「霧絵?」
「そうぞえ。私以外に、主に忘れ物を届ける者が居るかえ?」
喉奥で笑う姿と声は、間違い無く霧絵だ。しかし、どうやって関係者以外は入れない学園島に入ったのか。
その事には、疑問よりも先に答えがあった。
「オレ達の紹介付きだ。並みの推薦より効くだろうぜ」
「そりゃ、アメリカとギリシャの元代表と、現役ロシア代表の推薦なら、何より効果的でしょう」
ダリルがからからと笑いながら、久し振りだと一夏の肩を組む。
「ま、先輩から可愛い後輩へのサービス、そうサーヴィスってやつだ」
「それはいいんで、とりあえず中に入ってください」
この業界では、知らない者は居ない三人と、それに連れられた謎の美女の組み合わせは、話題に飢えた学生にとって、格好の餌だ。
今も、何故自分の名前を呼んだのかと、騒ぎになっている。
「さ、早く」
「おうおう、そう急かすでないぞ」
これ以上の騒ぎはごめんだと、一夏は四人を職員室に押し込む。
「それで、どうしていきなり、現れたんで?」
「おやぁ? なら、私手製の弁当は要らなんだか」
「いや、霧絵は別」
寧ろ、常に隣に居てほしい。建前とか、世間体とか抜きで、本気でそう思う。
「本当は、私と霧絵ちゃんだけの予定だったんだけど、途中で合流しちゃって」
「一人より二人、二人より三人って事で、何だったらついでに後輩の様子でもと」
楯無とフォルテがそう言うと、一夏の机に和柄の巾着が置かれる。一夏が間違えて持ってきた巾着より、一回り大きいそれは、間違いなく弁当の入った巾着だった。
「ほれ、師手製の弁当ぞえ」
「うわー、本当に助かったよ霧絵」
「んン? 助かったとは、どういう意味だえ?」
「あー、うん。何というか、落ち着けない」
「ふむり?」
どうにも歯切れの悪い一夏の返事に、霧絵が細い目を薄く見開く。
この時の霧絵に、下手な隠し事は通じない。一夏は、一度落ち着く為に、霧絵の巾着を渡してから、話始める。
「前々から、というより最近か。前より、そういうあれだ。こっちと繋がりを持ちたいって意思が強くなってて」
「ああ、ハニトラか」
ダリルが事も無げに言う。
楯無とフォルテが、納得した顔をして、霧絵がやけに深い笑みを浮かべると、一夏は深く溜め息を吐き出す。
一夏としては、生徒は生徒でしかなく、それ以外の異性は興味すら無い。一夏の好意は全て、余すこと無く霧絵だけに向けられている。
正直に言ってしまえば、ただただ果てしなく迷惑でしかないのだ。
だが、思惑や策謀関係無く、純粋に向けられる好意には、悪い気はせず、教師として、大人としての態度で返している。
「日本とかさ、アメリカとかは全然、生徒が教師に向ける好意と、大人に対する憧れで終わるんだ」
そこまで言って、一夏は言い淀む。どうかしたのかと、ダリルとフォルテが顔を見合せ、その横で次は楯無が理解したと、溜め息を吐いた。
「中国、ドイツ、フランス、ちょっと引いてイギリスね」
「……当たりです」
本当に辟易した表情だった。
疲れきった顔をする一夏を、可哀想なものを見る目で、三人が見る。
「いやね、4国共に色々あったし、焦りがあるのは分かるよ? でもさ、子供を使うのは違うじゃんか」
百歩譲って、色仕掛けの様なじゃれつきはまだいい。まだ子供の背伸びと、微笑ましく見守れる。だが薬品や、宿直の寝込みを襲うのは如何なものか。
織斑一夏という教師として、人として、大人の都合で子供を不幸にするのは、一番嫌悪感を抱くやり方だ。
「とりあえず、国際問題にならない様に、不問にしたけど、なんだかなあ……」
話が広まる前に、用意していたシナリオで隠して、不問にはした。しかし、人の口には戸は立てられぬ。必ず、どこからか情報は漏れる。
