『ああ、その人ならよくうちに来るよ』
『フラ~と来て、ちょっと呑んでそのままさ。つーかさ、これ以上は何にも話せないよ。客の個人情報なんざ、信用問題だしさ』
「ふむり」
居間でテレビを眺めながら霧絵が煙管を吹かすと、ゆらゆらと紫煙が部屋を漂う。
「まあ、保った方であろ」
「ごめんなさい。霧絵ちゃん、ちょーっと計算を誤ったわ」
「良い。元より人の口に戸は立てられぬ。二ヶ月であれば、よく黙ったものよな」
雁首で灰皿に軽く叩き灰を落とすと、一つ息を吐いた。
事の発端は二ヶ月前、一夏にちょっとした稽古をつけた時に楯無達が生徒達に漏らした話が、耳敏いマスコミに行き着いてしまい、今のちょっとした騒ぎに繋がっている。
楯無達も口封じに奔走していたが、浮いた話一つどころかその気配すら無かった一夏のスキャンダルとも言える話。
人の噂話を撒き散らすのが仕事のマスコミが、そんな上等な餌に食い付かない訳も無く、二ヶ月の時間を置いて盛大に騒ぎ始めた。
『織斑選手、まさかの熱愛発覚か?!』
『ネットでは同性愛者とも噂されていた織斑選手ですが、まさか職場にお相手が現れるとは……』
「あやつ、そんな疑惑を持たれておったのか」
「うーん、一夏君。霧絵ちゃんにぞっこんで、霧絵ちゃん以外には紳士的通り越してたし、面白おかしく騒ぐ連中はそんな噂を立てるわよ」
「まったく、若い
「そんな事言って、一夏君が他の女に釣られたら真っ先にちょっかいかけるでしょ」
わざとらしくつくった下衆な笑みで楯無がそう言うが、当の霧絵は何処吹く風と飄々とした態度で嘯いた。
「教え子の幸い望むは師の役割ぞ。あやつが他の
「またまたご冗談を」
「冗談ではない」
だが
「……取るに足らぬ小娘であれば、祟ったやもしれぬがのぅ?」
「………霧絵ちゃんが言うとガチで祟られそうね」
「しかし、あやつを支え、共に並んで歩める娘ならば話は別ぞ? 私は一度は終った身、大人しく引くものぞえ」
「ふう~ん?」
言っている内容は事実なのだろうが、霧絵をよく知る楯無には強がりに聞こえて、微笑ましく見えてしまう。
しかし、再会した時点で一夏が相手を見付けていたら、この古臭い友人は言葉通りに身を引いていただろう。
「はてさて、どうするか? 行き着けの店にまで文屋が現れたとなると、暫くは家に籠りきりかのう」
「そうね。申し訳ないけど、暫くはそうしてもらえるかしら。一夏君も暫くは帰れないだろうし」
「予選が始まるからのう」
現在、一夏は家にも学園にも居ない。
来年開催される第六回モンド・グロッソの予選の為に、個別で用意された訓練場で調整中であり、現状の情報は楯無経由以外は遮断されている。
これは来る四連覇が掛かる本選に繋がる予選に集中したいという事と、霧絵のある企みが理由だ。
「霧絵ちゃん、大丈夫なの?」
「心配は無用ぞ。誂えさせておる者は信用に値する」
「ならいいけど。……でも、ホント凄い事考えるわね。とんでもない騒ぎになるわよ」
「コココ、あやつの巣立ちはまだ終わってはおらぬからの。師を全うするのであれば、外聞なぞ斬って捨てるものぞえ」
本当に心配する目を向ける楯無に、霧絵は毅然とした態度で返す。
実際、一夏の巣立ちは中断される形となり、その力も十全に発揮出来ているとは言い難い。
それを一夏も理解しているからこそ、鍛練を怠らず常に先頭に立ち続けた。
そして、四連覇が掛かる今回のモンド・グロッソと、前回の稽古と霧絵の身体を考えれば、機会は今しか無い。
「さぷらいず、というやつぞ」
「本当に一夏君には同情するわー。まあ、影ながらサポートはするわ。存分に立ちはだかってあげて」
「ココ、よかろ。来る教え子の巣立ち、今回こそは遂げようぞ」
『しかし、今回のモンド・グロッソは四連覇が掛かっています。あまり騒ぎ過ぎるのは、織斑選手の邪魔になりませんか?』
『その事ですが、織斑選手が所属するIS学園は一切のコメントを発しておらず、織斑選手も一人個別に用意した場所で調整中の様です。個人的な意見を言うなら、若い芽の奮起を期待したいですね』
『おや、 さんは織斑選手の四連覇を見たくないと?』
『いやいや、推しの選手が居まして、その選手の活躍を見たいというだけですよ。 さんにも居ませんか? 推しの選手』
『ああ、そういう事でしたか。生憎、私の推しは織斑選手ですので』
「ふむり、こやつは見る目があるのう」
したり顔でそう言うと、煙管に新しい葉を詰めて火を点ける。
その様子に不思議なものだと楯無は思うと同時に、IS競技に関わる者としての喪失の悔しさがあった。
霧絵とはもう十年近い間柄になる。出会った当初は何処の平安貴族かと思った口調だったが、今となっては馴染んでいる。
楯無にとって霧絵は変わり者で、しかし懐深く慈愛に満ちた友人であり、そして競技者としての嫉妬の対象でもある。
実のところ、楯無は霧絵にちゃんと勝てた事が無い。
いつものらりくらりとかわされて、気付いた時には勝負が終わっていたり、勝負自体が無かった事になっていた。
今なら解るが、当時は本当に悔しかった。
そして今も、嫉妬と同時にこの強さが喪われる惜しさがある。
「猫よ、気付いているであろう? 私の身体は完治したとは言え、既に一線に立てる強さは無い」
「一夏君に急いで尾を受け継がせたのも、それが原因よね」
「左様。私があやつの師として立ち塞がれる最後の機会。それが今ぞ」
もう霧絵に嘗ての様に戦える力は残っていない。
命を繋ぎ、一夏と共に歩み老いていく代償は九天の大妖狐としての力。
それは日に日に弱まり、一夏の壁となれる時間は残り少ない。
だからこそ、あの日邪魔された巣立ちを終えるには今しかないのだ。
「愛しい愛しい出来の悪い教え子よ。最後の最後、九天が狐の試練。見事乗り越えてみせよ」