雨はきっと、必ずしも悲しい事の象徴ではないと思う。
幽霊を思い浮かべると、憎悪や恨み、この世に後悔を残して死んでいった悪霊をイメージする事の方が多い。成仏出来てないんだから、そりゃあ悪霊をイメージするだろうけど、彼女は何か違った。
透き通るような、いや実際透き通ってるけども美しい白肌。長く伸びた艶のある黒髪。生気の籠っていない、しかし瑞々しく見える唇。一点を見つめて動かない綺麗な瞳。彼女を幽霊だと言っても、信じる人はそう居ないではないか。そう思える程に、彼女は生きている人間と遜色無い出で立ちをしていた。
「...ねぇ」
「はい?」
「君は何で、この部屋に来たの?」
心底不思議そうに、彼女は首を傾げ尋ねる。本当に不思議なのだろう。
自分という霊が住み着いた曰く付きの物件。安さに目が眩み住もうとする人はいれど、まさか居座って名前まで聞いてくる奴は初めてなのだろう。
「...凄く簡単な理由ですよ。あなたが読んでいた本が、偶然僕が好きな本だったからです」
「...そんな理由で?」
「そんな理由でです」
僕は配置した本棚から一冊の本を抜き取る。掛けてある紙のカバーを外し、彼女に見せる。
「...『優しい心理学』。懐かしいね」
「これ一見評論本に見えるんですけど、実は探偵ものなんですよね」
心理師の主人公が、様々な事件に巻き込まれていく。嫉妬や憎悪、負の感情で埋め尽くされた事件の中で、持ち前の心理洞察を駆使して事件を解決していくストーリー。
作者が心理関係の方なのか、登場人物の心情の描写や、狂っていく人達のおぞましい感情の変化、読者に訴えかける心からの叫び。
きっと、探偵ものじゃなかったら多くの人の心を打つ描写が所狭しと埋め尽くされた、僕の好きな作品。
「なーんで探偵ものにしちゃったんだか分からないくらい心理描写が的確かつ日本語が上手くて。ちょっとずれた感じが何か好きです」
「ふふっ、分かるなぁ。結構泣けるもんね」
笑った。
幽霊が笑うとこういう笑顔になるのか。
「?どうしたの?」
「いっ、いえ...」
あんまりにもその笑顔が綺麗だったから。なんて出会い始めで言えるわけない。
何だか気恥ずかしくて、僕はもう一度その本に目を落とした。
「君みたいな良い子が住んでくれて嬉しいよ」
彼女は、にっこりとそう言った。
何故だか、少し寂しそうな目をして。
その寂しそうな意味が、まだ僕には分からなくて。
ただ、その美しい笑顔に見惚れることしか出来なかった。
「そっか、じゃあこっち来たばかりなんだね」
「はい。一応就職してここで暮らすことになりまして」
「ふーん。因みにどんな会社なの?」
「経営コンサルタントですね」
「へー、凄いじゃん」
そんな会話を料理を作りながら幽霊さんと話す。幽霊さんは、あっちこっちふわふわしながら、時々壁に埋もれながら僕の料理を見ている。
料理と言っても、パスタにホールトマトとベーコンと小松菜ぶちこんだだけだが。別に一人暮らしなんだし、料理に凝る必要はないだろう。
...いや一人ではないか。人、として数えて良いのかは甚だ疑問だが。
「ちゃんと料理するんだね」
「コンビニ弁当とかの方が、かえってお金かかりますからね。仕方なくですよ」
「ふふ、君のその諦めた現実主義が結構気に入ったよ」
「好きでこんなんになってるわけじゃないです」
箸でミートソースとパスタをまぜまぜしながら返事する。僕だってやろうと思えばちょっと良い料理ぐらい作れるはずだ。レシピ見ながらだけど。
...まぁ、幽霊さんがいるから、コンビニ弁当じゃなくてパスタ作ったのは、少しの見栄を張ったっていうのもあるが。
「私が生きてた頃はずーっとカップ麺だったなぁ。あれはあれで美味しいもんだよ」
「あー分かります。僕うどん派ですね」
「お?君分かる口だね」
にししと悪戯っぽい笑みを浮かべる。意外な笑顔に心臓を撃ち抜かれる。くっそ...何だこの幽霊可愛い。
「部屋にゴミいっぱい溜まってたっけ。懐かしいな」
「...あの」
やはり、気になってしまう。死んだのに、未だここに留まっている理由が。そして...何故自殺を選んだのか。
「...やっぱり気になる?」
「...まぁ、はい」
「はは。そんな面白い話でもないよ」
「面白かったら困るでしょ」
「...違いない」