そうなった時、国で彼女達がどういう扱いを受けるか。
「……有給取るか」
ぼそりと呟いた言葉に、四人以外の職員室に居た教員達も頷く。
中には、一夏の学生時代を知る教員も居る。だから、その全員が知っている。
織斑一夏に、女性関係や人間関係に関するいざこざは、最大のタブーであると。
「なら、辞めるがよいぞ」
「へ?」
誰もがどうかしたのかと、頭を悩ませる中、霧絵が事も無げに、当たり前の如くそう言った。
「のう、一夏。主が抱える悩みは、一介の教師が抱えるものではない。ならば、その様な悩みを抱えさせる場なぞ、早々に見切りをつけてしまえ」
確かに、霧絵の言う通り、一夏が抱える問題は、一教師が抱えるものではない。しかし、一夏には世界初の男性操縦士、そして世界初の大会三連覇の覇者としての立場がある。
今の職を辞する事は簡単だろう。だが、そうなった時、周囲が一夏を放ってはおかない。
学園という後ろ楯を無くせば、必ず、今以上にすり寄ってくる者が増える。
「稼ぎであるなら、心配は要らぬぞ? 私が養うてやろう。主はただ、何の気兼ねも無く私の傍に居ればよい」
「うわぁ、すっごい魅力的な誘い」
だが、霧絵の傍に居れば、その心配は無いだろう。
浮世離れした彼女と、時が過ぎ、季節が移ろう日々を、ただゆったりと過ごす。
これ以上に無い、魅力的な提案だ。
だが、霧絵は知っている。
一夏も、理解している。
「だけど、駄目だ霧絵」
「おや、主は辛いのではないのかえ?」
「辛いよ」
「辞めたいのではないのかえ?」
「辞めたいよ」
「なら、そうすればよい」
「んー、やっぱり駄目かな」
辛い、辞めたい。
何故、どうして自分だけが、こんな目に遭わなければならない。
どうして、自分ばかりがこんな苦労をしなければならない。
逃げ出したいと、そう思った事は数え切れない。だが、それは出来なかった。
「俺もさ、霧絵の傍に居たい。ただ何もせず、霧絵に愛でられていたい」
「では、そうすればよかろ。狐は懐く者に寛容ぞ?」
「でも、駄目なんだ。それは出来ない」
「おや、それはどうしてだえ?」
首を振ってから、問い返す霧絵を真っ直ぐに見つめる。
「俺は霧絵と、対等に一緒に居たい。いつまでも守られながら一緒は嫌だ」
一夏は真っ直ぐに霧絵を見詰めて、はっきりとそう言った。
力ある者には、立場と責任と羨望と嫉妬が伴う。その立場が力で得たものなら、尚更の事、羨望と嫉妬は激しくなる。
であれば、力ある者はそれらから、守らなければならない。
逃げれば、全て失う。それが世の常よ。
嘗て、今よりも遥かに未熟だった頃に、霧絵に言われた言葉。
「俺は霧絵の後ろじゃなくて、霧絵の隣に居たい」
「ふむり、まあ、よかろ」
一歩、前に出て、一夏の頭を撫でる。柔らかい髪だ。きょとんと、こちらを見上げる瞳も、嘗てのあの頃から変わらない。
なのに、嘗てとは違う。その事に、嬉しさとほんの少しの寂しさを感じるが、それもまた教え子の成長と受け入れる。
「コココ、善き子よ。誠に愛い子よな」
「えーと、霧絵?」
「ココ、ほれほれ、早う食うてしまえ。昼の休みは短いのであろ」
「うわ、そうだった」
「味わって食べよ。師の手製の鮭弁当ぞ」
言うと、霧絵は横で顔を扇いでいた楯無達に振り向く。
「あら、霧絵ちゃん。どうしたの?」
「主らがどうしたなのだが、猫よ。お主、学園には顔が利くな?」
「当然、現役の国家代表様よ。下手な講師とかより、全然利くわよ」
「何するんだ? オレ達も混ぜろ」
「何スか? また何かするんスか?」
「何、普段の教え子が気になるでな。ちと、授業参観でもしてみようかとのう」
鮭の切り身を齧っていた一夏が、突然の発言に噎せ、霧絵が愉快そう笑った。
次回
霧絵の授業参観