるまい」
「クルシュ嬢……」
そう言いのけたのは対面に座るクルシュだった。
厳しい言い方だったと自覚があるのかすぐに彼女は「だが」と続ける。
「不安の種はいくら潰しても尽きぬものだ。それが己を起因とするものであるのなら、自らを研鑽するなり開き直るなりでどうとでもなるだろう。だが、相手方あってのこととなるとそれも難しい。――気休めを言うのは得意ではない。許せ」
憂い顔を深めるこちらの様子に、クルシュは自分の失言を悟って目を伏せる。途端、それまで超然としていた女性から急に格式ばったところが抜けたように思えて、レムは思わず小さく口元を微笑の形にゆるめてしまった。
その微笑みを見て、クルシュは「うむ、それでいい」と満足げに頷き、
「ナツキ・スバルも言っていた。レムには笑顔の方が似合う、とな。傍から聞けばとんだ惚気話と思ったものだが、存外馬鹿にしたものでもない」
「クルシュ様は……笑われると印象が変わりますね。普段は凛としていらっしゃるので……きっと微笑まれたら素敵だと思います」
「――そうだな、私は笑うのが下手な女だ。過去もそのせいで失敗をしている……そのことは後悔と共に永遠に残していくのだろう」
レムの指摘に、クルシュが視線を逸らしてそう呟く。
口元に刻まれるのは笑みではあるがそれは自嘲によるものだとシャオンにもわかった。
そんな自己嫌悪の笑みは、常に勇壮で凛とした彼女の姿とつながらなく、少しばかり驚いた。
そしてそれを追及されるのを避けるように彼女は話題を変えた。
「ナツキ・スバルが向かう先に待つのは魔女教。……エミリアの素姓を知ったときから予想されていたことではあるが、実態の見えない集団が相手となれば警戒は必須だ。メイザース卿もなにがしかの対策はしているはずだろう?」
「ははっ、どうでしょうねぇ……」
ロズワール自身今回のことが予想できなかったわけではないはずだ。
事実彼自身の助力はなく、村の警備もラムとエミリアだけに任せていた。スバルに任せたというのは聞こえがいいが、それだけでは博打に近い。
今回ここまでこれたのは死に戻りという能力があったからであり、泣ければ無残にエミリア陣営の脱落という終わりを迎えていたのだ。
「主の考えの深淵まで、レムも知り得ているわけではありませんので。聞き出そうとしても、口には出せませんよ?」
「手厳しいな。今は同盟相手なのだから、少しは口を滑らせてもいいというのに。では、弟子である卿は」
「コメントは控えさせていただきます、あとで修業を厳しくされても困るので」
考えが悪い方へ、暗い方へ向かわないよう気遣ってくれているのだろう。
実際、そうしてクルシュが話を振ってくれるおかげで、二人の思考も深みへはまっていくことなく時間を過ごせている。
クルシュの言い分はもっともであり、ロズワールならば此度の一件に対する善後策はなにか用意しているはずに違いない。スバルの行動は主のそれを助ける形になり、貶められたスバルの名誉もきっと回復する。
否、すでに白鯨討伐への協力により、名誉は回復以前により高く響くはずだ。
そうすれば、エミリアの騎士として推薦の声が上がり、彼も快くそれを受け取るだろう。問題はエミリアがスバルを騎士として認めてくれるかどうかだが、そこは今後サポートしていき、互いに話をする場を設けでもすれば解決しそうな問題だ。
それであれば、今後はシャオンも楽にはなるだろう。
「いや……まだまだ、これからが忙しくなるって」
口元に微笑を刻み、シャオンはスバルの未来とエミリアの紡ぐであろう未来を想像している。
エミリアが抱える問題を、スバルが全員を連れて乗り越える未来はそれはとても輝かしいことだろう。
ふと、目の前で小さく笑うクルシュが目に入る。
思わずそちらに視線をやるとクルシュは照れた様、
「卿も笑うのだな、少し意外だった。気に障ったのなら謝ろう」
「いえ、別に。でも、酷いですね、クルシュ嬢。その言い方だと俺が冷血人間みたいじゃないですか」
関わり合いは少ないが、そのような印象を抱かれるのはいささか心外ではある。
