「お、おじゃましてます」
「あ、どうも」
一夏が急な仕事から帰り、話し声のする居間を覗くと、けん玉を持った子供が居た。
「お、おじゃましてます」
「あ、どうも」
固まる一夏に聞こえていないのかと、子供はもう一度挨拶をすると、喉奥の笑いが聞こえた。
「霧絵」
「コココ、何だえ? 一夏」
「この子は?」
「ココ、今時珍しい悪戯小僧よ」
「へえ」
一夏は感心した様にけん玉を持つ子供を見る。
霧絵が教えていたのだろう。他にも独楽やあやとり、花札等がある。
霧絵は子供好きだ。だが、あまり出歩かない。
だからか、今時珍しい悪戯小僧と遊んでいたのだろう。
一夏も、子供の頃は他人の家、特に庭の広い家に忍び込んだ覚えがある。
それが篠ノ之神社だったりする。
それで束と出会い、何故か興味を持たれて、色々あって今は手紙でのやり取りしかしていない。というか出来ない。
電話も通じず、メールアドレスも知らない。
一度、物は試しと篠ノ之神社宛に送った手紙に返信が返ってきたので、以後はそのまま篠ノ之神社宛に送っている。
「まあ、俺も似たような事してたし、子供なら仕方ないか」
一夏が言うと、子供は胸を撫で下ろす。
叱られる。そう思っていたのだろう。安堵の表情が見えた。
「のう、一夏。その様に立ってないで、座ってはどうだえ?」
「ん? ああ、そうだな」
霧絵の言葉に、一夏はシャツのボタンを一つ外し、外出で貯まった熱を吐き出し、座布団に腰掛ける。
「あ、あの……」
「どうかした?」
「ジークフリートの織斑選手、ですよね?」
少年の問い掛けに、一夏はまず霧絵を見た。
モンド・グロッソを三連覇したはいいが、町中で誰かに気付かれるという経験が、思っていたより少なかった一夏にとって、すぐに気付いた少年は意外と言う他無かった。
「霧絵、この子凄いぞ」
「のう、一夏。お主のそのずれた発言は、どうにかならぬのかえ?」
「ずれてる?」
「仮にも、前人未踏の偉業を成したのだ。もう少し、胸を張るがよいぞ?」
霧絵が煙管を片手に、一夏の頬を突く。
言葉の頭に仮にもと付いているのが、多少気にはなったが、霧絵にしてみればまだ教え子の域を出ていないのだろう。
一夏はその嬉しさとほんの少しの悔しさが混ざった、少しだけ複雑な感情を仕舞い込み、けん玉にチャレンジを続ける少年の目を見る。
――ああ、成る程……――
けん玉の技が成功する度に、チラチラと霧絵を見ている。
それに霧絵が視線と笑みを返せば、少年は顔を赤くし、慌てた動きを見せる。
間違いなく、霧絵に惚れている。
同じく霧絵に惚れている一夏は、自分と同じ匂いを少年から嗅ぎ取った。
「おや、どうかしたのかえ?」
「な、なんでもないです」
「ふむり、そうかえ」
言って煙管の紫煙を長く細く、外へと吐き出す。
陽が落ち始めた、僅かに橙が滲む外に白い筋が融ける様に解けていく。
「さて、童よ。お主の家は何処だえ? そろそろ、親に連絡を入れねばなるまい」
「………」
「ん? どうした?」
俯く少年に、一夏が顔を覗き込む。
僅かに唇を噛み締めた表情、そして漸く紡ぎ出した言葉は、
「居ない、親は居ない……」
「そうかえ。だが、家はあるのだろう?」
頷いた少年に、煙管を煙草盆に片し、霧絵が立ち上がる。
「ほれ、来るがよいぞ。電話を貸してやろう」
「うん……」
「コココ、迎えが来るまで好きに居るとよいぞえ」
霧絵に手を引かれ、居間から電話へと向かう二人を横目に、一夏は少年の言葉に思いを馳せる。
一夏と千冬、織斑姉弟は両親を知らない。千冬は知っているかもしれないが、一夏は知らない。
自分の両親がどの様な人物だったのか、何故に自分達を置いて消え去ったのか。
今となっては、知る事は出来ない。
「出前にするかな?」
自分と少年を重ね、一夏は嘗ての自分を思い出す。
自分と姉以外、全員が敵だと睨み付けていた。
次第にそれも緩和され、友人が出来た。
「一夏」
「霧絵、あの子は?」
「少し電話で話をしておる。迎えは少し遅れるそうだのう」
「そっか」
一夏が頷くと、ふわりと頭を撫でる動きを感じた。
頭上に目を向けると、霧絵が一夏の頭を撫でていた。
「コココ、捨てられた童の様な顔をしよる」
「そんな顔、してた?」
「おうおう、自覚が無いのかえ」
袖で口元を隠し、喉奥で笑う。狐を思わせる細目を弓にし、霧絵は微笑んだ。
「お主らの過去は、兎の奴から聞いておる。しかし、それは過ぎた過去に過ぎぬ」
「でも、事実だ」
「のう、一夏。過去に引き摺られるでないぞ? 私との日々も過去にするのかえ?」
「霧絵との日々は今だ。過去にはならないよ」
「ならば、過去は思い出すだけに止めよ。お主は一人ではないのだえ」
頭を撫でられる心地好さに身を任せていると、廊下から足音が聞こえてくる。家との電話を終えた少年だろう。
「えっと、あの……」
「さ、何を食べたい?」
「え?」
「今日は家で食べていくといい」
嘗ての何時か、自分もそうしてもらえた。この感情は同情ではなく、憧憬に近いのかもしれない。
だが、自分はそうしてもらえたから、間違えながらもここまで来れたのだ。
なら、自分も嘗ての何時かの自分にそうしよう。
一夏は笑みを浮かべながら、そう思った。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
月明かりが淡く照す寝室、一つの影が起き上がった。
一夏は額の汗を拭い、少し乱れた呼吸を整える。
あれは過ぎた過去、終わって、もう二度と無い事だ。
だから大丈夫、自分の隣には最愛の人が居る。
「おやぁ? 夜泣きかえ?」
「きり、え……」
「コココ、おうおう、情けない面よの」
布団の中から細い腕が伸び、一夏を掻き抱いていく。その動きに抵抗をせず、ただ脱力し身を任せれば、落ち着く温もりと香りに包まれる。
「恐ろしい夢でも見たのかえ?」
「うん」
「なら、狐が夜泣きを止めてやろう」
温かな安らぎに、身も心も任せ、一夏は冴えた瞼をゆっくりと落としていく。
夜闇に微かに聞こえる声は、優しく子守唄を歌っていた。
「私の愛しい愛しい出来の悪い教え子よ。私が居れば、悪夢は見るまい? だから、眠れや眠れ。目が覚めたら、それはただの夢幻よ」
ふんわりと柔らかく温かい何かにくるまれて、一夏の意識は眠気の闇に落ちていった。
一夏、闇落ちフラグ?