圧倒される。この感覚は随分と久しかった。
「おや、どうしたかの? 足が止まっておるぞ、教え子よ」
柔らかな笑みと動作、緩急の緩しかない緩やかな舞いを思わせる動き。
しかし、圧倒される一夏に苦い感情は無い。
──霧絵だ……!!
嘗てのあの日より、もう二度と会えないと思っていた霧絵が目の前に居る。
一夏は歓喜に打ち震えていた。
「おうおう、子狐の奴。随分嬉しそうじゃねえか」
「そりゃ、あの日は中途半端に終わった勝負ッスからね……」
「ああ、そうだったな……」
ダリルとフォルテは感慨深く、剣道場での二人のやり取りを見つめる。
あの日、一夏は巣立ちを終える筈だった。
しかし、結果は惨澹たるもので終わり、一夏の巣立ちは中途半端な形となった。
――まったく、本当に嬉しそうにしやがって
自分達の誰もが、あの顔を引き出せなかった。
一応は師の一人である身で情けない事この上ない話だが、やはり織斑一夏の師は一人しか居ない。
狐村霧絵しか、織斑一夏の師足り得ないのだ。
「あの、あの人って一体……」
「あ? ああ、そうか。お前らは誰も知らないんだな」
「えっと、どういう事ですか? あの織斑先生相手に圧倒するとか……」
「まあ、不思議だよな。でも、オレ達には当たり前だ。あいつは一夏の師匠だ」
「は? 師匠? 大会三連覇のジークフリートの?」
呆気に取られ、現状を理解しきれない生徒を他所に、一夏と霧絵の戦いは苛烈になっていく。
「ココ、どうしたぞえ? 随分と楽しげよの」
「楽しいよ、霧絵。楽しくて仕方ない」
「それは善哉。では、師に魅せよ」
一夏の直線的な動きに対して、霧絵は円の軌道を描きそれを牽制する。
薙刀と太刀、その剣技の応酬はまるで舞いの如く華やかで、演目の様に流麗であった。
「綺麗……」
「よーく見ておきなさい。あれが私達世代の最高峰よ」
「はい! ……でも、なんであの人を誰も知らなかったんですか? 先生の世代なら絶対有名な筈……」
「色々あったんスよ。どうしようもない事が」
あの日、全てが終わった。
中途半端なまま、一夏はここまで来てしまった。
大会三連覇、次の四連覇を期待され、教師としての重責を背負い、そして周囲からの羨望と嫉妬を切り捨て、理想とする姿を求めた。
師に、大切なただ一人に誇れる自分に。
大切なただ一人の人が、胸を張って教え子だと言える自分に。
――霧絵、どうかな? 俺はちゃんとやれてるかな
あの日から自問自答を繰り返し、そして今日、その問いに対する答えが返ってくる。
「まだまだ足りぬ足りぬ。狐の跡目にはまだまだ足りぬぞ」
「なら、これは?」
一夏が繰り出したのは、神速の突きからの斬り上げ。
しかし、これも霧絵には届かない。
嗚呼、本当に遠く焦がれる。
ここまで来ても、まだ遠い。
一夏は歓喜のままに竹刀を振るう。
その姿に楯無は安堵の眼差しを向ける。
巣立ちは中途半端なまま、一夏は一人立ちしなくてはならなくなった。もう敬愛し、愛した師は居ない。
あの日からの一夏はあまりに不安定だった。
無神論者の楯無が神を恨む程度には、一夏は一人で立とうと必死に鍛練を積み、霧絵の九天を継ぐに値すると言える様になった。
だが、そこには一番見せたかった人が居ない。
「本当、漸くかしらね」
本当に漸く訪れた巣立ちの続き。
楯無が幻視するのは、九尾の狐に目一杯甘える十尾の子狐の姿。
もう邪魔は入らない。
簪にも見せたかった光景が、そこにはあった。
「ふむり、ジークフリートと謳われ弛んでおった訳ではなさそうだえ」
「はは、弛むのは家だけだよ」
「コココ、それはそれは善哉よな」
言うなり放たれる橫薙ぎ、一瞬見惚れてしまいそうになる程に流麗な太刀筋は、荒さも甘さも無くただ相手を断つという意志だけを孕んでいた。
――嗚呼、本当に綺麗だ……
再現しようとして、それでも到らぬ境地。
一挙手一投足が脱力から放たれる至高、全て一夏の理想とする姿。
だからこそ越えたい。
一夏は体中の緊張を解いて、居合いの構えで霧絵を見据える。
霧絵から受け継いだ技は全て、脱力から発する。
風に揺れる柳の様に、しかし風に倒れぬ巨木が如く、一夏は場に合わぬゆったりとした構えで霧絵の動きを待った。
「見に回るか。いやはや賢しらな教え子よな」
目を弓にした霧絵がゆっくりと薙刀を上段に構える。
動きが止まり、静寂だけが剣道道にあった。
緊迫した空気が停滞し、張り詰めたまま時間が過ぎていく。
そして、一瞬。一瞬の間、一夏が握る柄が揺らいだ瞬間に、霧絵が薙刀を振り下ろした。
「は……」
霧絵の薙刀が描く太刀筋は流麗で美しく、そして命を奪う華々しい残酷さ。
見ているだけの者達ですら、息を吐いてしまう程に華麗な刃は真っ直ぐに一夏へと振り抜かれた。
「……師を化かすか」
「九天の教え子なれば」
だが、霧絵の薙刀は一夏には届かず空を斬った。
満面の笑みで霧絵が見るのは、僅かに焦げた様な痕が残る床板。
一夏は薙刀が振り抜かれる一瞬の間に、鍛え抜いた脚力任せて後退し、霧絵の読みをずらした。
そして、一夏の竹刀は霧絵の首筋に当たっている。
つまり、
「コココ、私も衰えたものぞ」
「いやいや、霧絵はまだまだ現役だよ」
「ふむり、世辞が上手くなったものよな。……しかし」
姿勢を正し、霧絵に近寄る一夏だが首筋に冷たい物が当てられていた。
「うげ……」
「この程度の手品。見抜かせぬ様ではまだまだよな」
一夏の首筋に当てられていたのは、霧絵が愛用する煙管だった。
「だあー、やられた!」
「ココ、ともあれまあ及第点よな」
「へ?」
「九天の狐、その尾を受け継ぐ。それに値する者となった。師ながら誇らしいぞえ」
「霧絵……」
「しかし及第点。努、自惚れるでないぞ」
「あ、うっす……」
気まずい顔をする一夏に見えぬ様に、顔を綻ばせる霧絵。
それを見た楯無達はタオルと水を手渡す。
「教え子はどうかしら?」
「聞こえておっただろうに。まずは及第点、九天を名乗るに足るであろうよ」
生徒に囲まれる一夏を眺め、霧絵は剣道場に背を向ける。
「お、もういいのか?」
「コココ、夕餉の仕度をせねばならんのでな」
それに
「妬み嫉みは狐に合わぬ。しかしこれよりの余興としては良きものであった」
霧絵は携帯の画面に写る文面を見ながら、そう呟いた。