それをレムも感じたのか少しからかうように、
「そうですよ、クルシュ様。シャオンくんは胡散臭い笑みを浮かべていますが、いたって普通の男の子ですよ? 特にアリシアと話す際は年相応の笑みを浮かべて……」
「レム嬢!?」
「ふふっ、意外な弱点があったものだな」
「もう、全く、早く王都に――」
着かないかな、と続く言葉は閉ざされた。
それは、シャオンが持つようになった異常な嗅覚が感じ取ったからだ、その臭いを――吐き気がするほどの、異臭を。
「――――止まれぇぇぇぇ!」
シャオンの叫びと前方の竜車が崩壊していくのは同時だった。
血霧が噴き上がり、竜車前方が突如として惨状へと変わる。
地竜も、竜車も、その中にいた負傷者たちも、一切合切が根こそぎ、まったく容赦のない圧倒的な破壊によって粉微塵にされていた。
「――ッ! 敵襲!!」
驚愕に喉を鳴らす停滞を一瞬で済ませ、クルシュの警戒を促す声が上がる。即座にクルシュを始めとして、周囲にいた他の竜車でも異変を察して戦闘準備の気配。
レムもまた肉体の負傷と倦怠感を押し退けて、自身の武装である鉄球を手に取って立ち上がり――血霧の向こうに、人影を見た。
どんな相手が、と警戒するレムの視界に、街道上に棒立ちする人物が見える。
「轢き殺せ!!」
クルシュが怒鳴り、御者台に乗り込みながら御者へ指示を飛ばす。それを聞いた騎士は首肯する代わりに手綱をうならせ、嘶く地竜が竜車を加速させ突撃――勢いを増した竜車の突貫は、直撃する獲物を肉塊へ変える超質量の砲弾だ。
それは狙い違わず、棒立ちする人物を真っ直ぐに捉える。相手は動く気配もない。そのまま接触し、細い体が衝撃に千切れて――。
「失礼しますっ――!」
叫び、レムは真横にいたクルシュの腰を掴んで竜車から横っ跳びに飛び下りる。御者へ手を伸ばすのは間に合わず、レムは唇を噛んで地面へ着地。
そして、その直後――それは起きた。
地竜がその勢いを殺すことなく、その勢いのまま地竜の体が裂けたのだ。まるで強い壁にぶつかったとでも言うかのように、衝撃に耐えきれなかったのだ。
「ああ、ありがとう。おかげで必要以上の無駄な血が流れなくて済んだよ、無駄な、ね。それにしてもなにもしてないのに轢き殺せだなんて、とてもじゃないけど人間のすることだとは思えない」
それは目の前で起きている事象とは無関係のような、敵意殺意の感じられない声音のようだった。昼下がりに散歩をしているとでもいうような、これ以上ないほど穏やかな状態の声音。
そして血煙が晴れると同時にいたのは二人の人物だった。
一人は顔が整った女性だった。
こちらの世界では珍しく、そして忌むべきとされるハーフエルフの髪色と同じ
ただ、彼女と正反対なところは、かすかに覗けるその表情、ただ立っているだけでもその振る舞いが、顔よりも実年齢は年上なのだろうかと感じさせる。
そんな女性が三歩ほど下がり、もう一人の人物を立てるようにただただそこに控えていた。
そしてもう一人、そちらは一見、なんの変哲もない人物だった。
細身の体つきに、長くも短くもなければ奇天烈に整えられたわけでもない白髪。髪と同色の白を基調とした服装は特別華美でも貧相でもなく、顔にも目を引く特徴はない。いたって平凡で、街中で見かければほんの十数秒で記憶から消えてしまいそうな、そんな凡庸な見た目の男だった。
だが事実、その男に接触した地竜は男を踏み殺そうとした体勢のまま、その勢いごと半分に千切られており、御者の騎士も四散した竜車ごと粉砕されて木片と肉片が混ざり合っている酷い惨状になっている。
そしてなにが恐ろしいかといえば、その瞬間まで一度たりとも目をそらさなかったシャオンには、男がただ『立っていただけ』なのがわかってしまったことだ。
特別なことはなにもせず、男はただ突っ立っているだけで超重量の竜車との衝突に打ち勝ち、平然と立ち尽くしているのだ。
「ありがとう、レム嬢……、助かった。だが……状況は改善されていないな」
