さて、霧絵には最近一つ困った事がある、否、ただ困った事というは、どうしたものかと、対応に困る事と言った方が正しい。
無論、それが嫌という訳ではなく、寧ろ好ましいのだが、こうも続くと些か対応に困るのだ。
霧絵は万年筆を筆立てに置くと、書き終えた原稿の束に目を通し、誤字脱字を確認し纏めていく。
軽く体を伸ばせば、骨の鳴る音が聞こえてくる。
部屋に掛けてある時計の鐘が鳴り、見れば時刻は正午前。もう少し早くに終わらせるつもりが、予定より伸びてしまった。
もう直に担当が原稿を取りに来る。
そう思い、霧絵は原稿を封筒に納め、書斎から出る。
この原稿で、霧絵が抱える連載の一つに区切りがつく。そうなれば、また時間も取れるようになる。
「霧絵」
「ヒョッ」
名前を呼ばれ、少し驚く。背後から掻き抱かれ、身動きを封じられる。
感じ慣れた体温と感触に包まれ、己を締め付ける力の持ち主に目を向ける。
「一夏、どうしたのだえ?」
「ん」
返答にもならぬ音を出し、頬を擦り付ける。耳に掛かる僅かな息がこそばゆく、身を捩れば、それを許さぬと一夏は更に深く霧絵を抱き込む。
「一夏、本当にどうしたのだえ? あまり、お主らしくないではないか」
「そう? いや、俺は昔からこうだよ」
まるで幼児の様に、霧絵に貼り付き耳元で囁く。
甘える様な声音の囁きが、耳に転がり、霧絵は一夏の頭をあやす様に撫でた。
「ん、一夏、よい子じゃから、大人しゅうの? これが終われば、また時間が取れるからのぅ」
「………分かった」
不承不承と言った様子で、一夏は霧絵から離れる。
霧絵が最近対応に困っている事は、一夏が以前に増して甘えてくる事だ。
霧絵としては、一夏を甘やかす事に嫌悪は一切無い。だが、こうも自分から積極的に甘えられると、少し戸惑ってしまうのも事実。
何かあったのかと原因を探るも、心当たりは特に無く、頭を捻るばかりだ。
「そうじゃの、仕事が終われば、一夏。耳掃除をしてやろうぞ」
「本当に?」
「コココ、愛しい男に嘘を憑く狐は居らぬぞえ」
「分かった。待ってる」
また一度、今度は弛く抱き着き、頬を擦り付ける。それは親狐に甘える子狐の様で、擽ったくも愛らしい。
霧絵は空いた手で、一夏の背を軽く叩き離れる。
「そろそろ、峰岸の奴が来るでの。暫し待っておれ」
「うん」
名残惜しそうに、手指を絡め合い、離れる。
応接間に向かう霧絵の背を見送り、一夏は一度息を吐き出し、台所へと歩む。
この感情はどうにもならない。そう、霧絵にはそうで在るなと言われ、在り続けたが、完全にそれを消し去る事は不可能だ。
「と、……あった」
台所の戸棚の最奥、霧絵の手が届かない所に隠した小瓶。それを手に取り、懐に仕舞う。
本当に小さな小瓶、霧絵と一夏、なんとか二人分を詰めた。そんな大きさだった。
「ん?」
それを懐に仕舞った一夏が、台所を後にしようとした時、彼の視界の端に映る床を、勝手口の土間目掛けて、何かがうねる様に駆け抜けた。
「……っ!!」
一夏は目を剥き、備え付けていた箒の柄で、それを即座に突き殺した。
息が、鼓動が、血流が、激しく動いた訳ではないのに暴れ狂う。
一夏は一度見開いた目を閉じてから、箒の柄で突いたものを見る。
「……ゴメン、お前が悪い訳じゃないんだ。だけど俺は、〝お前〟を赦せないんだ。……お前は関係無いのに、ゴメンな」
謝罪を繰り返す先には、頭を潰された季節外れの百足が、余った体を痙攣させ果てていた。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「さて、具合はどうぞえ?」
「最高だよ」
「そうかえ、そうかえ」
月明かり差し込む寝室にて、一夏は霧絵の膝を枕に耳掃除をされていた。
「霧絵……」
「おうおう、お主は本当に甘えたよのう」
寝返りを打ち、霧絵の下腹部に顔を押し付ける。
霧絵が彼の頭を撫でれば、両腕を腰に回して更に深く抱き着いてくる。
「これ、いくらなんでも、
「ゴメン」
「ヒョ?」
腰に当てた腕を支点に、一夏は霧絵を布団に押し倒した。
細目を見開いた霧絵を組み敷いた一夏は、彼女に再び抱き着いた。
「い、一夏? 誠にどうしたというのだえ?」
「霧絵、霧絵、霧絵……」
霧絵が問うても、一夏は名前を繰り返し呼ぶだけで、彼女の問いに答える様子は無い。
霧絵が怪訝に思い、己にしがみつく一夏の様子を窺うと、彼の双眸から涙が溢れ出していた。
「一夏……?」
「霧絵、今日だ。霧絵が、居なくなったの……」
「……っ」
息を飲む。首筋に染み込む涙の粒を感じながら、霧絵は一夏を抱き締める。