平凡。その一言に尽きる。
生まれてから、普通の家庭で育った。普通に小学生になった。ほとんど友達は出来ず、いつも教室の隅で本を読んでいるような子だった。
普通に中学生になった。運動は嫌いじゃなかったから運動部に入った。特に結果を残すことなく引退して、受験勉強に励んだ。
友達もあまり居なく、受験勉強には集中出来たお陰でそこそこ良い高校に入った。そこでは運動に対する熱も冷め、登校と下校を繰り返す日々を送った。恋もしない。青春もしない。灰色の記憶。そこで何を成したか、何を得たのか、今となってはもう思い出せないほどに、元々無かった色は色褪せていた。
結局そのまま大学に入った。奨学金を貰いながら人生で初めてのバイトをした。今までほとんど人と接しなかった私にとって、職場は絶望的に相性が悪かった。吐き気と嫌悪に苛まれ続けながら仕事をした。
私にはもう、人生に色など無かった。
「そこで急にリストラを受けてね。再就職のあてもなく、貯金も無かった私は、すんなりと自殺を考えた。死ぬことに対して何の恐怖も抱いてなかった。だって、今までも死んでたようなもんだしね」
そして、彼女は死んだ。何も無い部屋で。ひっそりと息を引き取った。
「...おしまい。どう?本当に面白くなかったでしょ?」
彼女は、それでもにっこりと笑う。今まで聞いてきた話の彼女と、今の彼女の笑顔が一致しない。まるで他の誰かのようだ。
「私は灰色だった。ずっと。ううん、多分きっと何かしらの色はあったんだと思う。でも、私はそれを見つける事が出来なかった。見つけようともしなかった。私には...色なんて無いんだと決めつけてたんだね」
「...その気持ち、分かります」
「...そっか」
彼女は空中で膝を抱えて浮かんでいた。少しの微笑みをたたえて。
「じゃあ次は、君の話を聞かせてよ」
「...僕、ですか?」
「うん。人とこんなに話すのなんて初めて。君の事を聞いてみたいな」
「...僕も面白くないですよ」
「良いんだよ。君は、私と同じ目をしてる」
僕は彼女の瞳を見る。死んでいるからか、それとも元々なのか。彼女の瞳は、死んでいる。
つまり、僕も同じような目をしてるってことは、僕の目も死んでいるのだろう。笑えないな、と思いながら僕は自分の人生に思いを馳せる。
灰色の空、灰色の海、そこに色彩ある色はなく。ただ淡々と、灰色の世界が広がっている。
「母は自分しか愛せない人間でした。自分が輝けるなら、簡単に子供生み、育て、気に入らなかったら暴力を振るいました。僕は、それ以外の愛を知らなかったから、大人しくそう愛されました」
「友達は居ましたが、何というか。そうですね...誰の一番にもなれませんでした。二人組を作るとき、一緒に帰るとき、好きな人を内緒で教えるとき...僕は誰にも選ばれなかった。自分で選ぼうとも思わなかった。その人には、他の誰かがいると知っていたから」
「母が病気で亡くなり、奨学金を得て高校、大学と進みました。遠くにいる父が資金援助をしてくれたお陰で、何とか生きていけました。無駄遣いはできないと思い、使うことはあまりありませんでした。僕は、父だけにはちゃんと愛されていたのかもしれません」
「恋人も青春も、僕にはありませんでした。ただぼんやりと、それを見ているだけでした。僕なんかが、その輪に入っていけるなんて思ってませんでしたから」
「恋人も友達も、そこから先出来ませんでした。僕に歩みよってくれた人達がいたのかもしれません。だけど、僕は見ないふりをしました。...きっと、僕は」
一番が、欲しかった。
そう言おうとした瞬間、息が詰まった。頬を何かが伝う感触があった。それは、とても熱くて、痛くて、苦しくて。
ずっと、今までずっと、堪え続けた涙。悲しくても、寂しくても、無視し続けた感情が、止めどなく溢れてくる。
「...そっか」
冷たくて、それでも優しい腕が僕を包み込む。
「...幽霊さんって、僕のこと触れられたんですね」
「幽霊に肉体が無いなんて、いつ誰が言ったんだろうね」
彼女の腕の中で、ずっと涙を流し続けた。今までの悲しみを、寂しさを洗い流すように。
彼女はずっと、僕を抱き締め続けてくれた。
いつ頃から降っていたのか、雨はずっと降り続けていた。それが、僕の涙と同じように。ただ静かに降り続けていた。