レムの腕から抱かれていたクルシュとシャオンが礼を言って立ち上がる。
クルシュはとっさに掴んでいた騎士剣を鞘から抜き放ち、自分の指示通りに動いて命を散らした騎士の、もはや分別もできない死に様に痛ましげに目を細めると、
「……貴様、いったい何者だ」
殺意に光る剣先を突きつけ、クルシュは男に鋭い声を投げる。
男は彼女の問いを受け、自身の顎に手を当てるとそれこそ大げさなぐらいに頻りに頷く。
「なるほどなるほど。君は僕のことを知らないわけだ。でも、僕は君のことを知っている。あ、勘違いはしないでね、僕自身が君に興味を持っているわけじゃないし、その言ってしまうのもなんだけど君のような野蛮な女性は僕の琴線に触れる要素はなくてね。第一、僕のこの手はたった一人の手を握るのでふさがっているからさ」
手持無沙汰に空っぽの手を揺らすと、その手がそっと横から包まれる。
その手の持ち主は隣にいた一人の女性だ。
男と同様の白い装束に身を包み、化粧を施していないのだろうがそれでも顔は整っている。ただ、そこに映る表情は人形のように冷たく、なにも読み取れない。喜びも、悲しみも、怒りも憂いも何も、ないのかと錯覚してしまうほどに。
代わりにその手を握る男の頬が赤らみ、先ほどの状況を作り出したとは思えない、人間らしい感情に唖然としながら見ていると、「おっと」と僅かに恥ずかしそうに笑いながらこちらの存在を思い出したかのように再度語り続けた。
「話がそれたね、僕が君のことを知っている理由だったかな? それは簡単な話だよ、今や王都……いや、国中が君たちのことで盛り上がっているからね。なにせ次代の王様候補だ。世情とか肩書って言うの? 全く、これっぽっちも興味がないけど、それが途方もなく大きなものを背負おうとしているってことぐらいは想像がつくさ。大変そうだよね」
「ぺらぺらと無駄口を――質問に答えろ、次は斬る」
「ひどい言い分だなぁ。でも、それぐらい横柄でなきゃ国なんかとても背負えないのかもしれないよね。その感性は僕には欠片も理解できないけどさ。ま、好き好んで王様なんて重すぎる責任を背負い込もうなんて考えはどうやってもわからないけど。あ、安心して。理解できないからって否定したりしないよ。僕の方こそ、そんな横柄とは無縁でね。僕は君と違って……」
「――次は斬る、確かに警告はしたぞ」
長々と、クルシュの要求を無視して男がよく滑る舌を回し続ける。
だが、クルシュが冷酷に言い切るのと、彼女の腕が風の刃を振るったのは同時だった。
クルシュの風の魔法と剣技を合わせた見えない斬撃――『百人一太刀』で有名な超射程の超級斬撃、それが斜め上から男の胴体を撫で切り、斬られた本人にすらその斬撃がどこからきたのか、誰が放ったのかすらわからないまま絶命させる。
白鯨の固い皮膚すら切り裂き、その巨躯を落とすのに大きく貢献した斬撃の威力。あの魔獣の質量と比較すれば話にならない矮躯で、耐えられるはずもない。
なのに、
「……人が気持ちよく喋ってる最中に攻撃だなんて、どんな教育を受けたの?」
首を傾げて、斬撃を受けた体を軽くはたいて見せる男がそこにいた。
彼の存在は白鯨を切り裂く剣撃を前に微動だにせず、その肉体には――否、肉体どころかその衣服にすらその剣の形跡が残っていない。
斬撃が防がれたのとは、またまったく違う未知の現象。
その現象を前に、常識の埒外の存在に身を固くする。そこで男は初めて小さく息をつき、「それにさぁ」と苛立たしげに声を低くすると、
「僕が防いだからよかったけど一歩間違えれば僕の妻も巻き込んでいたんだよ? そこのところ理解している? いくら君が剣の腕に自信があったとしても、万が一が有りえるじゃない? 無辜の民を巻き込むところだったって言っているんだよ? 第一、僕が喋ってるわけ。喋ってたでしょ? それを邪魔するっていうのはさ、ちょっと違うんじゃないかな。間違ってると思わない? え? 僕が間違ってるの? 違うよねぇ、そんな難しいことも言ってないと思うんだけど」