嘗て、己は彼を置いて消えた。それは己は納得し、覚悟しての事だったが、彼はどうだったのか。
「いやだ、霧絵、いやだよ……」
そんな事、問うまでもない。あの納得と覚悟は己だけのものであり、彼にそれを求めても、彼がそれを持つ筈が無い。
「済まぬ、済まぬのぅ」
「霧絵、何処にも行かないで」
強く、強く、彼女を抱き締める。
それはもう二度と、彼女を離さないという覚悟の表れであり、彼はその覚悟のままに彼女を離さない。
「霧絵、絶対に離さない」
「ああ、離さないでおくれ」
「霧絵は、……俺のだ」
「ヒョ?」
彼女の首筋から顔を離した一夏の瞳には、霧絵が見た事の無い妖しげな光が宿っていた。
その瞳は、光を宿しているにも関わらず、仄暗く何処までも吸い込まれそうな暗闇が写し出されていた。
「い、一夏?」
「俺のだ、霧絵は、俺だけの女だ」
絶対に誰にも渡さない。耳元で呟かれる度に、微細な虫が背筋に這い回る。しかし、それは不快感を伴わず、痛痒に似た快感で、霧絵の背を弓形に反らせていく。
「いっ、ひぃ……!」
「霧絵、俺だけの霧絵」
「い、一夏、ちょっと、堪忍しておくれ」
「やだ」
「ひ、う!」
熱を持つ唇に耳を食まれ、湿りと滑りを伴って舌が外耳を蹂躙していく。
粘性を多分に含んだ水音が鼓膜を、柔らかな唇と舌、僅かに硬い歯、一夏の摂食器官が霧絵の聴覚器官を犯していく。
「ひ、い加減に、せよ……!」
「う、むぅ」
「ひゃ、ひぃ……!」
外耳道の入り口に舌の先端が入り込み、うねり掻き回し、霧絵から思考が奪われていく。
甘く歯で噛まれ、唇で吸う様に食まれる。
「ひ……」
「霧絵、気持ちいい?」
「ひちか…… もう、かんにん、かんにんしへ……」
「ダメ、俺を一人にした罰だ。俺が満足するまで、霧絵を気持ちよくしてあげる」
「ひょんな……」
言って、食まれていない片耳を、一夏の手指が揉み解していく。
指で挟まれ、爪先で優しく引っ掻かれ、掌で包まれ解される。
「や、いひぃ…」
左右で違う快楽、口から漏れるのは嗚咽と涎だけで、言葉は出ない。
最早手足だけでなく、体に力は入らず、一夏のされるがままに、霧絵は蹂躙を受け入れるしかなかった。
「霧絵、気持ちいいよね」
「う、あ、いちかぁ……」
「霧絵、喉乾いたでしょ」
片耳を犯していた一夏の唇が、次は霧絵の唇を塞ぐ。体温で生温くなった熱が、霧絵の口に溢れ、それと同時に舌が口内を這い回り、歯と歯茎、口蓋を徹底的に撫で舐められる。
「ん、ぷはっ」
「あえぇ……」
「霧絵の舌、軟らかくて美味しい」
「あえ、えぁ……」
一夏の舌が、霧絵の蕩けた舌に絡み付き、引き摺り出す。
引き摺り出された霧絵は、一夏に食まれ甘噛みされ、絡み付かれ吸われ続ける。
荒い呼吸音が聞こえ、それに派手な水音が混じる。
「んいぃ………」
「ん、むぅ、あ、霧絵、ダメじゃないか。俺が霧絵を堪能してるのに逃げちゃ」
「へあぁ……」
一夏はそう言うが、霧絵には一夏から逃げる力は既に無く、彼の愛撫から逃れたのは、彼から与えられる快楽による脱力で、吸い込まれた一夏の口内ですら立てなくなっただけだ。
「霧絵、この酒美味しかった?」
一夏が酒が半分程入った小瓶を、霧絵の前で揺らす。
蕩けに蕩けた舌を垂れ下げたまま、霧絵は定かでない視界でそれを見る。
「束さんから貰った、霧絵を気持ちよくする酒だって」
「うひゃひぃぃ……!」
一夏は霧絵を抱き上げ、片耳を犯していた手で彼女の頭を支え、口に含めた酒を再び彼女の口に移していく。
酒と唾液が二人の口内を行き来し、酒に漬かった舌を一夏は再び吸い出し、咀嚼する。
蕩け柔らかく、しかし確りとした弾力を失わない霧絵の舌を、一夏は味わい満足したのか、唇と歯と舌を駆使し、ゆっくりねぶりながら絞り出す様に離していき、最後の先端が唇から離れる瞬間、一瞬だけ強く吸い付いてから離した。
「霧絵、霧絵、可愛いよ」
「ひちか……」
「霧絵の蕩けた顔、もっと見せて」
「ゆるひて、もう、ゆるひておくれぇ」
「ダーメ」
一夏が許しを乞う霧絵を逃がさぬと、次は白く滑らかな喉に吸い付いた。
「あひ……!」
吸い食み蹂躙する。未知の快楽が霧絵を駆け巡る。
一夏の腕に包まれながら弓形に反り、一夏の動きに合わせて痙攣を繰り返す。
「にゃ、ひぃぃぃぃ!」
激しい反応に、一夏が嬉しそうに吸い付きを強くする。
涙と涎を撒き散らし、荒い息を吐く霧絵を強く抱き締める。
「霧絵、もう絶対に離さない」
「ひちか、ひちかぁ……!」
「絶対に離さない。誰にも渡さない。霧絵は俺だけの女だ」
「ひゃあっ」
身を、影を重ねて、二人の夜は更に深くなっていった。
ははは、まだ少し一夏のターンは続くのだよ……!