流れるように出てくる言葉の羅列に、自然と怒りの感情が宿っていく。そしてそれは栓が抜けた様に止まる気配はなく、
「喋る権利が、だなんてものを主張したくはないけどさぁ、それでも喋ってる人がいたらそれを邪魔しないなんてことは一種の暗黙の了解ってものじゃない。それを真剣に聞くか聞かないかはそっちの自由だから文句は言わないけど、言わせないって判断するのはどうなのかなぁ。それにさっきも言ったけど君は次代の王になりうる存在だ、それがさ他人の言葉を無視して、しかも切り付けるなんてどうなの? 暴君の所業とは言わないけど王の資格ないんじゃないかな?」
早口に言いながら、男は足で地面を叩いて不機嫌の意思を露わにする。
そのまま彼は不気味さに押し黙るこちらを見て無視されたと判断したのか苛立ちをあらにするように、舌打ちを打つ。、
「正論を言ったら今度はダンマリ、それもどうなのかなぁ。聞いてるじゃん。聞いたわけじゃん。質問したじゃない。されたら答えるでしょ、そういうものでしょ、やり取りの基本は受け答えじゃない。それもしない。したくない。ああ、自由さ。それは君の、君たちの自由だとも。君たちからすれば僕は勝手に喋って斬られて、勝手に質問して無視されて、そういう風に見えるわけだ。それが君たちの自由の使い方なわけだ。いいよ、そうしなよ。でもさ、その考えってつまりこういうことだよね?」
前のめりになって首を傾げ、男はその瞳の眼力を強くして、それから感情を、怒りを押し殺した声で言った。
「それは僕の権利を――数少ない私産を、蔑ろにするってことだよねぇ?」
悪寒が、背中を駆け上がった次の瞬間、男が一歩前に踏み込む。だらりと無造作に下げられた腕が下から真上へ振られて、かすかな風が巻き起こる。
直後、男の腕の直線上――大地が、大気が、世界が割れた。
同時、くるくる、くるくると、肩で切断されたクルシュの左腕が宙を舞う。
鞘を握ったままだった腕が血飛沫をまき散らして地面に落ち、衝撃に吹き飛ぶクルシュの体が地面に倒れ込んで、激しい痛みと出血に痙攣が始まる。
「クルシュ、嬢――」
早すぎる、訳ではない。ただ、攻撃の動作には到底思えない、何気ない素振りだった。
友人と偶然に出会った際に手をあげて挨拶をしたような、そんな何気ない動きで、クルシュという豪傑の片腕を吹き飛ばしたのだ。
数秒、呆気にとられたシャオンはレム共に即座に飛び退くと倒れたクルシュの下へ。治療魔法を使うべきか一瞬迷ったが、クルシュの傷口の深さを見て『癒しの拳』の使用に切り替える。
切断された腕の傷口は惚れ惚れするほどの鮮やかさでもって、彼女の左腕の肉、骨、神経、血管に至るまでを完璧に断ち切っていた。だが、それすらもシャオンの能力は即座に元通りに戻し、切断された腕は新しく、傷一つないものへと生え変わる。
だが、目は覚めず、呼吸は深い。
「……命に別状はないみたいだ、意識は戻らないが」
「そりゃ当然だよ、慣れないけど手加減はしたんだ。僕だって無駄で無益な争いはしたくないからね。だってそんなことしたって誰も得しないだろう? 僕のように完璧で満たされている人間には理解できないけど、君達のように他人のために命を賭けようとするだろう義憤溢れるような馬鹿は、殺したら敵討ちだって迎え撃つんだろう? でもさ、それは結果の見えていることだから、時間の無駄なんだ。それよりもっと有意義に時間を使えばいいと思うよ」
心外だとでも言いたげに目の前の男は肩を竦める。
だが、そんな様子に反応する余裕はなく、今はただ眼前の男の凶行に目を光らせる。
攻撃を防いだ手段も、今の一撃の正体もまったくわからない。予備動作をひとつも見落とさず、クルシュを連れて回避するより他に手立てがない。
そも、おかしいのはこの状況だ。なぜ三人を残し、どうして他の面々はこの異常者の前に飛び出してこないのか。主君がこうして致命的な傷を負わされた場面で、あの白鯨と向き合った勇士たちが何故――。
その疑問が解を得る前に、シャオンの嗅覚が先にそれを捕らえた――生ゴミを煮詰めたような醜悪な腐臭と嫌悪感、それが今隣に立つ彼女へと殺意となって襲い掛かろうとしていることを。
「レム嬢! 右後ろ!」
シャオンの言葉にレムが動けたのは奇跡だった。
ほぼ反射で振り回した鉄球が、彼女の首裏に近づいていた凶刃を弾き、火花が目の前で飛び散り視界が一瞬視界を奪う。
だが、確実に目にすることが出来た。身軽な動きで鎖の上に立ち、攻撃の勢いを利用して距離を取る技術の高さを、そしてこの襲撃者の容姿を目にすることが出来た。
「あぁ! 良い判断、いい動きだッ! 今の一撃を防がれるとは思わなかった! やっぱり食事の礼儀は守らないといけないっていうことかな」
着地と共に響いたそれは甲高い少年の声だった。
眼前の男と同質の悪寒に、異臭を放つのは濃い茶色の髪を膝下まで伸ばした、背丈の低い少年だ。
身長は低いぐらいで、年齢も二つか三つ下――屋敷の近くの村の子どもたちより、ほんの少しだけ年上なぐらいに思える。
だがそのギラギラと煌く瞳は常人のものではない。
そしてその少年から醸し出される殺意、悪意にようやく応援が来ない理由がわかる――前方の敵と相対するこちらとは別に、騎士たちも後方に出現した敵と対峙していたのだ。そしてその結果は、戦闘の気配を悟らせることすらできずに破れ去るというものだということに。
「ん?」
ふとそのような存在が年相応に首を傾げる。
視線の先にいるのは狙ったレムではなく、シャオンの方へと向けられていた。
「おにーさん、どこかであったことがある? どこかで嗅いだことがあるような臭いなんだよねぇ、僕じゃなくて、俺でも、なくて私も知らないけど……」
「生憎と、知り合いは少なくてね、新手のナンパならもっとうまくやってくれ……!」
言葉通り、このような存在と知り合っていたことなどないはずだ。
シャオンの存在が知られているとすれば王城で起きたひと悶着の時ぐらいだろうが、目の前の少年はあの場にいた騎士達とは程遠いものだ。
「あァ! あァ! そうか、そういうことか、そういうことだな? そういことだね、そういうことなんだ!」
納得をしたように手を打ち、何が楽しいのかクルクルと踊りながら、少年は笑みをこぼす。
「嗅いだこともあるのは当然だよねェ! ルイと同じような匂いなんだ! 納得したよ、でもさァ、なんていうか少し違うんだよねェ、味付けが違うというか、まだ『未完成』の料理とでも言えばいいのかなァ? それでも香ばしい――」
その饒舌な口元を狙ってシャオンは氷の槍を数発放つ。
だが、少年は体をくねらせ、蛇のようなしなやかさで躱し、魔法を全て避けたことを確認すると不満げに、かつ思わぬ反撃を受けたことに喜びも混ざったように体を悶えさせながら叫ぶ。
「ひどいなぁ、こんな子供に不意打ち同然の一撃を当てようとするなんてさァ!」
「ペラペラしゃべってるからさ、当てられるかなと!」
シャオンの一撃は加減が入っているものではなかった。
目の前の少年の正体はわからない。だが、白鯨討伐隊の半数をこちらに気取られない様に殺した存在は、脅威度を高くして臨んでも間違いではないはずだ。
そしてこちらの予想は当たっていたようで、少年は全力の攻撃をかすりもせずに凌ぐ実力者なのだ。
「あなた、たちは」
その呟きは呆然としたレムの口から発せられた。
理解ができない恐怖に唇を震わせながらもレムは、少しで状況を把握しようと問いを投げたのだ。
その質問を投げかけられて、男と少年は互いに顔を見合わせた。
それから示し合わせたように頷き合うと、どちらもひどく親しげで暴力的で悪魔のような笑みを浮かべて、名乗った。
「魔女教大罪司教『強欲』担当、レグルス・コルニアス」
「魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス!」
――その、忌むべき名を、高らかに、誇らしげに。
はい、レグルスさんとバテンカイトスさんの登場ですが、片方は若干のキャラ崩壊してます。この世界では。
さて、他の皆さまはレムたちを助けてますが――ここはどうなるんでしょうね